第三話 19
19
ホワイトハウス奪還という報道は、ここ半月ほどでもっとも希望的なニュースであった。
だれもが希望に飢えていたこともあり、そのニュースはすぐに世界中を駆け巡り、奪還を実現させた優秀な男たちを称賛した。
精霊使いにとっては最初の成果であったホワイトハウスを奪還したことは、相手の出鼻を挫いたようなものだ。
それによって精霊使い側に傾いていた流れが再び戻ってくるだろうと、やはりテロリストが世界を掌握するなど不可能なのだと感じる人間は大勢いた。
世間全体がそう思っていたといってもいい。
精霊使いの降伏と、人間の勝利は目前であると無邪気に信じていたのだ。
その翌日である。
ロンドン壊滅、との一報が入ってきたのは。
写真や映像としてその様子が伝わってきたのは第一報から半日以上経ったあとだった。
ロンドンの歴史的町並みが見るも無惨に破壊された風景は、だれの心にも衝撃を与えた。
まるで巨大な竜巻が暴れまわったような有り様である。
商店のガラスは砕け散る。
公衆電話や街灯は押し倒される。
橋は落ちる。
塔は焼ける。
宮殿は崩れる。
それまでロンドンの町を作っていたものすべてが、粉々になっている。
ただのテロ行為ではなかった。
純粋な破壊である。
重要な施設も、重要でない施設も区別なく破壊されている。
あの巨大な時計塔も、あの古い町並みも、あの豪奢な宮殿も、あらゆるものが駆逐されてしまった。
ロンドンという町が世界から失われたのである。
続いて、王家は無事だとか、事前の避難が迅速だったために人的被害は軽微であるとか、多少希望を持たせるような報道があったが、そのようなことよりも破壊された町は雄弁に語るのだ。
瓦礫のすき間から煙のように立ち上る絶望や恐怖を、晒された死体に見える挫折や諦念を、ひとはどうしても感じ取ってしまう。
ひとの心を震え上がらせるようなものが、その破壊され尽くした町には溢れていた。
その破壊をやってのけたのは、ひとりのテロリストではない。
数百人規模の精霊使いの集団がロンドンを襲った。
彼らはイングランドの中心たるバッキンガム宮殿を完膚無きまでに破壊し、それから王族が避難しているロンドン近郊の町に向けて行進を続けているらしい。
イギリスは時間の問題だ――とだれもが感じ、同時に、イギリスの次は自分の国かもしれないという恐怖が頭をよぎる。
実際、ロンドンの壊滅から四日後には、フランスでそれまでにない大規模な精霊使いによる暴動が発生した。
ひとりひとりでも手に負えぬ精霊使いが集団と化せば、制圧する手立てがない。
ミサイルを撃ち込め、と叫ぶ市民もいたが、パリの中心に向かって撃ち込めるはずもない。
フランス軍は戦車や実弾入りの火器を投入し、地上戦を展開した。
それが最初の、精霊使いと軍との衝突であった。
パリの町は入り組んでいる。
精霊使いは身軽で、どこにでも隠れている。
さながらジャングルを行進するような気持ちで制圧に向かう軍と、これから攻め上がって主要な宮殿を襲撃しようという精霊使いでは、自然と勢いに差が出る。
軍が投入された時点で、パリ市内のほとんどに避難指示が出され、観光客の立ち入りも禁止された。
パリは戦場となり、その結果としていくつもの建物が破壊され、いくつかの文化的な遺産が消滅した。
勝ち残ったのは精霊使いである。
フランス軍を完全に制圧したのではなく、すこしずつ前戦を押し上げていくことで、精霊使いたちは目的の重要な建造物を破壊するに至った。
こうしてパリはロンドンに続く破壊された都市となり、世界各地の大都市でも同様のことが発生した。
恐るべきは、世界中で蜂起した精霊使いたちに、ほとんど繋がりがないことである。
指導者的な役割を果たす精霊使いは存在し、その数人だけはお互いに繋がっていたが、実際に行動を起こした数百人の精霊使いたちはみなテロ組織とは無関係の精霊使いだった。
彼らはテレビに導かれ、破壊に加わったのだ。
いままで虐げられていたものが強者をなぎ倒していく様子は、弱者に感情移入するなら小気味よい。
おれにもできるかもしれない、おれもやっている、という気概だけで彼らは破壊の列に加わり、世界中を荒らし回った。
もはや軍は相手にならない。
数百の精霊使いに対抗しようと思うなら、数万の軍勢が必要になる。
