第三話 9
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学園の完全封鎖に従い、外出していた生徒たちは全員速やかに学園へ戻るように指示が出ていた。
ホワイトハウスからの中継から半日ほど経ったころである。
フランスではすでに暴動が深刻化していて、ロンドンでもその動きがはじまっている。
アメリカでは、いままで不思議とそうした動きは起こっていなかったが、フランスの暴動が報道されはじめるととたんにあちこちの都市で小規模の暴動が発生しはじめた。
それに比べると日本はやはりいくらかおとなしい。
首都圏においてもいまだに確認されず、この先諸外国のような問題が発生するかについても意見は分かれている。
現代の日本人という特性上、暴動は発生しづらいと読む人間もいれば、時期がくれば必ず起こると見る人間もいるのだ。
しかし、そうした議論のなかで、精霊使いの立場が悪くなり続けているのは事実である。
いま、精霊使いを擁護することは、そのまま犯罪者を擁護することに取られかねない。
差別はいかん、というのも、すこし言い方を間違えば大きな批判を浴びることは明らかだった。
そうした世論を見るかぎり、あるいは暴動も起こるかもしれないと思わせるのだが、もし暴動が発生したとしても首都圏においてであろうという見方は一致している。
首都圏からすこし離れた不破市などは、現時点ではその危険性から遠ざかっているといってもいい。
それゆえ、外出先から次々に呼び戻された生徒たちにも、まだ深刻さはすくなかった。
牧村和人はその数少ない例外である。
海水浴を早めに切り上げて学園へ戻る車中も、和人はあまり口を開かなかった。
なにか考え込むような顔をしてぼんやりしているだけで、なにか話を振られても曖昧に答える以上のことはしなかった。
その原因をしっかり理解しているのは布島芽衣子ひとりだったが、ほかの仲間たちもそれなりに気づいてはいた。
今回の襲撃は、彼らにとって他人事ではない。
同じ精霊使いが起こしたことだ、という以上に、和人は一月ほど前、その首謀者と対峙している。
もしそこで和人が首謀者をどうにかしていたら、こんなことは起こらなかったのだ。
もちろんそれはあり得ない「もしも」だが、和人にとっては悔やまれることだった。
和人には、他人にはない妙な実感がある。
これは自分とあの少女との問題だ、という確信があるのだ。
根拠はないが、なぜかそれだけは疑いようのない事実として感じられる。
ほかの精霊使いや人間は、自分たちの問題に巻き込まれただけだというような気がしている。
現在出ている犠牲も、これから出るであろう大きな犠牲も、すべては自分たちのせいだと和人は思うのである。
なぜそう感じるのか、と考えてみたが、答えは出ない。
なにしろ和人は、牧村和人という人間についてあまりに無知だった。
自分はどこで生まれたのか。
自分の両親はだれなのか。
どうして両親はいないのか。
牧村和人という名前は本名なのか。
精霊使いになった自分とは何者なのか。
自分の正体を知らない和人は、同じように自分の存在理由も知らない。
しかし知識とは別のところで感じるものがある。
あの少女との因縁である。
和人は、自分を知って、あの少女のことも知らなければならないと感じる。
いままではなにも知らずに生きてこられたが、このような問題が起こっているいま、それでは済まないのだ。
「――おい、牧村」
「え?」
話しかけられて、和人はふと顔を上げた。
対面に座る日比谷卓郎がすこし心配そうな目をしている。
「おまえはどうする?」
「えっと、なんの話だっけ?」
「帰ったらどうするかだよ。寮生以外も、全員しばらくは学園で寝泊まりしろって指示が出てる。おれたちは寮生だからそのまま学園に帰るけど、おまえと直坂さんは一旦自分ちに帰るのか? それともそのまま学園に行くか。たぶん、着替えとかは向こうで用意してあると思うけど」
「ああ、着替えか――いや、おれは一旦家に帰るよ。準備してから学園に行けばいいんだな」
