第一話 5
5
三つの影が駆けている。
森のなかを獣より速く、宙を鳥より速く駆けている。
乱立する太い幹のわずかなすき間をするりと抜け、生い茂る細い枝を的確に捉え、山肌の起伏に沿って一陣の風のように進んでいく。
そのうちふたつはほぼ横並びで、もうひとつはその後方に位置していた。
先を行くふたりは、それぞれ賀上伸彦、椎名哲彌という。
ふたりとも不破学園の教師をしている。
後方のひとりは、その不破学園の生徒、織笠菜月である。
「織笠くん、すこしスピードを落とそうか」
ひとり後方に遅れている菜月に、伸彦が言った。
菜月は声を張り上げて、
「必要ありません。むしろもっと上げてもいいくらいです」
「じゃ、織笠くんが先導するかい」
「い、いや、それはちょっと」
「なにが言いたいんだ」
苛立たしげに、哲彌。
「それは、だから」
菜月は赤い顔でぶつぶつと言ったあと、意を決したように叫ぶ。
「スカートだから、前はいやです! まったく先生たちは、デリカシーがないんですから。だから彼女できないんですよ」
「ははは、言われてますよ、椎名先生」
「おれだけか? 言われたのは本当におれだけか?」
「ま、冗談はさておき――どちらも無事ならいいですが」
この三人は不破山の山頂にある博物館から連絡を受け、そこに向かっているところだった。
一刻の猶予も許される状況ではなく、会話をしながら、それぞれ速度を上げている。
山の中腹にある学園から、山道ではなく、ほとんど一直線に山頂を目指している。
ときにはほとんど垂直の崖にぶつかることもあったが、三人にとってはそれさえも速度を落とす障害にはなりえなかった。
それぞれ、精霊石を持った精霊使いである。
身体能力は常人を遙かに上回り、身体は羽根のように軽く、筋肉は鋼のように硬い。
その能力すべてを移動に向ければ、空を飛ぶ鳥類よりも速く山を駆け上がれる。
三人は全力をもって山頂の博物館を目指していた。
「先生、わからないことがあるんですけど」
「なんだい、織笠くん」
「どうしてそんな貴重な精霊石が博物館にあるんですか。大切なら、学園の地下にでも置いておけばいいのに。さすがにそこまでは連中も手出しできないでしょう」
「まあ、それはそうなんだけど……織笠くん、アーサー王って知ってるかい。知らなくてもいいんだけど」
「どっちですか。知ってますよ。イギリスの、あれでしょ」
「そう、イギリスの、あれだ。伝承というか物語のなかでアーサーは重傷を負うんだけど、そこで死んで物語が終わるんじゃなくて、重傷のアーサーは泉の妖精によってアヴァロンへ連れて行かれる。そこで傷を癒し、いつか帰ってくる、というわけだ。だからアーサーは〈かつての、そして未来の王〉と呼ばれている。ぼくたちもね――」
伸彦は目を細めた。
「――王の帰還を待っているんだよ」
菜月は不思議そうな顔で、
「精霊石が王って、どういうことなんですか」
「説明したいのは山々だけど、もう頂上だ。山だけにね。あっはっは」
「織笠、気をつけろ。どこから仕掛けてくるかわからんぞ」
三人は最後の跳躍をする――それで斜面を一気に上り、頂上の開けた場所へ飛び出した。
広い場所へ出た直後、四方八方を警戒する教師ふたりはさすがである。
その点、菜月は瓦礫の山になった博物館を見て、一瞬行動を忘れた。
菜月も何度かきたことのある建物が、いまや跡形もない。
そのことを理解してここへきたはずだが、情報を聞いただけと目の当たりにするのとではなにもかもがちがった。
瓦礫の埃っぽい空気が、まだあたりに漂っている。
精霊石を使って敏感になっている嗅覚で、菜月はそこに生臭い血の匂いが漂っていることに気づいた。
血の匂いは、なによりも現実的だ。
