第三話 23
23
皇居正門を入ると、さすがに雰囲気が変わる。
正門を入ってすこし行くとあたりは森になっている。
首都のど真ん中とは思えないほど木々が生い茂り、土の地面は肥沃で、至るところで蝉が鳴いていた。
柿野猛はなし崩し的にこの深みまで入り込んだことを、ほんのすこし後悔しはじめていた。
後戻りできる場所はとうに過ぎている。
皇居へ渡る橋を越えたとき、すべての運命を精霊使いたちに託したのだ。
その彼らはいま、木々のあいだを飛び回って戦っている。
それに銃声が応える。
自衛隊は皇居の森に潜み、精霊使いたちを待ち受けている。
東京のど真ん中で文字どおりのゲリラ戦――ただの記者たる猛に、出る幕はない。
ただひたすらカメラのシャッターを切る。
偶然なにかが写り込むのを期待する以外に方法はない。
カメラには収まっていないが、猛は自分の目でこれまでの戦いぶりを見てきた。
はじめに神宮球場前で出会った精霊使いたちは、素人だった。
不用意に国会議事堂を襲撃し、そのほとんどが自衛隊によって射殺された。
猛はそのときはじめてひとが死ぬのを見た。
それも自衛隊が、そのあたりにたむろしている若者にしか見えない人間たちをためらいなく射殺する様子を見たのである。
なにも感じなかったわけではない。
しかしそれは恐怖ではなかった。
あの連中が殺されるのは仕方がない、と思っているところもある。
結局、革命という大義名分を背負って戦うには、弱すぎたのだ。
それがすべての原因である。
彼らが射殺されたあと、猛は一度議事堂の敷地を出て安全な場所まで逃げた。
生き残った何人かの精霊使いもいっしょだった。
ただ、猛は議事堂の様子を見るために、踵を返した。
仲間たちが殺された仇をとる、と言い出す精霊使いはひとりもいなかった。
みな、敵いそうにないことを知ると、そのままどこかへ消えていった。
そうしてひとりで議事堂に戻った猛は、それを見たのだ。
精霊使いの集団である。
ただし、素人ではない。
見るからに動きがちがう。
たった一蹴りで何メートルも跳躍し、音速以上の速度ではじき出されるライフルの弾さえかわしてみせる。
あの重武装の自衛隊が、手も足も出ずに撤退する様子をまざまざと見せつけられたのである。
猛は彼らについていくことを、その場で決めた。
その猛について、精霊使いたちは気づいているにちがいないが、無害だと判断したのか、攻撃の手が猛に向くことはなかった。
精霊使いたちはものの数分で国会議事堂を占領した。
続いて、総理大臣官邸を占拠するまで時間はかからなかった。
自衛隊は防戦一方である。
ただ逃げ、時折足止めのために銃を撃ち、また逃げる。
そうして霞ヶ関での戦闘は皇居に持ち越された。
彼らの通ったあとには死体が残る。
猛は死体を辿って皇居に辿り着き、精霊使いたちが正門を突破するのを待って、そのあとに続いたのだった。
そしていま――不可侵の森のなかである。
猛も、堂々と歩いていては狙われることくらいは理解している。
自衛隊のほうでは、精霊使いについて回る猛を敵と認識しているにちがいない。
木の幹から木の幹へと渡り歩く。
音にも敏感になる。
どこかで銃声が鳴ると、たとえそれが遠く離れていてもびくりとする。
精霊使いたちは本気でこの国を乗っ取るつもりらしい。
恐ろしい勢いで森のなかを攻め上がり、隠れながら進む猛からはあっという間に見えなくなった。
それにしっかり対応する自衛隊もまた恐ろしい。
一歩引いて見ている猛には、精霊使いたちはむしろ皇居におびき出されたのではないかと思えてくる。
ここは、壕に囲まれた孤島である。
ひとり逃さず叩くつもりなら、これ以上の場所はない。
猛は奥へ進む。
皇居の地理はわからないが、とにかく精霊使いたちが進んだらしい方向へ向かう。
