第1話 いい日旅立ち
魔界。そこは悪魔と呼ばれる種族が暮らしている世界。彼らは背中に漆黒の翼を持っており、必要な時はそれを背中の小さな穴から表へ出し、自由に大空を飛び回る。また、彼らはその体内に魔力というエネルギーを宿しており、それを消耗する事によって魔術という不思議な力を使う事が出来る。たとえば、口から火を吹いたり、傷をたちまち治したり、といった具合にだ。科学では決して解明する事の出来ない彼ら特有の術、それが魔術だ。
そんな悪魔を、彼らが暮らす魔界を統べる男がいる。それは魔王だ。魔界には様々な国がある。それぞれの国に王がいる。魔王はその複数いる王達をさらに束ねる王の中の王。世界の王である。魔王は魔界の中心都市アインシュタットに居を構え、世界の政治、経済を取り仕切っている。
その魔王が住むアインシュタット大魔城にて、ひとりの少女の物語が始まろうとしていた。
魔王と面会をするための部屋謁見の間。そこには三人の男女がいた。
「ついにこの時が来ましたな」
三人の内のひとり、白髪頭の男が口を開いた。眼鏡の奥の細い目が少しだけ鋭くなった。
「……この期に及びながらでございますが、本当に大丈夫なのでございましょうか、お嬢様おひとりで」
他のふたりの顔を交互に見ながら、紅一点の少女、フェイスが男の後に続いて言った。
「私はやはり、心配でなりません。前人未到と言ってもいい異世界に、お嬢様がたったおひとりで行かれるなど」
「しかし、これは議会で決まった意見であり、もちろん魔王様もお認めになっている。そうでございますよね? 魔王様」
白髪の男、サバスは椅子に腰掛けているもうひとりの男に尋ねる。この男こそが魔王その人だ。
「うん、その通りだね、サバス」
柔和な顔をした中年の男は静かに答えた。
「それに、何よりもシエル様御自身が強い御意志を持ってこの使命をお引き受けになったのだ。ならば我々下人の一意見など何の意味があろうか」
「……そうでございますね。申し訳ございません。口が過ぎました」
フェイスはそう言って深々と頭を下げた。
「いや、いいんだよいいんだよフェイス。それだけシロの事を心配してくれてるって事なんだから」
魔王は遠慮がちに顔の前で手を振った。
「私の方こそ君に礼を言いたい。娘の事をそこまで大切に思ってくれていてありがとう」
「そんな……滅相もございません! 私はあの日拾われてから、一生涯をかけてこの王家に忠誠を誓うと心に決めたのでございますから!」
その時、微かな足音が聞こえてきた。彼女ははっとしてすぐに口を噤んだ。
軽い足音はしだいに大きくなっていた。徐々に徐々に三人の元へと近づいていた。
やがて、彼らの前には小柄な少女が現れた。
「お嬢様!」
フェイスは思わず声を上げた。
「ああ、お嬢様。今日も何とかわいらしい……!」
お嬢様と呼ばれる少女の名はシエル。魔王の娘、つまり魔界の王女である。年は13才。身長は144cm。他の同い年の少女と比べると背は低い方である。背中まで垂れる長い髪をポニーテールでまとめており、結び目にはお気に入りのリボン。これがいつもの彼女のスタイルだ。
「ああ、愛くるしい。何と愛くるしい」
そう連呼するとフェイスは懐から写真機を取り出しすかさずパシャリ。
「こら、やめんかフェイス! 魔王様の御前で!」
サバスは急いで彼女の行為を制止した。
「はっ! も、申し訳ございません!」
フェイスは素早く写真機を懐に戻す。
「フェイス!」
今度は魔王が彼女の名を呼んだ。
「はっ、はいっ! 大変失礼致しました! 処罰は何なりとお受け致します!」
「後で私にも今の写真、見せてくれよ」
「はっ……もちろんでございます!」
「……」
ふたりのやりとりを見て、サバスは呆れた顔をして黙り込んだ。魔王はシエルを溺愛していた。
「サバス」
そんな彼に幼い王女は声をかける。
「ケガはもう大丈夫なの? 馬車に乗っていた時に事故に遭ったと聞いたけど」
「はっ、はい! もうすっかりよくなりました! 御心配ありがとうございます」
「そう、それはよかった」
彼女は嬉しそうに微笑んだ。
その時、再びパシャリ。
「~~~~~~~~っ! お嬢様! 今の笑顔、大変かわいらしゅうございました!」
