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青の奇跡  作者: 藤崎悠貴
第三話
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第三話 5

  5


 浜辺でぼんやりと休憩していた和人は、強い日差しのなかでうつらうつらと眠っていた。

 異常なほどの睡眠を欲していた時期は脱したとはいえ、近ごろでも油断をするとすぐ眠ってしまう。

 いまも、こんなところで寝たら日焼けが大変だろうな、と思いながら、パラソルの下まで戻るのも億劫で動けずにいる。

 せめて青藍のために日陰まで移動したほうがいいとは思うが、そもそも精霊石である青藍も日焼けをするのだろうか、人間と同じ構造なら日焼けするはずだが、と考えている時点で、動くつもりはあまりない。

 昼寝をするのに、この静かな砂浜は最適なのだ。

 かすかに聞こえてくる波の音も心が落ち着くし、離れたところで明るい声が聞こえているというのも平和的でいい。

 とくに夢うつつで聞くそれらの音は心地よい夢への導入剤になっている。

 しかし、不意に顔に影が差して、和人は薄く目を開けた。


「よう」


 と太陽を背にして立つ男が言う。


「よう」


 と和人も返事をする。


「ナンパの調子はどうだ」

「まあまあだな」

「うそつけ。見てたぞ」


 卓郎は太陽の前から移動して、和人のとなりに腰を下ろす。


「まあ、おれにふさわしい相手がいねえってことさ」

「いい意味で理解したほうがいいのか? それとも自虐してるのか」

「いい意味で理解してくれ。なあ、牧村、なんでおれはモテないんだろう?」

「真剣に言われても困るけど――ナンパに引っかかるひとがそもそもすくないんじゃないのか。もっとこう、身近に目を向けてみるとか。おまえのことをよく知ってる相手なら、無下にはしないだろ」

「なるほどな。やっぱりおれの相手は学園にいるってことか」

「いやそういうことじゃなくて……ま、いいけど」

「ところで、おれも見てたぜ」


 卓郎はにやりと笑う。


「織笠の水着を強奪するとは、命知らずなやつだ」

「いや、強奪したわけじゃないんだって。偶然っていうか、なんていうか」

「でもおれなら織笠は狙わねえな。あんなまな板、見て楽しいのか?」

「返答は差し控えるけど、とりあえずそれは織笠の前で言うなよ。死ぬぞ、ほんとに」

「どうせ折檻覚悟なら、おれは布島さんあたりを狙うね」

「だから狙ってねえってば。奇跡的な偶然だったんだよ」


 狙ってやるには、あまりにリスクが高すぎる。

 そして得られるものはわずかしかない。

 そのわずかにすべてを賭ける男もいるだろうが、和人は、ひとまず自分の命を大切にしようと考える。


「ところでよ、今日ふと思ったんだが」


 卓郎はすこし声のトーンを落とす。

 真剣な目つきに、何事かと和人も身体を起こした。


「どうしたんだ。なにかあったのか」

「いや、いまにはじまったことじゃないんだろうが――最近、乳の平均が上がってないか?」

「……はあ?」

「全体的に大きめの胸が多くなった気がするんだよ。絵に描いたような貧乳なんか、たぶんこの海水浴場で織笠くらいだぞ。あとはみんなそれなりに谷間があった。やっぱり食生活の影響だったり、遺伝的な影響だったりがあるんだろうか? 牧村はどう思う」

「どうって、そうだなあ」


 やる気をなくし、和人は仰向けに寝転がる。


「まあ、遺伝はあるだろうな。あと食生活も。平均身長も昔に比べれば上がってるから、全体的に大柄になってるのかもな」

「遺伝ってのはつまり、その社会で有利なものが残っていくってことだろ。つまり、巨乳好きが多い世の中では、巨乳遺伝子が貧乳遺伝子に対して多く残る傾向にあるってことだ」

「そうなるな」

「もしそれが加速したら、世の中から貧乳遺伝子なるものが駆逐され、すべての女性が巨乳になってしまうんじゃないだろうか」

「ああ……でも、全部がでかいなら、そのなかでも巨乳と貧乳で分かれるんじゃないか。結局、絶対基準じゃなくて相対基準なわけだから」

「でも今日見られるような、たとえば織笠のような貧乳は姿を消すわけだろ」

「そこまでいくかな。巨乳が多くなったら、その反動で貧乳好きが増えるんじゃないか? それで貧乳遺伝子が巻き返して、だいたいいまと同じくらいで落ち着く気がする」

「うーむ、そうか。たしかにそうともいえるな。それならいいんだが」

「なんだ、おまえ巨乳好きだろ? でかいのが増えるほうがいいんじゃねえのか」

「ばか言うんじゃねえ。おれを侮るなよ、牧村。おれはな、すべての乳を愛しているんだ。すべての乳に平等な愛を注いでいるんだ。そうさ、おれは努力さえすれば織笠の乳だって愛せるんだぜ?」