それだけの人数をひとつの都市に集中させることができない以上、軍は精霊使いを適度に牽制しながら後退を続けるしかなかった。
そうして一月もしないあいだに、いくつもの都市が姿を消した。
ロンドン、パリ、ニューヨーク、ローマ、北京、モスクワ――栄華を誇った都市が次々に消えていくなかで、最後まで残った先進国の首都は、東京であった。
日本では反精霊使いの暴動が最初に起こったが、それが警察や自衛隊などによって鎮圧されたあとは、目立った問題は起こっていなかった。
日々世界中から飛び込んでくる終末的なニュースを見て、不安に思うだけである。
日本では精霊使いに対する差別が比較的すくない――その分、日本では精霊使いによる暴動など起こらないという人間もいたが、ほとんどは時間の問題だと気づいていた。
そして世界中から十日ほど遅れた九月のある日、日本もそのときを迎えることになるのである。
*
嵐が吹き荒れようとしている。
国ひとつを飲み込み、あるいは吹き飛ばすほどの巨大な嵐だ。
それこそ、柿野猛が待ち望んでいたものだ。
退屈極まりない日常が一瞬で駆逐され、命がけの世界が現れるのだ。
いつも同じ顔、同じ場所、同じ会話にはうんざりしている。
環状線をくるくると回っているだけの日常を、精霊使いが完全に破壊してくれた。
猛は、仕事とは別に、この状況がうれしくて仕方ない。
これから見るものは、すべてはじめて見るものだ。
これから出会うものは、すべてはじめて出会うものだ。
くるくると回る日常ではない。
目眩がする退屈な日常ではない。
なにもかもここからはじまるといってもいい。
新しい世界だ。
まったく新しい時間と場所が生まれようとしている。
だれがそれを支配しているのかなど、猛は気にしない。
どうせ、それは自分ではないのだ。
禿頭の老人が牛耳っていようが、若い精霊使いが力で支配しようが、同じことだ。
むしろ世界が変質していくなら若い精霊使いに委ねたほうがいいとさえ思う。
固定などつまらない。
安定など捨ててしまえ。
流動こそすべてだ。
変化こそ真実だ。
万華鏡のような世界こそ、いちばん美しいのだ。
瞬きをするあいだに様変わりしてしまう世界こそ、真に生きる価値がある世界である。
猛は当然、そうした世界が生まれる瞬間を間近で見るつもりであった。
政府が都内のほぼ全域に避難指示を出しても、無視して自室にこもっているのもそのためである。
すでに何人かの精霊使いから、いつごろ暴動が起きそうかという情報を仕入れていた。
それによると、精霊使いによる暴動はごく近いうち、ほんの数日で起こるという。
暴動を計画するだれかがいるわけではないが、肌で感じるのだ。
精霊使いたちは、爆発寸前である。
いままで頭を押さえつけられてきた反動が起ころうとしている。
欧州やアメリカでは、その押さえつけが強かった。
その分、反動も瞬発的で、力強かった。
日本は、それよりも緩やかである。
しかしふつふつと溜まった不満は、臨界近くまできている。
長い年月をかけ、何代も経て溜まっていく不満である。
そこへきて、他国の暴動を見せつけられ、自分たちも同じことをしていいのだ、と感じれば、暴動が起こるのは必然というものだ。
怒れ、怒れ。
破壊に憧れるなら、すべて壊してしまえ。
おれはその瞬間をしっかり見てやる――猛は、精霊使いの激情に期待していた。
暴動が起こるのを待ち、いまはソファに座って、テレビを眺めている。
報道関係者も、いまは都内からほとんど逃げ出している。
主な放送局は東京近郊のローカル局を間借りし、そこからキー局の放送を流していた。
といっても、どの放送局でも流しているのはニュースだけだ。
ドラマやバラエティは一切ない。
スポーツニュースもしない。
世界の終わりをひたすら伝えている。
いまも、テレビにはパリの様子が映っていた。
暴動が発生する前の美しいパリと、暴動が発生したあとの破壊されたパリを交互に映している。
凱旋門、エッフェル塔、ルーブル美術館――美しかったパリは、その反動で、世界でもっともみじめな町に変わっている。
凱旋門は変わらず立っている。
しかし至るところが破壊され、石が欠け、装飾がそぎ取られている。
エッフェル塔は見る影もない。
ほとんど真横になって倒されている。
巨大怪獣が暴れまわったような規模の大きさだが、精霊使いはそれと同等の力を持っているのだ。
