第一話 2
2
一年でいちばん爽やかな五月の、清々しく晴れ渡った青空のもと、新緑香る山道を進む――これぞ至福である、と榎田猛は思う。
が、どうもそんな気分にはなれないのは間違いなく相方のせいだとも強く思う。
「あー、めんどくせえ。暑ぃ。めんどくせえ。だりぃ。疲れた。めんどくせえ。あー」
「うるさいぞ、山神洋一郎。この爽やかな五月がおまえの覇気のない声のせいで穢れる」
「だってよー。こんな山道歩くなんて聞いてねえもんよ。おれはてっきり車で行くもんだと思ってたのに……あー、めんどくせえ。歩きたくねえ」
猛は仕方なく立ち止まる。
ずいぶん後方からのたのたと歩いてくる男は、どう見てもこの五月の美しい山にはふさわしくない。
すり切れたジーンズにだらしのないシャツ。
腰に無駄なチェーンなどつけよって、と猛は心のなかで毒づく。
いったいなにを縛っているのかと見れば、ただ腰に垂れ下がっているだけで、なんの意味もない銀のチェーンなのだ。
皐月の風と芽吹いた緑を愛する猛も、じゃらじゃらと揺れる鎖は愛せないものらしい。
その猛自身、スリーピースのスーツと山には似つかない格好をしている。
見るからに奇妙なふたり組である。
「早くこい、山神洋一郎」
「フルネームで呼ぶんじゃねえ。えのきだけ猛」
「えのきだ、だ。榎田猛だ」
「えのきが食えねえ榎田なんか、えのきだけで充分だ」
「食えないわけじゃない。あえて、食わないのだ」
「えのきがかわいそうだろ。仲間外れにすんなよ。食えよ」
「目的地はまでもうすこしだ。歩け」
「くそ、この田舎町が悪ぃんだ。駅前にレンタカーがねえってどういうことだよ。おまけにバスもねえってどういうことだよ」
「知らん」
「うるせ、独り言に返事すんじゃねえ、えのきだだ猛」
「えのきだだじゃない。えのきだ、だ」
「えのきだだ」
「えのきだ、だと言っている。榎田猛だ」
「えのきだだ猛だだ」
「蹴り落とすぞ」
「へっ、やってみろよ。えのきだだには負けねえ。――おい、ちょっと、待てよ。休憩だ。疲れた。あー、めんどくせえ。だりぃ」
ガードレールに掴まって休憩する洋一郎を見て、猛はため息をつく。
「あー、くそ、空って青いなあ。めんどくせえくらい青いなあ」
「どういう意味だ」
「知らねえよ。適当に言ったんだよ。あるだろ、そういうこと」
「適当に発言したことなど一度もない」
「産まれたから一回も、か」
「一回も、だ」
「おぎゃーも言わなかったのか」
「おぎゃーは言ったが、ちゃんと意味があって言ったのだ。ただ適当におぎゃーと言ったわけではない」
「まじかよ。天才児か、おまえ。えのきだだすげえ」
「斬り殺すぞ」
「榎田、あとどれだけ歩けば着くんだ。その、なんだっけ、なんとか博物館に」
「不破市立博物館。あと二十分ほどだ」
「長ぇよ。ちょっと空間を縮めて二分くらいで着くようにしてくれ」
「いかにおれが天才であろうと、それは無理だ」
「じゃ、おまえひとりで行ってきてくれ。どうせ外れだよ。こんな田舎の博物館にあるわけねえ。大英にもないんだぜ。水晶髑髏より貴重なもんが、こんな田舎の博物館にあるわけねえんだ」
「あの水晶髑髏は偽物だぞ」
「はっはっは、おまえの冗談ってはじめて聞いたぜ」
「いや、冗談ではない」
「……え?」
「冗談ではない」
愕然とする洋一郎をよそに、猛は再び歩きはじめる。
洋一郎はよろよろとあとを追った。
「お、おい、まじかよ。冗談だろ。おい、榎田、冗談だよな」
「もう二十分も歩けば着くぞ。がんばれ」
「まじかよ……信じられねえ。うそだろ。おれはずっとありゃ本物のオーパーツだと……くそ。最低だ。今日は最低の日だ」
「そうでもない。例の貴石が見つかれば最高の日になるだろう。人生最高の、あるいは人類最高の日だ」
「見つからねえから最低の日なんだよ」
洋一郎はまるでやる気のない表情で呟く。
「考えてみろよ。地球ってどんだけ広いんだ。砂漠で一本の針を探してんじゃねえんだ。地球で一個のちっちぇー石っころを探してんだぞ」
