第三話 24
24
自分の過去を知った和人は、悩むという以前に焦りを感じた。
自分の命は他人から与えられたものだ。
もし顔も知らない母親が自分に精霊石を与えなかったら、自分は死に、代わりに母親が生き残っていたはずだ。
牧村和人という人間は、母親を殺して、生きのびたのだ。
悩んでいる余裕はない。
とにかく、生きなければと感じた。
与えられた命を絶やさぬよう、生き続けなければと感じた――しかしどうやって生きていけばいいのかが、わからない。
そこに焦りを感じる。
自分の目の前にあるものから逃げず、まっすぐ生きていく。
そのために自分は生かされたのだから、それ以外に選択肢はない。
しかし、生きていくとはどういうことなのか。
呼吸し、流れていく時間を見ていること、それは生きているというのか?
それとも自ら動き、なにかを動かすこと、それを生きているというのか。
考え、悩み、ただそれだけで毎日が過ぎていくだけで生きているといえるのか。
そんなことをぐるぐると考えていた。
答えは出なかった。
ただ、今日、八白と気晴らしの散歩をしたことで、わかったことがある。
いまは明日からの生き方を悩んでいるが、昨日までも、自分は生きていたのだ。
覚えていない子どものころから、記憶に残っているこの町のこと、なにも起こらなかった昨日だって、過ぎてみればなんとかして生きていたのである。
今日という日も、明日から見れば立派に生き抜いた一日になる。
明日は、明後日から見てしっかり生きた日である。
そうやってすこしずつ過去を作っていく、思い出を増やしていくということが、つまり生きていくということではないか、と思えるのだ。
明日ではなく、今日一日をどうやって過ごすか。
そこにどんな思い出を作って、どんな過去にするか。
後悔ばかりが募るような過去にはしたくない。
つらい記憶ばかりの思い出にはしたくない。
うまくはいかなくても、できるだけのことはやったという過去にしたいのだ。
そのために一日を精いっぱいやっていく――だから、目の前にあることから逃げ出さず、立ち向かっていくしかない。
「――これでいいんだよな、おれは」
和人は森のなかを移動しながら独りごちる。
近ごろ、青藍は精霊石のままで、ほとんど人間化していない。
しかし声は聞こえているし、感じていることは伝わっているはずだと和人は思う。
青藍の気持ちまではわからないが、言葉にしなくても、そこまでわかる日がくるかもしれない。
精霊石とはこれから一生付き合っていくのだ。
体内にある精霊石も、青藍も、ゆっくり理解して納得すればいい。
和人は枝から枝へ飛び移り、足下の砂利道に目を落とす。
道を辿っていけば見つかるはずである。
木々の上まで飛び上がると、半蔵門が近づいていることがわかる。
見落とさぬよう、すこし速度を落とす。
その矢先に、ぱっと赤い色が目に入った。
和人は砂利道へ下りる。
「きたか」
と道端に座り込んでいた猛が立ち上がる。
「ちゃんと引き止めといたぜ。こいつらでいいんだろ」
「ああ、ありがとう」
和人は一歩前に出る。
猛は後ろへ下がった。
「久しぶりだな」
と赤い振り袖を着た少女が言った。
「それほどでもないと思うけど」
和人は答える。
最初に会ったときと背格好は同じだが、印象はまるで異なっている。
自分の過去を知ったせいである。
「前に会ったときは、久しぶりとも言わなかっただろ。あのときのほうが久しぶりだった」
「わたしだけがきみのことを覚えていても仕方がない。きみは――過去を知ったんだな。どうやって自分が生きてきたのかを」
「おかげさまで」
「それで、どうだ。忘れていた過去を埋めて、なにか変化はあったか」
「なにもないよ」
和人は断言した。
「いまも昔も、おれは生きているだけだ。それ以上のものはなにもない」
「ふむ」
少女は薄く笑みを浮かべる。
「ではすべてを承知して、わたしの前に立ちはだかるということだな。きみとわたしは、言ってみれば兄妹のようなものだ。時代はちがうが、生き方がよく似ている。わたしもきみと同じように、他人によって生かされ続けている。その期間はきみの比ではないが」
「不老不死、だっけ……そんなことが本当にあるとは思えないけど」
「一度、ここで見せてやろうか――壱」
少女の後ろに立つ老人が懐からなにか取り出した。
少女がそれを受け取る。
無骨な拳銃である。
少女はちいさな手でグリップを握り、銃口を自らのこめかみに当てた。
「精霊使いでも、この距離での被弾なら命はないが――」
「おい――」
止める隙もない。
どん――と低い銃声が鳴る。
発砲の反動で少女の手は大きく弾かれる。
拳銃はそのまま宙を飛んだ。
しかし射撃は正確に済んでいる。
弾は少女の頭を貫通していた。
右のこめかみから撃ち、左のこめかみへ抜けている。
貫通した銃弾は脳漿のようなものとともに飛び出し、木の幹に深く潜り込んで止まった。
少女の身体がゆっくり倒れる。
和人はとっさに駆け出している。
倒れてしまう前に抱きとめ、信じられない気持ちで少女を見下ろした。
