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青の奇跡  作者: 藤崎悠貴
第一話
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第一話 7

  7


 牧村和人は、まったく不意に目を覚ました。

 布団のなかで寝返りを打ち、枕と、ベッドサイドの棚に置かれた時計に目を向ける。

 時計はデジタル表示で、十四時となっていた。


「――やべっ」


 さすがに寝坊しすぎだと飛び起きる。

 昼の二時といえば、始業時間より終業時間のほうが近い。

 最後の一時間だけ行っても遅刻になるのだろうか。それとも欠席になるのか。

 いっそいまからなら休んだほうがいい、と思いながら、Tシャツを脱いで制服に着替えようとするあたり、和人もまじめである。

 しかし、いつも壁にかけているはずの制服がどこにもないことに気づいて、はじめて疑問が浮かんだ。

 今日は、何曜日だっただろう。

 こんな時間まで寝ているなんて、昨日はなにかしていたのだろうか。


「目が覚めたか」


 だれもいるはずのない室内で、声がする。

 和人は驚いてあたりを見回した。


「あ――」


 女である。

 扉の前に、すっと膝を揃えて座っている。

 長い黒髪を垂らし、どことなく挑発的な目を和人に向けている。

 驚いたことに、和人の知らない顔だった。

 こんなところに、こんな女がいるはずがない――しかしそれより気になるのは、


「な、なな――なんで裸なんだよっ」

「主も上半身裸であろうに」

「お、おれは着替え中で……とととにかくこれで隠せ!」


 シーツを放り投げると、女は渋々、それを纏った。

 水色のありふれたシーツだが、女が羽織ると、まるで王が持つマントのように見える。

 そう見せるほどの気品が、この女にはあった。


「うっ……」


 それでもちらちら覗く太ももやら鎖骨やらに目をとられ、和人はためらいがちに背を向け、自らもいそいそと脱いだシャツを着た。


「だ、だれ……ですか」

「かしこまらずとも、よい。そのような間柄でもあるまいに」

「そのような間柄って、顔も知らないのに――」

「顔は知らずとも、心は知っておる。我のことを思い出せぬか?」

「思い出すもなにも……」


 こんな女は知らない、と和人はもう一度女を見る。

 若い。

 切れ長の目でこちらを見ている。

 二十歳はすぎているようにも見えるし、自分と同じ年頃のようにも見える。

 どちらにせよ、美しいことにはちがいない。

 気品のある美しさであり、実際はどうなのかわからないが、たとえば王族の娘などはこんなふうなのだろうと思わせる。

 もしどこかで出会っていれば、忘れるはずのない顔だった。

 しかし和人は知らない。思い出すこともできない。


「やっぱり、知らないよ。なんでうちにいるのかわからないけど、たぶん人違いかなんかじゃないのか」

「まさか。主を間違うなどあり得ぬ」

「でも、おれはなにも知らないし」

「忘れておるなら思い出せばよい」


 女が立ち上がった気配に気づいて、そちらは見まいと和人は目を伏せる。

 しかし女は和人の肩を掴み、強引に自分のほうに向かせた。


「な、ちょっと――」

「我の目を見よ」


 女の瞳が和人を覗き込んでいる。

 髪は墨を流したように黒いが、瞳はくすんだ青色をしていた。

 息づかいを感じるほどに近づいて、お互いの顔を覗き込む――その状況にどきりとしたのはほんの一瞬だった。

 和人はこめかみを押さえてその場に膝をつく。

 汗が噴き出し、呼吸もままならなくなる。

 忘れていたことを、和人は鮮明に思い出していた。

 脳裏に浮かぶのは鮮血だった。

 何十メートルも噴き上がった血と、目を見開いた生首である。

 感じたのはよろこびに似たものだった。

 決して大きなものではない。

 分類するならよろこびに近い、という程度の、ほとんどなにも感じなかったに等しいわずかな心の動きでしかなかった。

 ひとを殺したのに、だ。

 髪のあいだから汗がじわりとにじみ、それが頬を伝って、顎の先から落ちる。それがズボンに染み込んでいく。

 汗が目に入ったのか、泣いているのか、和人自身にもわからなかった。


「悲しいのか」


 女は和人を見下ろしている。


「恐ろしいのか、主よ」


 責めるような口調だった。

 その言葉さえ耳に入らないほど、和人のなかには陰惨な記憶が渦巻いていた。

