第二話 20
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「さて、どうしたもんですかね」
福円は呟く。
球技場に併設された男子トイレのなかである。
軍隊から逃げ出してからトイレに潜むことが多いな、と福円はすこし情けなくなる。
「ある意味、これは願ってもないチャンスですよ」
気を取り直し、福円は続ける。
「学園がなぞの組織に襲撃されている――それも、相手も精霊使いだ。学園側の混乱ぶりを見るかぎり茶飯事ではないようだし、いまならぼくたちに目を向ける余裕もない。逃げ出すにしても、なにかしらの行動をとるにしても、いまなら簡単にできますよ」
「逃げ出すなら、その前に目的を遂げねえと意味がないな」
泉が言って、福円もうなずく。
「もともとぼくたちが学園に潜入した理由は、学園が敵になりうるかどうかの偵察だったけど……ここらへんで全員の意思を統一したほうがよさそうだ。まず泉は、どう思う?」
泉は腕を組み、すこしのあいだ沈黙した。
「敵になり得る可能性は、充分にある」
慎重な口調である。
「連中が精霊使いだってこと。おれたち人間を見たときの警戒した目つき。指導者がタカ派だってこともそうだろう。近い将来、人間全体の敵になる可能性はある」
「まあ、ぼくたちに対する視線に関しては、ぼくたちの登場の仕方が悪かったってのもあるだろうけど。じゃあ、泉は学園は敵性だと認識しているのか」
「いや、そうじゃない。将来的にはそうなる可能性があるってことだ。いまの段階でのおれの結論は、学園側は敵じゃない。連中は、ただの子どもと教師だ。それ以上じゃない」
「ふむ、なるほど。じゃあ、班長はどう思います?」
千明は、先ほどから腕を組んでいる。
男子トイレのなかでもいちばん堂々としているのが、この千明である。
「結論から言えば、わたしも泉と同意見だ」
「将来的にはともかく、現時点では敵ではない、と」
「わたしは、将来的にも敵ではないと感じる。彼らには人間の心がある。つまり、正義の心だ。彼らが正義に反する可能性は、人間がそうなる可能性と同じだけしかない」
「そうなったときの力はとてつもないでしょうけど」
「それは人間も同じだ。人間は、決してひ弱な生物ではない。それはわれわれがいちばんよく知っているだろう」
「じゃあ、班長も学園を敵とは見なさないわけですね。で、最後にぼくの意見ですが――」
福円に、ふたりの視線が集中する。
すでに福円のなかでは答えが出ている問題ではあるが、その決定が三人の行動を決めるとなれば、さすがに責任感がある。
こうして話し合っているあいだにも、トレイの外からは怒号や絶叫が飛び交っているのだ。
ここは、訓練生止まりである福円や泉が経験したことのない戦場である。
文字どおりの実戦、気を抜けば命を落とすというその場所で、適切な行動をとれるように思考するのが福円の役目だった。
「ぼくも、現時点では、学園が人類の敵だと見なすことは不当だと思います」
ほかのふたりは、軽くうなずく。
「内部に入ってみて、ここが人間たちのいうような兵士の養成所とはほど遠いことはわかりました。たしかに精霊石を使った訓練もしているんでしょうけど、それはおそらく普通の学校でいう体育と同じ感覚なんでしょう。すくなくともある目的を持って戦闘員を養成しているわけじゃない。もしこの学園を敵性と見なすなら、ぼくたちはすべての精霊使いを敵性と見なす必要がある。そのつもりは、ぼくにはありません。精霊使いも人間だ。感情があって、個人差がある。それをひとくくりに敵といってしまうやり方には反発を覚えます。ただ……」
福円は、千明をすこし見た。
「ある意味では、ひとくくりに敵といってしまったほうが正しいことはたしかです。だって、正義と悪をどうやって判別します? こいつはいいやつ、こいつは悪いやつ、と分類していくのは、あまりに雑多だし曖昧すぎる。どうにかして他人の心の奥まで覗いたって、それで善人か悪人かがわかるはずもない。だから、組織としてはどこかで線引きしなければならない。ぼくたちも最小単位ではありますが、組織です。全員の意思を統一するためにそうした線引きは必要でしょう。いまの状況では、ぼくは悪人だと思う人間を、泉は善人だと認識するかもしれない。相対基準ではなく、絶対基準を作るべきだと思いますが、現時点ではそれもむずかしいでしょう」
