第三話 14
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砕け散ったのは窓だけではない――周囲の壁もみしみしと音を立てながら軋む。
コンクリートの表面にはいくつも亀裂が走り、それは生物のように巨大化していく。
「玲子!」
友和は奥の部屋に通じている扉へ走った。
玲子は精霊石を額に当てたまま目を閉じている――表情は歪み、頬を汗が流れ落ちていたが、それをやめようとはしなかった。
精霊石から放出される強い衝撃は、精霊使いだけではなく周囲の物質にまで影響を与えている。
それは桁外れの力であり、ある程度距離がある朱音でさえ耳鳴りのような大音響にしゃがみ込むほどだった。
友和は扉にすがりつくが、奇妙に歪んで開かないらしく、割れた窓から身を乗り出す。
「大丈夫か、玲子」
「なんとか――」
玲子は精霊石を額から離し、ほほえむ。
「この子もわかってくれたみたい。和人は?」
「大丈夫、朱音が守ってくれたらしい」
「別に守ったつもりはないが」
朱音はそっぽを向く。
和人のほうは恐怖よりも驚きが先行したらしく、目を丸くしてあたりを見回していた。
友和も割れて粉々になったガラスや罅の入った壁を見て、改めて息をつく。
「精霊石の力は、ものすごいものなんだな。物理的にこれほどの被害を出すとは思わなかったよ」
「この子の力が特別なんでしょうね」
玲子は手のひらに載せた精霊石を見下ろす。
「ほかの精霊石とは、明らかに質がちがうわ」
「精霊石が不安がっているって言ってたけど、そういうのもわかるものなのか?」
「ほかの精霊石でもなんとなくはわかるの。思うように力を分けてくれなかったり、逆に協力的だったり。いままではそういう次元だったんだけど、この子だけはもっと明確に感情が伝わってくるのよ。本当に生き物――それも人間と同じくらい感情豊かな生き物みたいに」
「ふむ……すべての精霊石にそういう特徴があって、その石だけが特別に顕著なのか、それともほかの石とは一線を画すものなのかはもうすこし考えてみる必要がありそうだな」
研究者の顔つきで友和は呟く。
「あなたの精霊石生物説の証拠にもなるんじゃない?」
「さあ、それはどうだろうな。精霊使いの感じ方で説明がつくなら、いままでにもあったはずなんだ。ぼくとしてはそれを人間の立場から、つまりある程度の普遍性を持たせた科学で説明しなきゃいけない。でもさっきの衝撃は、精霊石の暴走ともすこしちがうような気がしたね。精霊石の暴走は、どちらかというと精霊使いの暴走に近い。うまく力を使いこなせなくて、無尽蔵に放出してしまう現象だ。でもさっきのは玲子からじゃなくて、精霊石自身からなにかしらのエネルギーが出ているようだった。ただ、一般的な衝撃波のたぐいではないみたいだけど」
「音に近いエネルギーだ」
と朱音は言った。
「感覚としては、猛烈な爆音だ」
「でも、精霊使いじゃないぼくには感じられなかった」
友和は腰をかがめ、和人に聞く。
「和人はうるさく感じたかい?」
「うるさくない」
和人は人見知りを発揮し、後ずさりながら答える。
ふむ、と友和はひとつうなずいて、
「音波のようなものだとしたら、周波数が問題になるのかもしれないな。精霊使いには独特の周波数の音が聞こえているのかもしれない。それが人間には聞こえない領域の周波数だとしたら、つじつまは合う」
「精霊使いの身体能力は精霊石で強化されるが、それはすべての感覚に及ぶ。常人では聞けない領域の周波数を持つ音が聞こえたとしてもおかしくはない」
「しかし周囲にこれほど大きな影響を与えるっていうのは予想外だったなあ――まあ、それについてはまたあとで考えるとして、玲子に怪我がなく済んだのはよかったよ」
「もっと力になれるとよかったんだけど」
と玲子はすこし目を伏せる。
「この子に関しては、これ以上できることはなさそうなの」
「どういうことだ?」
「なんとなくわかることもあるんだけど、この子からは力を受け取れないし、変質もできそうにないのよ」
「それは、その精霊石がきみを拒絶しているということなのか」
「どうかしら――わたしのことを完全には受け入れてくれないのはたしかだと思うけど、それ以上にわたしの力が足りないんだと思う。ほかの精霊石に比べてこの子は力が大きいから、変質させようとするとその分多く力を使うみたいなの。わたしはもう自分の精霊石を支えているし、この子の変質に回すだけの力がないんだわ」