 なぜ忘れていたんだろう――いまではもう二度と忘れられないほど、繰り返し繰り返し、同じ記憶が再生される。

 苦痛か憎悪に歪んだ顔からはじまり、その首を一閃して血が噴き出すまで続き、また歪んだ顔へ戻るのだ。

 自分の手が剣を握り、自分の腕が目の前の男を殺せと命じる。

 その要請に従うことに、一瞬の躊躇もない。

 ごく当たり前のように振り下ろした先で、名前も知らない男が死んでいく。

 手が自分のものではないようにぶるぶると震えた。

 ふたりの男を殺した手だ。

 ためらいなく斬り殺した手だ。


「おれは……なにをしたんだ」

「主は生きることを選択したのだ。死を選ぶ法もあった。だれも殺さずに死んでいくこともできたが、主は生きることを望んだ。そのために我が殺したのだ」

「ちがう。殺したのはおれだ。覚えてるんだ。肉を斬るかすかな感触も、骨を断つ力強い響きも覚えてるんだよ。おれが、この手で殺したんだ。なんてことだ――ひとを殺したなんて」

「殺さねば、殺されていた」


 女は平然としたものだった。

 まるでなにも感じていないような顔つきである。

 和人は、ひとを斬りながら感じたことと、いまの女の感情はよく似ていると感じた。

 興味がないのだ。

 他人の生や死というものに無頓着で、殺したいという衝動もなければ、殺したくないという理性もない。

 道を塞ぐ障害物を跨ぐように、邪魔なものを排除していく――そうやってふたりの人間を殺したのだ。


「主は生きることを選択した」

「ちがう!」


 和人は叫んだ。


「だれかを殺してまで生きたいなんて、思ってない!」

「しかし生きるとはそういうことだ。主は死の淵に立ち、死にたくないと望んだのだ。生きたいと、そう望んだのだ。こんなはずではなかった、などというのは言い訳にすぎぬ。生きるというのは、どのようなことをしてでも生き残るということ。だれも傷つけずなどと都合のよい選択はない」

「なんなんだよ、おまえは――」

「我は精霊石。長く眠っていたが、主の願いを受けて目を覚ました精霊石である」

「精霊石だって?」


 半ば自棄になって、顔面を奇妙に引きつらせて笑った。


「精霊石は、石だろ。人間じゃない」

「たしかに、精霊石は人間ではない。しかし鉱物でもない。説明してもわかるまいが、まあ、精霊石の妖精とでも思っておればよい」

「妖精か……もう、なんでもいいさ。石だろうと妖精だろうと、とにかく出ていってくれ。ひとりにしてくれ」

「我は精霊石だと言っただろう。持ち主から離れては存在できぬ」

「じゃあ、しゃべるな。おれの視界に入るな」


 憎悪のようなものが和人のなかでふつふつと沸いていた。

 だれに対する憎悪なのかも知れない。

 おそらくは自分自身に向けられたものだろうが、面と向かって自分を罵ることはできない。

 いまの和人に、他人を思いやる余裕はなかった。

 八つ当たりだろうがなんだろうが、はき出してしまわないことには、心が耐えきれない。

 ふくれあがった憎悪で心が壊れ、我を失くす様子は容易に想像できた。

 和人はベッドに寝転がり、部屋に背を向けた。

 壁と向き合い、胎児のように身体を丸める。

 背後で、ごとり、と音がした。


「おい」


 そのかすかな音にさえ爆発するような怒りを覚え、和人は乱暴に振り返る。

 すると、女の姿は消えていた。

 扉は相変わらず閉まっているが、女の姿だけが消え、羽織っていたシーツは床に広がっている。

 それを取り上げてみると、その下からちいさな石が見つかった。

 くすんだ青色をした、五、六センチの石だった。

 精霊石である。

 和人はあたりを見回し、再び精霊石を見下ろした。

 女が消え、精霊石が現れた――答えなどわかりきったことだ。

 精霊石が人間の姿をするなど聞いたことはないが、まったくあり得ないことではないのかもしれない。

 あの女は精霊石なのだ。

 あのとき――瓦礫の下敷きになって死の淵にいた自分に囁きかけた精霊石が、あの女なのだ。

 和人は不意になんとかして精霊石を破壊したいという衝動に駆られ、力いっぱい壁に投げつけようとさえしたが、混乱と絶望のなかで最後に残ったかすかな理性がそれを押しとどめた。

 精霊石はベッドに投げ捨て、自分の身体も同じように痛めつける。

 ベッドのスプリングが大きく軋み、泣きたい気分だった。

 ひとを殺したのだ。

 名前も知らない相手だが、人間ではあった。

 なにが悲しくて泣くんだろう?