「そういうことになる。直坂さんは?」
直坂八白は三人掛けの座席の通路側に座っている。
並びとしては、八白、織笠菜月、卓郎という座席と、その対面の芽衣子、青藍、和人という座席になっている。
「えっと、あたしも家に帰ろうと思ってるけど」
八白はちらりと和人を見る。
それに助け船を出すように卓郎が、
「じゃあ、ふたりいっしょに学園までこいよ。いつまで学園で寝泊まりするかわかんねえから、着替えは多めに持ってたほうがいいぞ。洗濯は寮でできるから」
「ん、わかった」
と和人はうなずく。
「なんだか、合宿みたいだな」
「たしかに似たようなもんかもな。夜中は恒例の肝試しでもやるか?」
「や、やだよ、そんなの」
八白は怯えたように言う。
「じゃ、怪談はやめて猥談でも――」
ぱしん、といい音がして、卓郎が前のめりになる。
となりの菜月にはたかれたのである。
「な、なんだよ、夜は怪談か猥談って決まってるだろ」
「そんな決まりはどこにもないわ。小学生じゃないんだから、おとなしく寝なさい」
「ちぇ、堅物め」
「なんか言った?」
「いや別に」
「寮生は寮で寝泊まりすればいいけど」
と和人が口を挟む。
「寮生じゃないおれたちはどこで寝泊まりするんだろ。寮も空いてないだろ」
「寮じゃなかったら、校舎になるだろうな。布団でも持ち込んで寝るんじゃねえの?」
「だとしたらほんとに合宿だなあ」
「そう考えると楽しそうでいいけど、実際は避難だからな」
話題がまたすこし暗いところへ戻って、卓郎は菜月に脇腹をこづかれる。
しかし幸い、電車はすぐに彼らが降りる予定の駅に到着した。
六人はそれぞれ荷物を持って下車し、改札を出たところで直接学園へ戻る三人と一度家に寄る三人に分かれる。
「じゃ、またあとでな」
と手を挙げる卓郎に、
「おう」
と和人も応える。
「送り狼になるんじゃねえぞ」
「だれがなるかっ」
「送り狼?」
その言葉を知らないらしい青藍が首をかしげ、和人の服の裾を引っ張る。
「どういう意味の言葉なのだ、主よ」
「そ、それはだな……あ、日比谷のやつ、逃げやがったなっ」
卓郎の笑い声が遠ざかっていく。
青藍は子どものように無垢な瞳を和人に向けている。
その裏表のない目に耐えかね、和人は八白に目を向ける。
「な、直坂、説明してやってくれ」
「え……お、送り狼だっけ? ごめん、あたしもわかんないの。どういう意味なの?」
「くっ、やぶ蛇だったか――ま、まあ、細かいことは気にせず、おれたちも帰ろうぜ」
ははは、と空笑いして、和人は歩き出す。
青藍と八白は不思議そうな顔でそれに続いた。
時間は四時をすぎていたが、まだ空は明るい。
町も昼間の雰囲気を残していて、一日遊んだという気があまりしない夕方だった。
「送り狼……やっぱり、狼に関係あると思うんだよね」
「うむ、たしかに。では、狼の特徴を挙げていけばよいか。まず、日本の狼は絶滅している」
「絶滅するなってこと? でも、それだと送りって言葉がつくとおかしいよね」
「では別の特徴か」
「たとえば、肉食とか?」
「肉を食うな、ということか?」
「だとしても、送りってつくのはおかしいよね……なにかの比喩かな?」
「徐々に真実に近づいてやがる……ふ、ふたりとも、海、楽しかったな!」
「え、あ、うん、楽しかったね」
八白がこちらの話題に乗っかり、和人はぐっと拳を握る。
「牧村くんの泳ぐ練習はあんまりできなかったけどね」
「ああ、あれな。なんか所々記憶が途切れてるところがあるんだけど」
「そ、それは忘れたままでいいんじゃない? 思い出すといろいろ困ると思う……菜月ちゃんとかが」
「織笠が困る?」
「その、なんていうか、ね、そういう感じの」
わかったような、わからないような。
和人はぼんやりとうなずき、それ以上は思い出さないようにする。
「でも、また行きたいよね、海」
と八白が片手に持った鞄を前後に振りながら言う。
「あたし、友だちと海に行ったの、はじめてだったんだー。プールとかは行ってたけど、学園に入ってからはあんまり遠出ってできなかったし」
「季節的に今年はもう無理だろうけど、行きたかったら来年でも再来年でも行けるだろ」
