第三話 16
16
ホワイトハウス奪還のニュースは世界中を駆け巡った。
ホワイトハウスは行動を起こした精霊使いたちにとって最初の成果であり、最初の挫折にもなった。
その頃、世界中のあちこちで精霊使いによる蜂起が起こっていたが、ホワイトハウス奪還のニュースにそうした活動の終息を期待する人間もすくなくはなかった。
しかし、ホワイトハウスが六人の英雄によって奪還された翌日、過去最大規模の精霊使いによる暴動がイギリスのロンドンで発生した。
蜂起した彼らが目指したのは、政治の中心である国会議事堂、すなわちウェストミンスターと、イングランドの中心、バッキンガム宮殿である。
数千人規模、それもすべてが精霊使いであるという前代未聞の集団は、途中商店や歴史的建造物を気の向くままに破壊しながら、すこしずつそのふたつの地点へ向けて行進を続けていた。
そのためにロンドンの都市機能はほぼ停止し、観光客はもちろんそこを生活の基盤としている住民さえ避難を余儀なくされ、ロンドンはあっという間にゴーストタウンと化した。
しかし、なかにはロンドンに残る人間もいる。
バッキンガム宮殿を守る近衛兵である。
王室自体は、すでに安全な地域へ非難している。
近衛兵の大半はその警護へほかの県へ移っていったが、残った彼らは、だれもいない宮殿を守るための戦力である。
数は五十にも満たない。
「さあ、選択せねばならない」
デニス・グレイナーは、集結させた近衛兵たちを見回しながら言った。
今年五十三歳になる彼が、ロンドンに残された近衛兵を束ねている隊長であった。
髪は半ば白髪で、髭にも白いものが混じりはじめている。
背は高く、若いころと変わらぬ体格を維持していたが、加齢は顔の皺になって現れていた。
「われわれはどうするべきか?」
全員に語り聞かせるような口調である。
デニスのほか、集まっている近衛兵には若者も多い。
「暴漢どもは、すぐそばまで迫っている。いまわれわれに与えられている選択肢はふたつだ。ここに残って宮殿を守るか、ただの宮殿と割り切って生きのびるか。女王陛下は、われわれの自由に任せてくださっている」
デニスはすこし後ろを振り返った。
そこには、美しいバッキンガム宮殿がある。
外観はもちろん、内装までイングランドの象徴にふさわしい豪華さで飾られている高貴な宮殿である。
「ここで生きのびても、恥にはならん」
デニスは言った。
「そもそも生きることが恥になるはずがない。自分のため、家族のため、国のため、理由は各々あるだろうが、その命を否定されることは神がお許しにならない。さあ、選択のときだ」
「おれは、ここに残ります」
ひとりが言った。
それにほかの声が一斉に応えた。
「精霊使いに好き勝手されて堪るか。ここはイングランドの中心だぞ。おれも残って戦う!」
「武器をとれ、最後のひとりまで戦い抜け!」
「ひとりでも多くの精霊使いを殺すんだっ」
口々に熱狂が叫ばれ、それがまた熱狂を呼んで、最後はほとんど雄叫びのようになる。
デニスは片手を上げてそれを制した。
「大多数の意見はわかった。しかし本当に全員が残るという結論でいいのか。もう一度言うが、生きのびることは恥ではない。そしてここに残る以上、その命は捨てねばならない。トマス、おまえは」
「もちろん残ります」
「グレッグはどうだ」
「残ります。最後まで宮殿を守り抜きます」
「レドリーはどうする」
「ぼ、ぼくは……」
レドリーはさっとうつむく。
「ぼくも、残ります」
「全員同じ意見ですよ、隊長。おれたちは逃げるような腰抜けじゃない」
「ふむ、そうか――たしかにおまえたちは勇敢だ。私は、できることなら逃げたいと思っているが、おまえたちにはそんな臆病さはまるでないらしい。わかった。今後われわれは決死隊となり、最後のひとりまで戦い抜こう。しかし敵を見誤るな。敵は、精霊使いではない」
「精霊使いじゃないですって?」
