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青の奇跡  作者: 藤崎悠貴
第二話
30/61

第二話 18

  18


「――貴殿は精霊使いが存在する理由があるはずだと言ったが、精霊使いとはただの体質、精霊石とはただの石だろう。そのような特殊な体質、特殊な作用を持つ石だ。それが存在する根拠はあるだろうが、理由などない。ましてや、力を使い戦うことが理由であるはずがない」


 決して大柄の女ではない。

 髪を短く切り、大勢の視線を受けても堂々と立っている。

 そのちいさな身体のどこにそんな意思が詰まっているのかと思うほど、女は自らの意見に対して正直だった。


「きみは、うちの職員ではないな」


 学園長は突然の闖入者にも動じない。

 むしろゆったりと目尻を下げ、笑っているように見える。


「なるほど、精霊使いではないきみにとっては、そうかもしれん。しかしわれわれ精霊使いにとって、なぜそのような特殊な力が存在するのか、という問題は決して偶然で片づけられるものではないのだ。人間自身、いにしえから常に考え続けてきたことだろう。人間とは、人類とは、どこからきてどこへ行くのか? その問いを精霊使いに置き換えただけのことだ。人間が存在する根拠はあるが、理由などない――それで納得できる問題ではない」

「しかし戦うことで得られるものでもない」

「何者かと戦うのではない。おのれと戦い、心を鍛えるだけだ」

「理由はどうであれ、戦えばだれかが傷つく」

「だれひとり傷つかぬ戦いもある。たとえば、これから行う武道会がそうだ。規律を守り、節度をもって戦う。そうしておのれを鍛え上げ、磨き上げて、やがて見つかるかもしれぬ存在理由と、あるいはそれを得るために必要になる闘争に備えるのだ」

「やはりあなたは闘争を根拠にしている。なぜ闘争が必要なのか?」

「もちろん、いま現在、その存在理由というものがわれわれの手元にはないからだ。だれかが持っているのかもしれん。返せと一言で戻ってくるのならよいが、そうでないなら奪い返さねばならん」

「そのために子どもたちを扇動するのか」

「ここにいるのは独立したひとりの人間たちだ。自分で考え、自分で行動することを知っている。いまでこそ、こうして学園の仲間と群れているが、ここへくるまではだれも仲間などいなかった。平坦でない道を、親でさえ理解できぬ難行苦行をたったひとりで越えてきた者たちだ。精霊使いというのは、なにも身体能力を向上させるだけではない。その特殊な境遇は心も鍛える。たとえば、きみの言うようにわしが彼らを自分の目的のためだけに扇動しようとすれば、それに反感を持ち反旗を翻すくらいのことはやってのける。自分の場所は自分で築き、守っていかねばならんと知っているのだ」

「ふむ――」


 女は生徒たちをぐるりと見回す。

 生徒たちの反応は様々あった。

 意思の強い視線にうつむく者、負けん気強くにらみ返す者、畏れたように後ずさる者。

 牧村和人は、その視線ひとつで生徒たちが制圧されているのを感じた。

 だれも女の存在を無視できず、その一挙手一投足に集中せざるをえない――学園長とはまたちがう方法だが、ふたりの存在感には似たところがある。

 そこにいるだけで、他人の感情を引き込む。

 彼らは生まれながらにして指導者であり、先導者だった。

 その視線が和人を捉える。

 和人は敵意も抱けず、かといって女に同調できるわけでもなく、どこか呆けたような、ぼんやりとした視線を返した。


「なるほど」


 と女はうなずく。


「たしかに彼らは人形ではないようだ。言いがかりのような形になって申し訳ない」

「いや、きみは貴重な意見を提供してくれた」


 矍鑠とした老人は、深みを感じさせる笑みを浮かべた。


「生徒諸君、いま彼女が言ったことを決して忘れるな。だれにも扇動されてはならん。わしにも、だ。無条件で他人を受け入れるな。無条件で他人に追従するな。きみたちの力は、強大なものだ。それを他人の意思によって使われてはならん。諸君が力の使い道を決め、力を使ったことに対して責任を持つ。他人に屈服してはならん。そのために、おのれを鍛えるのだ。決してだれにも膝をつかずに済むように」


 生徒たちは銘々にうなずいた。

 なにをするにしても、まずは力をつけること――それは、学校という施設の理念とも合っている。

 だれにも利用されず、自分で考えて生きていくということを必要性を、それぞれこれまでの人生で感じているのだ。

 ただ力を欲するのではない。

 力を律して生きるために、力がいる。

 その強大な力に飲み込まれぬために、踏ん張るだけの力がいる。

 それをここで涵養しろと学園長は言っている。

 生徒たちはその意見に納得し、うなずいたのだ。

 学園長は満足げに生徒たちを見下ろし、高らかに宣言した。


「では、第十一回武道大会を開催する」


 だれからともなく拍手が起こる。

 学園長はふと手を挙げてそれを制し、


「よければきみも参加するかね」


 と例の女に向かって声をかけた。

 女はすこし首をかしげ、


「参加するといっても、どのようなものなのかをまだ知らない」

「なに、一対一の格闘訓練のようなものだ。ルールを守って戦い、勝敗を決める。ひとりくらいならトーナメントに入れられるな?」


 傍らの教師が慌ててトーナメント表を見上げ、シード枠をひとつ崩せば入れられると報告した。


「きみは、軍人だろう。うちの生徒の力量を見ておきたいんじゃないか」

「しかし、学園長先生」


 と教師のひとりが声を上げる。


「いくら軍人でも、精霊石を使っての戦闘ですよ。彼女が無事に済むとは思えない。かといって拳銃のたぐいを持たせるわけにもいかないし」

「いや、その点は心配ない」


 女は気軽にうなずく。


「武器はなしでいい。もともと、われわれは対精霊使いの訓練を受けている。互角以上に戦えるだろう」


 すると、女の後ろからついてきていた男のひとりが慌てて女に声をかけた。

 どうも、内輪もめをしているらしい。

 男は必死に女を説得しようとしているが、女のほうは意に介さず、ただ一言、


「これでいいんだ」


 と呟いただけで、男を黙らせた。

 和人はなんとなく、その男女の関係を察し、男に同情する。

 端から見ても、他人の意見を素直に聞きそうな女ではない。

 軍人だというからには、年は女のほうが若いが、階級は女が上で、男はそれに従わざるをえないのだろう。


「……なーんか親近感あるなあ」


 ぽつりと呟いた和人に、となりの青藍が不思議そうな顔をする。


「でも普通の人間が参加して、どうにかなるもんなのか?」

「戦い方はいろいろあるだろう」


 青藍は腕を組む。


「こちらの能力が秘密であればともかく、身体能力の飛躍的な向上は知っているんだろう。あらかじめどの程度のものなのかわかっていれば、対策は立てられる。そしてこちらは相手の情報をなにひとつ持っていない」

「たしかに、戦いにおいて情報は大事だよな」


 まじめな顔で、卓郎がうなずいた。

 すでにその時点で怪しいものを感じ、卓郎の後ろで菜月が手刀の準備をしている。


「もしかしたらあのひととも戦うことになるかもしれねえ。牧村、いまのうちに相手の情報を手に入れておきたくはないか?」

「そりゃあ、持ってるほうがいいだろうけど、どうするんだよ」

「本人に聞くんだよ。行け、牧村。行って、あの豊満な乳のサイズを聞いてこい!」

「やっぱりそこか!」


 ぶんと菜月の右手がひらめく。

 まるで訓練された暗殺者のごとき手際のよさだが、とっさに殺気を感じ取った卓郎は本能的に回避行動を取っている。

 ごん、と音が鳴った。

 なかなか大きな音である。

 周囲の生徒が何事かと振り返る。

 卓郎は後頭部を押さえ、菜月のほうも右手を押さえている。


「いたたた……ちょっと、なんで避けたの!」

「そ、そりゃ避けるだろ!」


 卓郎は涙目で言う。


「いまのまともに喰らったら意識刈られるわっ」

「そのつもりだったんだから、おとなしく失神してればいいのに。変に避けるから頭蓋骨に当たったでしょ、もう」

「危ねえ……こいつ危ねえ」

「もとはといえばあんたが変なこと言うから」

「変なことじゃねえ! 男はみんな大好きなんだよ。それのどこが変だ!」

「大好きだかどうだか知らないけど、堂々と口に出すのは変でしょうが。変態でしょうが」

「ちっ、わかんねえかな、おまえには。このロマンが、この桃源郷がわかんねえかな」

「わかりたくもないわっ」

「寂しいやつめ。おい牧村、おまえのなんか言ってやれ。あの貧しいやつに言ってやれ」

「だれが貧しいだ!」


 げんこつである。

 脳天を直撃した拳に、さすがに卓郎は地面に倒れ伏す。

 菜月は鼻息も荒いまま、和人を振り返った。

 うかつなことを言えばああなるのか、と和人は卓郎を見下ろし、ごくりと唾を飲む。


「それで、なにかしら。牧村くんも貧しいわたしになにか教えてくれるの?」

「え、あ、いや――お、おれは、別に興味……」


 興味などない、と言いきれば、この場は丸く収まるはずである。

 和人にもそれくらいはわかっている。

 ただ、自らを突き通して没した卓郎の前で、偽らざる本心をさらけ出して撃沈した卓郎の前で、そのようなきれいごとを言ってもいいのかとも思う。

 良心の問題か、下心の問題か。

 和人は女を見た。

 格好は簡素である。

 どこにでも売っているようなTシャツに、デニムのズボン。

 色気とはほど遠い衣装ではあるが、むしろその簡素さが、Tシャツを大きく押し上げている胸を際立たせている。

 もとは英字がプリントされているらしいが、胸に押し上げられて、文字と文字の間隔が開ききっている。


「お、おれは……」


 菜月が見ている。

 拳は解かず、握ったままである。

 怒気を孕み、身体全体から上気が立ちのぼっているようにすら見える。

 どうやら貧しい云々というのは禁句だったらしい。

 そういえば、部屋で下着を見たときも怒り狂っていたが、それが原因だったのかと和人はいまさら考える。

 正直に言うべきか、鉄拳制裁を回避するべきか。

 思い悩む和人の背中を、八白が心配そうに見ている。

 そこへ青藍がジャージ越しに自分の胸を触りながら、


「これが大きいのとちいさいのと、なにか優劣があるのか?」


 その一言が火に油を注いだ。

 菜月はきっと鋭い視線を青藍に向ける。

 まさか青藍にげんこつか、と和人は予想外の事態に慌てるが、青藍に目を向けた瞬間、菜月の動きが止まった。

 ――青藍の胸は大きい。

 ゆったりしたジャージの上からでもその大きさがわかる。

 サイズ自体は軍人の女ほどではないが、青藍は背も高く、腰や手足が細い。

 およそ一般人離れしたプロポーションの持ち主なのだ。

 それに対し、菜月は、本人が怒りに震えながら言ったように、いくらか控えめである。

 決して平均以下ではないものの、青藍とは比べるべくもない。

 同性を相手に、怒りよりも恥ずかしさが上回ったらしい――菜月はぷいと背中を向け、そっと腕で胸を隠した。

 八白はその哀愁漂う背中に、目を伏せてぽんと肩を叩いた。


「大丈夫だよ、菜月ちゃん。ほら、菜月ちゃん、身体も細いし」

「青藍さんのほうが細いけどね」

「そ、それはそうだけど……で、でも、体重はきっと菜月ちゃんのほうが軽いよ!」

「思い分、胸に行ってるんだわ」

「た、たしかに……げ、元気出してよ、ね」

「もう励ます根拠もないのね」

「う、うう……ま、牧村くんっ」

「悪ぃ。こればっかりはおれも助けられねえ」


 ただひとり、事態を悪化させた青藍だけが状況をわかっておらず、ぼんやりした表情を浮かべている。

 青藍には一度徹底して一般常識というものを教え込まないとな、と和人がため息をついたころ、球技場内にアナウンスが響いた。


「これより一回戦をはじめます。該当する生徒以外は観客席へ移動してください。繰り返します、これより一回戦をはじめます――」

「おい、日比谷、起きろよ。移動だって」

「う、ん……あ、あれ? おれ、ここでなにしてるんだ。っていうかおれはだれだ、ここはどこ……?」

「一時的な錯乱だ。そのうち治る。あれ、そういえば布島はどこ行った?」


 生徒が大勢集まっているなかで、芽衣子とははぐれてしまったらしい。

 まあ、どうせ一回戦で当たる相手だし、その時間になれば出てくるだろうと和人は卓郎を引きずって観客席へ移動する。

 気落ちしている菜月とその原因を作った青藍も観客席へ上がったが、八白はさっそく出番らしく、その場に残った。


「なるほど、こりゃよく見える」

「はっ、きれいなお姉さま! どうか哀れなわたくしにお美しい名前を教えてくださいませんか?」

「名前? 青藍だが」

「青藍……ああどこかで聞いたような響きだ。ぼくたちは運命のふたりなのかもしれない!」

「聞いたことあるのは当たり前だろ。目を覚ませ」

「ごふっ」


 ごつんと和人が頭を殴ると卓郎は一瞬よろめき、はっとわれに返った。


「あ、あれ、いままでおれはなにを……なんで織笠が落ち込んでんだ?」

「おまえが意識を失ってるあいだにいろいろあったんだよ」


 説明も面倒で、和人はそれだけ言って観客席から試合場の様子を見下ろした。

 試合場は、全部で四つ作られている。

 Aブロックの試合場がふたつ、Bブロックがふたつである。

 それらがすべて同時進行し、すでに試合場の外には出場者が並んでいた。

 八白は見るからに緊張した様子で直立し、不安げに観客席を見上げている。

 和人が手を振ると、ほんのすこしその表情も和らいだ。

 八白の相手になるのは同じ学年の男子生徒で、ハンデなしの戦いだった。

 試合の審判は、出番のない教師が務める。

 最初の試合が行われる前に、アナウンスで基本ルールの説明が行われた。


「試合は一対一で行われ、制限時間は十分です。勝敗は、審判が決定打と判断した場合、あるいは選手がギブアップすることで決定します。加えて、相手に怪我を負わせてしまった場合、あるいは白線で作られた試合場から出てしまった場合はともに失格となり、残ったほうが勝者となります。なお、制限時間内で勝負がつかなかったときは、じゃんけんによって勝敗が決定します」

「じゃんけんで決めるのか」


 と和人が言葉を洩らすと、正気に戻った卓郎は椅子に深くもたれながら、


「今日一日で優勝まで決めないといけないからな。ただ、決勝戦だけは時間無制限で勝敗が決まるまでやることになってる」

「なるほど。決勝戦がメインイベントってことだな」

「それにしても、なかなか厳しい戦いになる」


 青藍は真剣な眼差しで試合場を見下ろす。


「移動可能な範囲は、あの狭い四角のなかだ。どのように動いても相手の間合いに入る」

「逃げるって選択肢はないわけだな」

「だからおもしれえのさ」


 卓郎は唇を釣り上げて笑う。


「小細工なし、正面衝突の勝負だ。男としては血が騒ぐってもんだろ」

「おれはあんまり得意じゃないけどな、こういうの」

「心配ない」


 と青藍は和人に目をやる。


「主には我がついている。負けることはあるまい」

「あーはいはい、ごちそうさまごちそうさま」


 卓郎はひらひらと手を振り、呆れたような顔をする。

 和人がそれを否定しようとしたとき、一回戦開始の笛が鳴った。

 八白の初陣である。


  *


「よ、よろしくお願いします」

「お手柔らかにな」


 試合場に入る八白は、見るからに緊張している。

 クラスメイトと戦うということ自体も緊張の理由だろうが、もっとも大きいのは、やはり観衆がいるということだろう。

 もともと注目を浴びるのが得意ではない八白である。

 大勢から称賛されるとしても、もし代わってくれるひとがいるならぜひそうしてほしいと思うほど、八白は大勢の前に出るのがきらいだった。

 だから、なのかもしれないが――勝負はほんの一瞬で決することになる。


「あいつ、あんな調子で大丈夫かよ」


 観客席から見下ろして、和人は心配そうに呟く。

 八白のそうした引っ込み思案の部分を、和人は子どものころから何度も目にしている。

 落ち着けば簡単にこなせることなのに、だれかに見られていると思うと焦ってつい失敗してしまうのが八白なのだ。


「まあ、怪我しないうちに負けたほうが本人のためかもしれないけど」

「あれ、おまえ知らねえの?」


 と卓郎が不思議そうに言う。


「なにを?」

「直坂さんの幼なじみなんだろ――ああ、そうか。おまえは最近まで精霊使いじゃなかったんだよな。直坂さんも、そんな話はしねえか」

「だから、なんのことだよ」

「ちゃんと見てろよ。たぶん一瞬だから」


 八白がやられるようなところは見たくないが、と思いつつ、和人は試合場に目を向ける。

 まさにその瞬間である。

 試合場の片隅に、明らかに緊張気味に立っていた八白の姿が消える。


「は……?」


 と声を漏らしたとき、八白はすでに対戦相手を地面に転ばせ、その首筋にぴたりと精霊石の刃物を当てている。


「そこまで!」


 教師が試合終了を宣言し、八白の腕を取った。


「勝者、直坂八白!」


 ――試合開始から二秒後である。

 四つ同時進行で行われている試合でも、もっとも早い幕引きだった。

 八白は、観客席から飛んでくる拍手や歓声を受けて恥ずかしそうに身体をもじもじと動かす。

 しかしなにかを探すように観客席を見上げ、驚いた顔の和人を見つけると、にっこりとほほえんだ。


「かわいいっ」


 和人のとなりにいた、卓郎が叫ぶ。


「ああなんてかわいいんだ直坂さん! あの可憐さの裏に秘めた強さも素敵だが、なによりあの笑顔……ああ、直坂さん、きみはおれの心ま――」

「八白、勝ったの?」


 ようやくショックから立ち直ったらしい菜月が、卓郎を押しのけて和人の横に出てくる。

 菜月が手を振ると、八白はうれしそうに笑って、試合場から観客席へ駆け上がってきた。


「やっぱり恥ずかしかったよー。ひとに見られるのって苦手だなあ……」

「でもちゃんと勝ったんだから、えらいえらい」


 菜月はぽんぽんと八白の頭を叩く。

 八白はそれに目を細めながら、ちらりと和人を見た。


「ど、どうだったかな、牧村くん」

「どうって言われてもなあ……」


 和人はぼんやり言った。


「おまえ、実は強いのか?」

「なに言ってんの」


 と菜月はため息。


「幼なじみなんでしょ――って、そっか。牧村くんには話してないわよね。精霊使い同士でもないと、そういう話はしないし」

「うん……別に、黙ってたわけじゃないんだけどね? その、精霊使いのことを牧村くんに話しても、牧村くんが困っちゃうかなと思って」


 菜月は八白の肩に手をやって、自慢げに胸を張る。


「八白はね、生徒のなかだと五本の指に入るくらい強いのよ。先生に当たらなかったら、わたし以外には負けないと思うわ」

「そ、そんなことないよ」

「五本って……そんなにか。いやまあ、さっきのは、たしかに圧勝だったけど」


 同じクラスの男子生徒は、八白に敵わないことを知っていたにちがいない。

 負けても、別段悔しそうな顔はせず、ただやっぱりかというように苦笑いしていただけだった。

 身近の、それも昔からよく知っている八白の意外な一面に、和人はすこし寂しいような気持ちになる。


「直坂がそんなに強いとはなあ……おれと当たったら、負けるかな」

「ま、牧村くんなら大丈夫だよっ」


 と八白は言うが、いまの圧倒的勝利を見せつけられては、希望など持てそうにない。

 八白とはどこでぶつかるんだったか、と掲示板を見てみると、先ほど軍人の女が参加することが決まったせいか、すこし書き換えられていた。

 お互い順調に勝ち進み、八白と四回戦で当たることは変わらない。

 ただ、そのあと、Aブロックの代表を決める準決勝で、軍人の女、国龍千明と当たることになっている。

 もっとも、それまでに千明が負ければ当然ちがうだれかと当たるのだが、和人には妙な確信があった。

 あの女は、おそらく強い。

 軍人といえば、精霊使いとは仲はよくないだろうから、いうなれば敵陣にたった三人で切り込んできたわけだ。

 そしてあの堂々とした振る舞いを見ていると、精霊使いと人間といういかんともしがたいハンデがあっても強さを発揮できる自信があるのだろうと推測せざるをえない。

 おそらく、準決勝で当たるのはあの女だ。


「まあ、それまでにおれが全勝してればの話だけど……」


 そこへ辿り着くには長い道のりである。

 まずは目先の勝負、布島芽衣子との一回戦に勝たなければ、どうしようもない。


「布島のやつ、どこ行ったんだろうな。もうちょっとでおれたちの順番なのに」

「トイレじゃない?」


 と菜月があっさり言う。


「結構緊張するものだからね、こういうの。とくに布島さんは今年がはじめてでしょ」

「おれも、一応はじめてだけど……おれはけんか慣れしてるからかな」


 緊張らしい緊張はしていない和人である。

 と、そのとき、アナウンスが響いた。


「Aブロックの一回戦を引き続き行います。選手は試合場に出てきてください」

「ん、おれの番か」


 卓郎が席を立って、面倒そうに肩を回す。


「がんばってこいよ」

「おう、夢のためにな」

「とりあえず、一勝はしなさいよ」


 菜月は厳しい目つきで言う。


「面倒だからって手を抜かないように。あんた、いっつもそれで負けてるんだから」

「わかってるって。今年は負けねえ。なにしろ、かける意気込みがちがうからな」

「意気込み?」

「去年まで、めぼしい女子といえば直坂さんただひとり。でも今年はちがうぜ。青藍さんもいるし、布島さんもいる。しかも全員同じクラスときたもんだ……こりゃあ伝説の水泳大会に向けてやる気も出るってもん――ぐわっ」

「さっさと行け!」


 文字どおり観客席から押し出され、卓郎は試合場へ降りていく。

 卓郎の相手は一年後輩の女子生徒である。


「相手は女子か。やりづらいな」

「そうでもないでしょ」


 菜月は投げやりに言う。


「見なさいよ、あの日比谷の顔」

「日比谷の顔? ……うわあ」


 思わず、和人は同情する。

 卓郎にではなく、卓郎の相手の女子生徒にである。

 卓郎は、相手の女子生徒がなかなかかわいらしいと知るや否や、にい、と口元を釣り上げて笑った。

 不気味な笑みである。

 下心が透けて見える。

 女子生徒もびくりとして身を引くが、試合場に入らないことにははじまらない。


「同じくらいの強さか、格上の女子ならあいつもやりづらかったでしょうけど、実力差は明らかだから、手を抜いても充分勝てるわ」

「つーか、試合以外のところでなんかしでかしそうだ」

「帰ってきたら、とりあえず百叩きの刑ね」

「ひゃ、百っ? さ、さすがに死ぬんじゃないか、それ」

「死ぬくらいがちょうどいいんじゃない? ああいうばかは、死んでも治らないっていうしね」


 にやりと菜月は笑う。

 こちらも不気味である。

 それも含んで、なかなかに似合いのふたりだと和人は思うのだが――。


「日比谷くん、大丈夫かなあ」


 八白だけが、まじめに卓郎を心配し、応援している。

 青藍は体力温存のつもりか、単に普段どおりなのか、和人のとなりに座り、その頭を和人の肩に預けて、完全に寝入っている。


「直坂さん、青藍さん! おれの活躍を見ててくださいっ」


 試合場から卓郎が叫ぶ。

 八白は恥ずかしそうに手を振り、青藍はまったく無反応に寝続ける。

 卓郎はほかにも、客席の女子生徒に手を振ってアピールしつつ、試合場に入った。

 ――この試合はハンデマッチである。

 一年後輩の女子生徒は、試合場全体を広く使える。

 一方で卓郎は試合場のなかに作られた、三歩か四歩分の円のなかで戦わなければならない。


「回避するには充分な広さだけど、向こうが試合場の端まで逃げたら、こっちからは攻撃できないな」


 和人は肩に乗っている青藍の頭を気にしながら呟く。

 そしてふと気づき、


「こういうハンデ戦で、相手がこっちの攻撃が届かないところから動かなかったらどうなるんだ? 制限時間いっぱいまで、まったく動かなかったら」

「そういうときは審判が動かすの。時間稼ぎができないように」

「なるほど。じゃあ、日比谷にもチャンスはあるわけだ」

「あれくらいのハンデで後輩に負けるやつじゃないけどね。もし負けたら、百叩きじゃ済まないし」

「……か、勝て、日比谷! 負けたら命はないぞ!」

「わたしはどっちかっていうと日比谷より相手の女の子のほうが心配だわ。あいつが変なことしなきゃいいけど、あの顔を見るかぎり、なんかする気なんでしょうね」


 和人は、この学園でできた新しい友人たちが戦っている姿を見たことがない。

 卓郎にしても、いっしょにばかをやっているか、ひとりでばかをやって菜月に制裁を受けている卓郎しか見たことがない。

 強さの点では未知数である。

 ただ、卓郎をいちばんよく知っているであろう菜月がすこしも勝利を疑っていないことを思うと、あの女子生徒では敵わない程度には強いのだろう。

 もし勝ち上がれば、三回戦で当たる相手である。

 友人として、仲間として、そして敵として、卓郎の戦いぶりはしっかりと見ておかなければならない。

 試合場で、審判が選手ふたりの精霊石を確かめる。

 どちらもすでに活性化し、いつでもはじめられる状態である。

 卓郎は、真剣な表情をしたいらしいが、明らかに頬が緩んでいる。

 女子生徒はそれを見て生理的な嫌悪感を覚えているらしい。

 その気持ちはわかる、と和人はひとりうなずく。

 まじめにしていれば、卓郎も決して悪い印象を与える男ではないのだが、いかんせん正直すぎるのだ。

 そしてふたりは向かい合い――試合開始の笛が鳴る。


  *


 卓郎と女子生徒は互いに面識がなく、相手がどのように動くのかなど知りようがない。

 そのような対決ではどちらが先手をとるか、探り合いになる。

 しかし、今回はハンデ戦――卓郎は自分から攻撃できない。

 必然、卓郎は後の先を狙う。

 相手の攻撃を受け流し、そこで手の内を覗いてやろうという魂胆で待ち構える。

 女子生徒にしてもそのくらいのことは承知であり、虚を突けぬ以上、先手の利はあまりない。

 ふたりがにらみ合い、数分経つ。

 お互いに仕掛ける瞬間を見極めようとしている。

 ほかの試合が白熱し、歓声や拍手が上がった瞬間には女子生徒の身体がぴくりと動いたが、卓郎はそれを冷静に見てとり、隙を作らせなかった。

 このままじっとしていても審判から指導がかかる。

 その前に、つまり自分のタイミングで攻撃できれば、と女子生徒は思い、それがなかなか最初の一歩を踏み出させない理由にもなっていた。

 と――。

 停滞している試合を見かねて、審判が動いた。

 女子生徒はその瞬間に地面を蹴っている。

 助走もなく、女子生徒は恐ろしい速度で卓郎に突っ込んだ。

 ぎん、と硬い音が鳴る。

 それと、


「きゃあっ――」


 という悲鳴が上がったのはほとんど同時である。

 何事かと観衆が注目するなか、一見するとふたりの様子に変化は見られない。

 ただ、卓郎と女子生徒の位置関係が変わって、女子生徒は卓郎の奥にいる。

 女子生徒はなにやら胸のあたりを押さえ、赤い顔をし、親の敵とでもいうような顔で卓郎をにらんでいる。

 それだけで、わかるものにはなにが起こったのかわかる。


「あ、あいつ……」


 呆れ気味に呟く和人の横で、菜月は目をぎらぎらさせ、


「どっちみち百叩きでは済みそうにないわね」


 とサディスティックな笑みを浮かべる。

 八白もあえて卓郎の弁護はせず、苦笑いである。

 八白の目から見ても、あれは弁護のしようがない。

 女子生徒の先制攻撃も悪くはなかったのだ。

 爆発的な加速のあと、限界までがまんして武器を出し、それと同時に攻撃――年を考えれば、むしろこれだけの戦闘ができるだけでも充分すぎる。

 そのような戦闘ができる女子生徒に対し、卓郎も並ではない。

 常人の目では捉えきれぬ攻撃を、自分の武器で簡単に弾いてみせる。

 それだけではない。

 武器を弾き、女子生徒と卓郎が交差する一瞬、その成長途中の胸に手を伸ばしている。

 それに驚いた女子生徒は悲鳴を上げ、卓郎は何事もなかったかのような顔をして立っているが、卓郎の性格を知っている人間が状況を把握することに苦労はなかった。


「あんなことが許されていいのか? あれ、先生に怒られるんじゃねえのか」

「戦いを有利に進めるためには相手を動揺させるのがいちばんだけど……」

「どうした、もう終わりか?」


 試合場で、卓郎はくいと手首を曲げて挑発する。


「まさかあの程度で負けを認めたりはしないよなあ? まだお互いに一発も当ててねえぜ」

「くっ――セクハラは女の敵っ!」


 女子生徒がもう一度突っ込む。

 お互いの武器が交差し、閃光がひらめく。

 再びもとの位置に戻った女子生徒は、今度は腰のあたりを押さえている。


「胸の次はお尻って……あいつ、根っからの変態だな」


 しみじみと和人が呟く。

 今度は一部始終見ていた観客も多いらしく、客席からもブーイングが飛ぶ。


「日比谷ー、卑劣な戦いはよせー」

「後輩相手にみっともねえぞー!」

「うるせえ!」


 と卓郎は吠える。


「これは作戦なのだ! 外野は黙って見ていろっ」

「いや、作戦じゃねえだろ……」


 しかし、一撃目に比べて二撃目は速度も精度も甘かったのは事実である。

 焦りか、怒りか、どちらにしても冷静には攻撃できていない。

 実戦ではそのちょっとした鈍さが命取りになる。

 もし卓郎の左手にも武器があったなら、女子生徒は二度、斬られていることになる。

 先輩として後輩に実戦の厳しさを教えてやっている、というのは、あまりに好意的すぎる解釈ではあった。


「恥を知れ、恥を!」

「男の面汚しめっ」

「女の敵!」

「ふははは、有象無象の声など聞こえんな」


 女子生徒が三度地面を蹴る。

 細長い剣を突きの位置に構え、自ら一本の日本刀のようになってまっすぐ卓郎を狙う。

 寸止めではない、必殺の攻撃である。

 とくに、剣先を卓郎の目の高さにぴたりと合わせている。

 面や線としてなら把握しやすい太刀筋だが、点で見る太刀筋は、距離感も掴めず、防御などなおむずかしい。

 見事な攻撃に客席も「おおっ」とざわつく――が。

 一点に合わせて攻撃しているなら、それをずらしてやれば、線や面になりうる。

 卓郎はぐいと背中を反らせる。

 視点の位置を変えれば、刀身の長さも距離も簡単にわかる。

 女子生徒もそれを察し、突きから強引に刀を払う。

 ぶん、と強く風が鳴る。

 卓郎の鼻先を白い一閃が通りすぎ、女子生徒は無防備になる。

 にやり、と卓郎は笑った。

 女子生徒は、ひぃ、と声を上げる。

 しかし振り抜いた腕は戻らない。

 一方で卓郎には、品定めするように視線を動かす余裕すらある。

 胸や腰や尻――どこでも触り放題である。

 実戦での大振りには危険が伴う、ということを女子生徒は肌で学んだが、いかんせん遅すぎた。

 卓郎の魔の手が女子生徒の穢れない身体に迫る――。


「こら日比谷! 余計なことしたらあとで地獄を見るからね!」

「ひっ――」


 それは、ほとんど反射だったのかもしれない。

 数ある客席からの声だが、卓郎の耳にはその聞き慣れた声だけがいやに鮮明に届いていた。

 すんでのところで手を引っ込め、代わりに卓郎は武器としている日本刀の峰で女子生徒の頭をこつんと叩いた。

 女子生徒は涙がにじむ目をきつく閉じ、その場に座り込む。


「そこまで!」


 審判がふたりのあいだに割って入った。

 まずは女子生徒のほうを見て、怪我がないことを確認し、それから卓郎の腕を取る。


「勝者、日比谷卓郎!」


 ――歓声と罵声が半々である。

 やったことは卑劣極まるとはいえ、戦いは見事なものだった。

 相当の速度でまっすぐ飛んでくるものに対処するのは手練れでもむずかしい。

 そこへきて卓郎は冷静さを失わず、うまく対処した。

 歓声に値する試合ではあったが、卓郎は観客席には顔を向けず、このままどこかへ逃げられないものか、とあたりを見回した。

 しかしこの衆人環視で逃げられるはずもなく――とぼとぼと、まるで断頭台へ向かう囚人のように観客席へ戻っていく。

 待ち受けるのは、仲間たちのぎこちない笑顔である。


「よ、よう、勝ってよかったな」


 と和人がぎこちなく言えば、


「す、すごかったね、見てたよ」


 と八白も続ける。

 それらのぎこちなさは、やさしさである。

 これから刑を受ける囚人に対する慈悲である。

 しかし慈悲を受けたからには、突き当たりまで進んでしまわなければならない。

 和人の後ろに、その人物はいる。

 腕を組み、笑っている。

 死に神が笑えばこんな顔なんだろう、と思わせる笑顔である。


「まあ、まだ試合も残ってるから、いまのところは保留だけど――」


 菜月の言葉に、ぱっと卓郎の顔が輝く。


「全部終わったらどうなるか、わかってるわね?」

「……牧村よ。いっそいま、おれを殺してくれないか?」

「早まるな! ま、まだ希望はある……すくなくともこの大会が終わるまでは無事なんだぞ。大会のうちに織笠の機嫌が回復することだって」

「あると思うか? ほんとに、心から、そういう可能性もあると思うのか?」


 和人はすっと顔をそむけた。


「おれは死ぬんだー!」

「ま、まあ、なんとかなるって。大会が終わるまでに織笠の機嫌をとれば、なんとか……お、おれはそう信じてるし」

「うそだ。目が泳いでる。挙動不審だ」

「お、おおっ、次は織笠と青藍の試合だ! おい青藍、次だぞ、起きろ」


 和人は青藍の白い頬をぺしぺしと叩く。

 卓郎は絶望と失望を込めたため息をつく。


「む、むう……もう朝か?」

「ずっと朝だ。試合だよ。寸前まで寝てて大丈夫か?」

「問題はない」


 あくびをしながらゆっくり立ち上がる様子は、とても大丈夫そうには見えない。


「では、いくか」

「手加減はなしだからね」


 菜月は笑いながら青藍に言って、和人の腕をぐいと引っ張る。


「な、なんだ?」

「なんだって、牧村くんもいっしょに降りるんでしょ」

「いや、おれの試合はまだだよ」

「ちがうわよ。あなたなしで、どうやって青藍さんは戦うの」

「あ……そういや、そうだな」


 観客席と試合場は十メートルほど離れている。

 さすがにその距離では、青藍は力を維持できない。

 それどころか、試合場の端に立っても、もう片方の端までは力が及ばない。

 青藍が試合場全体を動きまわるには、和人も試合場に入らなければならなかった。

 観客席を降り、審判にそれを伝えると、審判もさすがに困ったような表情を浮かべた。


「試合場に入ることは問題ないが、それでは二対一になってしまうな」

「わたしはそれでも構いませんけど」


 と菜月は強気な発言をするが、これにはむしろ和人が反発して、


「戦えもしないのに試合場に入るおれがいちばん危ないように思えるんですけど……どうにかなりませんかね」

「青藍さんのとなりにいて、攻撃をかわすことにだけ集中すれば?」

「でもそれだと、おれの動きで青藍の動きがばれるだろ」

「なら、こういうのはどうだ」


 青藍がぴんと指を立てる。


「主は、試合場のまん中に座ればいい。まん中にいれば、試合場全体まで動き回れる。ただ座っているだけの主に攻撃がいくこともない」

「それ、いいわね」


 と菜月もうなずく。


「要は試合場のまん中に石が転がってると思えばいいんでしょ」

「いや、石だからって踏んだりすんなよ?」

「では、そうしよう」


 ということになり、和人は青藍とともに試合場へ入り、そのまん中にどんと腰を下ろした。

 観客席は、何事か、とざわつく。

 無論、視線は和人に集中する。


「うう……これ、いちばん恥ずかしいじゃないか」


 しかし青藍のためには仕方がない。

 試合場の両端から青藍と菜月が入り、お互い向かい合って一礼する。


「では、試合開始!」


  *


 前の卓郎の試合とは正反対の展開である。

 お互いが先の取り合いをして、試合開始と同時に攻撃をはじめている。

 菜月の武器はひどく華奢な、フェンシングにでも使うような剣である。

 一方で青藍は武器を持っていない。

 素手で菜月に向かって行く。

 ふたつの影が空中でぶつかる。

 音はない。

 青藍は空中で身体をひねり、菜月の剣先を躱している。

 菜月も剣の柄で青藍の腕を防ぎ、捕らえられないように逃げる。

 ふたりは同時に着地し、また跳んだ。

 今度は頭上に高い。

 影の交差は一瞬で、また音もなく着地する。

 着地した青藍の服の裾が、すこし斬れている。


「武器は使わないの?」


 菜月にはまだまだ余裕がある。

 青藍も、服は斬られているが、その奥の腕には傷はついていない。


「武器はなくとも、手を抜いているわけではない」

「ええ、わかってるわ。とくに二撃目は、結構本気で当てにいったんだけど」


 服の裾だけで済んだのは、ひとえに青藍の身体が柔軟だったせいである。

 身動きのとれぬ空中において、背筋をぐっと逸らせるのはむずかしい。

 その上、青藍は剣先を躱しながら、菜月の腕を蹴りつけている。

 深く入ったわけではないが、思いがけぬ反撃に、菜月は愉快な気分になっている。

 ――青藍が武器を持たないのは、手加減でも作戦でもなく、単純にそれができないせいだ。

 精霊使いの持つ武器は、すべて精霊石が変形してできたものである。

 青藍の人間化は、精霊石の武器化に近い現象であるがゆえ、人間化した青藍は自己の一部をさらに武器へ変形させることまではできない。

 たとえば和人の武器と成って戦うとき、青藍は人間の姿ではなく武器の姿になるが、それを両立させることはできないのだ。


「じゃあ、続き、やりましょうか」

「うむ」


 青藍がうなずく。

 そのときには菜月は消えている。

 頭上である。

 青藍もそれを見て、一瞬遅れて飛び上がる。

 菜月の加速が頂点で止まり、重力によって落ちてくる一瞬のあいだに青藍が迫る。

 菜月は剣を真下に構えた。

 青藍は両手を突き出す。


「はあっ――」


 菜月の剣先はまっすぐ青藍に向かうが、青藍は身体を回転させ、直撃を避ける。

 それは菜月にも予想できたことだった。

 さらに迫り来る青藍に向かい、剣ではなく、空いている片手で掴みかかる。

 青藍は虚を突かれた。

 ジャージの襟元を掴まれ、ふたつの影はいっしょになって落下する。

 青藍はもがく。

 菜月は押さえる。

 身体ごとしがみつき、青藍が離脱しないように捕まえる。

 地面ぎりぎりになって菜月だけ離脱し、青藍を叩きつける作戦である。

 下は芝でも、頭上七メートルから叩きつけられれば無事では済まない。

 作戦自体は悪くないが――。


「え、ええっ!」


 ちょうどふたりの落下点には、芝ではなく、座り込んだ和人が待っている。

 菜月もぎりぎりになってそれに気づいた。

 しまった、と唇を噛み、予定よりも早く離脱しようと青藍を離す。

 しかし今度は青藍が菜月の身体を捕まえる。


「え、ちょ、ちょっと!」

「その作戦には、こういう失敗もあり得るわけだ」


 青藍はひどく冷静に言う。

 こういう失敗、つまり、相手によって捕らわれ、もろとも落下という失敗である。

 ふたりは抱き合うようにしながら落下する。

 落下点の和人も逃げ遅れ、その場で頭を守って身を伏せる。

 ずどん、と砲撃のような轟音があたりを震わせる。

 桁外れの衝撃である。

 地震のように地面が揺れ、ほかの選手もびくりと動きを止める。

 客席からは悲鳴が上がり、これはまずいと心配も駆け寄った。


「だ、大丈夫か、きみたち!」


 いくら精霊使いの身体能力が優れ、また傷の回復力が優れているとはいえ、あの高さから落ちたのでは無事では済むまい――。

 様子を見ていた救護班さえ、事態を重く見て動き出す――が。


「いたたた……上からひとが降ってくるってどういうことだよ、まったく」


 試合場の中央で、むくりと起き上がる影がある。

 観客席は死人が動き出したような衝撃を受け、なんともいえぬ不気味な静寂に包まれる。


「われながら、これで無傷っていうおれもすごいな」


 起き上がったのは和人である。

 首のあたりをさすっているが、ひどい怪我はないようで、出血もない。

 では落下してきたふたりは――なぜか和人の下半身にのし掛かり、妙な体勢で伸びている。

 青藍は仰向けだが、その頭がちょうど和人の腰のあたりにあり、危うい位置である。

 一方菜月は俯せで、和人の足に乗っかりながら、手はなぜかしら青藍の胸を鷲掴みにしている。

 無意識中でも、その胸に思うところがあったのだろうか?