右のこめかみには、焦げたあととほとんど出血していない弾痕がある。
弾は本当に貫通している――なにかの方法でそのように見せた、というわけではないのだ。
精霊使いであっても、脳をやられれば、蘇ることはできない。
なんのつもりで自殺を図ったのか――和人は、少女はその瞬間に死んでしまったのだと感じた。
それは間違いだった。
ほんの一、二分のあいだ、少女は動かなかった。
しかし、ふと見ると、こめかみにあったはずの焦げた跡と弾痕がなくなっている。
またもとの白い肌に戻っているのである。
まさか――と和人は反対側のこめかみを見る。
そちらの様子は、弾が飛び出した分、射撃した側よりひどい。
周辺の皮膚がめくれ上がり、出血もある。
しかしその傷が、みるみるうちに塞がっていく。
流れ出た血は時間を巻き戻したように体内へ戻っていく――赤茶けた液体が、意思を持っているかのように動き、体内へ戻っていくのだ。
奇妙、という一言では済ませられない状況だった。
目の前でなにが起こっているのか、和人はもちろん、それを見ていた猛にも理解できない。
ものの五分ほどで傷口は完全に塞がった。
そして、少女はぱっちりと目を開けた。
「不老不死とは、こういうことだ」
少女は、裾をぱっと払って立ち上がった。
「いまのは、傷口がちいさかったから蘇ったわけではない。首を完全に切断されても、胴体を半分に切られても、すぐにそれらは再生する。それが不老不死、だ」
「そんな……精霊使いだっていっても、そんなことがあり得るのか」
「現にこうして目の前にある。それに、かつて不破研究所できみの父親はわたしの体質についてある程度の仮説を持っていたぞ」
「親父が――」
「きみの身の回りであのころを知っているのは、いまではもう二、三人しかいない。大方、あの食えない学園長あたりに聞いたんだろう。きみの父親は優秀な研究員だった。まあ、腹の立つやつではあったが。さて、その血を受け継いだきみは、精霊石の謎を解けるか?」
「精霊石の謎?」
「たとえば、そうだな、精霊石の共鳴現象はなぜ起こるのか? 精霊石が世界最硬とされているのはなぜなのか。精霊石が地球上でもっとも硬い物質でありながら、精霊使いによって自由に変質させられるのはなぜなのか」
「そんなの、おれにわかるわけがない。おれは研究者じゃない」
「しかし精霊使いならだれでも考えることだ。わたしも、そうだった――精霊石とはなにか、ということを知りたくて、いままで生きてきたのだ。そしてその答えは、きみが持っている」
「おれが?」
「精霊石とは、おそらく導くものだ。そしてそれ自体がひとつの生物なんだ。精霊石のひとつひとつが生き物というわけじゃない。精霊石というもの、そのすべてが巨大なひとつの生物なんだよ。あるいはそれが、人類をこの場所へ導いてきた神と呼ばれるものなのかもしれない。それとも人類を破滅させる悪魔なのかもしれないが――なんにしても、精霊石というのは意思を持つひとつの生物だ。きみはだれよりもそのことを知っているだろう」
「どうしておれが――」
あ、と和人は気づく。
意思を持つ精霊石、といえば、思いつくものはひとつしかない。
「青藍か」
少女はこくりとうなずいた。
「きみの持つ精霊石、それこそ、精霊石という生物の意思なんだ。これはわたしの仮説だが、精霊石というのはもともと、巨大なひとつの生物だったにちがいない。それがなにかの理由でばらばらになった。いってみれば、いま精霊使いが持っている精霊石は、巨大な精霊石の肉片だ。ほとんどの精霊石はただの肉片、巨大な精霊石の一欠片にすぎないが、なかには特殊な精霊石もある。たとえば、わたしが体内に取り込んでいる精霊石――これは、おそらく精霊石の命だ。あらゆるものに打ち勝つ強い命そのものだ。それを取り込んだわたしは、その影響を受けて不老不死になった。精霊石の治癒力とは別に、わたしの身体自体が精霊石と化しているんだ。だから、一度ばらばらになっても、再び結合する。精霊石は決して砕けない」
「だったら……青藍は、精霊石の意思だって言いたいのか」
「そうだ。精霊石の意思そのものが結晶化したものだ。だから、世界で唯一、きみの精霊石は意思を持つ。その意思でもって人間に姿を変えることもできるし、武器になることもできる。精霊使いが精霊石を変質させるより、精霊石自身の意思ではるかに高度な変質ができるわけだ」
「でも、もしそうだとしたら、どうなんだよ。青藍が精霊石の意思で、あんたが持ってるものが精霊石の命だとして、それがどうしたんだ。いったいおれになにをさせたいんだ」
「命と意思は、存在の二大要素だ。いままでそれはまったく別の場所にあった。しかしいま、それが手の届く距離にある。それはなぜだと思う?」
「なぜって――」
「精霊石はもともとひとつだった。いままた、ひとつに戻ろうとしているのではないか? 精霊石は自分で歩くことはできないから、わたしやきみという駒を使って、今一度もとの完全な精霊石に戻ろうとしているのではないか」
「精霊石が、ひとつに戻る?」
