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青の奇跡  作者: 藤崎悠貴
第三話
46/61

第三話 11

  11


 柿野孟はある月刊誌の記者をしている。

 記者といっても少数体制であるから、記事を書けば、写真も撮る。

 彼が得意としているのは、コネが必要な政治や芸能ではなく、いわゆる裏社会に密着したドキュメント形式の記事である。

 過去にはやくざに密着取材をしたり、麻薬の密売人が逮捕されるまでの密着をとったりして、これぞジャーナリズムなりとほめられたこともあったが、彼自身、自分がジャーナリストだと思ったことはない。

 要は、自分の身は削らず、他人を犠牲にして金儲けをしているだけの存在だと断じている。

 彼が記事を書いている雑誌は、どちらかというと社会派で、芸能記事などは載せていない。

 だから一般的な週刊誌より崇高である、と勘違いしている連中を、むしろ彼は毛嫌いしていた。

 他人の秘密を暴き、それで金儲けをすることに正義も悪もない。

 たとえば政治家の汚職を暴くことと、芸能人の不倫を暴くことのなにがちがうというのか。

 記者がやることは同じなのに、多少によってほめられたり貶されたりすることが鬱陶しく、猛は記者を生業としながらも、所属する出版社に出向くことはほとんどなかった。

 次にどんな取材をするかというのも彼がひとりで決め、取材が終わると写真と記事を出版社に送り、報酬が振り込まれるという仕組みになっているのだ。

 しかしここ何週間か、猛は取材にも出かけず自分の家に閉じこもる生活をしていた。

 新しい取材対象が見つからないのである。

 いままで思いついたままに取材をしてきたが、前にやった取材と同じことをするわけにはいかないし、かといって政治家のあとをつけて何時にだれと会食をしたなどという記事は書く気になれない。


「なんか、おもしろいことは起こってねえのかな……」


 呟きつつ、ソファに座ってたばこを吹かせるだけの毎日であった。

 そろそろ次の取材に入っているのか、と出版社からも催促がきている。

 いっそこのあたりで記者を辞めるのも手だ、とさえ考えていた猛だったが、その日、世界中の人間がテレビに釘付けになった日、猛は活力を取り戻した。

 精霊使いによるホワイトハウス占拠である。

 ニュースを見た瞬間、猛はワシントンへの渡米にかかる時間と費用を考えはじめていた。

 向こうには知り合いもいないが、占拠されたホワイトハウスに入り込んであの犯罪者たちからコメントをとればまた金になる。

 どうやってホワイトハウスに入り込むか、という点は考えていなかったが、いままでもどうやって取材対象に取り入るかなど考えたことはないから、今回もうまくいくだろうと楽観視していた。