「うん……牧村くんも泳げるようにならなきゃいけないもんね?」
「お、おれはいいよ、この先も陸上で生活するつもりだから。基本的に海の生物とは仲良くできねえ」
「そんなことないよ。泳げるようになったら気持ちいいと思うけどなー」
「その前に地獄の特訓があるんだろ? 記憶が所々飛ぶような」
「そ、それはちょっとした事故っていうか、照れ隠しっていうか」
「照れ隠しで記憶なくなるまで殴るってどんだけワイルドなんだよ」
精霊使いじゃなきゃ死んでるところだ、と和人はぶつぶつ呟く。
「今回は菜月ちゃんもダメージを負ったんだからしょうがないよ」
「織笠も? おれ、覚えてないけど、なんかしたのか?」
「怪我とかじゃなくて、心のほうにちょっとね……菜月ちゃん、結構気にしてるみたいだから」
八白はちらりと青藍を見る。
青藍は、いまは白いワンピースを着て涼しげだが、ゆったりした服を着ていても胸の大きさははっきりわかる。
事態が飲み込めない和人は首をかしげながら、
「まあでも――来年には、おれも泳げるようになってると思う」
「え、どうして」
「風呂で練習するから。おれだけ泳げねえのは癪だ」
「お風呂でなんとかなるかなあ」
と笑う八白は、ふとなにかに気づいたように表情を変えて、
「あ、あの、あ、あああたしでよかったら、プールとかで練習に付き――」
ちょうどその言葉をかき消すように、車道でクラクションが鳴る。
無茶な運転をしたドライバーがいたらしい。
和人はクラクションに驚いて車道を見たあと、
「びっくりしたなあ――で、なんだって?」
「べ、別になんにも言ってないもん」
タイミングを狂わされてはどうしようもない。
八白はぷいとそっぽを向く。
普段ならこれで話が終わってしまうところだが、今日は八白の後ろから、
「泳ぎを教えてくれるそうだ」
と青藍が助け船を出した。
八白はびっくりして青藍を振り返る――青藍は、まるで八白を励ますようにやさしくほほえんでいた。
他人の機微には疎い青藍らしからぬ、的確な助け船である。
そしてその表情にも八白は違和感を覚えたが、それが明確な形を取る前に、
「おお、そうか。悪ぃな、直坂」
と和人が八白の肩をぽんと叩いた。
「え、あ、うん――そ、その、ちゃんと教えられるかわかんないけど」
「大丈夫だろ、たぶん。おれ、そういうのの飲み込みは早いから」
「そういえば、牧村くんって昔から運動神経すごくよかったもんね。あたしなんか精霊使いになっても牧村くんに勝てる気しなかったもん」
「さすがに精霊使いには負けるって。まあでも運動は得意だからな」
運動は、というところに、学力はそうでもないという裏が感じられる。
和人も自覚はしているのである。
昔から、運動以外はからきしというのが和人だった。
八白は反対に、勉強はできたが、運動に関するかぎりはまるっきりだめなのである。
それゆえ、小学生のころ、まだ八白が精霊使いとして覚醒するまでは、和人の勉強は八白が見てやって、運動に関しては和人が手助けしてやるというのがふたりの関係だった。
八白が精霊使いになってからはそれもなくなり、疎遠になっていたが、いまになってまたその関係が戻りつつあるのは八白にとっても幸せなことである。
「でも今回は運動もあたしが教えるんだもんね」
「まさかあの直坂から水泳を教わるとは……天変地異の前触れかな?」
「そんなことないよっ。それにあたしだって最初は苦労したんだもん。菜月ちゃんにいっぱい教えてもらって、泳げるようになったけど」
「織笠か。たしかにあいつはすげえ泳げそうだよな」
学力に欠点があるのが和人で、運動神経を欠いているのが八白なら、菜月はその両方を持ち合わせている。
卓郎なら、学力と運動神経はあっても性格に難がある、と称すだろうが、それもすぐにいらないことを言う卓郎だからこそといえる。
「……考えてみれば、織笠って完璧じゃねえか。勉強ができて、運動ができて、友だち思いで、そのうえ容姿もいいもんな」
「そうだよー。菜月ちゃんって昔からすごくモテるもん」
「だろうなあ」
