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青の奇跡  作者: 藤崎悠貴
第三話
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第三話 17

  17


 土砂崩れは研究所のすこし下方で起こっていた。

 さほど大規模ではない。

 道路に面した山肌の一部がえぐれ、黄色い土が露出している。

 崩れた土は道路を三、四メートル程度に渡って塞ぎ、向こう側との通行が不能になっていた。

 牧村友和の車は、その狭い範囲で起こった土砂崩れに巻き込まれたのである。

 朱音が到着したとき、すでに土砂崩れの前には何台か車が停まっていた。

 みな一様に、道路ではなく、その下を見ている。

 土砂はガードレールを破壊し、さらに下まで流れているのだ。


「牧村さんの車は?」

「あそこだ、あの下にある。なんてことだ」

「早く助けに行くぞ。精霊使い以外は山肌を下りるな、行っても無駄だ」


 ガードレールを飛び越え、急な山肌を下っていく何人かがいる。

 彼らは研究所に居合わせた精霊使いであった。

 朱音はガードレールに手をつき、呆然とその様子を見ていた。

 友和の車は、土砂に押し流されて斜面を十メートル近くすべり落ちている。

 偶然、途中の木に引っかかる形で止まっているのだ。

 しかし友和の車が土砂を堰き止めているような状況で、なぎ倒された木々ごと友和の車は半ば土砂に埋もれていた。

 朱音の位置からも運転席と助手席を押し潰している巨岩が見える。

 車の屋根はすっかりひしゃげている。

 助けに行ったところで、と思わせるような惨状である。


「きみも行ってくれ」


 と研究員が朱音の肩を叩く。


「牧村さんを助けてくれ、頼む」

「――助かるかどうか」


 それでも朱音はガードレールを越えていた。

 足場の悪い、急な山肌をうまくバランスを取りながら下りていく。

 先行した精霊使いたちはすでに車まで着いている。

 邪魔な木や石を退かしながら必死に車内へ声をかけていた。


「大丈夫だ、返事がある! このでかい岩を退けるぞ、手伝え」


 三人の精霊使いが岩にすがりつくが、足場が悪く、うまく力が入らない。

 横へずらして落とそうにも、直径三メートル近い岩をまっすぐ落とすわけにはいかなかった。


「だれか、ロープを持ってこい。上から釣り上げるぞ!」

「できるだけ丈夫なやつだ。数もできるだけ集めろ」


 車道で何人かが動き、研究所まで大急ぎで戻っていく。

 朱音は車のそばに辿り着いた。

 近くで見ると、なお状況はひどい。

 巨岩が運転席を完全に押し潰し、後部座席も土砂で埋まっている。

 朱音は、このなかに生存者がいるとは到底思えなかった。

 人間がいたとしても、車の屋根とともに押し潰されているだろう――奇跡でも起こらないかぎりは。


「なかに、いるのか?」


 朱音は運転席に近づき、声をかけた。

 するとなかから、


「朱音ちゃんね、きてくれたの」


 と声がする。

 玲子の声である。


「よく生きていたな――外から見ると、ひどい状況だ」

「なかもね。友和くんは、たぶんだめだわ」

「……そうか。いま、車の上に岩が乗っているんだ。それを退けるためにロープを持ってくる。岩を退ければ精霊使いの力で車を斜面の上まで移動させられるだろう」

「そう。でも、それまで待てないみたい」

「怪我をしているのか?」


 間抜けな問いだ、と朱音は自責する。

 このような状況で、無傷などあり得るものか。


「わたしは、腰から下が動かないの。たぶんその岩の下敷きなんだと思う。痛みはないんだけど、抜け出せそうにないわ」

「精霊石を使え。身体は動かなくても、治癒力は高まる。それで助け出されるまでは持つはずだし、その後の回復にも期待できる」

「わたしはいいの。でも、和人が――」

「あの子もいるのか」

「たぶん土砂の下敷きになってると思うの。ここからは見えない。早く助けないと。朱音ちゃん、ひとつお願いがあるの。最後だから、聞いてくれる?」

「……なんだ」

「どこか車内にすき間があるはずなの。光が差し込んでるから――ちょうどあなたの腕が通るくらいのすき間よ。それを探して」


 朱音は土砂の上に這いつくばり、すき間を探した。

 暗い車内から見えても、外からはなかなか見つからない。

 そのあいだに研究所からロープが届き、巨岩に巻きつける作業がはじまる。

 こういうとき、精霊使いは強い。

 人間では到底持ち上げられないようなものを持ち上げ、際立ったバランスでどこでも足場にできる。


「たくさんの精霊使いが友和くんを――人間を助けようとしてくれてるのね」


 車内から玲子の声が聞こえてくる。

 徐々に、その声は弱っているようだった。

 朱音は薄い土砂をかき分け、やっと車内まで通じているらしい穴を見つける。


「あったぞ、ここだ。どうすればいい?」

「手をなかに入れて」


 言われたとおりに腕を入れる。

 思ったよりも深い。

 這いつくばって肩まで入れると、指先になにか触れた。

 硬いものだ。

 それから、ひとの体温を感じさせるやわらかいものがほんのすこしだけ触れる。


「これを、和人に渡して。お願いね」


 手を引き抜く。

 朱音のちいさな手のひらに、薄い青色の精霊石が握られている。


「どうしてこれを手放した。精霊石を使わないと助け出すまで保たないぞ」

「わたしよりも和人を助けてあげて。土砂の下にいるけど、きっとまだ生きてる――そしたらその精霊石を和人に渡してほしいの。そうすれば、きっとその石が和人を守ってくれるから」