 殺してしまったことが悲しいのか。

 命が失われてしまったことが悲しいのか。

 それとも、結局は自分の人生がめちゃくちゃになって、悲しいのか。

 考えれば考えるほど、自分のことが信じられなくなっていく。

 どんな理由があるにせよ、殺人は殺人だ――そもそも殺したことに理由などあったのだろうか。

 自分の意思で殺した気はしない。

 殺したい、とも思わなかった。

 ただ、殺すべきだ、と冷静に判断した。

 だれの判断だった? 本当に自分の判断ではなかったのか。

 だれかに操られていたにしても、殺したのはこの腕だ。

 この手だ。

 おれなのだ。

 罪はどこにあるんだろう。

 殺したがった意識が罪なのか、殺した身体が罪なのか。

 顔も知らない親に捨てられ、行き着く場所はこの地獄だ。

 地獄。殺人。自分。記憶。他人。刑罰。

 和人の連想は、いつしか夢と混ざり合っている。

 和人は見た。

 自分が他人を殺す様子を、俯瞰で見た。

 笑いながら殺す様子を大写しで見た。

 泣きながら殺す様子を、殺される人間の視点から見た。

 同じ場面を何十回も、何百回も見た。

 殺し、殺し、殺し、殺す牧村和人を見続けた。

 希望はどこにもなく、絶望など窒息するには充分なほどあったが、それでも和人は目を覚ました。

 日は暮れている。

 蛍光色に照らされたデジタル時計が二十時三分を指していた。

 カーテンが開け放たれた窓からは、ほんのかすかに明かりが差し込んでいる。

 町明かりというほど明るくはなく、月明かりでもないような、不可思議な光だった。

 和人は寝返りを打った。

 いままで寝ていたはずだが、目の下にはくっきりと隈ができ、髪は汗で額に張りついている。

 憔悴しきった顔つきだった。


「……おれは人殺しだ」


 頭がぼんやりして、考えがまとまらなかった。

 人殺しだ、と思うと、次の瞬間には「ちがう」と叫んでいる。

 このままなにも食べず、眠らず、死ぬのを待ちたいと思うと、すぐに「それはただの逃避だ」と叱咤される。

 反対意見を持った自分がふたりいて、そのあいだに挟まれているようだった。

 死にたい、逃げるな、生きていたい、甘えるな、殺してほしい、わがままだ。

 夢のなかでも悩み続けた結果、身体は疲れ切り、目蓋を開けることさえ億劫になる。

 しかし意識は眠りを要求しておらず、それどころか心臓は疾走でもしたように高鳴り、動け、動け、と身体に命じている。

 和人は再び壁に向かって寝返りを打った。

 汗で濡れた髪が不愉快だった。

 風呂に入ろう、と思い立つ。

 両腕をついて、重々しく起き上がった。

 するとベッドのまん中あたりに青い石を見つけ、なにを思ったかそれを持ち、足を引きずるようにして部屋を出た。

 二階から一階への階段にも時間がかかる。

 脱衣所の電気をつけ、服を脱いだ。

 風呂場のなかに入り、ちいさな椅子にやっと腰を下ろしてから、風呂場の照明をつけていないことに気づいた。

 いまさら立ち上がれもせず、そのまま蛇口をひねって、冷水を頭から浴びる。

 それですこしでも頭のもやが晴れてくれることを期待して、いつまでも冷水を浴び続けたが、効果はほとんどなかった。

 ただ、すこし、考えることをやめよう、という気になる。

 作業的に頭と身体を洗い、温い湯で洗い流す。

 身体の表面を粘膜のように覆っていた汗が消えると、心の垢まで落ちたような気がした。

 立ち上がる元気もできている。

 脱衣所に戻って、服を着た。

 頭はタオルで乾かす程度で、そのまま廊下に出る。

 それがちょうど、玄関の扉が開くのと同時だった。


「あ――」


 脱衣所の照明が洩れているだけの薄暗い廊下で、玄関を開けた人間は驚いたように立ち止まった。


「直坂か」


 和人は自分でも驚くほど自然に笑みを作っていた。

 直坂八白の顔を見て、なぜか安堵したのだ。

 それこそ闇のなかに一筋の光を見つけた気分で、和人は曖昧に笑う。


「あ、あの」


 八白はゆっくりと玄関を閉めた。


「勝手に、ごめんね。あの、様子を見にきたんだけど、まだ寝てると思ったから……」

「いや、いいんだ。ありがとう」

「身体は大丈夫? ご飯、うちのお母さんが作ったんだけど、よかったら持ってくるから――」

「悪ぃ。いまは食べられそうにないから、またあとでもらうよ」

「そ、そっか。そうだよね。ごめんね」

「なんだよ。直坂が謝ることじゃないだろ」

「そ、そうだよね。ごめん」

「謝るなって」


 和人は頭を掻く。

 和人にはまだ踏み込んでほしくない場所があり、八白もそのことには気づいていた。