 しかしふと、ワシントンまで出向かなくともおもしろい記事は書けるかもしれないと思い直す。

 この騒ぎがホワイトハウスだけで留まらないのは明らかである。

 やがて火の粉は世界中に飛び散り、世界地図の至るところで劫火が上がるだろう。

 日本でも例外ではない。

 ホワイトハウスの騒ぎでは、猛はそもそも出遅れている。

 本来であればホワイトハウスの襲撃に同行し、その一部始終を取材すべきだった。

 よく利くと自負していた鼻も、さすがにアメリカの東海岸までは利かなかったらしい。

 それなら、世界中の記者と同じようにいまからホワイトハウスへ向かうよりは、この日本で起こるはずの騒動をだれよりも早く捕まえたほうがいい。

 運がよければ、日本の首相の首が文字どおり飛ぶ場面を、近くで取材できるかもしれない。

 不謹慎だろうがなんだろうが、金になればよい。

 そこにだれも経験したことがないようなスリルがあればなおよいが、今回はそのどちらもたっぷりと用意してありそうだった。

 そうと決まれば、猛はすぐに携帯電話を取り出す。

 連絡するのは、以前取材をしたやくざのひとりである。

 やくざと精霊使いには昔から深い関わりがある。

 そこから日本で騒ぎを起こしそうな精霊使いを捜すのだ。


「――もしもし、二之宮さんで?」

「だれだい」


 明らかに警戒した声である。


「以前、取材でお世話になった柿野です。覚えてらっしゃいますか」

「柿野? ――ああ、思い出した。あの記者か。久しぶりじゃねえか」

「どうも、ご無沙汰してます。いまお時間は大丈夫ですか」

「ちょうどうちに舐めた態度をとったやつを教育してるところだ」


 電話の向こうから笑い声が聞こえてくる。

 どうやらひとりではないらしい。

 どうでもいいことだと猛は言葉を続ける。


「お忙しいのなら、まだかけ直しますが」

「いや、いい。なんの用だ」

「テレビはごらんになりましたか。いま、どのチャンネルでもやってますが」

「出先なんだ。テレビなんか見ちゃいねえよ」

「アメリカの精霊使いがホワイトハウスを襲撃して、カメラの前で大統領を殺害しました」

「ほう」


 と興味を惹かれた様子の声色に、猛はすかさずつけ込む。


「いまも連中はホワイトハウスを占拠してます。その模様を全世界が生中継しているんですよ」

「おもしろそうじゃねえか。これから取材に行くのかい?」

「いえ、それも考えたんですが、どうも日本でも一騒動起きそうでして――」

「ははあ、わかったぜ。それでおれに、犯罪者予備軍の精霊使いを紹介しろってわけだな」

「お察しのとおりで。だれか、それらしいひとはいませんか。もちろん謝礼は出しますが」

「どうかな。うちの組にも精霊使いはひとりふたりいるが、どいつもこいつもまじめでいけねえ。ほかの精霊使いでなんかやりそうなやつといえば、久住って野郎がいたな」

「久住さん、ですか」

「ああいや、あいつはだめだ。たしかどこぞの女にちょっかいを出して国を出ちまった。精霊使いってのはばかが多いらしい」

「ホワイトハウスの襲撃犯は、どうも精霊使いたちだけの組織を作っているらしいんですよ。東京にも仲間がいると、テレビで名指ししていました。ご存じありませんか」

「精霊使いだけの組織ねえ」


 しばらく相手が黙った。

 電話の奥のほうでは、かすかに呻き声のようなものが聞こえている。


「いや、知らねえな。それなりにでかい組織なら知らねえはずはねえんだが、そいつのブラフじゃねえのか」

「その可能性もありますね。じゃあ、もしなにかあったら連絡を入れていただけますか。携帯ならいつでも結構ですから。こちらからもなにか動きがあったらご連絡します」

「おれにただで働けってのかい?」

「友人ということで、ひとつ。こっちも取材費用を削減されていまして」

「ははは、友人ね。悪くねえさ。わかったよ、ちょいと調べてみる」

「ありがとうございます。では、また」


 結局、空振りというわけだ。

 電話を握りしめて、猛はしばらく考える。

 精霊使い、それも犯罪組織なら必ず裏の社会と関わっているはずだが、そこから辿ることはむずかしいのかもしれない。

 となれば、正攻法で攻めるしかあるまい。

 猛は再び電話を耳に当てた。

 今度は、相手が出るまでにすこし時間がかかる。


「もしもし?」


 こちらも、先ほどとはすこしちがった意味で警戒しているようだった。


「どうも、柿野ですが」

「で、電話はまずいと何度も言ったでしょう。とくにいまはまわりにひともいますから――通話記録が残るだけでまずいんですよ」

「すみません、緊急でしたので」

「ま、またなにか情報を流せというんですか。これ以上はだめです、だれかに気づかれます」

「ご心配なく、ちょっと伺いたいことがあるだけですから。いま、テレビは見てますか」

「もちろん――大変なことになりましたよ」

「おたくは、そうでしょうね。警察は大変だ」

「そ、そんな世間話をしたいわけじゃないでしょう。用件はなんですか」

「いまテレビでやっている件について、なにか情報はお持ちですか。ホワイトハウスの連中は東京にも仲間がいると名指ししていたようですが、警察ではその組織についての情報は掴んでいるんですか」

「その情報をよこせというんですか」

「いえね、世間話がてらちょっと口がすべることもあるかと思いまして」

「そ、そんなことを部外者のあなたに話せるはずがないでしょう」


 電話口で、相手は声をひそめる。

 猛はさほど心配はせず、続けた。


「堂々とホワイトハウスを占拠し、それを中継させるような連中ですよ。わたしはどうも、あれが世界中に向けたブラフには思えないんですがね」

「わ、わたしは知らない」

「なにもかも話せと脅しているわけじゃないんですよ。ただ、警察がどれほど仕事をしているのか知りたいだけでね。税金を払っている国民の、当然の権利だと思いませんか。世間をこれほど騒がせているというのに、警察がなんの情報も握っていないなんてことはあり得ますかね。せめて連中の仲間の組織くらいは特定しているのでは?」

