第99 XCⅨ話 決断
およそ一ヶ月後の天界奇襲作戦に向けて魔界は着々と準備を進めていた。大魔城が中心となり各国と連携し、兵力の徴収や作戦内容の共有などである。魔王の補佐を務めるフェイスはいつも以上に慌ただしくなった城の中を駆け回っていた。
「すまない、お嬢様のお姿を見ていないか」
多忙な中でも彼女の事は毎日気にかける様にしていた。しかし今日は朝食の時刻になっても姿を見せず、部屋を訪れてもそこに彼女はいなかったのである。だから仕事の合間やついでにこうして捜しているのだった。
「いえ、申し訳ございませんが……あの、こちらもお尋ねしたいのですが、サバスさんがどこにいらっしゃるかわかりませんか」
「私も見ていないな……すまないが、そちらはそちらで捜してくれ。もし私がサバス殿を見かけたら一言伝えておこう。ええと、名前は……」
兵士の名前を確認した後フェイスは彼と別れた。シロを捜すのを続けたいが、そろそろ次の仕事が迫っている。第三演習場にて行われている軍事演習の様子を確認した後、南六会議室のセッティングを行わなければならない。しようがなく踵を返そうと思った所で軽快な声が彼女を呼び止めた。
「フェ~イス!」
「! イヴ様!」
「おひさ~」
ひらひらと手を振りながらイヴは廊下をひとりで歩いてくる。彼女は二十日以上前に護衛の兵達を引き連れて呪いを解く答えを探すために「星降りの地」に向かった。
「か……帰って来られたのでございますか!」
「ん。今帰ってきたとこ。いや~城に着いた途端にみんなさっさと散っていっちゃってさ。まったく、長旅で年寄りを労おうって気持ちは無いのかねえ。慣れない土地で寝るってのもなかなか肩が凝るもんさよ」
左肩をさする彼女を見てフェイスは苦笑いしながら彼女の世話をする兵達の姿を想像していた。おそらく彼らは相当辟易したのだろう……。
「さぞお疲れでございましょう……申し訳ございませんが、私はこれから演習の方に参らなければなりませんので……」
「何さフェイスまでー……あーもー、年寄りにはもっと優しくするもんだよ……あ、そだ、シロどこ?」
「! ……ええと、私も捜しているのでございますが……」
「いないの?」
「え、ええ……本日はお姿をお見せにならずに……」
「……なーんか、ヤな予感がするって感じだね」
「! ……ええ、実は……」
彼女はここ最近のシロの様子がどこかおかしい事をイヴに話した。天使との戦いが決まってからずっと部屋に引きこもっていた彼女が突然髪をばっさりと自分で切って出てきた事、それからは戦いについて言及する事が一切無くなった事、それに表情に陰りが窺える事……。
「……天使との戦いの事はあたしも帰り道で聞いたよ。あたしが寝てる間に連絡を寄越したみたいだね……それについては追々アレックスに詳しく聞かなきゃいけないと思ってた……けど、その話聞くとその前にシロだね……」
「思い過ごしだとよいのですが」
「思い過ごしな訳無いよねえ……他ならぬあんたがそう思ってるんだったらさ」
「……」
「ま、あたしも一休みしたらちょっくら捜してみるよ。ほんとはゆっくり横にでもなりたいんだけどね……そんな状態のあの娘をほっとけもしないし」
「ありがとうございます。あのイヴ様、帰って来られたという事は……」
「ああ…………見付けたよ」
イヴは少し切なそうに笑みを浮かべる。
「だから……しっかりとあの娘に……あの娘達に、繋いであげないとね」
「ごちそーさん」
クロは遅めの朝食を終えて食器を片付け始める。それを見兼ねてイージスの隊員の男が手を伸ばしてきた。
「クロノ様、その様な事は私達に……」
「あーいいっていいってこんくらい」
「いえ、どうぞクロノ様はゆっくりとおくつろぎ下さい」
「……へいへい」
持ち上げていた食器をテーブルに置くと彼は自室に戻る。あの騒動から約三週間経つが、未だにこの状況には慣れない。ロイヤルハイム浅川101号室には現在護衛兼世話役が常に三人、イージスよりローテーションで配置されている。廊下にひとりとリビングにふたり。くつろげと言われても監視されているリビングではそうそう気を緩められる訳もなく、最近クロは食事の時以外はずっと自室にこもっていた。さすがに私室ではひとりきりになれる。