 それを避けると、お互いにどうもぎこちない。


「あー、あのさ」


 と和人。


「直坂って、不破学園に通ってるんだよな」

「う、うん」

「じゃあ、精霊石とか、そういうことも詳しいだろ。またあとでいろいろ教えてくれるか?」


 突然そんなことを言い出して不審に思われるかと考えたが、まったく事情を知らないわけでもないらしい。


「うん、わかった」


 八白はほんのすこしうれしそうにうなずいた。

 その様子に、和人は心底安心する。

 大げさではなく、救われた気分だった。

 ただ傷つけるだけではなく、他人をよろこばせることもできるのだと、改めて八白から教えられた気がした。


「じゃ、おれ、もうちょっと寝るわ。悪いな、せっかくきてもらったのに」

「ううん、いいの。ゆっくり休んでね」

「もう充分に休んだけどな」


 和人は階段を上がった。

 その足取りは、降りるときよりは、いくらか軽い。

 部屋に戻り、ベッドに身体を投げ出す。

 疲労感は強くあったが、そう簡単には寝つけなかった。

 ごろりと寝返り打ち、


「おおっ」


 いつの間にかベッドの脇に女が立っていて、驚く。

 女はじっと和人を見下ろしていた。


「……だから、服、着ろよ」


 和人はゆっくり女に背を向け、また、シーツを投げる。

 女はいそいそとそれを羽織る。


「気が済んだか」

「おれの気が済むとか、そういう問題じゃなくてだな、服ってのは着るもんなんだから」

「昼間のことだ」

「……まだわからないよ。ただ、さっきは怒鳴って悪かったな」

「ふむ。ずいぶん変わった男だな、主は」

「全裸のおまえには言われたくない」

「我は妖精である。妖精が服なぞ着るか」

「郷に入っては郷に従えっていうだろ」

「王たる我が従うべきはただひとり」

「だれだよ」

「主だ。主が服を着ろというなら、まあ、仕方あるまい。しかし着る服もなしに、ただ服を着ろとは無体なことよ」

「うっ……お、おれの服がそのへんにあるだろ。適当に選んで着ればいい」

「下着は。それも主のものを使えばよいのか」

「……まあ、服のことは、あとでいいよ。なんか考えるから」

「我としてはなくともよいのだが」

「だめだ。下着はつけろ。いまはちゃんとシーツにくるまってろよ」

「主が言うなら、そうしよう」


 背中越しの会話である。

 和人はすこし間を置いて、


「その、主ってなんなんだ」

「主は主であろうに」

「だから、その主がわからん。おれのことなんだろうけど」

「精霊石の持ち主である主が主なのだ。我の主人といってもよいが」

「しゅ、主人って……」


 その響きがどうもな、と和人は釈然としない表情を浮かべる。


「そういえば、あの石、持って帰ってきちゃったけど、よかったのかな。博物館は……壊れたけど、一応返したほうがいいのか?」

「我はすでに主のものである。ほかのだれの所有も認めぬ」

「その言い方、語弊があるだろ」

「なぜだ。我は主のもの。ごく当たり前ではないか」

「いや、だからさ……説明してもわかんねえだろうなあ」


 石の形をしていたら、所有者はだれか、という話にもなるが、人間の形をしているとどうもそうはいかない。

 それを持ち主などといわれると、変な気分になる和人だった。


「精霊石のことはよく知らないけど、あれってみんなおまえみたいに人型になったりするもんなのか」

「まさか」


 女は鼻で笑う。


「我ほど特別な石はほかにあるまい。だからこそ、あの下賤どもも我を奪わんと狙ったのだ」

「おまえを? どういうことだ」

「やつらは精霊石を集めておった。なんのためかは知らぬが、石の力を借りれば大抵のことは可能であるから、いつの時代もそのような輩は絶えん」

「あのひとたちは博物館から石を奪うつもりだったのか。おれはそれに巻き込まれて……」


 一度は命を落としかけて、助かったはいいものの、とんでもないものを背負ってしまったわけだ。

 幸運だったのか、不運だったのか。

 和人には、その判断はまだできない。


「……おれはこの先、どうなんのかな」

「どうなろうとも、生きるべきだ」


 女は厳しい口調で言った。


「それが主の定めだ。牧村和人よ」


 和人はゆっくり女を振り返り、言った。


「前、隠せよ」

「む……羽織るのはむずかしいのだ」


 ため息をつき、再び女に背を向けて、和人は目を閉じる。

 今度こそ、すこしは眠れそうだった。


  *


 直坂八白は緊張できりきり痛む胃を抑えながら家を出た。

 制服姿である。