「フェイス!」
と再び魔王。
「はいっ! 申し訳ございません!」
「後で私にも!」
「……」
これはいけない、とサバスは思った。私がしっかり仕切らなければ。
「もう準備は出来たのでございますね? お嬢様」
「うん。大丈夫だよ」
「……との事でございます、魔王様」
「あ、ああ。そうか。忘れ物は無いかい? ちゃんとお弁当持った?」
「それならば心配ございません。私が今朝早起き致しましてお嬢様のために愛臣弁当をお作り致しましたので。しっかりとお荷物の中に入れさせて頂きました」
シエルの代わりにフェイスが答えた。
「もう、大丈夫だよ。もう13才なんだよ?」
「ああ、そうだった。そうだねシロ。13才ともなればもう立派な悪魔だ。お前の母さんもその年にはもう大層しっかりとした女性になっていたよ」
ちなみに魔王と魔王妃は互いに成人してから見合いで出会った。
「ありがとう」
シエルの母、魔王妃は彼女の憧れだった。八年前に病気で亡くなってしまったため思い出はそうたくさんはないが、しっかりと覚えている。
「シロはきっといいお嫁さんになるぞ」
「……ありがとう」
「いいお嫁さんに……お嫁さんに……お嫁さんにはさせん! させんぞ! うおおおおおおおおおっ!」
魔王は突如号泣した。愛する娘が誰かの元へ嫁ぐ姿を想像したのだろう。
「魔王様! ご安心を! お嬢様に手を出す不埒な輩は私が殺して差し上げます!」
「いや! 魔王であるこの私が直々に焼き殺してくれよう!」
「いい加減やめませぬか!」
サバスは我慢できずについに怒鳴った。
「シエル様の門出なのでございますぞ!」
「は、はい……」
ふたりはしゅんとした。
「ふふっ、ふふふふっ」
シエルはつい笑い出す。
「相変わらずね。その調子で、私が留守の間もふたりを頼むわね? サバス」
「はっ、はい! もちろんでございます!」
シエルの門出。これを説明するためにはまず、魔界の歴史や異世界の事を少し語る必要がある。
悪魔が認識している世界は魔界の他にふたつある。魔界と隣接した次元に存在する世界、境界。そしてその境界とさらに隣接した次元にある天界。今回シエルが旅立つのは境界である。
遡る事1100年前。突如魔界に自らを天使と呼ぶ者達が宣戦布告をしてきた。彼らはどうやら遠い別次元からやってきたらしいのだ。そして、悪魔と天使の戦争が始まった。戦争は長い間続き、100年後にようやく終結した。以後悪魔と天使は互いに干渉をしない事を取り決め、現在に至る。そんな天使が暮らすのは天界である。
これからシエルが向かう境界は、天界と魔界に挟まれた次元に位置するために天使と悪魔の戦いの主な舞台となった世界だ。境界という名前もそこからきている。天界と魔界の境にある世界、という意味である。
それでは、何のために向かうのか。
一言で表すなら、侵略である。
その議論は数十年前から起こっていた。取り決めを交わした天界とは違い、境界には天使も悪魔も干渉自由だ。ただ暗黙の了解として魔界はこれまで境界に公式には一切手を出して来なかった(おそらく天界も同じだろう)。だが、密かに境界を侵略し、操る事が出来れば、今度こそ天使を……というのが過激派の意見である。
急速にそこまで目指すわけではないが、この度そういった方向に魔界が一歩動いた。国際会議でそのような結論に至ったのである。
まずは少数を送り込んで、ゆっくりと侵略への礎石を築いていく。
抽象的ではあるがこれが結論だ。
そこで名前が真っ先に挙がったのが魔王女シエル・オ・エリシアだった。魔王の血統ゆえに強い魔力を持っており、かつ幼い少女ならば色々と工作をしやすいだろうというのが賛成派の意見である。
もちろんこれに対して魔王族擁護派は猛反対した。だが、他でもないシエル自身がこれを快諾したのである。それは魔界の、悪魔の未来を考えた、また世界の声に応えるのが魔界の王女としての義務であると思ったがゆえの決断であった。これを聞いて御本人がおっしゃるのならと擁護派は渋々首を縦に振った。当初は十人程度を供に付ける予定だったが、他の悪魔を危険に晒したくないというシエルの意志を尊重し、彼女が単独で赴く事になった。