「いやそれは知らねえし聞いてねえ」

「乳ってのはな、ちいさいのがあったり大きいのがあったりするからいいんだ。どっちか一方しかないなんておもしろくもなんともない。まあ、織笠のはちいさすぎる気もするけどな」

「言ってやるなよ。本人だって気にしてるかもしれないだろ。……それにしても、男ふたり、砂浜に寝転がってなにを熱弁してるんだ?」


 和人のとなりには青藍もいるが、こちらは完全に背を向け、無関係を装って寝ている。

 熱弁しているときはいいとしても、ふとわれに返れば、これほど寂しく空しい光景もないように思える。

 取らぬ狸の皮算用どころではない。

 自分たちにはまったく関係のない話である。

 そこでふと和人は思いつき、


「その理屈で言うなら、世の中から不細工は排除されるんじゃないか? たとえば、女はみんな格好いい男が好きだろ」

「みんなかどうかはわからねえけど、大勢がそうだろうな」


 卓郎もうなずく。


「ってことは、格好いい男の遺伝子が多く残るわけだ。格好いい男が増えたら、余計に不細工な男の出番はなくなる。そうなるといよいよ格好いい男の遺伝子だけが残って、世の中はそういう連中ばっかりになるんじゃないのか」

「理屈ではそうかもしれんが、あんまりそういうことを考えるなよ。悲しくなるだろ」

「……そうだな、やめるか」


 深い深いため息をついたふたりの前を、若い女ふたり組が横切る。

 そのふたりは、和人たちを見て笑っていた。

 それを、ばかにして笑っているのではなく、意味ありげに笑っている、と解釈する。

 卓郎は和人の腕を叩く。


「牧村、ナンパ行こうぜ」

「えー、さっき行ってきたんだろ。もう諦めろよ」

「ひとりではだめでも、ふたりなら成功するかもしれねえだろ。さっきのは脈ありの笑いだぜ」

「ほんとかよ。でも、青藍はどうする?」

「あ――そうか、たしかに女連れでナンパはおかしいよな。ちぇ、せっかくいい感じだったのにな」

「どこを見ていい感じに思ったのか、おれにはわからんが」


 結局、ふたりは寝そべったまま、動かない。

 仰向けになったふたりの身体を太陽光がじりじりと焼いていく。


「あー、腹減った」


 と卓郎が呟く。


「まだ昼飯食ってねえんだよな、おれ」

「ナンパに忙しかったからだろ。おれたちは食ったぞ」

「なに食った?」

「焼きそば」

「おれも食ってこようかな。でもひとりで食うのも寂しい」

「男ふたりで行っても寂しいだろ」

「やっぱりナンパするしかないのか」

「織笠とかに頼めよ」

「えー……どうせなら直坂さんとかがいいなあ」

「あいつら、いまいっしょにいるから、三人ともいっしょに行くかもよ。そしたら三人分奢らなくちゃいけないと思うけど」

「それも大変だな……ま、しょうがねえか。じゃあちょっと食ってくるわ」

「おう」


 卓郎は立ち上がり、砂を払いながら八白たちが遊んでいる海辺に向かう。

 和人はその場に寝そべったまま、空を見上げていた。

 昼をすぎても、まだ空には雲ひとつ見えない。

 じっと見つめていると、なぜだか不意に恐ろしくなるような、澄みきった青空である。

 海は波打ち、風は吹き、どこからか楽しげな声も聞こえてくるが、時間が停止したようにも感じられる。

 この一瞬は永遠に続くのだと、なんの根拠もなく信じられるのだ。

 その感覚は、落ち着くというよりはむしろ不気味というほうが近い。


「青藍」


 なんとなく恐ろしくなって、和人は寝返りを打った。


「ん」


 青藍もごろんと転がって、向かい合う格好になる。

 そうなると、別に話題があって話しかけたわけではないから、和人は妙に照れて、また空を見上げた。


「なんつーかさ、来てよかったよな」

「ん……そうだな」

「いままでいろいろあったからな――もしあのとき博物館で精霊石を見つけてなかったら、こうはなってなかったはずだ。たぶん、家でごろごろしてたんだろうな。たまに遊びに出かけて、けんかふっかけられたりして。それはそれで楽しかったけど、ここでこうしてるのも幸せだ」

