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青の奇跡  作者: 藤崎悠貴
第三話
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第三話 7

  7


 その後の世界中の混乱ぶりにはすさまじいものがあったが、それは思いのほかゆっくりと広がっていった。

 テレビを通してその様子を見ていた一般人には、それが本当にホワイトハウス内からの中継で、殺害されたのは本物のアメリカ合衆国大統領であるかどうかすら定かではなかった。

 しかし各国の首脳と報道機関は、早くからそれが真実であることを知っていた。

 というのも、ホワイトハウスからの中継は現地時間で日付が変わる深夜に行われたが、その日の昼には、すでにホワイトハウスはテロリストの集団によって占拠されていたのだ。

 襲撃が実際に起こり、大統領並びに国家の主要人物が捕縛されてから中継まで半日ほどかかったのは、全世界へ中継する手筈を整えるためである。

 その半日のあいだに主要な国の首脳は事態を把握し、また各種の報道機関もその情報を掴んでいた。

 ワシントンでは、機動隊を入れてホワイトハウスを奪還するという計画が進んでいた矢先の出来事だった。

 中継が終わったあと、あれは本当だったのか、夢でも見ていたのでは、というような、曖昧な感情が人々のあいだに広がり、報道もどこかおざなりなところがあった。

 しかしその反動のように、中継が終わってから数時間経つと世界中の報道機関が現状把握に奔走し、次々に新しい情報がもたらされた。

 曰く、ホワイトハウスは完全に占拠され、大統領以下国の主要人物はほぼ全員囚われているか殺害されている。

 曰く、犯人グループは複数名の精霊使いである。

 曰く、米副大統領は事件発生当時外遊に出ており、無事である。

 曰く、犠牲者の数は現時点で数十名確認されている――。

 断片的な情報は整理されることなく、明らかになった順番で次々に報道された。

 イギリスやフランスなどの主要国はすぐに声明を発表し、犯人グループの非人道的振る舞いを非難し、それに屈しないことを明言したが、それは形式的な声明以上のものではなかった。

 中継事件後、二時間ほどで外遊に出ていたアメリカ副大統領が現地に戻り、陣頭指揮をとることが明らかになった。

 副大統領は、昼過ぎの襲撃事件の第一報を受けた時点で外遊先のドイツから文字どおり飛んで戻ってきたが、現場に着いても休むことは一切なく、警察や米軍からの報告に追われることになった。


「――とにかく、犯人グループと接触しなければならん。目的を聞き出し、譲歩を引き出すか時間を稼げ」

「無線の呼びかけは続けていますが、反応はありません。中継で言ったとおり、話し合いに応じるつもりはないのでしょう」


 同じワシントンに本部を構えるFBIの長官は、冷めたようにすら見える冷静さで答える。

 それがまだ若い副大統領の神経を逆なでし、彼は強い口調で長官に指示を出す。


「無線での呼びかけがだめなら、近づいて叫べ! なんとしても連中と接触するんだ。そしてホワイトハウスを取り返す。あれはアメリカの象徴だ。アメリカが死んだだと? 連中こそ駆逐して、アメリカを蘇らせてやる」

「われわれに突入許可を与えてくだされば、そのようになるでしょう。すでに配備は済んでいます。あとは一言行けと命じるだけで、腕利きの連中がホワイトハウスを取り返しますよ」

「失敗は許されんぞ。わかっているな」

「もちろん」

「では、やれ。必ずホワイトハウスを取り返すぞ」


 長官はその場ですぐ作戦実行の指示を与える。

 その一声で三十余名の突入部隊がホワイトハウス奪還のために動き出した。

 一方で副大統領が待機する司令室には大勢の人間が出入りし、うそかまとこか定かではない情報をばらまいては去っていく。


「副大統領、記者がコメントを求めて殺到しています」

「追い返せ。それどころではない」

「副大統領、CIAの長官が面会を求めています」

「通せ」


 小太りの男が部屋に入ってくると、そこにFBIの長官が控えているのを見て、露骨に顔をしかめた。


「あなたがくるのは意外ですな」


 とFBIの長官も不愉快そうに呟く。


「これはFBIの管轄ですが」

「精霊使い相手なら話はちがう」


 CIA長官は副大統領に向き直り、


「犯人グループの素性が判明しました。前々から目をつけていた精霊使いの集団、レギオンと呼ばれる連中です。中継に出ていた男がレギオンの代表とされていますが、こいつはアメリカだけじゃなく、国際的に広がりを持つ精霊使いの組織です」

