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青の奇跡  作者: 藤崎悠貴
第二話
26/61

第二話 14

  14


 生徒たちにとっては、待ちに待っていたような、永遠にきてほしくはなかったような一日である。

 試験は初等部から日をずらしながら行われ、高等部の試験は結局夏休みに入る一週間ほど前になっていた。

 生徒たちはみなこの日のために勉強し、一夜漬けで臨む者あり、勘を頼りに自然体で臨む者あり、試験など知ったことかと開き直る者あり、とにもかくにもこの日がやってきたのだ。

 直坂八白は、前回の試験ではクラスで三番目の成績だった。

 不破学園は基本的に一学年一クラスになっているため、言い換えれば八白は学年三位である。

 しかしその結果にあぐらをかくこともなく、八白はこつこつと勉強を重ね、前日も日付が変わるころまでは復習をしていたが、当日になって体調を崩してはならないとしっかり寝ることも忘れず、万全の体制で試験当日を迎えていた。

 ただ、早朝、家を出る八白の顔は不安げである。

 眉根を寄せ、なにか深く思い悩むような表情で細い路地を横断し、向かいの家へ行く。

 呼び鈴を鳴らすのもさすがに躊躇はない。

 どうせこんな呼び鈴では目覚めるはずもないから、とたかをくくっていたせいもある。

 だから、一度の呼び鈴で返事があったときは、文字どおり飛び上がるほど驚いた。

「ま、牧村くん? ど、どどうしたの、まだ起きる時間じゃないよ?」

「試験前の徹夜ってやつだよ」


 とスピーカーを通して聞こえてくる声は、いかにも覇気がない。


「と、とにかく、入ってもいい?」

「鍵は開いてる」


 八白は玄関の把手に手をかけ、ふと動きを止めた。

 鞄から手鏡を取り出し、髪型がおかしくないか確かめる。

 普段は相手もまだ寝ているから余裕があるのだが、すでに起きているとわかると、妙に緊張する。


「よし、大丈夫っ」


 がちゃりと玄関を開けてなかに入る。

 廊下は静まり返っている。

 リビングを覗いてみても、人影はなかった。

 ただ、珍しく夕食の洗い物が済んでおらず、シンクのなかに食器が置いたままだった。

 一階にいないということは、二階しかない。

 八白が軽い足音を立てて階段を上っていくと、二階のいちばん手前、牧村和人の部屋の扉が開いている。

 八白は部屋を覗いて、


「ひいっ」


 と声を上げた。

 たった一夜で、人間はこれほどに変わるものだろうか?