「わたしはそれが見てみたいんだ」
少女は言った。
夢を見るような表情だった。
「精霊石は人知を越えたものだ。失われたその存在が蘇って、なにを成すのか、わたしはそれを知りたい。精霊石は人類にどう接するだろう。精霊石は人類を滅ぼそうとするかもしれない。それともどん底の人類を救おうとするかもしれない。滅ぶにしても、救うにしても、どんな方法でそれを行うのか、見当もつかないが――」
「精霊石の復活にしか興味がないっていうのか。それなら、いま起こってることはなんなんだ。あんたがはじめたことじゃないのか」
「精霊使いの暴動か。もちろん、無意味にやったことじゃない。むしろこれは流れなんだ。わたしがこのように動き、時代がこのように変化していく。そこに、きみが現れた。もしわたしがこの動きを見せていなかったら、きみの持つ精霊石はいまもあの博物館にあったにちがいない。わたしは時代の流れに従ったんだ。そして時代の流れを作っているのは、おそらく精霊石なんだよ」
「そんなことは、信じられない」
しかし、少女が博物館襲撃を命じたからこそ、和人があの場所で精霊石を得たのは間違いない。
あの日に精霊石を得ていなければ、その後不破学園に転校することもなく、自分の過去を知ることもなかった。
すべては繋がっているのだと和人は感じる。
強力な磁力で結びついているように、見えない力でこの状況が作られている。
「全部、おれとあんたが出会うためだったって言いたいのか。世界中がこんなことになったのも、おれとあんたがこうやって出会うためだって」
「なんのためか、というのは、見方次第で変化する。たとえば、いまここで戦っている精霊使いたちは、本気で革命を信じ、そのために戦っている。世界中の精霊使いにしても同じだ。それに対抗する人間たちも、わたしたちのことなどなにも知らない。自分の意思で、自分の信念で行動していると信じきっている。だれかに操られているということすら感じていない。実際、操っているだれかがいるというわけではない。これも時代の流れだ。みんな、その流れに乗っているだけなんだ。そのなかで、それぞれに意味を探し出しているんだよ。革命のため、祖国のため、家族のため、自分のため――わたしにとっては、精霊石のためだ。その復活以外に目的はない」
「おれは……おれは、それを阻止するためにここにいる。全部終わらせるんだ。あんたに扇動されたこの戦いも、おれが終わらせる」
「どうやって? ひとりずつ倒していくか。人間側も、精霊使いも、死ぬまで戦うだろう。それを止めようと思うなら、両者とも殺し尽くすしかない」
「必要ならそうするさ」
「そのあとでなにを思うんだ。正義を貫いたと自己陶酔するのか? たしかに、革命は成功しないかもしれない。いままでと同じ日常が訪れるかもしれない。きみにとってはそれで幸せだろうが、ほかのだれかにとってはまた地獄のような日々がはじまることを意味している。革命の成功によって幸福を得る人間もいる。その逆も、もちろんいる。どうしてきみがその選択をするんだ。きみひとりの幸せのために、ほかのすべての幸せを捨てろというのか」
「そんなことを言ってるんじゃない。この戦いには意味がないって言ってるんだ。革命なんて、ただの言い訳だろう。あんたは精霊石のことしか考えてない。そんな人間に操られて殺し合うなんて、ばかみたいだ。放っておけばこの先そんな人間が増えていく。おれはそれを止めたい」
「ばかみたいだというなら、きみこそそうだろう。わたしが裏で扇動したからといって、世界中の精霊使いがわたしの思うように動くか? 彼らは、自分の意思で考えて動いている。わたしはそのきっかけを与えただけだ。どのように行動するのか決めたのは彼らだ。自分の未来を自分で決めようとしている彼らを、きみは一方的に愚かだといって止めようとしているんだ」
両者とも、感情をむき出しにしてにらみ合う。
「人間は利己的なものだ。結局は、自分自身の利益しか考えていない」
と少女がいえば、
「それはちがう。他人の幸福だって考えられる」
と和人が応える。
「他人の幸福など、どうしてわかる? 人間はだれでも自分自身のことしか感じられない。他人が幸福だろうなどというのは単なる妄想だ」
「それでも他人の幸福を願うのが人間じゃないのか。わからないけど、そうあってほしいと思うんだろう」
「そして他人を救った気になるわけだ。他人を救った自分に満足し、自分の幸福に浸るんだろう。きみの言うことは、すべてきみ自身の幸福に裏打ちされている。こうあったほうが幸せだ、自分も幸せなのだから他人も幸せにちがいない、という子どものような理屈で物事を考えるのはよせ」
「子どもみたいな理屈でも、他人のことをすこしも考えないよりはマシだろ。おれは、せめて手の届く範囲のひとには幸せでいてほしいと思う。あんたにも、だ」
「それなら、わたしに協力しろ」
少女は言った。
「精霊石の復活がわたしの望みだ」
「それは――」
「できないだろう? 自分の幸福とわたしの幸福がかみ合わないせいだ。そしてきみは、自分の幸福を優先する」
