第二話 21
21
どうしたものかと、さすがに和人は腕を組む。
「こりゃまずいよなあ、やっぱり」
「さすがにこれは……」
となりでは芽衣子も困った顔をしている。
そんなふたりを取り囲むのは、三十人近い敵の集団である。
和人と芽衣子は、運がなかった。
戦いに加わろうと学園に戻ってきた矢先、ちょうど反対に撤退してきた敵の集団と出くわしたのだ。
和人たちはそれほど早く敵と接触するとは思っていなかったし、向こうとしても撤退中に鉢合わせるとは考えてもいなかったせいで、お互いに退く機会を逸した。
あ、と思ったときには接近しすぎていて、お互いに剣を抜くしかなかったのだ。
そして一度剣を抜いたなら、収める鞘はない。
「たしかに戦うために戻ってきたけど、最初からこれはきついなあ……どう思う、芽衣子?」
「そ、そうですねえ……隙を突いて逃げる、っていうのもむずかしそうですね」
「だろうなあ。三十人分の隙を作るのが大変だ。真っ向勝負をしても、さすがにこれは勝ち目がない」
進んでも地獄、退いても地獄である。
となれば、和人の選択は決まっている。
「どうせ地獄なら、進んだほうがマシだ」
剣を構える。
相手も慌てて戦闘態勢をとる。
和人は正面の相手をじっと見つめながら、唇をほとんど動かさずに囁く。
「芽衣子、頼みがある」
「え、な、なんですか」
いつもとはちがう低いトーンにどきりとしながら、芽衣子も武器を構えた。
「このままじゃおれたちは、ここで終わりだ。ふたり揃って死ぬことになる」
「そ、そうですね……でも、わたし、和人さんとなら――」
「そこで頼みなんだけど、まずおれがひとりで突っ込むから、それに合わせて全力でここから離脱してくれ」
「天国でも地獄でも大好きなひととなら――って、そ、それ、どういうことですか。わたし、逃げたりしませんっ」
「逃げるんじゃない。助けを連れてきてほしいんだ。ふたりで戦っても勝ち目はないけど、まだこのへんに先生たちがいるはずだから、それを連れて帰ってきてくれ。そしたらおれたちは助かる」
「でも、わたしが帰ってくるまで、どうやってひとりで戦うつもりですか」
「そのへんは、ほら、おれはこう見えても武道大会の準優勝者だぜ。みんなと戦って、いろいろ教わったんだ。ちょっとくらいならひとりでも持ちこたえられる」
芽衣子は疑うような目を和人に向ける。
しかし和人の言葉にうそはない。
ふたりで死ぬつもりなら、ここで戦えばいい。
それで願いは叶うだろう。
しかしふたりで生き残るなら、どちらかひとりが敵を引きつけ、そのあいだにもうひとりが応援を呼ぶしかない。
「……じゃあ、わたしがここに残ります。和人さんが助けを呼んできてください」
「だめだ」
強い口調で、和人は言った。
「おれと芽衣子なら、おれのほうが強い。おれならなんとか持ちこたえられても、芽衣子じゃ無理だ」
「和人さんだって、ひとりで持ちこたえるなんて無理ですっ」
「できるさ。芽衣子が急いで助けを連れてきてくれたら、なんとかなる。じゃあ、頼んだぞ」
「あ――」
了承を得る前に、和人は地面を蹴った。
芽衣子もそれに合わせて飛び出すしかなかった。
和人は最前線の敵に向かって剣を振り上げる。
ぎいん、と鳴って、同時に芽衣子が敵の包囲を抜けて走り去った。
「女を逃がしたか」
和人の剣を受けた男が、ぽつりと呟く。
たった一撃で、和人もこの男が容易ならぬ相手であることを理解している。
「おれも男なんでね」
「なかなか」
和人は剣を弾いて、後方へ飛ぶ。
こうして三十余りの敵を相手にした絶望的な戦いがはじまった。
*
集団との戦いは、一対一よりもはるかに気力を使う。
一対一なら敵だけを見ていればいいが、集団相手ではそうもいかない。
敵を見ようにも、ありとあらゆる方向に敵がいる。
そのひとりを見ていれば、別の敵に後ろからやられる。
かといって後ろを気にしていれば、前への反応が遅れる。
目ではなく、皮膚感覚で戦場を感じなければならない。
目の前と背後を同じだけの意識でもって注意しなければならないが、並の精霊使いでは、それさえむずかしい。
しかし和人は武道大会の決勝戦で精霊石を信頼するという戦い方を身につけている。
