第三話 26
26
世界中は混乱から立ち直ろうとしている。
精霊使いによる危機は去ったのだ。
その原因には、論理的な説明をつけられない。
最有力な説としては、神が人間を救ったのだ、というものだった。
事実、そのようにしか思われないほど、唐突な終末だった。
世界中で暴動を起こしていた精霊使いは、ある瞬間、突然にその力を失ったのだ。
それは全世界でまったく同時に起こった現象だった。
精霊使いが持っていた精霊石が一斉に砕け、そこから力を与えられることで超人的な能力を有していた精霊使いは、その瞬間に「人間」という生き物に戻っていた。
この世界から、精霊石と精霊使いが完全に消滅したのである。
それによって精霊使いは戦う意義をなくし、またその道具を奪われた。
人間側としても、戦意も武器もない精霊使いたちを制圧するのはむずかしくない。
そうして世界中で発生した精霊使いによる革命は未遂のまま終わった。
一部の国ではすでに精霊使いが勝利していたが、それも力をなくした直後に人間側がクーデターを起こしてもとの体制に戻っていた。
――もっとも、「なにもなかったこと」にはできない。
世界中の都市は未だ破壊から回復せず、治安が急激に悪化している。
力をなくした精霊使いたちをどのように処分するかという問題もある。
そもそも、精霊使いを差別するという社会に問題があったのだという意見も出ている。
なにもなかったことにはできないが、起こったことを反省し、新しい秩序を作ろうという動きは盛んになっている。
世界はいずれ立ち直り、また新たな秩序と社会を作り、いくつかの問題点は解消され、新しくいくつかの問題点が生み出される――精霊使いたちは、たしかに世界を変えたのだ。
しかし、精霊石がなぜ突然砕けたのか、真実を知るものはごく一部を除いてだれもいない。
この世界を一度は破滅させようとした首謀者も、それを防ごうとしたひとりの少年のことも知らないまま、世界は回っていく。
*
柿野猛は珍しく午前中に目を覚まし、手早く服を着替えて家を出た。
車の鍵を弄びながらエレベーターを待っているうちに、携帯電話が鳴る。
ディスプレイに表示された名前を確認し、一度は無視しようとポケットにしまったが、それでもしつこく鳴るのに耐えられず、仕方なく電話に出た。
「うるせえぞ、惠」
「一言目がそれ?」
電話の向こうから呆れたような声が返ってくる。
「せっかくかわいい妹がモーニングコールしてあげたのに。普通なら泣いてよろこぶところだよ。ついでにバッグとか買い与えてくれるところだよ」
「もうとっくに起きてるぞ、おれは。おまえこそ、仕事はどうした」
「今日は有給取ってるの。課長が休みはちゃんと取ったほうがいいっていうから。お兄ちゃんも今日、休みでしょ?」
「買い物には連れていかねえぞ」
「えー、なんで」
「だれが好きこのんで荷物持ちになる?」
「その代わり、一日デートできるじゃん」
「寝言は寝て言え。もう切るぞ」
「ねえ、ほんとにだめなの? どうせひまなんでしょ、彼女もいなくて」
「ひまじゃねえよ。今日は用があるんだ」
「どこ行くの?」
「墓参り」
猛はエレベーターに乗り込み、地下駐車場に向かう。
「あれ、今日ってお彼岸?」
「ばかか、おまえは。知り合いの命日なんだよ。わかったら切るぞ」
「あ、ねえ、昼からは? 午前中で終わるんでしょ」
「昼からは暇だけど、おまえとは行かない」
「なんでー!」
「じゃあまたな」
通話を切ってすぐ、また着信が鳴る。
鬱陶しいので、電源を切り、猛は車に乗り込んだ。
――あの日から一年経つ。
都内の様子はすっかり元どおりになっている。
車はいつも混んでいるし、ひとも多い。
テレビでは一年前後で特別番組を流しているが、町をいく人間たちは、それもすっかり忘れているようだった。
それはそれでいいと猛は思う。
すべての人間がいつまでも覚えておくようなことではない。
ただ、一部の人間が覚えていればいい。
猛は車を北へ向けて走らせる。
都心からすこし外れると、都内ではあっても田んぼや敷地の広い民家のような田舎の風景が現れる。
そこからさらに車を進めて、猛は山間のちいさな町――不破市に入った。
市内を抜け、その奥に聳えている不破山の麓に辿り着く。
不破山の頂上へは舗装された道路もあったが、そこは麓で通行止めになっていた。
猛は車を降り、通行止めのフェンスを乗り越える。
あとはひたすら、山道である。
曲がりくねり、急激に傾斜しているアスファルトの道をただただ登る。
日ごろの運動不足もあって、猛はあっという間に汗まみれになった。
九月になったといっても、まだまだ暑い。
とくに今日は、あの日のように燦々と陽が照りつけている。
猛は所々ガードレールに寄りかかり、休憩しながら山を登った。
途中、封鎖された門の前を通りすぎる。
かつて不破学園の正門があった場所だ。
そのあたりでちょうど山の半分で、猛は町並みを見下ろしながら残りを登りきった。
不破山の頂上には、かつて展望台があった。
いまは、そこに墓がある。
三つの墓だ。
猛が手配し、作らせたものだが、実際にここを訪ねるのはあの日以来はじめてのことだった。