うんうんと和人はうなずく。
それでふと八白は不安になって、
「ま、牧村くんも菜月ちゃんみたいな女の子が好きなの?」
「い、いや、おれはもっとおとなしいのがいいな……織笠を制御できる自信がない」
「普通にしてればそんなに怒ったりする子じゃないんだけど……」
苦笑いしつつ、ほっと安心する八白である。
もっとも、それでなにもかも安寧というわけでもない。
芽衣子、青藍と、菜月以外にもライバルには事欠かない。
芽衣子はだれの目から見ても和人にアプローチしているし、青藍はなんといってもいっしょに暮らしている仲である。
現状、八白の武器といえば幼なじみということだが、それが生かしきれているかは定かではない。
家もすぐ向かいなのだから、もっと和人と接触する機会を増やせば、と端で見ている菜月などは思うのだが、八白に言わせてみればこれが限界なのだ。
これ以上は恥ずかしくて、とても実行できるものではない。
「直坂はねえのか」
ぽつりと和人が言う。
「ないのかって、なにが?」
「好きなタイプとか。クラスにも結構いろいろいるだろ。格好いいやつも、明るいやつも。日比谷みたいなやつとか」
「ひ、日比谷くんの相手は菜月ちゃんしかできないかなって思うけど……」
「たしかに」
「あたしは別に――す、好きなタイプとか、あんまりかな」
「そういうもんか。まあでも、おれもそうだしな。青藍は?」
「ん?」
と青藍は顔を上げ、
「好ましい人間なら、主だが」
「いや、そういうことじゃねえって。精霊石とか持ち主とか関係なくだな、こう、こういう男がいいなあ、みたいな」
「さあ、よくわからん。主ではだめなのか?」
「だめってわけじゃないけど」
やはりすこしちがう気がする、と思う和人のとなりで、八白は青藍の素直さをうらやましく思う。
芽衣子にしてもそうだが、どうすれば自分の感情をそこまでまっすぐ表現できるのか、八白には不思議だった。
性格のちがいといえばそれまでなのだろうが、もっと素直に表現したいことがたくさんあるのだ。
うれしい気持ちはうれしいと伝えたいし、楽しいときも楽しいと伝えたいが、恥ずかしくてなかなかうまくいかない。
容姿だけではなく、青藍や芽衣子はそういうところも魅力的だと八白は思う。
素直さは、女子にとって最大といってもいい武器なのだ。
考えてみれば、八白のまわりにはとくに素直な人間が集まっている。
青藍と芽衣子はもちろん、菜月だって自分の感情は素直に表現できている。
卓郎も、いろいろと素直すぎるような気もするが、自分のことを隠したりはしない。
和人はどうだろう、と考える。
和人もやはり楽しそうなときはすぐにわかるが、怒ったり泣いたりしているのは見たことがない。
あるいは、和人も八白と同じように、自分の感情を表現するのが苦手なのかもしれない。
和人と共通項が見つけられてよろこんでいると、不意に和人が八白の顔を覗き込む。
「どうした? ずいぶん楽しそうだな」
「え、そ、そう?」
「にやにやしてるぞ」
「そ、そんなことないよっ」
「いや、ある。昔から顔に出やすいだろ、おまえ」
「そう……なの?」
「子どものときからな。なんかうれしいことがあったらずっとにやにやしてるし、なんかあったらすぐ泣くし。おれなんて何回直坂を泣かせたことか」
「泣くようなことするのがいけないんだよ! で、でも、あたし、そんなに顔に出やすい?」
「さすがに有希子先生には負けるけど、子どものときはあのレベルだったな」
「そ、そんなに……」
知らなかった、と八白は自分の頬に手を当てる。
たしかに、自分の顔など鏡を覗き込むとき以外は見ないものだ。
他人の顔はいつでも見られるから、ちょっとした表情の変化にも気づきやすいが、自分の表情の変化には気づいていなかった八白だった。
「うう……なんか恥ずかしい……」
「いまさら照れても遅いと思うけど」
意外な事実も判明したところで、三人はそれぞれの家の前に到着する。
「じゃあ、先に準備できたほうが相手の家に行くってことで」
「うん、またあとでね」
八白はひとりで直坂家に入り、和人は青藍といっしょに牧村家へ入る。