それは集団を相手にした戦闘において、重大な威力を発揮した。
真後ろから、敵が迫る。
和人はそれを見ていない。
攻撃をする相手からは、和人は攻撃自体に気づいていないように見えるほどの自然体である。
しかし敵が武器を振りかぶった瞬間、和人の腕が動き、剣先が敵を捉えている。
同時に正面からの攻撃に対しても和人は気負わず、冷静に見極めて回避する。
男たちは怒号を上げて和人を取り囲む。
和人の周囲、二メートルほどの間隔を空けて、男たちが殺到した。
右から鋭い突きが飛び出す。
身体を回転させ、それを躱しながら反撃も繰り出す。
きん、と軽い音が鳴って剣が弾かれた。
そこに背後から袈裟斬りが迫る。
前につんのめって躱すが、それは前方に対して無防備な体勢を見せることになる。
和人は歯を食いしばった。
音もなく敵の剣が走る。
ぱっと血が散った。
和人の胸を、浅く斬っている。
ひるまずに和人も剣を振るうが、それは相手に届かず、空を切る。
和人は右腕に剣を持ち、左腕をだらりと下げた。
すでに息が上がっている。
胸には斜めの切り傷がつけられ、そこから止めどなく血が溢れている。
「あああっ!」
言葉にならぬ絶叫を上げ、和人は敵に飛びかかった。
右腕の一振りで、三人の男の剣を弾く。
白魚のような刀身が男たちの喉もとを狙う。
並外れた剛剣と、精密な剣術である。
しかしその先が続かない。
和人の剣は、男たちを傷つける寸前で止まる。
まるで衝動を抑えるように、剣を持つ和人の腕はぶるぶると震えていた。
そのとき、真後ろで剣がひらめく。
防御の姿勢を取るが、間に合わない。
「ぐっ――」
背中にさっと剣が走る。
斜めにできた大きな傷は、はじめのうちは熱さしか感じなかった。
その熱が体内へ侵入するように、徐々に痛みが入り込んでくる。
傷は深い。
胸の傷と背中の傷から、止めどなく血が溢れていく。
しかしそれさえ精霊使いにとっては致命傷ではない。
数時間である程度回復することはわかっているから、敵も油断せず、和人を取り囲んでいる。
和人はしばらく棒立ちだった。
だらりと下げた腕から剣がすべり落ちる。
和人はそれにさえ気づいていない。
意識はあったが、それは現在の戦闘ではなく、心中に向けられていた。
目の前の景色がずっと遠く見える。
現実感が失せて、自分とは無関係の映像を見せられているような気分で、和人は自分を見つめる敵の表情や空の色を見ていた。
それは死の感覚に近い。
意識が冷え冷えとして、現実からどんどん遠ざかっていく。
死はその果てにあり、和人はそこへ向かって一直線に落ち込んでいくのだ。
道中には、なにもない。
暗いトンネルの一方には、いま身体が見ている現実がある。
その光の反対には闇が広がっている。
和人の意識はなんの抵抗もなく闇を渡り、するすると奥へ引き込まれていく。
それを止める声があった。
「情けが身を滅ぼす。それがわかったか?」
声というより、意識そのものに近い。
和人には他人の意識をあるがまま感じる器官がないせいで、それは言葉として認識される。
そして和人もまた、言葉によって自分の意識を伝えるしかない。
「情けをかけたわけじゃないんだ。おれは、ただ殺したくなくて……」
「そして自分が殺されるのか。それで満足か。だれも傷つけず、ただおのれが傷ついて」
「だれかを殺すより、殺されたほうがいい。おれはもうだれも殺したくない。殺して生き残っても、死ぬよりつらい生があるだけだ」
「しかし死にたくはない、と。わがままなやつめ」
声は笑ったようだった。
「わがままなやつは世に多い。大抵はそのわがままを叶えられず、あるいはそれに足をとられ、死んでいく。なぜだかわかるか?」
「傲慢だから」
「力がないからだ。力さえあればよいのだ。たとえば、他人をひたすら蹂躙したいと願う者。あらゆるものを凌駕する力をもってすれば、どのような状況でもおのれの欲を叶えられる。たとえば、だれも傷つけずに生きたいと願う者。それもやはり力があればよい。おまえには力がない。だから死ぬのだ。こんなところで、なにも成し遂げず、羽化しきらぬうちに捕食者に喰われる昆虫のように死ぬのだ。おまえの意思を、だれが理解する? だれにおまえという存在を伝え、だれがおまえという存在を受け継ぎ、語り継ぐ? おまえはただ死ぬのだ。ただ消えるのだ。はじめからなかったように、跡形もなく、だれにも影響を残すことなく失われるのだ」
