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青の奇跡  作者: 藤崎悠貴
第三話
45/61

第三話 10

  10


 学園には、遠方に出かけていて一日では戻ってこられない生徒以外のほぼ全員が集結していた。

 そのうち寮生が九割で、そうでないのはほんの少数だけである。

 もともと、日本全国から精霊使いが集まっている学園だから、実家から通えない生徒がほとんどなのだ。

 ゆえに、寮生でない生徒は、仲のいい寮生の部屋に間借りする形で泊まり込むことになった。

 何日間学園で生活することになるかわからない分、教室で寝泊まりするよりは部屋のほうがいいだろうということになったのだ。

 そして生徒たちには無断外出禁止が厳命された。

 早い段階から生徒たちを隔離することで無用な問題を避ける狙いである。

 なかには、精霊使いだけで籠城するのはむしろ人間たちを刺激しかねないという意見もあったが、生徒になにかあってからでは遅いという学園長の一存で方針は決まった。

 日本政府が公式に意見を発表したのは翌日の昼すぎであったことを思うと、不破学園の対応は迅速を極めていた。

 内閣官房長官は会見において、世界中で発生の兆しを見せている精霊使いを狙った暴動についても言及した。

 ホワイトハウスを占拠したのはテロリストであり、すべての精霊使いが危険であると見なすのは思考停止した愚かな行為といわざるをえない、というのが会見の趣旨だったが、具体的な対策などはなにも発表されず、冷静な対応をお願いするという言葉に留まった。

 日本に暮らす精霊使いがその会見に失望したことはいうまでもない。

 それでは遠からず欧州と同じような暴動が起こるだろうとだれもが予想し、そして一度暴動が起こったなら政府機関、並びに警察や自衛隊にはそれを止める能力はないと断言する識者もいた。

 テレビでもタカ派とハト派に分かれた議論が行われ、互いに入り組んだ理論を持ち出した結果、視聴者にはなにも伝わらないまま番組が終わるということも珍しくなかった。

 そうした不安定な事態は精霊使いと人間双方の不安を煽る結果となり、水面下の混乱はいよいよ強まっている。

 日を追うごと、時間がすぎるごとに事態が悪化しているのは手に取るように理解でき、一瞬も油断ならないこちは明白だったが、ホワイトハウス占拠が発生してから三日目、和人は学園からこっそり抜け出す決心をした。

 いま学園は完全に封鎖されていて、出入りには許可がいる。

 教師は買い出しなどもあるから、比較的外出しているが、生徒で外出許可をもらったというのはひとりもなかった。

 和人も一度正々堂々と外出許可を求めたが、簡単に却下されてしまっている。

 しかしそれでは諦めきれず、緊張感のすくない昼間を狙って学園を抜け出すことに決めたのである。


「広い学園だから、どこかに穴があると思うんだけど――」


 かつてあった警備上の穴は、いまはしっかりと埋められていたが、どう考えても学園すべてを監視することはできない。

 和人は散歩を装って学園内を歩きまわり、ついにかつて使われていたらしい旧校舎の裏のフェンスに穴が空いているのを見つけた。

 もともと、精霊石の力を使えばフェンスを跳び越えるくらいわけはないが、飛び越えた先に監視カメラがあったり警報があったりと精霊使い用の監視システムが構築されている分、フェンスの穴を抜けるという発想は盲点を突いていた。

