第三話 21
21
頭上は一面曇り空であった。
雨が降り出すわけでもなく、光が差し込むわけでもない。
風が吹いて雲を吹き飛ばす気配もなく、ただひたすら、人間の頭を押さえつけるように分厚い雲が立ちこめている。
牧村和人は、校庭沿いにあるベンチに腰を下ろし、ぼんやりそんな空を見上げていた。
横顔は、寝ぼけているような、これから昼寝でもしようとしているような顔に見える。
空を見ながら、眠りに落ちようとしているような顔である。
一見するとのんきにも思えるが、一日中そうやっていると、さすがに周囲も心配になってくる。
しかし近づいて話しかけてみると、和人の対応はいつもどおり明るく朗らかなのだ。
会話の途中にはよく笑うし、話も進む。
ただ、会話が終わるとまたぼんやりがはじまる。
「あれは、ある種の病気じゃないか?」
といううわさが生徒のあいだでも交わされるようになっていた。
不破学園の生徒たちは、もう十日以上学園に泊まり込んでいて、退屈も極まっているのだ。
だから、できることといえば、うわさ話くらいしかない。
一日もしないうちにうわさには羽根が生え、事実とはほど遠いところへ飛んでいく。
うわさのなかで和人は、教師に恋をして告白したが、好きだけどそういう感じじゃないの的などう理解すべきなのか苦しむような返答をされて悩んでいるのだ、ということになっている。
ある種の病気とはすなわち恋煩いである。
翌日にはさらに話が進んで、和人の相手は新人教師の江戸前有希子であるとか、前の学校で和人と有希子は付き合っていたがいろいろあってお互いに好き合っているのに別れなければならず、それで悩んでいるのだとか、状況はより複雑になっていった。
それを知らぬはぼんやりしている本人のみである。
和人も根がいいひとである分、がんばってね、などと話しかけられると、なにをがんばるんだろう、と思いつつ、ありがとうと返事をしてしまうから、余計に状況は混乱する。
どうやら和人も事実を認めらしい、さてどうやって慰めてやろうか――と生徒たちはいらぬ心配をする。
和人はそれも知らず、今日もぼんやり空を見上げる。
「ここ何日か、ずっと曇ってるなあ……」
和人は独りごちる。
「せめて雨でも降れば気分も変わるのにな」
「ま、牧村くん」
と背後から声がかかる。
空を眺めていた和人は、そのまま身体を反るようにして振り返った。
少女がひとり、立っている。
制服である。
ただでさえ修道女のような制服が、胸の前で両手を合わせているせいで、余計に祈りを捧げているように見える。
「直坂か。どうした?」
「あ、あのね、その、あの」
もじもじと八白は指先を動かす。
和人は首をかしげ、
「まあ、座れよ」
「う、うん」
八白は和人のとなりにちょこんと座る。
八白と和人は幼なじみで、いまさら会話に照れることはないが、八白はなんとなく気まずいような顔をしている。
「なんか、話でもあるのか」
と和人が切り出すと、八白はびくりと身体を震わせて、
「あ、あの、ちょっと聞きたいことがあるんだけど、いいかな?」
「聞きたいこと?」
「聞いても、怒らない?」
「怒るようなことを聞くのか? おれ、だれかになんか聞かれて怒ったことねえけど」
「そ、そうだよね。じゃあ、聞くね」
聞く八白のほうが緊張で、深呼吸をしている。
よっぽどのことを聞かれるのか、と和人もすこし身構える。
「ま、牧村くんっ」
「な、なんだよ」
「あの、う、うわさはほんとなの?」
「うわさ?」
「牧村くんが、有希子先生と、その、お、おおお付き合いしてるとかってうわさ」
「はあ?」
「そ、それで、有希子先生にふられて悲しんでるってうわさとか」
「ちょ、ちょっと待て。いろいろ気になるけど、ひとつずつ片づけていこう。まず、なんだって? 有希子先生とおれが付き合ってる?」
「ち、ちがうの?」
「ちがうもなにもないだろ。なんでおれがあのひとと」
和人は、ぼんやり江戸前有希子を思い浮かべる。
五、六歳年上の女性である。
まあ、顔は悪くないな、と自分を棚に上げて考える。
しかし性格に問題がある。
五、六歳年下の和人より、はるかに子どもっぽい。
むしろ、比べられる子どもがかわいそうというものだ。