そういうわけで、これから彼女は境界に侵略のために向かうのである。
「それじゃあ、行くよ」
シエルがくるりと後ろを向こうとした時。
「待ちなさい!」
父が立ち上がり、彼女の元へと歩いてきた。
「これを」
そう言って彼が手渡してきたのは、七枚の札であった。
「これは……」
シエルはその札に見覚えがあった。
「召喚札……それも……七聖獣の……」
召喚札とは魔力を持った獣、魔獣を呼び出す術式が書かれた札である。七聖獣は魔王家に仕える七匹の魔獣の事で、その強大な魔力から聖なる獣として崇められている。魔界の創生神話にも関わっている。
「何かあったらそれを使いなさい」
「うん……わかった」
彼女はそれを大切に腰に提げているポーチにしまった。
「シロ」
「!」
続けて父は娘をぎゅっと抱きしめた。
「……お父様」
「気を付けて」
「……うん」
「守護の印がきっとお前を守ってくれるよ」
「……うん」
守護の印とは代々魔王家の者の肌に現れる紋章の事である。遺伝子レベルでかけられた魔術と言われており、初代魔王が己の血筋の印としてかけたという伝承がある。
「……」
親子はしばらく無言で抱きしめ合っていた。13年触れてきた父の温もりを、シエルは忘れないように自分の体に染み込ませようとした。いつでも感じられるように。
「……」
フェイスは三度写真機を構え、微笑ましくふたりの姿を収めた。
「……フェイス」
横から小声でサバスが呼びかけてきた。
「後で私にも」
「……はい」
「……もう、行くね」
暖かい父の腕をシエルは優しく解いた。
「……外にはもう、お前を見送るためにたくさんの人達がいるよ」
「うん、さっき荷物を置きに行く時にちょっとだけのぞいたから知ってる」
「では、行きましょう」
サバスの先導で四人は外へと出た。大階段の下に広がる庭は、数え切れないほどの群衆で溢れていた。皆王女の旅立ちを祝おうと集まったのだ。
「皆に一言あいさつをしてから行きなさい」
父に促されシエルは一歩前に出た。
「お嬢様、これを」
フェイスが渡してきたのはメガホンだった。ただのメガホンではない。内側に魔術式が書かれており、声が拡大されて聞こえるのである。
「「……皆さん!」」
王女の呼びかけに、ざわめいていた人々はしんと静まりかえった。
「「……」」
何を言おう。少女は考え込んだ。というのも、実は昨日予餞パーティーが開かれており、その場でスピーチを行ったのだ。言いたい事は昨日全部言っちゃったから、もう特に言う事ないんだけどな……同じ事言ってもつまらないし。そもそも私昨日話した事全然覚えてないし。演説慣れしていない少女のスピーチの原稿は七割がゴースト・ライターによって書かれたものだった。
「「……行ってきます!」」
少女は無邪気な笑顔でそう一言だけ叫んだ。その声はしばらく響き渡っていた。
「行ってらっしゃいませ~~~~~~~~!」
シエルの言葉に、群衆は大声で返した。
「それじゃ行くね」
彼女は見張りの者からリュックサックを渡してもらう。
「んしょっ……と」
両手で持ち上げ、前にからう。
「ああ、ぱんぱんのリュックサックをからったお嬢様……かわいらしい」
パシャリ。
「気を付けて、シロ」
「お気を付けて」
「行ってらっしゃいませ」
「うん、行ってきます!」
小さな足で大きな一歩を踏み出す。
「おっとと」
……が、しっかりとはいかなかった。リュックの重みでふらりとよろける。パシャリ。
次に少女はバサリと大きな翼を広げた。元々魔力が強い魔王族の者は他の者よりも大きな翼を持って生まれるが、シエルは背が低く小柄な分、特に大きく見える。飛ぶためにバサリバサリと翼で風を撫でる。バサリ。バサリ。パシャリ。バサリ。
そして、一、二の、三! で彼女は地を蹴った。おおーと群衆が再びざわめく。そのままぐんぐん上昇し、ただでさえ小さな体がさらに小さくなっていく。
やがて、遠くの方へ見えなくなってしまった。
「……行ってしまわれましたね」
フェイスが淋しそうに呟いた。
「……う……うえええええええええええええええええええええええん!」
魔王の泣き声は群衆に掻き消された。
またしても長くなってしまいました。新しいお話よろしくお願い致します。