 不破学園指定の制服はワンピースになったセーラー服だった。

 ほとんど黒に近い紺色地に、刺繍入りの白いリボンを胸元で結ぶ。

 地元ではかわいらしいと人気の制服だが、実際に着られる生徒は一握りしかおらず、直坂八白はその数少ないひとりだった。

 制服に、鞄も持っているが、登校にはまだ早すぎる早朝である。

 六時をすこし過ぎたころで、夜は明けているが、まだその名残のような、どこか涼しい空気が残っていた。

 八白は自宅の前の細い路地を横切り、真正面の家の玄関に立つ。

 ふう、とひとつ深呼吸して、


「練習、練習。おはよう、牧村くん。身体は大丈夫? 今日はいい天気だよ……よ、よし。完璧、完璧」


 もう一度深呼吸してから、玄関の呼び鈴を鳴らす。

 家のなかでぴんぽーんと鳴り、しばし待つが、反応がない。

 昨晩のシミュレーション通りである。

 それから呼び鈴を二回鳴らし、反応がないことを確認してから、八白は鞄のなかから合い鍵を取り出した。

 なにかあったときのために、とずいぶん前から渡されていた合い鍵である。

 それで玄関の鍵を開け、恐る恐る、なかに入る。


「あの、こんにちは、直坂ですー」


 三度の呼び鈴で目覚めなかったものが、その蚊の鳴くような声で目を覚ますはずもない。

 室内は静まり返っている。


「あの、お邪魔します……」


 一応断りを入れて、八白は靴を脱ぐ。

 まっすぐ向かうのは、この家のただひとりの住人が眠っている二階の一室だった。

 階段も、できるだけ足音を立てぬよう、慎重に上がる。

 もっとも忍ぶ理由はないのだが、なんとなく気恥ずかしい八白だった。

 二階へ着き、部屋の前に立って、もう一度ぶつぶつとシミュレーションをする。

 扉をノックした。

 かなり辛抱強く待つ。

 玄関で靴があることは入念に確認しているから、外出している可能性はない。

 扉を開けた。

 施錠はされていない。

 ちいさく軋みながら扉は開いて、八白の思い人、牧村和人の部屋が現れる。

 カーテンは開いたままになっている。

 室内はすでに明るく、入り口に立ったままで部屋全体を見渡せた。

 あまりものが多い室内ではない。

 真正面、窓の下に勉強机があり、向かって右側にベッドがあった。

 左側の壁にはハンガーがかかっていたが、制服はない。

 ベッドはこんもりと膨れ、そのなかでまだ眠っていることがわかる。

 八白は様子を見ようと、一歩踏み出した。

 すると物音に気づいたのか、ベッドのなかで和人が寝返りを打った。

 壁に向かっていたのが、被っていた布団をはね除け、仰向けになる。


「……へ?」


 間の抜けた声を上げ、八白は思わず持っていた鞄を床に落とした。

 とすん、という、その音で和人が目を覚ました。


「ううん……あれ、直坂。なにやってるんだ、こんなところで」

「そ、そそ、そそそれ」

「なんだって?」

「そそ――そその、の、ああ」


 言葉になっていない。

 和人は目をこすりながら起き上がり、寝ぼけた顔で首をかしげる。


「そその、あああの」


 八白は必死に指さした。

 ベッドである。

 和人は自分が指をさされていると思い、自分の姿を見下ろそうとして、やっと八白の狼狽えの理由を知った。


「な、ななな――」


 ひとり分にしては、布団のこんもりが大きすぎる気はしたのだ。

 案の定、というべきか、布団を退けてみると、和人に寄り添ってもうひとり、女が寝ている。

 半裸どころか、全裸の女である。

 ちょうど和人の身体と寄り添うように寝転がり、いまもって目を覚ましていない。

 ――言い訳のしようもなかった。


「お、お、お邪魔しましたっ!」


 八白は部屋から飛び出して逃げる。

 階段は数段飛ばしで駆け下り、玄関で靴を突っかけるとそのままの勢いで外へ出た。

 無意識のうちに、不破山のほうへ全力疾走する。

 いっそ精霊石を使って地球の裏側まで逃げたい気分だった。


「だ、だれなの? なんで同じベッドで、は、裸で寝てたの……?」


 なんでってそれはおまえ決まってるだろう、とだれかが囁く。

 その声を聞かぬように耳を塞いでとにかく走る。

 顔に似合わず、速い。

 走って走って、不破山の厳しい坂道を登りはじめたところで、息が切れた。

 ガードレールに寄り掛かり、とにかく息を整える。

 こんな日なのに、空は今日も晴れ渡っている。

 なんていやらしい空なんだろう。

 まるで自分を嘲笑っているようだ。

 ある程度呼吸が戻ってきた八白は、頭もすこし冷静になり、和人の家に戻ってみようという気になる。