 和人は四つん這いになり、フェンスの切れ端に服を引っかけながらも、なんとか敷地の外に出る。

 気分はさながら脱獄犯である。


「まあ、大差ないか」


 苦笑いして、和人はそのまま急な山肌を下った。

 途中ふと、寂しいような、物悲しいような気持ちになる。

 今回、学園を無断で抜け出すことは、だれにも伝えていない。

 部屋を間借りしている卓郎には、散歩に行ってくる、とだけ言ってある。

 今回は完全に和人自身の問題で、ほかのだれにも関係がないことだから告げずに出てきたのだが、振り返ってみると重大な裏切りをしたような気分になるのだ。

 和人は、自分自身を捜すために学園を抜け出している。

 自分自身さえ忘れていた自分自身が、どこかにいるはずなのだ。

 時代が大きく動こうとしているいま、和人はなによりも自分を知らなければならないと強く感じていた。

 自分自身について、和人が知っていることはごくわずかしかない。

 記憶にあるのは小学校高学年からで、それ以前はどこに住んでいたのか、だれと住んでいたのか、普通なら覚えているはずのことまで和人は忘却している。

 そもそも、牧村和人というのは本当に自分の名前なのか。

 それさえも和人にはわからない。

 和人も人間である以上、生物学上の親がいるはずだが、一度も会ったことがなく、顔さえ知らないのはなぜなのか。

 仮に実の両親とは生後すぐ離ればなれになったとしても、ある程度自立ができるまでは養ってくれていた人間がいたはずなのだ。

 その人間さえすこしも覚えていないのはなぜなのか。

 ――いままでも、そのことについて考えなかったわけではない。

 しかしいままではとくに確証もなく、推測でそのなぞを埋めていた。

 両親がいないのは事故かなにかで死んだせいなのだろうし、銀行の口座に振り込まれている大金はそのときの保険金かなにかなのだろう、と思っていたのである。

 事実は、どうもそれほど単純ではないらしい。

 近ごろになってそう感じるようになった。

 自分には、謎がある。

 学園襲撃の折に会った謎めいた少女は、それを断言した。

 その謎を知りたければ、山頂にある博物館について調べるといい、と。

 和人はそれを信じ、学園を抜け出して真っ先に図書館へ向かった。

 博物館自体を調べようとも、そこは数ヶ月前に崩壊したまま、立ち入り禁止になっている。

 山の上に建つ辺鄙な博物館が自分の過去とどう関係しているのかはわからないが、どことなく納得できるところもあった。

 なにしろ、和人が精霊使いになったのはあの博物館である。

 第二の人生がはじまった場所といってもいい。

 そこが自分の忘れてしまった過去に関係しているというのは、理屈以上に納得できるものだった。

 和人は山を下り、周囲に人影がないことを確認して路地に出る。

 できるだけ大通りは避けるつもりだった。

 外出している教師に見つかると面倒だし、なによりほかの人間と会うことも避けたほうがいい。

 外見だけで精霊使いと気づかれることはまずないが、万が一にも気づかれたらどうなるかわからない。

 和人は細い路地を選んで歩き、時折すれ違う通行人には顔を伏せた。

 図書館は、駅からすこし離れた場所にある。

 周囲には市役所や裁判所が集中しているが、夏休みのせいか、あまり人通りはなく、自転車に乗った子どもをよく見かけた。

 市立の図書館は、さほど大きくはない。

 ちいさなガラスの自動ドアを通ってなかに入ると、冷房が効いていてひんやりしている。

 同時に子どもたちの声も聞こえていて、図書館で勉強するまじめな子どももいるんだな、とすこし感心する和人だった。

 自分が子どものころは、夏休みといえば遊ぶことしか頭になく、勉強はほとんどやらないまま提出していた。

 それでよく怒られていたが、怒られることと夏休みに思い切り遊ぶことを天秤にかけるなら、何度やっても思い切り遊ぶことを選んでしまうのだ。

 いまから考えればだめな子どもだと思うが、現在もさして変わりはないのかもと考える。

 なにしろ、こうやって図書館にくること自体、人生ではじめてである。

 和人はなにをどうしていいやらよくわからず、返却カウンターの前で右往左往した。

 市立博物館について調べたいときは、どういう本を選べばいいのか。

 そもそもそんな本が存在するのか、とひとりで考えていると、カウンターの向こうから、


「なにかお探しですか?」


 と声がかかる。

 見ると、五十前後の柔和な顔立ちの男性がほほえんでいる。


「えっと、なにか探してるっていうか、どう探していいかわからないっていうか」

「機械の使い方ならご説明いたしますが」

「いや、機械以前に、なにを探せばいいのかわからなくて。あの、山の上に博物館がありますよね」