菜月は意識がさっと冷えていくのを自覚した。
そのとき、ふたりの教師はもうひとつ先の意識へ到達している。
姿の見えぬ敵から、瓦礫の上に立つひとりの男へ――さらに男が握っている剣へ、伸彦と哲彌の意識が誘導される。
「どっちだ、どっちだ?」
小声で伸彦が囁いた。
「敵か、味方か?」
「わからん――見たことのないやつだ」
ふたりが警戒を解いていない証に、いつの間にかそれぞれの手には武器が握られていた。
どちらも剣だが、形状が異なる。
伸彦のものは針のように刀身が細く、軽く揺らすだけで剣先がしなるほどだった。
一方、哲彌の剣は巨大で、刀身の幅も広く、堂々と長い。
柔軟さはほとんどない無骨な剣だが、哲彌が握るとそれは重量を持たぬようにどんな角度でもぴたりと静止した。
遅れること数秒、菜月も武器を持つ――槍よりもさらに長い、薙刀である。
その間、瓦礫の上の影は動かなかった。
三人よりも高い位置からその様子をじっと見下ろしている。
敵か味方かは定かではないが、男の姿がありえない様子であることはわかる。
男の服は、明らかに血まみれだった。
返り血にしても多すぎる量の血液で、もとは白いはずのシャツが茶褐色に染まっている。
それでいながら、輝くばかりの美しい刀身には、血の染みひとつもないのだ。
なんとも不気味な光景である――それでいて、美しくもあった。
剣をだらりと下げ、瓦礫の山に立っている様子はさながら戦に疲れた王である。
「――王、か?」
哲彌が呟いた。
ほとんどため息に近いような声だった。
「いかにも」
男がはじめて答えた。
冗談を言っているふうではない。
黒髪の下にある目は、冷たく輝いている。
口元の笑みはその容姿に不釣り合いなほど傲慢だった。
「下賤は始末したが――」
男は三人を見下ろす。
「争いを望むなら、応えよう」
男が腕を振り上げた。
三人が脇を締めて身構えたのは反射的な行動だった。
その瞬間、男の身体がぐらりと揺れた。
なにか、と三人が思った矢先、男は瓦礫の山を無様に転がり落ちる。
受け身などない、頭からの落下だった。
「な、なんだ?」
「倒れたらしいな――織笠、おまえはここにいろ」
教師ふたりで、恐る恐る瓦礫に近づく。
男は大きな瓦礫にもたれかかるようにして倒れていた。
肩を揺らしてみても、意識がない。
首の据わっていない赤ん坊のように、頭がぐらんぐらんと揺れるだけだった。
さすがに伸彦もまじめな表情で腕を組む。
「なんだかよくわからないけど……敵じゃないらしいですね」
「見ろ」
哲彌が指さしたのは、男の左手である。
握られていた美しい剣は消え、代わりにくすんだ青色の貴石を握りしめている。
「精霊石――それじゃあ、やっぱりさっきのは」
「おまえが冗談で言った、王の帰還だろうな」
「なんてことだ……ぼくは学園に戻って報告します。椎名先生はここを」
「わかった。どうやら敵もいないようだから、織笠も連れて帰れ。ここはひとりでいい」
伸彦はこくんとうなずき、瓦礫を離れた。
ふたりの位置からは、明らかにだれかに殺された死体がふたつ、見えている。
ひとつは袈裟斬りにされている。
傷口は肩から腹へ、ほとんど両断するほど深い。
もうひとりも陰惨さでは劣らない。
右腕を肘から切断され、首もなかった。
どちらも血は生乾きで、死後それほど経っていないのがわかる。
明らかにどちらも剣で斬られたものだ。
哲彌は自分の足下で気を失っている男を見た。
まだ若い。
高校生だろう。
目を閉じていると、まだ顔立ちにも幼さが見える。
菜月と同じ年頃の学生がふたりの人間を斬ったのだ。
そういうこともある、と哲彌は思う。
とくにこの世界では珍しくもない、と。