「あの連中はただの暴漢だ。精霊使い、と呼ぶことは許さん。イングランドの敵は、精霊使いではない。イングランドに仇をなすもの、その個人が敵であり、すべての精霊使いを憎んではいかん。わかるな――これは宮殿の近衛兵として持つべき心構えだ」
「はっ」
四十人あまりの近衛兵は一斉に踵を鳴らす。
「では各自、武器を持て。装備を固めろ。――レドリー」
「は、はい」
駆け出そうとしていたレドリーは、慌てて振り返る。
その拍子に足が絡まり、その場で大きく転んだ。
仲間たちは気が抜けたように笑いながらレドリーを助け起こす。
「大丈夫かよ、レドリー。そんなドジで戦えるのか?」
「間違って味方や自分の身体を撃つんじゃないぞ」
レドリーは照れた顔で立ち上がり、デニスのもとまで駆けてくる。
「な、なんでしょうか、隊長」
「怪我はないか、レドリー」
「はっ、大丈夫です」
「いまから門を閉める。おまえはそれを手伝ってくれ」
「了解しましたっ」
レドリーは敬礼し、門へ走った。
そのあとをデニスは歩いてついていく。
宮殿の正門前にはロータリーになっていて、普段は観光客や車で溢れているが、いまはまったく静まり返っている。
「この世の終わりのようだな」
巨大な鉄製の門を閉じながら、デニスはぽつりと呟いた。
「こんなロンドンを、こんな宮殿を見るのははじめてだ。まるでひとの気配がない。あのやかましいほど賑やかだった町は、戻ってくるだろうか」
「じょ、女王陛下さえ無事なら、必ず戻ってくると思います」
レドリーは胸を張って応えた。
門の鉄柵を握るその手は、見てわかるほど震えている。
「レドリー、怖いか」
「怖くはありません。すこし寒いだけです」
「そうか。私は怖い。死ぬのは、やはりな。しかし、仕方がないことかもしれん。レドリー、おまえには特別な任務を言い渡す」
「と、特別な任務でありますか」
「いますぐにロンドンを発ち、女王陛下のもとへ行け。われわれが残り、宮殿を死守することを伝えてくれ」
「はっ――し、しかし」
「逃げるんじゃない。大切な任務だ。ここは女王陛下の宮殿だろう。その宮殿がどうなったのか、女王陛下に報告する人間が必要だ。もう車も鉄道もないつらい旅になるだろうが、行けるな?」
「ぼ、ぼくは……本当にみんなと戦いたいんです、隊長」
レドリーはぐっと声を詰まらせ、うつむいた。
その頬を伝い、あごの先から涙がこぼれ落ちていく。
「どうして身体が震えるんでしょう。どうしてこんなに怖いんでしょう。戦いたいのに、その勇気が出ないのはどうしてなんでしょう。ぼくがドジだからですか。ぼくが臆病だからですか」
「ひとはそれぞれ、できることもすべきこともちがう。おまえはおまえができること、すべきことをすればいい。どうしても戦えないというなら、いまはそのときではないということだ。本当に戦わなければならないときがきたら、恐怖も震えも消え去るだろう。ただ勇敢に立ち向かえるだろう。レドリー、報告を頼んだぞ」
「隊長――ぼ、ぼくは必ず女王陛下に報告します。みんなのことを、必ず伝えます!」
デニスは正門を薄く開ける。
そのすき間からレドリーが這うように出て、宮殿に向かい、そしてデニスに向かい、敬礼をした。
デニスは伝統ある近衛兵式の敬礼を返し、レドリーを送り出した。
そこに、後方から近づいてくる足音がある。
振り返ると、三人の比較的若い兵士たちである。
彼らはあたりを見回し、レドリーの姿がないことを不思議に思うような仕草を見せながら、
「隊長、お話があるんです」
「レドリーのことか?」
デニスはほほえむ。
彼らの驚く顔を見れば、話の内容は自ずとわかる。
「レドリーなら、私が別の任務を与えた。いま、宮殿を出たところだ。ここの様子を女王陛下にご報告するためだ」
「なんだ、そうか」
三人の若い兵隊は顔を見合わせ、歯を見せて笑った。
「レドリーのやつ、雰囲気に呑まれてなにも言えないみたいだったから、心配したんですよ。そうか、ちゃんと行けたならよかった」
「おまえたちはいいのか?」
「おれたちは、最初から覚悟してましたから」
