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青の奇跡  作者: 藤崎悠貴
第三話
39/61

第三話 4

  4


 朝早くに地元を出て、移動に二時間とすこし、海水浴場に到着したのは十時をすこし過ぎたころだった。

 それから一時間ほど経って、八白と芽衣子はまだ海に入って遊んでいる。

 代わる代わるイルカの浮き輪に乗ったり、それをひっくり返して相手を海に落としたりして騒いでいる様子は、見ていてもなかなかに楽しい。

 しかし自分から混ざろうとはしない菜月は、パラソルの下で仰向けになってぼんやりしていた。

 となりには、和人が寝ている。

 寝ているというより意識を失っているというほうが正しいかもしれないが、横向きになって、胎児のように腕と足を曲げている。

 その向こうには青藍がいて、両足を伸ばし、手を後ろについて海のほうを見ている。

 菜月が折檻した卓郎は、先ほどから復活したらしく、そのあたりでちょろちょろ動いてはナンパをし、撃沈していた。

 どうせ成功もしないのにご苦労なことだ、と菜月はぼんやり考え、眠気と暑さが入り混じったうろんな意識で視線を動かす。


「ねえ、青藍さん」

「ん?」

「楽しい? さっきから海ばっかり見てるけど」

「愉快ではないが、退屈でもない。落ち着く、という表現が正しい」

「海に入りたかったら、入ってきてもいいのよ。牧村くんは寝てるから、海に浮かべてれば大丈夫だし」


 そうだろうか、と指摘する人間は、この場にはいない。


「泳ぐのは、あまり好まない」

「あれ、そうなの?」

「疲弊してしまっては肝心なときに動けなくなる」

「ああ、なるほど。青藍さんはいつも戦うときのことを考えてるのね。精霊石だから? それともそういう性格だから、かしら」

「さあ、自分ではわからん。ただ、精霊石とは精霊使いの武器だ。そのために存在している」

「そうよね。わたしの精霊石も、たぶんそのために存在してるんだと思う」


 菜月は、精霊石をちいさなケースに入れ、首からぶら下げて携帯している。

 それをそっと握りながら、菜月は言った。


「ねえ、前から一度訊いてみたかったんだけど、青藍さんって精霊石なのよね」

「ん、そうだが」

「じゃあ、わたしの精霊石にも意識ってあるのかしら。わたしたちが気づけないだけで、すべての精霊石には、実は青藍さんみたいな意識があったり、個性があったりはしないの?」

「精霊石で、かつ意識を持っているのは、世界中でわたしだけだ」


 青藍は水平線に目をやりながら言った。


「精霊石には、個性と呼べるようなものはない。わたし以外は、文字どおりただの石だ」

「ふうん。どうして青藍さんだけ特別なのかしら?」

「さあ、そのようにできているから、としか答えようがないだろうな」

「ま、そっか。でも牧村くんはよくそんな精霊石を見つけ出したわね。あの博物館に置いてあったっていうのも不思議だけど」


 独りごちるような菜月に、青藍はそっと目を向ける。


「織笠菜月、どこまでわれわれのことを理解しているのだ」

「われわれ?」


 菜月は身体を起こす。


「われわれってどういうこと?」

「わからないなら、そのほうがいい」

「なにか秘密があるってこと? 青藍さんか、精霊石――それとも、牧村くんに」

「どれにしても、同じことだ。詳しく知る必要はない」

「友だちでも隠しておきたい秘密はあるって言いたいの?」

「そうではない。ただ、知っても仕方のないことだ。もし問題に関わってくるなら自然と知ることだろうし、関係がないなら知っても仕方のないことだ」

「友だちって関係じゃだめなの? それに、わたしだって精霊使いよ。精霊石と無関係だなんて言えないはずだけど」

「ふむ――精霊石を知りたければ、学園について知ることだ」

「学園に?」

「不破学園には、過去がある。その過去が発端になっている問題もある。もっとも、それよりはるか昔に起因していることも多いが――手がかりは、あの博物館だ」

「秘密めかしたことばっかり言うのね。わたしには知られたくないことだから? それとも、わたしが自分で知らなければならないことだから?」

「知る必要がある人間は、それを知るだろう。そうでない人間は永遠に知らぬままだ」


 菜月は警戒するような目つきで青藍を見る。

 青藍も菜月を見ているが、そこに敵意はない。


「……友だちとして、それが最良の言葉だと思っとくわ」


 菜月はため息をつき、のんきに寝ている和人に目を落とす。


「これも友だちとして訊くけど、牧村くんの様子はどう?」

「どう、とは?」

「夏休みに入る前は明らかに元気がなかったでしょ。夏休みに入ってからも、ぜんぜん連絡がつかないし。八白からはいつたずねてもいないって泣きそうな声で電話がくるし、結構大変だったんだからね。こうやって見る限り、普段どおりに戻ったような気はするけど」