ルーブル美術館もやはり被害は免れない。
ピラミッドを模したガラスのモニュメントは粉々になり、地下の入り口にはガラスが散乱している。
それよりも大きいのは、内部に収蔵されている美術品の被害である。
数億では利かない名画や彫刻が、おもしろ半分で破壊されている。
ダヴィンチのモナリザは破かれた上、逆さに飾られている。
ミロのヴィーナスには首がない。
まるで子どものいたずらである。
芸術を、人類の叡智を嘲笑するような暴挙に猛は、
「はっはっは」
と笑っている。
笑いが止まらない。
それでいいのだ。
やりたいようにやればいい。
常識など振り切ってしまったのだから、もはやなにに囚われる必要もないのだ。
やりたいように、やり尽くす。
破壊したいだけ破壊する。
そのあとに生まれる世界の、なんと不安定なことか。
なんとおぼつかないことか。
戦争や内戦どころではない。
だれひとりとして例外なく、混乱のなかに叩き込まれる。
それでいい。
そうでなければ、精霊使いが立ち上がる意味がない。
猛はテレビのチャンネルを変える。
どこでも同じようなニュースをやっていて、それが普段は退屈だったが、いまは混乱ぶりを眺めているようでおもしろい。
と――ぴんぽん、と呼び鈴が鳴った。
猛はリモコンを握ったまま、玄関を見る。
政府が出した避難指示には、このあたり一帯も含まれている。
素直に従っているなら、いまごろはだれもいないはずだが――。
ぴんぽん、と再度呼び鈴が鳴る。
それでも無視していると、扉がどんどんと叩かれる。
仕方なく、猛は立ち上がった。
鍵を開ける。
すかさず、というように、ノブが動いて扉が開く。
「いま、無視しようとしたでしょ!」
「……惠か」
ふう、と猛は息をつき、ソファに戻る。
「惠か、じゃない!」
惠は靴を脱ぎ、どかどかと部屋に上がる。
「あのね、ずっと電話してたんだからね。メールも、百通くらいした!」
「それがうるせえから着信拒否にした」
「ちゃ、着信拒否って……お兄ちゃんのばか!」
「なんだよ。おまえ、避難はどうした?」
「それはこっちの台詞。どこに避難したのかと思って電話してたのに、ぜんぜん出ないんだもん。もしかしたらって思ってきてみたら、やっぱり」
「おれはジャーナリストだから、避難しなくていいんだよ。これからが仕事だ」
「仕事よりもわが身の安全でしょ?」
「わが身の安全よりいい写真、だ。そういう仕事だぜ、記者ってのは」
ふん、と惠は鼻を鳴らす。
そして、この兄にはなにを言っても無駄だと思ったのか、猛のとなりにどかりと腰を下ろす。
「おい、落ち着くなよ。さっさと避難所へ行け。長居すると危ねえぞ」
「お兄ちゃんが避難するなら、あたしも避難する。お兄ちゃんが避難しないなら、あたしもしない」
「うわあ、めんどくせえ……」
「兄を心配する妹に言う言葉? 前から思ってたけど、お兄ちゃん、あたしのこと邪険にしすぎだと思うの」
「めちゃくちゃかわいがってやっただろ。いまだってかわいがってやってる。はいはい、かわいいかわいい」
「うう、鬱陶しい、頭撫でるなっ」
「どうしろっていうんだよ」
「いっしょに避難しよって。テレビ見たでしょ。イギリスとか、フランスとか、ひどいことになってるじゃない。東京だってあんなふうになっちゃうかもしれないんだよ。そしたらほんとに危ないよ」
惠は、しおらしくうつむいてみせる。
う、と猛は言葉に詰まる。
「おれは、仕事があるからだめだって言ってるだろ。おまえだけでも避難しろ」
「……ちぇ、気弱そうにやってみてもだめか」
「てめ、演技かっ」
「演劇部ですから」
ふん、と惠は鼻を鳴らす。
「ねえ、ほんとに避難しないつもりなの? 警察とかに怒られるよ。もしかしたら逮捕されるかも。そしたら仕事どころじゃないでしょ。一旦避難して、安全になったら戻ってきて取材するっていうのがいちばんいいと思うけどな」
「安全なところでなにを取材するんだ」
「それは、ほら、避難してたひとの気持ちとかさ。やってるでしょ、テレビで。避難所はどうでしたか、みたいな」
「百万じゃ利かない数が避難してるんだ。都の人口の半分が避難したとしても、六百万だぜ。いまさらだれが避難所暮らしの様子なんか知りたがる」
「じゃあ、ちょっと早めに戻って、最初に東京の街を見て回る」
