第一話 3
3
博物館は和人が思っていたとおり、つまらなかった。
ほとんどの生徒があくび混じりに展示物を見てまわり、自由行動になってからはほぼ全員がロビーへ出て、売店やら自動販売機やらに群がっている。
和人はいうと早々にトイレへ逃げ、ぼんやり愚痴などを言っていた。
「この時間家にいられたら、布団も干せただろうになあ」
「男子高校生の言うことか、それ」
和人からふたつ離れた便器の前に立ち、恵介が呆れたように呟いた。
「じゃあ、どういうのが男子高校生っぽいんだよ」
「とりあえず怠惰な感じだろ。だりぃとか、そういう」
「だるいなんて言ってる時間が無駄だ。人生は短いんだぜ、不良少年よ」
「そうだな。好きなことだけやって、好きなように死ぬのが利口だ」
「……そういう意味じゃなかったんだけどな」
用を足して手を洗い、ゆっくりした足取りでトイレを出る。
「なあ、鈴山」
「あ?」
「家には帰ってないのか」
「帰ってねえな」
「けんかはほどほどにしとけよ」
「けんかじゃねえ。決別だ。もう家には帰らん。おれはひとりで生きてひとりで死ぬんだ」
恵介の表情を見れば、それが自己欺瞞にすぎないことはわかる。
高校生は、子どもでも大人でもない。
自分がまだ子どもに分類されている、ということを明確に自覚している大人のようなものだ。
所詮ひとりで生きていくなどできるはずもなく、いつかはそんな意地も捨てなければならないのだとわかってはいるが、どうせ子どもと呼ばれるならせいぜいばかな子どものふりをしてやるとも思う。
要は、自分の立ち位置がよくわかっていないのだ。
恵介の気持ちは、和人にも理解できた。
和人もまた、自分の立ち位置がわからない。
恵介のそれとは理由がちがうが、状況としては似たようなものだ。
恵介は、なぜ自分はひとりで産まれてこなかったんだろうと思っている。
和人は逆に、なぜ自分はひとりきりなんだろうと考えることが多かった。
「ま、泊まるとこがないなら、うちにこいよ。風呂くらいは貸してやるからさ」
「世話んなる。今日、肉持って行く」
「何肉だ。豚か、牛か?」
「すき焼き」
「じゃ、野菜買っとく。ねぎ食えよ」
「うるせえ。おれは死んでもねぎは食わねえ」
「おれの調理したねぎはうまいから、食え」
「だれが調理してもねぎはねぎだろ」
「素材を生かすだけが料理人じゃない。うまく味をなじませてやるのも料理人の腕の見せどころだ。おれを信じろ」
「おまえは信じても、ねぎのことは信じられねえ。あいつに伸びしろはねえよ」
トイレへ続く廊下を歩いて、ロビーへ出る直前だった。
がしゃん、という物音が展示室のほうから響いてきた。
和人と恵介は顔を見合わせる。
「なんか、割れた音だな」
と恵介。
意地悪そうに笑っている。
「だれが粗相したのか、見に行こうぜ」
「割れるようなもん、あったかな」
和人も首をかしげながら、恵介に続く。
ロビーへは出ず、ふたりはそのまま通路を通って展示室へ向かった。
その途中、またしても展示室から物音が、それもなにかが割れたというような弱い音ではなく、明瞭な破壊音が響いた。
まるでなにかが爆発でもしたような音である。
自然、ふたりは駆け出していた。
展示室の入り口を、先に恵介がくぐる。
すぐあとから和人も続いたが、恵介がすぐに立ち止まっていたから、勢い余ってその背中にぶつかった。
「おい、鈴山――」
「見ろよ。なにがあったんだ?」
先に和人が目を向けたのは、展示室の奥の破壊された展示棚だった。
しかし恵介が言うのは、そこではなく向かって左側の壁である。
大砲でも貫通したかのような大穴が空いている。
それも分厚いコンクリートの壁を完全に貫き、となりの部屋まで見通せた。
――もう一瞬、ふたりが早くその場所に辿り着けば、その部屋のなかに三人の影を認めたかもしれない。
しかしふたりの意識がそのなぞの大穴へ向けられた瞬間、大きな地鳴りとともに建物が揺れはじめた。
「地震か?」
「でかいぞ――ロビーへ出ろ!」
和人が叫び、恵介が先に通路へ飛び出した。
――もし和人が先に通路へ出ていたら、なにもかも変わったにちがいない。
彼らの未来も、あるいは世界の行く末も、まったく異なったものになっていたかもしれないのだ――神ならぬ彼らにしかし、そのようなことがわかるはずもない。
先に飛び出したのは恵介であり、和人が一瞬遅れたときにはもう、建物は崩壊していた。
たたらを踏みながら展示室の奥へよろめいた和人は、通路へ出たところで恵介が振り返っているのを見た。
そのよく知った顔が、落下してきた天井で遮られる。
「鈴山ぁ!」
声も轟音でかき消される。
揺れは立っていられないほど大きくなっていた。
和人は床に倒れ込み、半ば呆然と崩壊していく展示室を眺めた――なにが起こっているんだ?