ただいま、と家に入ったときから、八白は大急ぎで自分の部屋に駆け上がり、準備をはじめた。
八白とて年頃の少女であるから、お泊まりの準備にはそれなりの時間を要するのだ。
一方、和人といえばそういうところはあまり気にしない質だから、おそらく着替えを鞄に詰め込めば準備完了だろう。
和人より早く準備を済ませることはできそうにないが、あまり待たせるのも悪い、と八白は大きな鞄を押し入れから引っ張り出し、とりあえず三日分と仮定して着替えやらなにやらを詰め込みはじめた。
「えっと、この服とこの服に……肌寒いときに羽織るのもいるし、換えのやつもいるから……」
ぶつぶつと八白は呟き、服を選別して入れていく。
手当たり次第に、というなら話は早いが、そうはいかない。
だれに見られるわけでもない家着とはわけがちがうのだ。
学校で着るということは、大勢のクラスメイト――そこには当然和人も含まれる――に見られることを前提としているから、しっかりした服でなければならない。
おそらく必要になるであろうパジャマは、なにかのときのために買ったまま保存してあった新品を持って行くことに決める。
持って行くのは、着替えだけではない。
筆記用具も必要だろうし、泊まりになるならドライヤーや諸々の化粧品も必要になる。
学校でも遊びに行くときでもそれほどしっかり化粧するわけではない八白だが、基本的なスキンケアなどは欠かすことができない。
ドライヤーあたりは菜月に借りられるかも、とは考えるものの、自分で持って行くに越したことはないだろうと、部屋から出て洗面所に取りにいった。
その途中、リビングにいた母親に呼び止められる。
「八白、あんた、ニュースは見たの?」
「え、うん、見たけど」
と八白は片手にドライヤーを持ったまま応える。
「大変なことになってるわねえ」
「うん。それで、これから何日か学校のほうに泊まるから」
「連絡はあったけど、大丈夫なの?」
「え、なにが?」
「この先、精霊使いだと大変かもしれないでしょ」
八白の母親は、精霊使いではない。
しかし八白が精霊使いだと判明したときも、とくに戸惑うことはなく、すぐ不破学園への転入を決めて手続きを進めてくれた。
精霊使いになってなによりもつらいことは、家族から忌み嫌われることだ。
自分の娘、あるいは息子がそうなったとき、どうしてうちの子が、と認められない気持ちは理解できる。
精霊使いになってしまった本人もその家族も、戸惑うことは当然だが、親にそうして一瞬であっても拒絶されることは、子どもにとっては大きな悲劇になる。
その点、精霊使いになった当時はいろいろと大変で考えたことはなかったが、いま改めて思うと、両親にはずいぶん救われている八白である。
精霊使いになっても、身近に自分を認めてくれるひとがいるかいないかで心情はずいぶんちがう。
そしてそのころ八白を拒絶しなかったひとりに、和人もいる。
不破学園に転入する、と決まったとき、それまで仲のよかった友だちのなかには露骨に八白と距離をとる子どももいたし、それほど露骨ではないにせよ、いままでどおりには接してくれない子どもがほとんどだった。
なにも変わらなかったのは、両親と和人くらいのものである。
いちばん心細かった時期にそばにいてくれたのだから、それは惚れるのも無理はない、と過去を振り返っても思う八白だった。
「これから大変かもしれないけど――」
と八白は母親に言う。
「学校にはみんないるし、先生たちもいるから大丈夫だと思う。心配しないで、お母さん」
「――そう、わかったわ。お父さんにも、ちゃんと言っとくから」
「うん。また向こうに着いたら連絡するね」
「ちゃんと歯ブラシとか持った?」
「持ったー」
「かわいいパジャマは? 和人くんに見られるかもしれないんだから、気合い入れなさいよ」
「お、お母さんっ」
「幼なじみだってね、うかうかしてるとだれかに取られちゃうわよ」
「もう、お母さんったら」
言われなくてもわかってる、と八白は階段を駆け上がる。
下からは、母親の楽しそうな笑い声が聞こえていた。