 起き上がった和人もその状況を見て驚き、赤い顔で、組んずほぐれつの甘ったるい空間からあたふたと抜け出す。

 ふたりに怪我はない。

 落下の瞬間、うまく足から降りたためである。

 ただ、ふたり絡み合っていたから、そのあとバランスを崩して倒れ込んだという状況だった。

 ふたりはほとんど同時に起き上がる。

 互いに後方へ跳び、距離をとった。


「牧村くん、あなたがまん中から動いちゃだめでしょう」

「だ、だって……大丈夫か、織笠。すげえ勢いで落ちたぞ」

「怪我はしてないわ。お互い、怪我をしたら終わりだってことはわかってるもの」


 青藍にしても、もろともとはいえ、本当に菜月を道連れに自滅する気ではないのは明らかだった。

 それなら、着地のために必ずぎりぎりで足を使う。

 そうわかっていれば、その瞬間を使って着地するのはむずかしくない。

 もっとも、精霊使いとして優秀な菜月には、という注釈が必要だが。

 和人はまた巻き添えを食らわないか、びくびくしながら試合場の中央に戻る。

 菜月は剣を突きの位置に構える。

 やはり、その華奢な剣は斬るよりも貫く武器として使うほうが正しい。

 青藍も片足を退き、半身だけを菜月に向ける。

 先に動いたのは菜月である。

 にらみ合いの時間がもったいないというように、ほとんど不用意にも見える突撃を敢行する。

 一度目の踏み込みで飛び出し、二度目の踏み込みでさらに加速する。

 放たれた矢のような突進である。

 青藍は、躱さず、ぐっと足を踏ん張った。

 加速した菜月は、さらに腕力を使って剣を突き出す――もはや精霊使いの目ですら追い切れぬ速度だが、青藍は瞬きもせず、限界までそれを引きつけた。

 すっと流れるように青藍の身が動く。

 剣先が、操られているように青藍の頬を掠めてゆく。

 それで諦める菜月ではない。

 躱されると感じた瞬間、右足を蹴り出している。

 空気抵抗の大きい足が動くと、ぶうん、と突風のような音が鳴る。

 青藍は右腕で菜月の右足を防ぎ、左手で剣の柄を掴んだ。

 そのまま、圧倒的な剛力をもって菜月を投げ飛ばす。

 まるでボールのように菜月の身体は芝の上を滑り、そのままほとんど速度を落とさず試合場から飛び出すように思えた。

 実際、審判はそれを見越して、客席に衝突しないように菜月を受け止めに走ったほどである。

 しかし地面を転がりながら菜月は体勢を立て直した。

 剣先をぐっと地面に突き刺し、なんとか速度を殺す。

 硬い刀身がほとんど直角まで撓り、菜月が手を放すとびいいんと耳障りな音を立てた。


「危ない危ない」


 菜月は立ち上がり、剣を引き抜く。

 ジャージは芝に擦れ、ほつれや穴が目立つ。


「武器は離さなかったか」


 青藍が呟いた。

 菜月は、にぃ、と笑い、


「当たり前でしょう。精霊使いが精霊石をとられちゃどうしようもないわ」


 青藍が掴んだのは、菜月の腕ではなく、剣の柄である。

 もしその段階で菜月が剣から手を放せば、あのように投げられることはなかった。

 しかし手を放していれば精霊石を取り上げられ、戦えなくなる。

 とっさの判断で危険よりも武器を選んだ菜月は、本能的に戦いを望んでいるように見える。


「なるほど。戦いが好きなのか」

「もちろん。やっぱり、たくさん語り合うより一度戦ったほうがわかり合えるわよね」

「むう、そうかもしれんが」

「あなたのことも結構わかってきたわよ。とにかく強くて、いつもやさしい。牧村くんが惚れるのも無理はないわ」

「え、いやいや、惚れてないけど!」


 試合場にいながら、完全に蚊帳の外の和人が叫ぶ。


「時間はまだすこしあるわ。最後の勝負、しましょうか」


 菜月は剣を構える。

 やはり突きである。

 青藍もうなずいて、それに応える。

 優勝候補の菜月と、転校したばかりで知名度のないダークホースである青藍の戦いに、球技場全体が注目している。

 今度もやはり菜月が仕掛けた。

 どん、と足音が球技場に響くほど強く地面を蹴る。

 小細工なしの正面突破である。

 青藍も受けるだけではなく、自ら地面を蹴って加速した。

 菜月の剣は、青藍の頭を正確に狙っている。

 自身の加速と、正面からやってくる青藍の速度もあって、もはや寸前で止められるような状態ではない。

 当たれば、頭蓋骨など軽く粉砕して貫くだろう。

 それだけの攻撃を菜月が繰り出した時点で、結果は見えていたのかもしれない。

 ふたりは試合場のまん中で衝突し――なんの物音もなく、終結した。

 菜月の剣先は、青藍の髪を数本切断した。

 代わりに青藍の右手は菜月の首筋に当てられている。

 打撃があったわけではない。

 青藍にそのつもりがあったなら、その手刀は菜月の意識を落としていたにちがいない、という段階である。

 しかし菜月の身体はぐらりと揺らぎ、芝の地面に崩れ落ちた。


「織笠!」


 和人が駆け寄る。

 菜月は自力で仰向けになり、青藍と心配そうに自分を見下ろしている和人を見て笑った。

 憑き物が落ちたような、清々しい笑みである。


「怪我はしてないのか。どこか痛むところは?」

「ぜんぜん。青藍さんは結局寸止めだったし。倒れたのは、一気に力を使いすぎて疲れただけ」

「そ、そうか……びっくりしたぞ、まったく」


 審判も駆け寄り、菜月に怪我がないことを確認してから、青藍に勝ち名乗りを上げさせた。

 優勝の大本命が一回戦で敗退する、という事態に会場は一瞬静まり返り、それから地を揺らすような歓声と拍手に変わった。

 和人は、いままで経験したことのないその音圧に心が震えたようにあたりを見回す。

 それを見て菜月はくすりと笑い、


「別に牧村くんに向けられたわけじゃないのに」

「わ、わかってるよっ。ただ……びっくりしただけだ」

「優勝したら、もっとすごい拍手をもらえるかもね」

「優勝か――」


 いままでぼんやりとしか考えていなかったその二文字が、和人のなかでにわかに現実味を帯びる。


「立てるか?」


 拍手と称賛を一身に浴びている青藍は、それを気にする様子はとくになく、菜月に手を伸ばした。

 菜月もその手をとり、起き上がる。

 しかし足下がおぼつかない。


「肩に掴まれ」


 と青藍がすこし腰を落とし、菜月の身長に合わせた。

 菜月はその肩に掴まり、ゆっくり試合場をあとにする。

 観客は、戦いの果てに生まれた友情を目の当たりにし、言いようのない感動に包まれる。

 まだ一回戦だというのに、まるで決勝戦のような盛り上がりである。

 このまま終われば、きっと美しい思い出として観客の心に刻まれただろう。

 ただ、そうは終わらないのが彼女たちの運命である。

 青藍は菜月の肩を支え、菜月はそれに体重を預けるようにして試合場を出る――その体勢が、いけなかった。

 ちょうど、うつむいた菜月の顔の横に、青藍の胸がある。

 あまつさえ、足下がおぼつかずよろけると、その胸がやさしく菜月の頬を支えてくれる。

 激戦のあとで、多少菜月も気が高ぶっていたのかもしれない。

 菜月は突然青藍の腕を振り解くと、びしりと青藍の胸を指さし、

「さっきから鬱陶しいのよその乳が! 試合中だからってがまんしてたけど、ジャージの奥で揺れてるのが気になってしょうがないわっ。なに、これ。でかすぎるんじゃない? わたしへのあてつけ?」

「お、織笠、落ち着けよ――」

「あんたは黙ってなさい! この、この乳がいけないのよ、この乳がっ」


 菜月は青藍の胸を鷲掴みし、握りつぶしてやろうというようにぐいぐい力を込める。

 慌てて和人が仲裁に入るが、それで止まる菜月ではない。


「なにこのやわらかさ! なんか仕込んでんじゃないの。この揺れ方もいやらしい!」


 ――結局、すばらしい試合を演じたふたりではあったが、観客の印象としては、


「乳がどうのこうのって言ってたふたり組だ」


 というところに落ち着くのだった。


  *


「お、お帰り」


 観客席の八白は、どことなく引いた目つきで三人を出迎えた。

 衆人環視の前で乳がどうのとひとしきり騒いだ菜月と青藍だけではなく、和人にも平等に同じ目つきなのは、彼が菜月を慰めようとして大声で、


「おれはちいさいのも好きだ!」


 と高らかに宣言したことに起因する。

 全校生徒が集まっている前でこの三人はなにをしているんだろう、とまじめな八白は若干距離をとる。

 いっしょにいると、自分まで同じように見られかねないから。

 ただ、卓郎はそのあたりも気にせず、にやりと笑って菜月に近づいた。

「おーおー織笠さんよ、ひとに負けるなって言っといて自分は一回戦敗退かい?」

「まあね」


 ととくに相手にもせず、菜月。


「全力で戦った結果だし、悔しいけど、仕方ないわ。途中から試合だっていうのもすっかり忘れて、本気だったしね。まあ、向こうはそうでもないんでしょうけど」


 青藍は客席に戻り、さっそく座席に座って、うつらうつらはじめている。

 のんきといえばのんきだが、それだけ力を使ったということでもある。


「青藍さんは、やっぱり本気じゃなかったのか」


 卓郎はいくらか真剣な表情で言った。

 菜月は首を振って、


「ぜんぜん、本気とはほど遠いわ。最後まで寸止めで、わたしには一発も入れてないし。それに武器だって使ってない」

「そりゃあ、青藍さん自身が精霊石なんだから、さらに武器ってのは無理なんじゃねえのか」

「だから、よ。青藍さんが本気を出せるとしたら、たぶん自由に武器が使えるときよ。青藍さんは牧村くんの精霊石なんだから、もしかしたら……」

「牧村のやつが、青藍さんより強いかもしれねえってことか」


 ふたりは和人を見る。

 それはちょうど、和人が座席に弁慶の泣き所をしたたかにぶつけ、痛がっているところだった。


「……とてもそうは見えねえけどな」

「ま、勘よ、勘。あの状態の青藍さんでも充分強いから、優勝は青藍さんかもね」

「いや! 優勝はおれか、牧村と決まっている」

「牧村くんはともかく、あんたはやけにやる気じゃない」

「そりゃ褒美があるからな。おれと牧村は協力体制をとってる。どっちが勝っても、叶う願いはいっしょだ」

「はあ……スケベ心がやる気を支えてるわけね。じゃあその心、へし折ってあげましょうか?」

「や、やめろよっ」


 このふたりはいつでも、どこでも変わらずやかましい。

 そのそばで、やっと痛みから立ち直った和人は顔を上げ、あたりを見回している。


「やっぱり、布島はまだこないか」

「うん、注意して見てはいたんだけど」


 八白も心配そうな表情で向かいの客席を見ている。

 次の試合は、和人と芽衣子の一戦である。

 もう時間がない。

 芽衣子がいないとなれば和人は不戦勝で二回戦へ進めるが、それでは芽衣子がかわいそうだと和人は思う。


「なにかあったのかな、布島さん」

「トイレにしちゃ長すぎるしな。学園のなかで事故に巻き込まれるってこともないとは思うけど……すっぽかすようなやつじゃないしなあ」

「あたし、外見てこよっか」

「ああ、頼む。おれは先生になんとか先延ばしにできないか頼んでみるから」


 八白はこくんとうなずき、客席を降りる――と、ちょうど同じ階段を、芽衣子がひとりで上ってきた。


「あ、布島さん! どうしたの、もうちょっとで出番だよ。どこか、体調が悪いの?」

「いえ、ちょっと用事が」


 芽衣子は笑顔で否定するが、顔色は優れない。

 八白は芽衣子の言葉の裏にうそを感じる。

 芽衣子はなにか隠している。

 ただ、隠しているということは、すくなくとも八白には知られたくないと思っているから、隠しているのだ。

 その奥まで踏み込むことは、八白にはできない。


「もうみなさんの試合は終わりましたよね?」


 芽衣子も八白がうそに気づいたことはわかったらしいが、あえて明るい声で言った。


「結果はどうでした?」

「えっと、あたしと日比谷くんは勝ったけど、菜月ちゃんと青藍さんは一回戦で当たっちゃったから」

「どちらが勝ちましたか」

「青藍さん。ふたりとも、怪我はないよ」

「そうですか――やっぱり、彼女が勝ったんですね。織笠さんも強そうでしたけど」

「うん、がんばってた」


 八白と芽衣子は揃って観客席に戻る。

 和人は、客席から身を乗り出し、審判になにか伝えているところだった。

 芽衣子が間に合ったことがわかると、眠たそうな青藍を連れてすぐに立ち上がる。


「布島、いますぐ試合だけど、大丈夫か?」

「はいっ、大丈夫です」

「よし、じゃあ、降りよう。あ、その前にちょっと」


 客席を降りた和人は、そのまま試合場には向かわず、人気のない通路の隅に移動する。

 なにをするのか、と芽衣子は首をかしげる。


「青藍、精霊石に戻れ」


 和人がちいさな声で命じた。

 すると、青藍の身体が一瞬のうちに消える。

 着ていたジャージが、ほんの刹那人間の形を保ち、それからふわりと崩れ落ちた。

 芽衣子は驚きに目を見張る。

 青藍が精霊石だとは聞かされていても、その変化を目の当たりにするのはこれがはじめてだった。

 まるで、手品だ。

 消えてしまうと、着ていた服以外に青藍が存在していた痕跡がなく、幻だったようにさえ思えてくる。

 和人はいそいそと青藍の服を回収し、その下からちいさな精霊石を取り出した。


「それが、青藍さんですか」


 肩越しに芽衣子が覗き込む。


「不思議だろ?」


 和人はすこし笑った。


「おれは青藍しか知らないから、最初はこういうもんだと思ってたんだけど、かなり特殊な部類らしいな」

「特殊もなにも、そんなの、たぶん世界にひとつだけですよ。どうしてそんな特殊な精霊石が、こんな場所にあったんでしょう」

「お、詳しいな。青藍がなんであの博物館にあったのかはおれにもわからないけど……運命ってとこじゃないか」

「運命、ですか」

「素敵な偶然は運命なんだろ?」

「和人さん……あの、下着は早くしまったほうがいいと思いますよ? だれか通りかかったら、通路で下着を鷲掴みしてる和人さんって、明らかに不審ですもん」

「こ、これはしょうがないだろ! まさかここに置いていくわけにもいかないし、着せないわけにもいかないし……」


 ぶつぶつと和人は言い訳しながら服をすべて拾い、一度客席に戻って八白にそれを預けた。

 改めて、試合場へ向かう。

 すでに試合の準備は整っている。

 ふたりが入った試合場のとなりは先ほどまで菜月と青藍が戦っていた試合場で、いまは菜月が開けた穴をどうやって塞ぐか、教師が集まって協議していた。


「お互い、精霊石は持っているな」


 審判の確認に、ふたりはうなずく。


「では、試合はじめ!」


  *


 和人は、精霊使いになって、まだほんの数ヶ月である。

 自由自在には、まだ操れない。

 本来であれば審判が試合開始を告げた直後に武器を出すなり精霊石を活性化させて回避行動をとったりするのだが、瞬時の切り替えは、和人にはまだむずかしい。

 むう、と和人は意識を集中させる。

 そうしなければうまく操れないせいだが、そのあいだに芽衣子は大振りの剣を取り出し、和人に飛びかかっている。


「ちょ、ちょっと待っ――」

「もうはじまってますよ、和人さん」


 芽衣子の持つ剣は、長さは芽衣子の身長ほどもあり、幅も二十センチほどある。

 それを軽々と背中まで振り上げ、ぶん、と風を切りながら和人に向かって振り下ろした。

 ためらいのない、脳天への一撃である。

 和人の対応は明らかに遅い。

 その場に座り込み、ただ落ちてくる剣を見ている――が、あわやというところで、ぎいんと重たい音が鳴った。

 和人の手に、美しい剣が現れている。

 装飾はほとんどない。

 しかし磨き上げられた長く細い刀身は、女性的な美しさを持っている。

 和人はそれで芽衣子の剣を払い、後方へ引きながら立ち上がった。


「これが、武器か――自分の意思で出せたのははじめてだな」


 幻でないことを確かめるように、和人は何度か剣を振る。

 長いが、重心はしっかり手元にあり、軽い。

 太陽の光を反射して炯々と輝く様子は、ひとつの武器でありながら芸術でもある。

 和人はぐっと剣の柄を握った。


「よし、お待たせ。はじめようか」

「はい」


 芽衣子は笑顔でうなずき、軽く跳んだ。

 ふわりと宙を舞い、頭上から剣を振る。


「おっと――」


 慌てて和人は剣で防いで、ぶんと反撃する。

 しかしどうも、それが拙い。

 ただ子どもが棒を振り回しているようにしか見えない。

 芽衣子も躱すまでもなく、むしろからかうように和人の剣の上に立ってみせ、そこからさらに飛ぶ。

 和人に対して、芽衣子の身のこなしはきわめて軽い。

 まるで羽根のように舞い、飛び上がり、一連の流れで無理なく攻撃をする。


「和人さん、いきますよ」

「む」


 空中で芽衣子が声をかける。

 和人は、形だけそれらしく剣を構える。

 重力に従って芽衣子が落ちてきた。

 芽衣子は身体を丸めるようにして、縦に回転している。

 ただ、長い刀だけがそこからぬっと突き出していて、触れればただでは済まない。


「おっ――この」


 和人は一歩後ずさり、間合いから外れる。

 しかし、地面に着地した芽衣子は、間髪入れず和人の懐に飛び込んだ。

 間一髪、和人は横に弾く。

 腰が引けた姿勢で後方へ逃げ、なんとか事なきを得た。


「これは、なんていうか……」


 観客席で見守る八白が、気を遣いながら呟いた。

 が、となりの菜月には気遣いなどなく、


「世紀の凡戦ね」


 とばっさり切って捨てる。


「布島さんは悪くないけど、牧村くんが下手すぎて話にならないわ。あんなに弱かったのね、牧村くん」

「おい牧村ー! おれたちの夢の実現がかかってるんだぞ、気合い入れろ!」


 観客席から飛ぶ卓郎の激励に、和人はぽつりと、


「気合いは入ってるんだけどな」


 と呟いた。

 和人自身、自分がどうしようもないほど未熟なのはわかっている。

 優勝候補の菜月や青藍に劣るのは仕方ないとしても、卓郎や八白の相手さえ務まらないほど、動きが悪い。

 呟いたとおり、気合いは入っているのだ。

 やるぞ、という気にはなっている。

 しかし動きが鈍い。

 芽衣子のように、超人的な動きをすることができない。

 かといって精霊石の活性化が失敗しているわけでもない。

 もし失敗しているなら、細長い剣などとても片手では持てないだろう。

 なんの重量も感じずにそれを操れるということは、精霊石はきちんと活性化しているということだ。

 なにが足りないのか、和人にもわからない。

 と、


「和人さん」


 芽衣子が唇を尖らせている。


「いま、わたしと試合をしてるんですからね。よそ見なんてだめですよ」

「あ、ああ、悪い。そうだな。いくら試合でも、よそ見すると危ないもんな」

「そういう意味じゃないんですけど……」


 和人は剣の柄を握り直す。

 柄には白い布が巻きつけられている。

 手のひらに乾燥したその感触があると、不思議と心が安心する。

 ひとつ、自分からも攻めてみるか、という気になった。

 和人は駆け出す。

 凡庸な出だしである。

 満足に加速することもなく、剣を横に薙ぐ。

 芽衣子は半歩下がってそれを躱し、伸びきった腕を掴んで自分のほうにぐいと引っ張った。


「ああっ――」


 まるで大人と子どもである。

 簡単に倒された和人は、芝を転がって芽衣子と距離をとる。


「やっぱりどうも、身体が動かないんだよなあ。どうやったらいいんだ?」


 ぶつぶつと独りごち、立ち上がる。

 芽衣子は律儀にそれを待ってから、


「今度はわたしからいきますね。ちゃんと防いでくださいよ」


 と宣言し、地面を蹴る。

 和人とは比較にならないほど鋭い突進である。


「お、わ、わっ」


 慌てて剣を構えた和人は、ほとんど無意識に左の胴を守っている。

 そこに芽衣子の無骨な剣が迫る。

 ぎん、と鳴って、芽衣子はすぐ真下からのすくい上げに切り替えている。

 しかしその動きを読んでいたように、和人の剣はそれを受ける位置にあった。

 再び硬い音と閃光がひらめく。

 芽衣子はぶんと真横に薙いだ。


「おわっ」


 和人はつんのめって体勢を崩し、偶然にそれを躱す。

 芽衣子は不思議そうな顔をして、追い打ちをかける。

 和人を真上から突き刺す。

 ひゅんと和人の剣が鳴り、それを弾いた。

 無理な体勢で腕を振るった和人も、やはり不思議そうな顔をしている。

 どうやって動いているのか自分でもわからないのだ。

 身体は動く。

 いままでよりはるかに軽い。

 しかしそこに和人の意思はない。

 動かなければ、と思う前に、身体が動いているのだ。

 剣を持った右腕は、芽衣子の攻撃を弾くとすぐ剣先を芽衣子に向けた。

 芽衣子はとっさに後ろへ飛ぶ。

 先ほどまで芽衣子の顔があった位置を、和人の剣が恐ろしい鋭さでもって突き刺している。

 芽衣子の前髪が風圧で揺れる。

 和人には、その瞳まで不安げに揺れているように見えた。


「――なにか、あったのか?」


 何時間も語り合うより、たった一度武器を打ち合わせるほうが理解は易い――それは必ずしも戦闘狂に限らないことらしい。

 芽衣子はなにも言わず、剣を振りかぶる。

 奇を衒わないまっすぐな剣筋である。

 和人も正面から受け止め、つばぜり合いになった。

 そこで芽衣子はぐっと身体を寄せ、二本の剣越しに和人を見つめる。


「なにかあったように見えます?」


 冗談めかす素振りで、和人は確信する。


「なにがあったんだ。こんな状況だけど、話なら聞くぞ」

「むしろこんな状況のほうがいいんです。ほかのだれにも聞かれたくないことですから。和人さん――大会が終わったら、なによりも先にここから逃げてください」

「逃げる? なんの話だよ」


 和人が剣を弾くと、すかさず芽衣子は再び距離を詰める。

 互いの距離が三十センチも空かない接近戦である。

 何度も剣が交差し、金属音が響いてはどちらかが呼吸を止めて力を込める。

 芽衣子の細い腕は、和人と同等かそれ以上の腕力を見せていた。

 そして剣を扱う腕は芽衣子のほうが優れているが、あえて芽衣子は和人が受けられるような攻撃しかしない。

 代わりに身体をぴたりと寄せ、和人に囁いた。


「わたしのこと、信じてくれますか? まだ出会って何日かしか経っていなくて、お互い名前くらいしか知らないのに、わたしの言うことを信じてくれますか?」

「そりゃあ、信じるけど」


 和人はためらいがちに答えた。

 芽衣子は安心したように、やわらかな笑みを浮かべる。


「わたしね、実はただの転校生じゃないんです。和人さんとの出会いも、実は運命の出会いなんかじゃなかったんです――まあ、それでもわたしは運命だって信じてますけど」

「どういうことだよ。ただの転校生じゃない?」


 ふたりの声は、斬撃の音に消されて周囲には聞こえない。


「敵――っていっても、和人さんにはわからないかもしれません。何度か、わたしの仲間が和人さんと接触していると思いますけど」

「なんのことだか――」


 ふと、和人の脳裏にひらめくものがある。

 二ヶ月前の、恐怖と後悔の記憶である。

 敵と聞いて、和人が思いつくのはそのことしかなかった。


「わたしはスパイだったんです」


 芽衣子は大きく和人の剣を叩き、自分から距離をとった。

 和人は両手をだらりと下げる。

 呆然と芽衣子を見ることしかできないのである。


「スパイって、なんだよ。冗談言ってるとおれが勝っちまうぞ」

「冗談だったらいいんですけど」


 悲しげに、芽衣子は言った。

 瞳はやけにきらきらと輝いている。

 それがむしろ切なく、冗談ではないのだと和人は理解する。

 芽衣子は一歩前に出た。

 和人も剣を構える。

 ふたりは戦意のない打ち合いを再開する。


「あいつらは、この学園の敵だったのか」


 剣を振り下ろして和人が問えば、


「学園というより、和人さんの敵です」


 防いで芽衣子が答える。


「おれの敵? 知らない連中だったぞ」

「正確には、和人さんの持っている精霊石――青藍さんに関係しているんです。以前博物館で和人さんが会ったのは、あそこに保管してあった精霊石を奪うためでした。それを和人さんが拾ってしまったから、わたしたちの狙いは和人さんから精霊石を奪うことに変わったんです」

「青藍を……なんのために?」

「その精霊石は世界でひとつの貴重なものです。わたしたちにはそれが必要なんです」

「じゃあ、作戦の一部としておまえはここにきたのか。学園に入って、おれたちと知り合って――油断させて、奪うつもりだったのか」


 和人は歯を噛む。

 悔しさと喪失感が同時に沸き上がり、剣を握る手にも力が入る。

 しかし、それよりも苦しげな顔をしているのは芽衣子だった。

 一撃ごとにその攻防から力が抜けているのがわかる。

 真実の告白は、芽衣子にとって身を切られるよりもつらいことらしかった。


「わたしの任務は……」


 芽衣子は訴えかけるように和人を見た。


「和人さんの、言うとおりです。みんなと仲良くなったのも、全部作戦で――」

「うそをつくなっ」


 和人は力任せに剣を振り回す。

 芽衣子は慌てて防いだが、瞳が動揺し、雷に打たれたように身体をびくりと震わせる。


「短い付き合いだけど、それくらいはわかるぞ」


 和人は肩で荒々しく息をする。


「いまのはうそだろ。それに、いままで笑ってたのは、うそじゃない。こんなにうそをつくのが下手なやつが、おれたちを騙せると思ってるのか」

「和人さん……」


 芽衣子はぐっと言葉に詰まった。

 しかしそれを隠すように、白々しく笑う。


「やっぱり、和人さんには気づかれちゃいますね。でも、任務でこの学園にきたのは本当です。役割は直接和人さんから精霊石を奪うんじゃなくて、この学園の警備に穴を見つけて、そこから仲間を招き入れるためです」

「仲間を招き入れる?」

「大会が終わったら、外からたくさんの仲間が――」

「仲間じゃねえ」

「え?」

「おまえの仲間は、おれたちだろ。外の連中は仲間じゃねえ」


 和人は片手で剣を持ち、すっと横に薙いだ。

 鋭い一閃ではない。

 ぞんざいに羽虫を払うような仕草ですらある。

 しかし芽衣子にはそれを防ぐのがやっとだった。


「たぶん、そっちにもいろいろ事情があるんだろうけどさ」


 和人は照れたように頭を掻く。


「おれたちはおまえのことが好きなんだ。なんとかいっしょにいられねえかな?」

「でも……でもっ。わたしは、その、みんなにうそをついて」

「気にしねえだろ、だれも」

「だけど……」


 芽衣子はもじもじとためらう。

 本心ではそうしたいが、いままでの仲間たちを裏切ることもできないという葛藤が透けて見える。

 いってみれば、いままで持っていたものをすべて捨てて、こちらへこいと言っているようなものだ。

 そう簡単に決心できないのは仕方ない――しかし時間も無限ではない。

 和人は剣を構えた。


「じゃあ、こうしよう。この勝負で、全部決めようぜ」

「この勝負って」

「おれが勝ったら、勝者の権限でいままでどおりここで布島芽衣子として生活させる。反論は認めねえ。その代わり、おまえが勝ったらおれを好きにするといい。精霊石がほしいなら、くれてやる。それを持ってもとの仲間たちのところに帰ればいい。悪くない条件だろ?」