 ここからでは学園に行くほうが近いが、この時間ではまだ門も開いていない。

 それに、もしかしたら、誤解かもしれない。

 誤解のしようもない状況だが、八白はそれを信じた。

 信じたかったから、とにかく、信じることにしたのだ。

 とぼとぼと坂を下り、人通りのない静かな道を歩く。

 行きの倍以上の時間をかけて帰ると、家の前で和人が待っていた。

 パジャマのまま玄関に突っ立って、八白を見つけるとばつが悪そうに、


「まあ、入れよ」

「う、うん……」

「最初に言っとくけど、誤解だからな。なんにもないぞ」

「……うん」

「あ、信じてないな? 信じてないだろ。まあ、その気持ちはわかるけど……説明するから、ちょっと待ってろ」


 八白はリビングに通され、和人は階段を上がっていく。

 若い男のひとり暮らしのわりに、牧村家はきれいに保たれている。

 リビングにも脱ぎ散らかした服や置きっぱなしの食器はないし、キッチンも同様に清潔だった。

 掃除もでき、料理もうまいし、洗濯物もため込まない……なんだか理想の主婦みたいだと八白はすこし気落ちする。

 どれを取っても和人よりできることがないから、手伝おうにも、むしろ邪魔をするだけでなんの役にも立たない自分が情けない。

 和人が階段を降りてくる音が聞こえた。

 足音は、ひとつではない。

 まず和人がリビングに現れ、その後ろから、シーツを身体に巻きつけた女が続く。

 女が不器用なのかなんなのか、歩いているとすぐにシーツが解れてしまって、目のやり場に困る格好だった。

 しかし女のほうは、別に自分の太ももがあらわになったからといって気にはせず、堂々とリビングに入ってきて八白を見た。

 強い視線である。

 にらまれているような気さえする。

 気の弱い八白はすぐに視線を外し、そのまま和人に向けた。


「……いや、その視線の意味はわかるけどさ」


 と言い訳がましく和人。


「服がないんだから、しょうがないだろ」

「ふ、服がないなんて……はれんち」

「ちがうんだって。おまえも、ちょっとは事情を説明しようとしろよ」

「我の知ったことか」


 女はふんと鼻を鳴らす。

 まるで女王のような態度である。

 和人はため息をついた。


「とりあえず、石に戻れ」

「了解した」


 今度は素直にうなずいた――と思うと、次の瞬間、シーツがふわりと舞った。


「わっ」


 その下は裸にちがいない、と八白は思い、とっさに目を瞑る。

 ころん、と、ちいさな音がした。


「直坂、目を開けても大丈夫だぞ」

「で、でも」

「石に戻ってるから、大丈夫だって」


 石に戻る、という言葉の意味はわからないものの、八白は目を開ける。

 女はいなかった。

 床にシーツが広がっている。

 そして和人の手のひらには、くすんだ青色のちいさな石が乗っている。


「精霊石……?」

「そう。これでわかっただろ」

「え……あ、あの、牧村くん?」

「ん?」

「ごめんね、あの、よくわからないんだけど」

「だから、あいつは精霊石なんだよ。自分では妖精とか言ってるけど、悪霊のたぐいだと思う。ま、人間じゃないんだ」

「え、え? 精霊石で、妖精で、悪霊で、人間じゃないの……?」


 八白の理解力を越えている。

 しかし和人のほうがむしろ不思議そうな顔をして、


「精霊石って、こういうもんなんだろ。おれも詳しくはないけどさ」

「こ、こういうものって……」

「石になったり、人間になったりさ。そういうもん……じゃ、ないの?」


 言っているうち、和人も不安になったらしい。

 八白はぶんぶんと首を振った。

 それが八白にできる精いっぱいの否定だった。

 和人は手のひらの精霊石を見下ろし、八白の顔を再び見る。

 もう一度、八白は首を振った。


「人間になってみてくれ」


 一瞬である。

 手のひらの石が消え、和人と八白のあいだにあの女が現れた。

 本当に種も仕掛けもない手品を見せられているような気分だった。

 女が相変わらず全裸であることなど気にも止めず、ただただ、愕然とする。


「石に戻れ」


 再び女が消える。

 石がころんとフローリングの床に落ちる。

 和人はそれを拾い上げ、八白に見せた。


「えっと……こういうことなんだけど。その顔を見るかぎり、普通はこういうもんじゃないらしいな」

「う、うん……見たことないよ、そんなの。だって、普通の精霊石って、これだよ」


 八白は手首を見せた。

 精霊使いは常に精霊石を身につけているから、大抵、ネックレスやブレスレットのようにして持ち歩いている。