「ただの石ころではない。貴石だ。精霊石だ」
「おんなじさ。そりゃ、普通の石っころよりは見つけやすいかもしんねえけど」
「精霊石は必ずある。どこかにあるのなら、われわれが見つけてもおかしくはない」
「はあ……おまえ、変なとこで前向きだな」
「おまえは妙なところで後ろ向きだな」
「めんどくせえことは嫌いなんだよ。効率的に生きたいんだ。おれたちがその精霊石を見つける確率は、いったい何百分の一だ?」
「何万分の一でも、必ず可能性はあるのだ」
「めんどくせえ……歩きたくねえ。あー、暑ぃ。まだ五月だぞ、くそ」
「この美しい季節がわからんとは、哀れなやつだな」
「哀れでもなんでもいいから早く帰りたいよ」
山神洋一郎は所詮チンピラだと猛は思う。
能力もそうだが、もっとも肝心な意思が洋一郎からは感じられない。
自分の役割を把握し、組織の理想を理解しているのか、はなはだ疑問な洋一郎の振るまいだった。
しかし猛には争う意思がない。
たとえ相棒がどんな人間であろうと、同じ組織の一員なのだ。
敵ではない。気に食わぬ、と感じても、味方だ。
「……もうすこしだ。山神洋一郎。帰りは迎えの車がくることになっている」
「そうか。じゃ、さっさといって帰ろうぜ、えのきだだ」
「榎田、だ」
「えのき……いや、もういいか。とにかく博物館で冷たいジュースを飲もう。話はそれからだ」
「ちがうだろう。まず精霊石を確認する」
「ジュース飲んだあとに、な。腹が減っては戦もできぬ」
「武士は食わねど高楊枝」
「おれは現代っ子だからよ」
「情けない」
しかし果てのないような坂道にも終わりが見えてきたようだ。
ゆく先に、博物館駐車場、と書かれた看板がある。
そこを過ぎて数十メートルも行けば、いよいよ博物館だ。
洋一郎はそれこそ這々の体だが、猛にはまだ余裕があった。
ずいぶん高いところまで上ってきたものだ、と猛は町を見下ろす。
今朝降り立ってレンタカーを探し回った駅も、いまでは豆粒のような大きさになっている。
そこで右往左往する人間は滑稽であり、同時にここよりもはるか頭上から見下ろせばまた自分も滑稽なのだ。
人間ひとりの人生など、俯瞰すれば滑稽極まる喜劇以外のなにものでもない。
当人が必死にもがき、苦しみ、悩み、全身で喜び、全力で悔やむ様子さえ、それが切実であればその分だけよくできた喜劇になる。
どうもがいても喜劇なら、いっそ見る客を釘付けにするほどの喜劇を作ってやるのだ。
「おーい、えのきだー、早くこいよ。先に入っちまうぞ」
「……急に元気になったな」
「ジュースがおれを待ってる。ビールがありゃ小躍りするぜ」
「こんなところにビールはないだろう」
洋一郎は意気揚々と駐車場を横切り、博物館の自動ドアをくぐる。
猛はそのように不用心な真似はせず、慎重に博物館の外観を眺めた。
田舎の博物館にお似合いの、さほど大きくはない、地味なコンクリートの建物だった。
おそらく二階建てで、駐車場はやけに広いが、建物はさほど広くないだろう。
あまり広く作っても展示するものがないから、身の丈に合った大きさにしたのかもしれない。
注意深くあたりを見回した猛は、駐車場の隅に停まった大型バスも見逃さなかった。
全部で四台、どれもいまは空っぽになっている。
小学生あたりが遠足にきているのかもしれない。
どこぞのだらしない大人のように、つまんねえ、めんどくせえ、と言いながら展示物を見て回っているのだろう。
その小学生も、引率をする教師も、ご苦労なことだ。
なにも知らずに生きるという幸運に恵まれた者は、そのままその幸運に浸っているがいい。
やがて世界は転覆する。
転覆させるのだ。
なにもかもひっくり返し、奴隷は解放され、王族は地を這う。
それは、それほど遠くはない未来のことだ。
猛は不破市立博物館と印字された金属プレートを眺め、それからなかに入った。
まだ五月だが、館内には空調が効いている。
山道を歩いてすこし火照った身体がゆっくりと冷えていくのが心地よい。