「結果だけなら、いつ見ても同じだ。あとからきたやつじゃ撮れない写真を撮らねえと意味がない」
「だから、それじゃ危ないってば」
堂々巡りである。
強情さでは、両者譲らない。
兄妹である分、お互いにそれはわかっているが、わかっていても退けない性格までうり二つだった。
と、そこに、猛の携帯電話が鳴る。
これ幸いと猛はすぐに通話ボタンを押した。
「もしもし、柿野です」
「おう、おれだ」
野太い声である。
名乗らず、そんなことを言う相手はひとりしかいない。
「小林か。どうした」
「きたぜ」
小林亮二とは、大学時代からの付き合いである。
お互いに新聞社と出版社に就職したあとも、同僚とはまたちがう友人としての付き合いが続いている。
だからこそ、その一言ですべてが伝わった。
「きたか」
と猛も呟き、立ち上がる。
「なに、なにがきたの?」
惠は不思議そうに猛を見上げる。
「で、規模は」
「まだちいさい」
小林は言った。
「せいぜい、二十人ってとこだ。でもすぐにふくれあがるぜ。おれが見てる前でも、五人増えた」
「おれもすぐに行く。場所は」
「青山通り。神宮球場の横だ」
「神宮か。東宮御所やら迎賓館やらあるところだな。まずはそこを狙うつもりか」
「だろうな。最終的には霞ヶ関、あるいは桜田門だ」
「おまえは、いまそこにいるのか」
「ああ、うちの優秀な情報屋が教えてくれてね」
「うちの情報屋は足が遅いらしい」
「ねえ、だれからの電話? 妙にうれしそうだけど」
惠は猛の腕を引く。
その声に気づいたらしく、
「惠ちゃんもいるのか」
と小林が意外そうに言った。
「てっきり、避難させてると思ったが」
「勝手にきたんだよ」
猛は惠を見下ろした。
「で、いまもおれの足を引っ張ってる」
「引っ張ってるのは腕ですー」
「ちょっと、代われ。おれが説得してやる。そのほうが早いだろ」
「じゃじゃ馬だぜ、大丈夫かよ」
猛は不安に思いながら、電話を惠に渡した。
「小林だ。前に会ったことあるだろ?」
「小林さん? ああ、あの、ひげのひと」
「ひげは剃ったよ」
と小林は笑う。
「久しぶりだな、惠ちゃん。相変わらず美人か?」
「うん、相変わらず美人です。小林さんは、ひげじゃなくなったの?」
「あのときは張り込み明けだったんで、剃るひまがなかったのさ。普段のおれはひげじゃない。スーツを着こなすインテリな男だぜ。ま、安物のスーツだが」
「お兄ちゃんも安いのしか持ってないよ。ぺらぺらのやつ」
「おい、早く説得しろよ、小林」
荷物をまとめながら、猛が叫ぶ。
「あたし、説得には応じない構えですから」
惠は胸を張る。
「そいつは困ったな。説得するって約束しちまった。あいつのことはおれが見張ってるから、惠ちゃんは避難したほうがいい。どこが戦場になるか、おれにも予想できないんだ」
「さっき、神宮とかって言ってたでしょ。赤坂なら、ここからはちょっと離れてます」
「連中が攻め上がるだけなら、たしかにそのへんは安全だろうが、たぶん制圧に自衛隊が出る。そうなったら赤坂からもっと東へ押し戻される可能性もあるし、集団が分裂してゲリラ戦になるかもしれん。東京全体が戦場になるかもしれないんだよ。わかるだろ?」
「危ないのは、お兄ちゃんもいっしょでしょ」
「あいつはそれが仕事だからな。戦場カメラマンみたいなもんさ。真実を知りたいなら、だれかが危険を冒して入り込む必要がある」
「でも、それがお兄ちゃんじゃなきゃだめって決まりはないはずです。それこそ小林さんが行くとか」
「おれならいいんかい」
「とにかく、お兄ちゃんはだめですっ。妹として、あたしが行かせませんから」
「むう……あいつにはもったいない妹だな。なあ、惠ちゃん、おれの妹にならないか。いまならバツイチの姉もついてくるぜ」
「言うこと聞いてくれないお兄ちゃんはひとりで手一杯です」
「だろうな。あいつの扱いが面倒なのはわかるよ。ひとの言うことを聞くようなやつじゃない」
「そうなんですよねえ」
はあ、と惠はため息をつく。
「なんだよ」
と視線を感じた猛が顔を上げる。
「諦めたか?」
「小林さんと、お兄ちゃんの自分勝手さについて話してたとこ」
「おい小林、さっさとしろ。時間がねえんだぞ」
「――というわけだ、惠ちゃん。あいつも怒ってるし、そろそろ諦めてくれねえかな」