 室内にいるのは牧村和人にちがいない――しかしひどくやつれ、青白い顔をしている。

 背中を曲げてノートにかがみ込む様子には鬼気迫るものがあり、それでいて全身から負の気配を漂わせている。

 和人はゆっくり、幽鬼のように顔を上げ、八白を見た。

 八白はまた軽い悲鳴を上げて後ずさる。


「よう、直坂。もう朝か」

「だ、大丈夫なの、牧村くん? そ、その、顔色、悪いよ……?」

「だろうな。もう一生分くらい勉強した。眠たいやら疲れたやらなんやらで死にそうだ」

「ど、どうしてそこまで……。昨日はあんなにやる気なかったのに」

「いやあ、別に理由はないんだけどな。やるからにはとことんやらねえとと思って」


 恐る恐る室内に足を踏み入れた八白は、ベッドで青藍が寝ていることに気づいた。

 格好は制服のままである。

 珍しい、と思っていると、和人がその視線に気づいて、


「こいつは三時間くらい前に脱落したんだ。まあ、がんばったほうだろ」

「そ、そうなんだ……ね、ちょっと寝たほうがいいよ。まだ時間もあるし」

「いや、時間があるならその分勉強しないと……絶対に負けるわけにはいかねえんだ。おれの自由のためにな」


 ぶつぶつと呟きながら、和人は再びノートに視線を落とす。

 なにがどうなったのか――とにかく、和人がこれまでにないほど勉強に意欲を出しているらしいのは八白にもわかった。

 このやつれようは少々異常だが、勉強に打ち込むこと自体は、決して悪いことではない。

 昨日まで苦労していた和人を知っている分だけ、八白は応援してやりたい気持ちになる。

 和人が勉強するというなら、無理に寝かせることもない。

 ただ、すこしでも和人が楽になるように手伝うため、八白は和人のとなりに腰を下ろした。

 それほど、ぴたりとは寄り添わない。

 肩も触れ合わない距離である。

 その分、変にどきどきしてしまうこともない。

 しかし和人の存在をしっかり感じられる、ちょうど居心地のよい距離感だった。


「どれどれ」


 と八白は頬を流れる髪を押さえながら、和人の手元を覗き込んだ。

 使っているノートは昨日と同じである。

 ただ、空白だったところが、恐ろしく細かい字で黒く埋めつくされている。

 まるで極小の芋虫かなにかがうようよと蠢いているようですらあった。

 よく見ると、書かれているのは数式であったり世界史に出てくる名前や年代であったり、教科がまちまちである。

 それが余計に狂気を感じさせ、そこまで夢中になる理由はなんなんだろうと不思議に思ったが、和人の横顔はその疑問をぶつけられるほど余裕はない。

 どうやら勉強を教えることもできないようだった。

 そうなってくると、和人のとなりに座る必然性がなくなる。

 八白は落ち着きなくあたりをきょろきょろと見回したり、もじもじと足を動かしたりする。

 そして横目では常に和人の様子を窺っている。

 となりで八白がどんな動きをしても、和人の表情や視線はすこしも変化しない。

 もしかしたらとなりにいることさえ気づいていないのかもしれない。


「むう……」


 そう思うと、なんとなく愉快ではない八白である。

 邪魔はしたくないが、かといって存在にさえ気づかれぬのも癪だ。


「う、うーん」


 もぞもぞと動いてみたり、わざと伸びをしてみたり、とりあえず視界の端に収まるようにがんばってみる。

 が、和人は完全に無視してペンを動かしている。

 こうなったら、と八白は正座していた足を崩す。

 スカートの裾を、ほんのすこしだけ、まくり上げる。

 見えている足の面積にはほとんど変化はないが、これで和人もすこしは気を惹かれるはずだった。


「えーと、ここがこうなってるから、こうなって……あ、くそ、計算ミスだ」

「……むー」


 さらにすこし、まくり上げる。

 そして和人をちらりと見る。

 反応はない。

 またすこしまくり上げる。

 白い太ももが、かなりしっかりと見えてくる。

 それでも和人はぶつぶつと呟いてノートから顔を上げない。


「こ、これならどうだっ」


 八白はスカートの裾を掴み、その奥へ風を送るようにばさばさと扇ぐ。

 紺色のスカートと、白い太ももが交互に覗き、太ももはかろうじて下着が見えないという危うい位置まであらわになる。

 半ば八白も、当初の目的を忘れている。

 それでも恥ずかしいらしく、顔はまっ赤である。

 恥ずかしいならやめればいいのに、とだれしもが思うところだが、一度はじめた以上、目的を遂げるまでやめるわけにもいかなかった。


「ま、牧村くん、消しゴムが机の下に落ちたよ」

「え、ほんとか」


 和人はぐいと机の下を覗き込む。

 その瞬間である――八白は一瞬だけスカートを広げた。

 表からは見えないが、机の下を覗く位置からは、なかが見えたはずである。

 なのに和人ときたら、


「ないぞー、消しゴム」

「き、気のせいだったのかな? あははは」

「なんだ、気のせいか。さて、えっと、どこまでやったっけな」


 何食わぬ顔で勉強に戻っていく。

 よっぽど勉強に夢中らしい。


「うう……」


 八白は作戦失敗を痛感し、恥ずかしいやら情けないやら、めそめそする。

 以前の八白であれば、この時点ですっかり諦めていたはずである。

 しかしいまの八白はちがう。

 布島芽衣子という、要注意のライバルが登場したいま、控えめな直坂八白では勝ち目がない。

 布島芽衣子は強敵である。

 それは間違いない。

 同性であり、敵対心のある八白から見ても、和人と接しているときの芽衣子は、あざとさが目立つものの、かわいい。

 男の子は好きなんだろうな、というところをしっかり押さえている芽衣子に勝つには、並大抵ではだめなのだ。

 そして八白は、こと和人に関しては、相手がどれだけ強敵であろうと負けるつもりはない。

 戦って、勝つつもりである。

 強敵、仮に冒険譚になぞらえて布島芽衣子を魔王とするなら、目の前の勉強程度、すなわちゴブリンあたりに負けるわけにはいかない。

 和人がまじめに勉強している、という意識は、八白のなかからすでに消えている。

 八白にとってそれは敵である。

 敵とはすなわち殲滅しなければならぬものである。


「ね、牧村くん、この制服のリボンってかわいいよねー」


 八白は胸元についているリボンを強調し、和人にぐいと近づける。

 決して豊満な胸元とはいえないが、年頃の男子であるなら決して無関心ではいられないだろう。

 しかし和人は顔も上げず、


「そうだなあ」


 と生返事である。

 ぐぬぬ、とうなる八白は、ふと思いつき、立ち上がった。

 窓を開け放ち、身を乗り出す。

 後ろから見れば、スカートの裾が上がって危ういところまで見えているはずである、と計算してのことだった。

 ――芽衣子ならもっとうまくやるのだろうが、日ごろそのようなことを考えもしない八白では、その程度が限界だった。

 意識的に腰を突き出しながら、ちらりと後ろを振り返る。

 和人はまったく見向きもしていない。

 しかし八白も諦めない。

 八白はベッドの端に座り、わざとらしく言った。


「今日は暑いねー。この服も結構暑いんだよね」


 ばさばさ、とスカートの裾を広げつつ、胸元のリボンも緩めて、無防備になる。

 おまけに頬は恥ずかしさで赤らみ、これまでの努力の結果呼吸もすこし乱れ、なんともいえぬ色気のようなものが漂っている。

 これで振り返らなければ、男ではない。

 八白は待った。

 五秒――照れているのかもしれない――十秒――もうすこしで振り返るはずだ――十五秒――そういえばさっきからぶつぶつ呟く声も聞こえない――二十秒、和人はぴくりともしない。


「……って寝てんのかい!」


 思わず八白は叫び、その声で、ベッドで寝ていた青藍がもぞもぞと動いた。

 後ろめたいことはないものの、なぜか八白はどきりとして息をひそめる。

 青藍は結局、寝返りを打っただけだった。

 ただその寝返りというのがやっかいだった。

 制服で寝ているせいで、スカートの裾はめくれ上がってほとんど下着が見えている。

 首もとも苦しくてリボンを外したらしい。

 開いた胸元から、八白では決してできようのないくっきりした谷間が覗いている。

 乱れた髪や薄く開いた唇も、妙に艶めかしい。

 同性の八白でさえどきどきして呼吸が詰まるほどだから、男が見たらどうなるか――。

 真の敵は案外青藍かもしれない、と八白は思い、そっとその身体に布団をかけた。

 そもそも日ごろから青藍は無防備である。

 女なら成長の過程で学ぶようなことをなにも学んでいないから、スカートでも平気で足を開くし、和人にもだらりと寄り掛かって、無意識にその破壊力のある胸や身体を押しつけている。