「あなたのようなものと付き合いを持ったのはやはり間違いだったんだ……」

「後悔しても一蓮托生には変わりないんですから、仲良くしましょうよ。警察はやはり情報を掴んでいるんですね」

「わたしは本当に知らないんです。精霊使いやテロ組織は公安か特戦の管轄ですから、警察にはなんの情報もないんですよ」

「公安か、特戦?」

「特殊戦闘隊、自衛隊ですよ。表向きは欧米の特殊部隊を模して作られたといわれていますが、本当は対精霊使いの武力として構成された部隊です」

「ああ、うわさは聞いています」


 政治担当の記者が、相当量の資金が秘密裏に特戦へ流れていると言っていたのを猛は思い出している。

 あまり興味のない話だったが、結局その記事は書かれないままに終わっているはずだ。


「となると、公安か特戦に直接聞いたほうがいいということですね。彼らならなにか情報を掴んでいると」

「その可能性もある、という程度です。詳しいことはわかりません」

「いえ、充分ですよ。ではまた」

「もう連絡はしないでください」


 そういうわけにはいかない、と猛は電話を切り、すぐに同僚記者をコールする。

 同僚といっても横の繋がりはほとんどないが、貴重な情報源になり得る人間はすべて記憶しておくというのが猛のやり方だった。


「もしもし、柿野か?」


 さすがに相手も記者だけあって、対応が早い。


「また情報をねだるつもりだろう」

「楽しい飲み会の誘いだったらどうする?」

「おれの手帳をやるよ、本当に楽しい飲み会ならな」

「テレビは見たか?」

「やっぱりな」


 電話の向こうで相手は勝ち誇ったように笑う。


「そうくると思ったぜ。おまえなら、あれを追いかけるってな。ワシントンまで行くのか」

「いや、日本でちょっと探ろうと思ってる。それで、前に特戦の資金がどうとかって記事を書いてただろう」

「ああ、よく覚えてたな」

「特戦は対精霊使い専門の部隊らしいが、あの記事はどうなったんだ」

「圧力だよ。結局、出せず終いだ。出したらおれの命はないってな」

「ふむ。ということは、おまえの取材でかなり核心に近づいたってことだ。特戦が対精霊使い専門の部隊ってのは本当なのか」

「間違いない。特戦は、もう日本中に配備されてる。なかにはやっかいな精霊使いと小競り合いをやってるところもあるが、そういうのは圧力をかけて消してるんだ。圧力ってのはなにも力だけじゃない。金も、圧力のひとつになる。おれはそっちの流れから情報を掴んだんだが――おまえも特戦を追うのか」

「いや、おれはその反対側を追うつもりだ」

「ふん、精霊使いを追うか。おまえらしいな」

「テレビで連中は東京を名指ししたが、日本でそういう活動をしてる精霊使いの組織を知らないか」

「さあ、おれは特戦を追いかけただからな。だが、うまくいけば精霊使いまでたどり着けるかもしれん。習志野の駐屯地に行ってみろ。特戦の訓練所になってる。もし東京近郊で精霊使いが動くなら、まずそこが反応するはずだ。あとをつけていけば精霊使いとの戦闘に出くわすかもしれん。おまえなら、そこからなんとかなるだろう」