「でも――そんなの、おかしいです。だって、その、和人さんがわたしに勝つなんて」


 これまでの試合を見ていれば、その可能性は万にひとつもないように思える。

 和人にはしかし、負けるつもりは毛頭ない。

 剣を両手で握って、にやりと笑う。


「決めろよ、布島。やるか、やらねえか。勝つ自信があるなら、やればいいだろ。ま、おれも負けねえけどな」


 芽衣子としても、いつまでもこのままではいられない。

 すでに外部への連絡は済ませてある。

 大会が終われば、ここへ大勢の精霊使いが乗り込んでくる――そして芽衣子も、襲撃が終わると同時に仲間たちと引き上げることになっているのだ。

 このまま、裏切ったまま引き上げるよりは、ここで和人と戦い、引き上げることに正当な理由を持たせるほうが気持ちは楽になる。

 勝ったのだから、だれに文句を言われる筋合いもなく、和人から精霊石を奪うことができる。

 もしかしたら、和人はそのつもりで勝負を持ちかけたのかもしれないと芽衣子は考えた。

 普段は、あまり饒舌ではない和人だが、そのやさしさはよく知っている。

 あの日、スーパーの前でまったく偶然に和人と会ったときから、そのことはわかっていたのだ。

 和人はやさしい。

 だからきっと、和人は負けるだろう。


「……わかりました。和人さんは、それでいいんですね」

「おう、もちろん。勝ったほうが、負けたほうを自由にできる。この条件でいいな」

「はい」


 ふたりは再び相対する。

 試合時間は、もうあまり残っていない。

 芽衣子は剣を握り、和人を見つめた。

 すっと周囲のものが消えていく感覚がある。

 和人だけに集中し、その些細な動きも見逃さない。

 戦うときの、独特の興奮にも似た静寂である。

 その感覚になったとき、芽衣子は一度も負けたことがない。

 和人の右足が地面を蹴った。

 実際に動く一瞬前に芽衣子はそれを見てとり、行動をはじめている。


「はっ――」


 早い。

 和人の身のこなしはそれまでと比較にならないほど早く、鋭い。

 距離が一瞬で詰まり、和人の剣が芽衣子の頭上を掠めた。

 すかさず芽衣子は和人の懐に入り、剣先を喉もとに向ける。


「ふうっ」


 息をつき、和人は首を傾けた。

 芽衣子の剣先が顎の数センチ横をすぎる。

 和人の膝が上がっている。

 それを剣の柄で受け、芽衣子は後ろに飛んだ。

 間髪入れず和人が追う。

 すばやい袈裟斬りである。

 芽衣子は太刀筋の強さに驚き、かろうじていなした。

 和人の剣が芝の地面をえぐり、土が舞う。


「へへっ」


 和人は笑っていた。


「油断しただろ、布島」

「さっきまでのは、演技だったんですか」

「いや、さっきまでも本気だったけど、いまはもっと本気だ。負けられねえんだからな」

「わたしだって――!」


 今度は芽衣子から距離を詰める。

 巨大な剣を生かした大振りの攻撃から、脇を締めた小手先の攻撃に切り替える。


「はあっ」


 芽衣子の攻撃の基本は突きである。

 とくに胴を狙った突きは、数多ある攻撃でももっとも防御がむずかしい。

 太い剣を使っての突きでも速度は落ちず、剣先は常に和人の身体のどこかを狙って、銃弾のように飛び出す。

 和人はそれを正面からは受けず、横から殴りつけて方向を逸らす。

 和人の視線は剣先ではなく、常に芽衣子へ向けられている。

 一対一で戦ううえで絶対に必要なことだが、迫り来る武器によりその持ち主に集中するのは簡単ではない。

 先ほどまでの和人とはなにかがちがう。

 太刀筋に迷いがなく、どんな攻撃にも動じない。

 距離の見極めもできているようで、和人の思いきった攻撃は芽衣子も防げるが、本当にひやりとするような攻撃は寸止めを前提にした距離感で行われている。

 この和人を打ち崩すのは並大抵ではない。


「本当に、強い――」


 芽衣子は荒い呼吸のなかで呟いた。

 存外に、悔しげではない。

 むしろ笑っているように見える。

 この学園にくるまで、数多の戦いを経験してきた芽衣子だが、敵と至近距離で打ち合うことがこれほど楽しいと感じるのははじめてだった。

 この戦いを終わらせたくないとすら思う。

 これは、最後なのだ。

 和人たちの友人としていられる最後の時間なのだ。

 試合が終われば、裏切り者になる。

 本当の意味で皆を裏切ることになる。

 その最後の瞬間を和人と過ごすことができて、芽衣子は満足していた。


「やあっ!」


 芽衣子が高く吠える。

 真上へ飛び上がり、目くらましに太陽を背負う。

 和人は思わず目を細めた。

 その瞬間に芽衣子は急降下し、全身をバネのように使って剣を振り下ろしている。

 ぎいん――とひときわ大きな音が鳴った。

 和人は両手で防いでいるが、腕が震え、じりじりと押し込まれている。

 このまま押しきれば芽衣子の勝利である。

 全体重をかけて、芽衣子は巨大な剣に力を込める。

 汗が流れて拮抗する剣にぽつりと落ちた。


「くう――」


 和人が顔をしかめる。

 男女の差は、精霊石でなくなっている。

 そのとき、芽衣子の意識が、ふと覚醒した。

 この学園へきてからの出来事が走馬燈のように思い出される――そこには和人の笑顔があり、自分の笑顔もあった。

 いままですこしも感じなかった客席の歓声が聞こえてくる。

 そこに、八白や卓郎の声が混ざっているのもわかる。

 失われていた感覚が戻り、世界が色を取り戻していく。

 しまった、と芽衣子が思った瞬間には、拮抗が破れていた。


「うおりゃあっ」


 和人が細身の剣でもって、芽衣子の巨大な剣を弾き飛ばす。

 芽衣子の腕もそれにつられ、空中へ投げ出された。

 防御もできぬその隙を、和人は逃さない。


「おれの、勝ちだ!」


 剣が宙を舞った。

 空中でそれが回転し、太陽の光を受けてミラーボールのように輝く。

 和人の剣である。

 自ら剣を捨てた和人は、そのまま無防備な芽衣子を抱きしめた。


「これからもここにいろ! おまえの仲間は、おれたちだ。なにがあってもおれたちが守る!」


 ――それが制限時間十分ちょうどの出来事だった。

 ふたりの会話までは聞こえていなかった審判が、おずおずと近づく。

 この状況を見て、勝敗を決めるのはむずかしい。

 なにしろ和人は自分の剣を手放しているが、芽衣子はまだ武器を持っている。

 しかしそれを使う気配はなく、両手をだらりと下げたままである。

 戦闘可能という意味なら、軍配は芽衣子に上がるだろうが――。


「これは、どうなんだ?」


 審判は頭を悩ませる。


「きみたち、どっちが勝ったんだ」


 そもそも、抱き合って試合が終わるなど前代未聞である。

 観客席からは驚きの声やら、黄色い声やら、罵声やらが飛んでいる。

 そんな状況に、芽衣子は笑った。


「あははは――」


 声を上げて、心底楽しそうに笑いながら、涙を流した。

 まだこの場所にいられるのだ。

 部外者や裏切り者としてではなく、ひとりの生徒として、ここに立っていることを許されているのだ。


「先生、わたしの負けです」


 芽衣子の手から剣がすべり落ち――音もなく、芝の地面に転がった。


  *


 客席に戻ってきた和人と芽衣子は、明らかに様子がおかしかった。

 まず和人だが、これは見るからに芽衣子を意識している。

 衆人環視の試合場でしたこと、言ったことに対して、いまさらながら恥ずかしさがこみ上げてきたらしく、まともに芽衣子のほうを見ることもできない。

 それどころか周囲を見ることもできず、赤い顔を隠すようにうつむいて、まるで敗者のような負の気配を纏っている。

 一方で芽衣子は、試合場で泣いたことをすっかり忘れたように、にこにこと笑っている。

 そこに暗さはなく、いままでともまたちがう、心の底からの笑顔である。

 屈託のない笑みを浮かべ、芽衣子は和人にぴたりと寄り添う。

 それで和人がうれしそうな顔でもしていれば、仲睦まじい恋人とも見えるが、ふたりの纏っているものがちがいすぎて、なかなかそうは見えない。

 帰ってくるふたりがそんな様子だから、迎えるほうとしてもどう対応していいのかよくわからない。

 ひとまず菜月が芽衣子に、


「負けちゃって、残念だったわね。でもいい勝負だったわ」


 と声をかけると、芽衣子は笑顔でうなずき、


「はい。試合は負けちゃいましたけど、わたしは満足ですっ」

「でしょうね……で、そっちの恥ずかしがってるほうは?」

「や、やめろ、見るなっ、見るなあ!」

「おうおう、照れとる照れとる」


 うつむいた顔を覗き込もうとする卓郎を、和人は必死で追い払う。


「大好きだー! だっけ?」

「そ、そんなこと言ってねえだろっ」

「いや、言ったね。そして試合場のまん中で抱き合って熱い口づけを……」

「してねえ!」


 ひとしきり和人をからかって、卓郎はげらげら笑う。

 そのとなりの八白は、しかしそんな気分にはなれなかった。

 あるいはここにいるなかで、八白がいちばん複雑な心情を抱えているかもしれない。

 観客席からは、和人と芽衣子がなにか話しているらしいのは見えたが、声までは届かなかった。

 深刻な話だったらしいというのは、試合中の和人の表情を見れば、八白にはわかる。

 和人が芽衣子に抱きついたのも、唯一聞こえた最後の台詞も、なにかそこに関係しているにちがいない。

 だれも知らないなかで、なにか重要な話があったのだ――そしてそれは、試合中に解決したらしい。

 それがなんなのか八白には気になる。

 芽衣子の表情を見るかぎり、それはいい形で解決したらしいのだが――。


「ずっとおれのそばにいろ、だったっけ? いやあ、突然交際宣言が飛び出すとはなあ」

「に、似たようなことは言ったけど、そんなニュアンスじゃなかっただろ」

「でも、ずっと守ってくれるって言いましたよね? ずっとずっとそばで守ってくれるって言いましたよね?」

「い、いや、言ってない言ってない! ……言ってない、よな?」

「言った言った」

「言いました」

「まあ、言ったかもね」

「織笠まで! ぎ、議事録の提出を要求するっ」


 ――まあ、芽衣子の機嫌がいいのは、和人といっしょにいるせいかもしれないが。

 それはそれで、八白には悩みの種である。

 日ごろから、芽衣子が和人に積極的に迫っていることは周知の事実だ。

 いままでそれをなだめすかしていた和人だが、今日の試合がその答えだと見るなら、納得できないこともない。

 が、八白はそのような結論は認めない。

 認めないのだが、


「そういえば……勝ったら、負けたほうをなんでも好きにできるって約束は、どうしますか?」


 ぽっと頬を赤らめてのたまう芽衣子を見ていると、そうとも思えなくなってくる。


「お、おまえ、どさくさに紛れてそんな約束まで……!」

「ちちちちがうっ。いや、ちがわないけど、ちがうんだって!」

「怪しい……」


 つい八白も疑いの眼差しを向ける。

 明らかに形勢不利の和人だったが、そのとき、まるで神の助けのように大きな歓声が上がった。

 思わず全員が試合場に目を向ける。

 ちょうど一回戦最後の試合が終わったところである。

 本来、その試合はシードとして二回戦に回されるはずだったが、土壇場で出場者がひとり増えたため、一回戦として行われた試合だった。

 選手は、高等部一年の女子生徒と、非精霊使いにも関わらず学園へ乗り込んできた軍人の女である。

 その試合の結末に、観客が大きく沸いたのだ。

 目下のところ、いくら軍人でも精霊使いには勝てないだろうと思われている。

 なにしろ、根本的な身体能力に大きな差がある。

 たとえば、どんな未熟な精霊使いにせよ、精霊石を活性化してスポーツをすれば、あらゆる世界記録は容易に塗り替えられる。

 ある分野に特化するのではなく、精霊使いは人間の力そのものが強い。

 筋力だけではなく、視力や聴力も強化されている。

 常人では見えぬものが見え、不可能が可能になる精霊使いは、対人間にはとにかく強い。

 軍人がいくら身体を鍛えても、それは所詮、人間という範疇のなかで鍛えているにすぎない。

 精霊使いはそれを飛び越えた存在である。

 一匹のねずみが人間に敵うはずもなく、せいぜい一矢報いる程度だろうと思われているところに、その試合の結果が現れたのだ。


「――生徒のほうが、負けたのか?」


 さすがに卓郎も呆然としたように呟く。

 試合場では、女子生徒は膝をつき、軍人の女は堂々と立っている。


「なにがあったんだ、いったい」


 途中経過を見ていなかった彼らには、なにか得体の知れないことが起こったとしか思えなかった。

 つい最近まで人間だった和人でさえ、いまは、人間が精霊使いに勝つなど不可能だと考えている。

 自らが精霊使いになり、強くそれを実感したのだ。

 正攻法で、人間が精霊使いに勝つことは絶対に不可能だ。

 生身の人間と戦車が戦うようなものである。

 もしそれで人間が勝ったとしたら、なにか起こったにちがいない。

 人間と戦車の戦闘力を平均化するような、魔法のようなことが起こったにちがいないのだ。

 ――しかし、実際に、そんなことは起こらなかった。

 その試合において、奇跡と呼べるようなことはなにも起こらなかったのである。

 精霊使いの女子生徒も手を抜いたわけではない。

 ただ、相手が人間だということで、ほんのすこし遠慮をしただけだ。

 もちろん、相手を傷つけるわけにはいかないから、本気で攻撃することはできない。

 しかしそれでも負けるはずがないというのが、精霊使いと人間の戦闘力の差である。

 それを覆したのは、軍人の女の技量だった。

 その女は、とにかく戦闘に慣れていた。

 とくに自分より強力な相手との戦闘に慣れ、精霊使い相手にもまったくひるむことはなかった。

 試合を決したのは一瞬の戸惑いである。

 当たるはずの攻撃が、当たらなかった。

 女子生徒は試合中に、あれ、と首をかしげた。

 次の瞬間には軍人の女が距離を詰め、女子生徒の武器を弾いていた。

 そのまま首を固められれば、さすがに敗北を認めるしかない。

 精霊使いに弱点というものがあるなら、唯一それだけが、関節技を決められることだけが弱点である。

 普通なら、人間をその間合いに入れることはない。

 それ以前に斬っている。

 間合いに入れ、関節技を決められても、常人離れした筋力でもって弾き飛ばすこともできる。

 一瞬の隙を逃さず間合いへ侵入し、首筋をうまく押さえ、振り払われることなく絞め続けた女が異常なのだ。

 決して奇策ではない。

 正面から戦い、精霊使いが敗北したのである。


「なかなか、簡単そうな相手じゃなさそうね」


 菜月が腕組みして呟く。


「もったいないわ。せっかくあのひとと戦う機会もあったのに、一回戦で負けちゃうなんて。ああいうタイプと戦うのっておもしろいのよね」

「好戦的だなあ、織笠」


 と和人は呆れたように菜月を見る。


「おれは、絶対にいやだな。ああいうのは痛そうだし、どう対処していいのかわかんねえ」

「精霊使いと戦うために鍛えてるっていうのもだてじゃないわ。真正面から力と力でぶつかったら、どうしたって人間に勝ち目はない。もし勝てる可能性があるとしたら、力をいなすしかない。そういう理屈はわかってても、実戦でうまく決めるのはむずかしいわ。八白なら、どうやって戦う?」

「え、あ、あたしなら……逃げる、かな?」


 八白は控えめに答えた。

 どうにも覇気がないが、菜月はこくんとうなずき、


「いちばんは、それよねえ。絶対に相手の間合いには入らないこと。とにかく逃げまわってチャンスを見つけること……でもこの試合だと逃げられる場所が限られてるから、ちょっと不利かもね。布島さんなら?」

「わたしなら、そうですね」


 芽衣子は目を細め、真剣に試合場の女を見つめる。


「あのひと、身のこなしは早いですけど、さすがに精霊使いほどじゃありませんよね。だったら、わざと間合いへ誘い入れるかも。向こうのほうが間合いは短いんだから、向こうの間合いへ入る前に、必ずこっちの間合いを通過するはずです。その瞬間を狙うしかありません」

「なるほど。一撃必殺ね。それで仕留められる自信があれば、ベストな作戦でしょう。じゃあ次、日比谷は」

「おれはもちろん、接近戦だ」


 卓郎は胸を張って堂々と宣言する。


「向こうの関節を受けて真っ向勝負してやる」

「へえ、あんたには珍しく力押しなのね」

「当たり前だろ。考えてみろよ、あの乳だぜ? ああやって関節したら、背中やら腕やら、そりゃあもう極楽――」


 言い終わる前に粛正されている。

 一足先に極楽へ旅立った卓郎を蔑むような目で見下ろしたあと、菜月はくるりと踵を返し、和人を見た。


「で、牧村くんならどうする?」

「お、おれは……」


 まさか、卓郎と同じ答えは言えない――望んでいることは同じであったとしても。

 和人はちらちらと試合場を窺いながら、


「と、とりあえず戦いながら考えるかな。相手の動きを見ながら、隙を探すっていうか」

「ま、悪くない手だけどね。向こうにそれを気づかれたら、短期決戦になるわよ」

「そしたらとにかく防御する。ああいう関節は、ほんとにぴったりはまらないと意味がないんだ。浅くはまったくらいなら、簡単に抜けられる。そしたらその隙を突いて攻撃できるし、接近戦っていうなら、こっちも武器を捨てて素手になればいい。同じ素手なら間合いも同じだから、力と速さで上回ってるこっちのほうが有利だろ。……なんだよ、変な顔して」

「い、いや、意外とまじめに戦いのことを考えてるんだなってびっくりして。牧村くんって、そういうのとは無縁なのかと思ってたから。布島さんとの試合も、後半はよかったけど、前半はまったくだめだったし」

「あれはなんか身体が動かなかったんだよ。それに精霊使いとして戦うのはぜんぜん慣れてないけど、けんかなら慣れてるからな」


 今度こそ、菜月と芽衣子は意外そうな表情を隠さない。

 ただ和人の過去を知っている八白だけは苦笑いしている。


「な、なんだよ、その顔」


 照れるような、戸惑うような表情で和人は言う。


「おれがけんか慣れしてたらおかしいのか?」

「おかしいっていうか、意外っていうか……」

「けんかってイメージじゃないですよねえ」


 芽衣子もしみじみと言った。


「じゃあ、おれのイメージってなんだよ」

「んー、そうねえ」


 菜月は首をかしげ、


「家事とか」

「ああ、わかります!」


 芽衣子はぽんと手を打つ。


「家事が趣味です、みたいな感じで、空いてる時間はお昼寝とか」

「そうそう。なんか血なまぐさい感じとは無縁なのよね」

「おれは主婦か? いったいなんでそんなイメージが……とくに布島は、最初に会ったときのイメージだろ、普通」


 そういえば、と芽衣子は思い出す。

 最初に会ったとき、芽衣子の代わりにけんかをしたのが和人だった。

 そのときも手慣れていた雰囲気はあったが、その後の印象で、すっかりけんかをする和人の姿を忘れていた。


「学校が変わると印象も変わるもんだな」


 しみじみと和人は言う。


「前の学校じゃ、二番目の不良だったんだけどな。いちばんのやつは友だちだったし」

「そうなの?」

「まあ、そのときはそのときで、なんで不良って思われてたのかわかんねえけど。けんかも売られたやつを仕方なく買ってただけだし、それ以外にも不良らしいことはしてなかったんだけど」

「授業さぼったりとか、してたんじゃないの?」

「うーん、記憶にない。授業中居眠りしてたのは覚えてる」

「いまとおんなじね」

「まあ、人間そう簡単には変わらないし――お、直坂、呼ばれてるぞ」

「え、あ、ほんとだ」


 和人の話に、興味深そうにふんふんと聞き入っていた八白は、慌てて客席を降りた。

 ついに二回戦がはじまるのだ。


  *


 一回戦を終えて客席に戻ってきた国龍千明は、さっそくほかの試合を注意深く観察しはじめる。


「お疲れっす、班長」


 という泉の言葉にも軽くうなずくだけである。

 意識が、完全に戦闘へ向いている。

 それを理解している部下のふたりは千明からすこし距離をとった位置に座る。


「まあ、一回戦は無事に勝ててよかったよ」


 心底ほっとしたように福円が言った。


「正直、それも危ないんじゃないかと思ってたけど、さすが班長だな。ぼくたちと同じ訓練を受けてるとは思えない身のこなしだ」

「まあ、班長ならあれくらいできるだろ」


 と泉はゆっくりあたりを見回す。


「それよりおれがびっくりしたのは、ここの学生の戦闘力だ」

「ああ、たしかに。精霊使いだから、並じゃないとは思ったけど、十代にしてこれだけの戦いができるんだからね」


 いくら精霊使いといえど、使い手が未熟なら、ただ圧倒的な力を持て余すだけの存在である。

 しかしここの生徒たちは、自らの力を有効に使う術を知っている。

 この不破学園で学んでいるのだ。

 決して力を過信せず、作戦を立て、勝利を狙う。

 十代にして老練した戦闘を披露するというのは、福円にとっては恐ろしいことだった。

 いまも、福円たちを警戒しているのか、彼らが座る周囲には学生が寄ってこない。

 まるでクレーターのように、そのまわりだけが空席になっている。

 そういう無邪気さとはほど遠い対応も、敵としてはやっかいなのだ。


「こうやって見てると、とても人間同士の戦いとは思えないものな」


 いまも試合場では精霊使い同士の戦いが行われている。

 人間の戦闘といえば、武器があればその間合いで戦い、そうでないなら肉弾戦になる。

 しかし精霊使い同士の戦いになると、お互いに武器を持っていても、その間合いで戦うとは限らない。

 ときには頭上数メートルまで飛び上がり、相手を翻弄する。

 かと思えば充分な距離がある場所から弾丸のように突っ込み、隙を突く。

 映画にあるような、過剰な動きを伴う戦闘が目の前で繰り広げられている。

 派手なようでいて、よく見れば理に適った攻撃であることも、学生たちが戦い慣れている証拠だった。

 福円は常に、この強大な戦力を戦うとすれば、と考える。

 すくなくとも、福円、泉、千明の三名一班でなんとかなる規模ではない。

 向こうがその気になれば、無傷で逃げ出すこともむずかしい。

 もしこちらに拳銃があったとしても、精霊使いに銃が通じるかは疑問がある。

 基地の講習で、精霊使いは傷の回復も早いと聞いている。

 そのため、完全に沈黙させるには、傷を与えるだけではなく、即死させなければならない。

 頭か、心臓を一発で撃ち抜かなければ、彼らの精霊石が彼らを守ってしまう。

 ある程度の距離なら福円も泉も頭を打ち抜けるだろうが、それでもせいぜい、いまマガジンに詰まっている弾の分の戦力を殺ぐだけだ。

 この学園と一戦やり合うなら、おそらく戦車があってもまだ足りない。

 学生が百人だとして、制圧にはその三倍以上が必要だろう。

 あるいは五百あっても足りないかもしれない。

 精霊使いは、それほど驚異的な力なのだ。


「どうやって打ち崩すか考えるより、どうやって敵に回さないか考えたほうが現実的だなあ」

「もう敵になっちまったもんはしょうがねえだろ」

「そりゃそうなんだけどさ。強いものには巻かれたほうがいいよ、実際」

「まあな。おれもそう思う。でも班長は、そうは思わねえだろうな」

「そうなんだよなあ……」


 福円と泉だけならなんとか友好的な素振りもできるが、作り笑顔ができる千明ではない。

 そして千明がそうしないかぎり、福円と泉もそれに従わなければならないのだ。


「ぼくには戦闘のことはよくわからないけどさ」


 と福円は泉を見る。


「きみから見て、班長の動きはどうなんだ。勝ち抜けそうか?」

「相手は精霊使いだぜ」


 泉は目を細めた。


「普通なら勝ち負け以前の問題だろうが、班長ならまあ、ある程度までは勝てるだろう。向こうがいくら戦闘に慣れても、班長はそれ以上に実戦慣れしてる。とくにおれたちは精霊使いを相手にすることだけを目的に訓練してきたわけだしな。戦い方もだいたいわかる」

「そうか。でも班長が優勝しても、それはそれで気まずいな。ほどよいところで負けてくれるのがいちばんいいんだけど……」

「班長に言ってみろよ」

「殺されないかな、ぼく」

「そう簡単に部下を殺すひとじゃねえさ。たぶん」

「ふ、不安だ……」


 ちらりと千明を見て、福円は息をつく。

 千明は真剣な眼差しで試合場を見下ろしている。


「あ、あの、班長。ちょっといいですか」

「どうした?」


 顔は上げないが、そう不機嫌そうでもない。

 そもそも千明は部下に対して暴力的な態度に出る上官ではない。

 とくに言葉で注意をするわけでもない。

 子どもではないのだから、自分で考えろ、というように突き放すことが多い。

 そういう意味では、決して怖がる必要はないのだが、千明の前ではなんとなく恐縮してしまう福円だった。


「班長はあの、どのあたりまで勝ち上がるおつもりで?」

「さあ、とくに考えてはいないが」

「それなら――」

「まあ、勝てるところまでは勝つつもりだ。負けたのなら仕方がないが、この真剣勝負、手を抜くほうが失礼にあたる」

「そ、そうですか……」

「わたしのことを心配しているのか?」


 千明は顔を上げ、すこし笑う。


「そう簡単には負けないよ」

「い、いや、そのことは別に心配してないんですけど」


 罰が悪くなって、福円は頭を掻く。

 千明のこのまっすぐな性格が、福円は苦手なのだ。

 無言のうちにもっとしっかりしろと説教されている気がする。

 そういう意味では上官にふさわしいともいえるが、年下の、それも異性にそういう気持ちにさせられるのは複雑なところがある。


「その、班長から見て、とくに強そうな子はいますか」


 福円が苦しまぎれに話題を変えると、存外に千明は明るくうなずき、その話題に乗った。


「何人か、とくに強いのがいる。教師陣はもちろんだが、生徒でも周囲から頭ひとつ以上飛び出しているのがいる」

「はあ、そうですか。ぼくはよくわかりませんけど……」

「福円は頭だ。目でなければわからないよ」


 しかしその頭は、目が見たものを理解しなければならない。


「たとえば、どの子ですか」

「いまそこで戦っている女子生徒もなかなか強い」


 四つある試合場のひとつを、千明が指さす。

 福円はトーナメント表と見比べ、


「直坂八白、ですか。見たところ、ちょっと地味な女の子ですけどね。一回戦は、たしか瞬殺でしたっけ」

「攻撃にも派手さはないが、いちいちが的確で無駄がない。ほかにもそれなりに強い生徒は何人かいるが、強さとは別に気になるものがあるのは、ふたりだな」

「ひとりは、ぼくでもわかりますよ」


 福円はため息をつく。


「あの、青藍って子でしょう。一回戦で相手だった女の子も弱くはないように見えましたが、それと比べても圧倒的だ。ほかの生徒とは桁違いに強い。とくに彼女は武器も使っていなかった」

「そうだ。あの戦い方が、すこし気になる」

「もうひとりは、だれです?」

「その青藍の試合で、なぜだか試合場のなかにいた男子生徒だ」

「ああ、たしかにいましたね、変なのが。戦うわけでもないのに、どうして試合場にいたのかわかりませんけど」


 そのとき、観客席で歓声が上がった。

 またひとつ試合が終わって、言及された直坂八白が三回戦進出を決めている。

 直坂八白は勝ち名乗りを上げるのが恥ずかしいのか、そそくさと観客席へ戻っていく。

 福円はすでに、千明が強いと目する生徒たちが不思議と同じ集団に属していることに気づいていた。

 向かいの観客席に、その一団が座っている。

 直坂八白に、一回戦で青藍と戦った織笠菜月、千明が気になるという男子生徒、牧村和人もいる。

 福円は、青藍もその一団にいる様子を見ていたが、いまは姿がない。


「あの男子生徒の、どこが気になるんですか」

「さあ、わたしも漠然と思う程度だが……強いて言えば、その正体かな」

「正体?」

「福円は、彼が戦う様子を見たか」

「一応見ましたが――女子生徒と、十分間丸々使って、最後は変な幕切れでしたね。途中までは女子生徒有利だと思いましたけど、最終的には彼の勝ちで」

「そう。試合がはじまったときは、間違いなく女子生徒のほうが優勢だった」


 福円もうなずく。

 素人目で見ても、そのふたりの動きには雲泥の差がある。

 女子生徒は強い。

 動きに無駄がなく、戦いに慣れている印象があった。

 男子生徒、牧村和人のほうは、なにも知らない子どもが渡された武器を振り回しているようですらある。

 あれなら初等部の学生のほうがうまくやるだろうと福円も思ったものだが、結果として、牧村和人は勝利した。


「どうして勝てたのか、と考えると、不思議だろう?」


 千明は面白がるように言う。


「試合がはじまったときの力量で見るなら、偶然にせよ、あの男子生徒が勝てるはずはなかった」

「でも、試合の序盤はまったくだめでしたけど、後半はなかなかいい動きをしていたでしょう」

「そうだ。後半の動きを見れば、勝つことに疑問はない。だからといって、前半にわざと手を抜いていたようには見えなかっただろう」

「たしかに。精いっぱいやって、あの様子だったように見えました」

「戦いの最中に、彼になにかあったんだ。訓練ではわからなかったものが、実戦になって簡単に理解できるようになることもある」

「それが起こったってことですか」

「いや、それよりは――目的を見つけたというところかもしれないな」

「目的を?」

「わたしにも経験がある。力はあるが、その使い道がわからない。その場しのぎでいいから、なにか正当な理由でもって力を使いたいと思うんだ。その状態では大して身体も動かないし、うまく戦えないが、どこかで正当な理由を見つけると、それが飛躍的に改善される」

「戦う理由ってやつですか。これは実戦じゃなくて訓練のようなものなんだから、楽に戦えばいいとぼくは思いますけどね」

「なかにはそれを気にするやつもいる。とくに精霊使いの力は強大だ。その気になればひとを死に追いやる。訓練といえど、仲間にその力を使うのはためらわれるんだろう」


 なるほどと福円はうなずく。

 そう理解するなら、簡単だ。

 要は、防弾チョッキを着ているからといって、仲間と実弾で撃ち合うわけにはいかない。

 しかし敵と味方であれば撃ち合いもできるようになる――戦う目的とは、そういうことなのだろう。

 言い換えれば、必然性だ。

 どうして戦わなければならないのか、と疑問に思いながら戦うのと、どうしても戦わなければならないと思いながら戦うのとでは、おのずと動きも変わってくる。


「自分が戦う目的をしっかり理解しているやつは、強い。とくに彼は、戦う理由が定かではないときはまるで戦えないが、それが明らかになったときには人一倍力を発揮する。ああいうやつは、悪に染まるととことんだが、正義をもってするなら決して折れることはない」

「……なんだか班長に似てますね」

「まさにわたしだよ。そしてわたしは戦う理由を正義とした」


 だから強いのだ。

 やはり千明を支えているのはそのまっすぐな志であり、それなしでは立っていることさえできないのだろう。

 福円はふと、その千明の果てを想像した。

 正義ひとつをもって突き進めば、道標は必要ないだろう。

 ただひとつ、正義という光が煌々と道を照らしてくれる。

 しかしその先になにかあるのだろうか。

 地上は無限ではない。

 当然、地上にはびこる悪も無限ではありえない。

 それを駆逐するためだけの正義も有限であるべきだ。

 悪という悪を一掃しても、その代わりに地上で繁栄することができないのが、正義というものの性質である。

 定着した正義は間を置かずして悪になる。

 正義は、それを遂行したのち、自ら消えなければならない。

 その消失も含んで正義であり、いつまでも正義のままでいることはできないのだ。

 千明もまた、正義の光だけを頼りに進んでいくなら、その道が有限であることを知らなければならないだろう。

 永遠と正義は相容れない。

 いつかは、正義は失われる。

 そのときに千明がどうなるのかと考えると、まだ遠い未来のことながら、福円はこの年下の上官が心配になるのだった。


「班長」

「なんだ」

「班長って、趣味とかないんですか」

「趣味か。そうだな」


 千明はすこし考え、


「日々の鍛錬が、趣味といえば趣味だ」

「いや、もっとこう、そういう剣呑なところから離れた場所で、なんかないですか。たとえば、料理とか」

「非常食に料理は必要ない」

「なぜ非常食前提?」

「サバイバル能力の話では?」

「だから、そういう話題からは離れて、なんかないんですか。訓練がない休日とかは?」

「自主的に訓練をしている」

「ですよねえ……」


 いまの千明に、戦い以外の趣味を持てというほうが無理な話である。

 それがあるなら、このような現在にはなっていない。

 しかしその福円も、


「おまえはなにかあるのか?」


 と訊かれると、


「うーん」


 と首をひねらざるを得ない。

 千明のように正義が唯一無二の支えというわけではないが、ほかになにかあるのかといえば、なにも思い当たらない福円だった。

 自衛隊の生活でも、趣味を持つものはたくさんいる。

 部屋にポスターを貼っている隊員も多いし、休みになればただの若者だ。

 どちらかというと福円は少数派だが、訓練以外の日は寝ているとはいえ、寝ることが趣味とはいえない。

 結局、


「ぼくも、なんにもないですね」


 とどこか気落ちした口調で宣言するしかなかった。


「まあ、そういうこともある」


 千明はとくに気にする様子もない。

 試合場を見下ろし、戦う生徒たちを注意深く見ている。

 それは福円も同様で、話をしながらでも試合場の動きはしっかり確認していた。

 いまはちょうど、例の興味深い集団に属する男子生徒、日比谷卓郎が試合場を出てきたところである。

 一回戦は女子生徒相手に鼻息も荒かった卓郎だが、二回戦の相手は男子生徒で、見るからにやる気がない。


「はっきりしたやつですね、あれは。おもしろいっちゃおもしろいですけど」


 福円が見る限り、一回戦は余裕をもっての勝利だった。

 それでも決着までに時間をかけたのは相手が女子生徒だったせいにちがいない。

 今回は男子生徒相手にどうするんだろうと考えて見ていると、


「はじめ!」


 という声がかかった十秒後には、


「そこまで!」


 と宣言を受けている。


「おおっ」


 福円は目を瞠る。


「やっぱり男相手には容赦ないなあ。ぜんぜん遊ばずに速攻か。本人はまったくうれしそうじゃないけど」

「一回戦とは戦い方がちがうな」


 まじめな顔で、千明は言う。


「一回戦は、もっと戦闘を楽しんでいるようだったが、今回はまるでそれを嫌っているようだ」

「そりゃあ、男と戦ってもおもしろくないってことでしょう。だから本気を出せるってのもあるんでしょうけど、本人は本気を出せなくても女の子と戦うほうが好きなんでしょうね」

「女と戦うのがおもしろいのか? 別に、男と女で戦い方にちがいが出るとは思えないが」

「いや、それは……ほら、戦ってる最中に、こう、身体が近づいたりするじゃないですか」

「それが楽しいのか?」


 千明は首をかしげる。

 まさか、と福円は息を呑んだ。


「あ、あの、つかぬことをお聞きしますが、班長、本気でおっしゃってます?」

「本気もなにもないが」


 うそや冗談を言っている顔ではない。

 これ以上ないほど真剣に、自分の知らないことを知ろうとしている顔である。


「は、班長、男性と女性という言葉はわかりますよね?」

「む、ばかにしているのか?」

「いや、そうじゃなくて……じゃあ、恋愛って言葉はわかりますか?」

「もちろん、知っている」

「つまり遠回しに言えばそういうことで……若い男は大抵若い女に惹かれるものでしょう。だから、こう、異性が近くにいたらどきどきしたりしません?」

「どきどき? さあ、いままで感じたことはないが」

「そ、そうですか……いや、そういうふうに感じるのは男だけなのかな?」


 考えてみれば、そんなような気もする。

 しかし千明が男女の機微に疎いのは間違いない。

 千明の日常を考えればだいたい想像がつくことではあるが、福円は改めて自分の上官が不思議な存在であることを見せつけられる。


「まあ、班長もいつかわかる日がくるかもしれませんねえ」


 と福円は言葉を濁し、そそくさと退散する。

 泉はしごく退屈そうに椅子に深く腰掛けて試合を見ていたが、福円が戻ってくると顔を上げて、


「どうだ、おもしろい話は聞けたか?」

「おもしろいっていうか、いろいろわかったこともあったけど……いろんな生き方があるもんだと感心するよ」

「人生でも悟ったのか?」

「むしろわからなくなったね」


 ふうんと泉はうなずき、また退屈そうな姿勢に戻る。

 福円も椅子に落ち着き、また新しくはじまった試合に目を向けた。


「おっ」


 と福円は声を上げ、身を乗り出す。

 なかなか興味深い試合が行われようとしている。

 それは千明が手放しに評価した謎めいた女子生徒、青藍と、自らに似ているといった男子生徒、牧村和人の試合である。


  *


 やりづらい、と和人は思う。

 青藍との試合が、である。


「こうなった以上、やるしかないけどなあ」


 ぶつぶつと言いながら、和人は困ったように青藍を見る。

 向かい合うふたりの距離は、ほかのそれよりも近い。

 あまり離れすぎると精霊石の効果が切れるせいである。


「いままでこういう機会はなかったな」


 青藍は、むしろ楽しみだというように笑う。

 それを見ていよいよ和人はため息をつく。

 最初から、二回戦の相手は菜月か青藍だとわかってはいたが、そして菜月が相手ならそれはそれで怖いからやりづらいのだが、青藍と一対一で戦うという状況はしっかり考えたことがなかった。

 青藍は手ぶらである。

 和人も当然、そうなる。

 和人の武器は青藍であり、青藍が敵になっている以上、武器なしで戦うしかない。

 しかし一応、精霊石での肉体強化はできていた。


「おれ、こういうのは苦手なんだよな」

「苦手は克服するためにあるのだ、主よ」

「小学校の教師みたいな台詞を……」


 けんか慣れしている和人ではあるが、お互いに乱打するようなけんかは、ほとんどしたことがない。

 大抵は相手の一撃を躱して関節を決めるか、逆にこちらの一撃で倒すかだったから、手数のある戦いの方法を和人は知らないのだ。

 青藍は、素手で菜月に勝つほどの手練れである。

 とても簡単に勝ちが決まるとも思えないが、優勝するためにはなんとかして勝ち抜かなければならない。


「しゃーねーな、やるか」


 和人は見よう見まねで身構える。


「やろう」


 と青藍も構えた。


「はじめ!」


 声がかかると同時に和人が前に出る。


「おっ、よっ」


 なんの変哲もない右ストレートである。

 精霊石で強化した肉体では、それでも人体を破壊するには充分な攻撃力を有する。

 青藍は右腕で軽々と防ぎ、ぶんと足を振り上げた。


「やべっ」


 慌てて後ろへ飛んだ和人のすぐ目の前を、踵が通過する。

 空を切った踵はそのまま地面をえぐり、くっきりと足の跡が残る。


「こ、怖ぇ……。当たったら頭蓋骨粉砕じゃねえか」

「当たらなければよいのだ。いくぞ、主よ」

「むちゃくちゃだなあ、おい!」


 愚痴を言いながらも和人は横へ飛ぶ。

 青藍はちょうど腕一本分の距離を残して和人に追いすがる。

 もともと限られた試合場で、逃げ切ることはできない。

 それなら、と逃げるふりをして反転し、間合いへ飛び込む。


「甘いっ」


 青藍がすかさず身をかがめ、足払いする。


「おっ、あっ」


 和人はつんのめって、慌ててなにかにしがみついた。

 こつん、と頭を叩かれ、顔を上げる。


「実戦ならこれで一回は死んだな」


 青藍がほほえんでいる。

 距離が近い。

 掴まっているものが、ほどよく暖かい。

 あれ、と思っていると、観客席からブーイングが飛ぶ。


「いつまでも抱きついてんじゃねえ!」

「どさくさに紛れていろいろ触ってるだろ!」

「さ、触ってるかっ」


 慌てて青藍から離れた和人は、今度こそ安堵のため息をつく。

 まだ試合は終わっていない。

 いまのは、決定打としては認められていない。

 青藍にもそのつもりはなく、せいぜい稽古をつけてやっているという印象だった。

 やはり男として、それでは癪な和人である。

 本気を出そう、と心中で呟き、まずは青藍の出方を窺う。

 青藍も目つきでそれを察し、


「ほう」


 と唸った。


「やはりそうでなければおもしろくない」

「男の意地を賭けてるおれとしては、おもしろいだけじゃ済まねえけどな」

「では、わたしから仕掛けよう」


 わざわざ宣言をして、青藍は動く。

 一歩目は遅い。

 しかし二歩目から爆発的に加速する。

 急激な緩急に観客の目も追いつかなかったが、和人はしっかり見ていた。

 青藍が右足を上げる。

 躱すか受けるかと考え、和人はしゃがんで躱すほうを選んだ。

 しかし、それを読んでいた青藍は途中で右足を止め、逆に左足を蹴り上げる。


「おわっ」


 青藍の左足があごを掠める。

 その場で青藍は宙返りして見せ、まだまだ余裕だというように和人を見た。


「く、くそ……」


 和人は歯噛みし、突進する。

 不用意に見せながら、その実裏ではしっかりと考えていて、青藍の間合いに入る寸前に速度を落とした。

 そこから上へ飛ぶ。

 青藍も躊躇せず飛んだ。

 空中で和人は腕を伸ばし、青藍に掴みかかる。


「織笠菜月の真似か?」


 青藍は、それを確かめるようにわざと抵抗はしない。

 和人は空中で青藍を抱きすくめ、向きを入れ替えて頭を下にする。

 その体勢で落下がはじまった。

 菜月と同じ戦い方では勝ち目がない。

 和人もそれは理解している。

 度胸試しで青藍に勝てるはずもない。

 だから、和人は限界まではがまんせず、ある程度地面に近づいたところで青藍の身体を放した。

 同時に青藍の身体を足場にすこし飛ぶ。

 青藍は不思議そうな顔で先に落下し、地上ぎりぎりで身体をくるりと回して着地した。

 その着地点目がけ、和人が落ちる。


「こうなりゃ捨て身だっ」


 作戦というよりは思いつきである。

 しかし、だからこそ青藍の裏をかけるはずだと期待した。

 和人は足を伸ばし、蹴る体勢で青藍の頭上へ降る。

 青藍もそれを躱さない。

 ぐっと腕で頭を守る。

 鈍い音が試合場に響いた。

 和人の足は、青藍の腕以外には当たっていない。

 しかし青藍も勢いまでは殺しきれず、そのまま後方へ倒れる。

 和人もろともである。

 衝撃に目を閉じた和人は、このくらいで青藍が倒れるはずはないと気づき、慌てて起き上がろうと手をついた。

 地面はいやにやわらかかった。

 驚いて、なんだ、と地面を見下ろすと、芝の地面と自分の手のあいだに、青藍の身体がある。

 和人の手はちょうどその胸に、まるで意図していたかのように置かれている。

 道理でやわらかいはずである。

 青藍はにやりとして、和人の頭を叩く。


「これで二度目だ」


 和人はそれどころではない。

 弾かれたように青藍の上から飛び退き、何食わぬ顔でそっぽを向く。


「さ、さあ、続きをやろうか」


 どうやら一瞬の出来事で、観客席には気づかれていないらしい。

 もし気づかれていたら、またブーイングを浴びなければならない。


「虚を突くという着眼点はいいが」


 と青藍は起き上がりながら言った。


「なんにせよ、とどめを刺せなければ意味がない。いまのではむしろ、主のほうが危険になる」

「でも、おれのほうが先に動いてれば、青藍の負けだっただろ? おれが上に乗ってたんだから、有利なのはおれだったはずだ」

「先に動いていれば、だが」

「む……見てろよ。絶対に一矢報いてやる」


 とはいえ、和人に手があるわけではない。

 正々堂々、正面からぶつかっても青藍には勝てそうにないし、奇策も浮かばない。


「自分より格上の相手と戦うときは、まず弱点を探ることだ」


 青藍の授業は続く。


「そして一瞬の機会を逃さず、その弱点を突く。それができなければ、格上の相手には勝てない」

「そんなこと言っても、おまえに弱点なんかねえだろ」

「さあ、それを見つけ出すのが主の戦いだ」

「ない答えを探せってか」


 はあ、と和人はため息をつく。

 制限時間も残りすくない。

 一見完璧に見える青藍にも弱点があるとしたら、そこを攻める以外に勝機はなさそうだが、かといって目に見える弱点もありそうにはない。

 接近戦では、もちろん負ける。

 敵の間合いから外れて戦う術もない。

 理想は、青藍の攻撃が届かない位置から攻撃することだ。

 言い換えれば、こちらの攻撃だけが届く、という状況になれば、勝ちも見える。

 果たしてそれはあり得べき状況か?