「どうして精霊石を復活させたいんだ。その先を見て、どうするんだよ」
「どうするというわけでもないよ。ただの好奇心だ。これだけ長く生きていると、未知のものがなくなっていく。そのなかで精霊石は最後の謎だ。それさえわかれば、あとはどうなってもいい。まだ幼いきみにはわからないだろうが――」
「……精霊石は、どうやって復活させるんだ」
「さあ、正確な方法はわからない。いろいろ試してみるしかないだろう。たとえば、すべての精霊石を手元に集めるとか」
「すべての精霊石を? そんなこと、できるのか」
「力尽くでもやるしかない。わたしには無限の時間があるし、その力もある。むずかしくはないよ。それに、もしこの場所で人間と精霊使いがお互いにつぶし合えば、残った精霊石を回収するのは簡単なことだ」
「それでいいのか――仮にも仲間だろ」
「わたしは一度も仲間だと思ったことはないよ」
和人は唇を噛んだ。
怒りというよりは、悔しいのだ。
「昔は、親父とかお袋といっしょに研究をしてたって聞いたんだ」
ぽつりと和人は呟く。
「だから、おれはそんなに悪いやつじゃないんだって思ってた」
「あの研究所にいたのは、精霊石について知るためだ。いいも悪いもない」
「おれはあんたを止める。戦いも全部止めさせる。精霊石の復活なんて、おれにはどうでもいい。いま生きているひとたちのほうが大切だ」
「止めるといっても、きみひとりでは力不足だろう。精霊使いとして過ごした時間は、きみの百倍以上だ」
「でも止めるんだ。それしかない」
「そうか――きみはキーストーンを持っているから、できれば死なせたくはないが、仕方ない」
少女は帯に手を入れた。
そこからちいさな懐刀を取り出す。
精霊石を変質させたものではない。
ただの刃物である。
刃渡りは十五センチほどで、鞘を抜くと、ぎらりと光る。
和人も距離をとった。
手には日本刀のような剣が握られている。
装飾はないが、それ自体が光を放っているような、鋭利で美しい剣である。
ふたりは五メートルほど離れて立つ。
感情的なにらみ合いはなく、お互いに相手の出方を窺うような、冷静な目つきになっている。
「体内に取り込んだ精霊石は変質させられないのが唯一の欠点だな」
少女が呟く。
「正面から打ち合えばむずかしいが、まあ、そんな展開にもならないだろう」
ふと少女が消える。
常人の目には、消失したようにしか見えない。
少女は一度後ろへ飛び、そこにあった木を使って跳躍し、和人の背後に回り込んだのである。
動きづらい着物を着ていても、恐ろしい速さだった。
しかし和人も反応している。
背後に剣を回して、それを軸に身体を回転させる。
少女は懐刀を引いて距離をとった。
「勘はいい」
と少女は呟く。
「ただ、動きが鈍い。どこか怪我でもしているのか」
「もう治ってる」
「気分はよくても、身体はどうか」
再び少女が飛ぶ。
和人の頭上である。
真上から刀を振るう。
和人も剣先を真上に向けた。
少女は、その剣先にひょいと足をついた。
常人離れしたバランス感覚である。
そこから、少女は和人を見下ろす。
「右腕の動きが悪い」
少女は、持っていた懐刀を真下に落とした。
和人は剣を振ったが、少女が乗っているせいで、動かない。
「ぐっ――」
鋭い刀の先端が、和人の肩にすっと突き刺さった。
少女は飛んで距離を取る。
和人は刀を引き抜き、森のなかへ放り投げる。
「これであんたの武器はなくなっただろう」
「この程度の相手は、武器などなくても充分だ」
「言ってろ――」
今度は和人が距離を詰める。
ぶんと剣が風を切った。
少女は後ろへかわす。
すかさず和人も追う。
と、踵を返して和人へ向かって飛んだ。
ちいさな身体は和人の腕のすり抜け、懐に入り込む。
少女は前の攻撃で怪我をした和人の右肩に手を当てる。
「があっ――」
さほど強く触れたようにも見えないが、和人はその場に膝を突く。
そのあいだに少女は森のなかへ入り、短刀を拾う。
しかしそれは鞘に入れて帯のなかへ戻した。
態度でも、和人相手なら素手で充分といわんがばかりである。
和人は荒く呼吸しながら立ち上がる。
「こんな攻撃、何発喰らったっておれは死なねえぞ。殺したいなら一撃でやれよ」
「わたしはいつでもその一撃を狙えるが、きみはどうする? たとえ一撃で首を刈り取ってもわたしは死なないよ」
「戦いながら考えるさ」
和人が飛ぶ。
真上である。
木の枝に飛び乗り、そこから少女目がけて銃弾のような勢いで落下する。
少女は躱さない。
真正面から受ける。
和人は剣先を突き出す。
常人なら身体ごと貫かれるところだが、少女は片手を上げて、それを制した。
少女に向かって落下していた和人の動きが、空中でぴたりと止まった。
剣先は少女の鼻の先数センチの位置で止まっている。
少女は片手を上げ、人差し指と中指の二本だけで剣を挟み込み、すべての動きを殺したのである。
「ばかな――」