しばらく歩いた。
ただ歩くだけでも、そこに銃を持った兵隊が潜んでいるのではないかと思うと、精神力を消耗する。
目の前がすこし開けた。
よく手入れされた砂利道が現れ、その先に門がある。
半蔵門らしい。
外側からは見たこともあるが、内側からそれを見るのは当然はじめてのことだった。
左右は塀になっている。
その向こうには壕があるのだろう。
門は当然閉ざされ、その向こうには進めない。
塀を乗り越えることもできないから、猛は踵を返した。
しかしすぐ、
「あ――」
と思わず声を上げ、立ち止まる。
いつ現れたのか――知らぬ間に、四、五メートル後方に兵隊がひとり立っていた。
砂利道にもかかわらず、足音も聞いていない。
自衛隊員はライフルを構えている。
当然、猛を狙っているのである。
猛は両手を頭上に伸ばす。
「おれは、精霊使いじゃない。外で取材をしていたら、ここに迷いこんで……」
これほど説得力のない言い訳も珍しい、と猛は自分で言っていておかしくなる。
この状況では、撃たれても仕方ない。
猛は観念して、開き直ったように相手を観察した。
自衛隊員だが、迷彩服ではない。
全身黒い服である。
なにより意外なのは、顔を隠すためにガスマスクのようなものをつけていることであった。
自衛隊員というより、どこかの特殊部隊のようだ。
実際そういう役割で訓練を積んでいるにちがいない。
ライフルを構える姿は堂に入っているし、ほかの自衛官とはちがい、それで射殺することをためらってない。
猛は一度その様子を見ている。
殺された若い精霊使いたちと同じように自分も殺されるのだろうと思う。
自分を殺す相手の素性くらいは知っておきたいが、どれだけ観察しても、そこに個人を匂わせるようなものはなにもなかった。
むしろ徹底してそれを覆い隠し、ひとりの兵隊に仕上げられているのだ。
だったら――おれはだれに殺されたことになるんだ?
目の前で銃を構えている男か。
それを命じた上官か。
さらに上の大臣、ひいては国そのものか。
殺されるように仕向けた自分か。
対外的には、事故として処理されるにちがいない。
民間人が戦場に迷いこんだときは、大抵そうなる。
猛は、惠のことを考えた。
事故で納得するようなやつならいいが、もしかしたら国に噛みついていくかもしれない。
敵がだれでもひるまないのは、兄妹そろって同じだろうから。
猛は上げていた両腕を降ろした。
相手の兵隊はそれに驚いたようだった。
「おれは、殺されてもいいんだ」
猛は言った。
「ただ、殺される前に聞いておきたい。あんたは、この国の未来はどうなると思う? このまま精霊使いが勝つか、それとも数にものを言わせて人間が勝つか。人間が勝てば、前代未聞の大事件にはちがいないが、半年もすりゃみんなこの日を忘れちまう。精霊使いが勝てば、この日は記念すべき日になる。新しい建国記念日になるかもな。いまは、どっちに転んでもおかしくない。あんたはどっちに転ぶと思う?」
兵隊は答えない。
銃口も動かない。
猛は、その背後にさっと黒い影が下りるのを見た。
どん、と重たい打撃音が響く。
ゆっくり兵隊が前のめりになって倒れた。
その後ろに、新しい人間が立っている。
どうも精霊使いらしい。
格好を見れば、学生であることがわかる。
ここを襲撃したときはそんな精霊使いがいるようには見えなかったが、目にも止まらぬ速さで兵隊を始末したことを思うと、相当の手練れにちがいない。
「どうして民間人がこんなところにいるんだ」
現れた精霊使いは言った。
「迷子になるには、深くまで入りすぎだろう」
「迷子じゃねえ。取材さ」
猛はカメラを見せる。
「精霊使いについて入ってきたんだ。おまえさんは、ずいぶん若いが、精霊使いのひとりか」