「……いやあ、あり得ねえな」

「どうした、もう終わりか?」


 青藍は腰に手を当て、堂々と和人を待つ。

 そのどこに弱点があるというのか――和人は必死に考え、あるひとつの可能性を見いだした。

 答えとはほど遠いが、ほんのかすかな可能性でも、見いだしたからにはそれに賭けるしかない。

 よし、と和人は気合いを入れる。

 すくない残り時間で、できることをするのだ。


「いくぞ、青藍」

「む」


 和人は距離を詰める。

 お互い間合いのなかで接近戦になった。

 和人が拳を振るう。

 速い。

 しかし青藍の防御を抜くほどの鋭さはない。

 防がれ、今度は右足を上げる。

 それも青藍は読んでいる。

 軽く腕で防御し、和人に向かってさらに距離を詰め、腕のなかに入った。


「いまだっ」


 和人も同時に前進する。

 ふたりはほとんど衝突するように交差した。

 和人は至近距離にある青藍の目を見た。

 青藍は和人の出方を窺っている。

 すっと和人が腰を落とした瞬間、膝かと青藍は身構える。

 が、そうではない。

 和人はむしろ上体を倒し、肩がぶつかるほど青藍に顔を寄せ――そして、耳元でふっと息を吹きかけた。

 これが攻撃といえるかどうか?

 すくなくとも打撃ではない。

 それよりも心理戦に近い。

 肉弾戦だけではなく、心理戦にも青藍は強い。

 見ている人間のだれもが、なにをしたんだ、と首をかしげた。

 自暴自棄になったのか、と和人の作戦を各々に考え、推測したのである。

 その不思議な静寂に、


「ひゃんっ――」


 という子猫が驚いたような、高く甘い声が響いた。

 青藍である。

 完全無欠を誇っていた青藍が、がくりと膝をつく。

 和人はいったいどんな攻撃をしたのか――だれひとりとして、それを理解できなかった。

 ただ和人だけが、


「よ、よし、利いたか?」


 赤い顔で膝をついた青藍を見て、ちいさく拳を握っている。

 なんということはない、和人はただ青藍の耳に向かって息を吹きかけただけである。

 それがなぜこのような結果を生んだのか、和人自身もよくわからないが、ただひとつわかることは、青藍の弱点はそこにしかない、ということだった。

 発想の原点は武道大会がはじまる直前、トーナメント表が発表されたとき、青藍に耳打ちをしようとして、青藍がそれに奇妙な反応を見せたことにある。

 そのときはなにも考えなかったが、土壇場になって和人はそれを思い出した。

 いままで見たことがない青藍の姿だったのだ。

 あれは弱点といえるのではないか――戦いの最中にそう思い当たり、見事試して成果を得たのは、和人が冷静に判断を下した結果である。


「……ただ、なりふり構わん戦いになってる気はする」


 しかし有効打は有効打、弱点は弱点にちがいない。

 青藍は立ち上がるが、明らかに足腰に力が入っていない。

 攻めるならいましかない。

 和人は間髪入れず、飛びかかった。


「くっ――」


 青藍も必死に防ぐ。

 和人が防がれてもいいような打撃をしているのである。

 そしてわざと隙を作り、青藍をおびき出す。

 蟻地獄戦法、と和人は心中で名づけた。

 青藍が罠にかかり、身体を寄せてくるとすかさず、


「ふう」

「んんっ――」


 青藍はぞくぞくと身体を震わせる。

 その隙に攻撃することもできたが、さすがに和人もそれほど非道ではない。

 ただ、客席からは卑猥なことをして隙を作っていると見られているらしく、罵詈雑言が飛んでくる。


「うるせえ、勝ちゃいいんだ、勝ちゃ!」


 和人は客席に向かって吠える。

 完璧な悪役である。

 一方で青藍は頬を上気させ、息も荒い。

 立っている姿も心なしか内股で、和人を見つめる目は潤み、いまにも涙が落ちてきそうだった。

 さすがになにか悪いことをしているような気になる和人だが、勝利のため、心を鬼にする。


「まだまだ、いくぞ!」


 青藍は陥落寸前である。

 いまこそ一気呵成に仕上げるとき、と和人は飛びかかった。

 まさにそのとき、制限時間の十分が過ぎたことを報せるアラームが鳴った。

 審判が両選手を試合場の中央に集める。

 青藍はそこまで歩くのがやっとの有り様である。

 そして試合の行方はというと、


「お互い決定打に欠けたまま時間いっぱいになったから、勝者はじゃんけんで決めるのがいいと思うが」

「いや」


 と青藍が審判を遮る。


「この勝負はわたしの負けだ」

「しかし」

「もともと主は武器が使えない状態にあったし、そうでなくても時間がもうすこしあれば主が勝っていたはずだ。次の攻撃までは、わたしは防げなかっただろうから。それに――」

「それに?」


 青藍はにやりと笑う。


「主にはもっと多く戦いをこなし、強くなってもらわねばならない」


 それが本音だろ、と和人はため息をつく。

 しかし青藍が敗者になったことで、和人は三回戦進出を決めたのだった。


「勝者、牧村和人!」


 勝ち名乗りを上げても、歓声半分、罵声半分というところである。


「なんかずいぶん嫌われたなあ」


 しかしさほど気にしている様子はない。

 むしろ、これはこれでおもしろい、と思っている。

 そのうち、罵声を浴びせているうちのだれかと戦うことになるかもしれない。

 そう考えると、敵ではないが、味方でもないのだから、馴れ合う必要もないわけだ。

 くるならこい、という気持ちで、和人は試合場をあとにする――が。

 二歩もいかないうちに、服の袖を掴まれ、立ち止まった。

 和人は振り返る。


「……なにしてんだ、青藍」

「あ、歩けないのだ」


 青藍は前屈みになり、和人の服の袖を引っ張っている。


「肩を貸してくれ」

「そんなに利いたのか? 大したことはしてないんだけどな……」


 和人は青藍の肩を担ぎ、連れだって試合場を出る。

 その姿にもブーイングが飛ぶ。

 人助け、いや、精霊石助けだ、と叫びつつ和人は試合場を出て、客席へ戻る。

 その途中の道で、


「あ」


 次の試合に出るらしい軍人の女と出くわした。

 向こうはひとりで、笑みを浮かべて立っている。

 いかにも怪しい。

 そばを抜けて行こうとするが、女はそれを遮るように立ちはだかる。


「あ、あの?」


 控えめに和人が言うと、女は満足そうにうなずいて和人の肩を叩いた。


「なかなかいい試合だったぞ、牧村和人」

「は、はあ、どうも……」

「敗者にも手を差し伸べるとは、感心感心」

「え、は、はあ、そうですか」

「ではわたしも自分の試合があるので失礼する。また会おう」

「え、あ、がんばってください」

「うん、がんばる」


 軍人の女はこくんと返事をして、試合場へ歩いていった。

 怪しい女である。

 だが、お互いに勝ち上がればいつかは対戦することになる相手だ。


「……あのひと、なんでおれの名前覚えてるんだろう」


 呟きながら、和人は青藍を担ぎ、客席へと戻った。


  *


「おう、遅かったな」

「いまのうちに青藍を石に戻しとこうと思ってな」


 座席に座る卓郎に軽く手を挙げて挨拶しながら、和人は試合場を見下ろした。


「で、様子は?」

「見てのとおり」


 和人が裏であれこれしているあいだに、試合場では八白の試合がはじまっている。

 三回戦までくるとさすがに相手も手強いようで、善戦しているが、勝負はまだ決していない。


「まあ、直坂さんのことだから心配はいらねえだろ。それより、おまえは自分の身を心配したほうがいいぞ」

「ん? どういう意味だ」

「いま、鬼はトイレに行っている。めちゃくちゃいい笑顔だったとだけ言っておこう」

「……お、おれか? 相手はおれなのか?」

「それ以外に考えられねえだろ。おれの相手は男だったしな」

「やべえ……ど、どっか隠れるところっ」

「あら、かくれんぼでもするつもりなの?」


 背後から聞こえた声に、和人は誇張ではなく身体を震わせた。

 暑さとはちがう意味で、汗が噴き出す。


「よ、よお、織笠」


 ぎこちなく和人は振り返った。

 織笠菜月はハンカチで手を拭いている。

 顔は、見る勇気がない。

 ただわかるのは、この数分が生き残れるかどうかの瀬戸際だということだった。


「お帰りなさい、牧村くん。試合、見てたわ」

「そ、そっか。そんなに注意して見てなくてもよかったんだけど。いやまじで」

「なかなかいい試合だったじゃない。いくつかの点を除いて」

「ぬ、布島は? 姿が見えねえけど」

「さっきわたしと入れ替わりにトイレよ。ねえ牧村くん、ちょっと話があるんだけど、いいかしら?」

「い、いや、その、おれ、腹が痛い……」

「あら、そうなの? だから試合中のどさくさに紛れて青藍さんに抱きついたり、あのけしからん胸を揉みしだいたり、卑猥なやり方で隙を作らせたりしたのかしら?」


 話題の転換も逃亡も失敗である。

 ありとあらゆる逃走経路を遮断され、和人はすでに袋のネズミだった。

 そしてそのネズミを襲う猫は、そう簡単に得物を狩ったりはしない。

 充分痛めつけ、楽しみ、満足してから、食う。

 非力なネズミに、抗うすべはなにもない。


「まあ、ここに座りなさいな」


 菜月は自分のとなりの空席をぽんぽんと叩く。

 和人は背中を丸めながらその椅子に座り、右隣から飛んでくる針のような言葉に耐える。


「あれはわざとなの? それとも偶然?」

「ぐ、偶然です」

「でも偶然が二度も三度も続くのはおかしいわよね。あ、そういえば、前の布島さんの試合でも抱きついたりしてたっけ?」

「い、いや、あれは」

「あれは、なんなの?」

「な、なんでもないです……すみません」

「何日か前にも似たようなことがあったような気がするのよねえ……わたしの部屋で、なんだかそういう偶然があったような気がするんだけど、ねえ、牧村くんは覚えてない?」

「さ、さあ? そんなことなかったんじゃないかな、あはは」

「だれがタメ口で話していいって言ったっけ」

「ももも申し訳ありません」

「わたしはね、学園の女子生徒を代表して言ってるのよ? 個人的な恨みがどうとか、勝負じゃないパンツを見られたとか、そういうことで言ってるんじゃないの。そのへん理解してる? ねえ、このちいさな頭で理解してるの?」

「は、はあ、おかげさまで理解してます、はい」

「じゃあもう一回訊くけど――青藍さんの胸を揉んだのはわざと? それとも偶然かしら」

「ぐ、偶然でありますっ」

「質問を変えましょう。牧村くん、胸の大きな女の子は好き? あ、ちなみにうそつくと正直に言うのと百倍つらいお仕置きだから」


 正直に言ってもお仕置きなのか、という正当な反論が許されるはずもなく、和人は壊れた人形のようにうなずく。


「はっきり自分の言葉で言いなさい。胸の大きな女の子が好きなの?」

「す、好きです! 巨乳の女の子が好きですっ」

「はい有罪」

「ええっ!?」

「これでとりあえずひとつ有罪ね。次の質問だけど、もしその、あなたの愛してやまない胸の大きな女の子が目の前にいたとしたらどうする? それも、いかにも無防備に、転んだふりをして触ったくらいじゃ怒られないなって状況だったらどうする?」

「が、がまんします」

「でも本心では触りたいのよね? 思い切り揉みたいのよね?」

「ほ、本心では……」

「触りたいけどがまんしなきゃいけない。がまんしなきゃ、って思いながら、つい触っちゃうこともあったりするわよね?」

「そ、それは……」

「あったりするわよね?」

「ああああるかもしれないです、はい」

「ふたつ目も有罪、と」

「ひどいっ」

「じゃあ最後に、言い残したことは?」

「し、執行猶予などはあったりしないのでしょうか?」

「さあ、どうかしらね。まだ試合も残ってるし、考えないでもないけど」

「ど、どうかお慈悲を! 織笠さま、どうか、どうかっ」

「じゃあひとつ条件があるわ。それがクリアできたら、全部ちゃらにしてあげる」

「じょ、条件?」


 菜月はにっこりほほえみ、和人の顔を覗き込む。


「とりあえず優勝して、日比谷の企みを阻止すること。それから今後一切のセクハラをやめること。それができなかったら――」


 菜月の目からすっと光が消える。


「わかってるわね?」

「は、はいっ。ご温情感謝します!」

「じゃ、次の試合もがんばってね」


 見れば、八白の試合はいつの間にか終わっている。

 結果は八白の勝利だった。

 八白は勝ち名乗りもそこそこに、とことこ観客席へ戻ってくる。


「あ、牧村くん、勝ったよ! って、牧村くんも見てたよね。えへへ」

「ま、まあな。いい試合だったぞ」


 場外で行われた、身の毛もよだつ恐怖を伴うやりとりに比べて、試合場で行われる試合はなんと正々堂々、清々しい戦いなのだろう。

 和人は、心の根っこを菜月に押さえられているような気がしながら、トーナメントを見上げる。

 なんとしても勝ち抜かねばならぬ理由が、これでまたひとつ増えた。

 いままで以上に負けは許されない。

 もし負けたら、とは、恐ろしくて想像すらできない。

 勝つのだ。

 それ以外にない。

 優勝か、暗い谷底へ転がり落ちるか。

 行方を決するのはトーナメントの対戦相手である。

 三回戦の対戦相手は、と仰ぎ見ると、となりで卓郎が同じ仕草をして、


「お、次は牧村とか」

「……よっしゃあっ」

「なんでよろこぶ?」

「いや、別に? やっと遠慮なく戦えるとか、思ってないよ」

「たまーにこいつが友だちかどうかわかんねえときがあるな……全方位にまんべんなくモテるところも含めて」

「早く降りようぜ、日比谷」


 和人は先に客席を出ていく。

 この大会ではじめて、心置きなく戦える一戦である。

 和人は不思議に高揚を覚え、なるほど、大会が開かれるのはこういう理由か、と納得する。

 主催する意図はいろいろあるのかもしれないが、参加する理由は、おそらく単純なものだ。

 戦い、という、ただそれだけである。

 これが命のやりとりならともかく、安全が保証されているかぎり、これは一種のゲームのようなものだ。

 参加することにも、敗北することにもリスクはない。

 代わりに、勝てば満足が手に入る。

 戦いとはそういうものだ、と認識するなら、すくなくともこの安全な戦いにおいては、戦闘に腰が引けることはないだろう。

 それが学園長の意図なら、今朝軍人の女が言ったことは正しい。

 生徒たちは我知らず、戦闘に恐怖しない屈強な兵隊に育てられているのかもしれない。

 しかしふと、和人の考えは行き詰まる。

 学園長の意図がそこにあるとして、生徒を兵隊に仕立て上げることがなんの意味を持つのだろう。

 その兵隊を使って、戦争でもするつもりか。

 いったいだれと?

 この学園の敵だろうか。

 学園長個人の敵だろうか。

 兵隊を使って戦うような敵が、どこかにいるのだろうか?

