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「どうやら決裂したようだな」
感情をまとわない呟き。それを聞いたステラは思わず眉をひそめてしまうが、だからと言ってやるべきことを放棄しはしなかった。
「行くぞ。――跳べ!」
やはり平坦な号令を聞き、ステラは地面を蹴る。ミオンもそれに続き、最後にオスカーが力強く砂を巻き上げた。
三人は呆れるほど高く宙を舞い、ある建物のひとつに着地する。そこからまた別の建物に飛び移り、ある地点でステラは二人と別れた。そして行き着いた先は――
「おっす、来たな」
「来たわよ」
幼馴染とも腐れ縁ともいえる少年のもとだった。彼は一瞬笑みを浮かべたが、すぐにそれを消して遠く、犯人のいる方へと視線を注ぐ。
「こうなりゃ作戦もくそもない。今の俺たちにできるのは、せいぜい逃げようとしたあいつを止めるくらいのことだ」
「え?」
ステラが短い言葉で反問すると、緑色の瞳が悲しげに伏せられる。
「あのソーヤとかいうやつをどうにかできるのは、もうトニーしかいない。そんな気がして、な」
ひどく沈んだ声だった。その瞳の奥に、ソーヤでもトニーでもないだれかを映しているようで、そのだれかがだれなのか分かってしまったステラは目を見開いた。
「……かも、しれないわね」
だがここでそれを指摘するのは無粋きわまりない。彼女は答えたあとには何も言わず、交戦する少年少女の方に視線を注いだ。
「できるだけ武力行使はしない方向だったんだがな」
「向こうがその気になって牙をむいてきたんだから、仕方ないでしょ」
軽々しいやり取りが行われる向こうでは、ソーヤとトニーがぶつかりあっている。普通科生に向けて容赦なく魔導術を放つ姿を見るのはとても気が引けたが、ソーヤが軽々とそれをかわしているのを見ると、同時にぞっとしてくる。
「とうか、ソーヤってすごすぎない? なんであそこまで」
ステラが顔をしかめて言うと、レクシオはこともなげにこう答えた。
「さあな。前にも盗みやってたのかもしれないんじゃないか」
「だから鍛えられたってこと? それにしたってレベルが高すぎると思うんだけど」
後半は独り言だった。ソーヤがなぜあそこまで簡単にトニーたちと渡り合えるのか、そしてなぜあそこまで必死になって逃げようとするのか、不思議でならない。
考え込みながらも耳を澄ましていると、少しずつ会話が聞こえてきた。
「なぜあなたたちは、そこまで必死になって僕を止めようとするんです? 関係ない話でしょう」
身体をねじったソーヤに向かって鞘付きの剣を叩きこみながら、ブライスが吼えた。
「この学校で起きてることなんだから、関係ないわけないでしょ! それにうちの仲間だってあんたのせいで怪我してるのよ!」
「さらに言えば、この先も同じことを繰り返す可能性がある奴を、みすみす逃がす気は毛頭ないんだよ」
魔導術を練るトニーの声はいやに静かだった。ステラは思わず、つばを飲み込んだ。
「……妙だな」
隣から低い声が聞こえてくる。レクシオが緑の瞳で少年の姿を追っていた。
「変って、何が」
「ソーヤの目の運びだよ」
答えは簡潔だった。首をかしげたステラは、小さな戦場に視線をやる。そして盗人少年を注視してみた。そこで、気付く。
「何か、狙ってる? この状況で逃げる隙をうかがってるのかしら」
彼の温和さを失った目は、正面の二人に注がれていないことがほとんどだった。常にその周囲を見渡すように動いている。
顔をしかめたステラはそのまま、腰の剣の柄に手をかけた。レクシオもそれからは黙りこくって様子を見守っている。
やがて二人の視線の先で、大きな炎が弾けた。爆風と熱と煙がこちらまでやってくるが、それを感じることはほとんどなかった。レクシオがとっさに防壁を発動したらしい。その証拠に、眼前には薄い金色の膜が広がっていた。
「さ、さすがにちょっとやりすぎじゃない?」
ステラは素っ頓狂な声を上げた。
「いや、そうでもないみたいだぜ」
しかし隣の幼馴染がけろりと返す。
見ると確かに、ソーヤはさっさと魔導術の効果範囲から外に出ていた。彼の身体能力の高さに舌を巻くばかりである。
「……どうしておまえ、こんなことをしたんだ」
ふと、トニーの声が聞こえる。ソーヤがつまらなそうにそっぽを向くのが見えた。
「今さらそれを聞きますか。やはり、あれは『フリ』だったわけですね」
「そうじゃない。なんで『盗み』という手段を選択したんだって訊いてるんだよ!」
ブライスが剣を構える中、トニーは続ける。
「厳しくなった生活環境の中で、おまえはそれでもこの学院に通わせてもらえてたんだろう。その尊さを、その意味を、なんでもっと考えようとしなかった! ここで頑張って勉強して仕事に就けば二人を養うだけの金だって手に入るかもしれなかったんだぞ!」
にらむソーヤに向けて、トニーは言い放つ。
「なんでおまえは、せっかくのチャンスとおまえの母ちゃんの好意を、ふいにするような真似をしたんだ!!」
そのとき、気付いた気がした。
ずっと感じていた疑問に答えが出たわけではない。しかし、自分が疑問を感じる理由が分かった。どうして彼が、盗みを選んだのか。ステラもトニーと同じく、その理由が理解できなかったのだ。
「この学院にいることで得られるものを、おぼろげに知っていたから。だから、分からなかった」
言葉にしてみると、重みが増した。
レクシオが横目でこちらを見たことに気付いたが、あえて何も言わなかった。