「まあ、そうだな」


 と青藍はうなずく。


「最近は、あまり寝なくなった」

「ちゃんと寝られないってこと?」

「いや、休みに入ったころは、一日中寝ていた。近ごろは元どおりになったということだ」

「ふうん……よくは知らないけど、あの武道大会があった日、牧村くんもいろいろあったんでしょ。襲撃のことは、芽衣子から聞いたわ。芽衣子が手引きして起こったって。牧村くんはそれを知ってて、ひとりでなんとかしようとしてたってことも聞いた。そこでなにかあったの?」

「まあ、あったといえば、あったな」

「それも知る必要がないってわけ?」

「知りたければ、主に聞くといい」

「それはそうなんだけどね――つらいことだと、聞きにくいでしょ。今回の海水浴も、一応牧村くんを元気づけようってことで決まったのよ。ま、日比谷のばかはナンパ目当てかもしれないけど」


 菜月は、さほど広くはない浜でまだナンパに精を出している卓郎を冷ややかな目で見る。

 実際、卓郎は一度も和人を元気づけるために計画した、とは言っていない。

 夏といえば海水浴だろ、といっているだけだが、さすがにそれがなんの目的かはわかるというものだ。

 男同士で照れる必要もないのに、と菜月は思うが、そういうところで口には出さないのが男というものなのかもしれない。


「まあ、牧村くんが起きたら元気出せって言っといてよ。わたしも一泳ぎしてくるから」

「む、了解した」


 菜月はぽんと地面を蹴って、立ち上がる。

 その動きに反応したのか、和人がごろんと寝返りを打った。

 偶然ではあるのだろうが――寝返りを打った和人の手が、ちょうど立ち上がった菜月の水着のショーツを捉える。

 指がウエスト部分にしっかりと引っかかるという狙ってもむずかしいような状況のもと、和人はむにゃむにゃと寝言を言っている。

 腕の重さに引かれてずり落ちそうになる水着を慌てて押さえ、菜月は拳を震わせた。


「こ、こいつは何度も何度も――ナチュラルに変態かっ」

「ぐふっ」


 どすん、と重たい攻撃を腹に喰らい、和人はそのままさらに深い眠りに落ちていく。

 菜月は引っかかった指を振り解き、ぷりぷりと怒りながら海のほうへ歩いていった。

 途中、卓郎のほかにもいたらしい、明らかにナンパ目的の男ふたり組が菜月に近づきかけたが、声をかける前にひと睨みされ、脱兎のごとく逃げ出した。

 触らぬ神に祟りなし、というが、この場合、触った鬼の祟りは、そう簡単には鎮まらない。

 その怒りに触れたものは、冷たい海の水がそれを洗い去ってくれることを願うしかなかった。


  *


 ソースの味がやたらに濃い焼きそばを食べながら、和人はゆっくり腹をさする。


「あれ、どうしたんですか、和人さん」


 芽衣子がそれに気づいて声をかける。

 しかし和人は首をかしげて、


「いや、なんか腹が鈍く痛むような気がするんだけど……」

「水着でお昼寝してたから、冷えちゃったんですかね?」

「うーん、そんな感じでもないんだけどな。どっちかっていうと打撲に近いような」

「日ごろの行いが悪いから、罰でも当たったんじゃない?」