 和人は試合場に到着し、軽く準備運動をする。

 今日はすでに二戦こなしているが、精霊石のおかげか、不思議と体力は残っている。

 菜月に発破を掛けられ、気力も充分にある。


「悪ぃな、日比谷。おまえの信念には、おれも思うところがあったんだが」

「いいさ。鬼ににらまれたらしょうがねえ。だが、おれはおれの野望のため、負けねえぜ」

「おれもおれの未来のために負けられねえ」


 ふたりは向かい合い、ふんと笑った。

 相手の強さを認めるような笑みである。

 ふたりは武器を出す。

 和人は細身の、美しい剣。

 卓郎のそれは先端が湾曲した短剣である。

 形状はショーテルと呼ばれる剣に似る。

 本来は敵の盾を迂回し、敵本体を攻撃するために刃が大きく湾曲しているが、卓郎のものは小型化され、すでに盾を迂回するという目的は達成できていない。

 しかしまっすぐな剣、あるいは反りのある剣に比べて、間合いも防御もとりづらい形状であることはまちがいない。


「格好いい剣だな、それ」


 と和人が素直に言うと、卓郎は笑って、


「おまえのに比べたらおもちゃみたいなもんさ。さすが青藍さん、剣になってもお美しいっ」

「ちょっと長すぎて、使いづらいけどな」

「おいおい贅沢な文句言うんじゃねえよ。でもまあ、たしかにおれの武器との相性はあんまりよくねえかもな」


 両者は構える。

 審判のかけ声を前に、場が緊張に飲み込まれる。


「はじめ!」


 その声と同時に、ふたりは飛び出していた。


  *


 先手必勝、とまずは和人が剣を振りかぶる。

 一撃で決めるつもりはなく、小手調べというところだった。

 卓郎はそれを正面から受ける。

 本来なら剣と剣が押し合って拮抗状態になるところだが、卓郎の武器の特殊な形状が、それを許さない。

 和人の剣は、卓郎の剣の湾曲した刃を滑る。


「うおっ」


 正面から受けたにもかかわらず、軌道を逸らされる。

 結果、和人の剣は卓郎の横を過ぎ、地面まで振り下ろされた。

 和人は慌てて剣を手放し、身体を後ろへ倒す。

 そこを卓郎の剣が過ぎる。


「いい判断だ。いま逃げてなかったら、首が落ちてたぞ」

「あ、危ねえ! まだこの首には未練があるぞっ」


 和人は剣を拾い、距離をとる。

 油断したのだ。

 一撃目は小手調べという余裕が、敗北を引き寄せた。

 卓郎の剣が特殊な形状であることは承知していたはずなのに、その役割を見抜けなかったのも慢心のせいだ。


「日比谷のやつ、実は強いのか……?」


 和人が呟いたとき、客席でも、同じようなことをトイレから戻ってきた芽衣子が訊いている。


「男相手なら、それなりにね」


 と答えるのは菜月である。


「もし対戦相手が男ばっかりなら、決勝か準決勝くらいまではいけるでしょ」

「そ、そんなに強いんですか」

「まあ、あいつばかだから、相手が女の子だと実力の半分も出さないんだけど。去年もそれで負けたのよ」

「牧村くんだけじゃなくて、日比谷くんもいまはのびのび戦ってるんだね」


 八白がぼんやりと呟く。

 試合場では和人が再び和人が動いている。

 一足で距離を詰め、今度は突きを繰り出す。

 鋭いが、相手に読まれている。

 卓郎は身をかがめ、奇妙な形状の剣を掲げた。

 湾曲した刀身を和人の剣に添え、くるりと手首を返す。

 その瞬間に和人は剣を手放していた。

 剣は地面に落ち、卓郎はにやりと笑う。


「その判断力――さすがだなあ、牧村」

「お、おまえの攻撃は危ないのが多いんだよっ」


 もし剣を手放していなかったら、どうなったか。

 卓郎の湾曲した剣に絡め取られ、最悪、折られていた可能性もある。

 世界最硬の精霊石であり、同じ精霊石の剣でも折られるということはほとんどないが、敵に武器を奪われるほど危険なことはない。

 とっさにそれを見抜く和人は、卓郎の言うとおり並外れた判断力を持っている。


「次はこっちから行くぜ」


 卓郎が軽く飛ぶ。

 距離が詰まる。

 和人は剣を拾い上げ、後ろへ逃げた。

 卓郎の剣の弱点が、間合いの狭さだということも和人は見抜いている。

 刀身が湾曲している分、それを敵に当てるには、相当接近しなければならない。

 そこまで接近を許せばやっかいになる――それ以前の間合いで追い払うか、勝負をつけてしまう必要がある。

 和人は横に薙いだ。

 しゃがんで、卓郎はぐんと間合いのなかに入ってくる。

 すかさず和人も剣を返し、防御の態勢を取る。

 ぎいん、と双方の剣が鳴いた。

 湾曲した剣に沿って、和人の剣が流れる。

 つばぜり合いにはならない。

 お互いに返した手首がぶつかり、そのまま距離をとった。

 間一髪防げた、というのが和人の感想であり、あれでもだめか、というのが卓郎の感想である。

 ふたりはすぐに次の攻撃へ取りかかる。

 卓郎が前へ出たのを見て、和人は後ろへ飛んでいる。

 狭い試合場を逃げまわる。

 かと思うと唐突に振り返り、卓郎へ突っ込む。

 卓郎は和人の長い間合いを嫌い、なかへ入ろうとする。

 和人はそれを防ぎ、なんとか自分の間合いを保とうとする。

 目に見える攻防に加え、水面下では息詰まるほどの神経戦が行われている。

 それは、たとえばちょっとした腕の動きや足の動きをもって行われる。

 向こうがこう動くなら自分はこう動く、という考えがお互いにできあがっているからこそ、そのちょっとした動きが牽制になる。

 激しく剣戟を交わしながらの牽制は、お互いに並大抵の力ではない。

 やがて和人のほうが、


「くっ――」


 とうめいた。

 大振りの剣を使っている分、体力の消耗は激しい。

 それぞれ、まだこれといった攻撃は決まっていない。


「普通のやつなら、もう十回は仕留めてるんだけどな」


 さすがに卓郎も息が上がっている。


「これじゃらちが明かねえ」

「じゃあ、次の一撃で勝負するか?」


 和人が言った。


「おれが攻撃して、当たればおれの勝ち、防げば日比谷の勝ちだ」

「おれが防ぐほうでいいのか?」

「その刃は防ぎにくいから、いやなんだよ」

「正直なやつめ。いいぜ、それでいこう」


 卓郎はぐっと腰を低くする。

 和人は逆に背筋を伸ばす。

 長く美しい剣を頭上高く掲げ、上段の構えをとる。

 距離は七メートル。

 お互いに呼吸を整える。


「はあっ」


 和人が叫んで、飛び出した。

 一歩でぐっと踏み込み、真上から一閃する。

 鋭い一撃である。

 しかし芸がない。

 速さも狙いも的確だが、その分だけ、相手に読まれやすい。

 卓郎は剣をさっと頭上に掲げた。

 その動作だけで、和人の攻撃を防げるはずだった。


「うおりゃあっ」


 和人は腕を振り抜く。

 ぶん、と風を切る音が鳴った。

 金属音は、永遠に聞こえない。

 虚を突かれたのは卓郎だけではない。

 観客のほとんどが理解できず、沈黙が流れる。

 そのなかでいくつか、


「ほう」


 というような感嘆の声が静かに響いた。

 和人はにやりと笑う。

 その手には、なにも握られていない。

 振りかぶった剣は、どこにもない。


「この剣は、精霊石だもんな」


 呟く手に、美しい剣が現れている。

 その剣先は、頭上に対して警戒していた卓郎の首筋にぴたりと当てられていた。

 ――もちろん、正攻法ではあるまい。

 まっすぐ振り下ろすふりをして武器を精霊石に戻し、空振りしてみせるというのは。

 しかし精霊石と、精霊使いでなければ不可能な戦い方であることもたしかだった。

 精霊使いとして戦う和人は、精霊使いとしての戦いを選んだ。

 卓郎は和人を見下ろし、ふっと笑った。


「そういう戦い方は考えなかったな」

「だろ? おれぐらい卑怯じゃないと考えつかないよ」

「卑怯とは別さ。うまい戦い方だ。今度から、おれも真似しよう」


 卓郎は武器を収めた。

 和人の勝利が決定した瞬間である。


  *


 和人と卓郎がふたりして客席に戻ると、すぐに芽衣子がぱたぱたと駆け寄ってくる。


「和人さん! すごく上手な戦い方でしたねっ。日比谷さんも、ほんとにいい試合だったと思います」

「布島さんは安定してかわいいね!」

「いやいや話題が繋がってねえよ」


 と和人。


「でもまあ、戦えて楽しかったよ。頭を使う戦いってのもはじめてだったし」


 和人のなかで、卓郎との戦いはさっそく糧になっている。

 ただ腕を振り回すだけではない、身体と頭で戦うという高度な戦闘を、身を以て体験したのだ。

 それは必ず、今後に生かされる経験である。

 そうした貴重な経験を得たという意味で、和人は卓郎に感謝している。

 もし相手が卓郎でなければ、こうはいかなかったにちがいない。

 それに、勝利したことで、


「ふたりとも、よくやったじゃない」

「は、はいっ、ありがとうございます!」

「ちょ、ちょっと目を離した隙に和人さんが織笠さんに管理されてる……」


 なんとか刑の執行も免れたようだった。


「でも牧村くんはすごいよね」


 と八白。


「二ヶ月前に学園へきたばっかりなのに、もう四回戦進出だもんね。それも相手はみんな強いのに」

「まあでも、こっちには青藍がいるからなあ」


 と和人は照れたように言う。


「アドバイスとかもらってるわけじゃないけど、普通の精霊石よりは青藍のほうが高性能なのかも」

「精霊石そのものに性能はないと思うけど、うまく使うって意味では、精霊石と会話できるほうが有利かもね」


 菜月は何度かうなずき、


「さっきの、最後の攻撃なんかもそうでしょ。精霊石をちゃんと操れてないと、あれだけいいタイミングで出したり消したりはできないもの」

「青藍さんとちゃんとコミュニケーションがとれてるってことですね」


 芽衣子は、なぜかうらやましそうな顔をしている。


「でも次はおまえでも苦労するんじゃねえかな」


 ほくそ笑みながら、卓郎が言う。


「次って?」

「トーナメント表、見てみろよ」

「えっと、おれの名前があそこで、またひとつ勝ったから上へいって……あ」


 指先でトーナメントの行方を確かめる和人は、思わず八白を見た。

 八白は恥ずかしそうにうつむく――なぜ照れるのか、和人にはわからなかったが。

 次の試合は、八白との四回戦である。

 お互い勝ち進めばいつかは当たるとはいえ、いままで和人は知り合いとしか戦っていない。

 そしてこの八白との四回戦に勝てば、次は準決勝、Aブロックの代表を決める五回戦である。

 八白以外、もう知り合いは残っていないとはいえ、やはりなんとなくやりづらさを感じる和人だった。


「そうか、次は直坂か……」

「お、お手柔らかにお願いします」


 八白はぺこりと頭を下げる。


「や、こちらこそ」


 和人も頭を下げ、


「お見合いか」


 と菜月が呟く。


「でも直坂さんは厳しいぜ」


 卓郎はにやりと笑う。


「なんせ、うちじゃいちばん強いからな」

「そんなにか。おれの快進撃もここまでかなあ」

「そ、そんなことないよっ」


 八白はぶんぶんと手と首を振る。


「あたしなんかより菜月ちゃんのほうがずっと強いし、日比谷くんだって、それに勝った牧村くんだって……」

「あっはっは、織笠は別枠だよ」


 と卓郎。


「なんたってあいつは人間じゃなくて鬼なんだか――」


 途中で、菜月がすぐそばにいたことを思い出したらしい。

 卓郎は咳払いし、まじめな顔になる。


「とにかく、直坂さんは簡単に勝てる相手じゃねえ。それだけは覚えて、気をつけろよ」

「お、おう。おまえも気をつけろよ、いろいろと。命は大事にな」

「ああ……おれもいま実感してるぜ。命は大事にしたほうがいいってな」


 その卓郎の肩を、菜月が叩く。

 笑顔である。

 恐る恐る振り返った卓郎に、菜月はぐいと親指で観客席の裏を差した。


「ちょっと、いいかしら?」

「ま、またな、牧村! おれは次の試合は見られそうにねえ……直坂さんもがんばって!」

「達者でな、日比谷」

「て、手加減してあげてね、菜月ちゃん」


 はわわと口を押さえる芽衣子の前を通って、卓郎と菜月は姿を消した。

 それが卓郎の姿を見た最後だった、という一文が和人の脳裏をよぎったが、頭を振って不吉な妄想を追い出す。

 和人は手すりにもたれかかり、


「あいつ、なかなかいいやつだったよな」

「ま、まだ死んでないよっ」


 まだ、というあたりで、八白も同じように考えているのだとわかる。

 卓郎はすでに敗退しているから、いままでのように容赦はないだろう。

 和人は静かに合掌し、次の瞬間にはそのことを頭から追い出して、試合場に目を向けた。


「ここまでくると試合が回るのも早くなってるなあ」


 Aブロックでは、すでに八白と和人を入れて六人しか残っていない。

 いま試合場で行われている戦いにより、それが四人まで減る。

 そうするとすぐに和人と八白の試合になる。

 勝ち上がっていくほど連戦になり、体力の回復もできないまま次の試合に臨むこととなる分、序盤にどれだけ力を温存するかというのも大事な要素になっている。

 いまごろになってそれに気づいた和人は、半ば諦めたような表情であくびを洩らした。


「久々に動いたから眠てえな……」

「テストの次の日ですもんね」


 芽衣子が和人に寄り添い、手すりに頬杖をついて、試合よりも和人の横顔を眺める。


「昨日はゆっくり眠れたんですか?」

「それが、記憶がないんだよな」


 和人は頭を掻く。


「家に帰るまではさすがに覚えてるんだけど、制服から着替えてからの記憶が一切ない。気づいたら朝だった」

「牧村くんったらね、今朝、床で寝てたんだよ」


 からかうように八白が言う。

 和人はまじめな顔で、


「直坂に起こしてもらわなかったら、たぶんもう二日くらいは寝たと思う」

「……いいなあ、直坂さん」

「ん、なんか言ったか」

「いいえ、別に。あ、試合がひとつ終わったみたいですよ」


 Aブロックの四回戦進出者が、またひとり決まる。

 生徒が多いAブロックのなかで唯一名前が並んでいた教師である。

 大人気ないぞ、という野次が観客席から飛ぶが、教師はむしろふんぞり返って鼻を鳴らす。


「こうして世間の厳しさを教えてやるのも教師の仕事よ。そして優勝もおれのもんだ! そして交際六年目のあの子にプロポーズを……」


 おお、と観客席がどよめく。

 堅物と思われていた数学教師に交際六年目の恋人がいたという事実も驚きだが、優勝賞品を渡してプロポーズというのもすごい、という半ばあざけりような雰囲気もある。


「せんせー、恋人は美人なのか?」

「当たり前だ。宇宙一美人だ」

「え、宇宙人なの?」

「どんな宇宙人がいようと彼女の美しさには敵わないって意味だ、宇宙人じゃねえ!」

「せんせー、その彼女は目が悪いの?」

「そういや視力は悪いって……どういう意味だっ」

「じゃあ頭が悪いの?」

「ちょっと天然なところがあってな、それがまたかわいい……おまえ、次のテストおまえにだけ超難問を出すぞ!」

「玉砕しろ、玉砕!」

「するかあ! おれは世界一幸せな家庭を築くんだ」

「脳内で?」

「現実に決まってるだろうが!」

「あの、先生、次の試合もありますんで、そろそろ客席のほうに……」

「あははは、注意されてやんの!」

「お、おまえらあ……」


 ぐぬぬと歯噛みして教師が試合場を出たそのときである。

 教師をからかうのに参加していなかった観客が、歓声を上げた。

 となりの試合場である。

 ここまで勝ち残っていた軍人の女、国龍千明が、また一勝をあげたのだ。

 精霊使い相手に、武器も持たず、である。

 勝ち名乗りをあげた千明は、ぐるりと観客席を見回す。

 その視線が通過しただけで、観客席は静まり返る。

 千明からは異様な威圧感が放たれ、見つめられると、呼吸ができなくなるような錯覚を覚える。

 まだとなりではBブロックの試合が行われていたが、観客席は全員、無言でただ立っているだけの千明に向けられていた。

 そうせざるをえない剣呑さが、千明にはあった。

 必然、和人も視線をそこに奪われていた。

 観客席をぐるりと見回して、千明の視線がふと止まる。

 和人は明らかに自分と目を合わせている千明に驚いて、しかし視線は逸らせず、ただ距離をとって見つめ合う。

 奇妙な時間だった。

 言葉もなく、わかり合うこともない。

 ただ、千明が視線を外したとき、ふと口元に笑みを浮かべたのはたしかである。

 千明は自分で作り出した異様な雰囲気など気にもせず、用が済むと軽い足取りで試合場を出ていった。

 そのとき、次の対戦相手となる数学教師の脇を抜けていったが、そこには見向きもしなかった。

 千明の姿が試合場から消えて、雰囲気に呑まれていたBブロックの選手が戦いを再開する。

 それでどうやら観客席ももとの雰囲気に戻った。

 和人も、突きつけられた凶器がやっと退いたように、深く息をつく。


「あれ、和人さんのほうを見てましたよね?」


 と芽衣子が、意味ありげな視線を和人に向ける。


「お知り合いなんですか、あのひとと」

「いや、知り合いってわけじゃないけど、そこの廊下で一回すれ違った。とくに会話もしなかったけど」

「あのひと、軍人さんなんだよね」


 八白もぷるると身を震わせる。


「なんだか、怖い雰囲気のひとだね。悪いひとじゃなさそうだけど」

「直坂とあのひとが一回ずつ勝てば、Aブロックの決勝であのひとと当たるんだぞ」

「う……こ、怖いなあ」

「精霊使いじゃないのに、ここまで勝ち上がってきてるんですもんね」

「それもルールがある試合のなかだもんな。先生もそうだけど、あのひとも強敵だ。ま、おれはその前に、もうひとりの強敵と戦わなきゃいけないけど」

「きょ、強敵じゃないよ」


 八白はぶんぶん首を振る。

 いくら本人が否定しても、堂々ここまで勝ち上がってきた事実は変わらない。

 そのふたりに、試合場へ降りてくるようにというアナウンスがかかった。

 休むひまもない連戦である。

 和人は眠気を覚ますように頬を叩き、すこし目を閉じる。


「――よし。行くか、直坂」

「う、うん……」


 緊張している八白を従え、和人は客席を出ていく。


「ふたりとも、がんばってくださいね」


 芽衣子は手を振り、ふたりを見送った。

 そして試合は幕を開ける。


  *


「うう……」


 試合場に立っても、八白はまだあたりを気にするような素振りを見せる。

 ひとに注目されているということも緊張の理由であり、試合の相手が和人であるというのももちろん大きい。

 一方で八白は、この機会を望んでもいた。


「あ、あのね、牧村くん」


 勇気を出して、八白は口を開く。


「ん、どうした?」


 和人はすでに武器を構えている。

 試合ははじまっているのだ。

 八白も、一応武器を持っているが、まだ戦う気はない。


「あの、話したいことがあるんだけど……いいかな?」

「話したいこと?」


 和人は首をかしげ、


「試合、ちょっと中断してもらうか?」

「あ、ううん、試合はこのままでいいんだけど――戦いながら、聞いてくれる?」

「そりゃ、別にいいけど」


 不思議そうな顔の和人に、八白は近づく。

 形ばかり剣を構える。

 まずは八白が腕を振る。

 悲鳴のような金属音の奥で、八白は言った。


「前に牧村くんが言ったこと、覚えてる?」

「ん、なんか言ったっけ」


 周囲からは戦っていると見えるように剣を交わしながら、お互いまだ余裕がある。

 とくに和人は、初戦から考えると著しく成長していた。


「ほら、学校から帰るときに、どうして戦うんだろうって」

「ああ……言ったな、たしかに」

「あたしね、あれからずっと考えてたの。どうしてあたしは戦うんだろう、理由ってあるのかな、って」


 和人は、意外そうな顔はせず、こくんとうなずく。


「おれもいろいろ考えたよ。考えても仕方ないことかもしれないけど、やっぱりな」

「うん――あたしもね、答えが出たってわけじゃないの。精霊使いってなんだろうとか、精霊石ってなんなんだろうとか、いろいろ考えちゃって……」


 八白が後ろへ飛ぶ。

 それを機に攻守が入れ替わる。

 和人が攻め、八白が守った。

 その剣戟は、まるで神聖な儀式のように、他人を魅了する美しさを孕んでいる。

 ある美意識に貫かれた殺陣のようであり、計算とはかけ離れた生の戦いのようでもある。

 和人が攻めると、一見それは鋭く厳しい必中必殺のように思えるのだが、八白の剣はしなやかにそれを受け流す。

 ここしかない、という瞬間に八白が反撃を繰り出し、同時に和人はそうするしかないというような理想的な防御の態勢を自然にとっている。

 ふたりの呼吸がぴたりと合っているのだ。

 前へ出る、後ろへ飛ぶ、攻撃する、回避する、という一連の動きはふたりの完璧な動作によって生み出されている。


「精霊石がなんなのか、精霊使いがなんなのか、結局あたしにはわからなかったの」


 八白は言った。


「精霊石があることには、なにかの意味があるのかもしれない。精霊使いが生まれてくることにも、意味があるのかもしれない。でもいまのあたしじゃわかんないから、いまはまだ、それが現にこうやってあるんだって思うことにしたの。精霊石も精霊使いも、いまここにあるんだもんね。意味はわからないけど、それがそこにあるってことは認められるんじゃないかな」

「そうだな。おれも、たぶんそうとしか言えないと思う。でも力は? おれたちは精霊使いの力を使って、こうやって戦ってる。それにはなんの意味もないのか?」

「意味はあると思う」


 はっきりと八白は言った。

 臆病で引っ込み思案の八白にとって、それははじめて他人に向けた自己主張だった。


「牧村くんの考えてる意味とは、その、ちがうかもしれないんだけど」

「おれと同じかそうじゃないかって問題は、別にどっちでもいいんだ。ただ直坂がどう考えてるのか知りたいだけなんだから」

「うん……じゃあ、言うね。あたしはね、こういう力があって、それを鍛えたり使ったりすることには、きっと意味があると思う。なんて説明すればいいのかわかんないんだけど――」


 剣戟は激しさを増す。

 打ち鳴らされる金属音は止まず、刃を滑らせるような、嫋々と尾を引く音も増えていく。

 和人は八白を見、八白は和人を見ていた。

 その瞳には言葉以上のなにかが浮かんでいる。


「たとえばね、すごくつらかったり、悲しかったりすることが起こるとするでしょ」


 八白は言う。


「そのとき、力がないと、なんにもできないと思うの。つらいことはつらいまま、悲しいことは悲しいまま、なにも変えられない。でも、もしそれを変える力があったら――自分だけじゃなくて、ほかのひとのつらいことや悲しいことまで変えられるくらい大きな力があったら、それを力が存在する意味って呼んじゃいけないかな? 悲しい運命に抗うためにこの力はあるんだって思うのは、だめなのかな」

「でも、その同じ力で悲しいことやつらいことが生み出されてるしれないわけだろ」

「うん、だからもっともっと強くなりたいって思うの。自分だけじゃなくて、みんなまで守れるくらい強くなりたいって思うんだけど……まだまだ、ぜんぜんだめだよね」

「そんなこともないと思うけどな。直坂は、いまでも充分強いぞ」

「あたしもね、そう思ってた。授業とか、こういう実戦みたいな練習でも負けたことってほとんどないから、あたしって強いんだって思ってたんだけど――牧村くんがつらくて悲しいとき、あたしはなんにもできなかったもん。もっともっとあたしが強かったら、牧村くんのことだって守ってあげられたかもしれないのに。あんなにつらい思いしなくても、よかったかもしれないのに」


 和人は悲しげに顔をしかめる。

 八白の目に、涙が浮かんでくるのを見たせいである。

 しかし八白は、涙を落とさなかった。

 一瞬だけ手を止め、すばやく目を拭う。

 和人が泣いていないのに、なにもつらい思いをしていない自分が泣くのは間違えていると、八白は必死にがまんする。


「おれは、これでも充分救われたと思ってるよ」


 和人は八白を労るように言った。


「もし直坂と、それに青藍がいなかったらどうなってたか――たぶんこんなふうにはなってなかったと思う。学園にくることもなかったし、日比谷とばかやって笑うこともなかった。そういうのは全部、直坂がくれたんだと思ってる」

「ううん――やっぱり、牧村くんは強いね」


 八白はほほえんだ。

 その拍子に一粒の涙が頬を伝う。


「そうやって、みんなを守ってくれるんだもんね。牧村くんはあたしなんかよりぜんぜん強いよ」

「じゃあ、おれが強くなれたのも、直坂のおかげってことだろ。直坂だけじゃない。日比谷にも織笠にも布島にも、青藍にも背中を押してもらってる。おれひとりだったら、いまごろどっかで昼寝してるだけだ」

「そんなことないと思うけど……きっと牧村くんは、どこにいてもだれかを守ってると思う」

「褒めすぎだっての」


 和人は苦笑いをして、ふと手を止めた。

 試合場の中央である。

 八白も片手に剣をぶら下げ、まっすぐ立つ。


「直坂の考え方は、わかったよ。ちゃんと考えてくれてありがとな」

「う、うん……」

「で、肝心のおれの考えなんだけど――やっぱり、わかんねえんだ」


 和人は頭を掻く。


「おれもいろいろ考えたよ。おれはなんのために精霊使いになったんだろうって。直坂には言ってなかったかもしれないけど、おれ、精霊使いになる前に一回死にかけてるんだ。そのときはわからなかったけど、たぶん、精霊石を拾ったから助かったんだと思う。だから余計に考えるのかもしれないけど、結局おれにとっての精霊使いって、生きてるってことなんだよな。だから、なんでおれは生きてるんだろうって考えて――そのうち答えが出るかもって期待してたけど、いまのところなんにも浮かんでこねえんだよな。おれがばかだからなのかもしんねえし、意味なんかないからなのかもしんねえけど、どれだけ考えても精霊使いとして生き残った意味がわかんねえ。なんでおれじゃなきゃだめだったのか、おれといっしょにあそこにいた友だちじゃだめだったのか、おれが生き残ってもできることなんかなんにもないし、それならあいつが生き残ったほうがよかったんじゃないかとか――まあとにかくいろいろ考えて、出た答えは『わかんねえ』だからな」


 和人はまた剣を構える。

 八白もそれに従った。

 再び剣戟の甲高い音が鳴りはじめると同時に、和人も口を開いた。


「でもさ、気づいたら夜になって、また朝なってるんだよな。生きてる意味もわかんねえのに、わかんねえなって言ってるうちに一日がすぎて、また新しい一日を生きてるってのが不思議でさ。これでいいのかもって思うときもあるんだよ。いままでどおり、精霊使いになってもなんにも変わらず生きていけばいいんだって。でもその度に死んだ友だちが出てきて、なにやってんだって怒られるんだよな。あいつ、無気力なやつだったくせに、夢のなかではえらそうでさ。しっかり生きろって発破かけて消えちまうんだけど、そしたらやっぱりちゃんと考えて生きなきゃって気持ちになる。ほかのだれかじゃなくて、おれが生き残ったことに意味があるんなら、おれはその意味のために生きなきゃいけない。だからいまのところは、その意味を探しながら生きてるって感じだな」

「そう……なんだ」


 ショックを受けたように八白は言うが、すぐに首を振って、ありったけの勇気を振り絞る。


「あ、あのね、牧村くん。あたしは、牧村くんはどんなふうに生きてもいいと思うよ。意味とか、そういうふうに生きなくても……ほかのだれかにちゃんとしろって叱られても、あたしはそんな牧村くんでいいと思う」

「……そっか。ありがとな」


 和人がぽつりと呟いた言葉には万感の思いがこもっている。

 普段からあまり暗い表情を見せない和人は、いまも、決して顔には出していない。

 しかし瞳は隠しようがない。

 八白はそこに、計り知れない悲しみが溜まった泉を見た。

 見つめると引きずり込まれてしまいそうな、静謐な暗闇である。

 和人の身体の奥に、そのようなものが詰まっている。

 その闇はおそらく、あの日に繋がっているのだ。

 二ヶ月前のあの日から和人がどうやって立ち直ったのか、八白は知らない。

 薄暗い部屋から出てきた和人は、まるで以前と変わらず、明るく笑っていた。

 それで、あのときのことはもう消化できたのだと、八白は考えていた。

 和人なりに理解ができて、後ろではなく前を向くしかないと考えて部屋から出てきたのだと考えていたが、そうではなかった。

 和人のなかではまだなにも解決していない。

 あの日の記憶も自分の存在も他人の死も、まだ深い闇として、和人のなかにわだかまっている。

 それに触れて、寄り添い、すこしずつでも癒すことができたなら、と八白は思う。

 しかしそれは、和人が許してはくれないだろう。

 だれにも触れられたくないし、見られたくもない闇のなかでうずくまっている和人を見つけてしまったら、和人は八白に背を向けるにちがいない。

 力が足りないせいだ。

 八白にもっと力があったなら、そんな和人までも救えるかもしれない。

 無限の力を望むことは、それで他人を助けたいと思うのは傲慢だろうか?

 差し伸べられていない手を掴み、光のなかへ連れていきたいと思うのは傲慢だろうか。

 もし傲慢と呼ばれても、それでもいいと八白は考えた。

 どちらにせよ、放ってはおけないのだ。

 見て見ぬ振りもできず、忘れることもできないなら、傲慢でもなんでも、とにかく近づいてみるしかない。

 和人にとっては鬱陶しいだけだとしても、それ以外の方法で和人にしてやれることはなにもない。


「あたし、牧村くんのそばにいるから」


 八白は言った。


「たぶん、ずっとずっとそばにいると思うから……つらいこととか、悲しいことがあったらあたしにも教えてね。ひとりでは敵わなくても、ふたりならなんとかなるかもしれないし」

「直坂――」


 和人は半ば呆然と八白を見る。

 それから、へへ、と笑った。


「お互い、試合中に言うことじゃなかったかもな」

「そ、そうだね……」

「でもありがとな。そっか、そういう考え方もあるんだよなあ」

「そういう考え方って?」

「たとえばさ、おれが自分でおれのことを救えないとしても、直坂なら救ってくれるかもしれないわけだろ。だったら逆に、おれはおれのことじゃなくて、直坂のことを助ければいいんだ。直坂がおれを助けて、おれは直坂を助ける……単なる依存関係かもしれないけど、自分で自分を助ける以上に力が出せそうな気がする」

「うん……あたしも、そう思う」

「よーし、やる気出てきた。この試合、そろそろ終わらせようぜ。こっからは本気でやろう」


 時間も、あまり残されていない。

 和人は剣を構えた。

 構えそのものは変化していない。

 ただ、目つきがちがう。

 明るいのだ。

 戦うという行為、力を使うという行為を、前向きに捉えている。

 それにやる気は充分で、八白の攻撃をいまや遅しと待っている。

 八白も構えた。

 笑顔である。

 和人がなにかを越えたのと同時に、八白もまた、いままで引っかかっていたなにかから解放されている。

 八白は、いまや和人には敵うまいとわかってはいたが、この試合を楽しむため、和人との剣戟を楽しむため、和人に向かって走った。


  *


 観客席には菜月と、ボロ雑巾のようにぐったりしているが、卓郎が戻ってきていた。

 八白は菜月に駆け寄り、笑いながら、


「負けちゃった」


 と報告する。

 菜月は腕組みしてため息をついた。


「まあ、そうだろうとは思ってたけど。ちゃんと本気でやった? 牧村くんが相手だからって手抜いたりしてないでしょうね」

「し、してないよう」

「じゃ、いいでしょう。よくがんばったわね」


 頭を撫でられ、八白は嬉しいような恥ずかしいような顔をする。

 一方和人はぐったりと座席に腰掛ける卓郎に近づき、


「よく生きて帰ったな。さすが折檻慣れしてるだけのことはある」

「慣れたくて慣れたんじゃねえ」


 はき出すように卓郎は言った。


「おまえも、直坂さんに勝ったんだろ」

「おう」

「これで優勝まであとふたつってことだ。ここまできたからには優勝目指してがんばれよ」

「そりゃもちろん目指すけど……なんか遺言みたいだぞ。死ぬのか?」

「ふん、このおれが、こんなところで死ぬわけねえ……だろ……」


 がっくりと卓郎は力尽きる。

 和人は静かに合掌した。


「あ、あれ、日比谷さんは?」


 と芽衣子。


「死んだよ」


 と和人は軽く言って、


「さて、準決勝の相手はどっちになるかな」

「え、ええ?」


 芽衣子は和人と卓郎を交互に見ながらも、試合場を見下ろす和人についていく。

 試合場では、ちょうど数学教師と軍人の女、国龍千明の試合がはじまるところである。

 その試合で勝利したほうが、Aブロックの最終戦、つまり準決勝で和人と戦うことになる。


「おれとしては先生に勝ってほしいんだけどな」

「精霊使いじゃないから、やりづらいですもんね」


 まだ背中で卓郎を気にしながら、芽衣子がうなずく。


「精霊使いなら、多少無理をしても大丈夫ですけど、普通の人間だと一歩間違えば大けがですから……やさしい和人さんなんかは、大変ですよねえ」

「ただ失格になりたくないだけで、やさしいわけじゃないさ。それにあの女のひとだと本気が出せねえ気がするんだよなあ」

「あら、そうですか? やっぱり女性だから、とか」

「うん、それもあるんだけどさ、ほら、あれ」


 試合の様子を、和人はあごで指す。

 芽衣子もそこを見るが、ただ千明と数学教師がにらみ合いをしているだけで、いまのところなにも起こってはいない。

 と、思うと、千明のほうが先手をとり、数学教師に詰め寄った。


「あれがなあ、やっぱり気になるんだよ」

「あれって……精霊使いほどは、速くないと思いますけど」

「ちがうちがう。あれだって、あれ」

「あれって――あ」


 芽衣子も気づく。

 気づいて、むう、と唇を尖らせる。


「和人さんっ」

「だって気になるだろっ」

「だからってだめですっ。そ、そんな、おっぱいが揺れるところばっかり見てちゃ」

「試合本番でも見とれそうでいやなんだよなあ。いままでのやつもそれで負けたんじゃねえのか」


 しかし、それを抜きにしても、千明は強い。

 堅物たる数学教師もさすがに躍動する胸部には意識をやらざるをえないようだが――目線を見ていれば客席からでもわかる――、動きそのものまで鈍らせることはない。

 冷静に、できるかぎり有効と思われる対処をしているが、積極的に攻撃してくる千明に押し込まれているのが現状である。

 相手が精霊使いではない、というのも、数学教師が押し込まれている理由になっている。

 同じ精霊使いなら、力量の差はあっても、この程度なら防げるだろう、と予想がつく。

 しかし人間相手ではそれができない。

 躱すだろうと予想し思いきった攻撃をして、万が一躱しきれずに当たった場合、ただの怪我では済まないのだ。

 人間である、という不利が、ここでは逆転している。

 和人もいよいよ次の相手として千明を認識し、真剣な眼差しを向ける。


「うーん……それにしても、でかいな」

「和人さんったら!」

「い、いや、男ならしょうがないんだって!」


 じっと芽衣子は和人を見つめる。

 和人はふいと顔を背ける。

 むう、とうなって、芽衣子は和人の頬をつねる。


「い、いてえっ」

「じっくり見ちゃだめですよ。そんなの、相手のひとにも失礼なんですからね。それにすぐそばにほかの女の子がいるのに、おかしいです」

「いやだからな、男ってのは生まれつきそういう生き物で」

「だめですっ。そ、それは、和人さんのおっしゃることだってわかりますけど! で、でも、そういうのはその、ほかの親しいひととかに目を向けるべきで、わ、わたしは和人さんがそうしたいって言うなら――」


 歓声が上がる。

 和人も、手を叩いている。

 試合が終わったのだ。


「いやあ、見事な試合だった。先生も油断したわけじゃなかったから、余計にすごい戦いだったな。――で、布島、なんか言ったか?」

「な、なんでもないですっ」


 ふんと芽衣子はそっぽを向く。

 首をかしげた和人はふと球技場に備えつけられている時計を見上げた。


「次の試合まで、あとどれくらいあるかな」

「十分くらいだと思いますけど、どうかしたんですか?」

「いや、大したことじゃないんだけど」


 あくびが、言葉を中断させる。


「とにかく眠いと思ってさ。昼寝でもしようかと」

「でも、すぐに試合ですよ。眠ったあとじゃ身体も動かないでしょうし」

「そりゃそうなんだけど……」


 浮かんだ涙を拭いつつ、またあくびをする。

 そのうち立っているのも億劫になって、和人は座席に座り、目を閉じた。


「時間になったら起こしてくれるか」

「え、ほ、ほんとに寝ちゃうんですか?」

「だって眠たいもん。このままじゃ眠たくて戦いどころじゃない。じゃ、おやすみ」

「え、あ……ほんとに寝ちゃった」


 和人はすぐに寝息を立てはじめる。

 よほど眠たかったらしい。

 呆れたように、しかしすこしうれしそうに笑って、芽衣子は和人のとなりに腰を下ろす。


「昨日の試験から、ほとんど休みなしですもんね……」


 条件はみな同じとはいえ、和人が人並み以上にがんばっていることを芽衣子は知っている。

 試験にしても徹夜で臨んでいたし、今日の試合も毎回全力で戦っている。

 いくら精霊石でも、回復が間に合わないのだろう。

 文字どおりの石になっている青藍も、いまごろ寝ているのかもしれない。


「いまぐらいはゆっくり休んでくださいね」


 芽衣子はやさしく和人の左手に自分の右手を重ねた。

 そして目覚めの時間が訪れるまで、飽きることなく和人の寝顔を眺めるのだった。


  *


 和人はあくびを洩らす。

 相対する女は、くすりと笑う。

 和人も曖昧に笑った。


「すんません、さっきまで寝てたもんで」

「見ていたよ。よくあれだけぐっすり眠れるものだ。きみを起こしていた女の子が苦労していた」

「いやあ……昔からどうも寝起きが悪くて」


 ――武道大会Aブロックの最終戦である。

 二ヶ月前に学園へやってきたばかりの転校生、牧村和人と、大会直前に急遽出場が決まった国龍千明の一戦となっている。

 どちらも学園生活は長くないが、同じ学園の生徒として、観客席はいくらか和人へ向ける声援が大きい。

 しかしはっきりと聞き取れる程度は千明への声援もある。

 というより、声援を送る層がちがうのだ。

 女子生徒は比較的和人が多い。

 男子生徒のほとんどは千明である。

 その理由はよくわかる、と和人もうなずく。

 自分も応援する側なら、きっと千明を応援するだろう。

 千明が勝ち進めば勝ち進むだけ、その戦う姿が見られるわけだから。

 しかし千明は、自分に憎悪が向けられようと、声援が向けられようと、眉ひとつ動かさない。

 周囲の声は、千明には届いていない。

 千明はただ相対する和人だけを見ている。

 目や耳だけではなく、全身で和人を意識し、些細な動きにも反応する。


「もう眠気は抜けたのか?」

「なんとか」


 言いつつも、和人はあくびをする。


「いや、ほんとに大丈夫です。裏で運動もしてきたし」

「そうか。では遠慮も必要ないな」

「もちろん」

「わたしに対しても遠慮はいらない。精霊使いではないと手を抜く必要もないし、攻撃を押さえる必要もない。わたしの武器はこの身体だ」

「か、身体……」


 和人は思わずその「身体」を見つめる。

 味気ないシャツとズボンだが、引き締まった腰も長くすらりとした足も豊満な胸も、なにひとつその魅力を覆い隠せてはいない。

 いやそういう意味ではないのだ、と和人は首を振る。


「わたしはこの武器を存分に使う。きみも自分の武器を使うといい」

「武器っていっても、おれのは刃物ですけど」

「もし試合の結果わたしが怪我を負っても、あるいは致命傷を受けても、結局それはわたしが未熟だということ」

「いやいや、こっちの気分っていうか、良心が痛みますって。でも、まあ――もともと、手を抜くつもりはないですけど」

「それでいい」


 千明は笑ってうなずく。

 魅力的な笑みである。

 怖そうなひと、と八白は千明を評したが、和人はむしろ、まっすぐなひとという印象を受ける。

 深く思い悩むこととは無縁の、信念によってのみ行動するひと、という印象である。

 和人はそれをうらやましく思う。

 自分も他人に、そんなふうに見られたいと思うのだ。

 あいつはなにかと思い悩んでいる、とは思われたくない。

 実際に思い悩みたくもない。

 悩んでいると、それ以外のことはなにもできなくなる。

 手にも足にも悩みが絡みつき、身体が動かなくなるのだ。

 だから、そのあいだに大切なものを失ったりする。

 二度と手に入れられないものを見逃してしまったりする。

 そんなことがないように、早く「目的」というものを見つけなければならない。

 そして見つけた「目的」から決して目を離さず、ただそれだけを見つめて、前へ進む。

 和人が理想とする生き方は、それである。

 和人から見て、千明はそんなふうに生きているように見えた。

 もちろん、和人は千明のことはなにも知らない――それこそ名前しか知らないが、その背景に透けて見えるものは、自分が求めているものと近い。

 いま和人の手足を絡め取っている鎖が、千明の後ろにも見え隠れする。

 しかし千明の背後に見えるそれは、すでに引きちぎられているただの残骸である。


「きみは、わたしと似ている」


 不意に、千明が言った。

 和人は顔を上げた。


「おれと、どこが似てるんですか?」

「もちろん、見た目ではないよ」


 千明は笑う。


「きみは男で、わたしは女だ。まあ、髪の長さは同じくらいかな」


 千明が冗談を言っているのを、親しくはない和人でさえ意外に思う。

 試合を前にして、千明もある意味で高揚しているのかもしれない。


「性格も、おそらくはちがうだろう。わたしはきみほど多くの友人を持っていない」

「でも、ここへいっしょにきた男のひとたちは?」

「あれは部下だ。友人とはすこしちがう。信頼しているが、部下はどこまでいっても部下でしかない。上官も同じだろう。わたしはそういうなかで生きてきたんだ。わたしのまわりに人間関係は常にあったが、対等な関係として友人がいたことはない。きみには友人が大勢いるようだ」


 和人は照れたような顔をする。

 友人が多い、と評価されるのは、たとえば容姿についてほめられるより和人にとってはよろこびだった。


「似ているのは、おそらく心だ」


 千明は、自分の胸を見下ろす。

 和人はそれにどきりとしながら、いやいやと首を振る。

 観客席が一瞬静まり返ったことを思うと、その千明の仕草に胸が高鳴ったのは和人以外にも大勢いたらしい。


「考え方と感じ方が似ているんだろう。わたしがきみくらいの年頃のころは、きみと同じように世界を見ていたと思う」

「おれと同じように、ですか」

「そうだ。だから、きみには期待をしている」

「……あなたと同じ答えに辿り着くって期待ですか」

「いや、そうではない。きみが辿り着いた答えは、わたしにとっても答えであるだろうという期待だ。選ぶ道はちがうかもしれないが、きみがその道を選択する根拠は、わたしにも納得できるものだと思う」


 大して話したこともない相手なのに、という一方で、千明の言葉が理解できる気がしている和人だった。

 理屈ではなく、なんとなく、わかるのだ。

 千明と自分が似ている、と彼女が思う根拠も、自分の選択と彼女の選択が同じ価値観で行われるという確信も、和人にはわかる。


「きみはまだ答えを探しているんだろう。わたしは、その答えを何年か前に見つけたよ」


 千明は言った。

 和人も言う。


「おれも、今日までその答えはまったくわかってなかったんですけど、いろいろあってやっとわかりそうになってきました。もしかしたら答えなんてないのかもしれないけど――でも、戦う理由とか、生きていく理由とか、そういうものに悩まなくなる日はくるかもしれない」

「そう、それが答えだよ。しかし答えはひとつではない。わたしが見つけた答えと、きみが見つける答えがおそらく異なるように。いってみれば、賭けのようなものだ。わたしは自分の全存在を正義に賭けた。人間たちを幸福に導く正義だ。きみもいつかは、なにかに自分のすべてを賭けなければならない」

