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青の奇跡  作者: 藤崎悠貴
第三話
38/61

第三話 3

  3


 空は一面、澄みきった青色である。

 雲はひとつとしてなく、全体的に白みがかった薄い青色が延々と続き、それが自然と海に同化している。

 水平線はぼんやりとしていて、海の色は空よりもすこし濃い。

 波は穏やかで、ゆったりと寄せては返す波の音がやさしく響いていた。


「おおっ、さっそく水着美女発見!」

「一言目がそれかっ」


 さっそく菜月に後頭部をはたかれている日比谷卓郎の後ろで、和人は大きく深呼吸をした。

 美しい海岸を望む防波堤の上は、すでに海の匂いに満ちている。

 目の前に広がっている景色より、むしろその匂いのほうが海の存在を強く感じられた。

 ――千葉県某所の海水浴場である。

 電車に揺られること二時間、さらにそこからバスに乗ること約十分で到着したその場所は、決して交通の便がいいとはいえないながら、美しい砂浜が広がっている。

 浜の左右は岩場になっていて、湾のような構造になっているから、波も穏やかで海水浴には理想的な場所だった。

 おまけに海水浴客もさほど多くはなく、浜を取り合うようなこともなくゆったりと楽しめる。


「よくこんな場所知ってたな、日比谷」

「まあな。おれの情報網を甘く見るなよ」


 後頭部をさすりながら、卓郎は胸を張る。


「ほんと、すごくいい場所ですよね」


 と布島芽衣子も目を輝かせ、海を見つめる。


「浜もきれいだし、海も澄んでるし……こんなところがあったんですね」

「ここは穴場だからな。知るひとぞ知る海水浴場なのだ。それにな」


 卓郎はこそこそと和人に近づき、耳打ちする。


「ここは美人の客が多いってうわさなんだ」

「……おまえ、それがここを選んだいちばんの理由だろ」

「ひとは多いわ浜は汚いわ魅力的な女子はいないわの海水浴場と、ひとはすくないわ浜はきれいだわ美人は多いわの海水浴場、どっちがいい?」

「浜がきれいなのはいいことだよな、うん。おれもここにして正解だと思う」

「だろ。わざわざ遠出してでもくる価値はあるぜ、たぶん」

「そこ、なにこそこそ話してるの?」


 と麦わら帽子をかぶった織笠菜月が、大きな鞄を差し出す。


「これ、シートとか入ってるから、先に行って準備しといてくれる?」

「おれたちふたりで?」

「男子のほうが着替えるの早いでしょ。それともわたしたちが着替えて出てくるのを炎天下で待ってる?」

「先に準備して待ってます」

「よろしい。じゃ、よろしくね」


 菜月を先頭に、八白と芽衣子が続く。

 青藍だけは和人たちといっしょに残った。

 青藍が和人から離れられないのはわかっていたから、青藍だけは服の下に水着を着込んでいるのだ。


「じゃあ、おれたちもさっさと着替えて準備するか」


 女子更衣室と男子更衣室は、なぜか狭い浜の両端に離れて作ってある。

 青藍は更衣室の入り口あたりに立って待ち、そのあいだに和人と卓郎は水着に着替え、再び浜に出た。

 日差しが眩しい。

 太陽はぎらぎらと輝き、浜を照りつけている。

 普段なら夏のうちでもっとも鬱陶しく感じることだが、この場所では、それも美しいもののように感じられた。


「熱ぃ!」


 裸足で浜に出た和人は、驚いて飛び退く。


「ふははは、初心者め」


 と卓郎はサンダルを自慢するように足を上げた。


「濡れていないうちはサンダルを履くのが基本よ」

「先に言えよっ。砂浜ってこんなに熱いのか」