「精霊石には適合がある。適合していない精霊石を渡しても意味がない。それに、あの子は精霊使いじゃない」

「お願いよ、朱音ちゃん。すこしのあいだでいいから、あの子を守ってあげて――」

「岩を持ち上げるぞ、全員上へ戻れ!」


 精霊使いたちは一斉に斜面を駆け上がる。


「おい、危ないぞ!」


 呆然とする朱音も腕を引かれ、一度上の道路まで戻った。

 そこで精霊使いたちはロープを持つ。

 ロープは五本が束になっていて、それを七人の精霊使いで引くことになった。

 朱音は、それを横で見ていた。


「引くぞ!」


 雄叫びが上がる。

 ぎぎ、とロープが軋む。

 数トンはあるであろう巨岩が、ゆっくりと斜面を引き上げられる。

 途中、いくつかちいさな岩が落下し、車にぶつかってがしゃんと音を立てた。

 その度に肝を冷やす。


「道路まで引き上げるぞ、最後まで踏ん張れ!」


 七人の精霊使いがたった三人の人間を助けるために協力し、その並外れた力で巨岩を道路の上まで引き上げた。

 すかさず朱音は斜面を下る。

 岩が退けられ、押し潰された車の屋根が露出している。

 まるで紙細工のようにひしゃげている車は、なにかしら異様な寒気めいたものを感じさせた。

 朱音は、その屋根のほうには近づかなかった。

 すぐにすがりついたのは後部座席である。

 そこは大小様々な石や土でほぼ完全に埋まっている。

 朱音は素手でそれをかき分けはじめた。

 すぐ、指先に血が滲む。

 土をかき分けていると硬い石に当たり、爪が剥がれ、血が滲むのだ。

 痛みはある。

 しかし死ぬわけではない。

 死ぬわけではないのだ。

 土砂を掘る。

 ばらばらと思い出したように上から石が振ってくる。

 それが背中にこつんと当たる。

 それでも掘る。

 朱音は時折手を止め、耳を土砂に押し当てた。

 精霊使いの超人的な感覚なら、そのなかでの呼吸が聞こえるはずだった。

 なにも聞こえてはこない。

 呼吸も心音もない。

 これか、と思うようなものは、土砂に押し当てている自分の身体から響いてくるものである。

 しかし玲子は和人が生きていることを確信していた。

 母親としての希望か、精霊使いとしてなにか感じたのか、それは定かではない。

 朱音は玲子の感覚を信じてみようと思っている。

 そうでなければ、素手で土砂を掘り出したりはしない。

 ほどなく、朱音は車の一部が見えるところまで土砂を掘った。

 後部座席のドアの付近である。

 このあたりか、と予想して掘っていくと、窓に行き当たったが、それはすべて砕け、車内にまで土砂が入り込んでいた。

 それも掘り出す。

 気づけば、朱音のほかにふたり、土砂を掘り出す手伝いをしてくれている。


「牧村友和は」


 と朱音は聞く。

 手は止めない。


「死んでいた」


 とだれかが答える。

 それもやはり、手は止めない。


「運転席は、ぺしゃんこだ。そこから出すにはまだすこしかかる」

「助手席は」

「玲子さんがいた。まだ息はある。そっちの救出も急いでいるが、むずかしい。せめて精霊石があればいいんだが、どこかに落としたらしいんだ」

「玲子は自分以外の精霊石でも活性化できる。他人の精霊石を持たせてみるといい。うまくいけば、多少は治癒力が強まるはずだ」

「そうか――ここで玲子さんの体質が役に立つとは」


 割れた窓のなかに上半身を入れ、土砂を掻き出す。

 車内は暗い。

 前半分は土砂には埋もれていないが、巨岩に潰され、ほとんど平らになっている。

 光が入ってくるだけのすき間もないのだ。


「土砂崩れから、何分経つ?」

「かれこれ二十分」

「間に合うか――」


 直接土砂に埋もれてはいなくても、この狭い空間で二十分、酸素が保つかどうか。

 朱音の指先が、なにかやわらかいものに触れた。

 汚れてわかりにくいが、ちいさな人間の手である。


「いたぞ、ここだ」

「急げ、顔のまわりを退けろ!」


 しかし狭い空間で、ちいさな身体の朱音がやっと入り込める程度だった。

 必然、ほかの精霊使いは、朱音が掻き出した土砂をさらに後方へ退けるだけの作業になる。

 朱音は発掘をするように、手のまわりの土砂を退ける。

 手首が現れた。

 ふっくらした、骨張っていない子どもの手である。

 その手首に触れると、まだ体温はある。

 しかし脈がない。

 どれだけ強く指を押し当てても、体内で流動する気配を感じない。


「だめか――」


 と朱音は呟きながらも、土砂を退け続けた。

 腕が出てきて、肩まで明らかになる。

 そこから首へいって、やっと顔が出た。

 土砂でどろどろに汚れているが、見たところ、深刻な怪我はない。