あれほど感情がころころ変わり、基本的に自分勝手な人間はいない。
「いや、さすがにおれにも選ぶ権利ってもんがあるだろ。あのひとは無理だよ。おれの手には負えない」
「そ、そうなの? じゃあ、ふられたっていうのも、ただのうわさ?」
「それだ!」
びしっと和人は指を差す。
八白はびくんと驚く。
「なんでおれが有希子先生にふられるんだ。逆ならわかる、逆なら。おれが有希子先生の相手をするのに疲れ果てるなら、わかる。でもおれがふられるってどういうことだ。ただのうわさにしても不愉快極まりない」
「そ、そうなんだ……」
「そんなうわさを流したやつはだれだ?」
「さあ……でも、結構うわさになってたよ。ほら、牧村くん、最近ちょっとぼんやりしてたから」
「ちょっとぼんやりしてたらそんなうわさが流れるのか……恐ろしくてぼんやりもできねえ」
和人はため息をつく。
となりで八白も、ほっと安堵の息をつく。
「そっか、ただのうわさなんだ……よかった」
「なんで直坂がよかったんだ?」
「え、あ、そ、その、ほ、ほら、いろいろあるでしょ、いろいろ!」
「いろいろ?」
「いいの、そのことは! そんなことより、牧村くんが心配だよ。ほんとに大丈夫なの? どこか具合が悪いとか……」
「具合は悪くないけど、退屈だなあと思ってさ。外に出られるわけでもないし、学校のなかになんかあるわけでもないし。やることねえだろ」
和人は呆けたように口を開け、空を眺める。
「テレビはおんなじニュースしかやってねえしな。もう見たくねえんだよ、ああいうの」
「うん……それは、そうかも。つらいニュースばっかりだもんね。でも、ほんとにそれだけ?」
八白は和人の横顔を見ている。
ちらりと和人は八白を見て、頭を掻いた。
「それだけじゃないよ。ほかにもいろいろあったんだ。でもまあ、それももう全部終わったことだし――いまさら考えても仕方ねえもんな。おれはおれだし、ここにいるってことも変わらない。ただ、退屈ってのがよくない。いろいろ考える時間があるのが悪いんだな、うん。ってことでさ、直坂」
と和人は身体を起こす。
「ちょっと、外出ねえか」
「外って?」
「だから、外」
ぐい、と親指で後方を示す。
その方向には正門がある。
外出禁止に伴って、正門はぴたりと閉じられ、警備がしっかりと見張っている。
「そ、外って、抜け出すってこと?」
「ちょっとした散歩だから、大丈夫だって」
「で、でも、ばれたら怒られるかも」
「ばれなきゃ怒られないだろ」
和人は立ち上がる。
それから、八白のほうへ手を伸ばす。
八白がためらった時間は、ほんの一瞬であった。
和人の手をとって立ち上がり、人目につかぬよう、こそこそと校舎の裏へ回る。
「ど、どうやって外に出るの? 正門はだめだし、ほかのところも警報がついてると思うけど」
「おれがいい場所を知ってる。たぶん、簡単に抜けられるはずだ」
ふたりは広い敷地の端を通って移動する。
フェンスの高さは二メートルほどで、精霊使いたるふたりにとってみれば障害物でさえないが、フェンスの上に警報機がついているせいで不用意に越えることができないのだ。
やがて和人は、古い校舎の裏で立ち止まる。
フェンスの上には相変わらず警報機があるが、飛び越えなくても、フェンスの下側にかろうじて人間が抜けられる程度の穴が空いていた。
「こ、こんなのよく知ってるね、牧村くん」
「前にちょっとな」
先に和人が屈んで、四つん這いになって穴を抜ける。
八白がそれに続き、和人に手を引かれながら立ち上がった。
警報は鳴らない。
ふたりの前には、急な山肌がある。
「さて、まずは頂上まで行くか」
「うう、制服から着替えてくればよかった……」
八白はスカートの裾を気にしながら、精霊石を活性化させる。
とん、と軽く地面を蹴って、ふたりは木の上まで飛び上がる。
五メートル近くはある巨木である。
その枝に立つバランス感覚も常人離れしている。
「どっちが先に頂上まで着けるか、勝負しようか」
和人はにやりと笑う。
「勝ったほうが町でなんか奢るってのは?」
「あ、あたしスカートなのに」
「楽でいいだろ。ズボンより動きやすいよ」
「そういう問題じゃないよっ」
「じゃ、スタート」
「あっ、ずるい!」