 今度はサンダルを履き、和人は恐る恐る浜に踏み入れる。

 さすがにもう熱くはないが、太陽の光で熱せられた空気そのものが熱くなっていて、一刻も早く海に入りたい衝動に駆られる。

 しかしその前にひと仕事済ませなければならない。

 和人と卓郎は浜の中腹に場所を決め、シートを広げた。

 そこに荷物を置き、とりあえずの陣地を作る。

 パラソルは、浜に出ている屋台で借りることができるようだった。

 荷物の番として和人と青藍がその場に残り、卓郎が熱い砂浜を歩いてパラソルを借りにいく。

 和人はその背中をぼんやり眺めた。


「いい場所だけど、海がなかったら地獄みたいに暑いな、ここ。大丈夫か、青藍」

「とくに問題はない」


 青藍は、今日も白いワンピースを着ている。

 すでに水着になっている和人だが、涼しそうでいいなあ、と青藍をなんの気になしに見ていた。

 青藍がワンピースの裾を掴み、いきなり腹の上までまくり上げたのはその瞬間である。


「ちょ、お――」

「ん? どうかしたのか」

「……そ、そうか、水着、着てるんだっけ」


 それでも、白い太ももどころか黒い水着まで見えている様子にどきりとするのには変わりない。

 青藍は半分ワンピースを脱いだ状態で首をかしげるが、そのまま上まで脱いでしまった。

 完全に脱ぐと、それはやはり水着なのだ。

 しかし半分だけ脱いだ状態で見ると、下着にしか見えない。

 そもそも下着も水着も覆っている面積も形状も同じだから、大差ないともいえる。

 青藍は、黒地に白いドット柄の水着だった。

 地味といえば地味だが、八白が選んだだけあって、よく似合っている。

 ただ、胸があまり強調されていないのは、同行しているだれかを慮ってのことか?


「水着はどうだ、主よ」


 青藍は和人の前に立ち、そんなことを言う。

 ただでさえどぎまぎしている和人は、余計に挙動不審になりながら、


「い、いいんじゃないか。似合ってると思うよ」


 とだけ答えた。

 すると青藍はすこしほほえんで、


「そうか」


 とうなずく。

 和人は驚いて、思わず青藍の顔を見つめた。

 しかしそのときにはもういつもの無表情に戻っていて、かすかな笑みの名残も消えている。

 ――青藍は、似合っている、とほめられて笑ったのだろうか?

 もともとそんな性格でないことはわかっている。

 服も似合っているか否かという判断ではないし、他人の目を気にするような柄でもない。

 しかし青藍はたしかにほほえんだのだ。

 普段は決して見せない、まるで年頃の少女のような顔でほほえんだのだ。

 青藍はすこしずつ変わってきている。

 人間化できるという特殊な精霊石から、人間になろうとしている。

 その変化は正しいものなのだろうか。

 青藍は自らの変化に気づいているのだろうか。

 和人はただ、シートの上に座って青藍を見上げるしかなかった。

 ――と、後ろで、どさりとなにかを落とす音がする。

 振り返ると、卓郎が立っている。

 足下には借りてきたらしいパラソルが転がっていた。


「せ、青藍さんの水着姿――なななんてすばらしいんだ……おれはいま天国にいるのか? いや地獄だっていいさ、そこに水着姿の青藍さんがいれば。地獄に仏どころじゃねえ。青藍さんがいる場所、それすなわち極楽浄土なのだ」

「おい、日比谷、大丈夫か。暑さで頭がやられたのか? それとも以前からの病が悪化したのか?」

「ばかなこと言うんじゃねえよ、牧村。おれはいまほど冴えてることはなかったぜ。なにしろ青藍さんをお美しいお姿を脳裏にしっかり焼きつけねえといけねえからな。海にきてよかった。いままで生きてきてよかった」