 菜月は平然とフランクフルトを囓っている。

 場所は、砂浜のすぐ近くにある屋台の屋外席である。

 浜での飲食は原則禁止になっているので、昼食はこの屋台か、それより遠くのどこかへ食べに行くしかないのだが、まだ昼にはすこし早いこの時間では席もいくつか余っていた。

 未だにナンパに勤しんでいる卓郎を除く五人は、混む前に腹ごしらえをしようと海から上がっていた。


「でもここってほんとに穴場だよね」


 と八白は海を眺めながら呟く。


「海も砂浜もきれいだし、ひとがすくなくて静かだし。こういうところなら毎年きたいなあ」

「たしかに、浜辺で昼寝ができるっていうのはいいよな」


 和人もうなずく。


「やっぱり海水浴は浜辺でゆっくりするのがいちばんだよ。泳いだりしたら疲れるし」

「和人さんは泳げませんもんね」


 くすくす笑いながら、芽衣子が言う。


「でも意外です。和人さんって運動ならなんでもできると思ってましたけど」

「普段からやるような運動なら、だいたいできるよ。でも水泳なんか普段はやらないだろ。っていうかできなくていいんだよ、必要ないんだから」

「まさに今日、必要だったんじゃないの?」


 菜月は横目で和人を見て、いたずらっぽく笑う。


「女の子ふたりに助けられて、情けないわー」

「うっ……」

「あ、あたしは別に気にしてないよ?」


 八白はぶんぶんと手を振る。


「お、泳げないのも、それはそれでかわいいかなって思うしっ」

「かわいいって言われてもなあ。いいんだ、別に。おれは一生海には入らねえ」

「担いで海に落としてあげましょうか?」

「や、やめろよ、そういうのをいじめっていうんだぞ」

「泳げるようになって損はないと思うけど。ね、青藍さんもそう思うよね?」

「ん、まあ、そうだな」


 青藍はこくんとうなずく。

 五人のなかで、青藍だけは食事を必要としないから、テーブルの上にはなにも置いていない。

 和人は、通りすぎていくひとたちが青藍のことをじろじろ見ているのは、やはりそういうところが目立っているせいかもしれないと考えているが、実際はただ青藍の容姿が目立っているだけで、なにを食べているか、なにを食べていないかというところにはだれも気づいてはいなかった。


「そうだ、こうしません?」


 芽衣子がなにか思いついてぱちんと手を鳴らす。


「昼からは、和人さんが泳げるようになるために水泳教室を開きましょうよ」

「あ、それいいかも」


 と八白が賛同し、


「スパルタでよければね」


 と菜月は不敵に笑う。


「えー、別にいいよ、やらなくても」


 和人は消極的になって椅子の背にもたれかかるが、そこに屋台の店主が通りかかって、


「うらやましいねえ、兄ちゃん。こんな美人さんから教えてもらうなんか、金払ったってねえぜ」

「いや、でも」

「泳げたほうが便利だと思うぜ。たとえばほら、このなかのだれかが足でも攣って溺れたとしろよ。兄ちゃんしか助けられるやつがいなかったら、行くしかねえだろ? それでいっしょになって溺れたんじゃどうしようもねえ」