 八白の左腕には朱色の貴石がアクセサリーのように飾られている。

 大きさは和人の持っている精霊石と大差ない。


「人間になったり、しないのか?」

「し、しないよ、そんなの」

「命令してみても?」

「命令なんて、したことないもん。精霊石と会話できるわけじゃないし、これってバッテリーみたいなものだから、ただ力をもらうだけで……」

「一方的に力をもらうだけが精霊石?」


 和人は自分の石を見る。


「じゃあ、これはなんなんだ。会話もできて、人間になる石だぞ」

「それは……」


 うーん、と、ふたりして首をひねる。

 精霊石とは、たしかに摩訶不思議な石ではある。

 なぜそれを使える人間と使えない人間がいるのか、そもそも「石を使う」とはどういうことなのか、わかっていないことはあまりに多い。

 研究より先に、石を使う感覚だけが発達し、いまのような状況になっているのだ。

 そのように考えると、もともと正体不明の不思議な石、人間になる石があってもおかしくはない気もする八白だが、それにしても、いままでそんな話は聞いたことがない。


「昨日からわけがわからんことばっかりだな」


 和人は頭を掻く。


「よくわからんうちに死にかけるわ、こんな石を拾うわ……そういえば、直坂、昨日のことは知ってるのか」

「え、あ、うん……ちょっと聞いたくらいだけど」


 その話題に入ったとたん、八白は露骨に目を伏せ、後ろめたい表情を隠せなくなる。


「大変、だったんだよね……」


 八白は、不破学園の生徒という立場もあって、昨日のことは詳しく聞かされている。

 和人になにが起こり、それによってどれだけ和人が苦しんでいるのか想像がつくだけに、「大変」では足りないほど感情が溢れている。

 とくに昨日顔を合わせたとき、和人は別人のような顔つきだった。

 見ているこちらが泣きたくなるような、ひどい顔だ。

 無理もない、と八白は思う。

 もし自分が和人の立場なら、どうなっているのか、想像もつかない。

 だからこそ今朝、心配で堪らず、早朝から和人の様子を見にきたのだ。

 今朝もまだ疲労や苦悩の気配は消えていない――しかし昨日よりは顔色もよく、表面上は普段と変わらない様子を装える程度には気分もよくなっているらしい。

 ――本当なら、無理はしなくていいんだよ、と和人に言ってあげたかった。

 そんな言葉の代わりに抱きしめられたら、どんなにいいだろう。

 しかし八白の臆病さがそれを許さず、万感を込めて、簡単な言葉を使うしかなかった。


「まあ、いろいろあったみたいだけど、おれは大丈夫だよ」


 和人はわざとらしく笑ってみせた。


「瓦礫の下敷きになっても死ななかったくらいだからな。でも、あのあとどうなったのか、よく覚えてないんだ。どうやって家に帰ってきたのかもわからないし、課外授業をしてたはずのほかの連中がどうなったのかもわからないんだけど、直坂はなにか聞いてないか」

「あの、牧村くんの学校のことなら、ちょっと聞いたよ。ほとんどの生徒は無事だったんだって。それから、博物館のことはテロって発表されたみたい」

「テロ?」

「事件に精霊石が関わってるって発表すると問題が多いから、爆弾テロになったんだって」

「爆弾テロか……ちょっと、複雑だな」


 八白もどのような対応があったのか詳しく知っているわけではない。

 そもそも学園の生徒すべてに一々説明されるようなことでもない。

 八白は和人が関わっていたから、学園の先輩や教師から強引に聞き出したのだ。

 それによると、博物館を襲った人間も精霊使いなら、それを返り討ちにしたのもまた精霊使い、つまり和人だった。

 精霊使いは決して社会に健全な形で溶け込んでいるのではない。

 精霊石、あるいは精霊使いがらみの事件はほとんど公表されず、テロや事故といった当たり障りのない形で現象だけが公表される。

 それはつまり、あの場には精霊使いもいなかったし、精霊石にはなんの関係もなかった、といっているようなものだ。

 なによりもそのことで悩んでいる和人にとってみれば、笑えない冗談にちがいない。。


「牧村くん、大丈夫?」

「大丈夫だよ、別に大したことじゃないから。そうか、爆弾テロか。昨日からテレビ見てなかったからなあ」

「あ、あとね、牧村くんを家まで送ったのは、うちの学園の先生なの」

「学園の?」

「ほら、うちって精霊使いばっかりの学校だし、博物館のすぐ近くだから、警察なんかより先生たちのほうが先に到着してたの。それで倒れてる牧村くんを見つけて、向こうの学校の先生に住所を聞いて運んだみたい。あとで、わたしも聞いたんだけど」