「……おまえ、泣いてるのか?」

「おれはいまほどおまえが友だちであることに感謝したことはない! ありがとう牧村、ありがとう青藍さん!」

「ああ……もう手遅れかな」


 その場に立ちすくんで感涙する卓郎を後目に、和人はパラソルを拾い上げてシートの近くに設置する。

 気温は高いが、湿度はさほどでもないのか、パラソルの日陰に入るとちょうど過ごしやすい暑さになる。

 和人は荷物を傍らに置き、ごろんと横になった。


「ああなんて美しいんだ青藍さんは! あの大理石のようにきめ細やかなおみ足! そっと手を回すのにちょうどいいくびれた腰! そしてどれだけ隠そうとも存在感を発揮する胸! これはもはや人間の域を超えた芸術作品だ……」

「日比谷、炎天下に突っ立ってたら死ぬぞ。それに、そろそろ地獄の底からこわい鬼がやってくるころだ」

「あら、それってもしかして、わたしのことかしら?」

「はっ!」


 心臓を鷲掴みにされたような衝撃が走り、和人は反射的にシートの上で正座している。

 なぜその接近に気づかなかったのか?

 見れば、女子一行が更衣室から出てきて声が聞こえる範囲まで近づいている。

 先頭を歩くのは菜月である。

 水着は着ているが、その上から薄手のパーカーを羽織り、下もジーンズ地のホットパンツを穿いている。

 露出がすくないことも影響して、両手を腰に当ててじっとり和人を見つめている様子は妙に恐ろしい。

 暑さとはちがう汗を掻きつつ、和人は矛先が自分から逸れることを祈った。

 その祈りが通じたわけではないだろうが、このタイミングで卓郎が、


「ほんとに青藍さんはきれいだ……どっかの中学んときからサイズが変わってねえ狂犬とは雲泥どころか人間とミジンコくらいの差だ」


 水着姿の青藍に夢中だった卓郎は、まだ菜月たちに気づいていない。

 そしてこの言葉はあらゆる意味で菜月の神経を逆なでした。

 菜月は人懐っこい笑顔と、軽い足取りで卓郎に近づく。

 無意識なのか、卓郎からまったくの死角になる背後から近づいているのが捕食動物の狩りを見ているようで恐ろしい。


「日比谷くん、ちょっといいかしら」


 ぽんぽん、と菜月が卓郎の肩を叩く。

 青藍しか視界に入っていなかった卓郎も、さすがに他者の存在に気づく。

 しかしそれが菜月だとは思っていなかったらしい。

 気軽な様子で振り返った卓郎は、振り返った体勢のまま、ぴたりと停止した。

 まるでゴーゴンに魅入られた男のような卓郎に、菜月は笑顔で言う。


「ここだとほかのお客さんの迷惑になるから、裏に行きましょうか」


 ぐい、と親指で防波堤の向こうを示す仕草はこれ以上ないほど堂に入っていて、抵抗は無駄なのだと思い知らされる。

 卓郎は返事をしなかった。

 あまりの恐怖に身体を動かすということを忘れてしまったらしい。

 振り返った体勢のまま、熱い砂の上をずるずる引きずっていかれる。

 ふたりが防波堤の向こうに消えると、砂浜には卓郎の足跡が二本の線となって残った。


「……なにも見なかったことにしよう」


 だれでもわが身がいちばんだ。

 矛先が卓郎へ向かったことで命拾いをした和人は、一連の恐ろしい出来事をなかったことにして、八白と芽衣子に目を向けた。

 実際、いまの血なまぐさいものを連想させる場面は、このふたりの姿で浄化されている。

 ここが海である以上、ふたりとも当然水着である。

 まず八白は、スカートがついたタイプのビキニだった。

 白と黒のストライプ柄で、すこし控えめなのが八白によく似合っている。