「どうしろっていうんだよ。おれには力がない。そんなことはわかってる。だから、死ぬんだ。力がないせいで。結局おれはそういうやつなんだ」
「そうだ。おまえはどうしようもない。だから、力をやろう。情けではない。ましてや愛情でもない。取引だ。おまえが死ねば、われも死ぬ。消える、ということだ。おまえが生きているかぎり、われも生きる。われのために生きよ。さすれば、われはおまえを生かしてやろう」
「えらそうに、言いやがって――おれはおれのもんだ。てめえにはやらねえ」
「ではわれを道連れに死ぬか? その後ろ暗い自負を抱いて死ぬというなら、勝手にするがよい」
「……おれはわがままなやつだ。きっと死んでも変わらないんだろう。だったら、とことんわがままになってやる。突き通せる力を手に入れてやる。どこのだれだか知らねえが、おまえの力をよこせ。代わりに、おれのなかに住まわせてやる。それがいやならおれといっしょに死んでもらう」
「脅すつもりか?」
「取引だよ」
「ふむ」
声は途絶えた。
和人は現実に戻っている。
再び現実感を取り戻した景色のなかで、和人はゆっくり足下を見た。
剣が転がっている。
無造作に拾い上げた。
取り囲んでいた男たちが、揃って数メートルも後ずさる。
彼らの表情はみな一様である。
恐怖と困惑が入り混じった表情だ。
それぞれ、理性と動物的感情の表れである。
理性では、相手は死にかけた子どもひとり、と考える。
感情は、圧倒的に巨大な獣を目の前にし、怯えきっている。
なぜそのように思うのか、本人にもわからない。
ただただ、恐い。
恐懼に満ちたいくつもの視線を、和人は平然と受け止める。
果たしてその場にいる何人が気づいたか――止めどなく血が流れ出していた和人の傷口は、すでに完治している。
精霊使いとしても異様な回復力である。
「さて――」
和人が呟くだけで、男たちは慌てて剣を構えた。
「ははは」
と和人は謎めいた笑いを洩らす。
「おれはおれのままか? それともおれは『われ』なのか? ただの人間か、えらそうな人殺しか――それとも、それが融合したものか。試してみようぜ。かかってこいよ」
剣先を挑発的に揺らす。
敵のなかには短気な男もいたが、そうした直情的な男はむしろ、酸素を押しのけるように充満している異様な気配と恐怖にほとんど飲み込まれ、ちいさく喘いでいる。
「おれがやろう」
すっと集団から前に出たのは、年配の男である。
背は低いが、筋骨隆々とし、目つきも鋭く深い。
剣を握った姿で、ただものではないとわかる。
和人は気楽な様子でうなずいた。
それまでの和人と共通する仕草のようで、どこか違和感がある。
男は半身斜めにして、剣先を和人の目に向ける。
和人は子どものような無邪気さでその構えを真似て見せる。
数秒、にらみ合った。
「はあっ!」
男が踏み込む。
一歩が大きく、速い。
和人の剣をかいくぐり、懐へ入る。
勝負は決まったと、見ていた男たちも半ば安堵した。
男の剣がびゅんと鳴る。
まっすぐ和人の首を狙い、刎ねるつもりらしい。
その剣が、首の数センチ手前で止まった。
「油断しすぎだ」
冷酷に和人は呟く。
男はふらふらと和人から遠ざかる。
その胸から、美しい剣がぬっと突き出している。
身体を貫通しているというのに、刀身はまったく汚れず、白銀に輝いている。
和人の剣は、背中からまっすぐ胸を貫いていた。
男は数歩よろめいて、倒れる。
無表情で和人は近づき、剣を引き抜いた。
そして遠巻きに取り囲む男たちを見る。
「どうした? 早くこのひとを連れていってやれよ。手当をすれば助かる。心臓は貫いてない」
「――お、おい、どうする?」
男たちはざわつく。
結局、和人を警戒しながら、数人で倒れた男を引きずっていった。
「それで、まだやるか? 死にたいやつはよそへ行け。殺さずに終わらせてやる」
その脅し文句で逃げ出したのは、ほんの数人である。
ほとんどが恐怖を克服してその場に残り、和人に剣を向ける。
和人は結果に満足し、口元を釣り上げて笑った。
「じゃあ、続きをやろう」