「だめですってば」
「でも、惠ちゃんが止めて言うことを聞くようなやつじゃないってわかってるだろ。あいつは、自分がやるって決めたことはだれが止めたってやる男だ。それこそ総理大臣が止めたって聞きゃしねえ」
「総理大臣がだめでも、あたしならなんとかなります。妹ですもん」
「はあ……兄妹揃っておんなじような性格してるなあ。じゃ、言い換えよう。あいつがそれほど行きたがるってのは、仕事だからじゃない。それほど仕事熱心なやつじゃないからな。言ってみりゃ趣味みたいなもんさ。あいつはああいう荒れたところが好きなんだ。そこでしか生きていけない。見てみろよ、あいつの顔。普段と比べものにならねえくらい楽しそうだろ」
「……たしかに」
「手足縛って無理やり引き止めても、あいつならその手足を引きちぎって出ていくだろうよ。それが生き甲斐なんだから、無理に奪うよりは、おとなしく見守ってやったほうがいい」
「でも……そんなの、そばにいるひとはどうしたらいいの? 心配で心配で堪らないのに、待ってるしかできないなんて」
「そのへんは、あいつに約束させりゃいいさ。無事に帰ってこなかったら、保険金全部無駄使いしてやるとか。あいつの恥ずかしい写真を全世界にばらまいてやる、でもいいぜ。おれも見てみたい。なんにしても、止めるってのは無駄だよ。おれより惠ちゃんのほうがあいつのことをわかってるだろ。だったら早いうちに譲歩して、有利な条件を引き出したほうがいい。交渉の基本テクニックだぜ」
「……小林さんって記者なのに、交渉のテクニックまで知ってるんですね」
「記者は案外なんでもできるもんさ。愛想笑いの仕方から接待ゴルフのノウハウまで先輩から教わるからな。戦車だって動かせるぜ」
「また、うそばっかり」
惠は、携帯電話をぽいと放り出す。
長い外出に備えた準備をしていた猛がそれを拾い、
「説得はできたのか」
「まあまあってとこだ。あとはおまえががんばれ。現場で待ってるぜ」
「結局おれが説得するんじゃねえか。まったく――まあ、おれもすぐに行くから」
と猛は電話を切る。
恐る恐る、惠を窺った。
惠はソファに座り、最後に待ち構えるボスのように堂々と腕を組んでいる。
なかなか勝つのはむずかしそうな相手である。
もうすこし熟練してから戦いたいところだが、そんな時間もない。
「まあ、お兄ちゃんのことはあたしがいちばんわかってるけどね」
惠は、ゆっくり息をつく。
「どうしても行くんでしょ? あたしが泣いて止めたって行くってことはわかってるもん。あたしが余命数時間でも行っちゃうに決まってる」
「まあ、そうかもな」
「こら、そこは、そんなことないよ、って言うところでしょ!」
「そんなことないよ」
「棒読み。大根。演劇部よりも園芸部向きだわ」
「うるせえな。もういいだろ。おまえはちゃんと避難所に行けよ。そこで待ってりゃ、そのうち避難指示も解ける」
猛はリュックサックを背負う。
そのリュックサックが生活に必要なすべてである。
「じゃあ、行ってもいいけど、ひとつ約束ね」
「なんだ」
「絶対、無事に帰ってくること」
「わかってるよ。おれだって死にたいわけじゃない」
「もし無事に帰ってこなかったら、ひどい目に遭わせるから」
「無事じゃない上にひどい目か」
「お兄ちゃんにプロポーズされた、って近所に言い触らすからね」
「……はあ?」
「もし無事に帰ってこなかったから、近所では妹にプロポーズした変態だって話題になってるから、そのつもりで」
「おい、おれを社会的に抹殺する気か?」
「無事に帰ってくればいいんだから、別にいいでしょ。それとも、ただの口約束?」
「むっ……わかったよ。もし避難指示が解けても帰ってこなかったら、なんとでも言えばいいさ。変態でも変質者でも、なんでもお好きに」
「絶対、帰ってきてよね」
「わかってるって言ってるだろ」
面倒そうに猛は言って、玄関へ出た。
惠もいっしょに靴を履き、家の外へ出る。
「避難所の場所、わかってるな」
「うん」
「都心から離れりゃ危険はない。そもそも、どうやってここまできたんだ。電車も止まってるし、タクシーもないだろ」
「くるま」
「おまえ、運転できたっけ?」
「だって道にだれもいないんだもん。事故っても平気でしょ?」
「……おまえのそういうところ、おれに似たのかなあ」