「いや、それは決してむずかしいことではない」
と千明が言う。
「絶対基準は、われわれの心のなかにある。その状況ごとにそれぞれが正義を認識し、それに従って行動すればいい。われわれは組織だが、他人の正義なるものに囚われる必要はまったくない。自身の正義によってのみ行動を決めれば、それは決して的外れではなくなるだろう」
「ぼくと泉の正義が食い違ってもいいというんですか」
「それは仕方がない。同じ心を持っているわけではないのだから、食い違うこともある。しかしそれぞれが信じる正義によって行動していれば、食い違っても意思だけは重なるはずだ」
「それはまあ、そうかもしれませんけど」
「状況はいまも動いている。長く議論している時間はないぞ」
そのとおりだと福円はうなずく。
行動を決めなければならない。
いま、福円の前にはいくつもの選択肢が見え、そのどれを選ぶことも可能だった。
たとえば、精霊使い同士の争いに乗じて、双方の勢力を弱体化させることもできる。
将来的な問題を考えれば、それがもっとも人間として理性的な選択に思える。
人間と精霊使いのあいだにある溝は深刻である。
世界のどこかでその拮抗が崩れ、急激に悪化へなだれ込む可能性は常にある。
そのときのために精霊使いを弱体化させておく、という作戦は、決して悪くはないが、この状況では使えまい。
そうなれば、残る選択肢はわずかだ。
我関せず、とどちらの陣営にも属さず、このまま姿を消すか、一方の陣営に肩入れをして戦うか。
「……ぼくの個人的な提案ですけど、いいですか」
「福円は参謀だ。意見を考え、提案するのが役目だろう」
「まあ、それはそうなんですけど……じゃあ、その参謀として提案しますが、ぼくは学園側に肩入れをして、敵対勢力と戦うべきだと思います。これには理論的な理由と、感情的な理由があります。まず理論的な理由ですが、学園を襲撃している敵対勢力は、全世界的に騒動を起こしている精霊使いの組織である可能性が高いということです。これを弱体化させておけば将来的にこちらが有利ですし、なにより、学園側に協力することで、精霊使いという強大な戦力を味方につけることができるかもしれないと考えるからです。この先、人間は精霊使いと戦わなければならないでしょう。そのとき、味方の陣営に精霊使いがいれば、戦いはいくらか有利になります」
「そううまくいくかどうかはわからんがな」
泉が低く呟く。
それは、福円も自覚していることである。
しかしその議論よりも先に、福円は感情的な理由を説明する。
「そうした論理的な理由とは別に、ぼくはやはり、子どもたちを守るべきだと思います。子どもと大人のなにがちがうといえば、それはそのとおりでしょうけど、力のあるものが力のないものを蹂躙する姿は見ていられない」
「はじめから、そう言えばいいんだ」
と泉は顔を上げる。
「論理的な理由ってやつより、よっぽど説得力がある。おれは福円に賛成する」
「ふむ、ではわれわれの行動は決まったな」
千明は、指揮官として宣言する。
「学園と共闘し、敵対勢力を排除する。学園内から敵対勢力が消えた時点で作戦終了とするが、学園の指揮系統には参加しない。われわれは単独で動く」
「了解」
「では行くぞ。初の実戦だ」
三人は潜んでいたトイレを出る。
するとすぐ目の前で、中学生らしい生徒がふたりの大人を相手にしていた。
なんとか立ち回っているが、劣勢は否めない。
すかさず千明が背後から近づき、ひとりに関節を決める。
驚いた顔のもうひとりも、死角から泉が迫っている。
「よっと」
軽いかけ声だが、蹴り上げた足は鋭い。
それが相手の側頭部を的確に捉え、一撃で沈める。
千明のほうもしっかり首を押さえ、絞め落としている。
さすが、というほかない。
千明はもちろん、泉も戦闘に関しては一流である。
このふたりなら精霊使いにも遅れはとらない。
「……あれ、ぼくって出番ないのかな」
訓練は受けているが、戦闘員ではない福円はぽつりと呟く。
戦わなくてもいいのは幸いだが、なんとなく、寂しいところもある。
「どうした、福円。行くぞ」
「は、はいっ」
適材適所という言葉もある。
餅は餅屋ともいう。
戦闘は、それが得意な連中に任せておけばよいのだ。
福円はそうやって自分を慰め、千明と泉のあとをついていった。