第96 XCⅥ話 星空も月明かりも
〈話は聞きました〉
モニターの中でベルは静かに言った。あれから少し時間が経ち、夜になっている。シロが連れて行かれた後、クロはずっと放心状態でその場に滞空していた。そこにイージスのふたりが追い付き自宅まで連れ戻されたのであった。今回の一件は緊急の要件としてすぐに彼女に伝えられ、こうして聴取の場がセッティングされた訳である。もちろん彼らは家に居座っている。ひとりは部屋の角、そしてもうひとりは廊下で見張りを行っていた。
「……」
姉の険しい表情をぼんやりと見つめたままクロは無言で座り込んでいた。正直、今は誰かと話をしたい気分ではない。
〈……クロノ? 聞こえているのですか?〉
「……」
〈クロノ?〉
「……ああ、聞こえてるよ」
〈…………あなたは、彼女が悪魔である事を知っていたのですか〉
「…………ああ」
〈…………そうですか…………クロノ、戻って来なさい〉
「…………」
やはりそうなるか。予想していた言葉だ。
「…………いや、だ」
〈わがままを言っている場合じゃない事くらいわかっているでしょう。彼女は魔界に帰ったのでしょう? ならばあなたが今いるその場所が他の悪魔に伝わるのも時間の問題です〉
「……だから、何だってんだよ」
〈危険だと言っているのです。それくらい言わなくてもわかるでしょう〉
「何で」
〈あなたの身元についても当然伝わります。それを知った悪魔が何もしない訳がありません〉
「……何でそうやって決め付けるんだよ。姉貴がそう思ってるだけだろ。俺はここに残る……あいつが、シロが、帰ってくるかもしれないから」
〈……はあ〉
ベルは深い溜め息をついた。
〈それこそ何の保証もありませんよ。第一、帰ってきたとしてまた一緒に暮らそうとでも言うのですか〉
「ああそうだよ……今日までずっとそうしてきたんだ」
〈……クロノ、わかっているのですか? 相手は悪魔なのですよ〉
「それがどうしたんだよ。あいつは俺の友達だ。大体天下り中は自由にしていいはずだ。姉貴が干渉する理由も無いだろ……俺は、あいつが帰ってくるって信じてる。姉貴が思う様な事にはならないって……」
〈……〉
「……それに境界で悪さをする悪魔をしょっぴくのがそもそも天下りの意義だったはずだ。姉貴が言う通りになるとしたらなおさら俺はここに残るべきだろ」
〈……この1年そちらで暮らして、屁理屈をこねるのは上手くなった様ですね。いいでしょう、滞留を認めます〉
「神様!?」
角にいた男が慌てて口を挟む。
〈ただし、これから天下りが終わるまでの間あなたの周りに常に警護を付けます。それが条件です〉
「! 天下りが終わるまでって……おい、シロが戻ってきたらどうするんだよ……ずっと監視しとくつもりか?」
〈知った事ではありません。これを認めなければ力尽くで昇天処置を行います〉
「……! くそっ……!」
〈私だって、お前が心配なんだ〉
「……っ!」
ベルは少しだけ素に戻った後すぐに部屋の隊員に警護の命令を下し、今後についての説明をしてから通信を切った。クロは舌打ちをして立ち上がると割れっぱなしの窓の方へと歩き出す。逃げるとでも思ったのか男が反応する。
「ちょっとベランダに出たくなっただけだ。どこにも行かねえよ」
そう言って一歩踏み出すとむわっとした空気がクロの全身を包む。多少はエアコンの効いていた室内とは違って外は蒸し暑かった。見上げた空には月がいつもと同じ様に町を照らしている。
「……シロ……」
だがその光は、彼の心の奥底まで届いてはくれなかった。
「シロ!? 本当にシロが帰ってきたのかい!?」
時を同じくしてアインシュタット大魔城、謁見の間には魔王の喜ぶ声が響く。知らせを聞き外遊を取りやめ急ぎ帰還したのである。娘の姿を見た彼はいつもの様にがばりと大きな体で抱きついてきた。
「おお……シロ! シロ~~~~~~~! 本当にシロじゃないか! 夏にまた帰ってくるとは聞いていたけど今年は少し早いんだね! それにしても急でびっくりしたよ! いつもは事前に教えてくれるのに! お父さんをびっくりさせたかったのかい? それとも寂しくなったから? お~よしよしシロは可愛いな~~~~!」
「…………ただいま…………お父様」
「お帰り~~~~~~~!」