「習志野か。たしかに駐屯地があるのは知ってるが、そこが特戦の訓練所になってるとはな」

「ワシントンに行くなら、向こうに二、三知り合いがいるから手伝ってやるぜ」

「日本で空振ったら飛ぶかもしれねえ。金が入ったらなんか奢るからよ」

「気にするな。おれは、おまえみたいな命知らずな取材はできねえからな。まあ死なねえように気をつけろよ」

「運次第だろうから、寝る前にでも祈ってくれ」

「いままで祈りが通じたことは一回もねえが、覚えてたら祈ってやるよ」


 電話を切り、猛は準備をはじめた。

 といっても、大きなリュックサックをひとつ持つだけである。

 必要なものはそこにすべて入っている。

 できるだけ荷物を減らして、できるだけ長く外泊できるようにするというのは記者には必須の技術だった。

 ある意味で、記者は軍人に近い。

 仕事の厳しさを考えると得られる報酬は決して多くないが、猛は記者以外の生活は考えられないほどこの世界にどっぷりと浸かっていた。

 リュックサックを肩に背負い、家を出る。

 猛は都内に三つマンションを借りているが、ここはそのうちのひとつだった。

 エレベーターを待ちながらメールを確認していると、緊急を要するメールはなかったが、私用のメールがいくつか届いていた。

 そのうち三通ほどが同じ差出人である。

 一通り読んで、返信の必要がないと判断し、メールを削除する。

 ――と、


「こら! 返信もしてないのに削除すんなっ」


 驚いて猛が顔を上げると、いつの間にかエレベーターが到着し、そこにひとりの女が乗っている。

 女は腰に手を当て、怒ったような顔をしていたが、ふと笑って、


「当たった? いま、あたしのメール消そうとしたでしょ」

「惠……びっくりさせるなよ。おれの心臓が止まったら、おまえは殺人罪だぞ」

「事故だって言い張るから、大丈夫」


 猛が携帯電話をポケットに入れながらエレベーターに乗り込むと、惠もそのままエレベーターのなかに残った。


「いまどこってメールしたのに、完全に無視なんだから。ね、どっか出かけるの?」

「荷物見てわかるだろう。仕事だよ」

「えー、ひましてるんじゃなかったの? だからわざわざきたのに」

「ひまじゃなくなったんだ。テレビ、見てないのか」

「見てない。さっきまで電車だったもん」

「じゃ、帰って見ろ」

「やだ、あたしもついていく」

「ばか言うな。仕事だって言ってるだろ」


 惠はむっとしたように唇を尖らせる。

 猛はその子どもじみた反応にため息をついた。


「お兄ちゃん、いっつもそればっかり。なんか言うとすぐ仕事だもん。だから彼女もできないんだよ。あたしが彼女なら、もうキレてるね」

「知ったことか。とにかく、いまは忙しいんだよ。家に帰れ」

「せっかくここまできたのに?」

「はじめからこなきゃいいだろ」

「あ、ひどいっ」


 エレベーターは地下一階で止まる。

 駐車場が地下にあるのだ。

 猛が降りると、惠もそれについていく。


「ねえ、ほんとに仕事行くの? いっしょに買い物行こうよ」

「なにが楽しくて妹と買い物に行かなきゃならないんだ」

「彼女もいないお兄ちゃんに、かわいい妹がかまってあげようって言ってるんじゃない」

「いらねえ」

「じゃあ、いつ帰るの?」

「さあ、二度と帰らねえかもな」

「またそういうこと言う」


 猛は車の鍵を開け、荷物を後部座席に放り込んだ。

 運転席へ乗り込む前に、何食わぬ顔で助手席に座っている惠を引っ張り出す。


「やーだ、いっしょに行くー」

「くんなっつってんだろ。そもそもおれがなんの取材に行くか知ってんのか」

「知らない」

「ストリップ劇場の取材だよ。未成年者が出演してるってうわさがある。うまくいけば摘発の瞬間も取材できるから、何日か通い詰めるが、それでも行くか?」

「うっ……」

「そこらのストリップじゃないぜ。生板っつってな、舞台上で――」

「く、詳しい説明なんか求めてない!」

「じゃ、そういうことで」


 と猛は運転席に乗り込み、車を施錠する。

 あ、と車外で惠が叫び、窓をどんどんと叩くのを無視して、猛は地図で習志野駐屯地の場所を調べた。

 千葉の北西にある習志野市は、もともと陸軍の演習場があった場所である。

 戦後はそれが解体される形で一般人の多く住む町になり、演習場だったころの名残はあまりないが、未だにその軍事的拠点に重要な戦力を置いていることが猛には不思議に思えた。