 それに耐えている和人だから、八白の控えめな誘惑程度でどうにかなるはずがない。


「……よく考えれば、牧村くんって青藍さんの裸を何度も見てるんだよね」


 もちろん、そのことに深い意味はないにしても、無視できないことではある。

 八白は、自分と青藍を比べてみた。

 まず容姿、これは考えるまでもなく、圧倒的に負けている。


「胸……牛乳、飲んでるんだけどなあ」


 性格は、よくわからない。

 青藍との付き合いも二ヶ月になるが、ほとんど寝ているから、未だにどういう人物なのか判断できない。

 自分の性格に関しても同じである。

 和人との距離はどうか。

 八白には幼なじみという武器がある。

 これは強力である。

 しかし青藍には、四六時中いっしょという現在進行形の利点がある。

 これもまた強力である。

 どちらが勝っているのかはわからないが、青藍のことがうらやましいのも事実だった。

 学力――これは青藍には申し訳ないが、圧勝である。


「結局、勝ったのは学力だけ?」


 和人に対してその武器は有効だろうか、と考える。

 むしろ、すこしばかな女の子のほうが男の子にはもてる、と八白の愛読する雑誌には書いてあった。

 なんでもひとりでできるしっかりした女の子より、だれかの手を借りることが上手な天然の女の子のほうがもてる、というのだ。

 天然の女の子になりたい、と思った時点で天然ではないことは明らかで、つまり天然とは文字どおり生まれついてのものだから、目指しようがない。

 顔がいい女の子はもてる、というようなものだ。

 どうしようもないなら書くな、と八白などは思うのだが、そういう意味でいうと、青藍は天然かもしれない。

 すくなくとも守ってあげたくなるのは事実だ。


「……勝ち目、ないのかなあ」


 八白はため息をつき、ベッドから降りた。

 何気なく、和人のとなりに腰を下ろす。

 そのとき足を机にぶつけ、がたんと机が揺れた。

 衝撃で、ペンを握ったまま寝ていた和人の身体がぐらりと傾ぐ。


「わっ、わっ」


 和人は八白のほうへ倒れてきた。

 とにかく慌てて肩を支えるが、それでもうまく止められない。

 和人の身体はそのまま横倒しになり、頭は偶然にも八白の膝の上にぽすんと落ち着く。


「ひ、ひざ、ひざ……」


 俗に言う膝枕である。

 よほど眠たいのか、和人は体勢が崩れても目を覚ます様子はない。

 ただすこし、ううんとうなって仰向けになっただけである。


「お、落ち着け、落ち着くのよ、あたし……こ、これはチャンスかもしれないんだから」


 なんのチャンスなのかは、八白自身わかってはいない。

 ただこの好機逃すまいとは思う。

 胸に手を当て、深呼吸を何度かして、八白はやっと落ち着いた。

 落ち着いてみるとなんのことはない、ただ和人が八白の膝をまくらに寝ているだけだ。

 それ以上なにが発展するわけでもなし、ただ和人が完全に心を許してくれているような気がしてうれしい。

 八白は無防備に眠る和人の頭をやさしく撫でた。

 口元には、子を慈しむ母のような笑みが浮かんでいる。

 手のかかる、大きな子どもである。

 ふと、以前にもこんなことがあったな、と八白は思い出す。

 十年近く前、まだお互いにほんのちいさな子どもだったころだ。

 そのころから、和人はこの家でたったひとりきりの生活をしていた。

 もちろん子どもだけで生きていけるはずもないから、真向かいの八白の家にきてはそこで食事をしたり遊んだりすることもすくなくなかった。

 思い出したのは、八白が学校から帰ってきたとき、先に帰宅していた和人が八白の家で昼寝をしていたことだった。

 そのとき和人は、八白の母親に膝枕をされて、眠っていた。

 子どもだった八白は母親をとられた気がして和人とちょっとしたけんかをするのだが、いまから考えてみると、それは逆だったのかもしれない。

 母親を取った和人ではなく、和人を取った母親に嫉妬していたのだとしたら――。

 そうでなくても、人生の半分近くいっしょに過ごしてきた大切な感情である。

 叶うか否かは別として、そう易々と諦めたり捨てたりできるはずがない。


「まだ十分くらいなら寝ていられるから、ゆっくり休んでね」


 八白はゆったりと和人の髪を撫でながら言った。


  *


 それにしても――。

 膝枕というのは、憧れる気持ちはあったが、実際にやってみるとなかなかにつらいものである。

 まず足が痺れる。

 正座だったのがいけないらしい。

 それに、とにかく動けない。

 はじめはやさしい表情でいた八白だが、いつまでもそうしているわけにもいかず、やがてそわそわと動き出す。

 とはいっても大きく動くと和人が起きるから、あたりを見回したり、軽く腕を動かす程度しかできない。

 そして和人の部屋で見るものといえば、もともと極度にものがすくない部屋である、結局のところ寝ている和人くらいしかない。

 一度、八白の視線は壁にかけられた和人の制服で止まりかけたが、いくらなんでもそれでは変態のようだと首を振って、和人自身に落ち着いた。

 それもおよそまともとは言い難いが、八白にとっては服より生身のほうが関心を持つ対象として普通に近いらしい。

 八白は、じっと和人に見入る。

 寝顔を観察するのは、これがはじめてではない。

 むしろ寝顔だけは毎日のように見ている。

 今日は偶然八白が訊ねる前に起きていたが、普段なら寝ている和人をそれなりに観察してから起こすようにしている。

 八白自身気づいてはいないが、その和人を観察する表情は、まじめな優等生で通っているクラスメイトには見せられないものになっている。

 にやける、という言葉とともに辞書に載ってもおかしくないような表情である。

 今日も八白はそんな表情で和人の寝顔を見ているが――今日は普段よりも距離が近い。

 文字どおり手を伸ばせば届く距離、すぐそこでまったく無防備に寝ている姿は、なにかしらの感情を八白にもたらしたらしい。

 八白はきょろきょろとあたりを見回す。

 といっても部屋には寝ている青藍と和人しかいない。

 それでも不安だというように何度も確認し、その時点で八白の顔は朱に染まっているが、和人の寝顔に再び見入るときには呼吸も荒くなっている。

 にやけつつ、顔を赤らめ、呼吸を荒くする――これ以上怪しい姿はなかなかない。

 そして八白は、その怪しい様子に違わず、そっと和人の寝顔目がけて自分の顔を近づけた。

 目を閉じ、ただ目標はしっかり確認しなければならないので時折薄目を開け、心持ち唇を尖らせて、和人の上にゆっくり降りていく。


「ん……おはよう、直坂八白」

「お、おはよう、青藍さん」


 背中にバネでも仕込まれているように身体を起こし、八白は何食わぬ顔で挨拶する。

 ただ、笑みを浮かべる頬は赤い。

 青藍は目をこすりながらゆっくり起き上がった。


「もう朝か。結局寝てしまったらしい」

「しょ、しょうがないよ。牧村くんもさっきまで起きてたんだけど、力尽きちゃったみたいで」


 と青藍の目が膝枕で寝ている和人に向かうと、


「ち、ちがうの! これはその、ぐ、偶然っていうか、動くに動けなくって……」

「そうか」


 青藍はとくになにも思っていないような顔でうなずく。

 膝枕の意味がわからなかったのかもしれないし、わかってもなにかの感情を露骨に見せるような青藍ではない。


「それにしても、いまは何時だ?」

「え、あ、たいへん、もう出なきゃ! 牧村くん、起きて、牧村くんっ」

「うう……」


 肩を揺すると、和人はそれから逃れるように俯せになった。


「ひゃあっ」


 八白の膝を本物の枕だと思っているらしい。

 和人はほどよい弾力のあるそこに頬を押しつけ、もごもごとなにか呟く。


「そ、そこはだめっ。あっ――」


  *


 盗られるものもない家だが、習慣としてきちんと鍵をかけ、和人は後頭部をなでさすりながら歩き出した。

「やっぱりなんか頭が痛いんだけど……」

「べ、勉強のしすぎじゃないかな? 徹夜で勉強なんかするからだよ、きっと!」

「そうかなあ……なんか硬いものに頭をぶつけたような痛みなんだけど。まあ、たしかに慣れないことはするもんじゃないよな」


 事実を知る八白はあらぬほうを向いて空笑いする。

 青藍はとくに関心もなさそうにあくびをしている。

 和人も、やっぱり痛いなあ、と呟きつつ、大きくあくびをした。

 どうやらあの衝撃――あらぬところを触られて驚いた八白が立ち上がり、その膝から固いフローリングに転がり落ちるという衝撃があっても、完全には眠気が覚めていないらしい。

 あまりその話題には触れてほしくない八白はすこし慌てて、


「結局、試験勉強はどれくらいできたの? 菜月ちゃんに怒られないくらいはできそう?」

「んー、わかんねえ。でもやれるだけはやったよ。絶対に負けられねえ戦いだからな」

「なんか、昨日より気合い入ってるね?」

「そりゃそうだ、当たり前だよ」


 前日より当日のほうが気合いも入るというものか、と思いつつ、これまで勉強に不熱心だった和人を知っているだけに、八白は首をかしげた。


「でも、試験の日にはちゃんと寝ないとテスト中に眠たくなっちゃうよ」

「そうなんだよなあ。試験勉強なんかしたことないから、そういうこともよくわかんねえんだよ」

「そ、それもある意味すごいけどね。前の高校ではぜんぜんしなかったの?」

「うん。試験中に寝たことはある」


 そういえば子どものころから和人が勉強している姿は見たことがない。

 しかしまあ、勉強に意欲を出すのはよいことだ。

 和人が勉強に興味を持てば、当然、和人より成績がいい八白に勉強を教えてくれと言ってくる可能性もある。

 寮生の菜月や芽衣子よりは、家が近い八白に家庭教師を頼むだろう。

 ただ、それで頭がよくなりすぎると家庭教師の必要もなくなるから、ほどよく勉強に興味を持ち、ほどよくばかでいてほしいな、と思う八白である。


「青藍さんも牧村くんといっしょに勉強したんだよね? うまくいきそう?」

「んー、わからん」


 青藍はめずらしくむずかしい顔をする。


「やってはみたが、ああいうものは苦手だ」

「そっかー。まあ、青藍さんはしょうがないかもね」

「なんとしても勝ちたいのだが、教科書を見ながらやってはいかんのかな?」

「試験中だからだめだよ、それは」


 しかし青藍までも勝ちたいというとは、どういうことだろう。

 試験でいい成績を残したい、というならまだしも、勝ちたい、というのが、八白には解せない。

 和人もそんなふうに言っていたし、昨日までのやる気のなさと今朝の異様なはりきりを見ても、なにか八白の知らぬことがあるらしかった。

 八白は、和人がすこし前方をのろのろ歩いているのを見ながら、青藍に耳打ちする。


「ね、試験に勝つって、どういうことなの?」

「ん、意味はそのままだ。成績がいいほうが勝ちなのだ」

「だれと勝負してるの?」

「もちろん、主と」


 つまり和人と、ということらしい。

 当然、ただの勝負ではあるまい。

 それで和人があれほどやる気を出すとは思えない。

 ということは、


「も、もしかして、負けたらなにかしなきゃいけないとか、そういうこと?」

「別になにかをする必要はないが――」


 と前置きをして青藍が説明するには、つまりこういうことらしい。

 昨夜、勉強会がお開きになってから、ふたりはある賭けをした。

 試験の成績がいいほうが勝ち、という賭けだ。

 それは和人から持ち出され、もし和人が勝てば、一日にある一定の時間、ひとりにしてほしいということだった。

 いままでは、そういう時間は青藍には石になってもらっていたらしいが、それでも見えるものは見えるし、聞こえるものは聞こえるという事実が発覚したから、本格的にプライベートの時間がほしいと和人は主張したのだ。

 それに対し青藍の答えは、拒否である。

 すなわち青藍が勝てば、いままでどおり一日中いっしょにいる、という条件の賭けだった。

 それで和人は自由を勝ち取るために猛勉強したのだ。

 さらに八白を愕然とさせたのは、次の言葉である。


「いままで風呂のあいだは石に戻っていたが、どうもこの姿で沐浴しなければ気分が落ち着かない。勝てばそれもできるということだ」


 この言葉はふたつの事実を示している。

 ひとつは、いままで和人と青藍はいっしょに風呂に入っていた、という事実である。

 もちろん青藍は石としてだが、その状態でもあたりが見え、物音が聞こえることはわかっているいま、意味は大きくちがってくる。

 和人は青藍を見ていないが、青藍は毎日和人を見ていた、ということだ。


「そ、そそそそそれって、ももももももちろんおおお風呂だから……」

「風呂だから?」

「か、かか、格好は」

「風呂に服を着て入るやつがいるのか?」


 おかしなことを言う、と青藍は眉根を寄せる。

 しかしその表情も八白は見ていない。

 八白の頭は沸騰寸前である。

 あらぬ妄想が飛び交い、その想像を現実に体験している青藍を羨む気持ちやら嫉妬やらが混在して、頬を赤らめながら、


「わわ、わわ――」


 とうわごとのように呟く。

 しかしふと青藍の言葉が示すふたつ目の事実に気づいて、はっと顔を上げた。

 すなわち、和人が青藍に負ければ、石と入浴ではなく、青藍と混浴になってしまうという事実である。

 それだけはなんとしても阻止しなければならない。

 青藍がそのような気を出さないことは想像できるが、青藍のそんな姿に和人ががまんできるとは到底思えない。

 八白は無言で和人のとなりに並び、鞄を探って短冊状の用紙を取り出した。


「これ、使って」

「ん?」


 和人はひとまず受け取り、不思議そうに首をかしげる。

 そののんきな姿を、八白が叱咤する。


「歩いてる時間だって大切な勉強時間なんだからね! これでちゃんと英単語覚えて!」

「お、おう、わかった……」

「絶対に負けちゃだめよ。勝ち以外はみんなごみみたいなもんなんだから!」

「どこの鬼教官だよ」

「英単語は絶対に綴りといっしょに覚えること! 返事は?」

「は、はいっ」


 八白は厳しく和人を監視しながら不破山を登っていく。

 試験まではあと一時間ほどだった。


  *


 不破学園の試験は一日のうちにすべての教科をやってしまう。

 その分、試験当日は生徒たちにとってまさに鬼門である。

 試験時間中は当然気を抜けないし、休み時間も次の時間に向けて復習をしなければならないから、心が安まるときがない。

 とくに牧村和人はその最たる人物である。

 試験用紙と向かい合うときは一夜漬けで覚えたものを必死に思い出し、全力で考える。

 やっとチャイムが鳴ったかと思うとすかさず八白と織笠菜月に囲まれ、次の授業の復習がはじまる。

 最初は八白だけだったのだが、一回目の休み時間に八白が菜月になにやら耳打ちし、結果二回目の休み時間からは鬼教官がふたりになった。

 ふたりの指導はなかなかに厳しい。

 とくに八白は普段から想像もつかないほどで、自分の試験で手一杯のはずの生徒たちも何事かと様子を見てしまうほどだった。

 三回目の休み時間からは、そこに布島芽衣子も加わる。

 三人の女子に囲まれ、そこはちがう、とか、それでいいのよ、とか言われている和人はただ必死で、周囲から羨むような恨むような視線を向けられていることにも気づかなかった。