「まあ……それは、たしかに」

「びしばし鍛えてもらえって。男は鍛えて強くなる生き物なんだからよ」


 四十がらみの店主は和人の背をばんばんと叩き、笑いながらほかの席に料理を運んでいく。


「ね、牧村くん、練習しよ?」

「泳ぎなんてすぐにできるようなりますから」

「うーん」


 こうまで言われては、和人としても拒否できない。


「わかったよ、練習しよう。そしてオリンピックを目指そう」

「え、お、オリンピック目指しちゃうの?」

「まあ、精霊石を使えば世界記録くらい簡単に塗り替えられるけどね」


 精霊石は、身体能力は高めてくれるが、それ以外の部分に寄与することはすくない。

 たとえば、すでに泳げる人間が精霊石を使うことでさらに速く泳げるようになったとしても、泳げない人間が精霊石を使って泳げるようになるわけではない。

 なんにしても、まずは人並みに泳げるようになってからである。

 和人はやる気もなさそうに、空になったジュースの缶を振っている。


「そうと決まれば、早く行きましょうよ」


 芽衣子が立ち上がり、和人の腕をとった。


「えー、もうちょっとゆっくりしていこうぜ。まだ時間はあるんだしさ」

「だめですー」

「じゃ、ここでおしゃべりしよう。おれ、いま猛烈に芽衣子と話したいんだ」

「え、そ、それは、その――」

「はいはい、さっさと行くわよ」


 あやうく陥落しかけた芽衣子を見て、菜月が和人の背中を押す。

 和人は渋々立ち上がり、浜へ降りてすこしずつ波打ち際に近づいていく。


「いやだなあ、とくに海って波があるからいやなんだよなあ……泳げるようになるように努力はするとしても、今度からでいいんじゃないか?」

「だめだよ、もう今年は海にこられないかもしれないし」

「じゃあ来年でいいよ」

「だーめ」

「えー」


 そうこう言っているあいだに、もう波打ち際である。

 先に八白と芽衣子、それに菜月が海に入り、足が着くぎりぎりまで進む。

 青藍は和人の後ろに立ち、その様子をぼんやり見ていた。


「じゃあ、まずはここまで泳いでみて」


 と八白が手を挙げる。


「ここまでは足もつくから、大丈夫だよ」

「いやいや、ぜんぜん大丈夫じゃねえよ。なんかこう、もっと基本的なコースはないのか?」

「人間、泳がなきゃいけなくなったら泳げるもんよ」


 と菜月。


「なんなら足のつかないところまで引っ張っていって、放置してもいいけど? 溺れたくなかったら自力で泳ぐしかないってなったら、すぐ泳げるようになるんじゃない?」

「お、鬼教官だ……やっぱりあいつは鬼だったんだ」


 菜月に聞こえないようにぶつぶつと呟き、和人は仕方なく海に入っていく。

 それを、後ろから青藍がサポートする。


「緊張しなければ、身体は自然に浮くようにできている。あとは手足を動かすだけだ」

「緊張せずにどうやって手足を動かせと?」

「こうやればいい」


 青藍は軽く海の底を蹴って、すっと流れるように前へ進む。

 軽く足を動かしているほかは流れに任せているようで、それならできそうだと、和人も真似をして海の底を蹴る。

 両腕を伸ばし、水面をすべるように移動しようとしたところまでは正しい。

 しかし顔面を水面の下に向け、頭を太陽に向けていたから、程なく息が続かなくなり、前も見えない恐怖からじたばたと暴れ出す。

 暴れれば、自然と身体は沈んでいく。

 和人は海中において極限を見たような気がした。

 ああ、おれはここで死ぬのだ、となんの疑いもなく信じられたし、妙なことに、ある部分を越えると苦しさも感じなくなった。

 和人は無心で海中を漂っていた。

 海中は無音である。

 上下の感覚もなく、水のなかを漂うのは安らぎにも似た感覚になる。

 海と一体化するとはこういう状況のことをいうらしい、とまで思ったが、危ういところで海面に引き上げられる。

 和人は咳込みながらしっかりと地に足をつく。

 立ってみれば、海水はまだ腰よりもすこし上のあたりまでしかなかった。


「あ、危ねえ――こんな浅瀬で死んだらさすがに恥ずかしいぞ」

「牧村くん、大丈夫ー?」


 すこし離れたところから、八白が手を振る。

 和人も手を振り返しながら、


「ちょっと死にかけたけど、なんとか大丈夫だ。やっぱり海怖ぇ……油断したら命が危ねえな」

「暴れるから沈むのだ」


 と青藍は和人の腕を掴んだまま言った。


「落ち着いて足をつけば、溺れずに済む」

「溺れたから暴れるんだって。死にかけてるときに冷静になれねえだろ、普通」

「冷静にならなければ、余計に危ない。それはどんな状況においても、だ。海でなくても、たとえば戦いのさなかであっても、焦ればその分だけ危険が増す」

「戦いねえ……」


 そう言われれば、和人にも理解できる。

 たしかに命がけの戦いのとき、なによりもしてはならないのは、焦ったり混乱したりして不用意に行動することだ。

 それはそのまま、自分の首を絞めているに等しい。

 水泳においても同じだ、と考えれば、すこし冷静になれそうだった。

 和人は濡れた髪を掻き上げ、呼吸を整える。

 落ち着いて考えれば、足がつくような場所で死ぬはずもなく、危険はすくない戦いといえる。


「……よし、今度はいけそうだ」


 和人は言って、青藍から離れようとする。

 そのときになってはじめて和人は青藍が自分の腕を抱えていることに気づいた。

 人間ひとりを海中から引き上げようと思うなら、しっかり抱えるのは当然といえば当然だが――あまりにしっかり抱えすぎて、和人の右腕は青藍の豊満な胸の谷間に埋没している。