「言っただろう。精霊使いとして生きた年月がちがうと。きみは戦い方が下手なんだ。すべての攻撃に全力で向かっては、すぐに見切られる。敵の身体に当てる最後の一撃だけに力を込めればいい。同じように、片手で敵の攻撃を防ぐときは、その片手にだけ力を入れるんだ。全身を力ませても意味がない」
少女が軽く手を動かすと、和人の身体ごとぶんと振り回される。
和人は剣を精霊石に戻し、少女の手から逃れた。
力の差は圧倒的である。
同時に、奇妙な戦いでもあった。
それほど圧倒的な力の差がありながら、少女は決定的な攻撃を繰り出そうとはしない。
あくまで和人の出方を見ている。
まるで師匠が弟子に稽古をつけているような戦いである。
「きみの実力は、そんなものではあるまい」
少女は言った。
「学園を守ったときは修羅のようだったと聞いている。気分によってうまく戦えないのか?」
「全力でやってる――手なんか抜いてない」
和人は地面を蹴る。
が、その瞬間には、少女はすでに和人の背後へ回り込んでいる。
「遅い」
少女は和人の背中を蹴りつけ、その肩にひょいと飛び乗る。
「この程度でよく戦おうと思うものだ。自分の命が惜しくないのか。この程度でだれに勝てると思った?」
「うるさい!」
和人は少女を振り払い、後ろへ飛んで距離をとった。
しかし背中に、とん、となにかが触れた。
振り返ると、それは先回りしている少女なのだ。
和人の動きが遅いわけでは決してない――事実、端から見ている猛には、和人の動きさえ目で追えない。
それをはるかに上回る少女が速すぎるのである。
和人はいままで経験したことのない気持ちを感じていた。
だれと戦ったときにも感じたことのない、奇妙な気分である。
斬り込もうと一歩踏み込むとき、心臓が行くなと呼び止めるような――あるいは攻撃を躱すとき、充分に見切ったと思った距離よりさらに一歩下がらなければと感じてしまうような、なんともいえない恐ろしさがあるのだ。
それを、人間は臆病と呼ぶ。
和人は恐れているのである。
桁違いの強さを持つ少女には勝てないかもしれないと、心のどこかで感じているのだ。
その臆病は、余計に和人の足を鈍らせる。
一歩の踏み込みが遅い。
そこにつけ込まれ、三度傷のある右肩を蹴りつけられる。
起き上がろうとしたところを迫られて、不用意に後ろへ飛ぶ。
そこには木がある。
背中を打ちつけ、短刀が耳の数センチ横に突き刺さる。
和人はきらりと光る短刀の刀身を見て、ほっとした。
当たらなくてよかったと、安堵したのである。
とても戦闘中に感じるものではない。
すでに和人のなかで、戦意や敵愾心は消滅していた。
少女もそれを見てとっている。
「話にならないな」
短刀を抜くと、くるりと踵を返し、和人に背を向けた。
かと思うと、短刀を指のあいだに挟み、すっと投げた。
和人に向かって、ではない。
戦いを見ている猛に向かって投げたのである。
猛は、自分の方向へ飛んでくる短刀には気づいたが、回避などできるはずもない。
短刀の鋭さと勢いがあれば、人間の頭蓋骨など悠々と突き破るだろう。
狙いも猛の眉間に定まっていた。
少女は短刀の行く先を見て、にい、と笑う。
「そうだ、それでいい」
少女と猛のあいだに、いつの間にか和人が割り込んでいる。
短刀は和人の手を貫通していた。
しかしそこで止まっている。
和人は手に突き刺さった短刀を抜き、少女をにらむ。
「いまの速さはよかった」
「どうして他人を巻き込むんだ」
「きみが弱いからだ。こうでもしなければ、全力も出せないだろう。あまりにきみが退屈な動きをしていると、わたしの攻撃のいくらかは他人へ向いてしまうかもしれないよ」
「させるか」
和人から距離を詰める。
間合いは広いが、小回りの利かない剣は使わない。
素手でいく。
背のちいさい少女には、手よりも足の攻撃のほうが効果的である。
ロー、ハイと振り分けて攻撃していく。
少女は腕を使ってうまく攻撃を殺しながら、ゆっくりと後退する。
後退していく前には、先ほど和人が捨てた短刀が落ちている。
少女は下駄の歯でもって、短刀の刀身を強く踏んだ。
反動で短刀が宙に飛び上がる。
ふたりのあいだで、短刀が回転しながら舞った。
その柄を掴み、少女は和人の攻撃に合わせて剣先を突き出す。
和人は危ないところで攻撃を止め、距離を取る。
「さっきよりはずっと動きがよくなった。ただ、まだまだ遅いぞ。きみが持っている精霊石はひとつか?」
「なんだって?」
「ふたつ持っているなら、ふたつ使えばいい。きみならできるはずだ」
「ふたつ――」
考えているひまはない。
少女が距離を詰める。
攻撃の基本は短刀による突きである。
それを生かすために足下を動かし、手を使い、相手を攪乱する。
足に気をとられていると、いつの間にか短刀の先が目の前に迫っている。
慌てて回避すると、今度はそこを手で掴まれ、バランスを崩される。
隙をついて反撃しなければならないが、そのひまをまったく与えてくれない。
和人はじりじりと後ろへ下がっていたが、意を決して前へ出る。
間合いが変わったことで一瞬攻撃が途切れた。
その瞬間に、和人は剣を具現化させ、大きく振るっている。