「あー……」
何をする気力も無くベッドにごろんと転がる。そういや宿題全然やってねーな……ま、薫に見せてもらえばいいか……もうすぐ夏休みが終わる。
シロは今頃どうしているだろうか。あの日の別れ際に見た魂の抜けた様な表情が目に焼き付いて離れない。あの時、あの一瞬、あとほんの少しだけ手を伸ばしていたら……躊躇う事が無かったら、状況は変わっていたのだろうか。
ギルバートにでも頼めば魔界に行く事が出来るだろう。そうすればシロに会う事が出来るかもしれない。だがいくら何でもそれは無茶だ。結局クロからしてみれば、彼女が帰ってくる事をこの場所で待つ以外に為す術が無いのである。
しかし、望む様に彼女が戻ってきたとしてもそれからどうするべきか、その考えも依然としてまとまっていなかった。今の状況じゃイージスの連中に捕まって天界に連れて行かれる可能性が高い。というか絶対そうなる。そんな結末を考えると彼女はいっそこのまま戻ってこない方がいい、という思いもにあった。あーくそ、考えが全然まとまらねえ。
でもやっぱり、あいつの顔が見られないのは寂しいな。
「……うあーもう!」
頭をわしゃわしゃと掻きながら携帯ゲーム機を手に取る。電源を入れると飽きるほどやっているアクション・ゲームを起動した。
「……」
室内にはゲームのサウンドだけが鳴る。クロは無心に指先を動かし続けた。
「…………あ」
すると普段なら絶対に負ける事の無いモンスターにやられてしまう。溜め息すら出ない。
「……」
電源を切ってゲーム機を放った。三十分くらいは時間を潰せただろうか。
「……」
ちょっとだけ、行ってみようか。
起き上がって廊下に出る。突き当たりに監視の男がいるが無視する。彼が見ているのは彼の部屋の反対側にあるもうひとつの居室……シロの部屋だ。
彼女がまだいた頃ならドアを開ける前に絶対にノックをしていた。だけど今はもう彼女はいない。そっとノブを握って動かすとそれは滑らかに開いた。
部屋の中はあの日彼女が連れて行かれてからほぼ変わらないままだった。本当は全くそのままにしておきたかったのだが、イージスによってあれこれと調べられてしまった。必死に止めたが神命だと強行され、押収された物も色々とある。せめて持っていかない物や漁った場所は元のままに戻せと強い口調で釘を刺した。
「……」
入口に立ったままクロは室内を見回す。シロが出ていってからこの部屋に入ったのはこれで三回目になるが、毎回何かをする訳でもない。むしろそのままにしておきたい。とても触れる事が出来なかった。この部屋だけは変えたくないんだ。だから入っても何も出来ない。ただ眺めるだけだ。
その時、部屋の外からドアホンの音が聞こえた。見張りの交代の時間だろうか。少しして足音が近付いてきて、扉がノックされた。クロは顔を見せる。
「……何だ?」
「クロノ様を訪ねて来られた方がいらっしゃるのですが……」
「誰だ? 薫……友達か?」
「いえ、それが…………」
イージスの男は言い淀む。
「その……クロノ様行き付けの雑貨屋の店主という小太りの中年の男なのですが……あの……本当にお知り合いでしょうか?」
「……小太りの中年の男……雑貨屋……………………ギルバート!?」
来訪したのは思いもよらぬ人物だった。
「いやーどうもどうも。景気はどないですか?」
炎天下を歩いてきたのだ、玄関に立っているギルバートは汗だくだった。
「どうって…………良くはねーよ……」
クロは視線を泳がせる。後ろでは護衛の男が鋭い目でこちらを見張っている。不審だと疑っているのを隠す気は無いらしい。この異様な状況に気付いてくれとクロはギルバートに念を送っていた。
「それで、突然何なんだ? あ、ああそうだ、立ち話も何だし、ちょっと場所を移すか。ちょっとウチには上げられなくてよ」
もしも「悪魔」だの「魔界」だのという単語でも発したらお前自身が危ないんだぞ、とクロはギルバートの心配を始める。だが彼はそれを断った。
「あー、すぐに済ませますから気い遣わんで結構です。ほいこれ」