「ふうん、そうか。やっぱり普通の精霊石とはすこしちがうんだな。それがわかっただけでもよかったよ。じゃあ、今日は終わりにしよう。ここの悲惨な状況を所長に伝えないと」
それは気が滅入る、と友和はため息をつく。
玲子は苦笑いして、精霊石になにか呟いてから箱に戻した。
友和が手を貸し、枠だけになった窓から玲子が出てくる。
すかさず和人が近づいて、それとなく寄り添う。
「朱音ちゃん、和人を守ってくれてありがとね」
「守っていないと言っているだろう。ただの偶然だ」
「そういうことにしておいてあげなよ」
と友和が言う。
「な、なんだ、その言い方は。まるでわたしが照れているみたいだろう」
「ちがうの?」
「ちがうっ。そんな面倒な人間ではない」
「じゃ、そういうことにしておこう」
「だからその言い方はよせ」
朱音はぷいとそっぽを向き、ひとり先に部屋を出ようとする。
しかし部屋を出るときにも職員証が必要で、結局、友和がそれを開けてくれるまで待つ必要があった。
おもしろくない、と朱音は唇を尖らせる。
だれよりも長く生きていて、ほとんどの人間が未熟な子どもにしか感じられない朱音だが、この夫婦だけは苦手だった。
なにしろこのふたりは朱音を普通の人間、ともすれば子どものように扱う。
いくつもの時代をひとりで生きてきた朱音を、である。
事情を知らず、朱音を子ども扱いする人間はいままでもいたが、事情を知っていてなおそのように扱ってくる人間は彼らがはじめてだった。
いっそ、腹が立った、とでも言って実験から下りてやろうかとも思う。
ただ、そんなわがまま言わないの、と窘められたりしたら、沽券に関わる。
それだけは避けたい朱音は、不機嫌そうにしながらも、友和のあとについてフロアを抜けていく。
「それにしても、たったひとりの精霊石があれほど周囲に影響を与えるとは考えていなかったな」
友和は腕を組む。
「精霊石は単なる増幅器じゃないんだな。あれ自体がひとつの存在と考えるほうがよさそうだ」
「安全に対処する、というなら、精霊石は爆発物、精霊使いは化け物と考えるのはいちばんいい」
朱音は言った。
「人間たちにとってやっかいなのは、精霊石より精霊使いだ。爆発物は取り扱いに気をつければ安全だが、化け物はひとりでに暴れる。いまでこそ、世間では精霊使いを蔑むが、それは恐怖に由来している。得体の知れないもの、その力というのを恐怖するから、遠ざけようとする。結果としてそれが差別に繋がっている。しかしもとはといえば、超人的な力と感覚を持った精霊使いは、人間を率いる立場だった。たとえばエジプトやマヤの壁画してもそうだが、大抵は精霊使いが人間を率いる様子が描かれている。古代においては力こそすべてだったからだ。ひとりの力が大衆を圧倒する時代が終わると、今度は大きすぎる力を疎んで数で押さえ込もうとする反動が起こる」
「それが現状、というわけか」
「しかしひとつの動きは必ず反動を作る。古代の反動で中世、現代ができたように、現代の反動もいつかは訪れるだろう。そのときが、あるいは人類の新しい区分ができる日かもしれない」
「現代の反動ということは、再び精霊使いが大衆を率いる時代になるってことか。きみは、本当にそんなふうに思うのかい?」
「成功するかどうかは別として――」
朱音は、にい、と笑う。
「精霊使いたちは必ず人類に反旗を翻すだろう。だれが扇動するわけでもない、自然な動きだ。ある国である精霊使いたちが立ち上がれば、それに呼応して世界中の精霊使いが戦いをはじめるにちがいない。人類に勝ち目があるかどうかは運次第、というところか」
「まさかきみは……」
「わたしも精霊使いの端くれだ。人間たちに協力する義理はあるまい。まあ、わたしはほとんどの精霊使いとちがって、人間に迫害された経験がない。それほど長く一カ所には留まっていないからだ。いまいる場所が気にくわないのなら、別の場所へ行く。その分人間たちに恨みはない。それにわたしから見れば、精霊使いも人間たちも、まるで子どものようなものだ。だれかの手のひらで踊らされている人形だよ」
「そのちいさな手のひらで?」
友和は朱音の手を見る。
朱音はさっと手を隠し、
「わたしの手じゃない。だれかの手のひらだ」
「世界を操っている人間がいるっていうのか」
「それとも、人間ではないかもしれないが」
「人間ではない?」