エレベーターで地下へ下りて、猛は自分の車に乗る。
惠が乗ってきた車というのは、黒塗りのベンツであった。
もちろん、惠の車ではない。
そもそも免許すら持っていない女子大生が、黒塗りのベンツを持っているはずがない。
「鍵がつけっぱなしで、そのへんにあったの」
と惠は軽く言って、ベンツに乗り込んだ。
「よく外車を選ぶな、おまえ。とくにその車、やべえぞ」
「黙ってればばれないって」
「事故らずに帰れよ。二重の意味で、事故ったら危ないからな」
「大丈夫、大丈夫。あたし、運転の才能あると思うの」
「どうだか」
しかし、惠は乗り慣れた車のようにエンジンをかけ、軽やかに発進させる。
狭い地上への入り口も難なく通っていった。
猛のほうが肝を冷やすような運転である。
惠はマンションの外でクラクションをひとつ鳴らし、巨大なベンツを乗り回して去っていった。
猛のほうは古い国産車で、何度車検を迎えているかわからない。
車など動けばいいのだ、と猛は心中で言い訳しながらマンションを出て、赤坂に向かった。
普段は渋滞ばかりしている都心の国道が、いまはまったく人通りがない。
しいん、と静まり返っている。
そこを猛の車がいく。
速度を気にする必要もない。
ぐんぐん加速して、ほんの十分ほどで神宮球場まで辿り着いた。
青山通り沿いに車を止め、そこから歩いて球場の周辺へ向かう。
このあたりも避難は済んでいて、通行人の姿はひとりもない。
都心がすっかりゴーストタウンと化している。
この都市はいま、死んでいるのだ。
一時的にせよそうさせた時点で、精霊使いたちは勝利したに等しい。
未だかつて、東京がこれほど静かだったことはあるだろうか。
過去の震災でも、大空襲でもそこにはひとがいた。
どれだけ犠牲者を出しても、都市ひとつを明け渡そうという発想はなかったにちがいない。
精霊使いたちはそれを成功させたのだ。
政府は、それほどまでに精霊使いを畏れているのである。
この都市ひとつと引き替えに精霊使いを押さえ込めるのなら安いものだと判断したのである。
事実、同じ状況に陥ったロンドンは早い段階で住民を避難させ、人的被害は免れている。
パリはむしろ最後まで政府からの避難指示は出さず、多数の人命が犠牲になり、結局文化的遺産もなにひとつ守れなかった。
臨時政府を千葉へ置き、皇室もろとも東京から逃げ出したのは決して誤った判断ではない。
その対策によって、精霊使いはだれもいない家を襲撃するしかなくなったのだから。
猛は球場の正面入り口に着いた。
普段は野球の観客がうろついているあたりに、二、三十人ほどの集団がいる。
精霊使いである。
様子を見るために、猛は物陰に潜んだ。
そこを、
「おい」
と肩を叩かれる。
猛は弾かれたように振り返った。
「遅かったな。ちゃんと惠ちゃんは避難所へ行ったか?」
「――小林か」
立っているのは、長身の男である。
日本人離れした身長に、筋肉が隆々とついている。
眉は太く、髪は短く刈り込んでいた。
表情は存外にやわらかい。
「あいつに余計なこと言ったの、おまえだろ」
「ばれたか。なに約束させられた?」
にい、と口元を釣り上げ、小林は笑う。
「無事に帰ってこいとさ。でなきゃ、おれは社会的に抹殺される」
「ふうん――肉体も死んで、名誉も死ぬわけだ。こりゃ生きて帰るしかねえな」
「心配しすぎなんだよ、あいつは。死ぬような仕事だなんて一回も言ってねえのにな。おれだって死ぬくらいなら仕事諦めて逃げ出すよ」
「そいつはどうかな。興味があったら、死ぬかもしれないと思っても行くだろ。今回だって、そうだ。下手したら死ぬぜ。よそでも記者が何人か犠牲になってる。軍側から攻撃されることはないだろうが、破壊に夢中の精霊使いに狙われるかもしれん」
「連中もそこまでひまじゃねえだろ」
猛は顔を出し、精霊使いの集団を窺う。
まだ行動を開始しそうな気配はない。
「あの人数で行くつもりか」
「いや、もっと集まるのを待ってるんだろう。ネットで呼びかけてるやつらがいる」
「ふうん――そういや、ホワイトハウスの中継で日本にも仲間がいるって言ってたな。あれは、どうなったんだ。ほかの国でもそうだったが、どうも集団の大半はテロ組織と関係のないただの精霊使いだ。あいつらも、そうじゃないのか」
「詳しくはわからんが、裏で操ってる連中がいるのかもな」