 芽衣子は白地に薄い緑の柄が入ったビキニである。

 腰まわりと胸の部分にフリルがついていて、なんともかわいらしい。

 八白は和人の視線に気づくと、照れたように鞄で身体を隠す。

 芽衣子はむしろ、どうだというようにフリルをつまんでひらひらして見せる。

 両者ともにただの水着といえばそのとおりだが、普段から会っている人間が水着でいるというのは、なんだか妙な感覚だった。

 しかし青藍のことである程度の耐性を身につけた和人は、ふたりの姿を見ても動じず、


「ふたりともよく似合ってるなあ」


 と素直に感想を述べる。

 反応は、照れつつもよろこぶ八白と、思ったより衝撃を与えられず悔しそうな芽衣子でくっきり分かれる。

 しかし現れた順番からいって、和人に強い印象を残すのは不可能に近い。

 なにしろ無自覚に刺激的すぎる青藍と、その記憶を帳消しにする衝撃的場面を演出した菜月を見たあとなのだから、大抵のものは色褪せて見える。

 芽衣子はそれでもめげず、駆け足で和人に近づいて、


「和人さんもその水着、お似合いですね」

「ふふふ、だろ? 見ろ、この後ろになぞの怪獣がプリントされてるんだ。これ、なんだと思う?」

「うーん……海の怪獣だから、海坊主とかですかね?」

「いや、もっと西洋的な怪獣だと思う。ネッシーかなんかじゃないかと思うんだけど」

「でもネッシーって淡水の生き物じゃないんですか」

「そうなんだよなあ」


 腰よりは尻に近い位置にあるデザインを見て、ふたりは頭をひねる。

 八白はすこし取り残されたような感覚になり、それがすなわちこの熱い戦場で先手をとられたことを意味していた。

 これではいけない、と八白も鞄を漁る。


「あ、あの、牧村くん。よかったら、これ手伝ってくれない?」

「ん、おお、浮き輪か。よしきた。こういうのは男の仕事だからな」


 和人は腰を上げ、しぼんだ浮き輪を受け取る。

 その背後で、八白と芽衣子は一瞬視線を交わした。

 正々堂々戦う、という選手宣誓である。

 その様子を、青藍はパラソルの下に腰を下ろしながらなんの気なしに見ていた。

 和人は男としての活躍を見せるべく浮き輪を膨らませ、ついで芽衣子に頼まれたイルカ型の巨大浮き輪にも取りかかる。

 このイルカが、また巨大なのだ。

 全長は二メートルほどある。

 イルカの背に乗って浮かぶようになっているらしいが、作り込みが細かく、海に浮かんでいると本物にしか見えない。

 だからサメではなくイルカなのかな、と考えながら、和人はポンプを動かす。


「和人さん、がんばってくださいね」

「任せろ任せろ。これくらい軽いもん――」

「どうしました?」

「い、いや、別になにも?」


 不思議そうに首をかしげる芽衣子を、和人はちらちらと横目で伺う。

 直視はできない。

 なぜなら、等身大に近いイルカを挟んだ向こう側に芽衣子は座っているのだが、この体勢というのが、両膝と両手を突いた、俗に言う四つん這いなのだ。

 その体勢で、芽衣子は和人を見ている。

 和人が芽衣子を見ようとすれば、顔より、そのすこし下、図らずも両腕で中央に寄せられ、谷間がくっきりできた胸元に視線を奪われる。

 それはいかん、とすぐに視線を逸らすのだが、またすぐにちらりと見てしまう。

 男の悲しい性としか言いようがない。

 ポンプを動かしながら、和人は冷静に、そして論理的に自問する。

 女性の胸元の、どこに気を惹かれる理由があるというのか?