「ああ、ありますね」


 と男は遠くを見ながらうなずく。


「あれについて調べたいんですけど――たとえば、いつ頃できたのかとか」

「なるほど。でしたら、新聞をお調べになるとよろしいかと」

「新聞?」

「少々お待ちを」


 男性職員はカウンターを出て、本棚の向こうに消えた。

 しばらく待つと、両手いっぱいに大きな本を抱えて戻ってくる。

 和人は慌ててそれを受け取り、テーブルに広げた。


「これでだいたい、一年分の新聞になります」

「こ、これで一年分ですか……」


 大判で五冊、なかなかの量である。

 しらみつぶしに探すのは大変そうだし、なにより何年分を探さなければならないのかもわからない。

 和人は頭を掻きながらも、一冊目を開いた。


「それは一月からの分ですね」


 と本を覗き込んで、職員が言う。


「十月あたりを調べたほうが早いと思いますよ」

「十月、ですか」

「たしか、あの博物館ができたのは十一年前の十月あたりでしたから」


 職員はにっこりとほほえむ。

 和人は急いで十月分を引っ張り出し、ページをめくった。

 縮小された新聞にはいろいろな記事が載っている――探すのは一面や事件の欄ではなく、地方欄である。

 事件性のない、ただ博物館が完成したというだけの記事が本当にあるのかどうかすら和人にはわからなかったが、探していくうち、図書館が改装された、というような記事が見つかって、期待が出てきた。


「わたしもお手伝いしましょう。なに、どうせひまですから」


 と職員もいっしょになって本を覗き込む。

 ふたりがかりで、それでも二十分ほどかかった。


「あ、あった――」


 やっと見つかった記事は、地方欄の隅にほんの数行だけの味気ないものだった。

 和人はちいさな字に目を凝らし、指先で行をなぞる。


「不破市立博物館が、不破山の山頂に新しく建つ――市長らが開館式に参列、か」

「大した情報はありませんな」


 職員も軽く鼻を鳴らす。


「これ以上となると、もうすこし前に博物館の建造を伝える記事があるはずですが、何年の何月なのか見当もつきませんなあ」

「せめて、博物館の前になにがあったのかわかればいいんですけど」


 博物館の開館を報せる記事には、和人の過去と関わりを持ちそうなものはなにも書いていない。

 せいぜい、博物館には精霊石などが展示され、とあるくらいだった。

 その精霊石はいま、和人のズボンのポケットに入っている。


「博物館の前になにがあったのか、ですか」


 男性職員は天井を見上げるような仕草をして、


「そういえば、なにかありましたね、あそこに。なんだったかな」

「お、覚えてるんですか」

「まあなんせ三十年以上ここに住んでいますから。たしか、不破学園と前後して山頂にもなにか建ったんです。不破学園はご存じですか?」

「ま、まあ」


 と和人はそれとなく目を伏せた。

 職員は、それには気づかず、昔を懐かしむように目を細める。


「あのころは町中が結構騒ぎましてね。精霊使いが通う学校なんて、日本中にもここにしかありませんから、安全はどうなるんだとか、結構反対意見もあったんですよ。結局、学園は完成して、いまでは日本一精霊使いが住んでいる町になっていますが」

「反対のひともいたんですね」

「いた、というよりは、現在進行形でしょう。精霊使いに対する風当たりはあまり変わりませんよ。わたしは親戚に精霊使いがいますから、さほど偏見もありませんが――同じ町に暮らしているといっても、普通の人間は不破山には近づきませんからね。せめてもうすこし両者が歩み寄れば悪くない関係を築けると思うんですが……いや、そんな話ではありませんでしたね」

「いえ、そんなこと」

「そうだ、たしか、あのときもそんな話をしたんですよ」

「あのとき?」

「博物館ができたときです。一般人はほとんど不破山に近づかないのに、あんなところに博物館を作ってだれが行くんだと……税金の無駄使いじゃないかと議会でもやり玉に上がったくらいです」

「ああ、たしかに、そうですね。でもうちの高校ではバスで博物館に行きましたよ」

「おや、そうですか。もしかして、あの爆弾テロがあった――」

「そうです。ちょうどあの日に博物館へ」

「そうでしたか。それはつらい思いをしたでしょう。ほとんどの生徒は無事だと新聞では読みましたが」

「はい。あそこで犠牲になったのは、ひとりだけでした」


 和人は唯一親友と呼べる友人を失ったことを思い出し、すこしうつむく。


「あの爆弾テロも不可解といえば不可解でしたね。テロをするにしても、どうしてほとんど客もこない博物館を狙ったのか――偶然そこに居合わせてしまった子どもたちには、やりきれないことでしょう」