「甘い」
少女は刀身をひょいと掴むと、和人の身体ごと投げ飛ばした。
和人は空中で姿勢を変え、背後の木を使ってバネのように跳ねる。
身体をできるだけまっすぐ伸ばし、隙をすくなくしたはずだった。
少女は紙一重で剣先を躱し、そのまま和人の腕をとる。
少女の頭を中心に、和人がぐるりと回転させられ、地面に叩きつけられた。
少女には、地面に叩きつけられた和人にとどめを刺すこともできたはずだった。
しかしそうはしなかった。
短刀を、和人ではなく、猛に投げる。
和人は跳ね起きてその軌道に飛び込む。
払い落とすことも、手で防ぐこともできなかった。
身体ごと割り込むのが精いっぱいである。
背中に短刀が突き刺さる瞬間、和人は歯を食いしばった。
ちょうど背中の中央あたりだった。
背骨は避けたのか、その分だけ刃が深々と突き刺さり、木製の柄だけが背中から生えている。
和人は膝をつきかけたが、なんとか踏みとどまる。
そのあいだに少女が近づき、背中から短刀を抜いた。
「そのまま戦っても、到底わたしには敵わない。これでわかっただろう。ひとつの精霊石の力では無理なんだ。ふたつの精霊石を使わなければ――」
ふたつの精霊石――和人には少女の声も聞こえていたが、意識は別のところにあった。
どこか、広々とした空間であった。
窓はひとつもない。
天井は高く、照明器具のようなものはなかった。
それでいて、部屋のなかは恐ろしく明るい。
隅々まで光が行き渡り、壁や床が白く輝いている。
和人はそこに立っていた。
知った場所ではない。
ただ、不安はなかった。
よく知っている場所に似ているような、慣れ親しんだ匂いのようなものを感じる。
ふと、和人は自分の身体を見下ろした。
いくつかしていたはずの怪我は完治している。
服の汚れもなくなっていた。
白いシャツに、紺色のズボン――不破学園の制服である。
なるほど、と和人は納得した。
納得した瞬間に、目の前にひとりの女が現れている。
腰のあたりまである長い黒髪に、高い身長、切れ長の目が和人を見ている。
青藍である。
青藍も、修道女のような制服を着ている。
「やっとおれもここまできたわけだ」
和人はにっと笑った。
「学園長の話では、十年くらい前におれの母さんもここにきたんだろ」
「ああ――ただ、彼女はわたしが見えなかった」
青藍は言った。
「彼女はこの空間を見ただけだった。こうしてわたしの姿を見たのは、何百年か、何千年かのうちに主がはじめてだ」
「それは光栄だな。まあ、おれの場合はこんなところにこなくてもおまえの姿を見てたわけだけど――精霊石のなかって、こんなふうになってるのか」
和人はあたりを見回す。
白いという以外、なんの印象も持てない。
過剰な清潔さ、過剰な簡素さが見てとれるが、それはそのまま、目の前にいる青藍から感じることでもある。
ここは青藍のなかなのだ。
夢のようなものである。
だから和人は、自分の怪我が治っていることも、服が元どおりになっていることも疑問には思わない。
そういうものだ、と理解している。
「ずっとここにいたのか」
「ずっとここにいた」
「ひとりで?」
「ひとりで」
「そうか――寂しかったんだろうな」
「昔のことだ」
青藍はやわらかに笑う。
「いまは、寂しくはない」
「こんな場所にいたってわかってたら、もっとかまってやったのにな」
「本当に? あまり変わらないと思うが」
「むう……まあ、そうかもしれないけどさ。気分的に、もうちょっとやさしく接してたかもしれないだろ」
「主ははじめから優しかった」
「そう言われると、照れる」
和人は頭を掻く。
それからひとつ息をついて、
「で――」
と言った。
「うむ」
と青藍もうなずく。
「状況はだいたいわかってると思うけど、いま、結構負けてるんだ」
「情けないな」
「わかってるさ。おれも負けたいわけじゃない。ただ、どうもな」
「やりづらい、か」
「ご名答。悩んでるってほどじゃない。あいつを野放しにはしておけない。でも、よくわかんねえんだよ。あいつはずっとひとりで生きてきたわけだろ。何百年も、ひとりで生きてきたんだ。もし自分がそうなったらって考えたら、ぞっとする」
「同情で剣が鈍るか」
「おれはあいつを助けたいと思う。それも本心だ。でも、ほかのみんなを守るためには、あいつを止めなきゃいけない。それもわかってる。どっちも選ぶなんてことはできないんだ。百人を助けるために、ひとりを見捨てる――そうするしかないってわかってるんだけどな。結局は、おれが弱いせいだ。おれの意思が弱いんだ。ひとりを見捨てても、本当にその選択が正しいのか自信が持てない。二度と取り返しのつかない間違いをしてしまう気がする」
「主の心は、言葉よりもはっきりと伝わる。信念を貫くために、信念にもとることをしなければならない……そこまでの信念が存在するかどうか、それはわたしにもわからない。他人を犠牲して存在すべき生はあるか? しかし、そうして存在する生はある。主も、そうだ」
「ああ、わかってる。おれは母さんの犠牲があったから、いま生きている。おれはそこまでの人間か?」