 生物学的に見れば、あんなものはただの脂肪である。

 たとえば、その脂肪分が腹についていたからといって、そこに胸ほどの興味を持つとは思えない。

 なぜその谷間に視線が落ち込んでいくのか。

 まるで糸をつけて引っ張られたように、男はだれしもそこを見てしまう。

 足や腕に魅力を感じるという男もいるが、そういう男たちでさえちらりと覗く胸元には目をやってしまうはずだ。

 それを男性的反射と名づけよう、と和人は思う。

 パブロフの犬にも似た、ちらりと見えたから見る、という当然の反応として認識するのである。

 反射という行為に善悪はない。

 すなわち、つい見てしまうことにも罪はないのだ。


「……あの、和人さん? さすがに凝視されると恥ずかしいんですけど」

「――はっ」


 和人はわれに返り、いつの間にかポンプを動かすのも忘れて芽衣子の胸元に見入っていたことに気づく。


「い、いや、これはつまり生物的ないかんともしがたい反射というやつで、決して悪気があったわけではなく、たしかに下心はあったけれども」


 芽衣子はそれとなく腕で胸元を隠し、赤い顔で和人を見る。

 なんだか申し訳ないことをしたような気になり、和人が謝ろうとしたとき、それより先に芽衣子が言った。


「あ、あの、和人さんは……その、どっちが好きですか?」

「はい?」

「だから、その。大きいのと、ちいさいの。どっちが好きですか」

「えーっと、それは」


 和人は、いつの間にか八白まで自分のことを真剣に見ていることに気づいた。

 芽衣子も、照れながら、しかし中途半端な答えは許さないというようにじっと和人を見ている。

 そのふたつの強い視線から逃れるように、和人は背後を振り返った。

 予期したことではなかったが、振り返った先には青藍がいる。

 パラソルの下で長い両足を伸ばし、ぼんやり海を見ている。

 ただそれだけだが、なんと絵になる光景か。

 そのまま切り取って雑誌の表紙にでもできそうなほどよくできた場面である。

 和人が一瞬だけつい見とれてしまったのも、仕方がないといえば仕方がない。

 が、和人の目の前にいるふたりの少女は、それを許してはくれなかった。


「ふーん、やっぱり大きいほうが好きなんですねー」

「い、いや、そういうわけじゃ」

「そんなにじっと青藍さんのこと見つめちゃって、やらしー」

「や、やらしいって言われてもだな」

「男のひとなんて結局みんなそうだもんねー」

「ですよねー」


 女子ふたりで頬を寄せ合い、こそこそと囁き合う。

 いたたまれない和人はポンプに集中し、なんとか巨大なイルカを膨らませた。

 芽衣子と八白は、それを持って仲良く海へ入っていく。

 浜に残された和人はとぼとぼとパラソルの下に戻り、寝転がった。


「女ってよくわからん……」

「なにかあったのか?」


 青藍は寝そべった和人を見下ろす。


「なにってわけじゃないけど……いや、そりゃあ、あそこで胸はでかけりゃいいってもんじゃないって力説するのもおかしな話ではあるけどさ。おれはどう答えるべきだったんだ? 貧乳最高、とでも叫べばよかったのか?」