先に和人が飛び出したのを、八白が慌てて追う。
ふたりの移動方法は、まるで天狗である。
木から木へと飛び移り、枝にぶら下がったり、幹を蹴って加速したりと、人間業ではない。
先行するのは和人だが、八白もじりじりと背後に迫る。
飛べる場所まで飛んで、着地はその場で考える、という和人に対し、八白は足場を計算しながら小刻みに飛んでいる。
そのちがいがすこしずつ現れているのか、八白は和人に並びかけた。
「おっ」
と和人が驚いた顔で八白を見る。
八白はすこし自慢げに笑って、和人を抜いていった。
「むう、やるな、直坂!」
「えへへ。精霊使いとしては牧村くんより先輩だもん、負けられないよっ」
「言うなあ――でもな、直坂。後ろからだと、パンツ丸見えだぞ」
「な、なな――」
スカートの裾を押さえ、八白は立ち止まる。
そこを和人がにやにや笑いながら抜いていく。
「お先に」
「ひ、卑怯だよ、牧村くん! あたし追いついても抜けないんだもんっ」
「これが作戦というものだ、わははは」
和人はぐんぐん山肌を上っていく。
器用な八白は、それにすぐ追いつく。
しかし並びかけると、和人がにやにや笑いながら振り返るせいで、うっ、と詰まってそれ以上先には行けない。
もともと不破山はちいさな山である。
勝負がつくまでに五分はかからない。
「はっはっは、おれの勝ちのようだな」
「うう……ずるいよ、牧村くん」
「スカートを履いてくるのが悪い」
「だってそれは牧村くんがすぐに行くっていうから」
「じゃあパンツ丸出しで先へ行けばいいだろ。おれならそうするね」
「そこで胸を張られても……」
ふたりは不破山の頂上に立つ。
どちらも呼吸ひとつ乱れていない。
不破山の頂上は、展望台になっている。
展望台とは名ばかりの、コインを入れて使う双眼鏡がひとつあるだけの場所だが、見晴らしは充分によかった。
町が、一望できる。
山の麓は民家が多い。
低い屋根の家が敷き詰められ、そのすき間に毛細血管のような路地が通っている。
そこからすこし遠くを見ると、駅前の繁華街が見える。
ビルが多く、雑多な印象がある場所である。
さらにその奥には別の山が見えている。
不破市は、それがすべてである。
小高い山から見渡せるだけのちいさな地域にたくさんのひとが暮らし、たくさんの思いがひしめいている。
「あ、あたしの家みっけ」
八白は、山のすぐ麓を指さす。
「牧村くんの家もちゃんとあるね」
「あるに決まってるだろ。なかったらびっくりだ」
八白の家の真向かいに和人の家はある。
上から見下ろすと、一見瓦ふうに思えて実はタイルでできた屋根だけが見えていた。
八白の言うとおり、和人の家はちゃんとある。
当然のことである。
ただ、和人は自分でも意外なほど安堵して、息をついた。
ここ最近は学園に泊まり込みで自宅には帰っていなかったから、もしかしたら、と思っている部分があったのかもしれない。
もしかしたら、この町での楽しかった思い出はすべて幻だったのではないか、と。
「あっ」
と和人が声を上げる。
「どうしたの?」
「あの公園、覚えてるか」
ふたりの家からすこし西へ行ったところである。
猫の額ほどの狭い敷地に、木が何本か植わっていた。
その木のせいで敷地になにがあるのかは見えない。
肥沃な土地とは到底思えないが、何本かの木は太い枝をつけ、生い茂っている。
「なんの遊具もねえのに公園って名前がついてる伝説の広場だ」
「で、伝説だっけ?」
「昔はよく行ったよな。駅前まではなかなか行けなかったから、遊ぶっていうとあの公園だった。そういや、すぐ近くにこの山があったのに、こっちにはぜんぜん来たことなかったな」
「それは、学園があったからだよ」
「学園があったから?」
「精霊使いがたくさんいるから、近づいちゃいけないって言われてたの。覚えてない?」
「いや――そうだったっけ」
和人が精霊使いのことをはじめて意識したのは、八白がそうだとわかって、不破学園へ転校すると聞いたときであった。
それ以前は精霊使いと人間など意識したことがない――生まれと育ちを考えるなら、しっかり考えなければならないはずだったのに。
そんなことまで忘れてしまっているのだ。