 一般人は、あの事件の真相を知らない。

 和人がそこに深く関係していることを知っているのは、和人自身を除けばほんの数人しかいないのだ。

 あるいは和人の過去も、そうした性質のものなのかもしれないと思いつく。

 そうなれば、簡単には見つからないだろうが――。


「ああ、思い出しましたよ」


 と男性職員は手を打つ。


「あの博物館が建つ前は、たしか研究所があったんです」

「研究所?」


 和人は顔を上げた。


「研究所って、いったいなんの研究をしていたんですか」

「さあ、詳しくはわかりませんが、どこかの製薬会社の研究所だという話でした。不破研究所という名前で、ちょうど不破学園と同時期にできたんですよ。だからいろいろとうわさもありましてね」

「うわさ?」

「あれは精霊石を研究するための研究所じゃないか、とか。怪しげな実験をしているといううわさもありましたが、まあ、それは子どもたちが勝手に言っていたんでしょう」

「そ、その研究所があったのって、何年前かわかりますか」

「不破学園と同時期ですから、いまから二十年ほど前になりますか。それが廃止されたあと、跡地に博物館を作ったはずです」

「じゃあ、研究所は十一年前まであったんですか」

「そうなりますね。新聞をすこし遡って、調べてみますか。研究所ができたころと合わせて調べるなら、手分けしたほうが早いでしょう」

「いいんですか。その、ほかのお仕事は」

「こういうことも仕事のうちですから、お気遣いなく」


 男性職員は笑顔で席を立って、まずは二十年前の新聞の縮小版を持ってきた。

 和人はそれを調べ、男性職員は十一年前の新聞を丹念に見ていく。

 どちらも日付がはっきりせず、年代も定かではないから、なにも発見できないまま一時間ほど経った。

 丸々一年分を終え、目の疲れを感じながら次の年を調べはじめると、すぐに不破学園の記事が見つかる。

 地方欄のほとんどがその話題に費やされ、どうやら論調は学園の建設に反対しているらしいとわかった。

 それも興味がある記事ではあったが、和人はその前後を念入りに調べ、やっと目的の研究所建設の記事を見つける。


「七宮製薬の新しい研究所――七宮製薬?」


 聞いたことのない製薬会社だった。

 その研究所が新しく不破学園の山頂にできる、というちいさな記事である。

 目的は新薬の開発としか書いておらず、博物館の記事と同様に手がかりにはなりそうになかった。

 ただ、所長の南波喜一氏、という名前に引っかかりを感じた。

 どこかで聞いたことがある名前のようにも思うが、思い出せない。

 南波、南波、と和人が口のなかで唱えていると、約十年前の記事を探していた職員が声を上げた。


「これだ、ありましたよ。七宮製薬の不破研究所――博物館ができる半年ほど前に閉鎖されていますね」

「半年……閉鎖の理由は、なんなんでしょう」

「さあ、そこまでは」


 和人は記事が載ったページを見て、もどかしさを募らせる。

 博物館の前身まではわかったが、この研究所が和人の過去に関係しているのかは、新聞の記事からは推測のしようもない。

 ただ、約十年前といえば、ちょうど和人がこの町に越してきたころと一致している。

 関係があるとすれば、博物館ではなく、その前身の不破研究所だろう。

 七宮製薬という聞き覚えのない製薬会社は、なんのためにあのような山の上に研究所を作ったのか。

 研究所の建設と不破学園の開校がほぼ同時期なのは、なにか関係があるのか。


「新聞では、これ以上の情報は見つけられないでしょうね。この七宮製薬、それか研究所が不祥事でも起こして閉鎖されたのならその記事も残っていると思いますが、閉鎖の記事を見るかぎり、そんな様子でもないようですし。どうします、この七宮製薬について、もうすこし調べてみますか」

