第二話 22
22
伸彦が見つけたとき、その状況は不可解だった。
学園の外れの広場である。
コンクリートの地面には、おびただしい量の血液が流れている。
ひとりやふたりではない。
十人の致死量でも足りないような量のどろりとした血液である。
まだ真新しい朱色の部分もあれば、タールのように黒々とした水たまりもある。
あたりには血なまぐさい匂いが漂い、気の弱い人間なら卒倒しかねない惨状だった。
それでいて、その場所にはひとつの死体もない。
ただひとりの少年がぼんやりと立っている。
両腕をだらりと下げ、空を見上げて、和人は立っていた。
全身はくまなく血で汚れている。
赤い雨に降られたような有り様で、まだ乾ききらない血が顎の先から滴り落ちるのを伸彦は見た。
これほどの状況にあって、和人の表情はやけに澄んでいる。
まるで無垢な子どものような横顔で、状況との不一致が著しい。
伸彦は、ほとんど反射的に立ち止まっていた。
声をかけることもできず、恐れを含んだような視線を和人に向ける。
――あれはどっちだ?
伸彦は自問する。
受け持っているクラスの生徒としてよく知っている牧村和人か、それとも二ヶ月前、ほんの一瞬だけ出くわしたものか――伸彦は二ヶ月前の出来事も忘れてはいない。
あのときも、いまの状況には劣るが、悲惨なものだった。
首を切断された死体や胴を分断された死体が転がり、あたりには死の匂いがこびりついていた。
その禍々しい場を支配していたのが、「あれ」だったのだ。
いまはどうなのだろう。
あれは牧村和人か、それとも同じ姿をした別人か。
もし――と伸彦は拳を握る。
もし、あれが牧村和人ではなかった場合、どうすべきか。
自分に生徒と同じ姿をした相手を殺せるか、とは自問しない。
勝てるか、とだけ思う。
そして、おそらく無理だろうと結論する。
伸彦は「あれ」と戦ったことはないが、異様な気配だけは知っている。
あの気配を支配するものには、勝敗という概念がそもそもない。
どのように相手を殺すか、ということしかないような相手に、勝てるはずがない。
逃げるべきだと伸彦は感じる。
生徒たちを遠くへ逃がすべきだと。
足がすくんで、うまく動けない。
金縛りにあったように和人の横顔から目が離せない。
それは、恐怖ゆえではない。
血にまみれて佇む和人に惹かれているのだ。
なにか神々しいもののように感じられて、あれは生徒のひとりだと言い聞かせても、畏怖の念が消えない。
ふと――和人が視線を下げた。
ゆっくりした動作で伸彦を見る。
視線があった瞬間に、不思議な金縛りは消えている。
「牧村くん――か」
「賀上先生」
和人はあたりを見回して、両腕を広げた。
「こんな有り様ですけど、だれも殺してませんよ。全員、山のほうへ逃げていきました」
「そうか……怪我は?」
「さあ、二回くらい斬られた気がするけど、たぶんもう治りました」
「治った?」
「とくに背中のは浅くなかったはずですけど」
自分の背中を見るような仕草をして、和人はすこし笑う。
「ねえ、賀上先生。ひとつ訊いてもいいですか」
「なんだい」
「おれは、まだ人間に見えます?」
ぞっとするほど切実な問いだった。
いまの和人の姿は、人間より修羅に近い。
しかし伸彦は和人の瞳に人間を見た。
「ぼくよりは、よっぽど人間だよ」
その答えに満足したのか、伸彦は安心したように笑う。
そして前のめりに倒れた。
血溜まりに頭から倒れて、しぶきが上がる。
「牧村くん!」
伸彦は駆け寄り、抱き起こす。
息はしているが、意識はないようだった。 伸彦はここでなにがあったのか、できるだけ推測しないように心がけた。
この広場でも、血が流れているのは和人が立っていた場所を中心にした狭い範囲だけだった。
それが意味するものと、そのなかでも生き残った和人に思うことはあったが、すべてを後回しにして、伸彦は大切な生徒を保健室へ運ぶことに決めた。