「おれが覚えてるのは、おれがあの木に登って、その下でおまえがぴーぴー泣いてたことだ」
「な、泣いてないよっ」
「いや、泣いてたね。登ってんのはおれなのに、落ちたら危ないって泣いてるのはおまえなんだもんな。あのころからちょっと変わったやつだったよ」
「そうかなあ……って、あのころから? それっていまも変わってるってことじゃ……」
「さ、これからどこ行くか。駅前まで出てうろついてみるか、いっそのこと山越えでもしてみるか。おれたちなら十分くらいで向こう側まで行けるだろ。東京までだって、電車使うより速く着ける。直坂はどこ行きたい?」
「え、えっと……どこでもいいかな? ゆっくりできるところがいいな」
「ふむ、ゆっくりできるとこか。じゃあ、思い出の場所巡りでもするか」
「思い出の場所巡り?」
「それぞれが覚えてる場所を交互に回るんだ。こんな機会でもないと、改めて町を歩いたりはしないだろ。まずは守野公園だ」
和人は展望台の柵をひょいと乗り越える。
その先は絶壁のような斜面である。
木もほとんど生えず、切り立った崖になっている。
そこをするすると器用に下りていく。
「あ、また! あたしスカートだって言ってるのにっ」
とはいえひとり回り道するわけにもいかず、八白も柵を越える。
下っていくと風が吹き上げてきて、スカートがふわりと舞い上がる。
そういうときに限って先行する和人がひょいと顔を上げ、八白のほうを振り返る。
「み、見ちゃだめ!」
「ぎりぎり見えてないよ。もうちょっとなんだけどな」
「覗き込まないの!」
ふたりにとっては、この程度の斜面は平坦な道と大差ない。
精霊使いはどこへでも行ける。
力の使い方さえ工夫すれば、どんなことでもできる。
山を駆け抜け、空を飛び、大洋を渡ることもできる。
これほど自由な存在は、精霊使いのほかにはない。
だからこそ彼らは疎まれ、蔑まれるのだ。
自由ではない、手枷足枷をつけられた存在から妬まれるのだ。
先に和人が山の麓まで着く。
麓には、山をぐるりと囲むように用水路がある。
そこを飛び越えて路地に出ようとした八白は、和人に腕を掴まれた。
「ど、どうしたの」
「ひとがいる。いま出るのはまずい」
「ひと?」
耳を澄ませると、たしかに通行人の足音が聞こえていた。
木に隠れていると、ひとりの女性が道を歩いていく。
八白が驚いたのは、通行人よりも、それに気づいた和人の感覚である。
精霊使いとしては和人より長く生きている八白ですら気づかなかった足音に気づく感覚の機敏さは、群を抜いている。
この短い期間に、和人は恐るべき成長を遂げている。
通行人が充分に去ってから、ふたりは路地へ下りた。
自由なのはいいが、人目には気をつけなければ、大騒ぎになってしまう。
「とくに時期が時期だからな」
と和人はあたりを見回す。
「だれにも見られないなら、屋根を越えていったほうが速いんだけどな」
「絶対ばれるよ、そんなことしたら」
「だよなあ。じゃあ、普通に歩くか」
ふたりは並んで歩き出す。
ちょっとしたデートみたいだな、と八白は思う。
考えると緊張するから、なるべく考えないようにして歩く。
先ほど展望台から見下ろした公園、守野公園は、歩いて五分ほどの近さにある。
公園は、相変わらずの狭さだった。
木が五本並んで生えているほか、遊具は一切ない。
木を眺めるような位置にベンチがひとつだけある。
公園というにはあまりにちいさい。
このあたりの住民は、公園としてよりむしろ、西と東にある入り口を使って通路のように利用していた。
「だれもいないね」
「夏休みも終わったからな。子どもは学校だろ」
「あ、そっか」
和人はベンチに腰を下ろす。
おずおずと、八白もとなりに座る。
恋人みたいだ、というひとときの妄想を、八白は楽しむ。
「相変わらず、この木はでかいな」
「へっ? あ、ああ、そうだねっ」
「どうした、ぼんやりして?」
「ううん、なんでもない。ほんとになんでもないよ?」
「……そうか? まあ、いいけど」
和人は背もたれに身体を預け、木の先端を見上げる。
「子どもだったからでっかく見えたのかと思ってたけど、いま見てもでけえ」
「もっとおっきくなったんじゃない? あのころよりも成長したのかも」