 なんといっても、和人にとって大切な試験なのだ。

 この結果如何で自由を得るかどうかか決まる。

 ――人間はいつも自由を求め、それを巨大な原動力として生きてきた。

 そして和人には、人間の原動力たりうるもうひとつの要素、すなわち性的なあれこれも待っている。

 青藍と常に行動をともにしているいま、絶対に必要な個人的な時間というものがまったくないのだ。

 それを得るためなら人間はなんだってするだろう。

 もちろん和人も、なんだってする覚悟で勉強をしている。

 慣れぬ勉強でただただ必死の和人には、八白たちがなぜこうも熱心に応援してくれるのかはわからない。

 ただ菜月に関してはクラスの平均点を向上を求めてだろうと考えていたが、事実はちがう。

 菜月は、いってみれば友人の義理立てである。

 八白から試験に関係した話を聞き、八白の親友として手助けしてやるために和人の勉強を見ている。

 ただ、


「あんたばかじゃないの? ここはこうでしょうが。何回間違えば気が済むのよ、ばーか」

「うう……」


 ――端から見ているかぎり、難問に悩む和人をちくちくいじめる菜月は、いかにも楽しそうだった。

 あれはサドの生まれ変わりだという自説を持つ日比谷卓郎などは、哀れな犠牲者として和人に同情しつつ、自分に火の粉が及ばないように距離をとってその様子を見ていた。

 そして芽衣子が和人の勉強を見る理由はもちろん、八白と同じく青藍と和人の距離を適切に保つためである。

 精霊石とその持ち主、という関係上、ある程度密着するのは仕方がない。

 ただ、それにも限度というものがある。

 いっしょに寝ることは、ぎりぎり、かろうじて許せる範囲ではあるが、いっしょに風呂というのは断じて許されない。

 そのためには和人が青藍に勝利しなければならないのだから、指導にも熱が入る。

 そのようにして方々から支援を受けた和人は、詰め込みすぎた知識に脳内を蹂躙されつつもなんとか試験を乗り切っていった。

 そして最後の教科が終わり、チャイムが鳴った瞬間である。


「終わった……」


 それまで和人を支えていた糸がぷつんとちぎれたように、和人は机に突っ伏した。

 試験用紙が回収されるあいだもどこか虚ろな目でぴくりとも動かない。

 ガリ勉が祟って死んだか、とクラスメイトたちは思い、その真後ろで同じように机に突っ伏している青藍に関しては、いつものことなので気にもしていない。

 むしろ青藍が試験中に寝なかったことにクラス中が驚いている。

 それどころか、まじめにテストを受けている様子ですらあったのだ。

 もちろん学生としてはそれが普通なのだが、あの青藍が、というところに驚愕がある。

 とはいえ、クラスメイトたちも試験が終わってほっと安堵の息を漏らしている。

 不破学園はあらゆる意味で普通の高校とは異なるが、通っている学生の気持ちは同じようなものだった。


「いやあ、終わった終わった」


 和人の席に、伸びをしながら卓郎が近づく。


「おい、大丈夫か、牧村。死人の顔色だぜ」

「大丈夫……じゃ、ない。なんか、いろいろ限界だ」

「そうか。おれなんかまだまだ余裕だぜ。なんでか気になるか、気になるだろ? それはな、テストが終わったぜやっほうってな気持ちで盛り上がりたいからだ。ここで疲れ切っちゃ盛り上がれもしねえ。そのために温存しておいたのさ」

「ばっかじゃないの?」


 と卓郎の後ろから、菜月がこれ以上ないほど蔑みの眼差しで言う。


「普通テストに全力を尽くすもんでしょ。その打ち上げに余力を残してどうすんのよ」

「おれたちできない組にとっては打ち上げこそ本番なんだよ。な、牧村?」

「んー、あー、そうだなあ」

「……だめだ、こいつ。聞いちゃいねえ。とにかく起きろよ、牧村。どうせ寝るんなら家帰ってから寝たほうがいいぞ」

「んー、そうだなあ。でも歩く気力もねえんだ。おれはもうだめだ。おやすみ」

「寝るなって!」


 卓郎が和人の後頭部を叩く。

 和人はその勢いで鼻を机にぶつけたらしいが、そのまま動かず、寝息を立てはじめた。


「よっぽど疲れてんだなあ……稀代のサディストに教わったばっかりに」

「わ、わたしは今日ちょっと教えただけでしょ。責任はないわよ」

「加害者はみんなそう言う」

「でもほんとに寝ちゃったね、牧村くん」


 机に突っ伏す和人を見て、八白が笑う。

 そのとなりで芽衣子が和人の寝顔を覗き込み、幸せそうな顔をしている。


「どうすっか、こいつら」


 卓郎は意識のない和人と、それよりも先に寝ていた青藍を見る。


「まあ、青藍さんはおれの部屋に運ぶとして」

「なんでやねんっ」


 思わず菜月の片手が卓郎の後頭部をはたいている。

 八白はその手が一瞬白いハリセンに見えて驚いたが、瞬きをしてみると紛れもない菜月の手だった。


「思わず関西弁で突っ込むくらいアホだわ」


 菜月はため息をつく。


「とりあえず、起きるまで待ちましょう。それから帰ればいいわ。もう試験も終わって、放課後にすることもないし」

「でも、ふたりとも徹夜なんだろ。一時間かそこらで起きるか?」

「この安らかな寝顔を見るかぎり、明日の朝まで寝ていそうですねえ」


 困るどころか、満足そうに芽衣子が言った。

 八白とちがい、寮生活をしている芽衣子はこういうときしか和人の寝顔を見ることができない。

 むしろ起きなくてもいい、と思っている芽衣子である。

 さらにいえば、和人が寝ているあいだにしてみたいあれこれがあるからひとりにしてほしい、とも思っている。

 さすがにそれは口に出せず、ただ好奇心いっぱいの表情で和人の頬を突いてみたり、指先に髪の毛を絡ませてみたりして遊んでいる。


「なんとかして起こしてみよっか」


 と八白は和人の肩を揺すった。


「牧村くん、起きて。ね、牧村くん」

「だめだめ、直坂さん」


 卓郎は手を振って否定する。


「そんなやさしく言ったんじゃ、余計寝るばっかりだ。おれならもっと言ってほしくて絶対に寝たふりするもん。むしろ寝ぼけたふりして布団に引きずり込むもん」

「ほんとに変態ね。死ねばいいのに」


 冷めきった目で菜月が言う。


「うるせっ、サディスト」

「じゃあ、どうやって起こせばいいかな? ど、怒鳴ってみるとか?」

「やってみなよ、八白」

「う、うん、それじゃあ……こ、こらあ! 起きなきゃだめでしょ!」


 一同は揃ってうーんと首をかしげる。


「数値化するなら、迫力ゼロ、かわいさ二百パーセントってとこだな」

「これで天然なんだから八白はすごいわ」

「お、恐るべし直坂さん……」

「だ、だって、怒るの苦手なんだもん」


 恥ずかしそうに八白はうつむく。

 それすらかわいいなあ、とにやつく卓郎を、菜月が殴る。


「で、では、織笠さんに手本を見せていただきましょう。生まれながらのサディスト、織笠菜月さん、どうぞ!」

「だれが生まれながらのサディストか。怒ればいいのね、怒れば。ったく、面倒なんだから」

「この時点ですでに怖ぇ」


 菜月は和人の机の前で腰に手を当て、仁王立ちする。

 そしてクラス中に響き渡る声で怒鳴った。


「牧村和人、起きろ! いつまで寝てんのよこの屑っ!」


 試験を終え、気の抜けた表情で談笑していた生徒たちがびくりと身体を震わせた。

 まるで自分が怒鳴られたように恐る恐る菜月のほうを見る生徒、それすらできずに背中を丸めて身を守る生徒、驚いた拍子に椅子から転げ落ちた生徒、様々いたが、全員が共通して鬼ににらまれたような恐怖を感じていた。


