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――雷の国、アルバハラにて……。
「それにしても、いつになったら逃がしてくれるんだい?」
アカリはハーディンの私室に置かれたソファーに座り込み、挙句に膝を組むという無礼極まる態度で彼に応じていた。
とはいえ、彼はそれを気にする質ではなかった。というより、雷の国の富豪は実力者に対しては多少の無礼を見逃す嫌いがあるのだ。
ことハーディンに関して言うと、その富豪の性質にプラスする形で、無茶な要求をしている相手という要素も付加されている。
そして、アカリもまたそうした事情を知っているからこそ、また遅々とした現状に対する苛立ちを表す意味でそうしているのだろう。
「……早めに逃がしたいのはやまやまですが、王宮はあなたの失踪に気付き、常に港で目を光らせています。今逃げようものなら、すぐに捕まるのがオチです」
「っても、ここで待ってたら逆に足が付くんじゃないかい? なにせ、この国であたしが関わりを持ってるのは、あんたのところくらいだしねぇ」
「それについては問題はないかと。さしものラグーン王も――いえ、かのラグーン王だからこそ、疑惑一つで富豪の邸宅を探り回るような真似はしませんよ」
「そういうもんかねぇ。ま、今はビリビリ姫もいないことだし、トンデモなことはしそうにないねぇ、あのヘーボン王様じゃ」
アカリの目から見ても、ラグーン王は平凡な王だった。
これは悪い言い方のように聞こえるが、王が王として平凡であることは別段悪いことではない。そもそも、比較対象に戦闘狂の王、仁義に欠く王、女児愛好家の傾いた王がいる以上、むしろいいことなのかもしれない。
ただ、今に限って言えばラグーン王は攻めた手を打てない男、という意味合いの方が強いのだろう。
平時であれば平凡で上等ではあるが、こうした有事においては多少――例に出た中の二名は多少どころではないが――奇抜な性質の方が強い、というのは否めないだろう。
「……組織の知らせによると、近々雷の国で大規模な争いが発生する……とのことで」
「おいおい、まさかあたしにその対処を任せるつもりかい? カンベンしてくれよ。あたしゃそういう面道事が起きるって分かってたから、あんたに頼って、逃げようとしたんじゃないかい」
組織の知らせ、という曰く付きな情報にもかかわらず、仕事人はその点に触れることはなかった。
ハーディンは少なからずそれで安心したらしく、続く言葉を紡ぎ始めた。
「あなたがそこで暴れ、成果を出せばラグーン王も失踪の件は見逃すことでしょう――ですが、それでは私の都合も悪いのですよ」
「へぇ、あんたの都合が悪いって言うなんてねぇ……あたし好みの素直な言い方さぁ」
この場で言えば、アカリもまた歴としたラグーン人である。
合理の介在する世界の住民である以上、利害という他国では浅ましい、汚らわしいと誹られる部分が何よりも強く生きてくる。
倫理においては悪徳ともされる実利だが、合理においてはこれ以上に信頼における要素はない。皮肉なことに、こちらの世界では与えるだけや与えられるだけの者はそうそうおらず、互いに何かを得るという――ある種、凄まじい平等性の関係が根付いているのだ。
「逃げるタイミングで最も適切なのは――争いが本格化し、内側に目を向けている余裕がなくなった時。具体的には、敵の上陸が完了し次第、といったところでしょうか」
「……っていうとアレかい? 敵陣突っ切って、船を走らせ逃避行、って?」
「まさか。いくら大軍勢といっても、波状攻撃には限界があります。ほぼ全兵員を揚陸させた後ならば、安全に両陣営の目を掻い潜ることも可能でしょう」
アカリは掌に拳をポンっと置くと、「なるほど、そりゃいい」と好意的な反応を示した。
「では、その流れでいきましょう」
「……ちょい待ち。今の話を聞く限りじゃあ、あたしらは定期船以外の移動手段を使うってことでいいのかい?」
「はい」
「……生憎だけど、万能の仕事人サンっていっても、船の操作はカラッキシだよ?」
「小型船舶の利用、というのは正解です。ですが安心してください。操縦士はこちらで用意していますよ――信頼における者をね」
「……ま、それなら構わないけど」
アカリは組んだ足を大きなモーションで振り解き、大きな態度のまま部屋を後にした。