「だったらおれは、もう決まってますよ」


 和人は、不敵に笑って剣を構える。


「おれも行き着くところは正義だ。でもたぶん、あなたの言う正義とはちがうんでしょうけど――おれは人間全体の幸福までは、祈れない」

「ではなにを祈る?」

「さあ……せいぜい、友だちが幸せでいられるように、かな」

「それもむずかしいことだ。とくに、きみのように友人が多いと」

「かもしれませんね」


 和人は笑う。

 千明も笑って、構える。

 ふたりの目がすっと細くなる。

 表情が引き締まり、戦闘するためのふたりに変わって、空気が緊張する。


「じゃあ」


 と、どちらともなく声をかけた。

 戦闘開始の合図である。

 先をとって千明が前に出る。

 背中をぐっと丸め、身体を縮めるようにして和人の間合いに入ってくる。

 和人はひとつ、息をついた。

 剣先が鋭く走る。

 頬を掠めても、千明はぴくりともしない。

 そのまましなやかな足で和人を狙う。

 剣の柄で受け、一度足を弾いて、すかさず千明の身体があった空間を薙いだ。

 すでに千明は和人の後ろへ回り込んでいる。

 しまった、と和人が思ったときには、後ろから羽交い締めにされている。


「精霊使いには、こういう体術が比較的有効だ」


 耳元で千明が囁く。

 和人はもがくが、外れない。

 有り余る力をすべて受け流されているような気分だった。

 おまけに、


「こ、これはっ」


 背中に、やわらかくて大きなものが、ぴたりと押しつけられている。

 それがどうも和人のやる気を殺ぐらしい。

 客席からも、


「うらやましいぞこの野郎っ」

「離れろ、離れろ!」


 と野次が飛ぶ。

 見れば、その野次を飛ばすひとりは卓郎である。


「てめ、試合にかこつけてそれをするのが目的だったんじゃねえだろうなっ。おれがやりたかったぞ、代われ代わ――」


 声が途切れたのは、見るまでもなく、菜月に粛正されたにちがいない。

 そうした外野の声とは別に、和人は真剣に千明を振り払おうとしている。

 この身体が密着した状況がうれしくないといえばうそになるが、関節を的確に押さえられ、このままでは本当に身動きがとれなくなる。


「このっ、くっ……」


 両腕を押さえられ、力が出せない。

 不意に思いついて、和人はわざと真後ろへ倒れ込んだ。

 さすがに千明は倒れる瞬間に和人を解放し、逃げる。

 和人も地面を転がって体勢を立て直した。


「危ねえ、負けるところだった……」

「いい判断力だ」


 すぐに千明は次の攻撃へ取りかかっている。

 和人の間合いに入ることまでは前回と同じだが、今度は背後へ回らず、正面に立って和人の攻撃を受け流す。

 長い剣は、間合いの内側に入られると、とたんに攻撃の手段が限られる。

 小回りの利いた攻撃だけに意識を集中すれば、すべて受け流すこともむずかしくない。


「むっ、よっ」


 右、左、と剣を振るい、危険な突きさえ繰り出す。

 千明はすべて紙一重で躱している。

 剣筋があらかじめ見えているような振るまいである。

 実際、どのような攻撃をしてくるのかは、読まれているのだ。

 正攻法ではむずかしい。

 それなら、と和人は剣を振りかぶる。


「むっ」


 と千明は後ろへ飛んだ。

 真上から、稲妻のように剣が振り下ろされる――が、千明はむしろ、その真下へ入っていく。


「おおっ」


 驚いたのは和人である。

 なにしろ、振り下ろした手には、なにも握られていない――武器はすでに消しているのだ。

 千明は易々と和人に接近し、


「その手は、一度見た」


 と笑ってみせる。

 今度は和人が後ろへ飛ぶ、が、千明のほうが早い。

 和人の腕を掴み、すっと背中を向ける。

 千明より大きい和人の身体がふっと浮き上がった。

 一本背負いである。


「ちょ、ちょっと――」


 千明の背を軸に、くるりと和人は一回転して、地面に叩きつけられる。

 ぐっ、と肺から空気が漏れ、それでも和人はすぐに転がってその場を逃れた。


「いてえ……一本背負いってこんなに痛いもんなのか」


 背中を押さえながら、和人は呟く。


「硬い地面に首から落とせば、命の危険もある」


 平然と千明は言う。

 和人は口元を引きつらせて笑う。


「し、死ななくてよかったあ……」

「殺すことが目的ではないから、そんなことはしないよ」


 千明も笑うが、あの笑みは信用できない笑みだと和人は思う。

 和人は消していた武器を出し、構える。

 いまのところ千明は二度有効打を出しているが、和人はまだ一度も千明に当てていない。

 接近戦は不利だと和人は判断し、とにかく千明との間合いを保つ。

 千明が一歩出れば和人は一歩下がり、千明が後ろへ飛べば和人は前に詰める。

 剣の間合いの、ぎりぎり外である。

 その間合いを保てば、和人が攻撃を喰らう可能性は低い。

 しかし欠点もある。

 千明の行動に合わせなければならない分、どうしても千明より一瞬遅れる。

 加えて、千明の一挙手一投足をじっくり観察しなければならないから、どうしても目が、その胸部に向かってしまう。

 なにしろ、揺れるのだ。

 前後左右、自由自在に揺れるのだ。

 見る度、どきりとしてしまう。

 そんな場合かと自分を叱咤するが、叱咤しているあいだに千明が動き、つまりその胸部が動けば、見てしまう。

 悲しい男の性である。


「見るな、見るな。足を見ろ、手を見ろ。乳から動くなんてことはないんだ。まずは足、足を見ろ」


 ぶつぶつと呟く。

 視線は足下に固定する。

 千明のほうも、そんな和人の様子には気づいている。

 なぜそうなっているのか、という理由まではわからないにせよ、動きを読むことに集中できていないのだ、ということは見てとれる。

 なにしろ、和人は明らかに挙動不審である。


「ふむ」


 と千明はひとつうなずき、陽動作戦に出る。

 必要以上に前後し、飛び上がり、集中できていない相手をさらに疲弊させる作戦である。

 この作戦は、千明の思惑とは別の意味で、効果的だった。


「おお……」


 と観客席からも感嘆の声が上がる。

 とくに、飛び上がる瞬間や、着地の瞬間に声が多い。

 比較的離れている観客席からでもそんな様子である。

 たった三、四メートルの至近距離でそれを見ている和人は、もはや直視できない。

 顔を赤らめ、千明が動くとさっと顔を背ける。

 まさかそんな様子で千明の攻撃を防げるはずもない。


「し、しまったあ!」


 気づけば、千明が一メートルほどまで詰めている。

 剣を構えるより早く、千明の手が和人の腕を押さえている。

 和人も精霊石の力を使ってそれを振り解こうとするが、肘を押さえられていて、思うように千明の手を振り払えない。

 かといって、千明のほうも圧倒的な和人の力を抑えるのが精いっぱいという様子である。

 腕を掴み、にらみ合う。


「どうするかなあ……」


 呟く和人に、千明は笑う。


「な、なんかおかしいですか?」

「いや、きみを笑ったのではない。わたしはこういう瞬間が好きなんだ。戦いのなかで、さて次はどう動こうか、と考えるときが。それで、楽しくてね」

「た、楽しいですか……」


 菜月と同じ種類の戦闘狂である。

 和人には、その気持ちはわからない。


「とにかく、この体勢はよくないな」


 なんとかして千明から離脱しなければならない。

 腕を押さえられていてはなにもできないし、なにより、千明の身体が近い。

 千明はぐっと胸を張って和人の両腕を押さえている。

 その圧倒的なふくらみに惑わされて、このままではろくに動けない。

 和人は腕を手前に引く。

 足を踏ん張って千明が押さえると、すぐ千明のほうへ腕を突き出し、それからもう一度手前へ引っ張った。

 さすがにこの緩急と力は御しきれない。

 千明の身体は翻弄され、最終的に和人へ引き寄せられる。

 とっさにその身体を抱きとめた和人は、


「あれ?」


 と首をかしげる。

 離れようとしたはずが、先ほどよりも密着している。

 しかし見ようによっては和人が関節を決めているようにも見える。

 その手があったか、と和人は千明の身体を羽交い締めにし、序盤でやられた関節技をそのままやり返した。

 が――、


「引っ込め、このセクハラ魔神め!」

「うらやましすぎるだろっ」

「距離とって戦え!」

「牧村くんにはがっかりだわっ」


 後ろから関節を決めると、どうも左腕が千明の胸部を押さえることになる。

 実際、和人の左腕は千明の胸に、ほとんど埋もれている。

 揺れている様子は見ていたが――現実に触れてみると、愕然とするやわらかさである。

 和人は完璧に関節を決めたにもかかわらず、三秒と保たず千明を解放することになった。

 距離をとり、向かい合うふたりは、うまく攻めた和人のほうが動揺している。


「いまのなかなかいい攻撃だったが」


 と千明は首をかしげる。


「どうしてすぐに放した? 手を抜いているのなら、その必要はない」

「い、いや、そういうわけじゃないんだ。理由は……そ、その、言えないけど! でも手を抜いてるとかってわけじゃない」

「ふむ、そうか。なら、いい」


 接近戦は危険極まる、と改めて和人は実感する。

 距離をとって戦わなければ、物理的にも危ないし、心理的にも追い詰められる。

 戦いの最中なのだ。

 それに集中しなければならない。

 それ、というのは、もちろん、揺れ動いて誘惑する胸部のことではない。


「このままじゃ負けちまうぞ。しっかりしろよ、おれ」


 ぱしんと頬を叩き、和人は気持ちを引き締める。

 とにかく、攻撃だ。

 勝つには攻撃しなければならない。

 残り時間も五分を切っている。

 しかし和人が地面を蹴る一瞬前に、千明が仕掛けている。

 千明からしてみれば、接近する以外に勝ち目はない。

 とにかく和人へ近づく。

 後ろへ逃げられ、剣でもって間合いを作られても、なんとかその攻撃をかいくぐって内側へ入ろうとする。

 和人はそれを防ぐ。

 直接的な攻防ではなく、間合いをめぐる攻防である。

 ぶんと和人が剣を振るい、千明を追い出す。

 剣が通過したあとを狙って千明はぐっと距離を詰める。

 すかさず和人は手首を返し、剣の柄で防御する。

 千明は攻めあぐね、またすこし距離をとる。

 今度は和人のほうが攻めた。

 積極的に前へ出て、千明目がけて鋭い突きを放つ。

 千明はほんの数センチ身体をずらすことで躱し、逆にその剣を脇に挟んで捕らえた。


「あっ――」


 一瞬の油断である。

 刀身を滑るように千明が間合いへ入り、和人の腕を取る。

 同時に足払いも仕掛けられ、どちらも躱せぬまま和人は地面へ倒れ込んだ。

 そこに千明が馬乗りになる。

 マウントを取るも、長居はしない。

 そのまま身体を滑らせ、和人の右腕を足に挟んで、しっかり固めた。


「くっ――」


 和人はなんとか返そうとするが、右腕は完全に取られている。

 足で挟まれ、肘を軸に逆方向へ曲げられる。

 肘に激痛が走り、和人は思わずうめいた。

 しかし一方で、


「て、天国と――地獄じゃねえか」


 肘には激痛だが、それより上、手首のあたりは、どういう因果か、千明の胸のあいだにすっぽりとはまり、埋もれている。

 この期に及んでその魔術的なやわらかさが和人の戦意を殺ぐ。

 かといって、肘の激痛がそのような桃色の妄想を許してはくれない。

 嬉しいような、苦しいような――和人はなんともいえない表情でもがく。

 普通の人間なら、ここまで完全に固められるとどうしようもない。

 精霊使いなら、まだ手はある。

 和人はすばやくそれに気づいた。

 まず固められている右腕に持っていた武器を消す。

 それをすばやく左手で具現化させる。

 剣先を突きつけ、千明に解放を迫った。

 堪らず千明は和人の右腕を放して距離を取る。

 和人は腕を押さえながら立ち上がった。

 さすがに、千明は容赦ない。

 折れてはいないが、もうすこし抵抗をしていればそれくらいはためらわないだろう。

 もっとも、精霊使いにとっては、骨が折れる程度は数日で回復する傷なのだが、この戦闘では使用不可能になる。


「なるほど、精霊使いならそう逃げるか」


 感心したように千明はうなずいた。


「次からは、その隙も与えないようにする必要があるな」

「まあ、それ以上に天国のほうがやばかったけど」


 和人は時計を見る。

 制限時間まで、残り二分ほどしかない。

 そろそろ最後の攻撃に出なければならない。

 剣の攻撃では、大振りすぎて当たらない。

 それにやはり、刃物では思いきった攻撃には出られない。

 肉弾戦で勝つしかないのだ。

 和人は剣の柄を握りながら、頭のなかで作戦を思い描く。

 それが可能かどうかは、うまく精霊石を使えるかどうかにかかってくる。

 つまり青藍と意思疎通することが大切なのだ。

 向こうは、石になっている。

 しかしこちらの言葉は聞こえているはずだ。

 和人は口には出さず、剣の柄を握ることで、それを伝えようとしている。

 どのような作戦でいくのか、それには青藍がどのような協力をする必要があるのか、言葉ではなく、心でそれを伝える。

 そして和人は前を向いた。


「最後の勝負か」


 千明も口元を歪めて、笑う。

 先に動いたのはその千明である。

 一気に距離を詰め、まずは剣の間合いのなかへ入ろうとする。

 和人はむしろ、自ら千明を間合いのなかへ招き入れた。

 そのとき、和人の手に剣は握られていない。

 千明の拳を腕で防ぎ、バネのように俊敏に飛び上がる足をしゃがんで躱す。

 立ち上がったところに、ちょうど千明の踵が落ちてくる。

 体術では千明のほうに利がある。

 が、和人は焦らず、その踵を剣で防いだ。

 しかし剣は次の瞬間には消え去り、また和人は自由になった両手で千明の腕に掴みかかる。

 千明はそれを振り解き、顎を狙って蹴り上げた。

 ぎん、と剣が震える。


「なるほど」


 呟く千明はすばやく後ろへ飛び、一旦距離をとった。

 和人は手ぶらで立っている。


「剣にも、そういう使い方があるか」


 腕では受けきれない防御の瞬間にだけ現れる剣――それは、和人に三本目の腕があるのと同じ効果を発揮する。

 二本の腕では勝ち目はないが、三本ならば、互角に戦えるのだ。

 今度は和人から距離を詰める。

 千明は和人の攻撃をうまくさばきながら、隙を突いて攻撃も繰り出す。

 しかしことごとく和人の剣に弾かれる。

 そのような攻防が五度ほどあったあとだった。

 和人の攻撃のすき間に反撃を繰り出した千明は、またもや剣に防がれる。

 それを予想して、すぐ体勢を立て直そうとする千明だが、不意に頭上から気配を感じて横へ飛んだ。

 千明がいた場所に、美しい剣がまっすぐ降ってくる。

 しかし地面に刺さる瞬間にその剣は姿を消し、和人の手のなかに現れた。


「それは――そうか」

「精霊石の剣は、わざわざおれが持つ必要もないんだ」


 右手や左手に剣を具現化できるなら、それ以外の場所でもできるはずだ――その発想が、作戦のもとになっている。

 実際、精霊石が変化したものである武器は、精霊石の力が届く範囲ではいかなる制約もない。

 すべて持ち主が念じたように動くが、念じるという行為が、なかなかにむずかしい。

 自分とは無関係な場所に精霊石を移動させるには、相当の集中力が必要になる。

 とても戦闘中にできるものではないのだ。

 しかし和人は、青藍に協力を仰ぐことで、それを可能にしている。

 一方的に念じるのではなく、対話し、精霊石自らが協力することで複雑な工程を飛び越えることに成功したのだ。


「三本目の腕は、攻撃もできるというわけだな」


 なおも千明は楽しげに笑う。

 和人にはそれだけの余裕はない。

 精霊石を制御することで意識がいっぱいになっている。

 試合の残り時間は一分を切っていた。

 千明は逃げずに立ち向かっていく。

 二本の腕と足を使い、身体全体を躍動させて攻める。

 ここへきて、千明の身体には疲れが見えていない。

 むしろ、より俊敏になっている。

 柔軟に身体をしならせながら長い足で攻撃し、隙を作る前に距離を取る。

 しかしいまの和人に距離は無意味である。

 かすかな風の動きか、あるいは気配と呼ばれるようなものを感じ取ったのか。

 距離を取った千明の真後ろから、剣が単独で千明に向かって飛んでくる。

 音もないその攻撃に気づき、回避行動をとるだけでも常人離れした反射神経のよさが窺える。

 剣を空中で弾き落とすために、足を高く上げる。

 それを振り下ろした瞬間、しまった、と千明は心中で呟いた。

 弾き落とすべき剣は、すでに消えているのだ。

 足は空振り、体勢を崩す。

 とはいえ、一瞬のことである。

 その一瞬のうちに和人は千明へ近づき、千明へ向かって手を差し出した。

 すこし遅れて、その手に剣が現れる。

 美しい刀身は千明の身体にぴたりと当てられていた。

 ふたりの動きがぴたりと止まり、慌てて審判が駆け寄る。


「そこまで!」


 勝者、牧村和人、と勝ち名乗りが上がる。

 一瞬の間のあと、大歓声が和人を包んだ。


「なんだよ、途中までぶーぶー言ってたくせに」


 と呟きつつ、和人もうれしげである。


「それだけきみの戦いが見事だったということだろう」


 千明は和人に手を引かれ、立ち上がる。


「わたしも観客と同意見だ。見事な戦いだった」

「いや、精霊石の飛び道具って卑怯っぽいですけどね」


 苦笑いで、和人は頭を掻く。


「そんなことはない。だれにでもできることではないのだから、それがきみの能力ということだ。それに、卑怯な手で敗れるようなわたしではないよ」


 千明は敗れても、さほど悔しげではない。

 むしろやわらかな笑みを浮かべている。

 試合中のような、好戦的で剣呑な笑みとはちがい、年頃のひとりの女性としてのやさしい笑みである。

 どきりとした心を隠すように、和人は視線を逸らす。


「でも、国龍さんも精霊使いじゃないのにあれだけの動きができるってのはすごいですよ。おれは精霊石がなかったら、とてもあんなことはできない」

「その分、きみには精霊石がある。わたしにそれを使う能力はない。しかし、たしかに他人に負けたのは久しぶりだ。子どものころ父に負けて以来かな」

「乳……じゃなくて、お父さんですか」

「いまは警察の幹部をやってる。まあ、向こうも年老いてきたし、いま戦えばわたしが勝つと思うが」

「け、警察の幹部……つ、強そうっすね」


 父親が警察の幹部で、娘は軍人である。

 恐ろしいような、頼もしいような一家だな、と他人事のように和人は思うが、それが他人事でなくなる一言が千明から発せられる。


「いつか、うちの父にも会ってくれるか?」

「え、ええっ! な、なんでおれが?」

「わたしを負かした男だし、なによりきみのことが気に入っている。昔から気に入っている他人は父にも会ってもらうようにしているんだ。父も、きみのことを気に入るだろう」

「そ、そうですかね……なんかこう、殴られたりしないですかね? 娘とはどういう関係だ、って。ああでも、いままで会ったひとはみんな無事なんですもんね」


 それなら、と和人は胸を撫で下ろす。


「いままで父に会わせたのはふたりだけだが、どちらのことも父は気に入っているようだったよ。ひとりは昔の上官で、もうひとりは恩師だが」

「上官と恩師……なんかおれだけ関係がちがう感じしませんか」

「そうかな? まあ、大丈夫だろう。父は厳しいひとだが、理不尽ではない」

「こ、怖ぇ……お父さま怖ぇ……」


 新たな恐怖に震えながら、和人は試合場を出る。

 観客席までの通路で千明とは別れ――その際に連絡先を忘れずに渡された――客席へ戻る。

 待っていたのは、熱烈な歓迎である。


「よう、帰ってきたな、セクハラ界のプリンス! 揉み心地はどうでしたかこのやろうっ」

「セクハラ界のプリンスってなんだよっ」

「毎試合のように対戦相手にセクハラを繰り出してるおまえに弁解の余地はないっ」

「せ、セクハラなんかしてねえ! あれはどう見ても不可抗力……だだだったよな? そそそそう見えたよな?」


 菜月の笑顔を見つけ、和人は卓郎にすがる。

 卓郎はすかさずすっと和人を解放し、自分は被害が及ばない場所まで逃げる。


「あ、てめ、それでも友だちかっ」

「お帰りなさい、牧村くん」

「たたたただいま……」

「あら、なにをそんなに怯えてるの?」


 菜月はくすくす笑う。


「もしかして、わたしが怒ってると思ってるの? まあ、たしかに目に余る行動はあったけど」

「す、すみません……」

「でも勝ちっぷりがよかったから、別に怒ってないわよ。よく土壇場であんなこと思いついたわね」

「いや、できるかなって思って、やってみただけなんだけど……うまくいってよかったよ。失敗したら、おれが負けてた」

「牧村くんっ」


 八白と芽衣子も駆け寄ってくる。


「和人さん、すごく格好良かったです!」

「ほ、ほんと、すごかったよっ」


 ふたりの手放しの称賛に、和人はさすがに照れる。

 照れ隠しにトーナメント表などに目を向けなかったら、勝者の気分はもうすこし持続していたにちがいない。

 しかし和人はそれを見た。

 Aブロックのほうは、ちょうどその頂点に和人の名前が刻まれたところである。

 いままで全五戦、巨大なトーナメントの頂点に自分の名前がある様子は感慨深い。

 AブロックのとなりにはBブロックのトーナメント表も張り出されている。

 大会がはじまったとき以来、そちらのトーナメント表は確認していなかったが、次の決勝戦はBブロックの勝者と対戦することになる。

 向こうはだれが勝ったんだろう、と軽い気持ちでBブロックのトーナメント表に目を向けた和人は、度肝を抜かれた。


「な、なな、なんであのひとが!」


 Bブロックの頂点、決勝戦進出者の欄には、江戸前有希子、という名が堂々と記されているのだった。


  *


 試合場に出ていく和人の足取りは、明らかに覇気がない。

 背中は曲がり、肩を落としている。

 これから戦いにいく若者の後ろ姿ではない。

 夢に破れた中年男性の哀愁さえ漂わせている。


「なんで相手が先生なのかなあ……」


 もともと、和人は江戸前有希子が苦手である。

 天敵といってもいい。

 好きやきらいというものを超越して、合わないのだ。

 しかしそう思っているのは和人だけで、相手は平然としているというのもまた、合わない一因になっている。

 重たい足取りで試合場へ向かっていた和人は、ふと観客席にあっけなく敗北した教師一団がいるのを見つけ、近づいた。


「賀上先生……なんていうか、おれはがっかりです」


 クラス担任の賀上伸彦は、有希子と同じBブロックに入っていた。

 そのとなりでしかめ面をしている椎名哲彌も同じくBブロックだが、両者ともに優勝候補でありながら、有希子に敗れている。


「いやあ、これでもがんばったんだけどね」


 伸彦は屈託なく笑う。


「さすがに、お嬢には敵わなかったよ。いや、面目ない」

「お嬢?」

「江戸前先生の学生時代のあだ名だよ。ぼくとは同い年だからね。つまり椎名先生からしてみれば、一年後輩なわけだ」

「で、その後輩のお嬢に負けた、と」

「力の差に年は関係ない」


 しかし見るからに哲彌は悔しげである。


「まあ、勘弁してやってくれよ、牧村くん。椎名先生はたしかに比較的みっともなくやられたけど、男として悔しがる気概はあるんだから」

「おまえがそれを言うか?」


 と哲彌。


「いやまあ、別に怒ってはないですけど……」


 和人は声をひそめ、囁く。


「有希子先生って、そんなに強いんですか? 正直、ドジをやってるところと泣いてるところしか見たことないんですけど」

「普段はまあそんな様子なんだけどね、戦うと強いんだよ、これが。学生時代も何度かこの大会で優勝してるし」

「げっ……そんなにですか」

「いまきみたちが着てる制服だって、お嬢が優勝したときに作ったやつなんだよ。毎日着ていく私服を考えるのがめんどくさいからって」

「こ、この制服にまさかそんな理由があったとは」

「江戸前は天才だ」


 哲彌が低い声で言う。


「精霊使いとして、あれ以上の才能を持つやつは見たことがない。しかし、おまえなら勝てるかもしれない」

「お嬢は、才能だけは桁外れなんだけどね。とにかく努力とか根性って言葉を知らないひとだから」


 ああ、と和人はうなずく。

 たしかに有希子は、そういう熱血とはかけ離れている。


「まあ、全力でがんばることだね。そうすればきみにも勝機はあるよ」

「はあ、そりゃもちろんがんばりますけど」


 和人はすこし真剣な顔になって、ふたりに顔を寄せた。


「ちょっと妙な話を聞いたんですけど、いいですか」

「妙な話?」


 歓声に消され、会話の声は周囲に聞こえるはずもないが、三人はそれぞれ声をひそめる。


「この学園の警備って、いまはどうなってます? 大会にひとを使って、手薄になってるとか」

「いや、警備の数は普段どおりのはずだ」

「じゃあ普段から穴があるのか――」

「どういうことだい」

「どうも、この大会が終わるのを待って、危ない連中が学園に入り込むらしいんですよ」


 伸彦と哲彌は顔を見合わせる。


「牧村くん、いったいどこからそんな話を聞いたんだ」

「いや、別にだれからってこともないですけど」


 と明らかにはぐらかし、


「とにかく、そういう連中がくるってことはたしかなんです。いまのうちになんとか対策ができませんか」

「しかし入り込むといったって、どこからくるのかわからないし――そもそもどんな連中なのかもわからない。どうしてきみがそれを知っているのかも」

「場所はたぶん、警備が手薄になっている場所です。正門とか、そういう場所から堂々と乗り込んでくるわけじゃない。隙を突いてくるなら、どういう方向からくるのかだいたいのことはわかるはずです。それから、攻めてくる連中はたぶん精霊使いです。軍隊じゃない」

「ふむ、そいつはやっかいだな。数人なら、問題はないけど」

「規模はもっと大きいと思います。それによく訓練されてるはずだから、うまく戦わないと被害が出ます」

「その情報の出所は聞かんが、間違いないんだな」


 哲彌が念を押す。

 真剣な顔で和人はうなずいた。


「よほどのことがないかぎり、実行されるはずです」

「学園襲撃の狙いは……きみの精霊石か」


 伸彦の言葉は、和人を驚かせるには充分だった。


「先生は、知ってたんですか」

「いや、そういう推測はできる、ということだ。きみの精霊石が並のものでないことは、ぼくたちも理解している。だからこそ、この学園からほど近い場所に保管して、精霊使いが守護していたんだよ。二ヶ月前のあの事件以降、向こうもその存在に気づいたんだ。なにかしてくるとは思っていたけど、学園襲撃ってほど大げさにやってくるとはね」

「戦争になるな」


 ぽつりと哲彌が言う。

 伸彦もうなずいた。


「単なる抗争では済まないでしょう。人間との関係も不安定な状況で、精霊使い同士の争いになるか……四面楚歌ってほどでもないけど、これから先は大変そうだ」

「なんとかその戦いを事前に防げませんか。向こうがくるってことはわかってるんだから、それより先に逃げるとか」

「まだ戦う能力のない生徒たちは逃がすことになるだろうけど、全員が逃げるわけにはいかないよ」


 伸彦は言った。


「この学園は、生徒たちにとっては家なんだ。外の世界でいろいろな目に遭った子どもたちが最後に辿り着く楽園なんだよ。どんな連中にせよ、好き勝手にこの場所を蹂躙することは赦されない」

「戦うんですか」

「もちろん」


 笑って、伸彦は和人に言った。


「襲撃は大会のあとなんだろう? それじゃあ、きみはしっかり大会の続きを楽しむといい。ぼくたちは残念ながらその試合は見られそうにないけどね」

「有希子先生には、どうしますか」

「大会が終わってから話すことにしよう。あのひとの性格上、ほかに悩み事を抱えて戦うのは無理だ」


 伸彦と哲彌は揃って立ち上がる。

 警備に連絡し、敵の襲撃地点を探し出すためである。

 和人は言いようのない無力感を覚えながら、それを見送った。

 試合場へ進むと、すでに有希子が待っている。


「遅いよー、牧村くん。おトイレ?」

「いや、ちょっと――」


 伸彦たちには告げなかったが、この試合が終わると同時に、芽衣子が襲撃班に合図する決まりとなっている。

 つまりこの試合をできるだけ引き延ばせば、その分だけ警備が強化できるし、襲撃地点を探し出す時間も稼げるのだ。

 相手が有希子というのがどうもやりづらいが、と和人は剣を構える。

 有希子もすでに武器を出している。

 刃渡りが二十センチほどしかない、短いナイフである。

 その間合いでどうやって戦うのかはわからないが、ここまで勝ち上がってきたのだから、人並み以上には戦えるのだろう。


「まさか、牧村くんが決勝の相手とはね」


 むふふ、と有希子は怪しく笑う。


「なんかうれしいよね。自分の生徒が立派になった気がして」

「いまは先生の生徒っていうか、賀上先生の生徒ですけど」

「むっ。牧村くんは先生の生徒でしょ? かがみんはただの担任なんだから」

「か、かがみん……」


 賀上先生もかわいそうに、と和人は心から同情する。


「でも普通、先生と生徒って担任で決めません?」

「か、かがみんとは二ヶ月しか付き合いないじゃん。わたしとはもっと長い付き合いだもんね?」

「まあ、前の学校でもそんなに話したことなかったけど」


 むむむ、と有希子はうなる。

 よっぽど、和人は自分の生徒だと認めさせたいらしい。

 有希子は、びしっと和人を指さす。


「じゃ、こうしようよ! この試合で先生が勝ったら、牧村くんはわたしの生徒ってことで決まりね。もし牧村くんが勝ったら、かがみんの生徒でもあるって認めてあげる!」

「明らかにおれのほうのメリットがすくないんですけど……」


 和人は責めるように有希子を見る。

 うっ、と後ずさる有希子は、不意に腕で身体を隠して、


「だ、だめだよ、そんなのっ。え、えっちなのはよくないと思うな、先生!」

「いやなんの話ですか」

「あの、そろそろはじめても?」


 しびれを切らしたように審判が言う。

 ふたりは素直に謝り、試合場の中央に戻った。

 最後の試合がはじまろうとしている。

 和人は複雑な心境である。

 試合に集中したいという気持ちもあるが、伸彦たちとのやりとりがそれを許さない。

 状況はどうなっているのか、気になって仕方がない。

 芽衣子のことを考えても、やはり平静ではいられない。

 学園を襲撃するのは芽衣子の仲間だ。

 どうすれば芽衣子を傷つけずに事態を収拾できるのか、和人は必死に頭をめぐらせたが、ろくなことは思いつかなかった。

 学園側の人間が傷ついても、襲撃側の人間が傷ついても、芽衣子は自分の責任だと感じるにちがいない。

 事実、そのとおりでもあるのだ。

 間諜として学園へ入り、おそらく襲撃がうまくいくように手筈を整えたのは芽衣子である。

 学園の人間が傷つくとしたら、そのせいということになる。

 そして相手側を裏切り、和人に真実を告げたことで襲撃側の不利にもなっている。

 どちらも傷つけず、この問題を解決することは可能か?

 自問し、答えが出ないまま、現状に至っている。

 和人の望みは、手の届く範囲の仲間を守ることだ。

 それくらいならできると、自惚れていた。

 学園の人間を助け、芽衣子を助けることができるという自惚れが、なにひとつ問題を解決できていない現在として現れている。

 八白の言うとおり、もっと力をつけなければならないと和人も考える。

 他人を圧倒できるだけの力が必要である。

 それをもって敵を制圧し、味方を守護する――その理想から遠くかけ離れたいま、和人ができることは、他人事のように伸彦たちを心配することだけなのだ。

 力がほしいと和人は望んだ。

 望んですぐに手に入るものではないとも理解している。

 ひとつずつ、段階を踏んで進まなければならない。

 この試合は、その意味に於いても、学園襲撃の問題に於いても重要な一戦だ。

 どう振る舞うかで和人と学園の未来が変化する。

 和人は、ひとつ深呼吸をした。

 できるだけ気分を落ち着ける。

 観客席のざわめきが聞こえなくなっていく。

 感覚に指向性が生まれる。

 和人の望む一点にだけすべての感覚が向かい、それ以外のことは意識の外に置かれる。

 うまくその境地に達した和人は、もう有希子しか見ていない。

 そして――試合ははじまった。


  *


 襲撃は山側からにちがいない、という意見でふたりは一致していた。

 正門は常に警備がいるし、裏門も同様に警戒している。

 警備に穴があるとすれば、あまりに広すぎる学園の、山に面しておよそひとが近づかないと思われている場所しかない。

 賀上伸彦と椎名哲朗は、すでに学園のなかにはいない。

 外の山肌を駆けている。

 天狗のように枝から枝へと飛び移り、鳥よりも速く駆け上がっていく。


「独断専行、って怒られるでしょうね」


 伸彦が呟く。


「おまえらしくもない」


 哲彌が言う。


「ぼくだって感傷的になることくらいありますよ。そういえば、二ヶ月前もこんな感じでしたっけ。あのときは織笠くんもいましたが――思えば、問題の発端はあの日からですね。あの日、あの場所で牧村くんが精霊石に選ばれてから。あのときはどうなるかと思って、椎名先生も狼狽えまくってましたけど、案外なんとかなるもんですね」

「おれはそんなに狼狽えていたか?」


 そうだっただろうか、と哲彌はまじめに思い出そうとする。

 そのあいだにも伸彦は気にせず進む。


「遅れてますよ、椎名先生」

「む――」

「結局、ぼくたちがただ心配性だっただけなのかもしれない。王の帰還なんて騒いだほうがいけなかったのかもしれない。牧村くんは、こういう言い方が許されれば、ただの子どもだ。気がよくて、仲間が多いただの精霊使いです。それ以上ではない。ましてや、王なんかではあり得ない」

「王なのは、牧村ではないだろう」

「精霊石ですか。青藍くんもそんなふうには見えませんが」

「そうだ。しかし、おれたちは見ている」


 二ヶ月前、山の頂上にある博物館での事件である。

 あのときに見たことを、伸彦も哲彌も忘れてはいない。


「ねえ椎名先生」

「なんだ」

「あのとき見たのは夢だったってことにしませんか」

「それができたら、いちばん幸せだろうな」

「本当に、悪夢みたいなものですよ。あれさえなければ、心配することもないんだ。あれさえなければ――」


 ふたりは木の幹に身を潜める。

 同時に気配を感じたのだ。

 人間の気配ではない。

 精霊石のそれが、さほど遠くない場所にいくつも待ち構えている。

 こちらが向こうに気づいた時点で、向こうもこちらに気づいている。

 へへ、と伸彦は幼い笑みを浮かべる。


「どうしますか、椎名先生。どうも、逃げられそうにはない」

「退けぬというなら、進むしかないだろうな」


 哲彌は無表情に近い。

 もともと表情が表に現れる男ではない。

 一方で伸彦の表情はころころとよく変わる。

 さっきまで笑っていたのが、いまは眉をひそめている。


「こんなことなら、本当に遺書でも残してくるんだったなあ。遺産でもめることがないくらい貧乏ってのはいいことですけど。椎名先生はどうですか」

「遺産でもめることはないだろうが……」


 珍しく哲彌は顔をしかめる。


「あいつらが心配だ。おれなしで、うまくやっていけるかどうか」

「……椎名先生、すみません。ぼく、いままで椎名先生を誤解していました。まさかそんなに生徒思いだったとは」

「なんの話だ? おれが言ってるのは、部屋で飼ってる魚たちだ。餌の種類が多くて、おれがやらないと飢え死にしてしまう」

「ああ……魚、ですか……放っておいてもだれかが食ってくれるんじゃないですかね」

「淡水魚で食ってもうまくはないんだ。見た目も悪い。ただ、でかい魚が好きでな。それで、飼ってる」

「でかいんですか」

「二メートルくらいはある」

「でかっ」

「それが四匹いる。アマゾンなんかにいるやつだ」

「それはたしかに後処理に困る……というか、椎名先生にそんな趣味があったこと自体驚きですけど。せめて犬くらいにしてほしかったな。爬虫類とか蜘蛛よりはいいですけど、巨大魚とは」

「買えば、なかなか高いぞ。死んだらおまえにやろうか」

「いりません。売るっていったって、どこのだれに売ればいいんですか」

「ペットショップなんかにはたまに売ってる。まあ、買い取りはしてくれないだろうが」

「だめじゃないですか」


 前方で、気配が動く。

 ふたりはとくに合図もなく、同時に飛び出した。

 太い木々のあいだを高速で抜ける。

 敵の気配は五つある。

 どれも森の風景に紛れているが、気配だけは隠しようがない。

 伸彦は右、哲彌は左へ飛んだ。

 伸彦は長く強固な剣を、木の幹に突き刺す。


「ぐう――」


 幹の向こうで呻き声がして、影が飛び出した。

 すかさずそれを追って、空中で追いつく。


「悪いけど、時間がないんでね」


 薄暗い森に、ぎらりと剣がひらめく。


「があっ」


 男の声は、すこし離れたところで起こった轟音にかき消された。

 哲彌である。

 伸彦は幹越しに敵を貫いたが、哲彌は二メートル近い木の幹ごと、一撃で敵を切り裂いている。

 轟音は巨木が周囲の木をなぎ倒しながら倒れる音である。


「派手にやるなあ……」


 気配は残り三人。

 それぞれ山のなかに散っている。

 伸彦は哲彌らしい気配が動くのを感じ、自分はその反対へ向かった。

 前方に、気配がひとつある。

 向こうは一度距離をとっただけで、逃げるつもりはないらしい。

 おそらくこの五人が本隊ではあるまい。

 斥候か、最前線を任されているのだろう。

 この芽は、すべて積んでおく必要がある。

 伸彦は、学園のためであればどんな犠牲も厭わないと考えている。

 その犠牲が他人であろうと自分であろうと、学園がそれによってすこしでも長く存続できるなら、伸彦はためらわない。

 急な斜面を駆ける。

 高い枝のひとつに、敵が潜んでいた。

 頭上から降ってくるナイフを弾きながら飛び上がる。

 相手も逃げるが、伸彦は枝を蹴って方向を変え、空中でその足首を掴んだ。


「逃がすわけにはいかないんだ」


 敵を地面に向かって投げる。

 地上数センチのところで敵は身体を回転させ、うまく着地した。

 その真上に伸彦も降りる。

 ぎいん――と金属音が尾を引いて山に響く。

 一瞬のつばぜり合いで、伸彦は相手を観察している。

 まだ若い男だ。

 その状況にも冷静に対応している。

 伸彦は後ろへ飛び、相手は距離を詰めてくる。

 背後には太い木がある。

 そこへ追い詰められた振りをして、伸彦は飛び上がった。

 すかさず敵もついてくる――が、そのときには、伸彦は枝を蹴って敵へ向かい恐ろしい速度で落下をはじめている。

 空中で影が交差した。

 あまりの速度に、両者とも黒い影としか見えない。

 骨を断つ鈍い音だけが響く。

 立ち上がった伸彦は、全身くまなく血で濡れている。

 返り血である。

 頬についたそれを拭い、生臭い匂いを気にするように眉をひそめる。


「残りのふたりは向こうに行ったか」


 伸彦は倒れた敵に近づいた。

 死んではいない。

 しかし長くもない。

 荒く呼吸する口からも血が流れ、額には脂汗が浮かんでいる。

 そのくせ、目だけは戦意を失わず、ぎらぎらと光って伸彦をにらんでいた。


「敵同士でなかったら、仲良くなれたかもしれないのにな」


 呟いて、伸彦は敵を抱え起こす。

 木の幹に座らせ、その前に屈んだ。


「きみの命は、もう長くない。肺を傷つけた。精霊石の快復力も追いつかない。それはわかっているね」

「学園の精霊使いか」


 幼さが残る声である。

 さすがに、伸彦は心が痛むのを感じて顔をしかめた。


「同じ精霊使いが、なぜおれたちの邪魔をする」

「ぼくもきみたちに同じ疑問を持っている。学園襲撃の理由は、だいたいわかるさ。だが、そんなものを手に入れてどうするつもりなんだ」

「精霊使いにとって理想の世界を築くために必要だ」

「そうか――きみたちは、革命をしようと思っているわけか。しかし、ぼくたちにとって理想の世界なんてものは、この世には存在しないんだよ」

「だから、作るんだろう」

「世界中でも数万人しかいない精霊使いが、六十億の人類を牛耳るというのか? そんな社会は、たとえ一時的にしたって成立しない。ぼくたちはあまりに少数すぎる」

「そうやって引きこもっているのがおまえたちだ。戦う意思もなく、自分で作った塀のなかに閉じこもって理想郷だとほざいているのがおまえたちだ。おれたちは戦うんだ。戦いもしないおまえたちに言われる筋合いはない」

「きみは、若いんだ。本隊がどこにいるのか聞き出そうと思ったけど、無駄だろうね。それなら、長く苦しむことはない」


 伸彦は剣を振るって、その場をあとにした。

 敵本隊の位置は、おおよそわかっている。

 この山で大人数がまとまって待機できる場所はそう多くない。

 おそらく、博物館跡だ。

 そこはいまも警察によって封鎖されているが、捜査はされていない。

 精霊使いがらみの事件として、学園が圧力をかけ、捜査はされないようになっている。

 哲彌も同じように考え、敵を片づけ次第、山頂を目指すだろう。

 伸彦は山を駆ける。

 表情は暗い。


「――精霊使いのための革命か」


 それは多くの精霊使いにとって、巨大な理想に見えるだろう。

 若者が生を賭ける価値があると思うのも無理はない。

 しかしその企ては必ず挫折する。

 すでに繰り返された歴史なのだ。

 地球上を席巻した戦争という流行が去ったあと、次に流行したのが革命だった。

 様々な人間が様々な場所で新たな社会の構築を目指し、そのなかには精霊使いのために社会を目指す連中も多かったが、ひとりとして成功はしなかった。

 おそらく世界中でもっとも革命が成功した国こそ、この日本なのだ。

 そして革命の基礎になった場所こそ不破学園なのである。

 不破学園は、決して閉じた学園ではない。

 むしろ社会と積極的に関わり、そのなかで一定の地位を占めるからこそ、学園として存在できる。

 だれかが学園を不快に思い――精霊使いを不快に思う人間は数え上げる必要もないほど多い――権力によって学園を破壊しようと目論んでも、それを跳ね返せるだけの政治力が不破学園にはある。

 社会を乗っ取るのではなく、社会の片隅に居座ることを選んだからこそ、不破学園は精霊使いにとっての理想郷であり続けられる。

 理想郷は存続させなければならない。

 それ以上の野心を出してはならない。

 いまこうして生きていることが、選択できるかぎりで最良のものであることを伸彦は知っている。

 しかし、戦いもしない臆病者という言葉にかすかな同意を覚えるのも事実である。

 野心を出せば、現状さえ失ってしまう――それは理解しているが、それでも望むべきものがあるのではないかと思うときもある。

 山奥の学園ではなく、どこへ行くにも子どもたちの自由といえるような社会を望むべきではないのか。

 幻だとわかっている理想でも、賭けてみる価値はあるのではないか。

 伸彦は、そう考える人間の気持ちがよく理解できる。

 同時に、自分はそうなってはいけないとも思う。

 かつて不破学園に出会って自らが救われたとき、この学園のために生きていこうと決めたのだ。

 いまの伸彦は、学園のためだけにある。

 正当かもしれないほかの意見を切り捨て、自分より若く未来のある他人を切り捨ててきた以上、いまさらあとには退けない。

 伸彦の行く手に、博物館の駐車場が見えてきた。

 かろうじてそれが視界に入るという距離で立ち止まり、木の幹に身を隠す。

 哲彌が合流するまではほんの十秒程度だった。


「血まみれだな、賀上」

「そう言う椎名先生だって」

「おれはふたり分、おまえはひとり分だが、おまえのほうが血まみれだ」

「至近距離で、ちょっと。もう髪も固まりかけてますよ。かといって、シャワーを浴びたい気分でもないですけど」

「同感だ」


 哲彌は、目のまわりだけ血を拭っている。

 それ以外が茶褐色で汚れているのに、その部分だけ肌が見えているのも逆に奇妙だった。


「革命だそうですよ」


 伸彦が言うと、哲彌はふんと鼻を鳴らす。


「そんなことだろうと思っていた。連中は、現実が見えていない」

「それとも、見たくない現実ばかりだったのか」

「肩を持つのか」

「理解できる、というだけですよ。なにせ、彼らは学園には出会っていないんだ。学園に出会えなかった精霊使いがこの世界をどう見るか、それだけはぼくにもわかる」

「……おまえはすこし学園を神格化しすぎているな」

「神だとは思ってない。ぼくを救ってくれたのは神じゃなくて、学園の存在でしたから。それに椎名先生だって、学園を思う気持ちは同じでしょう。だからこうしてぼくのとなりにいる」