「見たか、直坂さん。これが怒鳴るってことなんだ」

「う、うん……す、すごいね。あたしまでびっくりしちゃった」

「でも起きないわねえ、これ」


 菜月はぺちぺちと和人の頭を叩く。

 なんかそれいいなあ、と芽衣子が指をくわえて見ている――頭をぺちぺち叩きたいのか、それとも叩かれたいのかは、本人にしかわからぬ謎である。

 それにしても、和人はよほど眠たいのか、よほどの強者なのか。

 クラス中を震え上がらせた菜月の怒号でさえ、和人には聞こえないらしい。

 ぴくりとも動かず、相変わらず規則正しく寝息を立てている。

 それがなければまず間違いなく死んでいると思うほど安らかである。

 一方で、青藍のほうは菜月の怒号で身体を起こし、


「む、朝か」


 とひとりずれたことを言っている。


「なんにしても、あとは牧村を起こすだけか」

「蹴る殴るの暴行を加えて起こすっていうのは?」

「それ、おまえがやりたいだけだろ……底なしのサディストか」

「徹夜で勉強して疲れてるんだし、殴るのはかわいそうだよ。もっとやさしく起こしてあげられないかなあ」

「みなさん、忘れてませんか?」


 芽衣子が自慢げに胸を張って立ち上がる。

 なんだなんだ、と視線が集中するなか、芽衣子は堂々と、


「眠っている相手を起こすといえば、有名な作品があるじゃないですか!」

「ん……ああ、そういえばあるな、そういうの」


 と卓郎。


「あれだろ、あの、男が蝶になって……」

「それは胡蝶の夢ですっ」

「ばかねえ、そんなことも知らないの? あれに決まってるでしょ。シェイクスピアの名作よね」

「それは真夏の夜の夢ですっ」

「あ、あれじゃない? 時計を持ったうさぎさんが出てきて、不思議の国に迷いこんじゃって……」

「惜しい! アリスは限りなく惜しいけどちがいますっ。もう、白雪姫ですよ、白雪姫!」

「ああ、白雪姫……」

「寝ている白雪姫を起こすのは王子さまの口づけと決まっているんです」

「でも、寝てんのは牧村だぞ。立場で言えば逆なんじゃないのか」

「そ、それはそうですけど……でも、きっと効果あると思いますっ」

「あれ、アニメ映画じゃない原作は王子さまのキスじゃなくて、棺が揺れた拍子に喉に詰まってた毒リンゴが取れて生き返るのよね」

「そ、そんな話は知りません! 白雪姫は王子さまのキスで起きるんですっ」

「だから寝てるのは白雪姫でも王子さまでもなくて牧村だって」

「それでも! 試してみる価値はあると思います」


 とはいえ、こんなところで芽衣子にそれをさせていいものか、と卓郎は首をかしげ、八白は焦る。

 そのなかで菜月だけは余裕のある表情で腕を組む。


「じゃあ、やってみれば?」

「へ?」

「やってみればいいんじゃない、キス。わたしたちはここで見てるから。はい、どうぞ」

「ど、どうぞといわれても……」


 こうまで勧められては、芽衣子もさすがに物怖じする。

 本当にやっていいものかどうか、ちらちらあたりを窺いながら和人に近づいた。

 なにも知らず、和人は夢のなかである。

 その横顔に恐る恐る芽衣子が近づき、それを菜月や卓郎がじっと見つめている。

 見られていることなどどうということもない、と芽衣子は思っていたが、それにしても、これほど直視されているとさすがに恥ずかしいらしかった。


「う、うう……わっわかりました! やめますよ、もう」

「別にやってもよかったのに」

「ほんとにしちゃったらあとが怖そうですもん」


 赤い顔で、芽衣子はぷいと横を向く。

 そこに全員の視線が向いていた一瞬だった。

 がたん、と音がしたと思った次の瞬間、立ち上がった青藍が和人に覆い被さる。

 菜月と卓郎からは青藍の後頭部に遮られ、肝心の部分は見えない。

 ただ青藍が横を向いて寝ている和人に覆い被さったように見えるだけである。

 しかし八白と芽衣子の位置からは、その様子がはっきりと見えていた。

 青藍は和人の頬を手で挟み、むちゅ、と音がするほど強く、自分の唇を和人の唇に押しつける。

 薄い紅色の唇が重なり、押しつぶされ、形を変える。

 だれも予想しえなかった方向からの奇襲だった。

 ぷはあ、と一杯飲んだ親父のように顔を上げた青藍は、唖然としている周囲を無視し、不思議そうに呟く。


「口づけでも起きないな」

「お、起きるかあっ!」


 直接その部分を見ていない分、菜月の回復は早い。

 しかし衝撃の場面を目撃してしまったふたりは、いまだに驚いた顔のまま静止している。


「しかしいま、口づけで起きると」

「それは物語の話!」

「む、そうなのか。なるほど、納得した」


 ぽん、と手を打ち、青藍は何食わぬ顔で自分の席に戻る。

 あまつさえ、頬杖を突いてうつらうつらしはじめる。

 菜月は八白の肩を叩いて正気に戻し、


「ね、青藍さんって、牧村くんが好きなの?」


 と耳打ちする。

 好き、という言葉に八白はびくりとしながら、


「そ、それがわかんないの。嫌いじゃないとは思うんだけど……その、好きとか嫌いとか、そういう感じでもないみたいだし」

「そうよねえ……」


 菜月から見ても、そう思える。

 好きだからいっしょにいる、というふうではなく、精霊石とその持ち主だからそれが自然である、というふうなのだ。

 口づけという行為にも、なにかしらの特殊な意味を見いだしているとは思えない。

 試しに、と菜月は、いらぬことを口走る。


「青藍さん。もしかしてわたしにもキスできる? ――なんちゃって」

「ん、すればよいのか?」

「え、あ、いやっ――」


 日ごろ寝ぼけてばかりの青藍のどこにそのような素早さがあったのか。

 菜月が身を引いて逃げる前に、青藍の両手が菜月の頭をぐっと捉えている。

 両頬を押さえられ、


「あっ、あっ」


 といっているうちに、青藍の顔がぐっと近づく。

 その瞬間菜月は目を見開き、半ば場違いに、近くで見てもきれいな顔だな、と考えた。


「んんー、んんーっ!」


 やわらかい唇である。

 それにほんのりといい香りがする。

 それが媚薬のような効果を発揮している。

 ばしばしと青藍の肩を叩いて降参を伝える菜月だが、たっぷり十秒ほどその体勢で固定されたあと、やっと解放された。

 そのままふらりと倒れるのを、八白が慌てて支える。


「だ、大丈夫?」

「大丈夫じゃない……うう、なんであんなこと言ったんだろう……」


 頬を赤らめ、ぐったりと八白に寄り掛かり、菜月は呟いた。

 それを見ていてまともではいられなかったのは、卓郎である。


「お、おれも青藍さんと関節キス……!」


 ぐっと唇を突き出して菜月に飛び込むのを、菜月は華麗な回し蹴りで弾き飛ばす。

 スカートからすらりと伸びるその足先には殺意さえこもっていたと、のちに八白は証言している。

 菜月は蹴り飛ばした卓郎には見向きもせず、ただ荒く呼吸しながら、


「た、ただ牧村くんを起こすだけのはずが、まさかこんなことになるなんて……」

「で、でも、青藍さんが牧村くんに特別な感情があるわけじゃないってわかったし……たぶん。な、菜月ちゃんの犠牲は無駄じゃないよっ」

「犠牲っていうか……まあ、別にいいんだけど、キスくらい。そこに転がってる変態にされたら自殺するけど、青藍さんが相手ならね」

「うう……一瞬気を抜いたせいでキスされてしまいましたわ……」


 芽衣子は芽衣子で、まだ和人について悲しんでいる。

 そうして周囲に多大なるダメージを与えながらも、和人はまだ静かに寝息を立てていた。

 そろそろ本格的に、こいつひとの気も知らないで、と殺意が沸いてくる。

 とくに菜月などは青藍にキスされた腹いせに和人の座る椅子をがしがし蹴るが、その揺れにもめげず、和人は寝続ける。

 慣れぬ徹夜勉強は相当につらかったらしい。

 ほかの生徒たちも教室を出て帰りはじめ、この六人衆だけがまだ帰宅の支度もしていない。


「どうする、椅子から蹴り落としてみる?」


 冗談でもなさそうに菜月が言う。