「いや――調べても、大したことはわからないと思います」


 製薬会社よりは、研究所を調べたほうが手っ取り早い。

 しかし研究所に関する手がかりがない以上、これ以上図書館で調べるには限界があった。

 和人は丁寧に礼を言って、引っ張り出した縮小版の新聞を片づける。

 惜しいところまではきている、という気はしていた。

 博物館の前身が、詳細不明の研究所だった――そこに和人が関係しているとすれば、そのころ和人は五、六歳だったということになる。

 つまり、そのころにも和人はこの町にいたのだ。

 小学校の半ばでいまの家に引っ越したことは覚えているが、それ以前はどこに暮らしていたのか、すこしも記憶がない。

 覚えていない分、どこか遠くに住んでいたのだろうと無意識に考えていたが、案外同じ町の、別の場所に暮らしていただけなのかもしれない。

 不破学園と、研究所――子どもだった和人がどうしてそんな研究所と関わりを持っていたのか。

 跡形もなくなった研究所より、まだ残っている不破学園を調べたほうが早いかもしれないと和人は考える。

 同じ時期に、同じ地域にあったのなら、研究所について知っていることがあるかもしれない。

 ただ、いまの和人は学園から無断で抜け出している身である。

 これから先、何度こうして抜け出せるかはわからないから、学園へ戻る前に外でやるべきことをやっておきたかった。

 和人はもう一度手伝ってくれた男性職員に礼を言って図書館を出た。

 やはり大通りを避け、できるだけ住宅街のなかの細い路地を通るようにしながら不破山へ向かって歩く。

 覚えていない子どもの自分もこの道を歩いたのかもしれないと考える。

 そのときは両親もいっしょだったのだろうか。

 年齢からして、断片程度は覚えていてもいいはずなのに、なにも思い出すものがない。

 だから無意識のうちにこの町にはいなかったのだと結論していたのかもしれない。

 和人は自分の家の前も通りすぎる。

 どこにでもある一軒家だが、覚えているかぎりでは唯一の自宅である。

 そこから用水路のようなちいさな川を越えて、パン屋の前を曲がると不破山の麓に出る。

 アスファルトの舗装路が蛇のように不破山に巻きつき、頂上までも車で容易に上がれるようになっていた。

 精霊石の力を使えばちいさな不破山などあっという間に越えられるが、和人はあえてその力は使わず、アスファルトを上っていく。

 道路の右側は山肌で、土砂崩れ防止のため緑色のネットが張られている。

 それをぼんやり眺めながら歩いているうちに、反対側の景色が大きく変わる。

 ぞろぞろと並び立っている民家より高い位置までくると、町が一望できるようになるのだ。

 すぐ麓には背の低い民家が密集して並び、買い物帰りらしい自転車に乗った女性や数人の子どもたちが明るく遊んでいる様子が見える。

 その向こう、さほど遠くはない場所にはビルが建っていて、そのあたりが町の中心地だった。

 さらに遠くにはのっそりと山が控えている。

 もともと、山と山のあいだの狭い平地に作られたちいさな町である。

 山の中腹からでもすべてが一望できるほどの町で和人は育ち、失った記憶もこの町のどこかにあるのだ。

 疲れたら精霊石を使おうと考えていた和人だが、町を眺めているうちに学園の前をすぎ、そこからガードレールに沿って歩くとすぐに博物館の看板が見えてくる。

 駐車場と展望台はこの先、と矢印がついていて、急な傾斜の頂点にはその影がちらりと覗いていた。

 もう一息、と和人は歩いて山道を登り切る。

 道は頂点を越え、そこからゆるりと下りはじめて山向こうの町まで続いているが、頂上付近には博物館へ続く別の道が延びていた。

 ここまで、一台の車ともすれ違っていない。

 精霊使いの学園があるこの山が忌み嫌われているというのは本当なのかもしれない。

 和人は博物館へ続く道を選び、数分進んだ。

 すると視界がぱっと開け、広い駐車場に出る。

 展望台も駐車場の隅にあったが、そこにはちょっとした双眼鏡があるだけだった。

 駐車場にももちろん、車は一台もない。

 なにしろその向こうにある博物館は数ヶ月前の爆発によって瓦礫と化しているし、その現場は警察による封鎖が続いている。

 和人はただっ広い駐車場を横切り、博物館があった場所に近づいた。

 ここへくるのは、全部で三度目である。

 一度目は、まだ博物館があったころ。

 博物館が失われたその日である。

 二度目はそのすぐあと、ひとりでここにきて、半ば自暴自棄に決着をつけるつもりだった。

 いまもまた、決着をつけるためにここへきている。

 しかしいざ辿り着いてみると、そこにはやはりなにも残っていない。

 警察が張った立ち入り禁止のロープの向こうには、コンクリートの瓦礫しかないのだ。