「主が満足なら、わたしはそれでいい」

「相変わらずだな、おまえは」

「わたしは主の精霊石だからな」

「まあ――そうだな」


 和人はうなずき、自分が不思議と落ち着いていることに気づいた。

 妙な不安はどこかへ消え去り、安らかな気分になっている。

 そのまま和人は目を閉じた。

 卓郎に中断された昼寝を再開するのに、苦労はなかった。


  *


 布島芽衣子は和人の寝顔を覗き込んでいる。

 片手に卓郎から奢ってもらったかき氷を持ち、時折警戒するようにあたりを見回しながら、ほとんどは和人の寝顔を見ている。

 あたりを見回すのは、自分の様子が非常に怪しいことを自覚しているせいだった。

 寝ている人間のとなりに座り、にやにやしながら寝顔を眺めている人間は、男女問わず不審である。

 しかし、気持ちのいい暑さの浜辺で、和人の寝顔を肴にかき氷を食べる、というのは抗いがたい幸福なのだ。

 目の前に喉から手が出るほどほしい幸福がぶら下がっているとして、それに飛びつかない人間はいるだろうか?

 いやいない、と芽衣子は自己正当化し、和人の寝顔を覗き込んではストロベリー味のかき氷を食べ、にやにやしている。

 といっても、芽衣子はひとりでそんなことをしているわけではない。

 実は和人を挟んで向こう側に、同じような体勢で、かき氷こそ持っていないが、和人の寝顔を覗き込んでいる者がいる。

 青藍である。

 最初は芽衣子もひとりで楽しんでいたのだが、そのうち青藍が気づいてなにをしているのかと聞かれたので、こうしていると幸せなのだ、と説明したところ、青藍もそれを真似るようになったのだった。