ソーヤが小さな声で何か言っている。しかしここからではとても聞きとることができない。そう思っていると、徐々に声は大きくなっていき、言葉がはっきりしてきた。
「……最初は僕だって、ちゃんと仕事をして二人を養おうと、頑張っていましたよ。でも生活が困窮していくにつれ、そんなことが考えられなくなった。勉強にも手がつかなくなって。成績はどんどん下がって……」
うつむいて、ぼそぼそと言葉を紡いでいた彼は、やがて顔を上げた。
「さっきの言葉は、ここにいる皆さんみたいに才能がある人だから言えるんですよ」
その笑顔はどこか狂っているようにも、すべてを捨てたようにも見えた。
トニーはそこで何を思ったが沈黙したが、代わりに先程から眉間のしわの数を順調に増やしていたブライスが爆発した。
「……あんたね、ふざけるのもいい加減にしなさいよ。要は努力を放棄したことに理由をつけて、自分の行いを正当化したいだけでしょうが」
ソーヤの眉がはねたが、そんなものは意にも介さない。大きな瞳をぎらりと輝かせた彼女は、構えていた剣を片手で持ち、横に振る。
「苦労とか悩みとか抱えてるのは、あんただけじゃないのよ。そのうえで頑張ってる人たちだって、あたし知ってるよ。なのにあんたは、そーやって自分だけが不幸みたいなこと言って。
――あんたみたいなのが、一番腹立つわ!」
ここまで激しているブライスは見たことがなかった。唇をかみかけたステラはしかし、レクシオが動き出したことに気付いて慌てて顔を上げる。
「あ――この、まだ逃げる気かよ!」
ソーヤが逃亡をはかっていた。包囲網の中にわずかに空いた穴を見つけたらしい。
「なるほどね。これが狙いか」
呟いてから剣を抜き、定位置から去ったレクシオの姿を目で追った。
そして、絶句した。
彼はそこからソーヤが逃げた先まで、驚くほどの速度で『飛んでいった』。建物の端々に、鉤を引っ掛けて。
「あの、鉤縄……こんなところで役に立つなんてね」
栗色の髪をくしゃりとしたステラはそう呟いた。
ソーヤはやがて地面に下りて、安全に逃げようとしたらしい。とんでもない運動神経で建物をひょいと飛び降りると、そのまま走り出そうとしていた。だがそこにレクシオが追いついた。
二人はそこでしばらく停止した。この間にどんな言葉の応酬があるのかは分からない。
「ま、少なくともあたしはここに必要なさそうね」
そう判断したステラもまた定位置から離れ、砂の校庭に飛び降りた。砂埃が軽く舞う。だが、そのとき、校舎の入口に人影をとらえた気がした彼女は眉をひそめた。
だが気にしているいとまはない。勘違いであればいい、と思いながら、ステラはレクシオのいるところへ向かった。
全速力で走ったおかげか、そこまで時間はかからなかった。幼馴染の少年が穏やかさを残した少年と向き合っているのが見える。
「さっきトニーが言った通り、こちらとしても逃がすつもりはないんだよ」
言ってから彼は、鉤縄を腰におさめた。
「被害に遭ってる奴は多いし、知っての通り俺たちは依頼を受けて動いている。刑事事件に首を突っ込んでいいもんじゃないというのは承知の上だが、それでも退けない理由があるんだ」
その様子に息をついたステラはさりげなく彼の隣に並び、言う。
「最初はいざとなれば退散する気でいたけど、ここまで来たらね」
少年は呆れた様子を見せたが、何も口を挟まず前を向いていた。
二人を見ていたソーヤが、ふっと口元をつり上げる。
「そういえば、そのような話を聞いたんでしたね。これは失礼、うっかり忘れていました」
「……あんたさ」
真意の見えない微笑を見た少女は、疲れた声で問いかけた。
「どうしてそこまで必死になって、逃げようとするの?」
ソーヤはしばらく押し黙った。しかし急に、世間話でもするかのような口調で始める。
「――この帝国にも一応、社会福祉に関わる制度はあるみたいですね」
ステラは思わずしかめた顔でレクシオを見た。彼はあっさりとうなずいて見せる。微妙に腹が立ったので、そのまま視線を外した。
「でも、そんなものは有名無実みたいです。もちろん申請を出せますし、無視したらよっぽど問題になるようなときは、国もお金を出したりします。けど申請を出した僕の家は、その対象に入らなかった。見向きもされぬまま、弾かれたんです」
沈黙を返すことしかできなかった。帝国という国の性質上、仕方がないという意見もあるだろう。しかしステラにはそんな根本的な問題ではない、別の何かが関係しているように思えてならなかった。
「国があてにならないというなら、僕が二人を養うしかないじゃないですか。だから僕はこんなところで捕まりたくないんですよ」
そこまで語ると、ソーヤは肩をゆすって笑ってから、問いかけてきた。
「それとも、あれですか? あなた方は、自分たちに関係ない家の人間が二人死んだところで、なんとも思わない、と?」
「そんなわけ」
「おい、君たち!」
そんなわけないじゃない、と発されかけた少女の言葉は、背後から飛んできた鋭い一声にかき消された。ソーヤが軽く瞠目し、レクシオがやや警戒した様子で振り返る。ステラも素早く背後を見た。
「げっ」
ぎょっとして、そんな声を上げてしまう。
背後には仁王立ちしている一人の男がいた。清掃員の服をまといながらもそうとは思えない厳しい目をした男。
――新入り清掃員の、アーノルドである。
「いったい何をしているんだ?」
怒りをはらんだ問いかけに、三人はそろって答えに窮した。