恵介は無事にロビーまで逃げられたか。
この揺れではロビーも危ないだろう。
建物の外へ出れば、まわりにはなにもない。
そこまで無事に逃げられるだけの時間はあったはずだ。
展示室の入り口は崩れた天井が完全に塞いでいて、和人には逃げ場はなかった。
それでも漠然とした恐怖しか感じなかったのは、意識が麻痺しているせいにちがいない。
和人ははっと気づいて頭上を見上げた。
かろうじて残っていた天井の一部が、鉄筋から剥離して崩れながら落ちてくる。
むき出しになった鉄筋やちいさな破片のひとつひとつ、粉雪のように舞う塵芥まで、和人には明瞭に見えていた。
超人的な動体視力というよりは、時間が止まったような一瞬だった。
――だめだ。身体が動かない。
和人の諦めに反応したように時間が動き出す。
瓦礫の雪崩はあっという間に和人の身体を飲み込み、その奥深くへ沈めた。
牧村和人は死んだのだ。
落ちてきた瓦礫に手足を砕かれ、細長い鉄筋に心臓を貫かれ、疑いなく死んだはずだった。
生きていたとしてもほんの数分、他人から見れば即死と断じられる刹那のあいだだけだろうが、あるいはそのような数分、数秒が運命を分ける。
和人は瓦礫のなかで精霊石の声を聞いた。
その青い精霊石こそ、牧村和人を戦渦へ引きずり込む死神だった。
*
彼は自分のことをなにも知らなかった。
牧村和人、という名前さえ、本当に自分のものなのか、定かではない。
気づいたとき、彼はひとりだった。
親というものがいた記憶はなく、なんとなく周囲の人間に助けられながら、ひとりで生きていた。
同じ牧村の姓を持つ男女がどこかにいて、その男女に和人と名づけられ産まれたはずの自分だが、彼はその事実を信用していなかった。
おれはひとりなのだ。
あとにも先にも、だれかといっしょにいることはない。
ひとりで生まれ、ひとりで死ぬ。
親もなく、子もない。
絶対孤独の一生。
その圧倒的な寂しさ――深海のように四方から絶望で圧迫され、息もできない寂しさに耐えきれないからこそ、彼は牧村和人と名乗っていた。
牧村和人と名乗れば、いるはずのない親の、見たことのない顔がぼんやりと見えてくるのだ。
父親はこんな顔で笑って、母親はこんな顔で怒るんだろう。
子どもの自分はこんなふうに泣いて、こんなふうに笑って。
まだ自力ではなにもできない生まれたばかりの自分を抱き上げ、両親は笑顔で名前をどうするか相談する――和人がいい、というのは、きっと母親だ。
その名前には意味がある。
あるはずだと信じたいから牧村和人と名乗るのだ。
もしその名前をなくしてしまったら、彼は本当の天涯孤独になってしまうのだから。
過去は破滅的な虚無で満ち、未来は悪魔めいた闇に包まれている。
そのなかにぽつんとひとり立っているのが、彼という存在だった。
名は光だ。
どこからきて、どこへ行くのか、指し示してくれる。
おれは牧村和人だ。
それ以外の存在ではない。
でも、だったら――そこにいる「もの」はなんなのだ?