 都心からもほど近いが、それはつまり都心における精霊使いの騒動をにらんでいるというわけだ。

 自衛隊はかなり早い段階でこのような事態になることを予想していたのかもしれない。

 それとも、日本人の臆病さが功を奏したのか。

 どちらにしても、戦後取り残された一大軍事基地がいままた必要になっているのは事実である。

 車でのルートを確認し、ハンドルを握ろうとしたとき、猛の携帯電話が鳴った。

 メールではなく、通話の着信である。

 表示を確認すると、惠、とある。

 車の外で、惠は怒った顔をして携帯電話を指さしていた。


「……無視するか」


 携帯電話をポケットにしまうと、窓を打ち割らんばかりの勢いで惠が詰め寄る。

 猛は仕方なく通話ボタンを押した。


「妹に車を破壊されたっていったら保健は下りるかな?」

「兄に電話を無視されたって慰謝料請求の裁判起こすから」

「そんな裁判が通るか。弁護士なんか雇わなくてもおれの勝ちだ。なんだよ、いっしょには行かないんだろ」

「ストリップなんてうそでしょ。いま、千葉の地図見てた」

「千葉の劇場なんだよ。どっちにせよ、仕事だ。おまえがいたら邪魔なんだ。大学生は友だちとクラブでも行ってろ」

「またそうやって子ども扱いする!」

「どう扱えば納得するんだ? なにを求めてるんだよ、おまえは」

「お兄ちゃん、仕事ですぐ無茶するでしょ。危ない目に遭ったり、何日も連絡がつかなかったり」

「そういう仕事だよ。わかってるだろう」

「あたしがいっしょに行けばそんな無茶もしないでしょ。だから、いっしょに行く」

「……わかったよ」


 と猛はため息をついた。


「できるかぎり連絡は入れる。一週間もすりゃ戻ってこられる。無茶はしない。これでいいか?」

「メールは一日三回ね。どんなに忙しくてもちゃんとすること」

「無理だっての。そんなにひまじゃねえよ」

「じゃあ外でタクシー拾って追いかけるから。堂々と店の前に乗りつけて取材を邪魔してやるから!」

「わかったわかった。一日三回な」

「ご飯もちゃんと食べること」

「母親かカミさんかよ」

「文句ある?」

「いや、別に」


 こうした締め付けがいやだから結婚しないのだが、と猛は再び深く息をつく。


「不健康、不健全な生活はしない。はい、復唱」

「不健康、不健全な生活はしない」

「仕事よりも自分の身体を大切に」

「仕事よりも自分の身体を大切に」

「妹は宇宙一かわいい。はい、復唱」


 猛は電話を切り、エンジンを入れる。

 車の外で惠がなにかわめいていたが、無視してアクセルを踏んだ。

 地下駐車場を出たところでメールが着信したが、だいたいの内容はわかっているから、見ずにそのまま助手席に放り出す。

 くだらないやりとりでずいぶん時間を食ってしまった。

 都心の渋滞した道を避け、細い路地を使って習志野に急ぐ。

 すぐに事態が急変することはないだろうが、その瞬間を逃すわけにはいかない。

 できるだけ急いだつもりだったが、習志野の駐屯地まで到着するのに四十分ほどかかった。

 習志野は、かつての一大軍事基地であり戦時中は捕虜収容所まであったとは思えないほどありふれた住宅地に変貌している。

 都内よりもすこし余裕のある、しかし全国どこでも見られそうな住宅地のなかを進むと、不意に駐屯地が現れた。

 猛はすこし速度を落とし、駐屯地の周囲を一周する。

 さすがに敷地は広い。

 正門は車両の進入を防ぐためにトゲのついた車両止めで塞がれていて、その内側には歩哨がふたりいる。

 一見、ほかの駐屯地と変わりない施設に思えたが、一周するうちに猛は奇妙なことに気づいた。

 いくら駐屯地といっても、普通はところどころがフェンスになっていて、内部の建造物や車両が覗ける場所が必ず存在する。

 とくに走り込みをするグラウンドや一般駐車場は見えているものだが、この基地は外部と接しているすべての部分がコンクリートの壁になっていて、内部がなにも見えないようになっている。