それが学園を守るという信念を持った伸彦の選択だった。
*
争いは去った。
学園内の掃除も行われて、一週間もすればまたいつもどおりの日常が戻ってきた。
前の戦いでは、幸い学園側にはひとりの犠牲者も出なかった。
普通の人間であれば致命傷といえるような傷を負った生徒はいたが、彼らはすべて精霊石の力で治癒し、結果として学園側はなにひとつ失わなかった。
一方で、襲撃を仕掛けた精霊使いの組織の犠牲者は十名ほどに上った。
実力を計るだけにしては高くついたという形だが、学園から撤退したあと、彼らがどこへ潜伏しているのかは掴めていない。
それから戦闘発生当時学園の内部にいた自衛隊の三名は、戦闘が終了するころ、どこかへ姿を消していた。
当初は逃げたのではないかとうわさされたが、何人かの生徒が戦闘のごたごたで彼らに助けられたと証言したので、どうやら敵ではなかったようだという見方が広がっている。
「それから、連中が学園を襲撃した理由についてですが――」
それまで円滑に報告を続けていた教師が、はじめて口ごもる。
書類に目を通しながら話を聞いていた学園長は顔を上げ、
「どうかしたのか」
「いえ――敵の指揮官と話をした賀上先生によると、ひとつは彼らの実力を計るためだそうです」
「ふむ。この先、もっと大きなことをやりつもりでおるというわけか。ずいぶん好き勝手に巻き込んでくれたものよ。――それで、まだ理由があるようだが」
「それが、牧村和人の件で」
「連中がキーストーンと呼んでいる精霊石を狙ったか」
「それもあるようですが、牧村和人自身も狙われていた可能性があります」
「彼はキーストーンの所有者だ。精霊石がほしいなら、その所有者も当然欲するだろう。あれは、持ち主を殺して奪えるようなものではない。それとも、それ以外の理由で牧村和人が狙われたという確証があるのか」
「現時点では、推測にすぎません。賀上先生の話は以上ですが、ほかに布島芽衣子という女子生徒からも話を聞きました。彼女は戦闘当時、牧村和人とともに敵の司令官と話をしたそうです」
「彼女が言っていたのか」
「牧村和人には秘密がある、と敵の司令官は言ったそうです。相手はそれを知っていると」
「ふむ――」
学園長は腕を組み、椅子の背もたれに身体を預ける。
深く皺が刻まれた表情は厳しく、事態が思わぬ方向へ進んでいることを暗示している。
「牧村和人の秘密、か。それを知っている人間はほんの数人しかいなかった。しかし敵がそれを知っているとすれば、だいたいどんな相手なのか想像がつく。やはりまだ子どもの姿をしておるのだろうな、やつは」
「子ども、ですか」
「被検体Aというのが書類上の名前だ。われわれは朱音と呼んでいた。そうか、彼女が精霊使いの組織を作ったか」
「どうなさいますか」
「今後、世界は荒れるぞ。われわれとて無事では済むまい。しかしこの学園はなんとしても守り抜く――牧村和人も、だ。報告は以上か」
「はい。それと、布島芽衣子の件はいかがなさいますか。おそらく、今回の襲撃を内側から支援したのが彼女だと思われますが」
「口を噤め。最終的に彼女はわれわれとともにあることを選んだ仲間だ。それに、身分がどんなものであろうと、精霊使いであれば学園は拒絶しない」
「わかりました。ではそのように」
教師が立ち去り、学園長はひとりになる。
椅子をぐるりを回し、窓の外を見た。
しかしその老人の目は、なにも見ていない。
ただ過ぎ去った過去に向けられている。
「朱音に、牧村和人か――示し合わせたようにあの時代が蘇ってくる」
老人はしばらくぼんやりと窓の外を眺めたあと、机に戻った。
学園長としての仕事は山積みであり、いまは過去を名残惜しんでいる時間もない。
残されている時間は、わずかしかないのだから。
第二話、終わり