 そしていま、ふたりは無言で和人を眺めている。

 砂浜に寝そべり、頬杖など突いて、左右からじっと観察している。

 すでに十五分ほど飽きずにしているのだから、よっぽどそれがお気に召すらしい。

 そもそも芽衣子は、和人に限らず、他人の寝顔を眺めるのが好きである。

 あまりいい趣味ではないと自分でも思うが、他人の無防備な姿を見ると愛おしくなる。

 原理としては、子どもを見てかわいいと思う感情と同じだと芽衣子は思っている。

 要は、悪気のない、人間のいちばん無垢な部分を見ていたいのだ。

 普段どんなに取り繕っている人間でも、寝顔までは取り繕えない。

 そこには生きているうちに手に入れたあらゆる仮面を剥いだ生の顔がある。

 どんな年頃の、どんな性格の人間も、寝顔は無垢なものだ。

 その純粋な部分が芽衣子は好きなのである。

 とくに好いている相手の寝顔ともなれば、大好物といってもいい。

 いま芽衣子は大好物にむしゃぶりついているのだ。

 一方、青藍がなぜ飽きずに和人の寝顔を見つめているのかは、芽衣子にはいまいちわからない。

 寝顔を愛すべき論理的理由は芽衣子にのみ適応される。

 青藍がそれを理解しているとは思えないが、それにしてもじっと穴が空くほど見つめているのは不思議だった。

 もしや、と思い、芽衣子は口を開いたが、一度躊躇して、やめる。

 しかし結局気になって、


「あの」


 と声をかける。


「ん?」


 青藍は顔を上げ、まっすぐな視線を芽衣子に向ける。


「つかぬことをお伺いしますけど」


 やけに丁寧に、芽衣子は言った。


「青藍さんはもしかして、和人さんのことが……その、好きだったり、するわけですか?」

「好き?」


 青藍は首をかしげる。


「好きかどうか、というなら、好きだろうな」

「や、やっぱり……で、でも、わたしも和人さんのことは好きですっ」

「そうか」

「あれー……なんか通じてない気がしますけど。あの、青藍さんは和人さんが好きなんですよね?」

「そうだな」

「それで、わたしも和人さんのことが好き、と」

「いま聞いたな」

「ということはつまり、その、決して穏やかではない状況になるのではないかと思っていたんですけど」

「穏やかではない状況、とは?」


 別段、からかっているふうでもない青藍の表情である。

 本当にわかっていないらしい。


「えっと、つまりですね」


 芽衣子は言葉を選びながら、なんとか説明を試みる。


「普通、一般的なケースですけど、同じ相手をふたりの人間が好きになったら、具合が悪いことが起こるんです」

「ほう。なぜだ」

「それは、だって相手から好きになってもらえるのは、どちらかひとりしかいないわけじゃないですか。どちらかがうまくいって、もう片方は残念になっちゃうって」

「ふむ。そういうものなのか?」

「そ、そういうものなんだと思いますけど」

「つまり、相手の寵愛を巡って争う、というわけだな」

「ちょ、寵愛というか、なんというか」


 ほんのりと芽衣子の頬は赤い。

 それを冷やすようにかき氷を食べる。


「しかし、それは前提が間違っているのではないか」


 と青藍は冷静に言う。


「その展開になるには、人間はひとりの相手しか愛することができない、という前提が必要だろう。同時にふたり、三人と愛せるのであれば、問題にもならんと思うが」

「ど、同時に愛する?」


 芽衣子の脳裏に、あらぬ状況が浮かぶ。

 はああ、と慌てて浮かんだ映像を消し去ったが、その名残として身体に妙な火照りが残った。


「い、一般的にはですね、それは浮気と呼ぶんじゃ」

「しかし古くから考えれば当然のことだ。正室、というものはあるにしても、複数の愛人を持つことはごく当たり前にある」

「な、なんか青藍さんの言葉って妙に生々しいんですよね……」


 しかし言っていることは青藍が正しい。

 人類の歴史を見れば、厳密なる一夫多妻は、つまりそれしか許されないという社会の仕組みが確立したのは近代以降である。

 それ以前は、男の浮気はある意味では許されていた。

 男女平等の観点で見ればまたちがってくるが、たしかにいま問題になっているのはひとりの男と複数の女であり、男の浮気、あるいはその愛人制度についてなのである。


「たしかに、昔からそういうものはありますけど」


 と芽衣子は反論を試みる。


「でも、自分以外好きになってほしくないとか、そういう独占欲もあるじゃないですか」

「そうか?」

「あれー」

「そもそも、わたしは精霊石だ。人間と同じ感情は持っていない」

「でも、和人さんのことは好きなんですよね?」

「主は主であり、この世界でもっとも大切なものだ。主がなければ、わたしもない。わたしが存在するために不可欠なものが主なのだ」

「そっか――そうですよね」


 芽衣子はすこし目を伏せ、さくさくとかき氷の山を潰す。


「なんだかうらやましいなあ」

「精霊石が?」

「せ、精霊石っていうより、その関係というか――運命的じゃないですか、それって。青藍さんは、和人さんがいないと文字どおり存在できないんですよね。ロマンチックっていうか、すごく素敵な関係だと思います。たとえば、わたしがなんて言っても、和人さんがいなくなればわたしも消えちゃうってわけじゃないですもん」

「わたしも、消え去るわけではない」


 青藍は言った。


「また眠りに就くだけだ。何十年か、何百年か眠りに就いて――あるいは、わたしの主となる人間は二度と現れないかもしれない」

「そっか――そういえば、和人さんの前にも青藍さんを使っていたひとがいるわけですよね。それって、ずっと昔のことなんですか?」


 そうだとしたら、それはなんと寂しいことだろうと芽衣子は思う。

 たとえば、自分は死なない存在だと考える。

 すくなくとも年をとっていくことはない。

 そういう肉体を持っていて、何十年か、あるいは何百年という月日を、だれとも会わず、だれとも通じ合うことなく過ごすと考えれば、それは恐ろしい孤独だ。

 時間が経っても身体が朽ちることはないが、心はすこしずつ剥がれ落ちていく。

 何百年か経ったころ、その心の一欠片でも残っているだろうか。

 なにもかもなくして、肉体があるだけ、器があるだけの存在になってしまわないのだろうか。

 すくなくとも青藍は、心がある。

 芽衣子はふと、精霊石とはそういうものなのかもしれないと思いついた。

 古くは、すべての精霊石が心を持っていたが、長い年月でほとんどがそれを失ってしまったのではないか。

 青藍は、ただひとつ残った強靭な心だったのではないか。

 それが精霊石の真実なのだとしたら、あまりに悲しすぎる。


「主の前にわたしを使っていた人間か」


 青藍はすこし目を細める。


「厳密に言えば使っていたというわけではないが、お互いを認識していたという点では、十数年前になる。それ以前となるとはるか昔のことだ。まだこの国がなかったころだった」