――様々な仕事に学生を同伴させるのは、人手不足ということもあるが、おまえたちがいるのはこういう世界なのだ、と早い段階で理解させるためでもある。
哲彌も基本的にはその考えに賛同している。
たとえ顔を背けても、やがては向き合わなければならない問題だ。
無力な子どもがそのまま無力な大人になるよりは、子どものうちから理解させたほうがいい――しかしこの光景は、菜月やほかの学生には見せたくなかった。
哲彌は相手の呼吸が正常であることを確認し、うずたかく積もった瓦礫を上った。
見回してみても、この博物館の警護をしていた難波基也の姿はない。
どこかに逃げたという可能性はあり得ないから、おそらくは瓦礫の下にいるのだろう。
殺されているふたりが賊であり、あの少年がなにかのきっかけで精霊石を手にしたのだとしたら、ここで命を落としたことも無駄ではない。
難波は自らの任務に殉じたのだ。
哲彌はその死を悼み、決して無駄にはしないと誓う。
決して軽くはない命だ。
たったひとつでも無駄にしてはならない。
哲彌はほかに敵の気配がないことを確認し、精霊石を武器から石へと戻した。
薄い緑色に光る貴石だ。
紐のついたそれを首からぶら下げ、難波からの報告にあった、博物館にきていたという高校生たちを探した。
見える範囲、駐車場にもその姿はなく、三人が到着する前にどこかへ行ったらしい。
探せばすぐに見つかるだろう。
それは学園の、別の部門の人間がやってくれる。
仕事がひとつ減った、というわけだ。
哲彌は意識のない少年の傍らに戻った。
瓦礫に腰を下ろし、答えがないことはわかっていながら、問う。
「きみは、敵か味方か――それとも、どっちでもないのか? いまさらなんのために出てきたんだ、〈鍵の石〉よ」
*
先ほど駆け上がってきた山肌を、今度はそれ以上の速度で駆け下りる。
木のあいだを抜けるよりそれを踏み台にしたほうが楽だ、という伸彦の提案で、ふたりは半ば空を飛ぶように、高い木の枝から枝へと飛び移っていた。
「ねえ、先生」
「なんだい。走りながらしゃべると舌をきゃむよ」
「……緊張感ないですね。ほかの先生から、空気読めないねっていわれません?」
「したたかだとは言われるけどね。なんだい、ぼくの個人的なことを知りたいのかい?」
「まったく興味ありませんし、聞きたくもありません。さっきの男の子のことです。あれ、不破高校の制服ですよね」
「そうだったねえ」
「どうして不破高校の生徒が、精霊石を使ってたんですか。精霊石を使える子どもは学園へくるはずなのに」
天狗のように山を跳ねながらの会話である。
伸彦はスーツの上着をはためかせながら、菜月は長い黒髪をなびかせながら、跳躍を繰り返す。
それでいて、ふたりは呼吸さえ乱していない。
「あるとき、突然精霊石を使えるようになる――そういうこともあるんだよ。きみだって高校からうちへきただろう。高校の入試で、精霊石のチェックに引っかかったからだ。きっと彼はあの博物館を訪ねた瞬間、精霊石の能力に目覚めたんだろう」
「それで、よりにもよってあの精霊石を選んだわけですか」
「選んだというより、あれしかなかったんだろうね。まあ、運命みたいなものさ。恋はするものじゃなくて落ちるもの。恋をする相手が運命のひとなら、だれかが仕掛けた落とし穴に落ちることだって運命だろう」
「あの男の子、敵じゃないんですよね」
「そう思いたいね」
「だったら、学園にくるんですか」
「どうだろうねえ。本人が希望すれば、まあ、断る理由はないね。――なんだい、織笠くん、ずいぶんうれしそうじゃないか。もしかして彼に一目惚れでも」
「着地した枝が腐ってればいいのに」
「腐った枝と健康な枝を見分けられないぼくじゃないよ。まあだけど……」