 意識しなければ怪しいとも思わない程度だが、わかっていれば、なるほどとうなずける駐屯地である。

 猛は駐屯地を一周したあと、車両が出動できるのは正門だけだと判断し、正門前の路地が見える位置に車を止めた。

 張り込む場所が決まれば、あとはひたすら、ことが起こるのを待つ。

 おもしろい記事を書くには、このときの忍耐力が必須なのだ。

 猛は座席を後ろへ倒し、楽な姿勢になって路地を出入りする車を見張る。

 そのあいだに携帯電話を確認し、惠からのメールも読んだ。

 なにが書いてあるのかと思えば、ただ一言、無茶をしないこと、とだけ書いてある。

 猛は約束通り一度目の生存報告を入れる。


「いま現地に着いた。ストリップ最高、と」


 送信ボタンを押して一分ほどで返信がくる。

 今度も一言、最低、とだけ書いてあった。

 いやなら返信しなければいいのに、と猛は思い、妹のことはよくわからないと改めて実感する。

 年がある程度離れているせいかもしれない。

 昔から妹がなにを考えているのかわからない猛である。

 こんな出来の悪い兄など放っておけばいいのに、なにかとちょっかいを出してくるのも理解不能だった。

 好きな男でもできればなにか変わるのだろうが、いまのところその気配もない。

 しかし妹と付き合う男も大変だろうな、と猛は益体もないことを考えながら、視線だけは目の前の路地から離さない。

 そんな時間が一時間、二時間とすぎて、日が暮れてくる。

 ニュースは携帯電話で確認していたが、相変わらず新しい情報には乏しく、世界各地で混乱あり、と報道されても、日本国内のことは忘れ去れたように音沙汰がない。

 この瞬間にも、普段ならニュースの先頭を飾るような事件が起きているはずだが、それよりも優先度が高い話題に消されてしまっている。

 時計が八時を回ったころ、さすがに空腹を感じて、猛はこのあたりに住んでいるはずの大学時代の後輩に電話をかけた。


「もしもし、柿野だけど、瀬名か」

「あ、柿野先輩、どうしたんすか、突然」


 といかにも後輩らしい口調で下手に出るので、猛はそれに便乗し、先輩風を吹かせる。


「いま習志野にいるんだけど、おまえたしかこのへんに住んでたよな」

「はあ、そうですけど」

「じゃ、いまから頼むもんを買って、車まで届けてくれ。場所は習志野駐屯地のそばだ」

「え、か、買い出しっすか」

「金は払うよ。ちょっと移動できねえんだ」

「は、はあ、そうすか。わかりました。えっと、なにを買うんですか」

「まずおにぎりが三つ、炭酸と酒が入ってない飲み物も三つ、水と電子レンジを使わずに食えるもんを何個か適当に」

「山ごもりでもするんすか、先輩」

「車ごもりだ。ま、似たようなもんだけどな。じゃあ頼んだぞ。近くまできたら連絡してくれ」

「了解っす」


 持つべき者は便利な後輩だ、と猛はまじめに思う。

 使えるなら先輩でも利用する猛ではあるが、やはりいちばん使いやすいのは後輩だ。

 そういう後輩を何人か作れただけでも大学に行っていた甲斐がある。

 二十分ほど待つと、折り返しの電話がかかってきた。

 車を止めている詳しい場所を教えると、あたりをきょろきょろ見回しながらひとりの女が近づいてくる。

 腕にはスーパーの袋を抱え、いかにも怪しげな態度である。

 猛が窓を開けて声をかけると、飼い主を見つけた犬のように駆け寄ってきた。


「せ、先輩、お久しぶりっす」

「そうでもないだろ。去年、大崎の葬式で会った」

「もう一年前のことっすよ、それ。あの、頼まれてたやつ、買ってきました」

「ご苦労。ま、乗れよ。ドライブには行けねえけどな」


 助手席に置いていた荷物を後部座席へ投げ入れる。

 瀬名頼子はおずおずと助手席に乗り込んだ。

 猛は商品代と買い出しの手間賃を渡し、さっそくおにぎりを開ける。


「先輩、よっぽどお腹空いてたんすね」


 と頼子はくすくす笑う。


「そろそろ六時間、ここにいるからな」

「ろ、六時間?」

「まだ序の口だ。この先何日粘るかわかんねえ」

「あ、取材ですか。いまは記者なんすよね」

「おまえ、相変わらずそのしゃべり方は変わってねえな」

「く、くせなんすもん。もうたぶん治んないです、はい。でも先輩もお変わりないみたいで」

「そうか。年をとった」

「またまたー。まだ若いじゃないすか」