「人間の価値などわかるものではない。ただ、主の母親は、自分よりも主に生きていてほしいと願った。主はどうだ。その選択を、いま決定しなければならない。だれに比べて、だれに生きていてほしいと願う?」
「それが酷だって言ってるんだ。理想は、みんなで生きていくことだろ。それが無理だってことはわかってる。だからって、おれの手で選択しなくちゃいけないのか。母さんは、自分の命だからよかった。自分の命の価値は自分で決められる。おれが決めようとしてるのは他人の命だ。そんな権利がおれにあるのか?」
「では、はじめから無関係に生きていればよかったんだ。周囲がどうなろうと知ったことではないとそっぽを向いて生きていれば、こんな選択をする必要はない。主は自ら世界に関わっていった。その責任がある」
「でも――たとえば、おれがだれかを殺して、別のだれかを生かしたとするだろ。そしたら、生かしただれかは笑ってくれるかな。おれが殺した命を強制的に背負わされて、それでも笑ってくれるか? ただ本人も望んでいない重荷を背負わせるだけかもしれない」
「その責任は、主がとるべきだ。本人に重荷を背負わせても生きていてほしいと願ったから、生かしたんだろう。どんな形でもいいから生きていてほしいと望んだから、生かしたんだろう」
「それは――そうだ。結局おれは自分勝手なだけか。あいつは気に入ってるから生かしておきたい、あいつは気に入らないから殺してしまえ、って自分勝手に振る舞ってるだけの非情なやつか」
「本質はそのとおりだ。さて、それに気づいた主は、謙虚な人間に生まれ変わるか? 自分の意思を覆い隠して、世界に対して閉じこもって、だれにも影響を与えず、ただそれを眺めるだけの存在になるか? 目の前で友人が死んでいっても、それが世界の流れだと見ていられるか?」
「そんなことはできない」
「では傍若無人の暴君と呼ばれても、自分の意思を貫くか。それはつらい生き方だ。大切な友人がその生き方を理解してくれるとは限らない。それでも貫くか?」
「……ああ、貫くさ」
「その誓いを立てるなら、主は孤独ではない」
青藍は和人の手を握った。
「主がどんな選択をしても、わたしは主とともにいる」
「青藍――力を貸してくれるか?」
「その一言を待っていた」
――ふと和人は目を覚ました。
何秒間夢のなかにいたのか定かではない。
しかし背中と肩の傷は完全に塞がっている。
服は、さすがに血で汚れたままであった。
和人はあたりを見回し、少女を見つける。
「ふん――」
と少女はちいさく鼻を鳴らした。
「ようやく精霊石を使いこなせるようになったか」
「おかげさまで――もう、だれにも負けねえ」
「では試してみよう」
少女が地面を蹴る。
瞬きのうちに和人の背後に回り込む。
そこから低く足払いを繰り出すが、和人は振り返りもせず、軽く上へ飛んで躱した。
そこへ短刀が飛ぶ。
和人はしっかりとそれをつかみ取り、軽く指先を当てただけで刃をへし折った。
「なるほど」
少女はひとつうなずいて、猛攻撃をはじめた。
ちいさな身体から手や足が刃物のような鋭さで繰り出される。
一撃一撃が重たく、急所を的確に狙う。
和人は落ち着いて目を見開き、拳をたたき落とし、足を防いで反撃の隙を窺う。
少女は低い位置から和人の足を払った。
それが浅い。
すかさず和人は少女の身体を蹴りつけた。
少女は身体と足のあいだに腕を入れて防ぐ――が、それでは勢いを殺しきれず、ちいさな身体が吹き飛ぶ。
空中でくるりと回転し、少女は着地した。
「スピードも力も先ほどまでとは大きくちがうな。それがふたつの精霊石を同時に活性化させた実力か」
「まだまだ、もっといけるよ」
「ふむ――それで、どうやってわたしを殺すつもりだ。殺しても殺しても、何度殺し尽くしてもわたしは死にきれない。それにわたしを殺さないかぎり、わたしを止めることはできない」
「どうやって止めるのかは、いま考える。脳みそもふたつ分だ。きっと答えが見つかる」
「その前に足下をすくわれなければいいが」
ふたりは同時に飛ぶ。
空中で交差し、着地した瞬間に目まぐるしい攻防がはじまる。
お互い全力の、攻撃と防御が一瞬で入れ替わるすさまじい戦いだった。
ふたつの精霊石を同時に使い、ほかの精霊使いより過剰な力の供給を受けている和人も、その速さと強さにしっかりついていく少女も、もはや精霊使いからも大きく逸脱した力を持っている。
しかし和人には、攻防に集中しながらも考える余裕があった。
不老不死の少女をどのように止めるか――つまり、どのようにすれば完全に殺しきることができるか。
とにかくひたすら殺し続ける……いつかは不老不死の回復力を上回れるかもしれない。
しかしそれには何時間、何年かかるかわからない。
では、殺さず、動きだけ止めるのはどうか。
手足を縛るなりなんなりして動きを止めれば、殺したことと同義になる。
問題は、素手で鉄すら変形させる精霊使いの動きを止められるものとはなにか、という点である。
――どうすべきだと思う?