「ふむ、レギオンか。聞き覚えがないな」

「大統領には報告していましたが」

「次からは私に報告するんだ」

「連中の素性がわかったからどうだというんだね」


 FBIの長官は鼻で笑う。


「いまうちの精鋭がホワイトハウスを取り返す。あんたたちの出番はない」

「無事に奪還できればよいが、FBIは精霊使いの扱いには慣れていない」

「精霊使いがらみの事件は担当している。要は、ただの人間だ」

「ただの人間ですと? いや、あれは人間などではない。まったく別の生き物として考えるべきだ」

「きみの精霊使い差別は有名だが」

「差別ではない、現実を見て言っている。普通の手段で精霊使いを制圧できると思っているなら、痛い目を見ることになりますぞ」

「やめんか」


 副大統領が手を振る。


「国家の存続がかかったときにくだらん言い争いはよせ」

「お言葉ですが、副大統領、あなたも精霊使いについてはあまりご存じないでしょう」

「報告を受けていないからな」


 ふんと不機嫌そうに副大統領は鼻を鳴らす。


「では、いま報告しましょう。精霊使いを人間と見るのはやめたほうがいい」

「そういう意識が、このような事態を生んだのではないかね。精霊使いの差別など、くだらんことだ」

「差別というのは、根拠のない優劣意識でできるものです。そういう意味では、わたしは差別などしていない。事実のみを述べておるのです。よいですか、精霊使いというのは――」


 言葉を遮って、FBIの制服を着た男が部屋に飛び込んでくる。

 それは吉報であることを確信している長官は、部下を笑顔で迎えた。


「早かったな。連中、数はすくなかったのだろう」

「も、目視した分では五名ということですが――」

「落ち着いて報告しろ。副大統領もお聞きになっている」

「はっ。つ、つい今し方、突入した部隊との連絡が途絶えました」

「なに? れ、連絡が途絶えたというのは」

「おそらく全滅――あるいは、捕らわれていると考えられます」

「精霊使いとは、そういうものなのです」


 CIAの長官はゆっくりと言った。


「まさか、そんなはずはない。伝達違いか、無線機の故障だろう。まだ突入から数分だぞ。確認はしたのか」

「いえ、まだ未確認ではありますが」

「いかに精霊使いといえど、たかだか数人。ホワイトハウスの警備にも手抜かりがあったのだ。でなければ、占拠などされるはずがない。こちらは腕利きが三十余名だ」

「それでは足りんというのだ」


 しびれを切らしたようにCIAの長官が言う。


「もし本気で精霊使いを殲滅せんとするなら、ミサイルでも撃ち込むしかない」

「ホワイトハウスにミサイルを撃ち込むだと?」

「白兵戦では勝ち目がないということだ。たとえ戦力差が十倍あろうと、やつらの戦闘能力は十人力どころではない。精霊使いを相手にするには、それなりの戦い方というものがある。われわれはそれを知り尽くしている」

「では、やってみたまえ」


 それまで黙って様子を見ていた副大統領は静かに言った。


「ホワイトハウスの奪還は第一目標である。いかなる犠牲を払っても取り戻す」

「了解しております。われわれには精霊使いを相手にするノウハウがある。しかしそれを実行する兵隊を欠いています。軍や警察、もちろんFBIからも優秀な人材をお貸しいただけますか」