墓の手前には広々とした空間がある。
もともと、ここにあった博物館の駐車場として使われていた空間だ。
いまはなにもなく、アスファルトには所々罅が入っていたが、それを修復する人間もいない。
猛はその空間を横切り、墓に近づいた。
三つの墓には、それぞれ名前が彫られている。
猛は、その名前は読まないようにしながら、持ってきた花を供えた。
いちばん乗りでないことは、すでに新鮮な花が供えてあることでわかる。
「まあ、おれなんていちばん短い付き合いだったからな」
猛は呟いて、墓の前にしゃがんだ。
「考えてみりゃ、一時間もいっしょにはいなかったか――自己紹介したのが奇跡なくらいだ。それが、こんな縁になっちまうとはな」
墓石が立つ場所からは、この町が一望できる。
この景色を楽しんでいるだろうかと考えながら、猛は手を合わせた。
成仏してくれ、という気持ちはない。
ただなんとなく、そうして手を合わせれば、いま考えていることが相手に通じる気がしたのだ。
一族の墓参りもろくにしたことがないのに、と猛はおかしくなって、ひとりで笑う。
――と、後ろから物音が聞こえた。
こつこつ、とヒールで歩くような足音である。
猛が振り返ると、腕に花束を抱えた若い女がひとり、こちらへ歩いてくるところだった。
この場所には、三つの墓しかない――女の目的は明らかで、猛は立ち上がると、墓の前を明け渡した。
女は、黒いスーツのような喪服を着ている。
猛に会釈して、墓の前に立った。
猛はすこし離れた場所で煙草に火を点ける。
「あの」
と女のほうから先に声をかけてきた。
「柿野さん、ですよね」
「ああ――きみは、牧村くんの知り合いか」
「はい。直坂八白です。あの、いろいろとありがとうございました」
八白は深々と頭を下げる。
「本当はもっと早くお礼に窺うべきだったんですけど……」
「いや、おれもなにかと忙しくて、家にもほとんど帰ってなかったから。ここへくるのも実ははじめてだ。あれから一年も経つのにな」
「そうですね――ほんとに、早いですよね」
「牧村くんとの付き合いは長かったのか?」
「子どものころから知ってます。幼なじみなんです」
「そうか――」
「あの、ちょっとお話をしてもいいですか。お忙しいなら、あれなんですけど」
「いや、忙しくはないよ。座る場所もないから、立ち話になるが」
「大丈夫です」
ふたりは墓からすこし離れ場所から町を見下ろした。
時折、吹き上げてくる風に目を細める。
ありふれた町ではあるが、猛はどこか懐かしくなるような、奇妙な気持ちだった。
「牧村くんは、どんなことを言っていましたか」
「ん――いや、大した話もしてないんだよ」
猛は新しい煙草をくわえ、火をつけたあとでとなりに立っている八白を気遣ってすぐに火を消した。
「そうだな――おれに話してたわけじゃないが、最後にいろいろとしゃべってはいたよ」
「どんなことを……?」
「精霊石云々より、いま生きている人間のほうが大事だとか――せめて手の届く範囲にいる人間には幸せになってほしいとも言ってたな。牧村くんは、自分を取り巻く世界が好きだったんだろうな。だから必死に守ろうとしたんだ」
「そうですか……」
八白はうつむく。
猛は頭を掻いて、
「おれはな、こんな世界くだらねえって思ってたんだよ。なんにも起こらねえ世界なんか壊れちまえって思ってた。あの日、あの場所にいたのも、世界が壊れる瞬間を見たかったからだ。でもあいつは、おれがくだらねえって切り捨てた世界を必死に守ろうとしてた。文字どおり命がけで世界を守ろうとしてたんだ。それでまあ、おれも感化されちまったわけだ」
「感化?」
「この世界を、いま目の前にあるものを好きになる努力もしなくちゃな――こうなったらいいのに、ああなったらいいのにって考えてるだけじゃどうしようもない。いまここにある世界を好きになって、もっと好きになるにはどうしたらいいかって考えるのはそのあとだ。そういう生き方もあるんだなって教えられたんだよ」
「目の前にあるものを好きに……そう、ですよね。ここは牧村くんが守りたかった世界ですもんね。そこに牧村くんがいないからって――いつか牧村くんがこの世界を見たときに、がんばって守ってよかったって思うような世界でいなきゃだめですよね」
八白は笑顔を作る。
その笑顔が本物になるまでには、まだ時間がかかるだろう。
しかしはじめはそれでいいのだ。
うそでも偽りでも、まずはじめなければ、なにも生まれない。
「わたしもこの世界のこと、好きになろうと思います」
八白はぺこりと頭を下げた。
「今日はありがとうございました。また、ゆっくりお話聞かせてくださいね」
「ああ……そうだな」
猛はその場に立ったまま、八白を見送った。
それから煙草を取り出して、ゆっくりと吹かす。
眼下には不破市がある。
この町を好きになるのは、簡単ではない。
しかし努力する価値はある、と猛は感じる。
この町を好きになれば、生きていくのがすこし楽しくなるだろう。
「……帰るか」
昼からは買い物にも付き合わなければならない。
猛は煙草をくわえたまま、踵を返した。
煙はたゆたいながら空へ上って、やがて、音もなく消えていった。
終わり