第105 CⅤ話 流れゆく日々
アインシュタット大魔城、大鏡の間には臨時的に会議用の長机と椅子が設置されていた。魔王が最後に入室し、参加者が全員揃った時点で大鏡の術式を発動させる。そうして天界にあるシロの手鏡へと繋がった。そこに映るのは……。
〈……先日はご挨拶も申し上げずに失礼致しました。改めて、神、ベル・ヴォルトシュタインです〉
「……魔王、アレクサンド・ル・エリシアです。こうしてお話の場を設けて頂いた事を嬉しく思います」
〈それはこちらこそです〉
魔王の目配せの後、他の参加者達も自己紹介を始める。集められたのは貴族や議会長等、上流の身分の者達だった。挨拶が終わると議会長の男が進行を始めた。
「それでは、シエル・オ・エリシア王女とクロノ・ヴォルトシュタイン皇子の引き渡しについてと、和平に向けた会談を始めさせて頂きます」
「はあ~~~~~~~~」
浴槽の縁に寄りかかるとクロは天井を仰ぎ見た。もくもくとした湯気が上がっていき、天井を濡らしている。広い浴槽に浸かるのは久し振りの事で、思わず声を漏らしてしまうほどに心地がよかった。特にここ最近は精神的な疲労もあり、体だけではなく心もじんわりほぐれていく感じがした。
「ずいぶんとくつろいでいる様だね」
「まあ、気持ちいいし……ってうわああっ!」
急に目の前に人が現れたのを見て彼は慌てて身をすくめる。ばしゃんと湯が跳ねた先には魔王が立っていた。
「すまないね、驚かせてしまった様だ」
「な、何でここにいるんすか!」
「失礼な、私だってお風呂ぐらい入るぞ」
「い、いや、そりゃそうだろうけど……」
「そう身構えなくても、私以外は外で待機しているよ。お風呂ぐらいゆっくり浸かりたいだろう?」
「なら何で俺がいる時に入ってくるんすか。俺だってゆっくり浸かりたいんすけど」
「ははは、君、私の扱いが雑だね。これでも私魔王なんだけど」
「じゃ、じゃあ俺はそろそろ……」
落ち着かなくなったクロは出ていこうと立ち上がるが、魔王はそれを制止する。
「まあ待ちたまえ、もう少しゆっくりしていったらどうだい」
「いや、もう十分ゆっくりしたんで……」
「釣れないなあ、すぐに洗い終えるから待っていておくれ。男同士の裸の付き合いという物だ」
「うげ……」
露骨に気まずさを顔に出しながら、クロはまた湯に浸かった。
その後宣言通り魔王は手早く体を洗い終えるとクロに声をかけ、露天風呂へと誘った。クロが適当な所に腰を下ろすと、魔王もその隣にどすんと腰掛ける。ざばあっと起こった小さな波がクロの顔を襲った。
「ふーっ……たまにはこうして誰かと入るのもいいものだね」
「……つか、今更なんだけどいいんすか? 俺こうやってふっつーに風呂入ってても」
「おや、お気に召さなかったかな」
「いや、そういう訳じゃ……俺、捕虜のはずなんだけど」
「公的にはそういう扱いだが、これから和平を結ぼうとしている相手のロイヤルティーをそう無礼に扱う訳にもいかないだろう。君は捕虜であると同時に大事な貴賓でもある。それに……娘の大切な友人でもあるしね。そうなんだろう?」
「……はい」
「……本当にそうなんだろう?」
「……? ああ、はい」
「本当にただの友人なんだろう……!?」
「だからそうだっつってんだろうが! しつけーなもう!」
「ごほん。すまない、ならばいいのだよ」
魔王はお湯を掬って顔に浴びせた。
「シロには悪い事をしてしまったよ。君にも……か。話をまとめるために強引に君を悪役に仕立て上げてしまった。君にはこの場で謝罪をしたい。すまなかった」
「いや、別に……事情が複雑なのはわかるし。俺の方こそ、すいませんでした。いきなり乗り込んできて、生意気な事して……あと、1100年前の事も、それからずっと昔の事も、すいませんでした」
「どうして君が謝るんだい」
「何となく……やったのは俺の先祖だし……」
「しかし、君のお陰で天使との関係が修復される事になるかもしれないのも事実だ。君とお姉さんの会話を聞いていて、私も何も思わなかった訳ではない。だから君の事を信じてみようと思ったんだよ。娘が信じている君の事をね。シロが境界から連れ戻された直後のあの時……君を信じていたあの娘に対して、私はあの娘が本当に望む事をしてあげられなかった。だから今度こそ、せめて私も一緒に信じてみようと思った」