 気づいてみれば、腕には人肌の、やけにやわらかい感触がある。


「せ、せせ青藍、ううう腕を」

「ん?」


 青藍は首をかしげ、ああ、とうなずいて、


「忘れていた。ではすこし先に行くぞ」


 和人の腕を放し、青藍は水面をすこし泳いでいく。

 ひとになった和人は海水の冷たさで気分を落ち着け、冷静になることを心がけながら、海の底を蹴った。

 すっと身体が浮かび上がって、前へ進む。

 顔はやはり水面の下だが、今回は焦ることなく、息が続くまで足を動かす。

 これ以上は呼吸が苦しい、というところまで進んで、和人は身体を起こし、しっかりと足をついて立ち上がった。

 振り返って見てみると、先ほど立っていた場所から、思ったよりも遠くまで進んでいる。

 水の深さも胸あたりになり、八白たちが待つ場所までも近かった。


「……でも、これは泳いだっていうのかな?」


 ただ足をばたつかせただけのような気もする。

 しかしまあ最初はこんなものだろうと思うことにして、今度は八白たちのところまで行くつもりで再び地面を蹴った。

 慣れれば、水に身体が浮かぶ感覚はなかなか心地よい。

 バタ足をしながらまわりを見回す余裕もできて、お世辞にも優雅に泳いでいるとはいえないが、それなりに泳ぐ楽しみというものを見いだせた。

 ただ、和人は泳ぐことに夢中になっていて、前を見る、という基本的なことを忘れていた。

 まだ足がつきそうだと思う地点で、ちょうど息も苦しくなってくる。

 そろそろか、と和人は身体を起こして足をつき、水面に顔を出した。

 そのとき、かすかな抵抗を感じたことはたしかだったが、重力のある水面に出たときの重たさだろうと思っていた。

 聞こえたはずの悲鳴も、水音のなかでは意識されなかった。


「ふう、結構進ん――」


 振り返り、自分が泳いだ距離を見て満足した和人は、そのまま前を見て言葉を失った。

 目の前に菜月が立っている。

 ただ立っているだけで身体が触れ合いそうな、驚くほどの至近距離である。

 和人もはじめはその距離感に驚き、続いて、なぜか両腕で胸を隠している菜月の格好に愕然とする。

 なぜか、菜月は水着をつけていないのだ。

 白い肌が、何物にも遮られることなく晒されている。

 両腕で必死に胸を隠しているが、そもそもなぜ水着をつけていないのか、和人には理解できない。


「お、織笠――な、なんで、水着は?」


 菜月は、さすがに顔をまっ赤にして震えている。

 羞恥のためか、怒りのためかは定かではない。

 どうしてこんなことに、と考える和人は、ふと、頬のあたりになにか当たっていることに気づいた。

 引っ張ってみると、それは菜月の水着だった。

 なぜ菜月の水着が和人の頭に引っかかっているのか?

 そこには恐ろしい偶然があった。

 前を見ずに泳いでいた和人は、菜月のほとんど真下にいることに気づかず、勢いよく頭を上げた。

 そのとき、奇跡的な――菜月にとっては悪夢のような――偶然が起こって、水着が和人の耳に引っかかり、そのまま奪い取ってしまったのだ。

 和人はまったく気づかないうちに菜月の身ぐるみを剥がしていたのである。

 このような偶然が起こった理由のひとつとしては、あるいは菜月の胸が慎ましいことが挙げられるかもしれない。

 身体と水着とのあいだにすき間ができてきたからこそ、和人の耳が引っかかる余地があったのかも――しかし、だれかがその理由に気づいたとしても、決して口には出せなかっただろう。