「おれは、学園をそこまで大げさなものとは考えていない」

「じゃあ、なんだと思うんですか」

「家だ。住んでいる家は、自分で守るべきだろう」

「家か――そうかもしれませんね。ぼくたちはいい家を見つけられたんだ。彼らはただ住み心地のいい家を見つけるだけじゃ満足できなかったんでしょうね。住む街も、その国も自分の思い通りでないと納得できない」

「そんなわがままには付き合ってられん」


 しかし伸彦は、決して他人事には思えなかった。

 たとえば、失意のなか学園まで辿り着いたとき、そこで革命こそいま果たすべき使命だと教えられていたら、なんの疑問もなく信じたにちがいない。

 そして革命の意思自体も伸彦には否定できない。

 人間はだれでも自分にとって住み心地のいい場所を求めている。

 他人を排除する世界、他人と寄り添う世界、他人を支配する世界、他人に支配される世界、求める世界は様々だが、結局は、自らにとって都合のいい世界だ。

 革命を目指す者は、ただ行動力があるだけにすぎない。

 人間は潜在的に革命の意思を秘めている。

 ある意味でそれは、社会の自然な流れなのかもしれない。

 しかし伸彦に迷いはない。

 革命が正当な理由にせよ、それが社会の流れにせよ、すべてを蹂躙してでも守るべきものがある。

 相手がすべてを破壊し、その瓦礫の上に新しい世界を作ろうとするなら、伸彦は最後までその瓦礫を守るつもりでいる。

 何者にも負けない意思というなら、革命家にも劣らないのだ。


「さて、どうするか」


 哲彌が呟く。


「応援を待つか、向こうが動き出すのを待ち伏せるか。あるいは敵の動向を窺って、学園で迎え撃つ準備を整えるか」

「学園には生徒たちがいる」


 伸彦は言った。


「それに、連中を学園のなかに入れるわけにはいかないでしょう」

「しかし学園を襲撃しようとする連中だ。十人や二十人ではあるまい。さすがにおれたちだけではどうにもならんだろう」

「戦争の基本は、頭を潰すことだ。そして大抵頭はひとつしかない。ぼくが斬り込みます。椎名先生はすこし離れて援護をお願いします。もしぼくが失敗したら、学園へ戻って体勢を立て直してください」

「おまえの後始末までやってやれる理由はないぞ」

「後始末なら、連中がしてくれるでしょう」


 伸彦は幹から半身を出す。

 飛び出す機会を見計らう。


「あ、そうだ」


 不意に明るい表情になって、伸彦は言った。


「ぼくの生徒たちによろしくと言っておいてください。弔い戦も復讐も必要ないって。ただできれば学園を守ってくれって」

「わかった」


 伸彦が飛び出す。

 数秒遅れて、哲彌も追った。

 伸彦は枝や幹を蹴って、ぐんぐん速度を上げていく。

 木々が揺れて大きな音を立てても気にする様子はない。

 一方で哲彌は、あまり速度を上げず、音もなく頂上に近づいている。

 開けた頂上は目の前である。

 最後の木の枝を蹴って、伸彦は高く飛び上がる。

 閉鎖されている駐車場に車は一台もない。

 ただ、黒い人だかりができている。

 百人ではきかない。

 二百か、三百はいる。

 すべて精霊使いである。


「ずいぶん本気になってるもんだな」


 歴史上、精霊使いを軍人として使った例はいくらでもあるが、精霊使いだけで軍隊を作った例はひとつもない。

 せいぜい十人ほどの小隊が限度だった。

 なにしろ精霊使いは数がすくない。

 日本にも千人程度しかいないといわれているが、それは潜在的な精霊使いも含めた数字である。

 精霊使いだと自覚し、精霊石を持っている精霊使いに限れば、五百前後にまで減るだろう。

 そのうち二百や三百をひとつの陣営に抱え込むことは不可能に近い。

 そして学園には百前後の精霊使いがいる。

 両者がぶつかれば、空前の規模の戦争になるだろう。

 それを許すわけにはいかない。

 伸彦は空中で武器をしまう。

 ひたすらに斬り込む、という作戦は変更しなければならない。

 より確実に、この敵を弱体化させなければ。

 そして伸彦がとった行動は、敵のど真ん中に、手ぶらで降り立つというものだった。

 木々を飛び移って移動していたときから存在は気づかれている。

 そのように伸彦が意図したのだ。

 それゆえに敵も、伸彦が空から降ってきたという程度では驚きもしない。

 すかさず伸彦を取り囲む、銘々に武器を押し当てる。

 伸彦は冷静に敵を見回した。

 そして、


「なるほど」


 とひとつうなずく。


「敵ながら、見事に統率されてるな」


 瞳に迷いを浮かべているような人間はひとりもいない。

 だれもが強い確信を持ち、伸彦を敵だと認識している。

 自分自身こういう目をしているにちがいないと伸彦は思い、人懐っこいような笑顔を浮かべて両手を挙げた。


「見てのとおり、武器は持っていない。話し合いにきたんだ。戦闘の意思はない」

「話し合いなど不要だ」


 取り囲んでいるなかで、もっとも年長の男がいう。

 年長とはいえ、五十前後の男である。

 それがまとめ役だと判断し、伸彦はその男に向かって言った。


「学園を襲撃する理由はわかっているつもりだ。しかし必ずしも学園を襲撃してまで果たすべき理由じゃないんじゃないかな。双方に協力できれば、もっと効率のいいやり方を見つけられると思う。同じ精霊使い同士で戦っても仕方がないだろう。きみたちの思想じゃ、精霊使いは仲間じゃないのか」

「仲間とは、われわれのことだ。われわれではないものは仲間ではない」

「ふん、なるほど。じゃあ、いまのところは敵でもいい。話し合いという言い方が気に入らないなら、戦略的な取引でもいいさ。とにかく指揮官と話がしたい。だれが指揮官だ?」

「なぜ敵のおまえを会わせる必要がある」


 包囲網が一段狭まり、いくつもの剣先が伸彦の数センチ手前まで迫る。

 伸彦が冷静さを失えば、次の瞬間には全身を貫かれるだろう。

 しかし伸彦は顔色ひとつ変えない。

 さすがに緊張はしているらしいが、青ざめてもいなければ、手足も震えていない。


「じゃあ、指揮官にこう伝えてくれるかい。こっちには牧村和人とその精霊石を差し出す用意がある、と」

「なに?」


 その目的は全員に伝達されているらしい。

 周囲がざわつくのを見て、伸彦は作戦が成功したこを知る。


「仲間を売るというのか?」

「学園を守るといってほしいね。たしかに牧村くんも大切な仲間のひとりだが、彼のほかにも学園には大勢の生徒がいるんだ。彼ひとりの犠牲でその他全員が助かるのなら、そうすべきだろう。合理的な考えってやつさ。もちろん、この取引が受け入れられない場合は、学園は全力で抵抗をする。最終的にはきみたちの勝利で終わるかもしれないが、犠牲もすくなくはない。革命という最終目標を前にして、仲間を半数以下に減らすのは利口じゃないと思うね」


 伸彦はうまく表情を使い分けている。

 話せば話すだけ、敵のなかになんともいえない不穏な空気が流れ出すのを感じる。

 となりにいる仲間と顔を見合わせ、どうしたものか、というように首をかしげている時点で、伸彦の作戦はある程度成功していた。

 あとは、敵の大将と会えるかどうかである。

 伸彦はその可能性を捨ててはいない。


「ぼくは学園の代表として全権を任されている。きみたちの指揮官と話がしたい。この取引は、きみたちにとって決してマイナスにはならない」

「見事な演説だ」


 その声に、伸彦は虚を突かれた。

 これだけの精霊使いを指揮する人間として考えていた姿と、現れた姿があまりにもかけ離れていたせいだった。

 声が幼すぎることは聞き間違いかとも思ったが、人混みを縫って出てきたのは紛れもなく年端もいかない少女である。

 十になるかならぬか、という年頃で、柄のない、喪服のような黒い着物を着ている。

 その少女が手を叩き、うまくやったと、伸彦を褒め称えている。

 なにかの冗談かと疑ったが、そうではない。

 周囲の反応を見れば、その少女がたしかに大きな尊敬を受けていることがわかる。


「きみが、指揮官なのか」

「いかにも」


 少女はたしかな余裕をもってうなずく。


「私に話があるのだろう。ふたりきりのほうがよいかな」


 話しぶりは、その外見に合わず老成している。

 伸彦はなにか異様なものに飲み込まれたような気分でちいさくうなずいた。

 少女はするすると衣擦れの音を立てて歩いていく。

 周囲は自然とその行く手を開けた。


「指揮官は、熊のような大男だと思っていたか」


 少女はその幼い声で言う。


「それとも、矍鑠とした老人だと思っていたか。理想に燃える若々しい男かもしれん。存在だけで人々を魅了する美しい女かも。しかし私は予想外だっただろう」

「予想外というよりは……信じられない気分だ」

「私のような子どもが指揮官をしているという事実が? それとも私自身が信じられないか」

「どちらも、だ。ただの子どもじゃないな」

「身体はただの子どもだ。中身はどうかな」


 からかうように少女は言う。

 ふたりはいつしか駐車場の外れまで歩いている。

 遠巻きに兵隊たちが囲んでいるが、声までは聞こえない距離である。

 少女は振り返った。

 黒い髪がなびく。

 大きな瞳が伸彦を捉える。

 口元には笑みさえ浮かべていた。

 外見は愛らしい少女である。

 しかし禍々しい気配が少女を覆っている。

 一見して不自然だと感じるなにかが少女にはあるのだ。


「それで――」


 少女は口元を釣り上げる。


「いつ、私を殺すつもりかな?」


 反射的に伸彦は拳を握った。

 機会を逸した、と痛感したが、すぐにその考えを捨て、冷静に隙を窺う。


「ぼくは話し合いにきたんだ。きみもだれも、殺すつもりはない」

「血まみれの姿で言っても、だれも信じてはくれまい。せめて服を着替えて髪を洗ってからくるべきだ」

「ついでに蝶ネクタイでもしてくるか? それで信じてくれるとは思っていないよ。事実、ぼくは信用されていないが、こうしてきみと差し向かいで話している」

「名演説のおかげだな。演説がうまい人間の特徴は、うそをうまくつけることと真実をうまく隠せることだ。きみはどちらも満たしている。ただ、すこし無鉄砲がすぎるようだ。ここで私を殺し、さて、どうするかね。斥候五人を倒したからといって、無事にここから逃げ出せるとは思えぬが」

「話し合いにきたと言っただろう。きみを殺すつもりなんて毛頭ない」

「ふむ。では、そちらが望む話というのを聞こう」

「不破学園には、牧村和人とその精霊石を引き渡す準備がある。きみたちが学園を襲撃するのは、それが狙いなんだろう。穏便な形で手に入れば、わざわざ人命を裂いて襲撃する理由はないはずだ。それに、きみたちだってわかっているだろう。武力で牧村和人と精霊石を手に入れたところで、それが正常に機能することはない。きみたちはこの取引を受け入れるしかないんだ」

「病原を切り捨てて、本体は助かろうということか」

「卑怯だといわれても仕方がない。でも、これがぼくの考えだ。ぼくは学園を――大勢の生徒が平和に暮らす学園を愛している。それを守るためならどんな犠牲だって厭わない。敵の犠牲であれ、味方の犠牲であれ」

「なるほど」


 とうなずいたとき、少女はしかつめらしい顔をしていたが、それが徐々に崩れ、笑みへと変わる。


「なにがおかしい?」

「すべてがおかしい。本気でそう考えているのならまだしも――牧村和人を差し出すなど」

「そうかな。なんならここに牧村和人を連れてこようか」

「きみの情報も持っているよ、賀上伸彦。きみが生徒を切り捨てるような男でないことはわかっている。そもそも、きみはどうしてここにわれわれが潜んでいると知ったのだ。われわれが宣戦布告したわけでもない。この時間、ここにわれわれがいることを、学園の人間が知っているはずがない。もし知っているのだとすれば、われわれの仲間から情報が漏れたとき――学園のなかに放ったスパイが、われわれを裏切ったときだけだ」

「そうかもしれないね。そのスパイが情報を教えてくれたとして、ぼくが交渉に訪れるのは不自然でもなんでもないだろう。なかなか通してくれない門番を倒してでもやってくることは」

「それよりも、もっと合理的な回答がひとつある。学園襲撃の情報が漏れれば、学園としては迎え撃つか、あるいは逃げるかの選択に迫られる。普通に考えればきみのような男が単独で乗り込んでくることはあり得ない。それがあり得るのは、襲撃が成れば真っ先に狙われる牧村和人をなんとしても守るという強い意志がある場合のみだろう。襲撃が成ってからでは遅い。襲撃そのものを止めるには、それ以前に敵を壊滅ないし弱体化させるしかない。きみは、牧村和人を見捨てるなどとは一瞬も考えないはずだ」

「……だったら、どうするんだ?」


 伸彦は、もう敵意を隠そうとはしていない。

 強い視線で少女をにらみつける。


「ここでぼくがきみを殺せば、この組織は頭を失う。頭を失った組織ほど脆いものはないよ。そしてこの距離なら、ぼくはきみを確実に殺せる」

「先ほどもそうではなかったのかね。私が背を向けて歩いているあいだも? しかしきみは私を殺さなかった。殺せなかった、というべきかもしれん」

「殺せるさ。やってみせよう」


 伸彦は地面を蹴っている。

 空中で武器を取り出し、少女との距離が一瞬で詰まる。

 少女は棒立ちになったままである。

 伸彦の剣がひらめき、どうと音を立てて少女は崩れた。

 あまりにも呆気ない。

 伸彦は血のついた剣を見て、それから後ろを振り返る。

 まさに一刀両断である。

 少女の身体は、上半身と下半身に分断されている。

 完全に切り離された腹からは血が流れ出し、恐るべき勢いで周囲を血の海へと変えていた。

 伸彦は、それ以上の確認はしなかった。

 すぐほかの精霊使いたちが迫ってくると予想したのだ。

 油断なく剣を構えた伸彦は、相変わらずほかの連中が遠巻きにしか見ていないことに気づき、怪訝な顔をする。

 この状況に気づいていないはずはない。

 なぜ攻撃してこないのか?

 いまなら逃げられると、伸彦は背後の山をちらりと見た。

 その瞬間である。


「見ろ。殺せなかっただろう」


 信じがたいことに、その声は幼い少女の声だった。

 伸彦は弾かれたように少女を見た。

 間違いなく、少女は身体を両断されて死んだはずである。

 手応えもあった。

 死体も見た。

 ただその死体だったものの上半身が動き、両腕でもって身体を支え、伸彦を見ている。


「なっ――」


 奇妙なことは、死体が動いてしゃべるだけではない。

 いままで広がる一方だった血の海が、なぜかその面積を減少させ、すこしずつ身体へと戻っていっている。

 映像を逆回しにしたようなおぞましい光景である。

 伸彦は自らの剣についた血を見た。

 赤い液体がぶるぶると震えている。

 慌てて振り払うと、それは地面をもぞもぞと這い、少女のほうへ戻っていく。

 少女の血液は本来あるべき体内へ戻り、切断された上半身と下半身もお互いに近づいて、その切り口を一致させる。

 そして少女は立ち上がった。

 傷ひとつ負っていない姿である。

 ただ黒い着物だけが切断され、少女の身体に垂れ下がっている。


「殺せなかっただろう?」


 少女は笑う。

 悪夢のような笑みである。


「なんだ、きみは――」


 青ざめた伸彦はかろうじてそれだけを発した。


「精霊使い――化け物の一種さ」


 伸彦は、自分がまっすぐ立っているという意識さえ失っていた。

 ただ身動きがとれないというだけで、剣を握っていても戦意などなかった。

 少女が一歩、伸彦に近づいた。

 伸彦は反射的に後ずさる。

 決してすばやい動きではない。

 異様な気配を纏っていた少女は、いまや悪魔そのもののように感じられる。

 そのまま伸彦は膝をついた。

 もしそのとき、様子を見ていた哲彌が木々のあいだから飛び出して伸彦を抱え、逃げ出していなければ、伸彦に命はなかっただろう。


「大丈夫か、賀上」


 山肌を滑るように駆け下りながら、哲彌は伸彦の顔を覗き込む。

 伸彦はちいさくうなずき、


「すみません、手間をかけさせて」

「いや――おれも、見ていた。なにかの細工があるとしか思えない。いくら精霊使いでも、あんな芸当ができるはずがない」

「もしなにかの細工があったとしても、ぼくたちが見たままのことが起こったとしても、相手は一筋縄じゃいかないってことですね。ぼくの判断が甘かったんだ」

「学園へ戻って作戦を立て直したほうがいい。こうなっては事前に連中を止めるのは不可能だろう」


 伸彦はうなずいた。

 顔には後悔が滲んでいる。

 しかし、いつまでもただ後悔しているわけにはいかない。

 これから先は戦争になる。

 伸彦の役目は、ひとりでも多くの生徒を守ることである。

 そのためには戦力差を覆す作戦を考えなければならない。


「とはいえ、籠城戦は不利だな――生徒たちを戦闘に参加させないとしたら、戦力差は十倍近い」

「戦力差が十倍あるなら、ぼくたちは敵の十倍がんばるしかない。生徒たちには、できるだけ隠れさせましょう」


 生徒のなかには、教師とほとんど変わらない実力を持っている生徒もいる。

 しかし力を別にすれば、彼らはまだ子どもだ。

 模擬戦ではなく、命の取り合いを経験させるには早すぎる。

 ではいつになればそうした戦いにふさわしくなるのかというと、伸彦はひとつの答えを出せずに悩む。

 できることなら、生徒たちには一生そんな経験はしてほしくないのだ。

 返り血の生暖かさを知るのは自分たちだけで充分だと思う――しかしそうもいかないのが現実なのだと、伸彦は知っている。

 伸彦もかつては生徒のひとりだった。

 学園を守るため、志願していまのようになったのだ。

 生徒のなかには自分の手で戦いたいと考える者もいる。

 そうした生徒の戦意までは、抑えられない。


「だめだ、暗いことばっかり考えても仕方がない」


 伸彦は自らの頬を叩き、気分を入れ替える。


「今回の戦いで明るい要素はなにかないかな。椎名先生、思いつきません?」

「そうだな」


 低い声で哲彌は言った。


「いま、学園には江戸前有希子がいるということくらいか」

「ああ――たしかにそいつは明るい話題ですね。彼女なら、精霊使い相手でも本当の意味で一騎当千できそうだ」


 明るい要素がひとつでも見つかると、気分が軽くなる。

 この戦いも負けと決まったわけではない、と思えてくる。

 向こうになにか秘策があるのなら、こちらにも秘策はあるのだ。

 伸彦は、山肌から学園を見下ろす。


「もう勝負がついてるころですね」

「ここまでの牧村の戦いぶりも見事なものだったが、江戸前には敵うまい」

「そりゃあ、彼女に勝てる精霊使いはそうそういませんよ。なんせ、学園はじまって以来の天才ですからねえ――」


  *


「じょ、冗談じゃねえ……おれは夢でも見てるのか?」


 肩で息をしながら、和人は思わず呟く。

 しかし、夢ではない。

 紛れもない現実である。

 武道大会決勝戦がはじまって、五分経つ。

 最初の一、二分は、和人も小手調べのつもりだった。

 おまけに、相手はあの江戸前有希子である。

 すぐに泣くし、すぐに転ぶし、すぐに立ち直るあの江戸前有希子である。

 あんまり攻めてはかわいそうだし、また泣かれても困ると、最初は遠慮がちな攻撃しかしなかった。

 それを防がれたことは、和人にも意外ではない。

 運にせよ実力にせよ、有力な教師が集中するBブロックを勝ち抜いて決勝戦まで上がってきたのだ。

 小手調べの攻撃でどうにかなるようなら、一回戦も勝ち上がれまい。

 だから、和人はすこし本気を出した。

 ひたすらの乱打である。

 息もつかせぬ剣戟のなかで隙を見つけ、一挙に片づけてしまおうと考えた。

 それがすべて見事にさばき切られたとき、そしてそのあいだ有希子が一歩も動かなかったと知ったとき、和人は背筋にぞくりとくるのを感じた。

 ただ者ではない。

 いままで対峙してきた相手とはまたちがう、異様な強さをもった相手だと和人も認識した。

 そこからは、文字どおりの全力である。

 前戦で身につけた武器の呼び出しと遠距離での操作を駆使し、剣戟、肉弾戦問わず攻めた。

 その猛攻に観客席からも感嘆の声が上がり、多くの観客が和人の勝利を確信した。

 観客のほとんどは生徒であり、有希子がこの学園にいた時代を知るものはすくない。

 その数少ない人間たちだけは、決して有希子の勝利を疑ってはいなかった。

 事実、有希子は和人の猛攻に耐えた。

 やはりその場を一歩も動かず、二本の腕と一本の剣だけですべてをしのぎきった。

 和人が驚いたのは、有希子が和人と同じように遠距離での武器の操作ができるということだった。

 その精度はむしろ、和人よりも高い。

 和人の攻撃を見越し、ちょうど和人の武器と自分との直線上に武器を出す。

 それが完全に死角になるはずの背後であっても、迅速かつ的確なのだ。

 和人の呟きは、猛攻を終え、一息ついたときのものである。

 そしてその時点では、有希子はまだ一度も自分から攻撃していない。


「なかなかやるじゃない。さすがわたしの生徒だわ」


 有希子は笑う。

 本人は大人の余裕を漂わせる笑みを意図しているらしいが、実際はむふふふと怪しい笑みになっている。


「でも、わたし以外に武器を離れたところに出せる子がいるとは思わなかったわ。昔はわたししかできなかったのに」

「いや、おれも自分以外のだれかができるとは思ってなかったんですけど――もともとは先生のオリジナルですか」

「オリジナルっていうか、精霊石を使ってたらいつか行き着くところじゃない? ほら、もっと精霊石と仲良くなって、いろいろできることを試したりするでしょ」

「普通しないと思いますけどね、そんなこと」


 実戦形式の戦いでなければ、和人もあの技を習得できたとは思えない。

 もし実戦以外で有希子がその技を編み出したとすれば、いったいどんな訓練をしていたのか、和人には想像もつかなかった。


「あの技、結構むずかしいもんね」


 と、とくに深刻そうでもなく有希子は言って、うんうんと自分でうなずく。


「それを簡単にやっちゃうなんて、さすが牧村くん、わたしが手をつけただけのことはあるわ」

「……手をつける?」


 客席がざわつく。


「もしかして……目をかけるの間違いでは?」

「あれ、手をつけるじゃなかったっけ?」

「それだとだいぶん意味が変わってきますけど」

「じゃあ、そっち。目をつけるのほう」

「目をかけるですけど。っていうかそんなに目をかけてもらった記憶もないけど」

「なんでよー。個人練習、見てあげたでしょ? せんせーたすけてーって号泣してすがりついてきたのを忘れたとは言わせないわ」

「忘れたもなにも最初から存在しない記憶です。そもそも、あのとき泣いたのって先生のほうでしょ」

「あ、あれはー、ちがうんですー」


 こんなひとがどうして強いんだろうと、和人は世の中の不思議に首をかしげる。

 性格や言動はともかく、戦闘の実力においては、どうやら和人では足下にも及ばないらしい。

 もし実戦で敵として出会っていたら、間違いなく殺されていたなと和人は考える。

 しかしそれはつまり、こういう状況で戦えるのが幸運であるという裏返しでもある。

 いうなれば、稽古をつけてもらっているようなものだ。

 ここからもう一段階強くなるには、自分より強い相手と戦い、そのなかでなにかを見つけるか、盗むかするしかない。


「……先生には感謝しなきゃな」

「え、なんか言った?」

「いや、別に。続きやりますか」

「む……なんか味気ないなあ、牧村くんは」


 当面の目標は、有希子を一歩でも動かすことと決める。

 和人は剣を持って距離を詰める。

 大振りは避け、細かい攻撃を連続させる。

 右から左から揺さぶりをかけるが、有希子は剣先ひとつでそれを受け流し、まともに防御することさえない。

 大粒の汗を流す和人と、じゃれつく子猫をあやしているような有希子である。

 和人は背後へ回り込み、振りかぶった。

 有希子はろくに振り向かず、腕を後ろに回して剣先を和人に向ける。

 その瞬間、和人は持っていた剣を消し、同時に有希子の真下から剣と飛び出させる。

 常人なら反応することもできない速度と角度である。

 しかし和人の剣が消えると同時に、後ろに回した有希子の手からも剣が消えている。

 きん、と軽く音が鳴った。

 和人の剣は弾かれて地面に落ち、有希子は自分の剣をしっかりと持つ。


「攻撃が失敗したあとも、ちゃんとコントロールしてあげなきゃだめだよ」


 叱るように有希子が言う。

 手元に剣を戻し、和人は距離をとった。


「変則でもだめか――後ろに目でもついてんのか、あのひと」

「やだなあ、目はふたつしかないよ」


 けらけらと有希子は笑う。


「でも、見えないところは精霊石がカバーしてくれるでしょ? 精霊石には、死角なんてないもんね」

「精霊石がカバーする?」


 そういえば、と和人も思い出している。

 青藍は、石の状態でもあたりが見えていると言っていた。

 人間と同じ姿をしているなら死角もあろうが、石の状態なら、見えているというより感じているというほうが近い。

 感覚に、死角はない。

 そういうことか、と和人はうなずくが、理屈がわかったからといって、真似できることでもない。

 精霊石の感覚を信じて動くということは、絶対の信頼を置くということだ。

 青藍と会話ができる和人なら、それもむずかしくはない。

 しかし有希子は精霊石と会話することなく、ただそれを信頼しているのだ。


「絆の差ってやつかな。まあ、こっちのコンビはまだ二ヶ月だ。向こうは何年もやってるから、負けるのも仕方ない気はするけど……負けっぱなしは気に入らねえ」


 武器になった青藍に語りかける和人である。

 勝ちはむずかしいにしても、一矢報いる程度の活躍は残したい。

 その意思は青藍も同じだと、和人にはわかる。

 そもそも、青藍が精霊石として相手に劣っているわけではない。

 有希子に負けるということは、使い手として和人が劣っているということだ。

 青藍を完全に使いこなせば、だれにも負けるはずがない。

 和人は剣を握り直す。

 圧倒的な力の差を見せつけられても、退く様子はない。


「そうこなくっちゃ」


 有希子も笑う。

 残りは三分を切っている。


「いくぞ、青藍」


 ぽんと刀身を叩いて、和人は飛び出した。

 剣はゆったりと持っている。

 振り回すのではなく、剣を信じるのだ。

 それはただの武器ではない――和人にその意思が芽生えた瞬間、動きは見違えるほどによくなった。

 剣筋も一辺倒ではなく、やわらかい太刀筋があれば、岩を砕くような剛剣も使う。

 すばやく、鋭い。

 なによりも勘がいい。

 有希子が剣先をそっと当て、方向を逸らそうとすると、その時点で和人の腕が止まって手首を返す。

 すると、ぎいん、という高い音を立てて有希子の剣を弾くことができる。

 弾かれて隙ができる有希子ではないが、明らかにいままでとは戦いがちがう。

 いままでは、剣戟でありながら、ほとんど剣を打ち鳴らす金属音が響かぬ奇妙な戦いだった。

 有希子が真正面から受けるのではなく、剣先で相手の刀身を受け流してしまうから、音が響かないのだ。

 それがいまは、剣戟らしい緊張した音が響いている。

 和人の剣が有希子の剣を捉えられるようになった証拠である。

 激しい剣戟のなかでも、和人の意識にはまだ余裕があった。

 剣戟そのものは、青藍に任せている。

 青藍が判断し、行動するのを、和人はただ腕を貸して助けるだけだ。

 意識はそのあいだも有希子に向かっている。

 落ち着いて観察してはじめてわかることだが、有希子もまさにそのような戦い方をしていて、剣戟そのものには目もくれない。

 鼻先数センチを鋭い刃先が行き来しようが、すこしも構わない。

 それが自分に当たることはないとわかっているのだ。

 自分に当たる前に精霊石が防いでくれるということがわかっている限り、どれだけ激しい剣戟でも臆することはない。


「ほんとにすごいね、牧村くん。戦いのなかですぐできるようになっちゃうんだもん」

「ヒントをもらってますから、おれがすごいわけじゃないですけどね。もとはといえば、おれが精霊使いとしてポンコツだから、苦労してるわけだし」

「そんなことないよ。青藍ちゃんだっけ? その子みたいな精霊石を使いこなせるのは、世界中でも牧村くんひとりだと思う。精霊使いはね、精霊石に選ばれるの。青藍ちゃんが牧村くんを選んだのは偶然じゃないと思うなあ」


 ほかのだれでもない自分を青藍が選んだのだとすれば、和人としては、その期待に応えられるように努力するしかない。

 精霊石はただの鉱物でもなければ、力の源でもない。

 意思を通わせ、信頼することで真の力を発揮する。

 まるで人間のようなものである。

 それを学べただけでも、この大会に参加した意味があったというものだ。

 和人はいままでの対戦相手すべてに感謝しながら、すこし腕に力を込めた。

 青藍の剣筋が、和人の剣筋に変わる。

 その変化に有希子も対応し、真横に剣を構えた。

 さばくのではなく、真正面から受ける。

 ひときわ大きな金属音が試合場に響き――力で押し込まれて、有希子は一歩後ずさった。

 和人ができたのはそこまでである。

 横に弾かれ、すこし距離をとる。

 有希子はうーんと首をかしげ、


「合格ぎりぎり、かな?」

「厳しいなあ」


 和人は苦笑いを浮かべる。


「そりゃあね。先生にはほど遠いわ」


 ふん、と鼻を鳴らし、有希子は胸を張る。


「……そういうところがなかったら、素直に尊敬できるんだけどなあ」

「なんか言った?」

「そういうところがなかったら、素直に尊敬できるんだけどな、と言いました」

「きれいに言い直さなくていいのっ。でもでも、素直じゃないけど尊敬はしてるってことでしょ? ね、そういうことでしょ?」

「……まあ、そうじゃないですかね」

「やっぱりねー。前々から牧村くんはツンデレだと思ってたのよねー」

「前々からそんなくだらないことを……?」

「く、くだらなくないよっ。大事でしょ、生徒を把握するって」

「ツンデレって把握はどうかと思いますけど」

「せ、先生は先生なんだからね、そういう冷たい目で見ちゃだめなの! こ、こうなったら先生としての威厳を見せつけてやるんだから。かかってきなさいっ」


 なんだかよくわからない展開になったが、残り時間もすくなく、無駄話をしているひまもない。

 せっかくの機会なのだ、時間ぎりぎりまで戦って、ひとつでも多くのことを学んだほうがよい。

 それに、と和人は、観客席から姿を消している伸彦と哲彌のことを考える。

 この試合が終われば、今度は命がけの戦いになるのだ。

 それまでにすこしでも力をつけておきたい。

 力不足で仲間を失ったのでは、悔やんでも悔やみきれないだろうから。

 有希子は自信満々で待ち構えている。

 距離を詰めた和人は、とくになにも考えず、一連の流れで剣を真横に薙ぐ。

 有希子は躱さず、剣を立ててそれを受けた。

 まさか、その一撃で有希子を倒せるとは、和人も思っていない。

 防がれたらすぐに身体を回転させ、逆方向から攻めよう、と考えつつの、攻撃である。

 ぎいん、と剣が鳴って、身体を回転させようとした和人は、腕を強く引っ張られて思わず動きを止めた。


「へ……?」


 見れば、引っ張られていたのは、腕ではない。

 剣の刀身である。

 なにに引っ張られているかといえば、それも、剣の刀身である。

 和人の、まっすぐ伸びる美しい剣は、人間の手の形をした有希子の剣にしっかりと握られているのだ。

 有希子が握っている柄には変化がない。

 普通の、剣としての柄である。

 そこからすらりと刀身が伸びているが、その中程あたりから徐々に厚みを増し、腕のような円柱に近い造形になり、最終的には手が生えている。

 そしてその手が和人の剣を握りしめている。


「ななな、なななんすかそれ!」

「うふふふ」


 有希子は怪しく笑った。


「これぞ精霊石を完璧に使いこなしたものだけができる必殺奥義、フェアリー・マジックハンドよ!」

「だ、だっせえ……技はすごいけど名前がだせえ」

「先生の偉大さを思い知るがいいわっ。おーっほほほほ!」

「うわあ、楽しそうだなあ……」


 放せ、この、と和人はぶんぶん剣を振り、なんとか逃れる。

 有希子の剣はしゅるしゅるともとの刀身に戻った。

 まるでやわらかい粘土のような動きだが、それは世界最硬の精霊石なのだ。

 和人は、精霊石には形がない、という授業だか芽衣子だかに聞いた話を思い出す。

 精霊石は通常、石と武器の二形態に変質する。

 どちらも同じものが様相を変えただけで、もとになるものは同じである。

 つまり、石と武器を同時に現すことはできない。

 和人の持つ精霊石、青藍は、そこに人間形態が加わる。

 それもやはり様相の変化にほかならず、言ってみれば精霊石とはイメージで姿を変える柔軟な物質でできているのだ。

 それでも普通は剣を手の形に変質させようとは思わない。

 思っていても、簡単にできることではない。

 やはり有希子は、並ではないのだ。

 試しに和人も刀身をじっと見つめ、手の形になれ、と念じてみたが、精霊石はぴくりとも反応しなかった。

 むしろ柄から、なにをばかなことを、というような冷え冷えした雰囲気が伝わってくる。

 それを念じる有希子も有希子なら、それに応える精霊石も精霊石なのかもしれない。

 しかし、自由に形状を変えられるとなれば、実戦で大いに有利だろう。

 いまは使いこなせないが、そういう使い方もある、と学べたことは和人の糧になる。


「ふふふ、距離をとっても無駄よ。ただ手になるだけじゃないんだからね」


 間合いふたつ分ほどの距離で、有希子は笑う。

 かと思うと、その位置から剣を横薙ぎに振る。


「うおっ」


 とっさに和人が剣を縦に構えて防御したのは、精霊石の直感に従った結果だった。

 がきん、と音を立てて、二本の剣がぶつかる。

 十メートルほどあった距離は、相変わらず変わっていない。

 しかしそこはすでに有希子の間合いのなかだった。

 いままで一メートル半程度だった刀身が、その距離から充分和人に届くほど伸びている。

 和人が防ぐと、刀身は見る見る縮んで元どおりの長さまで戻る。

 これには観客席からもどよめきが起こり、


「すごいけど、気持ち悪い」


 というような囁きが聞こえるようになる。

 和人にはそれがしっかり聞こえていたが、幸い有希子には聞こえていないらしく、有希子はすごいだろうというように胸を張った。

 そこで和人はぽつりと、


「いまの技名は、なんていうんですか」

「え?」

「さっきの手のやつがフェアリー・マジックハンドでしょ。剣が伸びるやつも技名があるんですよね?」

「え、ええ、もももちろんよ。それはそれは格好いい名前がついてるわ」

「なんていうんですか」

「え、えっとねえ……ふ、フェアリー・ロングソード――はちがうの! いまのなしっ」


 白々した和人の視線を察知し、有希子はぶんぶん首を振る。


「ふぇ、フェアリー……やっぱりフェアリーはいるでしょ。フェアリー……剣だから、やっぱりソードだけど、それじゃ普通だし。剣、ソード、攻撃……よし。ふぇ、フェアリーズ・アタックよっ」