 山積みになった瓦礫には博物館の名残など感じられず、もちろん博物館の前にここに建っていたという研究所の名残などあるはずもない。

 和人はロープの下をくぐり、瓦礫に近づいた。


「きみ」


 と声をかけられたのは、そのときである。

 和人は驚いて振り返る。

 駐車場の半ばに、先ほどまでなかった人影がある。


「立ち入り禁止のロープを越えるのは感心せんな」


 しかし口調は、あまり責めている様子でもない。


「学園長先生――」

「いま学園は封鎖されているはずだが、抜け出してきたのか」


 学園長はゆったりとした動きで和人に近づき、立ち入り禁止のロープもためらいなくくぐってみせた。

 和人はこれまで二度、入学の手続きをしたときと武道大会のときに学園長を見ているが、一対一で会話をするのははじめてだった。

 相変わらず、立ち姿が凛としていて、年齢を感じさせない老人である。

 背筋はきっと伸び、杖を持っているが、それにはほとんど頼っていない。

 和装がよく似合う厳しい老人という印象もあり、一方で朗らかに笑うひとでもあった。


「見事に崩壊しているな。勇敢にも、精霊石を守ろうとした結果だ」


 学園長は腰をかがめ、瓦礫のひとつに触れた。

 そして黙祷するように目を閉じる。

 和人は学園を抜け出したのがばれたばつの悪さと、場違いなところに居合わせてしまった気まずさでしばらく意味もなくあたりを見回していた。

 やがて学園長は立ち上がり、和人を見る。


「牧村和人くん――きみは、すべての結論としてここに辿り着いたのか? それともただ偶然にここを訪れたのか」

「すべての結論?」

「ふむ、どうやら偶然らしいが、そのほうがわかりやすくもある」


 学園長は手頃な瓦礫に腰を下ろした。


「牧村くん、きみも座りたまえ」

「え、は、はい……」

「立っていてもいいが、長い話になる」

「長い話、ですか」


 説教だろうか、と考える和人は、まだなにも気づいていなかった。

 それを気づかせるように、学園長は言う。


「きみは偶然をどこまで信じるかね」

「どこまで、といわれても――偶然は、偶然だと思いますけど」

「では、サイコロが百回連続で一の目を出したとすれば、それは偶然だと思うかね」

「それは、サイコロになにか細工があるんじゃ……」


 どことなく怖そうな雰囲気のある学園長が苦手な和人である。

 控えめに言うと、学園長はぱちんと手を叩いた。


「そう、そのように疑うのが人間というものだ。実際、サイコロには一の目以外には出ぬよう細工が施してあったのかもしれん。一方で、真実偶然によって百回連続で一の目が出たという可能性もあるのだ」

「たしかに、それはそうですけど」

「別の例をとるなら、ある男は何度か同じ夢を見た。そしてその夢を見た次の日は、必ず彼にとっていいことがあった。たとえば小銭を拾うや仕事がうまくいくというようなことがあったとして、夢と現実に起こったことに因果関係は認められるだろうか。なにかしらの関係は見いだせるかもしれんが、やはりまったくの偶然ということもある。百回連続で一の目が出ても、次の一投で六の目が出るかもしれん。夢を見ても、その日の朝に事故に遭って死んでしまうかもしれん。われわれには、そのような因果関係が成立するか、つまり偶然か必然かという問題について結論を出すことはできんのだ。なぜかわかるかね」


 和人は首を振った。


「つまり、それはわれわれと同じ次元で起こっているためなのだ」


 学園長は熱っぽい口調で言った。


「一次元と二次元のちがいは、きみにもわかるだろう」

「点と、線ですか」

「そう。では二次元と三次元のちがいは?」

「線と立体……?」

「そのとおり。ではこのような場合はどうか」


 学園長は親指を噛んで、わざと出血させた。

 その赤い血が指先から滴り、瓦礫の上にぽつりと落ちる。


「この一滴の血は何次元かわかるかね、牧村くん」

「え、な、何次元かですか」


 勉強のようだ、と和人は困って頭をひねる。


「えっと、三次元、ですか?」

「まさに」


 当てずっぽうだったが、当たったようで和人はほっとする。


「しかし、これは一次元でもあり、二次元でもあるのだ。つまりどの次元を答えても外れということはない」

「そ、そうなんですか」

「こう考えれば簡単にわかる。きみは一次元を点と答えたが、この一滴の血を頭上から見たとき、それはまさに点で現れているだろう。しかし近づいてみると、平面的な広がり、つまり長さと太さを持っていることがわかる。さらに近づくと、一滴の血液にも高さがあるとわかる。表面張力によって盛り上がっているというわけだ。これらをひっくるめて三つの次元を持っているともいえるが、しかし持っている次元が三つとは限らんところが問題なのだ」