 和人は頭に引っかかっていた水着をまじまじと見て、やっと状況に気づいた。


「ご、ごめ――」


 慌てて水着を菜月に返そうとした和人の手から、なにかがぽろりとこぼれ落ちる。

 水着は、まだ和人が握っている。

 落ちたのは肌色のなにかである。

 和人は、水面にぷかぷかと浮かぶその正体には気づかなかった。

 だからこそ、これはなんだろう、と凝視してしまった。

 それがだめ押しとなったらしい。


「ぱ、パット入れてこの程度で悪かったわね!」

「へ――はぶぐっ」


 目にも止まらぬ一閃であった。

 菜月の拳がひらめいたと思った次の瞬間には、和人は巨大な水しぶきを上げて吹き飛んでいる。

 宙に舞った水着を受け取り、菜月はそそくさとパットを詰め、水中で着ける。

 そのあいだにも和人は水切りのように水面を跳ね、熱い砂浜に、なかなか鋭い角度で突っ込んだ。

 八白と芽衣子は、この場合どちらが大きなダメージを負ったのか、と考える。

 和人は、映画でも見たことがないような吹き飛び方ではあったが、いってみれば肉体的ダメージである。

 圧倒的な治癒力を誇る精霊使いにとってはちょっとした切り傷以下だ。

 一方、菜月は女子としての尊厳に関わる重大なダメージを負っている。

 こればかりは精霊使いの治癒力でも治せない。

 結果として、八白と芽衣子は菜月を慰めに向かい、青藍だけが和人のもとへ急いだ。

 和人は水面を飛びながら砂浜に刺さったせいか、熱い砂のなかに頭から突っ込んでいる。

 首から下だけが見えている様子はちょっとした猟奇殺人を思わせる。

 青藍は和人の両足を掴み、力任せに引き抜いた。

 ずるりと和人の頭が出てくる――青藍はぺちぺちと頬を叩き、目を覚まさせた。


「大丈夫か。主よ、起きろ」

「う、ううん――せ、青藍か。おれは……いったいなにが起こったんだ? なにか恐ろしいことが起こったような気がするんだけど、思い出せないんだ」

「それは思い出せなくても、いや、思い出さないほうがいい記憶だ。ここに座ってすこし休むといい」

「そ、そうか――肌色のなにかが引っかかるんだけどな。こう、海面をふよふよと……」

 ぶつぶつと呟きながら思い出そうとする和人だが、結局、気がつくまでの数秒間のことは思い出せないままだった。

 トラウマを避けようという精神構造に助けられたといってもいい。

 一方、忘れようにも忘れられない海のなかの菜月も、和人と同じようになにかを小声でぶつぶつと呟いている。


「見られた……? すくなくともパットは見られたわ……ちっちゃいくせにパットなんか入れてんじゃねえよとか、パット入れても変わんねえだろとか思われたんだわ」

「な、菜月ちゃんがネガティブになってる……」


 普段からは想像もつかない後ろ向きさで、菜月は背中を丸めている。

 八白はなんとか慰めねばと思い、菜月の背中をぽんぽんと叩く。


「だ、大丈夫だよ、菜月ちゃん。きっと牧村くんも見えてなかったと思うし――その、肝心なほうは」

「頭に引っかかったのよ? 見えてたに決まってるわ。それで内心くすくす笑ってるんだわ」

「そ、そんなことないってば。絶対、ちっちゃくて見えなかったって」

「ちっちゃくて?」

「あ、いや、ぜ、全体的にね? その、身体のどこか小さいってことじゃなくて、全体的にちっちゃいから!」


 慰めるどころか、墓穴しか掘っていない。

 八白は芽衣子にも救援を求めた。

 芽衣子はこの難題に頭を悩ませながら、


「もし和人さんに見えてたとしても、きっとちっちゃいとか貧相だとか、そういうことは思ってないと思いますよ。むしろかわいいって思ってるはずです。ほら、ちっちゃいものってかわいいじゃないですか」