「妹を見てると、年をとったと思うよ」

「あ、惠ちゃんっすか。前は高校生だったけど、いまはもう大学生ですよね。かわいくなってるんだろうなあ」

「女好きも相変わらずか?」

「お、女好きって言い方はやめてくださいっ。かわいいものが好きなだけっす。あ、飲み物はお茶にしましたけど、大丈夫でしたか」

「飲めりゃなんでもいい。ところで歩いてきたみたいだけど、家はすぐなのか」

「もうこのすぐ裏なんすよ。突然電話がかかってきたからびっくりしましたけど」

「すぐ裏か、なるほどなるほど」

「な、なんすか、先輩。その企み顔は?」

「別に? ただ、便利な後輩がいてよかったと思ってるだけだ。ところで瀬名、張り込みはふたりが基本だって知ってるか?」

「い、いえ、知らないっす」


 脳裏をよぎるいやな予感に、頼子は助手席のなかで後ずさる。

 猛はひとつ目のおにぎりを平らげ、にやりと笑った。


「おまえさ、ここ何日か、ひまだよな?」

「え、あ、いや」

「どうしても外せない用事なんか、ないよな?」

「そ、その、でも、仕事が」

「おい顔が赤いぜ、熱でもあるんじゃねえのか? もしかしたら風邪かもな。残念だなあ、風邪をひいたら仕事に行くわけにはいかねえよなあ」

「せ、先輩、それはつまり……」

「張り込み、手伝ってくれ」

「ええっ!」

「なに、簡単な仕事だ。ここで座ってあの路地を見てりゃいい」

「で、でも、なんでわたしが」

「おれの後輩だろ。諦めろよ」

「そ、そんなあ」

「もともと張り込みってのはふたりでするべきなんだよ」

「じゃあ、ほかの記者のひとに頼めばいいじゃないすか」

「一匹狼なんでね」

「友だち、いないんすね……」

「便利な後輩がいるからいいんだよ。じゃ、おれは仮眠するから、見張り頼んだぞ」


 と猛はさらに座席を倒し、目を閉じる。


「え、え、せ、先輩、見張りってどうやればいいんすか」

「ただ見てりゃいい。駐屯地から車が出てきたらおれを起こせ」

「ほ、本気っすか……」


 ううう、と唸りながらも頼子はダッシュボードにかじりつき、目の前の路地を監視する。

 猛はそれを薄目で見て、


「リラックスしてやらねえと一時間も保たねえぞ」

「は、はい、了解っす」


 なんだかんだといっても、押しに弱い頼子であった。

 猛は目を閉じてすぐに寝息を立てはじめる。

 寝つきがいいというのも、記者には必要な要素である。

 しかし不意に目を開いたかと思うと、もぞもぞと車の扉を開けて、外へ出ていく。


「せ、先輩、どうしたんすか」

「便所」

「そ、そんなところでしちゃだめですって!」

「公衆便所なんかねえだろ」

「わ、わたしの部屋のトイレまでがまんしてくださいっ。この裏のアパートの、三○五号室ですから」

「ん……そうか。じゃ、ちょっと借りるわ」


 猛は頼子から部屋の鍵を受け取り、のろのろと夜道に消えていく。

 ひとり残った頼子はため息をつき、


「ほんとにああいう勝手なところは変わってないなあ」


 と独りごちた。

 表情は、昔を懐かしむようにすこし緩んでいる。

 しかしそれがふと真顔になり、


「――はっ。い、いま部屋に洗濯物干してあるんだった! あ、ああああ……」


 まさかこんなことになるとは思っていなかった頼子である。

 ダッシュボードに突っ伏し、頼子は頭を抱える。

 そのうち猛が戻ってきて、何食わぬ顔で座席に座った。


「これ、鍵」

「は、はあ……あの、先輩、もしかして、部屋のなかとか、見ました?」

「見ねえでどうやってトイレを探すんだ」

「ですよねー……」

「なかなかいい部屋だな。あと、もうちょっと片づけたほうがいいぞ」

「い、いまは偶然散らかってるだけっす!」

「ふうん」

「……せ、先輩、もしかして、部屋干ししてあった洗濯物とか、見ました?」

「ああ」


 と猛は面倒そうにうなずく。


「色気ねえな、あれは」

「ああ……終わったっす……乙女としてのなにかが終わったっす」

「乙女って年か?」

「年は関係ないんすよっ。せ、先輩の無神経」

「よく言われる」


 猛はあくびをひとつして、


「車は出てこなかったか。ひとの出入りは?」

「ぜんぜんです……こんな時間に、だれも出入りなんかしませんよ」