「まあ、そんなところだけど――」
若い精霊使いは困ったように頭を掻く。
「早くここを出たほうがいいよ。そうじゃないと、さっきみたいに撃たれる。向こうは容赦しないと思う」
「わかってる。助けてくれてありがとな。でなきゃ、いまごろ頭を撃ち抜かれてたよ。おまえさん、名前は?」
「牧村和人」
ためらいなく答えた。
「おれは柿野猛だ」
猛も本名で答える。
「これもなにかの縁だ。よろしく頼む」
「足手まといなんだけどなあ……」
「若いくせにはっきり言うやつだ」
「本当なら力尽くでも外に逃がしたいんだけど、それはもう諦めたほうがいい」
「ほう、どうして?」
「橋が落ちた」
「なんだって?」
「北側はまだ大丈夫だけど、南側の橋は全部落ちてる。だからここから抜けるには北側からしかないけど、そっちも近いうちに落とされるだろうし、人間が歩いていくにはちょっと時間がかかりすぎる」
「橋を落としたのは、どっちだ。自衛隊か?」
「精霊使いだよ。爆発物は使ってなかった。単純に、力で壊したんだ。そんなことができるのは精霊使いしかいない」
「どうして精霊使いが橋を落とすんだ。自分で自分を閉じ込めて、なんの得がある?」
「閉じ込められたのは自衛隊のほうさ。さっききたばっかりで状況はよくわかってないけど、たぶん精霊使いのほうは、いまの戦力なら充分に勝てると思ったんだ。橋を落とせば、大規模な増援はしばらくこない。そのうちに全部叩くつもりだ」
「しかし、壕の外を囲まれたら、どうする。籠城するつもりか?」
「どうかな。でも精霊使いなら、ここの壕くらいは飛び越えられるし」
「おいおい、ここの壕は十メートル以上あるぜ」
「うまくやれば、五十メートルくらいは飛べるよ。とくに訓練を積んでる精霊使いなら。おれだってさっき壕を飛び越えてきたんだし」
「ほんとかよ――精霊使いは、そこまですごいのか」
「人間がまともに戦って勝てるような相手じゃないんだ。だから、こんな戦いは終わらせないといけない」
牧村和人は歩き出す。
猛もついていった。
ふたりは通路を離れ、森のなかに入る。
「どこへ行くつもりなんだ」
「戦いがいちばん多いところ。たぶん北側だと思うんだけど」
「おまえさんは、なんで最初から戦いの列にいなかったんだ。寝坊でもしたのか」
「おれは精霊使いだけど、ここを襲撃してる連中の仲間じゃない」
「でも、自衛隊の仲間でもないんだろ。だったら殴り倒したりはしないぜ」
「それは、あんたが撃たれそうだったから。ほんとは自衛隊の味方をしにきたんだよ」
「たったひとりで?」
「精霊使いのひとりは人間百人分以上だ」
森のなかは静かであった。
土の上を歩いているため、足音もない。
思い出したように遠くから銃声が聞こえてくる。
それが動物の遠吠えのようにも聞こえる。
この時期なら蝉が鳴いていてもおかしくはないはずだが、先ほどからそれもなかった。
死んだように静まり返っている。
人間たちの戦闘に驚いて逃げ出したのかもしれない。
和人はまっすぐ銃声のほうへ向かう。
猛もそれについていく。
和人の足取りは速いが、猛に合わせているのか、ついていけないほどではない。
そこにこの少年の優しさが感じられる。
「おれから離れないように気をつけてよ。向こうはたぶん、見つけ次第撃ってくる。精霊使い相手に容赦はしていられないはずだ」
「おれは精霊使いじゃないぞ」
「いちいち確認はしないよ。殺してから、たしかめる。そのほうが安全だ」
「ふむ、たしかに」
猛は和人の横顔を見る。
「若いのに、ずいぶん戦場のやり方を知ってるんだな」
「あんまり経験はないけど、推測はできる。おれならどうするだろう、って考えたら、だいたいそれが正解だ」
「なるほど」
「伏せて」
和人がさっと木の陰に隠れる。