 八白は慌てて菜月の腕を掴み、


「あ、危ないよ、そんなの。もっとやさしく起こしてあげないと」

「やさしくしても起きないんだから、しょうがないでしょ。自業自得よ。こっちは初キスまで失ってるんだから」

「え、菜月ちゃん、はじめてだったの?」

「うっ、うっさい! そんなことはもういいの!」

「おまえが言ったんだろ」


 と机もろとも床にうち捨てられていた卓郎が起き上がり、倒した机をきっちり直して、服についた埃を払う。


「しょうがねえな、最後の手段で起こすか」

「さ、最後の手段?」

「ま、まさかっ」


 芽衣子がはっと口を押さえる。


「あ、あの禁断の、男同士の……?」

「ええっ!」

「禁断っていうか禁止でしょ、そんなの。想像したくもないわ、気持ち悪い」


 心底いやそうに顔をしかめる菜月のとなりで、八白はまんざらでもなさそうに頬を赤らめている。


「おれだってそんなのいやだっつの」


 卓郎はぶつぶつ言いつつも、和人にすっと顔を寄せる。

 意味深なその動きに八白と菜月が悲鳴を上げたが、その意味は真逆だった。

 卓郎がしたのは、当然口づけではない――和人の耳元で囁いたのである。


「キッチンの棚を女子たちが漁ってたぞ」


 がたん、と椅子がひっくり返る。

 いままであれこれ試してびくともしなかった和人が、ほとんど神経の反射のように目を見開いて立ち上がったのだ。

 驚いたのは周囲で、菜月と八白は驚愕のまま抱き合い、芽衣子もだれも座っていない椅子を抱きしめている。


「おい、牧村、起きろよ」


 さほど大きくはない声である。

 しかし和人ははっと目を覚ましたらしく、あたりを見回し、汗を拭った。


「いま、すげえ悪夢を見てた……危なかった」

「寝すぎなんだよ、おまえは」

「そうかな……ん、みんなびっくりした顔して、どうしたんだ?」

「い、いったいなにを囁いたの?」


 と菜月が訊くと、卓郎は首を振って、


「こいつだけは教えられねえ。男のプライドが、いや、命がかかった問題だからな」

「まさか牧村くんが一発で起きるなんて……」

「お、もう帰る時間か」


 和人は教室内の掛け時計を見上げ、他人事のように呟いた。


「みんなまだ準備してないけど、なんかあんのか?」

「はあ……椅子から蹴り落として起こせばよかったわ」

「ん? よくわかんねえけど、なんにもないなら帰ろうぜ。おい、青藍、起きろ。徹夜もしてないのにぐーすか寝てどうする」


 再び寝入っていた青藍も、和人に頭をぺしぺしと叩かれて目を覚ます。


「ん、主も起きたのか。先刻は口づけをしても――」

「ああーっと牧村くん! えーとその、あ、そうそう、テストの調子はどうだったの?」

「まあ、できるかぎりはやったけど、それよりいま青藍がなんか言いかけて……」

「そっかー。まあ、がんばったんだから、きっと結果もいいわよ。さ、帰りましょ!」


 和人は不思議そうに首をかしげるが、自分の鞄を用意して帰る準備をはじめる。

 うまく話題を逸らした菜月に、八白は隠れて手を合わせた。

 青藍もひとつ大きく伸びをして――そのとき突き出された存在感たっぷりの胸元に卓郎は釘付けだったが――ほとんどなにも入っていない鞄を持って立ち上がる。

 芽衣子や菜月も準備を終え、六人は揃って教室を出た。

 ただ、まだ眠たいふたり組は、揃ってふらふらとおぼつかない。

 仕方なく和人を卓郎が支え、青藍を八白と芽衣子で支えて歩いた。


「それにしても、長い戦いだったぜ」


 和人は昨日の夕方からの激闘を思い返し、ぐっと言葉を詰まらせながら言った。


「日比谷、青藍はちゃんと試験受けてたか?」

「おう。だいたいいつも見てたけど、寝ずにちゃんとやってたみたいだぞ」

「まじめに試験受けろ」


 と後ろから鞄が飛んでくる。

 しかし今日は試験だけで教科書もほとんど詰まっていないから、卓郎は前につんのめる程度で堪えた。


「長い戦いっつってもさ」


 と後頭部をさすりながら卓郎は言う。


「一夜漬けでどうにかなるもんなのか。それともおまえ、実は勉強できるキャラなのか?」

「なんだよ、勉強できるキャラって」

「いるだろ、たまに。普段はぜんぜんやる気ねえくせに、実は頭いいやつ。おまえ、まさかあれじゃねえよな? この上頭よかったら二階から投げ飛ばすぞこのやろう」

「なんで怒ってんのかわかんねえけど、頭はよくない」

「胸を張って言うことかっ」


 今度は和人の後頭部を鞄が狙う。

 形状も不安定だが、菜月が投げれば追尾機能でもついているように必中する。


「なんか最近、おれへのツッコミも容赦ねえ気がする」

「ばかやろう。あいつはどんな相手でも容赦しねえよ。頭はいいが、そういう言葉はあいつの辞書にはねえんだ」

「なるほどな。さすが付き合いが長いだけあってわかってるな」

「あとあいつの辞書には遠慮って言葉もねえんだ。いまはさすがに減ったけど、中等部んときさ、寮のおれの部屋まできて勝手にアイス食って帰るんだぜ。ほとんど空き巣だっつの」

「さすがに減ったってことは、いまでもたまにはあるのか」

「ありゃもらい手に苦労するぜ、きっと」

「かもなあ、はっはっは」

「そこ、笑ってるけど、全部聞こえてるわよ」


 地獄の底から響くような低い声である。

 今度はなにが飛んでくるか、と身構えるふたりだが、飛んできたのは斧でも槍でもなく、存外にかわいらしい文句だった。


「も、もらい手のひとりやふたり、いつでも見つけられるんだからね」

「うそつけ。おまえ、告白とかされたこと一回もねえだろ」

「なな、なんであんたがそんなこと知ってんのよ!」

「初等部のときからおんなじクラスなんだから、そりゃ知ってるって。つーかこの学園にいるやつでおまえに告白する勇気がある男はひとりもいねえ」

「なんですって!」

「そ、そうやってすぐ怒鳴るから男が逃げるんだって!」

「余計なお世話だっつの! もういいわ。とりあえず殴る。すっきりするまで殴るから」

「やべえ、拳はやべえって!」

「待ちなさいっ!」


 和人の肩を支えていた卓郎は、なりふり構わず全速力で逃げる。

 鞄を振り回しながら菜月がそれを追う。


「な、菜月ちゃん、そんなに走ったらスカートがめくれて――」


 八白が言い終わる前に、ふたりの姿は廊下から消えていた。

 ただ階段や階下から逃げる卓郎の声と追いかける菜月の怒号が聞こえてくる。

 やがてそれは悲鳴と重たいものを落とすような音に変わる。

 そして静かになった。


「……ま、いまのは狩られてもしょうがないな」


 和人たちはその一言で階下にて行われているであろう凄惨な光景を忘れ、帰宅するために歩き出した。

 未だにふらつく和人は窓側の壁にすがり、青藍は八白と芽衣子に寄り掛かってほとんど寝ている。

 そんな状況でふと窓の外を見た和人は、球技場でなにやら工事らしいものが行われているのを見つけた。

 白いテントや垂れ幕らしいものが用意され、客席には足場を組んでなにかを設置しようとしている。


「あれ、なにしてるんだろう」

「ああ、武道会の準備だよ」


 八白も窓の外を眺め、すこし懐かしそうに笑う。


「毎年夏の試験の終わりにやるの」

「ああ、そういや日比谷がそんな話してたな。いつからだ?」

「明日から。もともとは精霊石がちゃんと使えてるかどうか確認する試験だったらしいけど、それがイベントになって武道会になったんだって」

「わたしも知りませんでしたわ」


 芽衣子は寄り掛かってくる青藍の重みに顔をしかめている。


「それ、わたしも出るんでしょうか?」

「うん、全校生徒どころか先生たちまで全員参加だもん。わたしも布島さんもみんな出るよ」

「その、先生たちも参加ってのが引っかかるよな」


 和人は腕を組む。


「おれたちと先生たちとじゃ実力がちがいすぎるんじゃないのか。それに全校生徒っていったら初等部の子も入るんだろ。同じ生徒同士でもさすがに初等部とは勝負にならないよ」