ドライヤーを鞄に詰め、あと必要なものはなんだろう、と考えていると、チャイムが鳴った。
「はーい」
とまず母親が出る。
「あら、和人くん。大変なことになったわねえ」
「そうなんですよ。これから向こうに泊まりだから――直坂はまだ準備中ですか」
「みたいね。かわいい服を探してるんじゃないかしら」
「お母さん!」
「あら、聞こえてたの」
聞こえるようにわざと言っているくせに。
八白はこれ以上の辱めは受けまいと、鞄の中身を改めて確認して階段を降りる。
「ご、ごめんね、牧村くん。お待たせ」
「別に待ってないけど、もういいのか?」
「うん、大丈夫」
案の定、和人の荷物はそれほど大きくない鞄ひとつだけである。
和人だけの荷物ならまだしも、そこに青藍の荷物も入っていることを思うと、なんとすくない見積もりか。
八白は大きな鞄を背負うように持って靴を履き、家の外に出た。
「じゃ、お母さん、行ってきます」
「行ってらっしゃい」
と手を振る八白の母は、ちょいちょいと手招きをして和人を呼んだ。
「この先どうなるかわからないけど、八白をお願いね、和人くん」
「――はい、わかりました」
「じゃ、改めて行ってらっしゃい」
八白の母親は、両親がいない和人にとっても親のような存在である。
ふたりはそれぞれ愛すべき親に見送られ、学園へ向かう山道に差しかかった。
「さっき、お母さんとなにを話してたの? あれ、そういえば、青藍さんは?」
「青藍はここ」
と和人はズボンのポケットを叩く。
「荷物が多くなるからって、向こうにいるあいだは石になってもらってるんだ。別におれは人間のままでもよかったんだけど、寝るところが男女で分かれたりしたら面倒だろ」
「あ、そっか……たしかにそうかもね」
「あと、おばさんには八白をよろしくって」
「よ、よろしく……?」
単純に考えれば単純な答えが出るが、深読みすればそれだけ意味が出てくる言葉である。
「そ、それで、牧村くんはなんて答えたの?」
「ん、別に、わかりましたって答えたけど」
それはつまり、そういう意味にも捉えられることではあるまいか。
八白の親が、八白、つまり娘をよろしく、と和人に言って、和人はそれを了承する――このやりとりは、場所と場面を変えれば、そのまま人生でもっとも重要な挨拶になりうる。
もちろんそんな意図ではないだろうが、自分の妄想に照れる八白である。
そして八白は、母親が家で、いまごろ娘はいらぬ想像をして照れているにちがいない、とほくそ笑んでいることを知らない。
「直坂」
「ひゃ、ひゃい?」
「荷物、交換するか」
「え、ええっ?」
「いや、重たそうだなと思ってさ。おれが持つよ、その鞄」
「え、で、でも、悪いよ」
「だから交換だって言ったろ。おれの鞄は直坂が持ってくれ。そんなに重たくねえから」
でも、とためらう八白を無視して、和人は八白の荷物を半ば強引に預かり、八白は和人の荷物を押しつけられる。
和人の鞄は、たしかに軽い。
これで本当に着替えが入っているのかと思うほどだった。
一方、八白の鞄は着替えのほかにもいろいろと詰まっているから、重たいはずである。
「ご、ごめんね、重たいでしょ?」
「いいんだよ。男が重たいほうを持つのは当たり前だろ」
「あ、ありがと」
「どういたしまして」
和人の気遣いはうれしいものの、着替え、すなわち下着なども入っている鞄を持たれるのはなんとなく恥ずかしい。
八白は和人の鞄を受け取った形のまま、つまり抱きしめたまましばらく歩いて、ふと、自分の鞄にそういうものが入っているなら、和人の鞄にも和人のそういうものが入っているはずだと気づいた。
そうとは知らず、しばらくそれを抱きしめて歩いていたのである。
はわわわ、と慌てて八白は鞄の把手を持つ。
「……どうした、直坂。顔が赤いぞ」
「な、なんでもないよ?」
「そうか……?」
端から見れば、純情すぎる、あるいは妄想がすぎるというところだが、こういう性格に育った八白からしてみれば、自分ではどうしようもないことである。
鞄の中身を意識してどぎまぎしながら八白は歩く。
同じ理由で和人もどぎまぎしてもいいはずだが、坂道を上る和人の横顔にはそんな気配はすこしも見られない。