猛も慌てて土の上に身を伏せた。
顔だけ上げて、前方を見る。
そこになにかあるようには見えなかった。
ただ土の地面、木々が並んでいるだけである。
「おれがいいって言うまで、そこから動くなよ。動いたら撃たれるから」
「だれかいるのか」
和人はこくんとうなずく。
「向こうも、こっちに気づいてる」
遠距離なら、さすがに精霊使いよりライフルのほうが有効である。
どうするつもりか、と猛は和人を見た。
和人は、ちいさく息をついて、木の陰から出る。
両手を挙げ、降参のポーズである。
「こっちに敵意はない。おれは精霊使いだけど、このひとは民間人だ。だからこのひとだけでも保護を――」
ぱん、と軽い音が響いた。
銃声であった。
和人の身体がゆっくり後ろへ傾く。
「撃ちやがったな――」
義憤というわけでもなかったが、まったく無抵抗の和人が射撃されて、思わず猛は立ち上がった。
まだ姿も見ていない相手を探すより、和人の治療を優先しなければならない。
猛は和人を見た。
そこにはだれもいなかった。
立ち上がるために一瞬目を離したあいだに、和人が消えている。
かと思うと、ずいぶん前方のほうで、どさっとなにかが落ちる音がした。
和人だった。
太い木のそばに立ち、片手に、黒い服を着た自衛隊員を抱えている。
「木の上から狙撃してたんだ」
平然と和人は言って、木の幹に寝かせる。
「おまえ、大丈夫なのか。撃たれただろう、さっき」
「肩をかすめただけだ」
なるほど、白いシャツを着た和人の肩が、赤く染まっている。
しかしその痛めているほうの腕で人間ひとりを抱えていたのだ。
「精霊使いは、傷の治りも早いから」
「早いってレベルかよ、それ」
「もともと銃弾なんてちいさいもんだから、よっぽどうまく当てないと致命傷にならないんだよ。とくに精霊使いの場合は、あっという間に傷口が塞がるから一発で即死させないと効果がない」
「なるほど――それで連中は、心臓じゃなくて頭を狙うのか。でも即死しても傷口が塞がれば生き返るんじゃねえのか」
「さすがにそこまで化け物じゃないさ」
和人は朗らかに笑う。
「死んでたら、精霊使いでも治癒できない。でも一撃で殺せてるかどうかはわからないから、大抵は一撃で即死させたあと、精霊石を奪うんだ。そうしたらもし生きていても治癒はできなくなる」
「ふむ……精霊使いには独特の戦い方が必要なわけか。自衛隊の連中は、そんなことまで訓練してるんだな」
「このひとたちは特別な部隊なんだよ。精霊使いとの戦いを最初から想定して訓練してる。だから、精霊使いとある程度渡り合える。もちろん一対一で精霊使いに勝てるほどじゃないけど」
猛は和人を狙撃した自衛隊員に近づく。
つけているガスマスクのような仮面を外す。
若い男である。
死んではいない。
普通のサラリーマンでも通用しそうなこの男が、無抵抗の和人を射殺しようとしたのだ。
「こいつの腕が下手でよかったな。でなきゃおまえさんもいまごろは死んでるぜ」
「下手じゃなかったよ。おれの頭を確実に捉えてた。おれが避けたんだ」
「避けた? ライフルの弾をか」
「不意打ちではさすがに無理だけど、撃たれるってわかってたらなんとか躱せる」
「撃たれるってわかってたって、どういうことだ」
「こっちが降参しても、向こうはやめないってことだ。たぶんだまし討ちかなにかだと思ったんだろう。本当かどうかは殺してから確かめる――ここはそういう場所だ」
「まるっきり戦場じゃねえか……しかしおまえは自衛隊の味方にきたんだろ。これじゃ話を聞いてもらうどころじゃねえぞ。どうするつもりだ」
「味方だからって協力する必要はない。おれはおれで戦うよ。まあ、その前に迷子の民間人を安全な場所まで連れていかないと」
「迷子じゃねえっつってんだろ」