「ちっちゃいもの……?」

「はっ、しまった――」

「そうですよ、どうせちいさいですよ、わたしなんて」


 さらに卑屈になって、菜月はじろりとふたりを見る。


「そりゃね、おふたりの立派な代物に比べたら、わたしなんてミジンコみたいなもんですよ」

「そ、そんなことないと思うけど」

「じゃあ、サイズは?」

「へ?」

「八白のサイズは?」

「え、えっと、その……」

「カップでもいいわ。何カップ?」

「そ、その……」


 もじもじと八白は照れて、心なしか胸元を隠しながら、


「C……かな?」

「芽衣子は?」


 菜月はぐるりと芽衣子に向き直る。

 芽衣子もやはりすこし照れながら、うつむいて、


「わ、わたしも同じくCですけど……」

「ほらね! あんたらは巨乳組なのよ、どうせ。同情してるふりして、Aのわたしを笑ってるんだわっ。こいつAのくせになにしゃしゃってんだって思ってるんだわ!」

「そ、そんなことないよ! その、たしかに胸は菜月ちゃんより大きいけど、だからどうとか、考えたことないもん!」

「それは眼中にもないってことでしょ」

「ちがうってば、もう。ぬ、布島さんもなんか言ってあげてよ」

「え、えっと……た、たしかに、わたしも直坂さんも、菜月さんよりは大きいですけど! でも、わたしたちだって青藍さんに比べたら」


 菜月は浜辺で和人といっしょに休んでいる青藍を見る。


「……青藍さんって、何カップになるの?」

「えっと、前にいっしょに下着買いに行ったときに計ったんだけど……」


 さすがに八白は口ごもる。

 真実を言ってしまってもよいのだろうか、と迷うのだ。

 それが菜月に致命的な傷を負わせてしまうかもしれない。

 それほど、真実とはつらいものである。


「し、下着屋さんで計ったときはね、その――Gだったんだけど」

「え?」


 真顔になって、菜月は聞き返す。


「ごめん、聞こえなかったわ。波の音がうるさくて」

「すごく凪いでますけど」


 と芽衣子が呟く。


「Bって言ったの? ねえ、八白、Bって言ったのよね。それともD?」

「だ、だからね……Gだったの」

「え?」


 このアルファベットだけが菜月には聞こえていないようだった。

 それはある意味で、和人の健忘にも近い精神の働きである。

 致命傷を避けるため、無意識のうちに心が拒絶しているのだ。

 そのアルファベットは危険である、と判断した精神が聴覚に伝達し、巧みにその一文字だけを聞き取れぬように命じているのである。

 しかし何度もそううまくは拒絶できない。


「Gカップだったの」


 八白ははっきりと言った。

 菜月は小声で、


「A、B、C、D、E、F……G?」

「そう、そのG」

「そんなカップ、存在するの? それってもう人間の域を超えてるんじゃない?」

「そ、存在するんだよ、菜月ちゃん……現実を受け止めないと」

「Gカップ――Eまでは理解できるけど、その先は想像もできないわ。なに、それ」

「だから、青藍さんと比べたらわたしたちだってほんとにあってないようなものですから」


 悲しげに、芽衣子は言う。

 それでやっと菜月も、ふたりが心から同情していることに気づいたらしい。


「ごめんね、ふたりとも……わたし、どうかしてたわ」

「いいの、菜月ちゃん。仕方ないよ」

「そうですよ。こういうのは、女の子のなかでも一部しかわからないことですもん」

「そうね――でも、Gってなんなの? そこにはなにが詰まってるの?」

「脂肪、ですかねえ……」

「こ、今度から、胸がちいさいっていうのは、脂肪がすくないって言い換えればいいんじゃない? そしたら、あんまりうらやましく……ないこともないけど」

「脂肪の塊だとしても、うらやましいことには変わりないわ」


 身体が全体的に丸い、というならともかく、青藍は、そうではない。

 ともすれば腰などは菜月たちより細いくらいかもしれない。

 三人は海のなかで深くため息をつく。

 楽しかったはずの海水浴が、にわかに薄暗くなってくる。

 これではいけない、と八白が意識して明るい声で、


「あ、遊ぼうよ、ふたりとも。いやなことは遊んで忘れようよ」

「そうね……考えても仕方ないことだもんね。もし考えて胸が大きくなるなら、いまごろわたしは世界一の爆乳だわ」


 そんなに思い詰めていたのか、と八白は思わず同情する。

 決して大きいほうではない八白も、それほどこの話題について悩んだことはないのだ。

 やはりCとAのあいだには深淵が横たわっているらしい。

 八白はいまその深淵を覗き込み、はじめて菜月の立ち位置を知って、もっとやさしくしてあげようと誓う。


「な、菜月ちゃん、イルカ乗る?」

「えー、イルカってその浮き輪でしょ。楽しいの?」

「楽しいよー、きっと」

「じゃあ、乗る。どこか、巨乳のひとがいない国まで運んでいって」

「そ、そんな国あるかなあ……」


 しかし元気になったのはいいことだと、八白と芽衣子は菜月が乗ったイルカを持ってゆっくり泳ぎだした。

 より強大な敵を得て、三人が団結した瞬間であった。


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