第三話 25
25
広々とした、真っ白い部屋である。
和人は部屋のまん中に立ち、一点を見つめていた。
「これで、よかったんだな」
青藍は和人の前に立っている。
その姿が、ゆっくりと崩れていく。
つま先から、臑、太ももと砂のように消えていってしまう。
「わたしは、長くひとりで生きすぎたようだ」
青藍は言った。
「ただ、これでよかったと思う。ここまで生きてきて、こうして主と出会えて――主となら、もうすこし生きてもよかったが」
「お互い、贅沢は言えない身分だろ」
笑った和人の身体も、青藍と同じように崩れている。
「おれの身体のなかにも精霊石がある。この石のおかげで、いままで生きていたんだ。いってみれば、いままでずっとおまえの一部といっしょに生きてたようなもんだよ。だったら、死ぬときもいっしょなのは当然だ」
「そうだな――」
青藍は微笑んだ。
その笑顔が消えていく。
和人はそれを見届けた。
そのあとで、和人自身も砂のように消え去っていく。
最後にはだれもいないがらんとした部屋だけが残った。
22
ふたりの身体がゆっくり倒れた。
まるで幻のように、音もなく身体が折り重なる。
一瞬の静寂があった。
風が抜け、落ちた葉が舞い上がる。
「おい!」
猛が駆け寄る。
和人の身体を抱き上げる。
傷はあちこちにあったが、どれも致命傷ではないはずだった。
しかし首筋を探ると、脈がない。
どれだけ指を押し当て、必死に探しても、どこにも鼓動が感じられない。
「なんで、おまえが――」
和人の片手は血にまみれている。
少女の心臓を素手でえぐり出したのだ。
ぎゅっと握られた手が不意にゆるんで、指のあいだからきらきらと光る砂のようなものがこぼれ落ちた。
「なんだ、これは」
「精霊石の欠片だ」
すっと影が差す。
少女といっしょにいた老人が猛を、ふたりの身体を見下ろしていた。
老人は光を背負い、表情は読めない。
しかし悲しんでいるような雰囲気がどこからか伝わってきた。
「彼は精霊石を砕いたのだ」
老人が手を差し伸べる。
見れば、その手のひらにもきらきらと光る砂が握りしめられ、見る見るうちにこぼれ落ち、風に舞って、すくなくなっていく。
「世界中の精霊石が砕け散った――もはや精霊使いは、人間になった」
「人間に? まさか――」
考えられないことではない。
もし本当に、世界中の精霊石が砕け散ったのなら。
精霊使いは、精霊石さえ持たなければ普通の人間と変わらない。
「でも、なんで精霊石が砕けたんだ。いったいなにをした? 精霊石は、精霊石同士でも砕けないはずだ」
「この少年がそれを砕いたのだ。ひとつの精霊石を砕くことで、世界中の精霊石が砕け散った――彼は世界を救ったんだ。精霊使いの手から。あるいは、精霊使いを永遠に殺したんだ」
老人は少女のちいさな亡骸を抱き上げた。
赤い振袖が、血のようにだらりと垂れ下がる。
それさえやさしく抱きとめて、老人は猛に背を向ける。
「待ってくれ――あんた、それをどうするつもりだ」
「しかるべき場所に葬るだけだ。もうなにをするつもりもない。なにも、できやしない。われわれはもう精霊使いではないのだから」
「教えてくれ。いったいなにが起こったんだ? どうしてこいつまで死んだんだ」
「同じ精霊石でも、そのなかにはいくつか特殊なものが含まれる。牧村和人が持っていた精霊石は、すべての精霊石の意志だ。心といってもいい。彼女が――この少女が持っていた精霊石は、すべての精霊石の命だった。だから、彼女は決して死なず、年老いることもなかった。彼は命を砕いたのだ。彼女とともに、すべての精霊石を殺したんだ。当然、彼の持っていた精霊石も砕ける。彼は精霊石によって生かされていたのだから――精霊石がなくなれば、当然生きてはいられない」
猛は和人を見下ろした。
身体中は傷だらけで血にまみれていても、顔だけは不思議ときれいなままだった。
年相応の、幼さが残る顔だ。
眠っているように穏やかなその裏で、どれだけの苦悩があったのか、猛は察することもできなかった。
「墓を作るなら――」
老人は少女の亡骸を抱え、歩き出した。
「ふたつ分、作ってやるといい」
「ふたつ?」
「ひとつは彼のために――もうひとつは、精霊石のために」
後ろ姿がゆっくりと遠ざかっていく。
銃声はもう聞こえなかった。
ただ死んだような静寂があたりに立ち込めていた。
平和を告げる鐘もない。
終わりを報せる笛もない。
世界は終わってもいないし、生まれ変わってもいない。
しかしこの世界を苦しめていたものがひとつ、少年の死と引き換えに失われた。
ほんのすこしだけ、ひとびとが住みやすい世界になったのだ。
猛は和人の亡骸を抱え、天を仰いだ。
青い空だ。
吸い込まれていきそうなくらいの澄み切った青色だった。
「そんなにこの世界が好きだったのかよ、おまえさんは。つらいこともあったろう。悲しいこともあったろう。それでも、この世界が好きだったのか」
応える声もない。
光だけが降っていた。