 それはそれで怒られそうな気がする。

 かといって、巨乳を称賛しても、やはり冷たい目が待っていたはずである。

 そもそも芽衣子も八白も、ちいさいというほどではないのだ。

 和人が見たところ、つまり比べられる程度にはしっかり見ているのだが、青藍がいちばんで、最下位は菜月、そのあいだに八白と芽衣子が並んでいるという状況だった。

 その場合、まん中のふたりをほめるにはどうすればよいのか。

 普通くらいがいちばんいいよ、というと、やはり語弊がありそうだし、いやサイズじゃなくて形とかいろいろあるんだよ、と女子相手に力説できるはずもない。

 話題を逸らす、というのが、どうやらいちばん正しい選択だったらしい。


「昨日も直坂八白が言っていたが、一般的に胸は大きいほうが優れているのか?」


 青藍はまじめな顔で言う。


「い、一般的にはどうだろうな」


 お茶を濁すように和人は答える。


「まあ、そういうやつも多いだろうな、やっぱり」

「主はどうだ」

「え?」

「大きいほうが優れていると思うか?」

「お、おれは……」


 話題が話題だけに、和人の視線は自然、青藍の胸元に向かう。

 強調しているわけでもないのに、水着の奥では白い脂肪が盛り上がり、くっきりと濃い谷間ができている。

 思わず和人は生唾を飲んだ。


「主もやはり大きいほうが優れていると考えているのか?」


 もう一度青藍は言って、ぐっと和人に身体を寄せる。

 目の前いっぱいに白い胸元が広がり、和人は思わず後ずさった。

 そうでなければ、そのやわらかそうな、それでいて凶悪なものにそそのかされ、自分でも思いもしない行動をとりそうだった。


「ま、まあ、大きいのもきらいではない、というに留めておこう」

「ふむ、そうか」

「いやもちろんちいさいのがきらいというわけではなくてな、こればっかりは男でないとわからんというか、男でもよくわからんところなんだけど、つまるところ胸ならなんでもいいっていうか、いやなんでもいいわけじゃないんだけど」