「それは、どういう――」

「きみが二次元世界の住人だったとしよう。きみは、点と線の区別をつけることができる。たとえばある点を指していうとき、どこどこにある、という言い方で点の場所を指定できる。線は、どこどこにあって、どれだけの広がりを持っているか、という指定が必要になる。二次元の住人にはその区別が可能だが、きみには線と立体の区別はできない。なにしろきみ自身が平面にいるのだから、ある線、あるいは点が立体であるか否かは知りようがないわけだ。同じように、三次元世界、あるいは時間を含む四次元世界に生きているわれわれには、点、線、立体、そして時間の区別はできるが、それ以上の次元にあるものの区別はできん」

「そういうものなんですか」

「もうひとつ例を作ろう」


 学園長はさすがに教師らしい口調で、右手の人差し指と中指を立てて見せた。


「この二本の指を、瓦礫の上、つまり平面に立てる。そうすると、平面で観測するかぎり、これはふたつの点、あるいは面積を持つふたつの円になる。しかし三次元の視点を持っているわれわれには、二本の指はどちらも同じ手の一部だとわかる。現実にもこれと同じことがいえる。偶然と必然の区別はできん、とわしは言ったが、これはつまり、偶然か必然かというのは、われわれよりも上の次元で決定することであるからだ。偶然のように見えるが、上の次元から見ればそれは自明な必然なのかもしれん。同じように、必然に思えても、なんの繋がりもない偶然であるかもしれん。平面上に置かれた指先が、同じ手の人差し指と中指なのか、それとも右手の人差し指と左手の中指なのか、あるいはもっと遠く、わしの人差し指ときみの中指なのか、われわれの地点から観測することはできんというわけだ」

「なるほど――でも、偶然と必然が、そんなに大きな問題なんですか」

「大きな問題と考える人間には、それはそれは重大だろう。運命、という言葉があるがね、要はそういうものを信じる人間には、偶然と必然では雲泥の差があるのだ。きみは運命を信じるかね。なにかしらの意味をもった必然というものを?」

「おれ、いや、ぼくは、あんまり気にしたこともないですけど」

「若いうちは、そうだろう。しかし年をとってくると、どうもそういうものが気になってくるものだ。あるいはわしだけかもしれんがね」


 自嘲するように学園長は笑った。


「いまここにわしがいるのは偶然か必然か。世界がこのようになったのは意思をもった流れによるものか、ただの偶然の蓄積か。――きみが精霊使いになったのは、偶然か必然か?」

「それは――」

「どちらでもいい、と思える時期もある。しかしそれが気になって仕方がないというときもある。人間とは決まってどちらかの方向へ進んでいくものではない。進んだり、戻ったりしながら老いていくものだ」

「先生は、運命を信じているんですか?」

「こうも奇妙な偶然が続くと、信じたくもなってくる。今日、この時間にここできみと出会ったことも運命の一部かもしれん。あるいはよくできた偶然なのかもしれんが、いずれにせよ、きみとはいつか話をしなければと思っていたところだ。その場所がほかでもないここであることもよくできた偶然というべきか……」

「おれと話を――この場所で?」


 学園長はなにかを知っていると和人は確信する。

 そうでなければ、こんな話はしないだろう。

 もともと不破学園は学園長が二十年も前に作ったもので、そのころ、ここには研究所があったはずだ――そこに和人が関係していたなら、それを学園長が知っていてもおかしくはない。


「もっとも、きみが納得できる説明かどうかはわからんが、わしに説明できることはすべて教えよう。ここにはきみの記憶が埋まっている。きみもそれに気づいたから、ここにきたのだろう」