「いいだろう。好きなだけ集め、使うといい。しかし失敗は許されん」

「もちろんですとも」


 FBIの長官は不機嫌そうに顔をしかめたままだったが、それを拒むことはできなかった。

 こうして長年の活動でノウハウを蓄えているCIAが陣頭指揮をとることになり、全米からホワイトハウス奪還作戦のために優秀な兵隊が集められることになった。

 一方で、そのように水面下で作戦が進行しているのはアメリカだけではなかった。

 前の中継を受け、ヨーロッパの国々でも襲撃に備えた警備強化がはじまっている。

 とくにイギリスでは王室を極秘裡に逃がすという計画が発案され、逃亡先の準備や手段が着々と進んでいた。

 アメリカの二の舞はごめんだ、と所在を不明にして潜伏する首脳も何人かはいたが、ほとんどは国民へ向け、そして全世界へ向け、堂々とその場に留まっていた。

 いまのところ、欧州にとっては対岸の火事である。

 海を挟んだ向こうの大陸で起こっていることに神経をとがらせつつも、欧州では仕事や学校が休みになるわけでもなく、議会が止まるわけでもない。

 それぞれの首脳もアメリカの事件を気にしながら――なにしろアメリカではカメラの前で大統領が殺されているのだ――日ごろの仕事をこなしていた。

 世界で最初に、対岸の火事が飛び火したのはフランスであった。

 フランス大統領に第一報がもたらされたのは、当初から予定されていた教育現場の視察から官邸へ帰る車中のことである。


「閣下」


 と秘書が大統領にそっと耳打ちする。


「パリで暴動が起こっているそうです。官邸へは迂回路を使用します」

「暴動?」


 大統領はすこし首をかしげる。


「ストライキではなく、か。どの団体が起こしているんだ」

「詳しいことはわかりませんが、どうやら一般市民のようだと」

「一般市民がなんの理由もなく暴動を起こすものか。どういうことだ。まさか、ホワイトハウスと関係が?」

「おそらくは」


 秘書はちいさくうなずいた。


「何百人かの市民が、モンマルトルに押しかけているようです」

「モンマルトル――」


 その一部には、伝統的に治安のよくない地区がある。

 近代化を経て世界有数の観光都市となったパリでも、観光客があまり立ち入らない一角である。

 そういう場所には、往々にして社会からあぶれたものが行き着く。

 雑多な空気に隠れて精霊使いが住んでいるというのは、パリ市民でなくても知っているところだった。


「では、一般市民が精霊使いを襲撃しているというのか。前の事件のせいで?」

「あのようなことが起こり、中継においてパリは名指しまでされています。もともとここは精霊使いに対する感情がよくない国ですから、不思議ではありますまい」

「いかん。すぐに警察を投入して沈静化させろ。でなければ、大変なことになる――」


 その決断は正しかったが、あまりに遅すぎた。

 すでにモンマルトルの一部には集団になった市民が殺到し、店は壊され、精霊使いをこの国から追い出せというかけ声が響き渡っている。

 彼らは、自分たちを国のために行動する英雄のように感じ、高らかに踵を鳴らして怪しげな路地やアパートを暴風のように吹き飛ばしていく。

 しかしそれを外から見るかぎり、叫ぶ声は意味不明な怒号にしか聞こえず、高らかな足音は破壊的な行為の象徴にしか感じられない。

 いままさにその熱狂が目指す古いアパートの一室で、ひとりの青年が迫り来る足音に震えていた。

 彼は生まれつきといってもいいほど臆病な性格である。

 他人と争うことを嫌い、共存こそ理想だと考えているが、彼は精霊使いであった。

 そのことに気づいたのは十二歳のときだった。

 当時住んでいた南フランスのある町で、道端に落ちているちいさな石を拾ったことで彼の人生は大きく狂いはじめた。