「……へえ」

「な、なに、その必死で考えたのにそれなの的な目は。じゃあ牧村くんはもっと格好いい名前が浮かぶわけ? 浮かぶんなら言ってみなさいよ、ふんっ」


 涙目になって有希子は地団駄を踏む。

 和人はそれを無視し、すっと剣を構えた。


「勝てる要素はなにもないけど、時間もすくないし、決着をつけるか」


 精神的に深手を負った有希子だが、その勝ちはすこしも揺るがない。

 それでも決着をつけねばなるまいと、和人は距離を詰めた。

 いままでは剣戟で勝利の可能性を見いだしてきたが、いまや剣戟にすらならない。

 斬りかかった和人を剣を、有希子の剣が白刃取りする。

 剣を引こうにも、しっかり掴まれてぴくりとも動かない。

 むしろその圧倒的な力で引っ張り上げられる。

 それで武器を奪われてしまえば、和人に抵抗する術はない。


「よっと」


 と有希子が軽い声を上げ、和人の首筋にぴたりと剣を当てる。


「そこまで!」


 審判が声を上げるのと、試合終了の合図が鳴るのはほとんど同時だった。


  *


「それにしても、惜しかったよなあ」

「そうでもないって。決勝までいったけど、有希子先生には手も足も出なかったし」


 決勝戦後の観客席である。

 試合場では再び表彰台が運び込まれ、優勝者である江戸前有希子がその頂点に立って歓声に応えている。

 本来であれば二位の和人もそこに立っているはずだが、疲れたという理由をつけ、観客席に戻っていた。


「でも、もう一個勝てば優勝だぜ。おれたちの夢が叶ったってのに」


 卓郎は拳を握り、自分のことのように悔しがる。

 一方で和人は客席に腰を下ろし、さほど悔しげでもない。

 むしろできるだけは戦ったと、満足している。


「卑怯でもなんでも、あと一勝でよかったんだから、いつもみたいにセクハラでもして勝ちゃよかったのに」

「いつもみたいにってなんだよっ。そんな勝ち方一回もしてねえだろうが」

「でも有希子先生があんなに強かったっていうのも意外よね」


 と菜月は腕を組む。


「ただの天然だと思ってたけど、精霊石をあんなふうに使うひと、はじめて見たわ」

「なんか学生のときから天才だったらしいよ。試合がはじまる前に賀上先生が言ってたけど。いまおれたちが着てる制服も、有希子先生が学生のときにこの大会で優勝して作ったもんだって」

「え、そうなの? 知らなかったなあ」

「じゃ、じゃあ、あれなのか。もしおれが優勝したら、制服のスカートをもう二十センチ短くするってことも可能なのか。それはつまり水泳の授業を男女共同にして女子の水着を味気ない競泳水着からビキニに変更するってことも可能な――」


 言い終わる前に卓郎は地面と抱擁している。

 長く泳がせてもらったほうではある。


「あ、牧村くん、先生が手を振ってるよ」


 八白は手すりに寄り掛かり、恥ずかしそうに手を振り返している。

 和人はちらりと目を向けて、すぐに視線を逸らした。

 表彰台の上で、有希子が「あ」と声を漏らす。

 そうかと思うと表彰台から飛び降り、影でアナウンスをしていた教師からマイクを奪い取って、


「ちょっと牧村くん! 先生が勝ったんだから、牧村くんは約束どおりわたしのものなんだからねっ」


 と宣言してみせた。

 当然、表彰台の周囲に集まっていた生徒たちはざわめく。

 有希子と客席の和人を交互に見ては、ひそひそとなにか囁き合う。

 この先、学園で囁かれることになる噂が誕生する瞬間である。


「ま、牧村くん、そんな約束したの……?」


 八白が恐る恐るという様子で和人を振り返った。

 和人は疲れたように首を振って、


「有希子先生は夢でも見てたんじゃないのかな。それにほら、夏だし、そういう白昼夢を見る時期なんだよ」

「そ、そっか……。試合中に手を出したとかなんとか言ってたけど、あれもそうなの?」

「そう、あれも夢だと思う。寝不足なのかな、先生も」


 軽くあしらって、和人はあたりを見回す。

 いつもいっしょにいる面子のうち、ふたり分の姿が見えない。

 ひとりは青藍で、いまは精霊石として和人の懐に入っているから、姿が見えないのは当然である。

 もうひとり、真っ先に和人を労いにきてもおかしくない芽衣子の姿がない理由も、和人には想像がついていた。

 和人はほかにもふたり、探している人間がいる。

 しかしそちらの行く先はわからず、まだ球技場にも戻っていない。

 和人は背もたれに頭を乗せ、空を見上げる。


「今日はさすがに疲れたなあ。昨日の試験もまだ引きずってるし、一日でこれだけ精霊石を使ったのもはじめてだ」

「ま、今日で終わりだからいいじゃねえか」


 と復活した卓郎が言う。


「なんせこれから夏休みだからな。怠け放題の一ヶ月がやってくるわけだ」

「ああ、怠け放題はいいなあ。昼寝がしてえ」

「ばかやろう、昼寝どころか一回も起きないまま一日を過ごせるんだぜ」

「そりゃそうだ。夏休みの最初の二週間は寝て過ごそう」

「に、二週間も?」


 と八白。


「寝すぎだよ、牧村くん。夏休みだからって怠けてるといろいろ大変だよ?」

「夏休みってのは毎日がんばってる学生へのご褒美だろ? そういうときに使わなきゃもったいねえ。よし、決めた。夏休み最初の二週間は寝て過ごして、残りの二週間はだらだらして過ごす」

「それじゃあいっしょだよー」

「それくらい今日は働いた気がする――それにまだ、もう一働きしねえとな」


 和人は呟いて、身体を起こした。

 いまのところ状況を知っているのは、和人と芽衣子、それに伸彦と哲彌の四人である。

 ここが混乱する前に、知り合いには伝えておこうかと思う和人だが、裏で動いているはずの伸彦と哲彌の準備を台なしにするのでは仕方がない。

 逃げるのか、迎え撃つのかも含め、伸彦たちが的確な選択をするはずだ。


「直坂」

「へ?」

「なんかあったら、賀上先生か椎名先生の指示に従えよ。織笠と日比谷もだ。とりあえずふたりの指示が正しいと思うから、それに従って――あとはまあ、それぞれ考えてくれ」

「なんの話だよ」


 と卓郎は首をかしげる。


「これから、なんかあんのか? あ、もしかして打ち上げ?」

「そんなもんだ。ああ、あと、布島の姿が見えなくても心配はないから。じゃ、またあとでな」

「おい、牧村?」


 怪訝な顔を背にして、和人は客席を出ていった。

 あたりを見回しながら球技場を出て、人気のない裏手に回る。

 あてはなかったが、芽衣子はそこにいた。

 和人が近づくと、ほんのすこし慌てたような素振りを見せ、芽衣子は苦笑いする。


「いまさら和人さんには隠す必要もないんですよね。試合、お疲れさまでした。先生があんなに強いなんて思いませんでしたけど、和人さんもすごく強かったと思います」

「いやまあ、完敗だったよ」


 と和人は頭を掻く。


「それで、外の連中には連絡したのか」

「はい。いま、最後の試合が終わったって――でも、これでいいんでしょうか。連絡しなければ、作戦は中止になったかもしれないのに」

「それだと敵を取り逃がす。今回の作戦は中止になっても、また学園を狙うかもしれないだろ。本当の狙いはおれと青藍にしても、学園そのものを狙われたら、おれだけじゃ守りきれない。いまなら先生たちも揃ってるし、生徒も全員いるから、戦うならいまがいちばんいいんだ」

「でも、戦えば学園にだって被害が出るかもしれません」

「出さないように戦えばいい。最悪、逃げまわってもいいんだ。向こうがそれに気を取られてくれるなら」


 芽衣子は俯き、眉をひそめる。

 罪悪感がこみ上げ、仕方がないらしい。

 それをうまく取り除いてやることは、和人にはできない。

 芽衣子を傷つけず、学園も傷つけず、相手すら傷つけずに解決させる方法がどこかにあるのかもしれないと和人は考える。

 なにもかもうまくいく方法がどこかにあって、それを思いつかない自分の愚かさが罪なのかもしれないと。

 しかしそこでただ思い悩むのではなく、自分が思いつくかぎりで最良の選択をするという行動力くらいは、和人にもある。

 彼に欠点があるとすれば、それをすべて自分ひとりでやってしまおうと考えるところだろう。

 自分にできないことは仕方ないにしても、できるかぎりはひとりでやる、というのが和人の性格の根本である。

 ひとりでもできるが、仲間と分担してやる、という発想は、そもそも和人のなかにはない。

 そして和人に言わせれば、自分がなにをやったのか、それがなんのためなのか、他人が知る必要はない。

 その部分を他人に理解してほしい、という気持ちがないのだ。

 だから和人は、なにも言わず、見惚れるほど美しい剣を取り出し、芽衣子に突きつけた。


「和人さん……?」


 芽衣子は、怯えてはいない。

 ただ不思議そうにしている。

 和人が自分を傷つけるなど想像もしていないらしく、そうさせているのは和人の人柄である。


「敵がどこから攻めてくるのか、教えてくれ」


 わざと低く威嚇するような声で和人は言った。

 それで、芽衣子も気づく。

 気づいたとたんに芽衣子は笑い出した。


「和人さんったら、ほんとに不器用なんですから」

「ぶ、不器用ってなんだよ。笑う状況じゃないだろ。おれは布島を脅して、敵がどこから攻めてくるのか聞き出そうとしてるんだから」

「わたしがだれも裏切らずに済むように、ですか? でも、大丈夫です。裏切り者って言われる覚悟はできてますから――ひとりで行って、どうにかなるものじゃないですよ」

「敵の全員と戦いに行くわけじゃないよ」


 多少恥ずかしさもあるのか、ぶっきらぼうに和人は言って、武器をしまう。


「こういう戦いは、まず頭を狙えっていうだろ。頭ひとつくらいなら、おれでもなんとかできる。ほかはみんな先生たちが引き受けてくれるはずだから」

「そのために相手を学園のなかに入れるんですね。でも絶対に何人かの護衛は残ります。それも全部ひとりで片づけられますか?」

「できると思う」

「でも、ふたりで行ったほうが確実でしょう?」

「そりゃあ……まあ、そうだろうけどさ。危ないってこともあるし」

「それなら和人さんだって同じじゃないですか」

「いや、もし失敗したら、犠牲はおれだけで済む。ほかはみんな逃げたり戦ったりできるわけだから――それに、向こうはおれが目標なんだろ。だったらこっちから行ってやろうと思ったんだよ」

「わたしもいっしょに行きます。ひとりより、ふたりのほうが絶対にいいですって。ね?」

「そうかなあ……」


 芽衣子は納得していない顔の和人の腕を引っ張る。


「どっちにしても、わたしもお館さまには会いに行こうと思ってたんです。裏切るにしても、いままで育ててくれたひとですから、なんの挨拶もなしってわけには」


 ふと、芽衣子の表情が陰る。

 和人はその表情を退けることができなかった。


「……そうか。じゃ、ふたりで行くか。先生たちと打ち合わせできればよかったんだけど、まだ戻ってきてないみたいだしな。布島、敵の場所まで案内してくれ」


 芽衣子は、ぷいと顔を逸らした。

 和人は怪訝な顔で、


「布島?」

「ヤです」

「いやって、なにが」

「案内役、ヤです」

「いやいや、案内してもらわねえと困るよ」

「じゃ、芽衣子って呼んでください。約束しましたよね?」

「うっ……」


 再び約束である。

 そんな約束したかな、と和人は首をかしげるが、今度は有希子のときとちがって、したような気もする。

 話の流れでそういうことになったが、明確に約束したかどうかには自信がない。

 加えて、名前で呼ぶのが恥ずかしくて、意図的に名字で呼んできた和人である。

 ごまかせなくなって、言葉に詰まる。


「芽衣子って呼んでくれたら、ちゃーんと案内します」


 ほらほら、というように芽衣子は詰め寄る。

 和人は顔を背けて後ずさりする。


「どうしたんですか? 早くいかないと、間に合わなくなっちゃいますよ?」

「わ、わかったよ――なんでこんなに恥ずかしいんだ、くそ」


 ぽりぽりと頬を掻き、意を決して芽衣子に向き直る。


「芽衣子、案内を頼む」


 即答はしない芽衣子である。

 というより、思いのほか和人にまっすぐ見つめられ、むしろ芽衣子のほうが動揺している。


「し、仕方ないですね。じゃじゃじゃあ行きましょうか」

「顔が赤いぞ。大丈夫か?」

「だだ大丈夫ですっ」


 なんとなく不安も残るが――ふたりは精霊石を使い、その場をあとにした。

 芽衣子がすこし先行し、和人がそれに続く。

 ふたりとも武器は持っていない。

 芽衣子は和人を山のほうへ誘導する。

 道中、広い学園内を横切ったが、人影はまったくない。

 いまはほぼ全員が球技場に集まっているのだ。

 敷地内に生徒が散らばって情報伝達が遅れるよりは、一カ所に固まっていたほうが攻撃も防御もやりやすい。

 そう考えると、この襲撃は、必ずしも学園側の不利ではないと和人は考える。

 むしろ、いくつかの点で学園側に有利だが、相手側には奇襲という以上の利点はないように思える。


「なあ、ぬのし――め、芽衣子」

「はい、なんでしょう」

「やりづらいな……なんで向こうの連中はこの時間に襲撃をかけるって決めたんだ。大会が終わった直後ってのは、だれが決めた?」

「さあ、大会があるってこと自体は、わたしが報告しましたけど、その終わりで襲撃をはじめるというのはお館さまの考えだと思います。たぶん、大会が終わった直後なら学園側も疲弊してるだろうからって」

「うーん、そうか。たしかにそういう考え方もできるんだけど」


 トーナメント制なら、大きな障害になる強い相手ほど多く戦わなければならない。

 その疲弊しきった瞬間を狙う、というのは、一見もっともらしい作戦に見えるが、和人にはすこし疑問である。

 そもそも、精霊使いたるもの、数回の戦い程度で疲弊するものではない。

 和人の場合はまだ精霊石を使うことにも慣れておらず、昨日の試験の疲れも残っているが、実際に優勝した有希子はすこしも疲れていなかった。

 疲弊した瞬間を狙うというのがどれほど効果的なのかは疑問が残る。

 相手が人間なら精霊使いの特性を知らずに作戦を立てたということも考えられるが、相手も手練れの精霊使いである。

 精霊使いのタフネスを知らず作戦を立てたとは考えられない。


「……その、お館さまっていうのはなんなんだ。そういう名前なのか?」

「呼び方はいろいろあります。ボスって呼ぶひともいるし、先生って呼ぶひともいるし……お館さまって呼ぶのはわたしくらいです。まあ、呼び方はちがっても、慕う気持ちは同じだと思いますけど」

「どんなやつなんだ。うちの学園長みたいなもんかな?」


 あの矍鑠とした老人が悪の親玉だ、といわれれば、たしかに、と納得してしまう和人である。

 相手もそういうものなのかと思ったが、芽衣子曰く、どうもちがうらしい。


「見た目は、ちっちゃい子なんです」

「ちっちゃい子? 背がちっちゃいのか」

「背っていうか、全体的にちっちゃいんです。お子さまです」

「……お子さまがボスなのか?」

「お子さまなのは見た目だけですけど。中身は、たぶんちがいます。お館さまは、普通の精霊使いじゃないんです。だってわたしが子どものころに出会ったときから、まったく姿は変わってませんから」

「芽衣子が子どものときから子どもだったのか? そんなこと、あり得ないだろ」

「でも、実際にそうなんです。和人さんもお館さまと会えばわかると思いますけど」

「見た目は子どもか……有希子先生の技にしてもそうだけど、いよいよ現実から離れていくなあ」


 精霊石、精霊使いというものが、そもそも人間の常識外にある。

 和人を取り巻く世界は、その精霊使いの常識からも外れていく。

 もっとも、和人自身、青藍という常識外れの精霊石を持っているのだが、自分のことは棚に上げている。


「外見は変わってますけど、中身はやさしいひとでした」


 芽衣子はすこし目を伏せる。


「子どものころにお館さまと出会っていなかったら、わたしなんかどうなっていたかわかりませんもん。この国で育った和人さんにはわからないかもしれませんけど、ほかの世界では精霊使いはもっとひどい扱いを受けています。精霊使いが人間を恨み、人間が精霊使いを畏れるのは無理もないことなんです」

「……悪いやつじゃないんだな。そのお館さまってやつも」

「悪いひとについていったりはしませんよ」


 と芽衣子は笑ってみせる。


「どんな人間だって、自分にやさしくしてくれないひとにはついていったりしません。お館さまにたくさんの仲間がいるのは、それだけお館さまがたくさんのやさしさを持っていたということです」

「でも、学園を襲撃しようとしてる。それは悪いことじゃないのか?」

「お館さまがなにを考えてらっしゃるかはわかりませんけど、お館さまを信じて動くくらいはできますもの」

「なるほど……士気は充分ってことか。こっちは萎える一方だけどな」

「そんなこと言って――和人さんって不思議ですよね」

「なにが?」

「戦いが好きってわけじゃないのに、いつもそういう展開になっちゃうでしょ。ほら、いちばん最初にわたしと出会ったときとか」

「天性の巻き込まれ体質なんだよ、おれ。むしろいまはマシになったほうだ。昔はけんか上等な友だちがいたから、ほとんど毎日そいつといっしょにけんかしてたし」

「でもそれって結局、和人さんが立ち向かうからですよね? たとえば、そのお友だちを見捨てて、ひとりで逃げることだってできるわけじゃないですか」

「ま、たしかに。見捨てても負けるようなやつじゃなかったしな。そういや、なんでおれまでけんかしてたんだろ」

「いまだって、狙われてるのは和人さんですけど、先生たちに全部任せるってこともできますよね」

「うーん……まあ、そうかな。考えてなかったけど。でもそうやって考えるとおれまで戦闘狂みたいだろ。おれは普通だよ。どこにでもいる高校生だ」

「いやあ、それはちがうと思いますけど」

「なんでだよ」

「だってどこにでもいる普通の高校生なら、わたしが好きになったりしませんもん」

「うっ……それはまあ、その、なんだ」

「そろそろですよ。もしかしたら戦闘になるかもしれませんから、気を引き締めてください」


 ふたりは学園の端まで移動している。

 学園の周囲には高い塀があり、それは山に面している部分も同様だが、精霊使いにとってはそのような塀はあってないようなものだった。

 ふたりは軽々と塀を跳び越え、山のなかへ入っていく。


「このルートで学園へ入ってくることになってるんです。ちょうどここの警備が手薄ですから」

「なるほど――で、おれたちは待ち伏せて、敵がくるのを待つわけか」

「たぶんお館さまが学園に入るのは最後だと思います。それまではここに隠れて、やり過ごしましょう」

「そうするしかないか」


 迫り来る敵をすべて排除できるならそれに越したことはないが、さすがに和人も、そこまで可能だとは思っていない。

 和人は木の幹に身体を隠し、芽衣子はその真上の枝に乗って生い茂る葉に紛れる。

 呼吸を殺すと、ひとの気配はまるでなくなり、木々が揺れて葉をすり合わせる穏やかな音しか聞こえなくなる。

 隠れ潜む和人は、妙に落ち着いた心地だった。

 これから命の取り合いになるかもしれない、と考えてみても、さほど鼓動は高鳴らない。

 戦闘に対する気概もなく、かといって、戦う意思がないわけではない。

 戦いになっても、自分は負けないだろうとほとんど確信している。

 自分がいちばん強い、という感覚ではない。

 ここで死ぬことはないと理解している。

 それだけの保証を、懐に入れた精霊石がしてくれている。

 しかしいま大事なのは自分の生き死にではなく、仲間たちのそれだ。

 そう考えると、さすがに和人も緊張し、手の平にじわりと汗が浮かぶ。

 やがて、山頂のほうから山を駆け下りてくる気配を感じた。

 音はない。

 目で見えてもいない。

 気配としか言いようがないだれかの存在が近づいてくる。

 ひとつではなかった。

 数えきれない数の気配が、半ば一塊の巨大な存在感となって迫ってくる。

 和人は精霊石の力を抑え、身を丸める。

 それでも相手に感づかれる可能性はある。

 最悪の場合は百人以上をひとりで相手しなければと和人は考えたが、その心配は杞憂だった。

 精霊使いの大群が音もなく和人のすぐそばを駆け抜けていく。

 百人どころではない。

 そのくせ、移動する際にほとんど音を立てない。

 肉体を持たない幽霊の行軍を見ているような気分で、和人はなんとか敵の本隊をやり過ごした。

 敵が通りすぎると、すぐに芽衣子が枝から下りてくる。


「和人さん、きますよ。準備してください」


 和人は立ち上がる。

 服についた草やちいさな枝を払って、まっすぐ立つ。

 武器はまだ取り出していない。

 どこからくるのか、しばらくはわからなかったが、そのうちやはり山頂のほうから物音が聞こえた。

 音のない行軍とはちがい、堂々と木々をかき分ける音を立てながら、敵が姿を現す。


「お館さま」


 芽衣子が呟いた。

 お館さまと呼ばれたのは、年端もいかぬ少女である。

 連れもなく、深い赤色の着物を着た七、八歳の子どもである。

 もし芽衣子から聞いていなければ、和人はそれが敵の大将だとは信じなかっただろう。

 しかし、そうとわかっていれば、その子どもは異様である。

 この場に、堂々と立っていることがすでにまともではない。

 和人と芽衣子を見ても驚くことはなく、むしろ薄く笑みを浮かべた。


「はじめまして、というべきかな」


 と少女は言う。

 声は、子どもらしくあどけない。


「きみのことはよく知っているよ、牧村和人くん。しかし、私のことはなにも知らないだろう」

「悪の親玉だとは聞いてる」


 ためらいがちに和人は言った。

 少女は声を立てずに笑う。


「私を見て、そう言える人間はすくない。見た目がこんな様子だからね。まあ、ふざけていると見られるのが普通だ。芽衣子から聞いていたか」


 少女は芽衣子を見た。

 少女を裏切った形になる芽衣子は、すこし目を伏せる。


「きみが――牧村和人がここにいるということは、芽衣子が私を裏切ったということだ。どうして目を伏せる? 自分が正しいと思うことをしたのなら、胸を張るといい」

「でも、お館さまには返しきれないほどの恩があります」

「その恩を働いて返せと言ったかな? 私は、子どもたちが幸せに生きていればそれでいい。恩などなにもない。私は私の考えで行動する。芽衣子は芽衣子なりに考えて行動すればいい。だれに非難されることもないし、非難されたところで気にする必要もない」

「ふむ……どうも、悪の親玉には思えなくなってきたな」


 和人は腕を組む。

 その姿のせいということも大いにあるが、言動を見ても、目の前の子どもが悪人には思えない。

 もちろん、無邪気な子どもではない。

 なにかしら異様なものを持ってはいるが、それが悪なのか、それとも複雑な別のなにかなのか、まだ和人にはわからない。


「そもそも、芽衣子が裏切ったからといって、われわれはなにも失敗していない。学園襲撃はすでにはじまっている。芽衣子に与えていた作戦は完全に成功しているのだから、責める理由がない」

「でも、わたしが裏切ったことで学園側の警備が強化された可能性はあります」

「それでいい。もともと学園襲撃はこちらの実力を計るためだ。これから先、苛烈な戦いばかりになる。警備が強化された学園を打ち破るくらいでなければ、どうしようもない」

「そのためだけに学園を襲撃したのか?」


 和人が口を挟む。


「ただ実力を計るだけで――生徒が死ぬかもしれないんだぞ」

「そう、だな。その可能性はある」


 いまはじめてそのことに思い当たったような顔で、少女はうなずく。


「しかしいまわれわれの実力を計ることは絶対に必要だ。国の軍隊以外でわれわれの相手ができるのは学園だけだから、仕方がない」

「それはそっちの都合だろ。おれたちには――いや、学園の生徒には関係ない。勝手に巻き込んで、襲って、なんとも思わないのか?」

「さあ、それはわからないな」

「わからない?」

「なにを思うかは個人の問題だ。もし、そこに良心の呵責があって殺せないというなら、それでも構わない。殺すことが目的ではない。それも含んでの実力を見ることが目的だ」

「あんたはどうなんだ」

「私は――そうだな。おそらく、なんとも思わないんだろう」


 言葉は妙だが、表情を見れば、からかっているふうでもないことはわかる。

 本当に自分の心がわからないという様子なのだ。


「ただの小手調べで、あんたの仲間だって死ぬかもしれないんだぞ」

「それはそれで仕方がない。もちろん、悲しみはするが――いや、ちがうかな。こう言ったほうが正しいのかもしれない。私には心というものがない。かつては持っていたはずだが、いまはなくしてしまったんだろう」

「じゃあ、どうしてこんなことを扇動するんだ」

「目的があるからだ。その目的が叶うなら、なにが犠牲になっても構わない」

「他人を犠牲にしても、か」

「もちろん」

「理解できないな」

「……そうか。そういうものなのかもしれないな」


 少女は独り言のように呟き、芽衣子に目をやった。


「芽衣子、すこし彼とふたりにしてくれるか。なに、別に危害を加えたりはしないよ。すこし話をしたい。他人に聞かれたくない話だ」


 芽衣子は和人を見る。

 すこし迷って、和人はうなずいた。

 芽衣子はふたりを振り返りながら、距離をとる。


「さて――」


 少女は木の一本に背中を預け、まるで恋人でも待つような明るい表情になる。


「われわれはお互いに相容れないことがわかったが、それできみはどうするつもりかな?」

「もちろん、あんたたちを追い返す」

「それならいまここで私を殺すことだ。頭を失えば、組織はどうしたって動揺する。実際、さっきはきみの先生が私の狙ってやってきた。結果は失敗だったが」

「――賀上先生か?」

「無事だよ。こちらは五人やられた。いまごろはもう学園へ戻っているはずだ。そちらも心配だろうが、きみはもうひとつ、気にすることがあるはずだ」

「気にすること?」

「きみ自身のことだ」


 和人は怪訝そうに眉をひそめた。


「おれの精霊石のことか」

「もちろん、それもある。だが、それだけではない。きみの持つ精霊石、われわれはキーストーンと呼んでいるが、それがとても重要なものであることはたしかだよ。しかしきみ自身も、それと同じくらい重要なものだ。すくなくとも私にとっては」

「精霊石に選ばれた、おれが?」

「きみがキーストーンの所有者になることは予想外だった。でも、いまは納得している。きみはキーストーンの所有者にふさわしい。しかしきみがキーストーンの所有者に選ばれなくても、必ず私の前に現れることはわかっていた」

「――精霊石を拾う前から、おれのことを知ってたのか?」

「精霊使いでもなかったきみをなぜ、と思うだろう。だが、きみはきみ自身のことをなにも知らない。きみが抱かない疑問を、きみの周囲は抱き続けてきたと思うよ。たとえば、きみに両親がいないのはどうしてだろう? いまでこそひとり暮らしをしてもおかしくはないが、到底生活能力のないころからきみはあの家で、たったひとりで暮らしていた。それはどうしてだろう?」

「それは――両親は、死んで」

「じゃあ、きみの両親はいつどこで死んだんだ。いったいどんなふうに? きみの両親は、どんな顔をしていたかな。父親の名前は? 母親の顔は覚えているか」


 和人はよろめく。

 目の前の少女から放たれた恐ろしい言葉に打たれたように、木にすがりつく。


「あんたがなんの話をしてるのか、おれにはわからない」

「それはそうだろうね。きみはなにも知らない。知ることがないように生きてきた。幸いきみは幼かったから、なにも思い出さないように、普通の人間として生きられるように、周囲がそんなふうに生かしてきた。だが、私にはわかっていたよ。きみは必ず私の前に現れる。私ときみには因縁がある」

「おれは、あんたなんか知らない。いままで聞いたこともなかったんだぞ。因縁なんて」

「しかし事実として、私ときみはここでこうして会っている」

「あんたがおれを狙ったからだ。おれになにをさせたいんだ」

「なにをさせたい、ということもないが――そうだな、なにをさせるべきか、とは考える。きみにはどのような役割があるのかとね。私は長い時間をかけて、抗いがたい運命について考えた。宇宙のはじまりから終わりまで、微に入り細を穿って一本の筋のように運命があるわけではない。世界は、物語ではない。一冊の書物で書き表されるようなものではない。それよりも即興劇に近い。舞台上の役者はそれぞれに役割を与えられ、自由に演じる。しかしだいたいの流れは決まっている。その流れが運命なのだと私は思う。たとえばそれは熟練した役者のあいだで繰り広げられる展開かもしれないし、たどたどしい役者たちがぎこちなく進行して行き着く先なのかもしれないが、この社会、歴史には確実に流れがある。きみも、私も、その流れに取り込まれているのだ。すでに舞台上なんだよ、ここは。しかしそこできみがどのような役割を演じるのか、きみ自身はなにも知らないままだ」


 和人は、目の前になにか恐ろしいものが潜んでいるように感じた。

 隙を見せれば飛びかかってくるような猛獣がじっと息を殺し、和人の喉もとを狙っている。

 和人は少女の話に恐怖している。

 それはつまり、少女の話にある種の現実味を感じているということでもある。

 荒唐無稽な戯言とは思えない。

 そこに潜む真実が自分を狙っていると強く感じる。


「きみは覚えていないだろうが、私ときみの因縁は浅からぬものだ」


 少女は、子どもの声色を使って続ける。


「そしていまやきみはキーストーンの持ち主だ。この舞台における主役のようなものだよ。おそらくこの劇には主人公がふたりいて、ひとりはきみ、もうひとりは私だろう。まあ、私の劇はいまにはじまったわけではないが――きみは、物語において主人公がふたりいる場合、それがどのような関係性を持つか知っているかな?」


 和人は答えない。

 少女は続ける。


「唯一無二の友人となって、手と手を取り合いともに行動するか、相容れない思想をもって好敵手になるか、だよ。私は、きみがそのどちらかとして私の前に現れることを知っていた。仲間になるならかけがえのない存在になるだろうし、敵になるなら決して退かない天敵になるはずだ。ここが分かれ道だ――敵か、味方か?」


 少女は一歩和人に近づいた。

 誘うような笑みを浮かべている。

 その誘いに乗ることは容易である。

 ただ少女のほうに歩き出せばよい。

 それだけですべての問題が解消されるかもしれないのだ。

 学園の襲撃をやめさせることも、和人が知らない牧村和人についての謎も、もとは少女に端を発している。

 ひとりの仲間として、戦いをやめさせ、謎を教えてくれといったなら、少女はそれを拒まないようにも思える。

 そんな心中の葛藤を隠すように、和人は口を開く。


「あんたの目的も知らないで、仲間になれっていうのか?」

「目的か、そうだな」


 少女はちいさくうなずく。


「きみになら、本当の目的を教えてもいい。私の仲間にも教えていないことだ」

「本当の目的?」

「仲間たちは、精霊使いが主体となる社会を作るための戦いだと思っている。事実、私はそのようなことを言って彼らを扇動している。革命だ。革命を唯一と目的と称しているが、それは事実ではない。革命は歴史の流れにすぎない。いってみれば、そのような物語を演じている、というだけだ。演じている私自身、役柄を演じる私というものの目的は、別にある。もちろん、革命そのものも、私の目的のひとつではあるが、それは手段にすぎない」

「じゃあ、いったいなにを求めてるんだ」

「知りたいんだ」


 少女は苦しげに顔をしかめた。

 それは妙に人間らしい言葉であり、表情だった。


「精霊石とはなんなのか――それを知りたい。それだけだよ」

「精霊石……」

「その不思議な鉱物は、どうして人類史に現れたのか――意味や理由があるとすれば、それはなんなのか。私が望むのはそれだけだ」

「それだけのために関係のないひとたちを殺すのか?」

「無関係ではない。すべての犠牲は、私が真相に辿り着くことで生かされる。すくなくとも私のなかでは、あらゆる犠牲は無駄ではない。それを無駄と決めつけるのは、きみたちだ」

「おれは――おれは、あんたの仲間にはならない」

「……そうか」


 少女は目を伏せた。

 和人の選択を心から悲しんでいるようにも見える。

 和人が少女を見る目と、少女が和人を見る目では背景が異なる。

 少女は和人の過去を知り、因縁があるというが、和人はそれを知らない。

 いま和人に見えているのは、いまの少女の姿だけなのだ。

 そこに映るのは自らの目的のために他人を蹂躙する冷酷な姿である。

 冷酷だが、どこか物悲しい幼い少女の姿である。

 仲間にはなれないと和人は断言する。

 しかし、突き放すことは、なぜかできなかった。


「その目的を叶えるために、ほかの方法はなかったのか? 精霊石を調べるなら、研究所かなにかがあるはずだ。ひとりでやるよりはそっちのほうが早い」

「研究所では、意味がない。精霊石を構成する物質を知りたいわけではないんだ。研究所でその意味がわかるとは思えないし――実際、研究所ではなにもわからなかった」

「だからって、関係のないひとを巻き込むのは絶対にだめだ」

「そう――そのはずだったが、どこでそのことを忘れたのか、それさえ思い出せないよ。あまりにも長い時間をひとりで過ごしすぎたのかもしれないな」


 少女は弱音を吐いて、和人に背を向けた。


「きみが仲間にならない以上、きみは私が徹底して排除すべき敵となった。キーストーンもろとも、きみの存在を消すしかない。精いっぱい抗うことだ。それだけが唯一生きのびる方法だよ」

「待ってくれ。どうしておれのことを知ってるんだ。おれの過去を、全部知っているのか」

「知っている。仲間になれば、すぐにでも教えてあげられたんだが」


 振り返って、少女はいたずらっぽく笑う。


「敵になったいま、わざわざ教えてやる義理はない。それでも知りたければ、この山の頂上、いまは博物館になっているが、その場所に過去なにがあったのか調べてみるといい。きみがあの場所でキーストーンを見つけたことは、決して偶然じゃない。あそこはきみの過去にもっとも深く関わっている場所だ。もっとも――苦労して探し出した過去が、きみの望んだものだとは限らないが」


 少女は、現れたときと同じようにゆっくりと木々を迂回して姿を消した。

 精霊使い独特の、人間離れした動きは一切見せない。

 そのくせ異様な気配を放つ少女だった。

 和人はその背中が木々に遮られるまで見つめていたが、完全に見えなくなると、困りきったように首を振った。

 いままで、確固たるもの、と信じていたものが揺らぎはじめている。

 和人は懐から精霊石を取り出し、手のひらに載せて改めて見つめる。

 この精霊石――青藍と出会ったことが、単なる偶然と、その別名としての運命などではなく、和人自身知らない縁による宿命だったとしたら。

 和人はあの日、あの場所でこの精霊石を見つけなければならなかったとしたら。

 考えたことはなかったが、そのすべてになにかの意思があるとしたら、見えるものは同じでも見え方が変化する。

 あの場所で友人を失ったこと、精霊石を見つけたこと、襲ってきた敵を殺したこと――学園へやってきたことも、ここでこうして少女と話したことも、まったく異なる様相を呈する。

 真実を知らなければならないと和人は決心する。

 少女がうそを言っている可能性もあるが、和人が自身の過去についてなにも知らないこともたしかである。

 すくなくともその部分について、和人は真実を知らなければならない。

 ほかのだれでもなく、自分のためにだ。

 少女は、出てくるものが望んだものとは限らないと脅したが、なにが出てくるにしても、それはもともと和人が持っているべきものである。

 望む望まぬに関わらず、自身の過去は自身が持つべきなのだ。


「芽衣子」


 と和人は芽衣子を呼んだ。

 離れていろと言われたとはいえ、近くにはいるはずだと考えたのだ。

 案の定、芽衣子はすこしばつが悪そうな表情で茂みから出てくる。


「あの、和人さんの個人的な話を聞くつもりはなかったんですけど――」

「いや、別にいいよ。聞かれて困ることもでないし、おれの心配をして隠れてたんだろ。ありがとな」

「そ、そんな……」

「ちょっと時間を使いすぎた。早く学園に戻ろう。襲撃がどの程度まで進んでるかわからないけど、おれたちも戦力になるはずだ。ああでも、戦いたくなかったら、別にそれでもいいんだぞ。ひとり抜けたくらいはどうとでもなるんだから」

「大丈夫です。わたし、結構強いですから」


 ぐっと拳を作って、芽衣子は笑う。

 和人はうなずき、ふたりは戦うために学園へ急いだ。


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