「ああ、それはね、ハンデがあるの。たとえばあたしたちと先生だったら、先生は地面に書かれた円のなかから出ちゃいけないことになってたりね。あたしたちが初等部とか中等部の子と戦うときも同じで、円の大きさがちがうの。もちろんその円から一歩でも出れば負け」

「なるほど。円のなから出ちゃいけないってことは、カウンターはできるけど、ハンデがある側からの攻撃はできないってことだな」

「うん。だから結構ね、生徒が先生に勝ったり、初等部の子が中等部の子に勝ったりするの。まあ、やっぱり先生がいちばん有利なのは変わらないんだけど……とくに優勝賞品もあるから、先生たちも必死だし」

「はあ、そんなもんまであるのか」

「トーナメントの対戦になるから、一回負けたらそこで終わっちゃうんだけどね、もし優勝できたら願いがひとつ叶うんだよ」

「願いが叶う?」


 うさんくさい、という顔つきの和人に対し、芽衣子は目を輝かせる。


「それ、素敵ですね! 願いってなんでもいいんですか?」

「うん、叶う範囲ならなんでも。学校を一日休みにしてほしいとか……あ、そうだ。この制服もね、昔武道会で優勝したひとが作ったんだって。それまで不破学園って私服だったんだけど」

「へえ、そうなのか」

「願いが叶うのは先生もおんなじだから、みんな必死なの。先生たちもここで生活してるひとが多いから、不満もいろいろあるみたい」

「なるほどなあ。じゃあおれたちが優勝して願いを叶えられる可能性もあるわけだな。直坂はもし優勝したらどうする?」

「え、うーん、どうしようかなあ。学食のメニューを増やしてもらうとか」

「直坂らしいなあ……」

「そ、そんなことないよっ。ぬぬ布島さんは?」

「わたしは――」


 芽衣子はちらりと和人を見て、いたずらっぽく笑う。


「わたしの願いは秘密です。でも、なんとかして優勝したら、きっと叶いますよね?」

「ん、まあ、そりゃ、学校が叶えられる範囲なら叶うんじゃねえかな」

「我なら、そうだな」

「せ、青藍っ。起きてたのか?」

「ずっと歩いていただろう?」

「歩きながら寝てるのかと。つーか起きてるなら自分で歩けよ」

「歩くのが面倒なのだ」

「ああ、その気持ちはわかるな」

「わ、わかっちゃだめだよ牧村くんっ」

「――で、青藍の願いはなんだ?」

「日当たりのいい場所だな」


 青藍ははっきりと言う。

 なんのことだ、と周囲が首をかしげると、付け加えて、


「寝るのにちょうどいい、日当たりのいい場所がほしい。ここはどうも木が多くて日当たりがよくない。まあ、森林浴もよいものではあるが」

「昼寝の場所ねえ……らしいっちゃらしいな」

「牧村くんは? もし優勝できたらどうするの」

「おれかあ。おれは、そうだな――」


 和人はうーんと悩み、結局首を振った。


「別になんにもないな。この学園にも不満はないし、ほかに望みもないしな。まあそもそも、優勝ってのが無理だろ。生徒たちはなんとかなっても、椎名先生には絶対勝てねえ。普段はふざけてるけど、賀上先生も強いんだろ」

「うん。あのふたりは先生のなかでもとくに強いもん。でも、それより菜月ちゃんのほうが問題かも」

「織笠が?」

「菜月ちゃんって、たぶん上の学年を入れてもいちばん強いもん。だからたまに先生の仕事を手伝ったりしてるの」

「なるほど……たしかに織笠は強いな。っていうか怖ぇけど」


 できれば戦いたくない相手ではある。

 そもそも、知り合いと戦うということ自体、和人は気が進まない。

 精霊石を使って戦うということは、一歩間違えば大けがにも繋がる。

 相手も精霊石を使っているから、大抵の傷ならすぐに治癒するが、それでも傷つけたという事実は変わらない。


「トーナメントってことは、勝ち上がればその分だけ強いやつと当たるってことだよな。織笠とか、先生たちとか。なんかいやだな、それ」

「でも、武道会で戦えば、その分だけ精霊石がうまく使えるようになると思うよ。普段の授業とか練習ではうまくいかなくても、戦いのときにうまくいくことってあるもん」

「そうですよね」


 と芽衣子もうなずく。


「実戦は訓練の何倍も経験を積めますから、精霊石の使い方を学ぶなら戦ってみるのがいちばんですよ」

「そういうもんか」


 戦うということ自体に和人はいい印象を持っていない。

 思い出すのは、二ヶ月前のことだ。

 あれは正真正銘の戦い、それも殺し合いの実戦だった。

 負ければ死に、勝ちは相手を殺すことを意味している。

 たしかに今後戦う上でいい経験にはなったのかもしれないが、死ぬと意識した瞬間や、相手を殺すしかないと覚悟した瞬間のねっとりした恐怖は、いまでも身体中にまとわりついている。

 どれだけ眠り、どれだけ笑っても、その恐怖だけは拭いようがない。

 おそらく永遠に付き合っていくものなのだと和人は考えている。

 実戦の経験というのは、つまりそういうものの積み重ねだ。

 身体中にまとわりついた恐怖であたりが見えなくなったとき、人間は死ぬにちがいない。


「……まあ、遊びだって考えれば気も楽か」

「そうだよ。戦うっていってもお互いに怪我をすることなんかほとんどないんだから」


 八白は二ヶ月前のことも、しばらくのあいだ和人がふさぎ込んで悩んでいたのも知っている。

 その八白が元気づけるように言うと、和人も悩みを振り切ったように笑う。

 無言のうちの信頼関係がふたりにはあるのだ。

 それを、芽衣子がむうとうなりながら見ている。

 出会って数日の芽衣子ではそのあいだには入れない。

 しかし芽衣子は諦めず、いまはこのような立ち位置だが、いつかはそのあいだに割って入ってやる、と考えている。

 目的には一直線、決して妥協せず諦めもしないのが布島芽衣子という少女だった。

 三人とおぼつかない足取りの青藍が階段を降りていると、途中で菜月と卓郎も合流した。

 菜月は卓郎の首根っこを掴んでずるずると引きずっている。

 それもなかなか見られないほどすっきりしたいい笑顔である。

 卓郎のほうは、外傷はないようだが、ぐったりとして動かない。

 和人は改めて、武道会でも菜月とは戦いたくないと身を震わせた。

 靴を履き替えて――卓郎の靴は和人が替えてやった――外へ出ると、そこで寮組と自宅組は別れることになる。

 起きているのかいないのか、とにかく自力で歩くつもりはまったくないらしい青藍は和人が引き受け、寮住まいの三人とは別れた。

 名残惜しげにぶんぶんと腕を振る芽衣子の姿が見えなくなってから、和人と八白、それに青藍の三人は歩き出す。


「ほんとにこいつ、だらけきってるな」


 青藍は直立できない軟体動物のように、和人の身体にひたひたとすがる。

 特別大柄ではないとはいえ、人間ひとりの重量である。

 和人もふらつきながら、なんとか青藍の肩を担いでいたが、結局それでは学園の外の坂道を越えられるはずもない。

 やがて和人は立ち止まって、


「こら青藍、自分で歩くか精霊石に戻るかどっちかにしろよ。さすがにあの坂道では担いでいけねえぞ」

「むう……主はもうすこし身体を鍛えたほうがよい」

「おまえを担ぐためにか? その前に自分で歩けよ」

「うう、面倒だ……」

「精霊石の台詞か、それ」


 しかしよっぽど眠たいらしく、あまり精霊石にはなりたがらない青藍だが、その場で石に戻った。

 着ていた制服がふわりと宙に舞う。

 空気を孕んだそれらより一瞬早く精霊石が地面に落ちるのを、和人は空中で掴んだ。

 さすがに土の地面に落とすのは忍びない。

 制服も、あまり汚れないうちに拾い上げ、几帳面に畳んで鞄に入れる。

 和人が数秒前まで青藍がつけていた下着すら顔色を変えず畳むのを見て、八白はなんとなく複雑な気分になる。

 ただ、やけに照れたりすると、それはそれで青藍を意識しているようでいやなのだが――むずかしい乙女心である。

 青藍を無事石として回収し、今度は楽に、歩き出す。

 五歩ほど行ったところで八白はふと気づいた。

 青藍がいなくなったということは、ふたりきりの下校になる。

 いつもは青藍がいて、大抵ふたりの後ろを歩いて会話に入ってくることはあまりないが、それでもふたりきりとはいえなかった。

 しかしいまは完全にふたりきり――和人のポケットのなかに精霊石として青藍はいるものの、それを認めてしまうとこの先ふたりきりになることはまずないから、この状況をふたりきりの下校と認識するしかない。