と伸彦は不意にまじめな表情になり、独り言のように呟いた。
「それほど簡単な話では、ないだろうね」
山肌を滑っていくふたりの眼下に、広大な敷地を持つ不破学園が見えてきた。
「先生、もうひとつ訊いてもいいですか」
「恋人の有無かい? そいつは最高機密だ」
「ストレートに言いますけど、死ねばいいのに」
「困ったなあ。ぼくはあと二百年くらいは生きるつもりなんだ」
「先生なら本当に生きてそうで嫌ですけど。もしあの男の子が敵じゃないとしたら、精霊石を狙って博物館を襲った犯人は別にいるってことですよね。そのひとたちは、どうしたんでしょう」
「博物館には難波先生がいたからね。彼が倒したか、瓦礫の下敷きになったか――あるいは、あの男の子が倒したのか」
「でも、どうしてですか。難波先生が精霊石を守ろうとするのはわかりますけど、あの男の子には別にそんな理由もないし」
「あの少年が精霊石を持っていたとしたら、それを狙う犯人は少年を襲うだろう。命を狙われればだれだって抵抗するさ」
「ただ抵抗して、その犯人に勝ったってことですか――なんの訓練もしていない高校生が、準備万端で襲撃してきた犯罪者に?」
まったくあり得ぬことではない。
ただ、考えにくいことではある。
犯罪者といっても、ただの犯罪者ではないのだ。
おそらくはここ以外の場所も襲撃し、その上生き残った屈強な人物、あるいは集団にちがいない。
彼らはプロの犯罪者であり、ただの高校生だと油断することはあっても、負けるまでそのことに気づかぬほど愚かではないはずだ。
考えられる可能性は、あの少年が本当に強いのだということ――瓦礫の上に立って王のごとく振る舞う姿を見ると、それもうなずける。
しかし今度は逆に、いままで精霊石を使ったことのないただの高校生、という像から遠く離れてしまう。
そのふたつの要素はまったく交わらず、菜月の頭を混乱させていた。
そして答えを求めて訊いた伸彦にしても、返ってくるのは、
「少年の力ではないのかもしれないね」
という謎めいた言葉だけだった。
どういう意味なのか、と訊く前に、ふたりは学園の敷地内へと入る。
門からの入場ではないが、学園には恐ろしい数のセキュリティがある。ふたりが帰ってきたことはすでに学園側も把握している。
「ぼくは学園長先生に報告してくるから、きみは寮で待機しているように」
「寮で待機、ですか」
「状況が変わり次第、また出ることになるかもしれない。お風呂なんかには入らないようにね。ま、湯上がりで髪が濡れたまま、なんてのもオツなもんだけど」
「死にそうになったら教えてくださいね。わたしが楽に殺してあげますから」
「じゃ、二百年後くらいに頼むよ。ぼくより先に死なないようにがんばってもらわなくちゃね」
伸彦は地を蹴り、学園長室へ向かう。
菜月は立ち止まってそれを見送ったあと、それとは正反対の方向にとぼとぼと歩き出した。
寮待機ということは、つまりこれ以上嘴を突っ込むなということだ。
伸彦がしたたかだといわれているのも理解できる。
「なんで、わたしは子どもなんだろ」
大人は真実を知っているのに、子どもは教えてもらえない。
自分で見つけようとしても大人に止められてしまう。
まだ知る必要のないこと、などというものは、本当にあるのだろうか。
いつか知るなら、いま知るのも同じことだと菜月は思う。
ただ、自分の意見は典型的な子どもの意見として受け取られるのだろうとも、思う。
大人が本当のことを知っていて、子どもがなにも知らないなら、そのあいだの自分はなにを知ってるんだろう。
「……いやだな、子どもって」
菜月は、自分に向けたものか大人に向けたものかわからない、どこか釈然としない苛立ちを抱えたまま、任務を終えて寮へ戻った。