猛は意識を失った自衛隊員からライフルを奪い取った。
それを構え、先に進む。
「使い方、わかるのか」
「引き金を引けばいい。そうだろ?」
「まあ、間違いじゃないと思うけど。おれも銃はわかんねえ」
「だったらごちゃごちゃ言うんじゃねえ。自分の身は自分で守る」
「そうしてくれるとおれも楽だ」
「けっ。遠慮って言葉を知らねえやつだ」
ふたりはさらに進む。
皇居のちょうどまん中あたりまできている。
時折聞こえる銃声も近い。
怒号めいた指示や絶叫も聞こえていた。
「精霊使いなのに、どうして人間の味方をするんだ」
猛は聞いた。
和人は濡れたシャツの肩を気にしている。
「別に、精霊使いとか人間とか、そういうことはあんまり気にしてないんだ」
「じゃあ、なんでわざわざこんなところまできたんだよ」
「おれの知り合いが――そいつらも精霊使いだけど、こういう騒動には関わってないほかの精霊使いが迷惑してる。世間では、精霊使いはみんな悪いって思われるだろ。外も自由に歩けないんだ。この戦いが続いてるかぎり、それは終わらない」
「ふん……なるほどな」
「あと、精霊使いを率いてる親玉と話がある。そいつと会わないことにはどうしようもないから、会いにきたんだ」
「その親玉ってやつはここにいるのか?」
「たぶん。なんとなく、そう感じる」
「またいい加減な理由できたもんだな。しくじったら死ぬかもしれねえぞ」
「決着をつけないと、生きていても仕方ないんだよ」
なにか特別な事情があるらしいということは、猛にもわかる。
和人は、どうもこの戦いと個人的に深い関わりがあるらしい。
そういう相手と出会えたのは幸運である。
うまくいけば、敵の親玉とも対面できる。
猛は和人についていこうと決める。
そもそもひとりで森を抜けられない猛は、和人についていく以外に手はなかった。
ふたりはさらに五分ほど森を歩く。
戦場に出た。
常人たる猛の目には、それは異様な光景だった。
銃声がする。
怒号が飛ぶ。
絶叫が聞こえる。
ひとが倒れる。
しかし、両者の攻撃がろくに見えない。
銃声が鳴ってあたりを見回しても、銃を持つ兵隊の姿は見えない。
怒号の主も絶叫の主もわからず、かと思うと、どさりと音がする。
見ると、それは死体なのだ。
異空間からはき出されたように、死体だけが目の前に現れる。
がさがさ、と木が揺れる音がして頭上を仰ぐが、だれの姿もない。
おそらく猛が見たときには、もう別の場所へ飛んでいるのだ。
精霊使いがそのような動きをしているのはわかるにしても、人間であるはずの兵士たちの姿さえ見えないのはどうしたことか――。
「見えない相手に、どうやって銃口を向けりゃいいんだ」
猛は、持っていたライフルを地面に落とした。
「これが精霊使いの戦いかよ……騙されてる気分だ」
「このあたりに隠れていれば、まだ安全だと思う」
和人は言った。
「連中は、おれたちに気づいていないのか?」
「いや、気づいてるけど、たぶん気にする余裕がないんだ。どうせなんにもできないだろうと思われてる」
「なるほど……」
「ここに隠れてろよ」
猛に言って、和人はその場を離れた。
最初の数歩は猛にも見えていたが、そのあとは、ほかの精霊使いと同様、訓練を積んでいない人間の目には見えなくなる。
猛は言われたとおり木の陰に身を潜めた。
そこから、戦況を見る。
銃声は盛んに鳴っている。
しかし目で追うよりも早く動く精霊使いを捉えることはむずかしいにちがいない。
猛は、ぼんやりとあたりを見ることを思いついた。
物音が聞こえる方向を追うのではなく、あたり全体を見るのだ。
そうすると、ひとりひとり動きを追えないが、飛び交う精霊使いの姿が見えてくる。
精霊使いは右から左へ飛んでいるのが多い。
その方向に自衛隊が待ち構えているらしい。