「ふむ――おまえたちのような若者がいてくれることは心強いが、そんな若者を死地に追いやらなければならんことが残念だ」
「そうでもないですよ。おれたちは、実はうれしいんです」
「うれしい?」
「このままぼんやり生きて死ぬよりは、中世の騎士みたいに派手に死んだほうがいい。近衛兵になって、まさか本当に戦闘を経験するとは思ってもみませんでしたけど」
「そうか――まあ、理由はなんであれ、目的はひとつだ。一秒でも長く、この宮殿を守り抜く。一秒でも長くこの宮殿が美しい姿のまま残れば、それでいい。われわれの命は蝋燭のようなものだ。蝋が溶けきるあいだだけ、炎は強く輝く。最後には溶けてなくってもかまわない」
「さすが隊長、詩人ですね」
茶化すように若い兵隊たちは笑い、準備のために詰め所に戻っていく。
デニスもそれについて詰め所に戻り、若い兵士に混じって服を着替え、装備を調えた。
衣装は、伝統的な赤と黒の制服である。
武器には現代的な小銃を持つが、腰からは剣を差す。
全員の着替えと装備の点検が終わると、さすがに室内は静まり返った。
それを見計らい、デニスが口を開く。
「それぞれの持ち場だが、おそらく相手は正面から押し寄せてくる。よって後方の警備は必要ない。全員が正面に立ち、向かい撃つ。それでいいな」
「勝算は?」
とだれかが言った。
「もちろん、ない」
デニスは口元を釣り上げて笑う。
「われわれにおそらく安息はない。死をもって痛みからは解放されるが、われわれの死体は暴動のなかに飲み込まれるだろう。踏みつぶされ、ばらばらにされるかもしれん。貴い死さえも与えられないだろうが、それでも戦うか?」
「当然です」
「死んだあとのことは、神に任せますよ」
「よし。では出るぞ。全員装弾せよ」
がしゃん、と一斉に弾倉を込める音が響く。
デニスが最初に部屋を出た。
あとからぞろぞろと兵隊が続く。
だれも観客のいない行進である。
一糸乱れぬ足音が響き、デニスは正門の前で足を止めた。
そこから兵士たちが横一列に広がり、正門の前に人間の壁ができる。
整列してからというもの、彼らは微動だにしない。
小銃を小脇に抱え、両足をぴたりと揃え、顔を上げて堂々と立っている。
ロンドンはまだ静まり返っていた。
空は薄曇りである。
青空ではない日、ロンドンは世紀末の気配を取り戻す。
宮殿前の広々とした空間にもかすかに靄がかかり、幽霊でも現れそうなどんよりした空気が立ちこめていた。
「連中は、どこまできただろうな」
だれかが低く呟いた。
「まっすぐこっちへ向かっているのか?」
「いや、ロンドンを破壊しながらきているんだ」
「ウェストミンスターもだめか」
「ロンドン塔もだめだろう」
「ウォータールー橋も落とされる」
「そして最後にここを潰す気なんだ」
「ロンドンは、どうなるんだ。あいつらをやり過ごしても、なにもかも壊れちまったら、この町はどうなるんだ」
「どうなるもこうなるもないだろう。なんにもなくなって、また一からの町作りさ」
「復興するかな」
「さあ、それだけの金が残っていればいいが」
「財宝も、全部あいつらが持っていく。宮殿は追いはぎに遭うんだ。絵も柱もなくなるだろうよ」
「ロンドンを、イングランドを取られるのか」
「仕方ねえ。戦争だからな。負けたほうにはなんにも残らねえ」
「静かに」
デニスが制した。
「きたぞ」
耳を澄ませば、かすかに聞こえてくる。
大群衆の足音である。
すこしも揃っていない、風音にも似た地鳴りが聞こえてくる。
まだ距離はある。
しかし身体にびりびりと感じるほど大きな音である。
「相手が門を破るまで、手を出すな」
デニスは言った。
「敷地内に入っていないあいだは、敵ではない。門を破って侵入した時点で敵と断定する。それまでは手を出すな」
どどどど――と土砂崩れでも起こっているような音は、たしかに近づいている。
姿が見えるようになるまでの数分間は、待機する兵士たちにとっては何時間にも感じられる時間だった。
やがて靄の向こうに黒い影が現れる。