「なにをぶつぶつ言ってるの?」

「お、織笠っ」


 いつの間にか、すぐ背後に菜月が迫っている。

 死角から近づかれたとはいえ、気配すら感じられなかった。

 精霊使いより暗殺者のほうが向いているような菜月は、疑うような視線を和人に向けつつ、パラソルの下、和人のとなりに腰を下ろす。

 ちょうど和人がまん中になり、左に青藍、右に菜月という位置関係である。

 左に目をやれば他の追随を許さない青藍のスタイルが、右を見ればよくいえばかわいらしい菜月の身体が目に入る。

 結果的に、和人は真上を向き、パラソルの内側をひたすら眺めた。


「八白と芽衣子はもう海に入ってるの?」

「さっき、イルカ持って行ったぞ。……あれ、織笠って、芽衣子って呼び方だっけ?」

「夏休みに入ってから仲良くなったの。おんなじ寮だしね」

「ああ、なるほど」

「それに牧村くんだって芽衣子って呼んでるでしょ。それはどういう理由があるの?」

「べ、別に大した理由はないよ」

「ほんとかしらねえ」


 にやりと笑いながら、菜月は言った。


「お、織笠は泳いでこないのか」


 和人はすかさず話題を変える。


「浮き輪、いるんだったら膨らませてやるぞ」

「浮き輪は別にいらないんだけど、ちょっと疲れたから休憩」


 なにをしていて疲れたのか、とは、さすがに和人も聞かない。

 菜月が戻ってきて、卓郎が戻ってこないという事実だけで充分理解できる。


「そういう牧村くんこそ、泳ぎに行かないの?」


 菜月は膝を抱え、そこに頬を載せて和人を見た。


「おれもちょっとな。そもそも海ってのはゆっくり楽しむもんだろ? はしゃいで泳ぎ回ったりはしないんだ」

「ははーん」


 菜月の目がきらりと光る。


「もしかして、泳げなかったりするわけ?」

「な、なななにをこここ根拠に」

「まさかそんなことないわよねえ。この年になって泳げないなんて、格好悪いもんねえ」

「そ、そうだよ。おれは地元じゃ河童のかずちゃんと呼ばれてたくらいだぜ。お、泳げないなんてこと、あるわけないだろ」

「へえ、そんなにすごい。わたし、見てみたいなあ」

「え?」

「河童のかずちゃん、見せてよ。ちょうど海もあるし」

「い、いや、それはだな、河童って淡水の生き物だし、海水はちょっと……」

「あれー、海では泳げないんだ? こんなに波も穏やかなのに、泳げないなんてねー」

「お、泳げるさっ」

「じゃ、ちょっと泳いできてよ。わたしはここで見てるから」

「よ、よし、見てろよ。河童のかずちゃんたる所以を見せてやるからな。行くぞ、青藍」

「ん」


 和人は青藍を連れて立ち上がり、強い足取りで波打ち際へ向かう。

 菜月はそれを、にやにやしながら見ている。

 こういうときの菜月は心底から楽しげである。

 やがて和人は腰のあたりまで海に入り、パラソルの下の菜月に向かって、


「こ、後悔すんなよ、見てろよ!」


 と叫んでばっと頭から飛び込んだ。


「お、なんだ、それなりに泳げてるじゃない」


 パラソルの下で菜月が残念そうに呟く。

 実際、五メートルほどはぎこちないながらも泳げていた。

 しかし徐々に水面から姿が消える。

 どうやらすこしずつ潜水しているらしい。

 もちろん意図してのことではない。

 潜水艦が深い海へ潜っていくように、和人の頭の先が水面から消えた。

 様子を見ていた八白と芽衣子が慌てて救出に向かい、菜月はパラソルの下でけらけら笑う。

 救出された和人の証言によると、海中においてさえ菜月の高笑いが聞こえてきたらしい。

 息も絶え絶えでパラソルまで戻ってきた和人は、そのままシートの上に倒れ込む。

 菜月は笑いすぎて出たらしい涙を拭いながら、


「いやー、おもしろ……じゃなくて、格好良かったわ。あんな静かに溺れるひとはじめて見たけど」

「わ、わざとだよ、わざと! 河童の川流れっていうだろ。河童のかずちゃんとしてそれを再現したんだよ」

「川じゃなくて海だったけどね。ま、泳げないのに意地を張り続けた度胸は買うわ」

「そういう織笠はほんとに泳げんのか? 実はおまえも泳げないんだろ?」


 にやりと笑って和人は身体を起こす。

 菜月は、そんな和人に羽織っていたパーカーとショートパンツを投げつけ、すたすたと海に向かって歩いていく。

 そのまま海水が膝上まできたあたりから海に飛び込み、まるで流れるようにするする泳ぎながら和人に手を振ってみせた。


「くっ、なんでもできる優等生め」


 苦々しく呟き、足でも攣れ、と念じた和人だが、すでに卓郎で準備運動を済ませている菜月は無事にパラソルの下まで戻ってきた。

 仕方なく和人はタオルを手渡し、降参を宣言する。


「泳げることがそんなにえらいのか? 人間は地上で生きるように適応したんだから、泳げなくて当然じゃないのか?」


 ぶつぶつと呟く和人に、菜月は髪を拭きながら、


「まあ、別に泳げたからえらいってもんでもないけどね」

「だろ?」

「でも泳げないよりは、泳げるほうが圧倒的にえらいんじゃない? なんでもできないよりはできるほうがいいでしょ」

「うっ、言ってはならん正論を……」

