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「坊主、逃げるぞ」
「で、でもおかあさんが」
「……」
ウルスは幼児といった方がいい少年を抱きかかえると、そのまま家の外に向かって走り出した。
「はなして! おかあさんが!」
「うるせえ! 逃げるのが母親の願いだ」
子供が抵抗し、それを押さえようとした瞬間、直上から燃え尽きた建材が落下してきた。
「(くそっ、打ち落とす暇がねぇ)」
彼の両手が自由であれば、すぐさま炎の刃によって迎撃することができただろう。
だが、今は子供が必至に抵抗し、片手どころか両手が塞がっている。こうなると、精度の高い攻撃は不可能――つまり。
「くそがッ!」
彼は子供を抱きかかえ、高熱の建材を背中で受けた。無論、炎による強化で威力を緩和させたが、それでも痛みは襲いかかる。
「(くそ……くそ! こんなところで死んでたまるか――殺してたまるか!)」
子供は心配そうな顔で彼を見つめるが、当の本人は「痛えからしばらく黙ってろ!」と強くいい、屈んだような姿勢を無理矢理起こして走り出した。
燃えさかる家を抜け出すと、彼は子供を地面に投げた。
「ったく、お前が無駄に抵抗するから火傷したじゃねえか」
「……おじさん」
「母親のことは諦めろ。あの女はお前を守ろうとして、命を尽くしたんだ。お前が無駄に死ねば、あいつの努力は無駄だ」
何を言っているのかを理解できていない様子だったが、子供は彼の意志を感じ取ったらしく、頷いた。
「(ったく、面倒なもんを拾っちまったな)」
ウルスは打ち付けられた背を擦ると、投げた子供を拾い上げ、再び歩き始めた。
「(直撃なんて久しいことだな。俺も年か)」
天下無双、一騎当千の《選ばれし三柱》とはいえ、傷に対して完全無欠であるわけではない。
適切な防御を行う間もなく受けた攻撃は、通常の人間と変わらないダメージを背負うことになる。
ただ、幸いだったのが戦いが終わった後、ということだ。彼が万全の状況で戦えないのであれば、あの組織との戦いも生き抜けなかっただろう。
「お前、何って言うんだ」
「……わからない」
「分からない? そんなことがあるのか?」
「よばれたことがないから」
「……なるほどな。この町に住むような女だ、子を世話する暇なんてなかっただろうな」
それに、と付け足すように、彼は頭の中で呟いた。
「(盗賊を恐れていた様子……おそらく、盗賊の関係者だ。だから、救援をしていたのに逃げ遅れたってことか)」
面倒なものを拾った、というのはその部分だった。
親を失った以上、この子供は砂漠の摂理に従い、自分の力で生きていかなければならない。
それはかつてのウルスと同じく、またスケープと同じく。
「お前に便宜上の名前をくれてやる」
「べんぎ……?」
「ラクーンだ。そう名乗れ」
「らくーん?」
「最後の頼みは聞いてやることにした。お前は俺が引き取ろう」
盗賊に取られないようにする、というのは守ってくれという頼みの他ならなかった。
さらに言えば、この砂漠から連れ出してくれ、というところにも繋がってくる。あの咄嗟に、母親は相当に頭を働かせたのだろう。
「(生まれた国が違うなら、こんなことはしなかっただろうな)」
ウルスは無意識に、過去の自分と重ねていた。
砂漠を彷徨い、明日の水にさえありつけるかどうかも分からなかった時の自分を。
蜃気楼の如くに現れた、ある男。その男が差し出した一杯の水が、彼の命を繋いだのだ。
だからこそ、こうして明日も知れない立場になった少年を助けることで、彼は過去の自分を救おうとしたのだ。
救い主を助けることも、恩を返すこともできなかった過去を帳消しにするように。