繰り返し頬ずりをしていた魔王だったが娘の雰囲気が暗い事に気付き怪訝そうな表情を見せる。シロもいつもなら父と再開出来て嬉しくなるのだが、今ばかりはそんな気持ちにはなれなかった。
「…………何だか元気が無いね? まさか兵達が何か気に障る事でもしたのかい!? もしそうならお父さんに言ってごらん!」
「…………」
「お、お嬢様!!」
話を聞き付けたらしくフェイスもばたばたと入室してくる。
「ほ、本当に帰って来られたのでございますね……!」
「……ええ」
浮かない顔のままシロは答えた。フェイスの焦った表情から察するに、突然の帰還の理由について彼女は検討がついている様に感じられる。
「ところでシロ、リボンはどうしたんだい?」
「え……?」
父に言われてシロは気が付いた……髪の結び目に指をあてて確かめる。本当だ。リボンが解けてしまっている。あのリボンは……どこに行ってしまったのだろう。
クロからもらった大切なリボンだったのに。
「……」
「シロ……?」
「あ……うん、ちょっと気分で」
「ま、魔王様! お二方ともお戻りになったばかりでお疲れでございましょうし、お夕食まで一旦お休みになった方がよろしいのではないでしょうか。お嬢様は私がお部屋にお連れ致します」
「あ、ああそうだね、私はどうだっていいがシロが疲れているならそうするべきだ。食事の時に色々と話を聞かせてくれると嬉しいな」
「……」
シロは何も答えなかった。さすがに只事ではない事を悟ったのだろう、魔王は表情をきゅっと引き締め、シロを連れ帰ってきたふたりの兵へと目を向ける。
「それまでに彼らの話を聞いておく事にするよ」
「……」
「さ、さあ行きましょうお嬢様!」
フェイスはシロの手をぐいと引っ張り廊下へと出るとそのままシロの部屋まで向かった。そして扉を閉めてから声の調子を落として尋ねてきた。
「強引にお連れしてしまい申し訳ございません……境界で何があったのか、お聞かせ頂けますか」
「……」
シロは起こった事をありのまま彼女に話した。「イージス」と名乗る天使の男達が彼女の素性を疑って訪ねてきた事。そこに大魔城より派遣されてきたあのふたりが鉢合わせしてしまった事。そのままクロと引き離されてしまった事。
「……そうでございましたか……それは、大変心苦しい事態となってしまいましたね……」
「……もう、クロには会えないのかな」
「……! ……」
フェイスは必死に何か答えようとするが苦悶の表情を浮かべたまま口を開けないでいた。無責任に期待させる様な事を言えないと自覚しているのだろう。
「お……お嬢様」
少ししてからベッドに座るシロの元まで歩み寄るとフェイスは跪き、彼女の小さな掌を自分の両手でそっと包み込んだ。
「この先どの様な事が起ころうとも、私はずっとお嬢様のお側でお仕え致します。私にはこう申し上げる事しか出来ません。申し訳ございません、申し訳ございません……」
「……ありがとう。あと謝らないで……ちょっとひとりにしてもらっていい?」
「……承知致しました……では、失礼致します」
立ち上がったフェイスは俯きがちに部屋を出ていった。それを見届けてからシロは髪を解いて横になる。今自分がフェイスに話した事を謁見の間で父も聞かされているだろう。ならばこれから当然父はシロにこれまでの経緯を聞いてくるだろう。こうなってしまった以上正直に話すしかあるまい。
「……」
シーツの上に広がる髪をふと指でいじる。連れ帰られる時、彼女が伸ばした手はクロには届かなかった。
いや、届いていたはずなのだ。指先が触れる寸前で彼が一瞬躊躇わなければ。
そうすれば、彼女はここにいなかったかもしれない。今でもクロの隣にいられたかもしれない。
「何で躊躇ったの」
それは彼女にはわかり切っていた。守護の印による呪い……クロはそれをとっさに、あの瞬間に思い出したのだろう。だから触れる事を躊躇ったのだ。
……それでも。
「あのまま手を握って欲しかったよ」
この身に走る痛みなぞどうだってよかったのに。そのまま無理矢理引っ張って、私をそのまま……奪って欲しかった。
「クロ……だって…………だって今の方が、よっぽど痛いよ……」
少女は心臓に強く手を当てた。握りつぶすくらいに胸を掴むが、痛みは強くなるだけだった。