「そもそも小学生のときに習わなかったの? 普通それである程度は泳げるようになるもんだけど」

「小学生のときは怪我したってうそついて休んでたからな」

「子どものときから仮病まで使うとは……そんなにいやなの?」

「いやっていうか、水のなかって息できないだろ。普通に考えて、こわいじゃんか。息できなかったら死ぬんだぞ」

「慣れたらできるようになるわよ」

「う、うそだー」

「ほんとだって。息継ぎができたら死なないし」

「息継ぎができる連中はあれだ、前世が魚だったんだろ? おれは陸上生物だったから、できないんだ」

「情けないわねえ」


 菜月は呆れたようにため息をつく。


「青藍さんは、泳げるんでしょ? 水泳の授業のときも普通に泳いでたもんね」

「まあ、泳げるな」


 と青藍はうなずく。


「自然にしていれば身体は浮くし、別段むずかしいことでもない」

「ほら、言われてるわよ、牧村くん」

「そ、それはほら、いろいろと身体の構造がちがうんだよ」

「むしろ精霊石のほうが人間より沈みそうだけど」

「うっ……」


 どうも分が悪い和人である。

 なんとか挽回できる材料はないか、とあたりを見回した和人は、とっさにすがってはならない禁断の果実に手を出してしまった。


「青藍はほら、胸とかでっかいから、その脂肪分で浮くんだろ。あ、でもそれだと織笠は――」


 しまった、と思うのが致命的に遅い。

 せめて、菜月に言及する前に終わっておくべきだった。

 和人は失言を自覚したとき、青藍のほうを向いていた。

 もう振り返れない。

 背中越しにも異様な圧力を感じる。


「織笠は、のあとはどうしたの?」


 猫なで声で菜月が言う。

 見えはしないが、笑っているんだろうな、ということは和人にもわかる。


「ねえ、その続きも教えて?」


 甘い声だが、どんな怒号よりもぞっとする。

 そのとき、菜月が和人の肩にぽんと手を置いた。


「ひいっ」


 死に神の鎌を突きつけられたような悪寒に襲われ、和人は震え上がる。

 頭のなかでは、この場を逃げるにはどうすればいいか、と必死に考えている。

 地面は砂だ、おそらく逃げ切る前に追いつかれ、血を見ることになる。

 精霊石の力を使って一気に岩場まで逃げるか?

 しかし菜月も同等の力を持ち、追いかけてくるだろう。

 速度で菜月を振り切ることはむずかしい。

 もし追いかけっこがはじまれば、房総半島を舞台にした文字どおりの鬼ごっこになってしまう。

 和人の頭は、逃げることは不可能だ、という答えを算出した。

 そしてなにより、いまのは和人が悪い。

 謝って許されるかどうかはわからないが、とにかく謝らなければ、と思い詰めた結果、和人はありったけの勇気を込めて振り返り、頭を下げた。


「いまのは失言でした、すまん!」


 殴られるか、と身構える和人だが、なかなか拳が飛んでこない。

 それどころか、反応らしいものがすこしもない。

 おかしいな、と和人は思いはじめ、ほんのすこし顔を上げようとして、頭がなにか当たっていることに気づいた。

 なにか、硬いものである。

 硬いなかに、かすかにやわらかいものがあるような気もする。

 つんつん、と頭で突いてみるが、よくわからない。

 和人はゆっくり顔を上げ、納得してぽんと手を打った。


「なんだ、織笠の胸か。道理で硬いわけだ。あっはっは」


 ――すぐに状況を忘れてしまうのは、和人の悪いくせである。

 よくいえば、集中力があるともいえる。

 とにかく目の前のものに注意を惹かれると、ほかのものが目に入らなくなる。

 この場合、なぞが解けた、ということに集中してしまって、菜月がすでに怒り状態であることと、その沸点を軽く突破させるに充分な言葉を吐いたということは、忘れてしまっている。

 しかしさすがにいつまでも忘却しているわけではない。

 和人は、はっと気づいた。

 気づいたときには、菜月の右の拳がすぐ目の前にまで迫っていた。


「へぶしっ」


 ぶんと振り抜いた拳は和人の顔面を的確に捉えている。

 和人は打ち抜かれた顔面を軸に、回転しながら吹き飛ぶ。

 その飛距離は優に五メートルを超え、波打ち際で一度跳ねて、海に落下した。

 人間業ではない。

 精霊石を使ったのである。

 常人であれば無事では済まないが、和人も精霊使いである以上、この程度は問題ない、と多少和人の力を過大評価している菜月である。

 吹き飛ばされた和人はぷかりと海に浮かび、ゆったり波に揺られている。

 それが仰向けであれば身体が浮かぶのを楽しんでいるようにも見えるが、俯せで浮かんでいるのは水死体に近い。

 再び八白と芽衣子が救出に向かい、両肩を支えられて帰ってきた和人は文字どおりシートに倒れた。

 一発殴ってすっきりした菜月は、倒れた和人に、


「それで、なんの話してたんだっけ?」

「もう話したくない……自分の失言がこわい」


 そう呟いたきり、和人はがっくりと力を失った。

 それがいちばん賢明な判断だということにやっと気づいた瞬間だった。


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