精霊使いの数は十数人に思えたが、あるいはもっと少数が入れ替わり立ち替わり攻撃に参加しているのかもしれない。
猛は自衛隊が陣を作っているらしい方向を見た。
そのとき、いままでには聞こえなかった金属音が響いた。
きいん、という甲高い音である。
硬い金属同士がぶつかる音に聞こえる。
銃と生身では起こりえない音だった。
森のなかを視線で探る。
太い木の枝である。
胴回りが二、三メートルはある巨木で、比較的下のほうにある枝はひとつひとつは別の木の幹のように太い。
そこに三人の人間が乗っている。
うちふたりは精霊使いである。
このふたりが至近距離で向かい合い、一方の後ろに自衛隊員がいる。
ふたりの精霊使いは、互いに日本刀に似た細長い刃物を持っていた。
それが打ち合わされ、金属音が響いたのだ。
一方の精霊使いは、三十前後の男であった。
もうひとりはまだ幼さの残る学生姿、牧村和人である。
自衛隊員は和人のすぐ後ろにいる。
どうやら、自衛隊員が精霊使いにやられそうな危ういところを、和人が割って入ったらしい。
「なるほど――」
と、猛は呟く。
その方法なら、言葉でなくてもどちらの味方なのか明らかにわかる。
相手の精霊使いも、同じ精霊使いが割って入るという状況が理解できていない。
両者はつばぜり合いのまま、動きを止めていた。
ここからは和人が加わった自衛隊側が巻き返すにちがいない――そう考えていた猛は、思いもよらぬものを見た。
和人の後方にいる自衛隊員がライフルを構える。
銃口を、和人の背中に向けた。
距離はまったくない。
心臓を後ろから狙っている。
「逃げろ!」
猛が叫ぶのと、銃声が響くのはほとんど同時だった。
それでも一瞬、猛のほうが早かったにちがいない。
和人とつばぜり合いをしていた精霊使いがまずその場から離脱する。
続いて和人も枝から飛び降りた。
動きがぎこちない。
精霊使いなら大した高さでもないだろうに、着地で足をとられたように地面に手をつく。
それを枝の上から銃口が狙う。
猛はとっさに、手に持っていたカメラを投げた。
自衛隊員は当たらなかったが、意識と銃口が一瞬猛に向かう。
そのあいだに和人はその場を離れ、木の陰に隠れた。
「てめえ、それでも人間か!」
猛が吠えると、
「邪魔をするな、民間人」
とくぐもった声が返ってくる。
「てめえらがまともにやってたら邪魔なんてしねえよ。自分を助けてくれたやつに、なにやってんだ」
「精霊使いはこの国に害をなす。すべて排除しなければ、この国はなくなるんだ。うまくすれば身体を貫通した弾でもうひとり狙えた」
場所を知られた自衛隊員は、枝から枝へと移動して森のなかへ消えていく。
猛は和人に駆け寄った。
「おい、大丈夫か。どこを撃たれた?」
「心臓のちょっと右」
和人は幹に寄りかかり、胸を押さえている。
白いシャツには血がべっとりと付着していた。
「いまのはさすがに危なかった。心臓を打たれたら死んでたかもな」
「そんなことを言ってる場合か」
「もう大丈夫だ。だいぶ治ってきた」
「ほんとかよ――しかし自衛隊のやつら、どうかしてるんじゃねえのか」
「あれだけ必死なんだ。ここで精霊使いを止められなかったら、本当にこの国はなくなる。いまその瀬戸際にいるんだから、無理もない」
「どうするよ。どうやったって協力はできそうにないぜ」
「敵の親玉を捜す」
和人は立ち上がる。
さすがに顔をしかめ、苦しげな表情であった。
「このあたりにいるはずだ。おれは、自分がここへきた目的を果たす」
「敵の親玉ってのは、どんなやつだ。おれも捜すぜ。ここで取材するより、おまえさんに引っ付いていったほうがおもしろそうだからな」
「命の保証はないけど」
「もともとどこにいたってそんな保証はねえさ」
「たしかに――敵は、子どもだ」