「わかりやすくいえば、神のようなものだ。いくつかの意味が感じられる偶然を神と呼ぶなら、世界を操っているのは神にちがいない」
「ふうん、神か――ぼくはてっきり、精霊使いって言うんじゃないかと思ったよ」
「精霊使いは、いまはそれほど力もない。古代ではたしかに神と崇められていたが。しかしいまも昔も、偶然が神と呼ばれるにふさわしいとわたしは思う。歴史を見てきて、実感したことだ。ちょっとした偶然で歴史が大きく変わっていくということはよくある」
「ここでこうしてわたしたちが出会ったのも、たくさんの偶然のおかげってことね」
玲子が後ろから言った。
「もしわたしが学校で友和くんと出会っていなかったら、そこで結婚していなかったら、こうして朱音ちゃんと出会うこともなかったわけでしょう。そういう偶然とも必然ともいえないようなものの積み重ねで現在が成り立っているんだから、ちょっとしたことも大切にしないとね」
「わたしは、それほど前向きに捉えるつもりもないが――なかには、はじめから物語として筋が決められているように偶然が集中することもある。そういうときはなにかの意思を感じずにはいられない。だれかがこの舞台を演出したんじゃないか、とね。そして人間たちは演出されていることも知らないままに踊る役者たちだ。自分の意思で決定したと思いながら、実はまったく別のだれかが決定したことをなぞっているだけなのかもしれない」
「ぼくが作者なら、もうすこし争いのすくない話にするけどね」
「人類を繁栄させたいとは思っていないのかもしれないだろう」
「もしそうだとしたら、ぼくたちはその神と訣別すべきだ。結局ぼくたちは人類なんだから、人類の繁栄を望んでしまう」
「訣別できればいいが、なにしろ姿も見えなければ声も聞こえない相手だ。訣別すべきという意思すら無意識の導きがあるのかもしれない――と考え出すときりはないが、まあ、そんなものがいようといまいと、人間と精霊使いが遠からず争うことになるのは間違いない。いつまでもいまのままではいられないだろう」
「時代は変わる、ってことでしょ」
と後ろから玲子が言って、不意に朱音を抱きしめた。
「な、なんだ、なにをする」
「大丈夫よ。人間と精霊使いも、精霊使い同士も、こうやって抱き合えるんだから――なんとかなりそうな気がしない?」
玲子はその両腕で朱音と和人を抱いて、にこりとほほえむ。
ぐっと引き込まれそうになるほど魅力的な笑みである。
朱音はもごもごと口のなかで呟いて、なんとか玲子の抱擁から逃れる。
「そういう、根拠のない言葉は好かん」
「根拠はなくたって自信はあるわ。絶対になんとかなる。みんながそう思ってたら、ほんとになんとかなっちゃうものよ」
「ある人間と、ある精霊使いとはわかり合えるかもしれない」
四人はやっと職員証が必要なフロアを抜ける。
朱音はひとりで自分の部屋に戻りながら、言った。
「しかし人類と精霊使いがわかり合うことは絶対にない。人類の歴史がはじまってから、本当の意味で人間と精霊使いが平等になった社会は一度もない。いつもどちらかが上、どちらかが下だ。現在もそうだし、これからもそうだろう。ただ上下の入れ替わりがあるだけ――その入れ替わりも近いはずだ」
自分は精霊使いだ、と朱音は思う。
それを意識していないと、忘れてしまいそうになることがある。
精霊使いでも、もちろん人間でもない、まったく別のなにかになってしまったような気がして、ふと気づくことがあるのだ。
実際、実感としては普通の精霊使いや人間ではない。
そういうものをひとつの駒として見て、さらに巨大ななにかを見ているような気分だった。
人間や精霊使いのいざこざには興味がない。
歴史というものにも、もうあまり惹かれない。
朱音が興味を持ち、知りたいと思うのは、偶然の正体である。
そしてそれはなんらかの形で精霊石と関わりを持っている、と確信している。
朱音自身が持っている仮説が正しければ、精霊石とはひとつの意思だ。
もちろんそれは人間を超越した場所にあって、おそらくこの世界を俯瞰している。
言うなれば異次元の意思である。
それが人間を見下ろし、あるいはこの地球上を、この世界を見下ろし、なんらかの理由で干渉をしている。
この世界をどこかへ導こうとしているのだ。
朱音は、その導く先を知りたい。
異次元の意思が望んでいるものを知りたい。
それが人類の行く末であるなら、朱音はそれを見てみたいと思うのだ。