むしろ、なんとなく真剣な顔色をしている。
どうしたんだろう、と八白は、我知らず和人の横顔をじっと見つめる。
和人は、客観的に見て、絶世の美少年、というほど整った顔立ちをしているわけではない。
しかし横顔を見つめていると新しい発見もある。
意外と鼻が高い、とか、口元ってこんな感じだったっけ、とか、八白は子どものころからの思い出と重ね合わせるように和人の横顔を観察する。
毎日のように顔を合わせているから気づかなかったが、改めて見ると和人もずいぶん大人らしい顔になっている。
八白は呆けたように和人の横顔を見つめていたが、不意に和人が振り返ったので、慌てて目を逸らした。
「なあ、直坂」
「な、なあに?」
「直坂はさ、子どものときのことって何歳くらいから覚えてる?」
「え、子どものときのこと?」
八白はすこし考え、
「たぶん、小学校に入るときくらいかなあ……幼稚園のときも所々覚えてるけど。でも、どうして?」
「いや、ちょっと考えただけなんだけど」
照れたように和人は頭を掻く。
「案外子どものころって覚えてねえなと思ってな。おれが覚えてるかぎりで最初の記憶って、小学四年くらいだと思うんだよ」
「ちょうど牧村くんがここに引っ越してきたころ?」
「うん、たぶん。その前のことってなんにも思い出せなくてさ――どこに住んでたとか、親はどんなひとだったのかとか」
それは、八白も知らない和人の子ども時代である。
八白は和人が真向かいの家に引っ越してきたときのことを鮮明に覚えている。
なにしろ和人もさすがにそのころは自炊ができず、食事はほとんど八白の家でとっていたから、兄弟ができたような感覚だったのだ。
真向かいにひとりで暮らしている同い年の男の子――その和人がいつ特別な存在になったのかは、八白も定かではない。
「いままで考えもしなかったけど、たぶんおれはいろんなことを忘れてるんだ。でもおれが忘れてることを知ってるやつがいる」
「牧村くんが忘れてることを?」
和人はこくんとうなずいた。
「学園を襲撃した連中、覚えてるだろ」
「う、うん」
「あの連中を指揮してたのが、たぶん今回の騒ぎの首謀者なんだ」
「え、そ、そうなの?」
「おれの過去を知ってるのも、そいつだ。なんでおれが覚えてねえのかってことも知ってる」
「どうして――」
「さあ、なんで知ってるのかはまだわかんねえけど、たぶん因縁があるんだ」
和人は、八白をまっすぐ見つめた。
なんとなく物悲しいような、ひどく孤独な目だと八白は思った。
「直坂だから言っとくけど、たぶん今回の騒ぎは、おれは部外者じゃいられないと思う」
「どういうこと……?」
「なんかあったときに、守ってやれないかもしれないってことだ。おばさんにはああ言ったけど、そのときにおまえのそばにはいられないと思うから」
「やだ――」
とっさに八白は和人の手を掴んだ。
「そんなの、やだよ。どうしてそんなこと言うの?」
「悪い」
「守ってくれなくたっていい。牧村くんのことは、あたしが守るから。だからそばにいられないなんて言わないでよ」
「……ごめんな」
和人はゆっくり八白の手を解いた。
それは言葉よりも明確な拒絶である。
しかし、一度は振り解かれた手を、八白はもう一度繋ぎ直した。
今度は決して離れないように、強く和人の手を握る。
和人は驚いた顔で八白を見た。
「あたしだって、精霊使いだもん」
八白は決意を込めて言う。
「自分の望む未来に近づくためにこの力があるなら、あたしもがんばるから」
「でも、これはおれの問題だ。直坂には関係ないんだよ」
「関係なくたって、強引に関係してみせるもん。絶対牧村くんひとりにはさせないからね。勝手にどこかに行っちゃったりしたら、許さないからね」
「直坂――」
臆病な性格の八白らしくない強気な言葉だった。
それだけ気持ちがこもった言葉であることは和人にも伝わっている。
しかし和人は結局一度もうなずかず、決して八白を受け入れなかった。
ふたりは手を繋ぎ、そこにいささかのよろこびも感じないまま、山道を登っていった。