ギルバートは汗まみれの手で肩にかけていたバッグから白い封筒を差し出す。
「……何だこれ?」
「いやーウチの店も何やかんやでオープンして1年経ちましたさかい、少し遅いんですけど今度セールでもやろ思いましてね。坊っちゃんにはよろしくしてもろてますさかい、こないして気持ちを贈らせてもらお思いまして」
「割り引き券か何かか?」
「開けたらわかります……ええですか? このしろ~~~~~~~い封筒は限られた人にしか渡してませんさかいくれぐれも、人の目には気い付けて下さいよ。くれぐれも」
「……? あ、ああ……」
「用件はそれだけです。ほなくれぐれもよろしゅうお願いします」
頻りに念を押してギルバートは封筒を渡すとすぐに帰っていった。多分今のやりとりだけでは彼が悪魔だという事はわからなかっただろう。多分。
「あの、クロノ様、本当にあの男とお知り合いなのですか?」
「……ああ、でもまあ、不審がるのはわかるよ……」
クロは今のギルバートの言葉に違和感を覚えていた。そんなに大層な物でもないだろうに、彼はやたらとこの封筒の中身を他の人の目に触れない様にと強調していた。
「じゃあ俺は部屋にいるから」
見張りにそう告げて自室へ戻った彼はすぐに封筒を開けた。中に入っていたのは……割り引き券などではない。
手紙だった。
「……? ギルバートの奴、渡す相手間違えてねーか……? 何で手紙なんて俺に……?」
疑問に思うが字面を見て気付く。見覚えのある字だ。丸っこい、けど読みやすい字……クロはこの筆跡をよく知っている。しょっちゅう見ていた。
それは紛れもない、シロによって書かれた物だった。
それから数時間後の真夜中、床についたフリをして布団に潜っていたクロは時刻を確認すると起き上がり、そっと部屋の扉を開けた。
「…………」
廊下には相変わらず監視の姿がある。だが彼は部屋から出てきたクロの事に気が付いていない様だった。
「……マジみたいだな」
ぼそっと呟くが、その声すらもやはり気付かれない。どうやら手紙に書かれてあった事は本当らしい。彼らは今、アスモによって作り出された幻の中にいる。
シロは今、魔界を抜け出して境界に戻ってきている。手紙には彼女自身によってそう書かれていた。アスモを使って幻を見せておくから家を抜け出して会いに来て欲しい、と。
それを読んだ時クロはとても嬉しかった。間違いないシロの字だ。彼女にもう一度会えると思うとこの時間が待ち遠しかった。今はとにかく会って話がしたい。これからの事についてもだが、もっと、もっとどうでもいい、他愛のない事を話したい。彼女の声が聞きたい。ポケットの中にあの日指に絡まった彼女のリボンを忍ばせて彼は家を出た。これだけはあれからずっと彼が隠し持っていたのだ。イージスに知られていない、唯一の彼女の私物。これを返してあげないといけない。
指示された場所は橋の上だった。桜市を南北に縦断する大きな川。そこに架かる一番大きな橋。こんな夜中だ、車はたまに通りかかるが人影は辺りに全く無かった。
歩道に佇むただひとりを除いては。
「…………シロ……?」
「…………」
この世界には見合わないローブを纏った小柄な人物。顔はフードで覆われてよく見えないが、その体格からしてクロはすぐにこの人物がシロである事がわかった。
「……来てくれたんだね、クロ」
シロはゆっくりとフードを脱ぐ。やっぱり彼女だ。ただ印象的だったあの髪はばっさりと短くなっておりずいぶんと印象が変わっている。それに顔も……少しやつれている様に見える。
「会いたかった……」
目をうるうるとさせながら彼女は一歩、一歩クロの方へと歩いてくる。その顔が近付く度にあの日以前の記憶がありありと浮かんでくる。あれからたった三週間。たった三週間しか経っていないのに、彼女の顔を見ただけで、声を聞いただけでこんなにも心が昂ぶるものなのか。
「……!」
言葉を発せられない内にもうシロは目の前にいた。幻なんかじゃない……んだよな? シロは今ここにいる。
「だめ」
はっとしてクロは伸ばしかけた腕を止めた。
「だめだよクロ」
「……あ、ああ、そっか……」
呪いがあるんだもんな……気安く触ろうとしちゃいけなかった。