「子ども?」
「格好はわからないけど、外見は七、八歳の子どもなんだ。見ればすぐにわかると思う」
「そんなガキが精霊使いを操ってんのかよ」
「外見は子どもでも、中身はちがうよ」
「はあ……わけわかんねえな、精霊使いってもんは」
「自分たちにもよくわからないんだから、人間にはもっとわからないだろうな」
和人は笑い、息をつく。
「手分けして捜したほうが早い。できるだけ戦闘が盛んな場所は避けて、捜そう」
「連絡手段はどうする? 携帯は持ってねえのか。じゃあ、おれが一台貸してやる」
「二台も持ってるのか」
「記者仲間には七台持って使い分けてるやつもいるぜ。使い方はわかるな。おれが持ってるほうの番号は、登録のいちばん上に載ってる」
「わかった。じゃあ、見つかったら連絡してくれ」
和人は真上に飛んだ。
頭上四メートルほどの枝に飛び乗り、そこから別の枝へ飛んで、あっという間に見えなくなる。
猛は木の幹に隠れながら、ゆっくりその場をあとにした。
戦闘から離れていくと、森はまた静かになる。
ふとした瞬間に、ここが皇居のなかだということを忘れてしまう。
時代はまさにいま動いているのだ。
猛はそのまっただ中にいて、これから作られる歴史の一部に加担している。
この先どうなるのか、猛自身にもわからない。
ただ、そこに責任を持たなければならない、という気持ちが強くあった。
どう転ぶにせよ、未来はいまこの森にいる何十人かで作っているのだ。
そのすべてが未来に対する責任を持っている。
国の転覆を目指す精霊使い、それを阻止する自衛隊員、そのどちらもでない和人に、それに協力する自分――そこからどんな未来が生まれるだろう。
猛は、砂利道に出た。
戦闘から離れれば、森のなかを進むより砂利道を進むほうが早い。
はじめは、こんな場所に子どもがいるものか、と思っていた。
しかしいざ見つかってみると、驚くほどこの場に馴染んでいる。
その出会いは唐突であった。
あたりを見回しながら砂利道を走っていた猛は、不意に前から足音が近づいていることに気づいて、立ち止まった。
そのときには、向こうはすでに視線の届く距離にいた。
赤い着物を着ている。
まずそれだけが見えた。
ちいさな人影である。
その奥にもだれか立っている。
それは老人だった。
十歳にも満たない子どもと、八十をすぎた老人のふたり組である。
どちらも和服で、砂利道をゆったりと歩いている。
このような場所には、猛のような人種より、むしろ彼らのほうがふさわしい。
しかしこの戦場に老人や子どもがいるはずはない。
そもそも皇居へ渡るための橋は落ちているのだ。
迷いこんだということはあり得ない。
向こうでも猛に気づいているはずだが、歩く速度は変わらず、ただ確実に近づいてくる。
猛は立ち止まった。
その場に止まって、彼らが到着するのを待った。
そうさせるような雰囲気が向こうにはあった。
老人と子どもは近づいてくる。
猛の三メートルほど向こうで足を止めた。
近くで見ても、やはり皺だらけの老人と七、八歳の子どもである。
「あんたたちが、この騒動の首謀者か?」
猛は言った。
どちらが答えるのだろうと思ったが、
「いかにも」
と返事をしたのは、和人の言ったとおり赤い振り袖の子どもであった。
老人は影のようにぬっと立ち、微動だにしない。
「ほんとに子どもだったとはな――」
「精霊使いでもないようだが、なぜここにいる?」
少女が聞く。
その口調がどうも、外見と似合わない。
これも和人の言うとおりらしい。
外見は子どもだが、中身はそれほど無邪気なものではない。
「おれは記者だ。取材をしようと思って、精霊使いについてきた。あんたの兵隊は向こうで戦ってるぜ」
「そろそろ終わるころだろう。だから、見にきた」