「ああ、そうか。そういうこともあるのか」
「昔から大きかったけど、牧村くんはいちばん高いところまで登ったことあるもんね」
「なに考えてたんだろうなあ、あのころは。なんにも考えてなかったのかな」
理由があって木に登ったわけではなかった。
たとえば木になにか引っかかったとか、いちばん高い場所からの景色を見てみたいとか、そんな殊勝な理由があったわけではない。
ただなんとなく登りたくなって、登ったのだ。
登りはじめたら途中で降りるわけにもいかなくて、最後まで登りきるしかなかった。
「よく登れたよね、あんなところ」
八白は目を細める。
「いま登れっていわれてもむずかしいもん」
「そうかな。精霊石を使っていいなら、簡単だろ?」
「それはそうだけど、あのころはそんなの使えなかったでしょ」
「まあ――そうか」
「きっとこのあたりの子どもでいちばん高いところまで登ったのって牧村くんだけだよね」
「かもな。だれも登ろうとは思わねえだろ。で、ひとが木に登ってるのを見て泣いた子どももおまえだけだと思うぜ」
「あ、あれはしょうがないよ。だって落ちたら死んじゃうし、危なかったから……それにちょっとしか泣いてないもん」
「いや、号泣だったね。CMのあと大号泣っていわれても納得なくらいの号泣だった」
「そんなに泣いてないってば」
「おれは登りながらうるせえなあって思ってたもん」
「そ、そんなこと思ってたの? ひどい……こっちは心配して泣いてたのに」
「昔のことだ。許せ」
和人は立ち上がる。
「よし、次へ行こう」
「次はどこ行くの?」
「このへん歩けば、なんかあるだろ。昔はずっとこのへんで遊んでたし」
公園を西に出て、しばらく歩く。
道の脇にちいさな用水路がある路地であった。
「そういや昔、おまえがここにはまって泣いてるのを見たことがある」
「う、うそだあ」
「ほんとだって。学校の帰りだ。こんなとこにはまるドジがいるのか、と思ってびっくりした記憶がある。そのまま、回り道して帰ったけど」
「助けてよ! なんで回り道して帰るの」
恥ずかしさやらなんやらで、八白の顔は赤い。
なにか和人の恥ずかしい思い出はないか、と考えてみるが、自分ほどドジなことを和人がしていたような記憶は一切なかった。
学校の文集にドジなひと一位と書かれた八白と、スポーツ選手になりそうなひと一位に選ばれた和人では土俵がちがう。
和人は、勉強以外のことは、昔から大抵こなしていた。
そこに憧れていた女子も多かった。
八白もそのひとりである。
もっとも、小学生のころからいまでも変わらずに思っているのは、八白くらいのものだろうが。
路地を進むと、交差点がある。
その角にちいさなパン屋があり、そこもふたりにとっては思い出がある場所だった。
「よく買い食いしたなあ、ここ。まだやってるのか」
「あたし、いまでも結構買ってるよ。牧村くんは買ってないの?」
「パンはスーパーで買っちゃうんだよな。安いから」
角を曲がって、南へ行く。
不破山から離れ、町の中心へ向かう方向である。
歩いていくと、ふたりの前に学校が現れた。
精霊使いになるまで、和人が通っていた高校である。
八白は中学からそのまま不破学園の高等部に進学したため、その高校に通ったことはない。
和人は緑色のネット越しにグランドを眺めた。
「ほんとなら、いまでもおれはこの高校に通ってるはずだったんだよな」
「有希子先生も、ここの先生だったんだよね?」
和人の表情を気にしながら、八白が言う。
「そうだよ。体育のときにさ、このグランドでサッカーやったんだよ。ほんとなら男の先生がつくはずだったんだけど、なんでか有希子先生が入ってきてな。そりゃもう、大変だった。下手なくせにすぐボールほしがるし、パスしたら顔面で受けるし、そしたら泣くし。あんなやりづらいサッカーははじめてだった」
「はは……大変そうだね、それは」
「まあ、なんだかんだいっても楽しかったけどな……」
「……ねえ、牧村くん。もしこの学校に戻っていいっていわれたら、戻りたい?」
「どうかな。いまはもう、この学校に戻っても仕方ない気もする。友だちもいないしな。学園のほうには、あほだけど友だちもいるし」
「そっか――なんか、よかった」
「あ、この道だ」