ひとつではない。
ふたつ、みっつ、と数えられるようなものでもない。
山のようである。
津波のようである。
黒い波が何重にもなって押し寄せてくる。
最初のひとりが現れたと思った次の瞬間には、数百人が門の前に殺到していた。
若い男もいる。
女も、年寄りもいる。
表情も様々である。
興奮に顔を火照らせている者がいれば、青ざめている者もいる。
手に武器を持っているものもいる。
手ぶらのものもいる。
共通しているのは、すべて精霊使いであることであった。
「構えろ!」
デニスの号令で、四十人余りの兵士たちが一斉に小銃を構えた。
さすがに門を挟んだ向こう側でどよめきが起こり、すこし波が後退する。
そう見えたのは一瞬である。
またどっと押し寄せてきて、門といわず鉄柵といわず、人間が張りつく。
門の向こうにはロンドンを破壊し尽くした何百、何千という精霊使いが控えている。
対する門の内側には、四十人余りの軽装備の兵士である。
にらみ合いは数分続いた。
兵士たちは冷静だった。
それが、革命という熱に浮かされた群衆には気に入らない。
怒りに顔を赤らめ、鉄柵を揺らして獣のような声を上げている。
「まだ、撃つな」
デニスは言った。
「門が破れてからだ」
十メートル以上の高さを持つ門と策が、群衆の勢いに押されて大きく揺れている。
がしゃがしゃと鉄が鳴り、門は半ば傾く。
それでも破るとまではいかなかった。
人間の力で、この宮殿は落とせない。
そう悟ったひとりが、手に持っていた武器で鉄を切断した。
まるでやわらかな物質を切るように、鉄柵は真っ二つになる。
そこに群衆が殺到し、門より先に、柵が押し倒された。
「撃て!」
号令と同時に、銃声が四十発余り鳴る。
先頭に立って宮殿に侵入した精霊使いたちがばたばたと倒れる。
呻き声を上げているそれらを乗り越え、後ろからどんどん新しい人間が乗り込んでくる。
「撃て、撃て!」
ばばば、と銃声が鳴り、銃口から火花が散った。
引き金は引いたまま、フルオートでの発砲である。
狙いもほとんど定めていない。
手当たり次第、どこを撃ってもだれかには当たる。
第一波、第二波はそれで食い止めたが、
「弾切れです!」
とあちこちから声が上がる。
デニス自身の銃も弾が尽き、引き金を引いてもなんの反動もなかった。
「銃を捨てろ、剣を抜けっ」
「ひとりでも多く斬り倒せ!」
「おおっ」
小銃を投げ捨て、兵士たちは剣を抜いた。
雄叫びを上げ、自ら敵に突っ込んでいく。
先頭にいるひとりふたりを斬って倒す。
しかしあっという間に取り囲まれ、武器ではなく、素手で殴り倒される。
一度倒れると、無数の足が蹴り、踏みつけ、とどめを刺す。
デニスは自分と同年代の男の首を突き刺し、すぐに引き抜いて背後に迫った女の腕を切り落とす。
絶叫と雄叫びが交互に上がっている。
だれかが体当たりしてくる。
まだ十代前半の子どもである。
横へ投げ飛ばすと、後ろから後頭部を殴られた。
ぐらりと目眩がして、一瞬意識が遠のく。
剣を奪われた。
腹を蹴られる。
押し倒され、馬乗りになっただれかが執拗に顔を殴りつけてくる。
「がああっ」
デニスは腹の底から吠えて、馬乗りになった人間を弾き飛ばした。
起き上がり、武器を探したが、見当たらない。
デニスは手当たり次第に殴りかかっていく。
しかし不利は変わらなかった。
ひとり殴っているあいだに、三人から殴られる。
再び殴り倒される瞬間、デニスは門が打ち破られるのを見た。
黒い波が、美しい宮殿の庭を犯していく。
言いようのない敗北感であった。
背筋が寒くなるような感覚に、吐き気が加わる。
デニスは群衆のなかに崩れ落ち、なにも見えなくなった。
わけのわからないまま蹴りつけられ、踏みつけられ、押しつぶされる。
それでも何秒間か、この美しい宮殿を守ることができた。
なんの意味もない数秒であっても、近衛兵としてやるべきことはやったのだ。
デニスは満足して、目を閉じた。
痛みが感じられなくなるまで、時間はかからなかった。