「そんなに――それからずっと、ひとりだったんですか」

「ひとり、という認識はない。精霊石として活性化されていない状態だ。使われていないあいだも、人間は大勢見てきた。使えもしないのに、貴石のようにわたしを持っていた人間もいた。対話こそできないが、孤独は感じない」


 それは真実だろうか。

 うそを言っているようではないが、まったくの真実とも思えない。

 それを裏付けるように、青藍は和人の寝顔を見下ろして、静かに呟く。


「主には感謝をしている。このように時間を過ごすのは何百年ぶりか知れない。だから、ついわがままを言ってしまう」

「わがまま?」

「人間の姿でいたい、というわがままだ。わたしが人間の姿でいるときは、精霊石は活性化していることになる。その分主には負担をかけている。それでも人間の姿でいたいのだ。精霊石のあり方として、正しくはないのかもしれないが」

「そんなことないと思います」


 芽衣子ははっきりと言った。


「わたしが青藍さんと同じ立場でも、きっとそうしたと思います。それに、和人さんだって気にしてないと思いますよ。きっと青藍さんのことも大切な家族みたいに思ってるはずです。そういう、やさしいひとですから」

「うむ、そうだな。だからこそ、いつかそれが足枷にならないかと心配している――」


 和人はぐっすり寝入っていて、ふたりの会話など聞いていない。

 ゆえに、ほめられて恥ずかしがっているというわけでもないだろうが、ふたりの視線が逃れるように和人はごろんと寝返りを打った。

 その頭がちょうど、頬杖を突いて寝顔を眺めていた青藍の腕のあいだにすっぽりとはまる。


「ん?」

「あ」


 普通なら、腕のあいだにすっぽり顔がはまっただけではどうということもないのだが、そこは青藍である。

 強力に自己主張するふたつのやわらかな山が、腕のすぐ奥に控えている。

 図らずも和人はそこに顔を埋めるような格好になった。

 青藍も驚いて退けばいいのだが、なぜかその体勢のまま動かず、胸に埋もれて苦しそうにもがく和人を見下ろしている。


「か、和人さん!」


 唯一の常識人、芽衣子が慌てて和人の肩を掴み、青藍から引きはがす。

 すると今度はその反動で逆に寝返りを打ち、芽衣子の胸元にぽすんと収まった。


「ひゃあ――」


 あられもない声を上げ、芽衣子は立ち上がる。

 胸を押さえ、赤い顔で荒く息をつきながら和人を見下ろすが、この状況においても和人は眠ったままだった。


「主は一度寝るとなかなか起きないからな」


 と青藍が珍しく和人をかばうように言った。


「そ、そうなんですか? でもこれは寝すぎじゃ……」

「以前、わたしが間違えて主をベッドから蹴り落としたことがあるが、それでも起きなかった」

「ベッドから……っていうか、べべべベッドから蹴り落とすって、つまりおおおお同じべべベッドにねねね――」


 壊れた機械のように芽衣子は同じ発音を繰り返す。

 さすがにその騒がしさで夢が消えてしまったのか、和人がもぞもぞと動き、薄目を開けた。

 果たしてよいタイミングだったのかどうか?