 精霊使いは、自ら求めていなくても、必ず精霊石と出会う――そして出会ったら最後、なにがあってもその石とは離れられない。

 実際、彼は何度も手に入れた石を捨てた。

 川に投げ捨て、あるいは海に流し、はるか外国へいく輸送船に忍ばせたこともある。

 しかしその精霊石は必ず彼の手元に戻ってきた。

 逃れられない運命に身体中を縛りつけられているようで、彼は自らの宿命に身震いした。

 この国、いや、世界中のほとんどの国で、精霊使いは忌み嫌われている。

 望まず精霊使いとなった彼が行き着いた場所は、パリの隅にある埃っぽいアパートだった。

 となりに住んでいるのは昼間から酔っぱらって、おれはひとを殺したと叫び回っている中年の男である。

 そのまた向こうには、テレビのニュースで指名手配されているのを見たことがある強盗が暮らしている。

 そんな連中にすら、精霊使いである彼は忌み嫌われ、不気味がられている。

 なぜ自分ばかりこんな目に遭うのか。

 何度自問したか知れないが、決して解決することのない問いであることも知っていた。

 このまま、死ぬまでこの掃き溜めで暮らすのだと彼は未来を冷静に見ていた。

 そこへ、あの中継を見たのだ。

 おそらく同じように虐げられ、挫けていたはずの精霊使いがホワイトハウスを占拠し、カメラの前で大統領さえ殺してみせたとき、彼の臆病な性格はあまりにも不吉な光景に目を背けた。

 同じ精霊使いとしての共感は、ほとんどない。

 彼から見れば、テレビに映っているのはただのテロリストだった。

 精霊使いといっても性格は様々なのだ。

 だから彼は、テレビに映っている精霊使いと自分とはなんの関わりもなく、これから影響を受けることもないだろうと感じていたが、いまやそのテレビに触発された人間たちが彼のアパートに押しかけている。

 膝を抱えて、彼は祈る。

 どうかあのひとたちがここを素通りしてどこかへ行ってしまいますように。

 彼の傍らには、ちいさな石が転がっている。

 決して彼のもとを離れることがない精霊石である。

 熱狂的な足音がアパートに近づいてくる。

 内容が聞き取れない叫び声は、地獄で鳴り響く禍々しい鐘の音のようだった。

 どうか通りすぎますように、と強く目蓋を閉じた彼は、ふと、足音が消えたことに気づいた。

 先ほどまでの騒がしさがうそのように、あたりは静まり返っている。

 通りすぎるにしては早すぎるし、変化が急激すぎる。

 どうしたのだろうと立ち上がったとき、彼の部屋の扉がノックされた。


「だ、だれですか」

「ふたつ隣のもんだが」


 しわがれた声である。

 指名手配されている強盗など恐ろしくて顔を合わせたくもないが、返事をしてしまった手前、無視することもできない。

 彼は恐る恐る扉に近づき、鍵を開けて、ノブに手をかけた。

 その瞬間、扉がひとりでに開いた。


「こいつだ、こいつが精霊使いだ!」


 扉が開け放たれ、どっと人間がなだれ込んでくる。

 青年はわけもわからないままに部屋の隅まで追いやられ、そこで棒きれを持った男たちに取り囲まれた。


「な、なんですか、あなたたちは――」

「おまえが精霊使いだな。アメリカの連中の仲間か?」

「ちがう、ぼくはなにも……」

「もともとこんな化け物がいること自体おかしいんだ。こんな連中はいますぐ追い出すべきだ!」


 同意の声があちこちから上がって、古い建物全体がびりびりと震える。

 青年はとっさに身をかがめ、うずくまった。

 いくつもの目が青年を見下ろしている。

 そこには狂気のような色が浮かんでいるが、本人たちはだれひとりとしてそれに気づいていない。

 だれがこの狂気を植えつけたのか?