「だから見張ってるんだろう。こんな時間にだれか出入りしたとしたら、なにかが起こってるってことだ。おれはそのなにかを待ってる」

「もしかして、先輩が追いかけてるのっていまニュースでやってる事件の関係ですか」


 頼子は興味を持ったように身体を起こした。


「日本でもなにか起こってるんすか。ニュースではぜんぜんやってないっすけど」

「これからなにか起こるかもしれないって程度だよ。ただ、東京でなにか起こればここの部隊が飛んでいくはずだ。おれはそれについていって、なにが起こるのかこの目で見る」

「はあ……ジャーナリズムってやつっすか。この目で見たもの以外信じない、みたいな」

「だと思うか?」

「……いえ、先輩がそんなまじめに考えてるとは思えないっす」

「楽しそうだから見に行くんだ。それ以上の理由はない」

「楽しそうっすか……それだけで何時間もよく粘れますね」

「何日粘ることになるかわかんねえけどな」

「え、それってまさか、わたしもずっと協力するんじゃ」

「さ、仮眠仮眠。十二時になったら交代な」

「ちょ、ちょっと、せんぱーい」


 猛が眠りに落ちるまではあっという間だった。

 そして十二時ぴったりになるまで一度も目を覚まさず、起きるときは頼子が起こそうとする前に自分で目を覚ます。

 まるで目覚まし時計のような人間である。

 それから頼子は自宅に帰ってぐっすり眠り、朝にまた食事を持って車に通う。

 そんな日が、三日続いた。

 猛もよく粘り、頼子も仕事を休んで耐えた。

 記者仲間から猛の携帯電話に連絡があったのは、三日目の昼前である。


「よう柿野、まだ粘ってんのか」

「まだ三日目だぜ。粘ってるうちには入らねえ」

「ふん、ご苦労なことだ。そろそろ移動できそうだぞ」

「なにかあったのか」

「都内で、反精霊使いを掲げる団体がデモ行進をするらしい。自衛隊が出るかどうかはわからんが、規模はでかいぞ。警察では足りんとなったらそっちからも応援が出るかもしれん」

「反精霊使いの団体ってことは、普通の人間だろう。そのデモに自衛隊が出るか?」

「こういうデモを早期に押さえ込まなきゃならねえのは政府もわかってるはずだ。ヨーロッパの二の舞になりたくないなら、自衛隊を投入してでも暴動に発展しないうちにデモを解散させるしかない」

「なるほどな」

「デモは二時からはじまる。おれも取材に行くつもりだ」

「こっちの部隊が出るならおれも追うが、人間しか出てこねえなら興味は惹かれねえな。またなにかわかったら連絡してくれ」


 電話を切ると、助手席で居眠りをしていた頼子がごそごそ動いた。

 被っていた毛布から顔だけ出し、眩しそうに目を細める。


「電話、ですか」

「そろそろ張り込みも終わりらしい。まあ、納得いかねえならもう一回張り込むかもしれないけど」

「なにか動きがあったんすか?」


 頼子は助手席で身体を起こし、これまで散々見つめてきたなんの変哲もない路地に目をやる。

 この三日間で、寝ぐせを気にするような細かい神経は失われている。


「これから動くかもって連絡があった」

「へえ……って、そういう連絡があるなら、なにも張り込んでなくてもよかったんじゃ?」

「連絡があったのは幸運だっただけだ」


 と猛が言ったとき、いままで通行人程度しか動きがなかった路地が、にわかに騒がしくなった。

 とげのついた車止めが脇へ退けられ、歩哨が路地まで出てきて左右を見ている。


「出るか」


 猛は急いでダッシュボードに並んでいたゴミや飲みかけのペットボトルを片づける。


「瀬名、手伝わせて悪かったな」

「え、あ、いえ別に」

「またちゃんと礼するから」

「それは別にいいんすけど……え、わたし、ここまでっすか?」

「この先までついてくるか? 張り込みとちがって安全じゃねえし、最悪逮捕されるかもしれないけど」

「え、遠慮しときます」


 頼子が車から降りると、駐屯地から続々と自衛隊の車両が出動しはじめた。

 猛はエンジンをかけ、全三台の車両の最後尾につく形で発進させる。

 緊急出動なら、尾行に気づいてもわざわざ止めたり撒いたりという煩雑なことはしないはずである。

 方向もしっかりと都内を向いていた。

 猛はこの出動に賭ける気持ちで、迷彩柄の車両についていった。


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