入ったところに受付があり、そこで入場券を買う仕組みになっている。
パンフレットなども並んでいて、猛は展示物を確かめるために入場券を買いながらパンフレットをとった。
展示物は、よくいえば地元密着型の、悪くいえばありふれたものだった。
精霊石、という文字もしっかり確かめ、なかに入る。
先行した洋一郎はすでに自動販売機の前に置かれた長椅子に寝転がっていた。
「山神洋一郎。公衆の面前で組織の品格を落とすような態度はやめたまえ」
「コーラ超うめえ。幸せだ、おれ」
「安い男だ」
「そりゃそうだ。男なんか、女と酒とけんかさえありゃ満足できるんだ。おれはとくにけんかが好きだけどな」
「野蛮だな。精霊石を見にいくぞ」
「ちょっと待てよ。休もうぜ」
「時間の無駄だ」
「いま、学生が展示室のなかにいる。どうせそいつらが邪魔でろくに見えねえよ。そいつらが出てきてからでもいいだろ」
「ふむ。そうするか」
猛も長椅子に座り、パンフレットを眺める。
展示されている精霊石は、この地で見つかった精霊石、としか書かれていなかった。
それが捜し求める精霊石なのか、星の数ほどある精霊石のひとつなのかは実際にそばに寄ってみなければわからない。
「あいつら、不破学園の生徒かな」
起き上がった洋一郎がぽつりと呟く。
「小学生ではないのか」
「高校生だった。不破学園の生徒だとしたら、やっぱりここは外れじゃねえのか。あそこの生徒なら精霊石を見て気づくだろ。騒ぎが起こってねえとなれば、だれも気づいてねえわけだ」
猛は横目で洋一郎を窺う。
ふざけているように見えて、まったくのばかではないのだ。
品性の下劣さと知性の優劣は関係がないらしい。
「不破学園の生徒ではない可能性もある。ほかの学校の生徒なら気づかずとも無理はないだろう」
「ま、そりゃそうだ。どうせここまできたんだしな。この目で確かめてやる」
「ずいぶんやる気だな」
「さっき、ラッキーがあってな。こりゃさい先がいいぜ」
「ほう。なにがあった」
「ここで寝てたらよ、横を女子高生が通ってな――パンツ、見ちまった」
「……ばかだな、おまえは」
「すかしてんじゃねえ。おまえだって好きだろうが。パンツだぞ。女子高生のパンツだぞ」
「パンツパンツ言うな。見ろ、受付の女が恐ろしい顔でこちらを見ているぞ」
「そりゃおまえが目立つんだよ。スーツなんか着てくんじゃねえ」
「常に正装でいることのどこが悪い。おまえこそそのだらしのない服はなんだ」
「へっ、スーツなんか着たって女子高生のパンツには興味津々なくせに」
「叩き潰すぞ」
「悔しいのか? だったらおまえもここで寝てみろよ。見えるかもしんねえぞ。ま、おれがパンツ見た女子高生は美少女だったけどな!」
「おまえというやつは……」
「引いた目でおれを見るんじゃねえ」
猛はため息をつき、首からぶら下げた精霊石に同情を求めるように軽く握った。
こんな男でも実戦ではそれなりに働くのだから、世の中は不思議だ。
洋一郎が飲み終わった空き缶をごみ箱に放り投げ、外れて床に転がったところを拾いに立ったとき、建物の奥からざわめきが広がってきた。
白いシャツと紺色のズボン、あるいはスカートという地味な制服の学生たちがぞろぞろとホールに出てくる。
好奇心よりもやっと終わったという顔が多いのは、学生たちが悪いのか博物館が悪いのか。
学生たちは展示室から出てくると、ホール全体に広がった。
ちょっとした売店に入る生徒もあれば椅子に座ってぼんやりする生徒もあり、なかには猛たちに好奇心のこもった目を向ける生徒もいる。
洋一郎などは余裕ぶって女子生徒に手を振ったりしていたが、猛は生徒たちの様子をしっかり観察していた。
どの生徒も手ぶらで、首や手首にアクセサリはつけていない。
不破学園の生徒ではない、ということだ。
「行くぞ、山神洋一郎」
「フルネームで呼ぶなっつってんだろ。嫌いなんだよ、自分の名前」
「山の神のくせにすぐばてるからか?」
「洋一郎ってなんかだせえ」
「よく合っていると思うが」