ふたりは学校をすぎて、線路沿いの細い道に出る。
右側に線路、左側に古いアパートが並ぶ路地である。
アスファルトはやけに古くなり、所々、緑の草が生えている。
空き缶や段ボールが道の隅に転がっているような、あまり夜通りたくはない道であった。
「ここがどうかしたの?」
「ここで何回かけんかしたんだ。鈴山って友だちがいたんだけどな、そいつがまあ悪いやつでさ、けんか三昧の日々だったんだよ。おれもそれに巻き込まれて、よくここで他校の生徒に絡まれたなあ」
しみじみと和人は言った。
「それ、いい思い出なの?」
と八白は理解できないように呟く。
「いい思い出じゃねえよ。散々殴られたし、怪我もしたし。ただ、もうあんなこともないだろうって思うとな」
「そっか……でもけんかはだめだよ」
「逃げても追いかけてくるんだよ。まあ、それでもおれのほうが逃げ足が速いから、大抵は逃げられるんだけどな。でもなかには挟み撃ちしてくる連中もいてさ。逃げられないときは、やるしかないだろ。で、こっちはふたりだし、向こうは十人くらいいるしで、ぼこぼこにされるわけだ」
「怖いよ、そんなの」
「話し合いで解決できりゃいいんだけどなあ。向こうは殴りにきてるんだし、こっちにも拳でしか会話できないやつがいるし、どうしようもなかったんだよ」
線路沿いに歩いていくと、駅に出る。
さすがに駅前は人通りも多い。
さほど大きくはない駅だが、駅ビルもあり、駅前にはコンビニや若者が大勢集まるような複合ビルもある。
ふたりはコンビニに入って、ペットボトルのジュースを買った。
和人の分は、さきの勝負で勝っているから、八白の奢りであった。
たった百五十円のジュースを奢ってもらい、和人は心底うれしそうに笑う。
「そういえば、さっきからおれの思い出話ばっかりだな。直坂はなんかないのか?」
「え、あたし? えっと……あんまり思いつかないけど……」
「なんかあるだろ。大げんかしたところとか、すっころんだところとか」
「けんかなんかしたことないもん。こ、転んだことはあるけど……」
「数が多すぎていちいち覚えてねえか」
「ち、ちがうもんっ。それは、その、話してもおもしろくないことだし!」
「じゃあおもしろい話を教えてくれよ。別に場所はどうでもいいからさ」
駅前の騒がしい場所から、ふたりはまた不破山に向かって折り返す。
地面は不破山に向かって緩やかな上り坂になっている。
八白はそこを楽々歩きながら、おもしろい話というほうに苦労した。
「えっと、じゃあね、菜月ちゃんの話なんだけど」
「おお、いいじゃねえか。織笠の情けない話か」
「情けない話かどうかはわからないけど……中等部のころにね、不破山の山頂までいって、学園に戻ってくるって試験があったの。途中、先生たちが待ち伏せしてて、先に行かせないようになってるんだけど、それを越えて頂上までいって、もう一回学園まで戻ってくる時間を計るって試験だったんだけど」
「へえ、おもしろそうだな。でも織笠なら余裕だろ」
「うん、やっぱり菜月ちゃんはいちばん最初に学園に戻ってきたんだけどね……これ、言っていいのかなあ」
「いいって、別に。織笠には内緒にしとくから、な?」
「う、うん……あのね、山のなかを急いで抜けてきたから、いつの間にか菜月ちゃんの穿いてたスカートが破れててね。それで学園に戻ってきて、クラスのみんなが見てる前で、ウエストが外れちゃって……」
「うわあ……それで、丸出しに?」
「うん。これ、クラスでは言っちゃいけないことになってるんだけど」
「そりゃそうだろうなあ。まず反応に困る。でもおもしろそうだから、おれもいたかったな。鬼の織笠にぼこられるのはいやだけど」
「菜月ちゃん、そんなに怒りっぽい子じゃないんだけど、日比谷くんと牧村くんには厳しいんだよね」
「おかしいな、最初は日比谷だけのはずだったんだけど――ところで、そのときの試験って、おまえはどうだったんだよ」
「え、あ、あたし? ああああたしはべべ別に普通だったよ」
「ほんとのこと言えよ、直坂。その反応を見るかぎり普通とは思えねえ」
「あ、あたしはね……その、ちょっと、迷子になっちゃって」
「迷子?」
「山のなかで、道がわからなくなってね、同じところをぐるぐる回ってたら、日が暮れてきちゃって……」