「危ない橋は、まず他人に渡らせるってことか」
猛は鼻を鳴らした。
「それなら、裏で待ってる連中を引っ張り出してやる。お互いに余裕を残した小手調べより、全力での殺し合いのほうがいい」
「どうやって引っ張り出す?」
「戦況をうまくそういう方向に持っていけばいい。ここから先は別行動だ。おれは、連中の内部に入る。おまえは外部からうまく探ってくれ」
「内部って、どうするつもりだよ」
「任せとけって。霞ヶ関か、桜田門で会おう」
猛はひらひらと手を振り、物陰から出た。
そのまま、無防備に精霊使いの集団に近づく。
集団のほうでも猛に気づいた。
二十人あまりが猛をじろりと見て、警戒する。
「おれは警察でも自衛隊でもない」
猛は両手を上げる。
「ただの記者だ。あんたたち、精霊使いだろう。ちょっと取材をさせてほしいんだ」
「取材?」
精霊使いたちは顔を見合わせる。
若い。
ほとんどが二十代と思しき若者である。
そこに数人、四十すぎの男が混じっている。
彼らがこの集団を率いているのかとも思ったが、身なりを見る限り、どうもちがう。
四十すぎの男たちは、みなみすぼらしい格好をしている。
おそらく、このあたりにいた浮浪者かなにかなのだ。
それが精霊使いが集まっていると聞いて、自分たちも加わったのだろう。
「なにを取材するんだ」
若い男が言った。
リーダーというふうでもない、と猛は考える。
ジーンズにTシャツ、その上からシャツを羽織った若者で、大学生のように見える。
「あんたたちを取材したい。これから東京をぶちこわしにいくんだろう。あんたたちがやったことを正確に伝える必要がある。あんたたちも、そう思うだろう」
「すべて済んだら、警察に売るつもりか」
「まさか。おれも避難指示を無視してここにいるんだ。なんなら、町を壊す手伝いをしてもいい。誓って言うが、おれはあんたたちの敵じゃない。あんたたちのことを密着取材したいだけだ。そっちが望むなら、顔や名前はすべて伏せる。あんたたちは革命がしたいんだろう。そうだとしたら、それを的確に伝える必要がある。意思が伝わらないんじゃ、ただの空き巣になっちまうぜ」
精霊使いたちはまた顔を見合わせ、小声で話し合いをはじめた。
そこに、浮浪者じみた中年の男たちは入っていない。
数人の若者が話し合い、それで結論を出す。
「いいだろう。その代わり、取材中はこちらの意思に従ってもらう。それから、取材中の安全は保証しない」
「もちろん、自分の身は自分で守るさ。精霊使いさまに守ってもらう必要はない」
にこりと笑って、猛は若者の集団に溶け込む。
改めてあたりを見てみると、集まっている精霊使いの年齢層はかなり低い。
学生らしく見えるのがほとんどで、もうすこし年長でも二十代後半というところだった。
「あんたたちは、ホワイトハウスを乗っ取った連中と関係があるのか」
「いや、直接の関係はない。おれたちは、あれを見て集まったんだ。これはずっと精霊使いを虐げてきた人類に対する復讐なんだ。人間のあんたにはわからないだろうな。精霊使いのおれたちが、いままでどんな気持ちで生きてきたのか。生きているより、死ぬほうがマシだった」
「でも、いまは生きている」
猛は若者の肩を叩く。
「生きているから、復讐できる。生きていてよかったな」
若者は驚いたような表情を浮かべ、猛を見る。
彼らには、猛が奇妙な人間に見えているらしい。
そのなかに携帯電話をいじっている男がいる。
猛はその男に近づいた。
「ネットに情報が出てるって聞いたが、あんたがその担当かい?」
男は弾かれたように顔を上げた。
怯えたような目つきである。
「取って喰いやしないよ」
苦笑いで猛は言った。
「取材したいだけだ。ネットでひとを集めてるんだろう。集まりそうかい」
「……あと二十人はくる予定になってる」
「ほう、大したもんだ。じゃあ、そいつらが合流するのを待って出発か」
「いや、すぐに出発する」
と別の男が言う。
「ほかの連中はそのうち追いつくだろう。あんまり長居をして警察やら自衛隊やらが集まってくるとまずい。移動しながら合流するのがいちばんだ」
「ふむ、たしかに。まずは、東宮か」
「いまは時間がない。永田町と霞ヶ関、それに皇居だけを狙う」
「国会と官邸、省庁に皇居か。国にダメージを与えるなら、たしかにそこを狙うだけで充分だ」