「おお、けんか売ってんのか?」
大勢の学生と入れ違いに、ふたりは奥の展示室へ入る。
さほど広くはない部屋だった。
壁際にずらりと展示棚が並び、そこにこのあたりで発掘された古い矢やら石器やらが簡単な説明とともに展示されている。
問題の精霊石は展示室のもっとも奥にある。
そこに目を向ける前から、猛はそのことに気づいていた。
「おい、榎田」
「ああ、そうらしいな」
ふたりは入り口で立ちすくみ、呆然と展示室の奥を眺めた。
視界に入る前から、感じているのだ。
普段では想像もつかないほどの強い共鳴が起こっている。
思わず猛は首から提げた赤い精霊石を握りしめた。
「まさか、当たりなのか……?」
洋一郎もさすがに驚いた表情で、そこから一歩も動けずにいる。
耳鳴りのような甲高い音が展示室いっぱいに響き、身体の芯がぶるぶると震える。
それぞれ持っている精霊石も小刻みに震え、まるでなにかに恐怖しているようですらあった。
「こんな田舎の博物館にあったのかよ――キーストーンって、そんなもんなのか」
「あるところにはある、ないところにはない。そういうものだ」
「おまえの言うことはよくわかんねえけど……見つかったからには、おれたちの任務は変更になるんだな」
「確認から奪取に変更される」
猛は一歩踏み出し、自分が汗ばんでいることに気づいた。
妙な緊張が身体を包んで離さないのだ。
まるで蜘蛛の糸に絡まるように、一歩近づけばその分だけ緊張が高まる。
自分が考えすぎているだけか、と猛はとなりの洋一郎を窺い、同じように頬を汗が流れるのを見た。
しかしいままでここにいた生徒たちは、だれもそんな緊張は感じなかっただろう。
精霊石を持ち、精霊石を使う人間にしか感じることができないなにかがある。
それは一般的な精霊石とは桁外れの影響力を意味していた。
猛はかろうじて展示されている精霊石が見える位置まで近づいた。
青く、ちいさな精霊石である。
それよりも美しく、巨大な精霊石は無数にあって、それだけを考えるなら味気ない石ころだが、ただの石ころではない。
展示の扱いがいかにちいさく、貴石といいながら美しくもないが、ただ鎮座しているだけで途方もない力を発揮しているのだ。
「おいおい、冗談じゃねえぞ」
洋一郎は引きつった笑みを浮かべる。
「これ以上、近づけねえ」
その場に立ち、押し返されるのをなんとか堪えるだけでふたりの力は限界だった。
これ以上は一歩も進めない――人間の力のままでは。
猛は精霊石を握りしめる。
「おい、やるつもりか、榎田」
「当然だろう」
「外には無関係の学生も大勢いるぜ」
「いかなる犠牲を払おうとも、キーストーンはわれわれが確保しなければならない。外の学生には悪いが、穏便にはできん以上仕方ない」
「へっ、そうかい。じゃ、おれも遠慮なくやるか」
洋一郎も首から提げた精霊石を握りしめた。
ほんの一瞬、瞬きのあいだに、精霊石はそれぞれ槍と西洋剣に姿を変えている。
槍を持った猛は、それまで近づけなかった一線を容易に越えて鎮座された精霊石を見下ろした。
そのちいさな石からはいまも恐ろしい圧力が発生していたが、猛の身体はもはやそれを意に介さないほど強化されている――精霊石の力を利用する人間を、ひとは精霊使いと呼んでいる。
精霊石の力を利用しているあいだ、感覚は数倍に高まり、身体能力にも限度がなくなるが、猛はその鋭い感覚によっていままで気づかなかった防犯システムを感知した。
「山神洋一郎。ここは監視されているぞ」
「わかってるって。普通の機械じゃねえな。たぶん例の連中だ」
「こちらの動きはすでに気づかれていると考えたほうがいい。手荒になっても早く立ち去るぞ」
「おれに命令するんじゃねえ――ん?」
猛と同じように精霊石で強化された洋一郎は、遠くから近づいてくる足音を感じ取った。
まだ展示室の外だが、入り口に向かって着実に近づいている――目線で相談し、洋一郎が外を警戒して猛が精霊石を奪取することに決まる。