和人が聞く。
「方法がひとつある」
と青藍が答える。
「精霊使いといえど、精霊石がなければ人間と変わらない。精霊使いとしての能力を奪いたいなら、まずは精霊石を奪えばいい」
――でも相手は精霊石を体内に取り込んでるんだ。どうやって奪う?
「体内のどこかにある、というだけだ。それを見つけ出すことは、いまの主ならできる。精霊石を感じろ」
感じろっていわれてもな、と和人は心中でぼやく。
手足は、それどころではないのである。
気を抜くと少女に攻め込まれる。
かといって無理をして攻め込んでも、少女の不死身を打ち破ることはできない。
和人はすっと目を細めた。
普段より感覚は数倍鋭くなっている。
すこし離れた木の陰に隠れている猛の息づかいも、風でそよぐ木々の動きも見えている。
そういうものに意識を集中させ、さらに感覚を研ぎ澄ます。
いくら感覚が鋭くとも、透視能力があるわけではない。
少女の体内のどこに精霊石があるのか、はっきりとはわからない。
ただ、感じるものがある。
息づかいや鼓動のようなものである。
少女のなかに、脈打つものがふたつあるのだ。
ひとつは少女自身の心臓にちがいない。
もうひとつ、そのすこし下のあたりに、別のものがある。
和人は、それでもためらった。
やるしかないのだ、と自分に言い聞かせる。
言い聞かせているあいだは、実際に行動せずに済む。
しかしいつかは行動しなければならない。
そのいつかとは、いまなのだ。
和人は、少女の腕を払った。
「――すまん」
がら空きになった胸部に、手を突き立てる。
少女の動きが止まった。
「なるほど――考えたな」
和人の手は、少女の体内に深く入り込んでいる。
肋骨を砕き、その奥の心臓さえ破りながら、少女の体内にある精霊石をつかみ取る。
「それで、精霊石をわたしから遠ざけるか」
少女の口の端から、深紅の液体が溢れて流れる。
「たしかにしばらくは有効だろう。しかし精霊石は持ち主を選ぶ。必ずわたしの精霊石はわたしに戻る。そうすればまたわたしは蘇る。――わたしに死はない。永遠に死ぬことのない出来損ないの人間、人間にすらなれない化け物が、わたしだ」
「だから、もう終わらせよう」
和人は、精霊石を握る手に力を込めた。
少女の表情がさっと変わる。
「まさか、そのまま精霊石を砕くつもりか。不可能だ。精霊石は絶対に砕けない」
「やってみなくちゃわからない。それに、精霊石自身が砕けることを望んでいたとしたら?」
「精霊石自身が――」
「ずっとひとりで生きてきたのは、精霊石を取り込んだあんただけじゃない。精霊石だってずっとひとりだった。願いは、きっと同じだろう」
「――そうか」
少女はふと、表情を和らげた。
年相応の、明るい笑みだった。
「これで、やっと死ねるか」
その一言にどれだけの重みがあるのか――和人は、本当にこの方法しかないのかと、いまになって自問する。
この少女を笑顔で死なせてやる以外に救う方法はなかったのか――。
「しかし、本当にいいのか?」
少女は言った。
「わたしの精霊石は、ただの精霊石ではない。それを砕くという意味は、わかっているんだろうな」
「わかってるよ……だから、悩んだ」
「これがすべての結末だとしたら、皮肉なものだ。結局いちばん損な役回りをしたのはきみだったな。愛する精霊石まで、自分の手で殺さなければならない。それに、精霊石を壊すということは、きみ自身にも無関係ではない」
「ああ――でも、こうまでなったんだ。おれも付き合うよ」
「ありがたい――もうひとりは……」
少女は和人に身を寄せた。
それから和人を見上げ、くすりと笑う。
「せめてもう十歳、年をとっていたら様にもなっただろうに」
「そればっかりは仕方ないさ」
和人は、握っていた手に力を込めた。
なによりも強固で、だれよりも長くひとりで生き続けた精霊石に、一筋の罅が入る。
そこから精霊石一面に罅が広がり、やがて――それはばらばらになって砕け散った。
ひとつの時代が終わった瞬間だった