精霊使いたちは行進を開始する。
神宮球場前から青山通りへ出て、まっすぐ西へ進んだ。
猛もそれについていく。
しかし――これで本当に大丈夫か、と猛は考える。
自分のことではない。
彼ら、精霊使いの心配である。
いまのところ、たった二十余名しか集まっていない。
いくら精霊使いでも、それだけの人数ではどうしようもない。
行進している姿も、若者が集まってだらだらと歩いているようにしか見えない。
あるいは、この襲撃は失敗するかもしれない――。
精霊使いたちは赤坂見附をさらに西へ進んで、永田町に入る。
そのあたりから日の丸を掲げたビルが多くなる。
精霊使いたちは観光客のようにあたりをきょろきょろと見回し、落ち着かない様子だった。
「おい、国会は向こうだぜ」
と猛が指をさすと、彼らはなんの疑いもなくその方向へ歩いていく。
どうも自主性がない――これから国を転覆させてやろうと目論む若者たちとは、到底思えない。
だれもが他人の指示を待っているような顔つきなのだ。
これでどうして国の転覆など可能だろうか。
こうなったら、おれが導いてやる――。
猛はそう思う。
導く人間がほしいなら、導いてやろう。
力はあるが、考える頭がないらしい。
それなら頭になって、指示を与えてやる。
その代わり、彼らにはおもしろい絵を見せてもらわなければならない。
いままでだれも見たことがないような絵である。
それさえ見せてくれるなら、猛は自分が犯罪者になっても構わないと思っている。
国道から奥へ一本入り、猛はそこで立ち止まる。
「正面から狙うなら、ここから向こうに迂回する必要がある。裏から狙うならまっすぐ下りていくだけだ。どうする?」
「正面から狙うほうがいいだろうな」
「もちろん、そのほうがいい。堂々と正面からいくか。なら、そっちへ進め」
猛の指示で、二十人あまりの精霊使いがぞろぞろと動く。
右手に国会の陰を見ながら、ぐるりと正面まで回った。
普段、国会議事堂の正門は複数の警備員によって守られている。
門と車止め、それに警備員の三つで侵入者を防いでいるが、いまは、そのうちの警備員が抜けている。
正門は、呆気ないほどがらんとしている。
門はしっかり閉ざされているが、常人でも乗り越えられるような代物である。
当然、警報などはついているにちがいないが、この状況で気にする必要もない。
侵入はたやすい。
猛は結論づける。
その後ろで精霊使いたちは、呆けたように豪奢な国会議事堂を見上げている。
なるほど、たしかに威風堂々とした建物ではある。
ギリシャふうの強固な建物にも見えるが、それこそ破壊すべき目標であると思えば、猛はむしろ楽しさが先に立つ。
立派であればあるだけ、壊れたときは惨めだろう。
精密であれば精密であるだけ、ばらばらになったときは無情を感じるにちがいない。
「よし、いこう」
と若者のひとりが門に近づく。
ほかもぞろぞろと続く。
門は、乗り越えることもたやすかったが、そうはしなかった。
両手でしっかりと握り、奥へ押す。
猛の目には、若者が何人か門を押しているようにしか見えない。
その程度ではびくともしないはずの門が、ぎぎぎ、と耳障りな音を立てて動いた。
施錠されていた鍵が、がしゃんと大きな音を響かせて壊れる。
門が開いた。
若者たちはそれだけの成果で雄叫びを上げる。
それでいい、と猛はほくそ笑む。
そうして、破壊に喜びを見いだせばいい。
やがて革命という大層な意思など消え失せて、興奮だけが残るだろう。
そこからが本番である。
あらゆるものを破壊するうねりが生まれるのだ。
若者たちはそのままの勢いで敷地のなかへなだれ込んでいく。
猛はすこし遅れて、あとに続いた。
門の奥は広場になっている。
植木などが並び、きれいに手入れされた庭になっているが、それも気にせず、土足で蹂躙していく。
若者のひとりが、必死になって植木を蹴り、舞い落ちた枝を踏みつけていた。
その奥で数人の若者が正面玄関の階段を駆け上がっていく。
――と、そのときである。
ぱん、と膨らんだ風船が弾けるような音が響いた。
猛は一瞬で、銃声だと理解する。
「おい、きたぞ、きたぞ」
猛は近くにいた若者の背中を押した。
「自衛隊か、警察だ。待ち伏せしてたんだ。戦うぞ、戦争だ」
日本を終わらせるかもしれない決戦が、はじまったのだ。