「髪……切ったんだな」
「うん……ど、どう……かな、あんまり上手に切れなかったんだけど」
シロは頬を赤らめて髪をくるくると指先でいじり始める。自分で切ったのだろうか。確かに毛先は不揃いで雑把な切り方にも思える。でもそれはそれとして、ずっと長い髪だった彼女しか見ていなかったから違った印象に見えるのは確かだ。短くした髪も彼女に似合っていた。
「…………い、いいんじゃねーの……」
クロも恥ずかしげに答える。あまりこういう事を言う事に慣れていない。
「……可愛い?」
「…………あ、ああ、可愛いよ」
全部おんなじだ。仕草、表情。全部、変わっていない。
その言葉を聞いたシロはますます顔を赤くして嬉しそうに笑みを浮かべる。可愛い。やっぱりシロは可愛い。俺はこいつが好きなんだ。そして、笑顔のまま彼女は言った。
「だめだよ、もう……」
「何がだめなんだ?」
「……ちょっとだけ場所を移していいかな。ここじゃ目立つから」
「あ、ああ……」
シロの後に続いて橋のすぐそばにある河川敷への階段を降りていく。街灯の光が遠くなる。橋の下をくぐる時はなおさらだ。
「だめだよ、クロ」
くぐり終えてシロはまたそう呟いた。顔は前を向いたままだ。
「やっぱりだめ」
「……さっきから、何を言ってんだ? 何がだめなんだよ」
「あのね、ほんとはこんなにもたもたしないで、何も言わないですぐに手を出すつもりだったんだ」
「…………何に、だよ?」
「でも、クロの顔を見たら、声を聞いたら、そんな酷い事出来なくなっちゃった。だから、もうこれ以上はもう、だめ」
「………………さっきから……何の話をしてるんだ」
「だから、ちゃんと伝えるね」
シロはくるりとこちらに振り返った。顔には先ほどと変わらない笑みを浮かべたまま―――。
「今からちっちゃい爆発を起こすよ。気を付けて、死んでね」
「…………?」
彼女はクロに向かって掌をかざす。ぼそりと呪文を唱えた直後、空気が爆ぜた。翼を広げてクロはすんでの所で横に飛び上がった。
「…………!?」
「……あー……駄目だった、かあ。やっぱりクロは凄いね。橋の下で高さも制限したつもりだったけど無駄だったみたい」
しかし爆風からは逃れる事が出来ず、勢いを殺せなかったクロは堤防に打ち付けられごろごろと転がってしまう。身を起こしながら彼はシロに問いかけた。
「……何のつもりだよ、シロ……!」
「さっき言ったよね、死んでって」
「……お前……また意識を操られてるのか……!?」
クロは去年の文化祭での出来事を思い出していた。
「違うよ……これは、明確な私の意志……クロには……いなくなってもらわなくちゃいけないから」
「何でだよ……意味わかんねーよ……!」
「天使と悪魔の戦いがもうすぐ始まるの。だから私は、クロを殺さなくちゃいけない」
「!? 戦いが……!? どういう事だよ!」
「そのまんまの意味だよ! そのためにあなたには死んでもらわないといけない。私が、殺さなくちゃいけない……! 私が、終わらせるの……自分の手で! そうすれば、私は……私は……もう、苦しまなくてよくなるから!」
「!」
こぼれてきた涙を彼女はすぐに手で拭う。その瞳には強い決意が込められていた。それを見たクロは悟った。あいつは今、絶望のどん底にいる。多分死ぬほど悩んだんだろう。残された俺なんかとは比べ物にならないくらいに、たくさんたくさん辛い思いをして。そうして出た結論が、こういう事なのだろう。ならば俺がどれだけ説得した所でその決意はきっと揺るがない。いや、揺らいでしまったとしてもそれは結局また彼女を苦しめる事になる。
なら……受け入れるしかないじゃないか。
「……お前はさ、やっぱり偉い奴だよ……ちゃんと答え、出してるもんな……俺と違ってさ。だから、無理矢理にでも俺も答えを出さなきゃいけねーよな」
天使と悪魔、結局はこうなる事が運命だったのだ。
「わかったよ……でも俺だって、まだ死にたくねー……お前がそうする気なら、俺だって全身全霊をかけてお前と戦ってやる。そしてお前をイージスに引き渡す……来いよシエル、ぶちのめしてやる」
 