 そうしているうちに、ほかの精霊使いが車の天井を力任せにはぎ取った。

 そこから何人もの精霊使いが和人のまわりに集まり、土砂を退け、なんとか助け出す。

 朱音は和人の胸に耳を当てた。


「どうだ、心音は?」

「いや……」

「そうか――」


 全員が予感していたに違いない。

 ちいさなため息がいくつか洩れ、そのあとはまだひしゃげた車の下敷きになっている玲子のほうへ意識が向かう。

 朱音はひとり、和人を抱き上げた。

 身体の大きさでいえば、朱音と和人はほとんど変わらない。

 和人は全身泥で汚れ、朱音も汚れている。


「こういうこともある。どれだけ望まれても生きられない人間もいる。私は何人もそんな人間を見てきた。奇跡は起こらないのだと言い聞かせられてきたが……」


 朱音は木の幹にもたれかかって、呼吸をしていない和人の身体を抱いた。

 朱音の手には、空のように薄い青色をした貴石が握られている。

 玲子の残した精霊石であった。


「精霊石には、特定の形状というものがない。石になり、剣になり、力になる。もしかしたら、おまえの命になるかもしれない」


 呟いて、朱音は精霊石を和人に近づけた。

 指先で閉じられた口を開けさせ、そのなかに精霊石を入れる。

 ぬるい風の吹く日だった。

 いまの和人に、嚥下する力はない。

 精霊石はいつまでも和人の口内に残り続けるはずである。

 そのとき、また、ひゅっと風が吹いた。

 それに乗って落胆するような息づかいが聞こえてくる。


「玲子さんも、だめだ――間に合わなかった」

「だれひとり救えなかったのか」

「とにかく、亡骸を上へ運ぼう――こんなところに長く眠らせるのはかわいそうだ」


 玲子が死んだのだ。

 奇跡を信じず、自ら精霊石で治癒すれば助かったであろう玲子が死に、奇跡を託された息子の和人も死んだ。

 これでいいのか――と朱音はだれかに問う。

 こんな一家の生き死になど、世界にはなんの関係もないというのか。

 奇跡を起こすだけの価値はないと、見限られたのか。

 それとも、はじめから奇跡などないのか――朱音はきゅっと和人の身体を抱いた。

 すると、ぴくり、と腕のなかでなにかが動いた。


「なんだ――?」


 勘違いか、と思った矢先、再びもぞもぞと動く。

 勘違いではない。

 和人であった。

 朱音の腕のなかで、居心地が悪そうにもぞもぞと動いている。

 まさかと、和人の腕をとってみると、ある。

 血管が脈打っている。


「んん……」


 と和人はちいさくうめいた。


「はは――」


 と朱音は笑う。

 奇跡なのだ。

 これが、奇跡なのだ。

 精霊使いではない、精霊石に決して適合することがないはずの和人が、精霊石を取り込んで生き返った――それが奇跡といわず、なんというか。

 神の奇跡かもしれない。

 母親が起こした奇跡かもしれない。

 しかし和人は奇跡の子となった。

 ただの子どもが、奇跡の子に――世界の命運を握る子になったのだ。

 同時に、朱音は確信する。

 自分もまた、奇跡の子である。

 和人の復活はそのまま、朱音自身の復活でもある。

 はるか昔、朱音も精霊石を飲み込んだことで不老不死を手にしたのだから。


「私たちふたりでなにかをさせる気なのか。私たちを使って人間の世界を壊す気か、それとも別の世界を作らせるつもりか――精霊石よ」


 和人は、どうやら眠っているようである。

 意識を失っているというふうではない。

 安らかに、落ち着いて眠っている。


「だれか、きてくれ」


 と朱音は叫んだ。


「牧村和人は生きていた。上まで運んでくれ」

「なんだって?」


 暗い面持ちで後始末をしていた精霊使いたちが寄ってきて、和人の顔を見てあっと声を上げる。

 たしかにそれは、死人の顔ではない。

 汚れているが、顔の血色はよく、寝息も聞こえる。


「なんてことだ――あのなかで、生きていたのか」

「あのなかでは脈もなかったが、戻ったんだ。上に運んで、落ち着いて寝かせてやろう」

「よし、おれが車まで運ぼう」


 和人は白衣を着た男に軽々と担がれ、斜面を登っていった。

 彼らは当然、そのあとから朱音がついてくるものと信じて疑わなかった。

 しかし朱音はその背中を追わなかった。

 現場付近に残るのでもなく、一足先に研究所へ戻ったのでもない。

 その日、その瞬間以降、朱音は完全に姿を消すのである。

 途中、足を滑らせたかなにかで帰れなくなったのかもしれないと、何度も捜索隊が出たが、朱音の所在は掴めなかった。

 再び朱音が人前に現れるのは、自らの仲間を率いて不破学園を襲撃する十数年後のことである。


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