「そっか。じゃあ、またお礼言わないとな」


 明るい言葉とは裏腹に、和人は冴えない表情で自分の精霊石を見下ろしていた。

 その他人を拒絶するような表情に、八白はかける言葉が見つからない。

 もじもじと指先を合わせ、重苦しい空気が去るのをただひたすら待つ。


「あ、そうだ」


 と和人が顔を上げた。


「な、なに?」

「おれの制服がないんだけど、どこ行ったか知らないか?」

「あ、それなら、洗濯機のなかに入れてあるの。あの、汚れてたから――」


 話しているうちに八白の顔がどんどん赤くなる。


「わたしがあの、べ、別にぬぬぬ脱がせたとかそういうことじゃないんだけど!」

「ん……? ま、洗濯してくれたってことだろ?」

「一度は洗濯したんだけど、汚れが落ちないから……買い換えたほうがいいと思う」

「そうか。じゃあ今日は予備のやつを着ていくかな」

「きょ、今日って、学校行くつもりなの?」

「そりゃ行くよ。身体も別に悪くねえし。一昨日は早退になっただろうから、なるべく休みたくないんだ。おれ、どっかの不良とちがってまじめだからさ」

「そ、そっか……で、でも、もう一日くらい休んだほうがいいんじゃない?」

「大丈夫だって。心配性だなあ、直坂は」


 呆れたような笑みを浮かべる和人とは対照的に、八白は眉根を寄せ、心底から不安がるような表情を変えない。

 最後には和人も困ったような顔で、


「なんつーかさ、ひとりでいると悪いことばっかり考えちゃうんだよ。そういうの、あんまりよくないと思って。学校に行けばくだらねえ話とかしてるあいだに一日が終わるだろ。どうせ、夜になったらひとりなんだし、明るいあいだはあんまり考えたくないんだ」

「そうなんだ……ごめんね」

「謝るなよ。どうでもいいときに謝ってると、ほんとに謝りたいとき困るぞ」

「そ、そうかな?」

「たぶんな。おれはあんまり謝らねえから、わかんねえけど」


 和人は明るく笑う。

 つられて八白も笑った。

 ふたりは大抵そんなことの繰り返しだった。

 和人がやったことを八白が真似し、そのころには和人は新しいことをはじめていて、置いて行かれないように必死でついていく。

 その一瞬だけ、昨日のことを忘れて幼かったころに戻れた気がして、八白はうれしかった。

 どうやらそれは和人も同じ気持ちだったらしい。


「なんか、懐かしいよな。直坂とこれだけ話すのも久しぶりだし。結構顔は合わせてたけど、朝で忙しかったりして、ほとんど挨拶だけだったもんな」

「そうだね……子どものときは、ずっといっしょにいたのにね」

「たまにはこうやって話すのもいいな。気分も楽になった。ありがとな、直坂」

「ううん。わたし、ほんとになにもできないから……」

「そんなことないと思うけど……ところで、時間は大丈夫なのか。いつもより結構遅いけど」

「え――あ」


 時計を確認すれば、もう七時をすぎている。

 それでも学生としては早い登校だが、学園までの距離を考えるともう出なければ間に合わない。


「あ、あの、じゃ、わたし、行くね。なにかあったら連絡してね。あと、気をつけて!」

「おう。おまえも車とか気をつけろよ。あの坂道で躓いて転がり落ちたりしないようにな」

「し、しないよ、そんなこと!」


 八白は紺色のスカートの裾を翻し、ばたばたとリビングを出た。

 和人も玄関まで見送りに出てくる。


「じゃあ、行ってくるね」

「行ってらっしゃい」


 明るい気持ちで和人の家を出て、リズムよく五分ほど走ってから、「行ってらっしゃい」という和人の言葉を思い出して赤面する。

 和人の家から学校に向かって、それも「行ってらっしゃい」なんて、それではまるで結婚しているような――。


「えへへ……今日もいい天気だなあ」


 直坂八白は今日も気分よく不破山を上っていく。


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