猛は奇妙に背中を曲げ、槍を持った右手をぐっと引いた。
――と次の瞬間には身体のバネを使い、弾丸のように槍の先が展示棚のガラスを貫いている。
けたたましい警報が博物館全体に響き渡った。
気にせず、猛は周囲の展示物ごとガラスを蹴散らし、青い精霊石に手を伸ばした。
「その石に触れるな」
ぞっとするほど静かな声だった。
口調が冷静なら、洋一郎に剣先を突きつけられても表情ひとつ変えない冷静さも不気味である。
――四十をすこしすぎたころの男だ。
ネクタイを結び、首からは職員パスを下げているが、手に持っている短刀だけがやけにぎらぎらと輝いて剣呑だった。
一切の装飾なく、ただひとつの目的のために存在しているような、不気味な男の様子に猛も警戒を強める。
「どこのだれだか知らんが、ただの強盗ではないようだな」
「精霊石専門の強盗さ」
洋一郎も表情は硬い。
「ただのおっさんじゃねえな」
「貴き石を守る者だ。おまえたちにその石を渡すわけにはいかん」
「二対一だぜ。それでもやるのか?」
「無論」
洋一郎も気を抜いていたわけではなかったが、それ以上に男が速かった。
右腕の一振りで洋一郎は壁まで吹き飛ばされる。
建物全体が震えるほどの衝撃で壁に叩きつけられ、洋一郎は低くうめいた。
すかさず猛が距離を詰める。
槍を構え、高速の突きを繰り出す――が、男は身体全体を回転させるようにそれをいなし、猛の懐に飛び込んでいる。
とっさに右腕を犠牲にしなければ、猛の身体は短剣で裂かれていた。
男は軽く跳躍して猛を蹴りつける。
ぐらりと、建物が揺れた。
「言い忘れたが――」
男は平然とふたりの侵入者を見下ろす。
「じきにこの博物館は崩壊する。おまえたちはその事故に巻き込まれて死ぬのだ」
「調子に乗ってんじゃねえぜ、おっさん」
洋一郎は壁を蹴って男に突っ込んだ。
男はかわそうと身を動かすが、足下の猛が男を逃がさない。
「ちっ――」
その舌打ちはどちらのものだったのか。
洋一郎と男は絡まり合いながら壁を突き抜け、隣接した資料室の床を転がる。
猛もすかさずそれを追った。
分厚いコンクリートの壁を道具も使わず打ち破る――人間業とは思えない彼らの挙動が精霊使いの特異さを如実に表している。
猛が資料室に駆け込んだとき、さきのふたりは部屋の左右に分かれてにらみ合っていた。
槍の先端を男に向け、猛もぐっと背中を丸める。
状況は圧倒的に有利だった。
まずは身軽な洋一郎が突っ込む。
その一瞬あと、回避の挙動を計算した位置に猛が猛烈な突きを繰り出している。
逃げ場はないはずだったが、男は思わぬ行動に出た。
洋一郎の剣をかわさず、右腕の半ばまでを両断されながらも脇と身体のあいだに剣先を挟み込んだのだ。
加えて、猛の槍もまた、腹に風穴を開けられながらも左手でしかと柄を握って離さない。
「ぐぅ――」
両足を肩幅に開いて立ち、男はきっとふたりをにらんだ。
血走った目に、唇の端からつつと流れる鮮血は、まさに鬼神にふさわしい。
背筋にぞっとした殺気を感じ、反射的に猛は得物を手放して男から距離を取る。
洋一郎も動物的勘で同じ行動をとっていた。
「貴様らには渡さん!」
男は血まみれの口を開き、大きく吠えた。
それに連動するよう――建物が大きく揺れる。
男は血の滴る口で、にぃ、と笑った。
「おれの命ならくれてやるが、あの石はおまえらの手に余る」
「逃げるぞっ」
と叫んだのは猛だったが、すでに建物の崩壊は末期まで進んでいた。
コンクリートの壁には幾重にも罅が入り、天井からは灰色の粉がぱらぱらと落ちてくる。
猛と洋一郎は屋外への最短距離を走った。
たったひとり、資料室に残った男は前のめりに倒れ、密かな満足とともに息絶えた。
いくら精霊使いでも瓦礫の下敷きになってはひとたまりもない。
天井が崩落し、その瓦礫が脆くなった壁を壊し、建物が軋んで揺れていく――世界の終わりを彷彿とさせる景色のなかで、だれにも知られることなく貴石が目覚めようとしている。
その鼓動は、まだだれの耳にも届いていない。