「橋は落ちてるって聞いたが」
「精霊使いにとっては大したことではない」
「なるほど――やっぱり精霊使いなんだな。子どもの成りをしてるのも、精霊石と関係があるのか。いや、別になんでもいいさ。おれは、あんたにはさほど興味はない。ただおれの知り合いがあんたと会いたいって言ってるんだ。会ってやってくれるか」
「知り合い?」
少女はすこし首をかしげる。
「牧村って男だ。知り合いだろう」
「なるほど――おまえは牧村和人の知り合いか」
得心したように、少女はうなずく。
「そうでなければ、この場にはおるまい。自分の役割を果たせ。おまえの役割は、おそらくお膳立てをすることだ」
「お膳立て?」
「すべてが流れるまま――行き着くところは、大洋か行き詰まりか。どちらにしても、それは近い」
「妙なことを言う子どもだ。いや、子どもじゃないのか」
猛は頭を掻きながら、携帯電話を取り出す。
二台目の携帯電話を呼び出すと、すぐに和人が出た。
「おう、牧村か。おれだ。おまえの言ってる子どもを見つけた。場所は――半蔵門の近くだ。砂利道にいる。ああ……わかった。しばらく時間稼ぎするよ」
と猛は電話を切り、少女を見る。
「ってことで、あいつがくるまでしばらく話でもしようや。どこかに座るかい?」
「ここでいい」
「そうか……ひとつ聞くが、あんたは本当にこの革命は成ると思うか?」
「さあ、現段階ではなんともいえん」
適当な言葉でごまかすか、無視で通すかと猛は考えていたが、存外に少女は素直に答えた。
「ちょっとした運次第で結末は変わるだろう」
「そうかな。おれはさっき、戦闘をこの目で見てきた。どうやらあんたの兵隊が有利らしいぜ。自衛隊もなりふり構わず善戦してるが、勝ちはないだろう」
「それは単なる戦闘の勝ち負けだ。未来を決するわけではない」
「また別になにかの要素があるっていうのか。たしかに、ここで自衛隊を殲滅しても、日本という国に被害はない。国会にしても皇居にしても、いってみれば空の建物や敷地があるだけだ。中身は別のところに移ってる。そいつらをなんとかしないかぎり、明確な勝ちにはならないってことか」
「そうではないよ。さて、説明して理解できるかどうか――たとえ話をしよう。この世は、将棋か碁のようなものだ。ここでの戦闘は、いってみれば将棋盤の上、碁盤の上で王手をかけ、あるいは広く陣を得て投了させている状態だ」
「だったら勝ちじゃねえか」
「しかし最終手段というものがある」
「最終手段?」
「将棋盤、碁盤ごとひっくり返すのだ」
にやりと、少女は笑う。
「そうすれば勝ち負けはつかない」
「ふん。短気なやつにありがちなことだ。でも、現実には無理だろ。ここが盤上なら、地道に駒を進めていくしかない。盤をひっくり返せるのは盤上を俯瞰してる人間だけだ。駒には、そんな力はない。王将はあんただろ。ってことは、すくなくともあんたには盤をひっくり返すことはできないわけだ」
「そう、盤をひっくり返せるのは、その外にいて盤上を俯瞰している者だけだ。この世界では、それは神と呼ばれる」
「神ねえ――そういうもんがいて、負けた腹いせに盤をひっくり返すか。おもしろいが、現実的じゃないな」
「しかし現実のことだ。見ていればわかる――牧村和人が、神の意志そのものなのだ」
猛は息をついた。
心中ではすこし、失望を感じている。
精霊使いの暴動を首謀した人間が、神だなんだと非現実的なことを大まじめに言っているのだ。
これではうさんくさい宗教と大差はない。
神の意志による革命などあるはずがないのだから、結局はよくある誇大妄想なのだ。
和人がこの少女となにを話すのかは気になったが、その会話から得られるものはなにもないだろう。
それでも猛は道端に腰を下ろし、和人を待った。
和人は、まだこない。