 和人は目をこすりながら青藍と芽衣子を認め、


「あれ、芽衣子、顔が赤いぞ。日に焼けたのか?」

「ち、ちがいますっ」


 ひとの気も知らないどころか、自分がやったことすら知らないくせに、と芽衣子は半ば恨むように和人をにらむ。

 にらまれる覚えなどひとつもない和人は首をかしげつつ、青藍に聞く。


「なあ、芽衣子はなにを怒ってるんだ?」

「理由はいくつか考えられる」


 と青藍はしかつめらしく言う。


「まずひとつは、主が布島芽衣子の胸に顔を埋めたせいかもしれん」

「はあ? おれ、そんなことしてないだろ」

「寝ているうちにしていた」

「うそつけ。さすがにおれもそこまで寝相悪くねえよ。どうやって普通に座ったり立ったりしてる芽衣子の胸に、寝てるおれが顔を埋めるんだ」

「それはだな――」

「青藍さん、すとーっぷ!」


 慌てて芽衣子が止めに入る。


「そ、それはもう済んだことですし、そもそもわたし怒ってませんから!」

「そ、そうか? どうも怒ってるように見えるけど……」

「怒ってませんっ。ほ、ほら、こんなに笑顔です。あは、あははは」


 明らかに引きつった笑いだが、なんとなく触れられたくないんだろうなということだけは察したらしく、和人はすかさず話題を変える。


「いま何時だ? おれ、どれくらい寝てたんだ」

「二十分ほどだ」


 と青藍が答える。

 芽衣子は話題が逸れたことにほっとしながら、


「さっき、日比谷さんにかき氷を奢ってもらったところです」

「おお、そうか。もっと高いの頼めばいいのに。直坂たちは、まだ屋台のところか」

「たぶん。わたしだけ和人さんの様子を見にきたので」

「わざわざ悪かったな。もう目も覚めたよ」


 和人は伸びをして、砂浜に座り直す。

 芽衣子も自然とその横を確保した。


「当たり前だけど、昼寝する前とぜんぜん変わってないな」


 と和人は海を眺めて呟く。


「海ってすげえなあ。二十分くらいじゃなんにも変わらねえんだもんな」

「和人さんはそういうところに感心するんですね」


 芽衣子はどこかうれしそうに笑う。


「わたしは、海って広いなって思います」

「ああ、そりゃ広いよ。なんせ海だもん。もしさ、海と陸が逆転したら、世界はひとつの大陸になるんだよな。海のなかの魚とかってそういう気分なのかな」

「世界で唯一の大陸、ですか」

「うん。いやな、さっきそういう夢を見てさ」


 照れたように和人は言う。


「魚みたいになって海のなかを自由に移動しててさ。たぶん波の音のせいだと思うんだけど、海のなかは気持ちよかったなあ。ただ最後はなんか突然息が苦しくなって、目が覚めたんだけど。さっき溺れたせいかな?」

「き、きっとそうですよ。人間の記憶って不思議ですよねー」


 もうひとつ、芽衣子は現実の出来事と和人の夢に関連を見いだしていたが、それは黙っておく。

 せっかく逸れた話題を引き戻すこともない。


「そ、それより和人さん」


 と芽衣子はもともとの話題を思い出す。

 なにも和人の寝顔を見るために探していたわけではない。

 もうひとつ大事な用があって探していたのだが、和人があまりに無防備に寝ていたから、結果的にそうなってしまっただけなのだ。

 無論、結果オーライだと芽衣子は思っているが。


「あの、わたし、ちゃんとお礼を言おうと思って」

「お礼?」


 本当に心当たりがないように、和人は首をかしげる。

 そういうところが和人らしい、と芽衣子は感じて、くすくす笑う。


「このあいだの、学園の襲撃事件です。もし和人さんがいなかったら、いまごろわたしはこんなところにはいないと思います。前の生活が悪かったってわけじゃないんですけど、いまみたいな幸せはきっと感じてなかったから――だから、全部和人さんのおかげです。本当にありがとうございました」


 芽衣子が丁寧に頭を下げると、和人はむしろ恐縮して、


「やめろよ、そういうの。なんていうか、堅苦しいだろ。そういうのは、あれだ。悪かったな、おう、くらいの感じでいいんだよ」

「でも、和人さんにはほんとに迷惑もかけたし……」

「いいんだって。おれが好きでやったことだ。芽衣子がいなくても、おれはああいう行動をとったと思うし。むしろ、芽衣子がいたから先手を打てたんだ。うまくはいかなかったけど」

「でも、襲撃が失敗したのは和人さんのおかげだって、先生たちも言ってましたよ」

「謙遜ってやつだよ。先生たちがいなきゃ、おれがどれだけ動いてもどうしようもなかった。おれはなんにもしてないんだ。だから、そうやって改めてお礼を言われると困る。それに結局はおれの問題でもあったわけだし――とにかく、お礼は禁止な」

「え、ええっ。じゃあどうやって……」

「だから、悪かったな、おう、でいいんだって。言ってみ。ちょっと言ってみ」

「えっと――」


 妙に照れながら、芽衣子は和人を見る。


「わ、悪かったな」

「おう」


 和人はにっこり笑って応えた。

 芽衣子は一瞬その笑顔に見とれ、ぼんと火がついたように顔を赤らめる。

 男言葉を言うだけで、なにもそんなに照れなくてもいいのにな、と思っている和人には、年頃の少女の気持ちなど永遠にわかるまい。

 ――と、そのとき、


「おーい牧村、こっちこいよ!」


 と呼ぶ声が聞こえた。

 屋台のほうから、卓郎が呼んでいるのだ。

 和人は立ち上がり、砂を払った。

 そして芽衣子に手を差し伸べる。

 芽衣子はその手を掴み、立ち上がった。

 この先に待ち構えている運命を思うと、このときこそまさに芽衣子にとっては至福の瞬間だったのだ。


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