結果的にベルはクロの要求を呑んだ。それから今日までに魔界と天界の首脳同士の対談が既に何度か行われている。先日は天界から技術員が派遣され、魔術と科学を組み合わせた超遠隔通信装置を設置したそうだ。これで会談の進行がスムーズになったらしい。そもそもあの大鏡の通信は多人数同士の話し合いには向いていなかったのである。技術員は現在も魔界に滞在しており、そういった面で和平に向けて準備を行っている。
天界と魔界両政府のそうした歩み寄りは今はまだ水面下で進められてるが、いずれ世間にも公表される事になるだろう。
「ところで、君に改めて確認しておきたいのだが」
「何すか」
「本当にシロには手を出していないのかい」
「ぶっ!」
クロはまた身をすくめた。バシャリと湯が跳ねる。
「あんなに可愛い娘とひとつ屋根の下で暮らしていて、それ以上の事にはなっていないのかいともう一度聞いているんだよ」
「だからさっきも言っただろ! 何もしてねーって!」
「本当に?」
「本当に!」
「ふざけるなー! 娘に女の子としての魅力が無いと言いたいのか! けしからん奴だ!」
「このおっさんめんどくさっ!」
「シロはなあ! シロはなあ! とっても良い子なんだぞ! とっても優しくて、可憐で、健気で……!」
「いちいち言われなくてもわかってるっつーの!」
「なっ、何……!?」
「! と、とにかく俺はもう上がるぞ! 大体何分浸からされたと思ってんだよ!」
のぼせそうになったクロは勢いよく立ち上がり、時折足を滑らせそうになりながら浴場の入口へと早足で歩いていった。
「……まったく、けしからんな……」
残された魔王のそんな独り言は湯気と共に夜空へと溶けていった。
天界のシロも政府が和平に向けて動き始めてからは監房から解放され、神宮のゲスト・ルームにて日々を過ごしていた。VIP用の宿泊施設が別にあるのだが、ベルの意向でこの場所に滞在する事になった。
バルコニーに出て夜風に当たっているが、少し遠くの方には復旧工事中である神殿の数多もの建造物が見える。先日のテロの際に起こった爆破によって大半が崩れてしまい、政治機能の半分以上は近郊の数ヶ所の機関に臨時で分散させているそうだ。政府は二年を目処に完全復旧を目指しているらしい。この神宮の敷地内も被害に遭ったそうだが、幸いな事に建物に大きな損害は無かったとの事だった。
「こんな所にいたのか」
風に乗ってほのかに甘い香りが漂ってくる。ルーム・ウェア姿のベルが屋内から出てきた所だった。銀色の長い髪がふわりとなびき、また甘い香り。湯上がりなのは間違いなかった。
「すみません、自由に動きすぎでしょうか」
「いや、この建物の中なら自由にしていいと言ったのは私だ。だから問題は無い。少しでもくつろげていればいいんだが」
「……まだ慣れませんね」
「ははは、それはそうか」
涼しく笑うと彼女はシロの隣に立って柵の上に肘を突いた。その横顔は少しクロに似ていた。本当に姉弟なんだな、とシロは改めて思った。
和平を結ぶ決断を下した後、ベルはその事を使徒に報告しに行った。まず初めに訪れたのはフィリアンヌとライオネスの家元、バルトラノ家だった。使徒の中で最も大きな力を持つ一族。頭首が三年前に代わり彼女らの父になった事で態度が軟化し、使徒の中では一番信頼の置ける人物になっていた。
ベルの予想通り、頭首エルダンは彼女の決断に対して同調してくれた。そしてトランオンス、ヒュード、ペテロの三家にも根回しを行ってもらい、それぞれ賛同を得た。
問題は保守的なゾマスと彼と親しい関係を持つ三家だった。悪魔と和平を結ぶという話を聞いた途端ゾマスは憤慨し、彼の賛同を得る事は出来なかった。他三家も同様である。ライデンバッハから聞いた話によると今ゾマスはベルに代わり新たな神となる者をヴォルトシュタインの分家から探している様である。
だがこちらにも策はある。イージスに協力してもらい、「ヘヴンリィ」と彼との関係を時期を見て公表する。そうすれば彼は幅を利かせる事はおろか、使徒の座に居座り続ける事すら怪しくなるだろう。捜査によると他三家の関係者も事件に関わっている事が既に判明している。彼らについてもこの件で揺すりをかけて黙らせる。本来ならその三家についても法的な対応をしなければならないのだが、あまり使徒の反感を買いすぎてもまずいため、今回はそうした形で見逃す。スポンサーに変わりはないのだから、そのままでいてもらうに越した事はない。