「ははあ、なるほど。で、いつかのように号泣してるところを発見された、と」
「だ、だって、道もない山のなかなんだもん。普通迷子になるような場所なんだもん」
「一般人ならともかく、精霊使いだろ。木の上まで飛び上がれば方向もわかるし、だいたいの場所もわかると思うけどな」
「る、ルールで木の上まで飛んじゃいけないってなってたの! だからちゃんと山のなかを進んで……い、いまならそんなにまじめにやらなくてもいいってわかるよ? でもあのころはそれがよくわかんなくて」
「いや、うそだな。いまでもルールで決められてたらまじめに守ってる。で、迷子になってる。で、号泣してる」
「しないよっ」
和人はけらけら笑う。
八白はぷりぷり怒る。
ふたりは緩やかな坂を登り切って、再び住宅街のなかに入った。
無意識のうちに、お互いの家への道を辿っている。
途中、新聞の配達所があり、その横が個人経営の電気屋になっていた。
「ここ、こんなのあったっけ?」
と和人が店の前で立ち止まる。
店先には商品名が書かれた幟が立っていたが、それを見るかぎり、つい最近できたというふうでもない。
幟は風雨にさらされてぼんやりと黒ずんでいる。
ショーウィンドウも埃かなにかでくすんでいた。
その奥に何台か見本のテレビが置いてある。
「何年か前にできたんだよ。五年くらいかな。知らないの?」
「いや、ぜんぜん知らなかった。スーパー行くときも学校行くときもこの道は通らねえから……新聞の配達屋があるのは知ってたんだけどな」
とくに興味があるわけでもなかったが、ふたりは店の前で止まって、展示されているテレビを眺めた。
四台あるテレビは、すべて同じチャンネルになっている。
国営放送である。
もしそうでなくても、流しているニュースは同じだろう。
ここ数日、都内の大規模避難が行われたほかは、ニュースも停滞していた。
それがいま、大きく状況が動いている。
テレビのなかでまじめな顔をしたアナウンサーがそれを事細かに伝えている。
声は、店の外までは聞こえなかった。
忙しく切り替わる映像だけを見ていても状況は理解できる。
スタジオには都内の拡大図が置かれ、指揮棒を持ったアナウンサーがそれを指し示しながら情報を伝えていた。
そこに速報の字幕が重なる。
精霊使いが国会議事堂を占拠、自衛隊が出動――。
アナウンサーが指し示す場所は、戦闘が行われている地域のようだった。
指揮棒の先には霞ヶ関がある。
日本一の官庁街、そのビル群のなかで、戦闘が行われているのである。
「はじまったみたいだね」
八白が、それとなく和人の腕を掴んだ。
「先生たちはいつかこうなるって言ってたけど……どうなるんだろう」
「はじまったからには、どっちかが倒れるまでやるんだろうな」
和人は八白の手を振り解いた。
そして八白に向き合う。
「直坂、先に帰っててくれるか。あの場所を使えば、だれにも気づかれずに帰れるはずだ」
「牧村くんは?」
「おれはちょっと、行ってくる」
ちらりと和人はテレビ画面を見た。
「行かなくちゃいけない気がするんだ」
「でも――」
「散歩に付き合ってくれてありがとな」
和人はにっと笑った。
ぎこちない笑みだった
しかし泣きそうな八白の顔を見て、表情を改める。
「泣くなよ。泣いたって、おれは助けに行けないぞ」
「泣いてないもん……でも、ほんとに行くの?」
「危なかったら、すぐに帰ってくるよ。ただあの場所に行って決着をつけなきゃいけないことがあるんだ――帰ってきたら、それも全部話すから」
「うん……」
「じゃあ、またあとでな」
和人は八白に背を向けた。
それを最後に、八白のほうは振り返らなかった。
住宅街のなかを走っていく。
人気がなくなったら精霊石を使って飛ぶにちがいない。
電車よりもそのほうが速く移動できるし、都心ではあらゆる交通が麻痺している。
八白は見送った。
和人の姿が見えなくなってから、涙が出てきた。
どんな理由で自分が泣いているのか、八白にも理解できていない。
泣いたら最後、本当に泣かなければならないような事態が起こる気がして、八白は必死に涙を止めようとした。
しかし学園に着くまで、涙は止まらなかった。