精霊使いや人間たちを使い、どのような舞台を演出するのか、そしてそれをどのように終わらせるのか、朱音の関心はそこにある。
この世界の終わり――それは何百年後かしれないが、朱音ならそれを見届けられる場所にいる。
それに、世界の終わりは存外に早く訪れるかもしれない。
なんなら自分自身の力で終わらせてやってもいい、と朱音は思う。
それが異次元の意思の望みなら、終わりへ向かう速度を加速させてやろう。
もし「意思」が破滅を望むなら、破滅へ進む道は整地され、障害もなく進むだろう。
もし「意思」がそれを望まないとすれば、どこかで挫折するにちがいない。
それによって「意思」を計ることができる。
この世界の行く末を、何百年と待たずに知ることができる。
朱音は密かに計画を立てた。
この世界を破滅させる計画である。
ことは、そうむずかしくない。
時代の流れはすでに人間と精霊使いを逆転させる節目まできている。
それをほんのすこし加速させてやれば、精霊使いは人類に対して宣戦布告し、人類はそれに応じざるをえなくなるだろう。
いくら精霊使いの肉体が優れ、感覚が鋭くとも、何十億という数の人間に勝利できる確証はない。
そして人類もまた、精霊使いに対して完全勝利を宣言することはむずかしい。
泥沼の戦争になる。
終わりはその果てにくるのだ。
人類が終わるか、精霊使いが終わるか、それとも両者が和解するか、対立は永遠に続いていくのか――火種はすでに撒かれている。
朱音は、それにほんのすこし風を送るだけでいい。
それで世界は燃え上がるだろう。
そこに「意思」も現れる――そしてすべてを知るのだ。
精霊石とはなんなのか、人類とはなんなのか、すべてを統べる「意思」とはなんなのか、その答えが自ずと理解できるはずである。
朱音はベッドに寝転がり、目を閉じた。
そして子どもがそうするように、世界の終わりを夢見る。
それはどんな世界だろう。
どんなことが待っているんだろう。
なにを知るんだろう。
なにをなくすんだろう。
わくわくするような気持ちで眠りについた朱音は、一時間ほどして、不意に目を覚ました。
直感的になにかを感じたのだ。
実際にぐらりと建物が揺れたのは、目を覚ました数秒後だった。
地震である。
建物が軋みながら大きく揺れる。
天井からはぱらぱらとコンクリートの欠片や埃が落ちてくる。
朱音はベッドから起き上がり、ぼんやりとあたりを見た。
そのあいだにも揺れが大きくなり、机の引き出しがひとりでに開いては閉じ、また開いては閉じを繰り返す。
部屋のなかに倒れるようなものはなかったが、建物全体が倒壊しそうなほど大きな揺れであった。
そうなっても自分だけは生き残るだろうと朱音はぼんやり考えていたから、焦るようなことはなかったが、ゆっくり揺れが収まってくるとさすがにほっと息をつく。
部屋から顔を出すと、ほかの部屋からも職員が顔を出して被害の様子を見ていた。
「大きかったな」
とだれかが言うと、
「テレビをつけろ」
とだれかが返す。
そのうちわいわいと廊下にひとが集まってきて、被害の状況を話し合いはじめた。
「棚からいくつか本が倒れたけど、それ以上はなにもなかった」
「実験室は大丈夫かしら」
「だれか見てこい。あと、所長のところにいって無事を確認しないと」
「震度は五らしいぞ」
「こっちは棚が倒れたんだ。だれか起こすのを手伝ってくれ」
朱音は、被害の様子にもとくに興味はなかったから、すぐに自分の部屋に戻った。
外の廊下をどたばたと走る足音がする。
一旦、足音はすぐに止んだが、しばらくするとまたいくつもの足音がするようになって、切羽詰まったような声も聞こえてきた。
「先に救急車を呼べ! 医師免許を持ってるやつは?」
「木島を呼んでこい。すぐに行くぞ。所内の精霊使いをすべて集めろ!」
何事か、と朱音が顔を出すのと、職員のひとりが朱音を呼びにきたのはほとんど同時だった。
「どうかしたのか。さっきの地震でだれか棚の下敷きにでもなったか」
「棚の下敷きじゃない、土砂崩れだよ。牧村さんだ、牧村さんの車が巻き込まれた!」
「……牧村の車?」
「とにかく、いっしょにきてくれ。土砂を退けなきゃいけないんだ。消防と警察を呼んだけど、間に合わない。精霊使いの力が必要だ」
朱音は手を掴まれ、強引に部屋から連れ出された。
状況はわからなかったが、牧村と聞いて、抵抗はしない朱音だった。
朱音はそのまま研究所を出て、車に乗せられ、現場へ向かった。