「やっぱりおれは、ここにあった研究所に関係があるんですか。昔のことも覚えていないのも、親がいないのも、全部研究所に関係が……」

「そうだ。かつてこの場所にあった研究所は、きみの過去に深く関わっている。そして博物館になってからも決してきみとは無関係ではない。あの日、きみがここで精霊石と出会ったことも、あるいは偶然ではないかもしれんと思うのだ。そのきみがこうして年老いたわしと話をしていることも、いま世界中で起こっている問題にしても、すべてはここからはじまったといってもいい」

「先生は、全部知っているんですね」

「もちろん、知っている」


 学園長はうなずき、立ち上がった。

 瓦礫の周囲をゆっくり歩きまわり、杖で地面を突くような仕草をする。

 こつこつ、と杖の先が地面を鳴らし、その音が不意に軽く抜けたような音に変化したのを、和人も聞き取った。


「すこし手伝ってくれるかね、牧村くん」


 学園長はその場にかがみ込む。

 和人も近づいて、足下を見下ろした。

 もとは博物館の土台になっていたらしい、コンクリートの地面である。

 覆い被さった瓦礫を退けると、そこには奇妙な把手のようなものがついている。

 建物の土台にあるはずのない把手である。


「精霊石を活性化させなさい」


 学園長は静かに言った。


「重たい蓋だから、そうでないと開かないはずだ」


 言われたとおり、和人は精霊石を活性化させる。

 全身がふと軽くなったような感覚があり、意識と感覚が研ぎ澄まされる。

 博物館が崩壊したときにそうなったのか、細かなコンクリートの破片に埋もれている把手を掘り出して、和人は力を込めて握った。

 ぐっと真上に持ち上げる。

 強い抵抗を感じて、なんの動きも見せない。

 ――と、ごりごりと石が擦れるような音が足下から聞こえてきた。

 さらに力を込めながら把手を引くと、ゆっくり地面の一部が持ち上がり、土煙が舞い上がる。

 精霊使いの力をもってしても恐ろしく重たい扉であった。

 力を振り絞ってなんとか扉を開け放つ。

 地面にぽっかりと口を開けるのは、光のまったくない暗い階段である。

 最初の数段だけが地上の光に照らされているが、その先は奈落のように闇が密集していて覗けなくなっている。


「な、なんですか、これは――」

「研究所だったころの名残だ」


 学園長は目を細めて地下への階段を覗き込む。


「研究所が廃止され、建物はすべて取り壊されたが、地下はそのままに残されたのだ。その後になって博物館を建てたときも、この扉だけは残しておいたのだが――果たしてなんのために扉を残したのか、自分でもよくわからん。そのときは単なる感傷のように思えていたが、いまになってみれば、こうしてきみを案内するためだったようにも思える。ここにもまたひとつ運命があるというわけだ」


 学園長は懐からなにかを取り出した。

 もとは黄金色だったらしいが、いまは使い込まれて色褪せているライターである。

 それを掲げて、埃がうずたかく積もった階段に足をかけた。


「きたまえ、牧村くん。研究所を案内しよう。といっても、いまでは地下の一部しか残っていないがね」


 学園長は暗闇のなかへ臆せず入っていく。

 あとに続くべきか、和人は相当悩んだが、ライターの光が暗闇のなかに消えてしまいそうになったのを見て、慌ててあとを追った。

 幅の狭い急な階段である。

 左右の壁に手をつき、足下を慎重に確かめながらでないと降りることができない。

 数段降りると手元も足下も見えなくなり、すこし先で上下に揺れるライターの光を目印に進むしかなかった。

 途中、和人は後ろを振り返った。

 開け放たれた扉から頼りなく光が差し込んでいる。

 あの明るい世界が表なら、これから行こうとしている場所は間違いなく裏の世界なのだ。

 忘れてしまった記憶の深部を目指しているのである。


「あの、先生」

「なにかね」

「どうしてこんな扉があることを知っていたんですか。先生は、研究所となにか関わりがあったんですか」

「おや、まだ知らなかったのか」


 学園長は立ち止まり、和人を振り返った。

 ライターに照らされて濃い陰影がついた顔は、やけに恐ろしい表情をしているように見える。


「不破研究所というのは、もともとわしの研究所だったのだ」

「先生の……? あっ」


 不意に和人は気づいた。

 新聞で読んだ、研究所が建設されたという記事である。

 そこには所長の名前も書いてあった。

 南波喜一――どこかで聞いた名前だと思っていたが、それはほかならぬ学園長の名前だったのだ。


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