残る四家の反応はまちまちだった。いずれもバルトラノ家やゾマス家に比べると大した力を持っている訳ではなく、今の所何か動きを見せてはいない。今後の流れ次第、といった所なのかもしれない。
とにかく、目先の和平実現に向けての障害は取り除いた。今はそれで十分だった。
「あの……ベルさん?」
「! ……ああ、すまない、考え事をしていた」
しばらく黙りこくっていたベルにシロが話しかけるとはっとした様に彼女は微笑みを返す。
「……しかし本当に、君は似ているな。あいつが気にかけるのもわかる」
「はい?」
シロは思わず聞き返した。以前同じ事をフィリアンヌにも言われた気がする。
「あの、フィリィちゃんも言ってましたけど、私って誰に似てるんですか?」
「? クロから聞いていないのか?」
「ええ、何も……」
「…………そうか、あいつ…………クレアだよ」
「…………クレア、さん……?」
クレア……クロとベルの妹。四年前に「アザー」によって引き起こされた研究所の爆発事故で亡くなった。
「私が、クレアさんに似てる…………?」
「ああそうだ、どことなくな。何だろうな、目元と雰囲気……かな」
「…………って事は私、クロにとっては妹みたいにしか思われてないってコト……!?」
「ぷっ」
それを聞いたベルがたまらず吹き出した。
「ははははは! あははははは! ……いや失礼。心配しなくてもあいつは君の事をそんな風には思っていないよ」
「え! そ、そうなんですか!?」
「ああ、わかるさ、姉弟だからな」
その感覚はひとりっ子のシロにはどうしてもわからない。
「だからそんなに心配しなくてもいい」
「しっ、心配ってな、何のことやら!」
「顔が赤いぞ」
「えっ!?」
言われて自分の頬に手を当てる。確かに火照っている。
「え、や、これは! 風に当たり過ぎて!」
「ははは、わかりやすいな君は。あいつと違って素直だ」
「…………そう言うベルさんも、クロと似てます」
「私があいつと? まさか。髪の色くらいだろう」
「横顔とかそっくりですよ……髪……髪……か……」
ふとシロは手で自分の髪をいじり始める。あの時自分で乱暴に切ったたため、不揃いで不格好のままだ。そういえばベルといいフィリアンヌといい、クロの親しい女性は髪が長い。
「……切らなきゃよかったかな……」
「…………エリー」
「はい!」
名前を呼ばれてどこからともなくエリーがしゅばっと駆け付けた。
「すみません! ずっと割って入っていいものかどうかわからず後ろの方から見てました!」
「シエルの髪を整えてやっておくれ。本当は私がやりたいんだが、呪いという物があるらしいから」
「合点承知です! という事は先輩、離れにお連れしてもいいんですか!」
「ああ、許可する。今夜はそのまま泊まってもらっても構わん」
「わーい! ささ、参りましょう王女様! 今夜は私が添い寝して差し上げます!」
「え、そ、そこまでしなくても……」
「ご心配なさらず! このエリザベスめの腕の中はすこぶる寝心地がいい事は坊ちゃまも十分ご存知ですので!」
い ま な ん て ?
「ああそうだシエル。明日からしばらく夜に時間を貰えるか? 魔界の言葉を教えて欲しいんだ。会談自体はあちらがこちらの言語に合わせてくれているのだが、その、何というか、これも歩み寄る姿勢のひとつという訳で」
「そ、それはもちろん! ……でも、魔術でぱぱっと送れますけど」
「いや、少しずつでもいいから……自分の力で覚えたいんだ」
「…………わかりました。あの、私からもお願いが……よろしければ、シロと呼んで下さい」
「ああ、わかった。ではよろしく頼むよ、シロ」
「さあさあ、早くお部屋へ向かいましょうシロ様!」
シロはそのままばたばたと離れへと連れて行かれた。天界に来て以来、一番楽しい夜だった。
エリー、久し振りに書いて明るくて楽しい娘だな、と改めて……この娘の存在は姉弟にとってかなり支えになってるので、今更だけど凄いなこの娘……。
 