 それは、ホワイトハウスを乗っ取ったあの男にちがいないのだ。

 そしてその狂気は電波を使うことで世界中に広がっている。

 このような境遇にあるのは、決して青年ひとりきりではなかった。


「出ていけ、出ていけ!」

「出ていけ!」


 男たちが足を踏みならす。

 なかにはよく太った女もいる。

 一様に青年を見下ろし、脅し続ける。


「なんとか言え。この、化け物が」


 そのうちのひとりが、持っていた棒きれで青年の背を叩いた。

 青年がちいさくうめくと、それをきっかけにして、一斉に攻撃がはじまる。


「おれたちを殺そうとしているのか、この化け物め」

「国の、人類の敵はここで殺してやるっ」

「やめてください、ぼ、ぼくはなにも――」


 硬い棒が青年の背骨を打ち、後頭部を殴打する。

 青年はぎゅっと身体を縮め、必死に身を守った。

 それを誰かが蹴りつけ、青年はごろんと横に転がる。

 男たちがさっと取り囲み、腕や腹を狙って棒を振り下ろす。

 青年が痛みに絶叫すると、むしろ襲撃者はおもしろがって殴り続ける。

 彼はひたすら耐えた。

 殴られても、殴り返すことを知らない性格である。

 うずくまってがまんしていればいつか通りすぎると信じているのだ。

 しかし、そのうちにだれかが力任せに振り下ろした硬い棒が青年の頭を捉えた。

 ごおん、と重たい音が響いて、男たちは手を止める。

 青年は動かなくなっている。


「死んだのか?」

「いや、こんなもので死ぬものか」

「縛って、連れていこう」

「それがいい。だれかロープを持ってこい」


 ぞろぞろと集団が移動をはじめる。

 胎児のように丸まって動かない青年を見下ろしている男たちもいたが、冷めやらぬ熱狂はまた別の得物を探しはじめていた。

 この界隈には、まだ精霊使いがいるはずだ。

 それをすべてあぶり出し、制裁を加えなければこの国が危ないと彼らは信じきっている。

 ――と、


「ぎゃああっ」


 耳を劈くような悲鳴が響いた。

 アパートの一室から出ようとしていた一団がびくりと立ち止まり、振り返った。

 だれかが地面を這っている。

 髭を生やした中年の男である。

 絶叫しながら床を転がり、見れば、右腕の肘から先がない。

 赤茶けた切断面から血を撒き散らして男はわめいている。


「お、おい、どうしたんだ」

「あいつが、や、やりやがった!」


 そう叫んだのは、一部始終を見ていた別の男だった。

 部屋の奥に、血にまみれた青年が立っている。

 うつむいた髪の先からは血が滴り、服も破れているが、自分の足でしっかりと立っているのである。


「どうしてこんなことになるんだ?」


 青年が喉を震わせて呟いた。


「ぼくがなにをしたっていうんだ。精霊使いになんてなりたくなかった。だれかを傷つけたいなんて思ったこともなかったのに――どうしてこんなことになるんだ。悪いのはぼくか? それとも、あなたたちか?」


 青年の手には細長い武器が握られている。

 襲撃者が持っている棒きれとは比較にならない鋭さを持った、美しく輝く剣である。

 それが男の腕を切断させたのだ。


「ぼくは悪くないんだ。なにもしていないんだから。先に仕掛けたのはそっちだ。ぼくはなにも悪くない」


 ぶつぶつと青年は呟き、一歩前に踏み出した。

 するとそれまで強気だった襲撃者たちは、怖じ気づいたように後ずさる。

 ただ、腕を切断されて、立つことすらままならない男だけはその場から動けなかった。

 青年はその男を見下ろした。

 男は泣いていた。

 腕を切断されて、痛がっているのだ。

 だれかに傷つけられる痛みをはじめて理解したような顔をしている。

 青年は剣先をまっすぐ男に向けた。


「お、おい、やめろよ――」

「ぼくは悪くないんだ!」


 剣先がギロチンのように落ちて、男の喉を貫通する。

 男は目を見開いて喘ぐように口を開けたが、喉から血が溢れ出し、そのまま痙攣をはじめた。

 青年は剣を引き抜き、血がついたそれを襲撃者たちに向ける。

 彼らはわれ先にと部屋を逃げ出した。

 しかしたったひとつしかない扉は狭く、すぐに身動きがとれなくなる。


「ど、退け、早く出ろ!」

「さっさと出ろ、退けったら!」


 もはやその声は悲鳴と区別がつかない。

 青年は焦らなかった。

 たったひとつの入り口に殺到し、自ら動けなくなっている人間たちを、ひとりひとり殺していく。

 彼が剣を振るうと絶叫が上がり、それがまた逃げ出そうとする意識に拍車をかけ、余計に圧迫されて動けなくなる。

 なかには、扉からは出られないと判断して、青年に向かっていく男もいた。

 ひ弱そうな青年なら易々と組み伏せられる体格の男である。

 男が叫び声を上げて青年に体当たりすると、青年は軽く床を蹴り、男を飛び越えて無防備な背に一撃を食らわせた。

 その身のこなしはもはや、人間のなせる業ではない。


「ば、化け物――」

「そうさ、ぼくは化け物だ。化け物になってしまったんだ」


 青年は涙を流しながら剣を振り回した。

 その度に血が飛び散り、悲鳴と絶叫が上がり、人間が倒れていく。

 瞬く間に青年の部屋は血の海と化し、数えきれない死体が転がった。

 運良く、その地獄を逃げ出せた人間もいたが、ほとんどは扉から出ることも敵わずにそこで息絶えた。

 死体以外、すっかりだれもいなくなった部屋で、青年は自分の人生を破壊して自分を死から救った精霊石を握りしめた。

 すべての崩壊がはじまったのだ。

 もうだれもその流れは止められない。

 二、三十分後、ようやく青年の部屋に警察が到着したが、部屋にはおびただしい量の血と死体が残されているだけで、青年の姿はどこにもなかった。

 そして恐ろしいことに、そのようなことが起こったのは、決してこのアパートだけではなかったのだ。

 エリゼ宮殿に戻ってきた大統領は、次々に報告される絶望的な情報に頭を抱えていた。


「パリだけではなく、各地で精霊使いに対する暴動が激化しています。うち、軍が投入されているのが三カ所ありますが、どれも地元警察の手には追えない規模に肥大しています」

「遅かったか――はじめからこうなることを予期しておくべきだった。とにかくすべての暴動を鎮圧せねばならん。手段を選ばず、早急に鎮圧するのだ。軍でもなんでもいい、最悪の場合は精霊使いの殺害も辞さず、事態の沈静化に全力を注げ」

「はっ」


 ひとりが伝達に出ていくと、すぐに別の人間が部屋に駆け込んできて、また別の、しかしほかと同程度に絶望的な情報を報告する。


「パリ市内の三カ所で精霊使いが関係する事件が発生しています。うち二カ所は警察と精霊使いが接触し、戦闘が起こっているということです」

「一対一ではどうしようもない。数で封じ込めろ」

「ですが、捕らえても連行する手段がないと。なにしろ連中は恐ろしい力で手錠さえ引きちぎってしまいますから」

「相手は精霊使いだぞ。正攻法ではなく、まずはその力を封じ込めなければ意味がない。連中は必ず精霊石を持っているはずだ。それを奪えば、連中とてただの人間と変わりない」

「はっ、しかし、精霊石に触れると精神を病むという話が……」

「迷信だ、そんなものは! 国家の危機だぞ、なんとかしろ!」

「わ、わかりました」


 と逃げるように出ていくと、つかの間、執務室内が静かになる。

 しかしすぐに招集をかけている閣僚が到着し、これまで以上に騒がしくなるだろう。

 大統領は机に肘をつき、頭を抱えた。

 現時点で由々しき事態に陥っていることは間違いない。

 非常事態宣言も出さねばならぬだろうし、こうした根の深い問題は早急な解決がむずかしい。

 心中は、嵐のなかにこぎ出す水夫の気持ちである。

 うまく波をかわしながら進まなければ、あっという間に転覆してしまう。

 この国は何度かその転覆を経験しているが、第二次大戦以来、いちばんの危機になりつつあるのだ。

 大統領は大声で秘書官を呼び、記者会見の準備をさせた。

 報道陣は、最初からエリゼ宮の前まで集まっている。

 いまさら会見ひとつで事態は終息しないだろうが、やるべきことはやっておかねばならない。

 すくなくともホワイトハウスの二の舞だけは避けなければならないのだ。

 頭を失えば、当然手足は混乱する。

 その混乱に乗じてことを起こそうというのがテロリストの考えであるから、まずは指揮系統をしっかりと確立しなければならない。

 大統領は、静かに戦い抜く決意をする。

 精霊使いには屈しない。

 だからといって、それを一掃するのでもない。

 共存していくのだ。

 その困難な闘いに挑む決意を固め、大統領は立ち上がった。


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