 八白は早足で和人のとなりに並び、つかず離れず、いっしょに歩く。

 ただ、会話はない。

 なにかふさわしい会話を、八白の頭は試験中以上に回転しているが、それがなかなか見つからない。

 試験のことはもう話したし、家のことで話すこともないし、雑談にしても話題はないし、突然好きな食べ物を訊くのもおかしいし、黙りこくっているのも不機嫌だと思われたりしたら困るし――と堂々巡りをやっているうち、ふたりは球技場のそばを通りかかった。

 試験が終わって、事務員や教師が大急ぎで明日の武道会の準備を進めている。

 客席は臨時に拡大され、球技場の入り口には武道会の横断幕も張られる。

 生徒たちはそれを見ると試験が終わったことを実感して安堵し、すぐにやってくる夏休みに胸をときめかせるのだ。

 そう、武道会だ。

 ちょうど目に入ったし、雑談にはちょうどいい。

 和人が知らない、去年の武道会で菜月が起こしたおもしろい話もあることだし。


「あのねまきむ――」

「あっ、牧村くーん!」


 球技場の入り口で横断幕の確認をしていた江戸前有希子が和人に気づき、駆け寄ってくる。

 八白はがっくりと肩を落とす。

 だいたい、こういう運命であることはわかってはいたが――。


「有希子先生、そうやって走ると転びますよ」

「へへ、先生をばかにしちゃいけないわ。走ったくらいで転ぶわけ――きゃあっ」

「……一年くらいの付き合いだけど、あのひとが意識してボケてんのか、天然なのかはいまだにわからん」


 和人はため息をつき、仕方なく、転けた有希子に近づく。

 八白もそれに続いた。

 有希子がなにもない場所で転けるのも無理はない。

 足下は高いヒールで、それは有希子が低身長であることを隠すために普段から履いているものだが、いくら慣れていてもヒールで走るのはむずかしい。


「いてて……」


 有希子は腰をさすり、涙に潤んだ目で助けにきた和人を見上げた。

 和人はすかさず目を逸らす。


「な、なんで目を逸らすの!」

「いや、だって」


 言いにくそうに、和人はもごもごと口のなかで呟く。

 ちらりと有希子を見ては、またあらぬほうを向き、またちらりと見る。


「スカート、めくれてますよ」

「へ……あっ」


 ばっとスカートの裾を抑え、今度こそ怒りやら羞恥やらが涙となって浮かぶ目で和人をにらむ。

 和人はぽりぽりと頭を掻いてごまかした。

 そのうち八白も追いつき、ふたりして有希子を引っ張り起こす。


「まったく、牧村くんはえっちなんだから」

「いや、おれじゃないでしょ、あれは」


 有希子はスカートを払い、いまさら教師のような顔をして腕を組む。


「それで、ふたりとも、試験はどうだったの? 牧村くんは、いつもみたいに寝てはなかったみたいだけど」

「そりゃ今回は命がかかってますから。やれるだけのことはやったから、あとは結果待ちですけど――先生は、明日の準備ですか」

「そ。今日まで試験で先生たちも忙しかったからね。明日の朝までにちゃんとしておかないと。でも懐かしいなあ、武道会」

「そういえば、有希子先生もここの卒業生なんですよね」


 と八白。


「先生のころもこんなふうに大きなイベントだったんですか?」

「うん、そうよ。わたしより五つくらい上は、もっと小規模だったらしいけどね。わたしの三年上の先輩たちがすごく積極的なひとたちで、その世代がいまの武道会を作ったのよ」

「へえ。先生の三つ上っていうと、いまは三十――いてっ。せ、先生、足、踏んでますって! あああヒールの先でぐりぐりしないでっ」

「だれが三十手前なのー? 前の高校でもこっちでもいちばん若くて美人の先生を捕まえて三十路手前ですってー?」

「ち、ちがいますっ。先生は学園でいちばん若くてきれいな先生です! ついでに学園のマドンナでみんなから好かれて――ああっ、ついでは余計でしたすみませんっ」

「わかったらよろしい。もう牧村くんったら、うっかりさんなんだから」

「はは、ははは……」


 前にもこんなことがあったような、と思いつつ、和人はため息をつく。

 そこへ八白が、


「大丈夫、牧村くん? でも、いまのは牧村くんが悪いよ」

「そうかな」


 和人は有希子が背中を向けていることを確認しつつ、


「年を気にするってこと自体、三十路に近い証拠――」

「なにか言った?」


 ぐりんと有希子が振り返る。

 梟のように首が柔軟で、目にはぎらりと恐ろしい光が湛えられている。


「な、なんでも? そ、そうだよな直坂?」

「え、あ、うんっ、なんでもないです!」

「そう。じゃあいいや」

「そ、そういえば先生も武道会に出るんですよね。優勝したら願いが叶うって聞きましたけど、先生はどんな願いを叶えたいんですか」

「あ、聞きたい? 先生の願い、聞きたい?」

「も、もちろんですっ」


 話題が逸れたことに歓喜し、和人は壊れた人形のように何度もうなずく。

 有希子はむふふと笑って、


「教えてあげなーい。先生が優勝するまで秘密なの」

「あ、そうですか」

「なに、その返事? そこはもっと教えてくださいって懇願するところでしょ?」

「いやそんな台本聞いてないですけど――あ、先生、向こうで呼んでますよ。勝手に抜け出して、ほかの先生が怒ってるんじゃ?」


 有希子はさっと青ざめ、


「や、やばい、教頭先生が怒ってるかも――昔っからあのひと怖いのよねえ……」

「じゃ、がんばってくださいね、先生」

「う、うう、がんばる……」


 有希子はとぼとぼと持ち場に戻っていく。

 その先で、カツラを被っているというのが公然の秘密である教頭が仁王立ちして待っている。

 きっとたっぷり叱られるにちがいない。

 この教頭は有希子が学生だったころから学園にいて、そのころからよく怒られ、教師として戻ってきたいまでもかなりの頻度で怒られているというのも、生徒のなかでは有名な話だった。

 まあ、あの先生じゃ怒られるのも仕方ない、と和人も思う。


「悪い先生じゃないんだけどなあ……どうも苦手だ、あのひとは」

「でも、牧村くんは前の学校でも有希子先生といっしょだったんでしょ?」

「そのときから苦手だった。生理的に合わねえのかな」

「そんなことないと思うけど……結構人気あるよ、有希子先生。授業はわかりやすいし、美人だし、先生っていうより友だちみたいだし」

「友だちっていうか年下の子どもみたいだろ。なんつーか、子守りをしてる気分になるんだよな、あの先生といると」

「ああ……」


 わからないではない、という調子の八白だった。

 それも含んでかわいいと認識するか、大人は大人らしくしていてほしいと思うかで有希子の評価は変わってくるにちがいない。


「おーおー、怒られてる怒られてる」


 教頭が腰に手を当てて有希子を叱り、有希子がぺこぺこと頭を下げている様子を横目で見ながら、ふたりは学園を出る。

 八白はまたしても会話を切り出すタイミングを逃していた。

 校門を出て、山道をゆっくり下っていく。

 右手には、さほど高度はないが、町の様子が一望できる。

 不破山の山頂にある展望台からの夜景は一層美しいが、いまのところ頂上の封鎖が解かれる気配はない。

 ――学園では、うそかまことか定かではないが、精霊石や精霊使いに関するうわさがいつも飛び交っている。

 それによると、不破山の頂上を封鎖しているのは、表向きは警察ということになっているが、実は学園の力が裏で働いているらしい。

 山頂の市立博物館の爆破事件、それに精霊石と精霊使いが関わっているため、学園が慎重に管理しているというのだ。

 実際、博物館の爆破事件に精霊石と精霊使いが関わり、それでいて世間には爆弾テロと公表されていることは八白も知っている。

 なにしろ、それに関わった精霊石と精霊使いというのは、となりにいる和人のことだ。

 ほかにも複数名の精霊使いが関わっているとされるが、生存と事件への関与が確認されているのは和人ひとりである。

 そのことは直接調査に出向いた教師ふたりと、それに同行した織笠菜月しか知らない。

 八白は和人と知り合いだということで、あとになって真相を教わった。

 ほかに知っている生徒はいないはずで、菜月も教師も情報を洩らすはずはないのだが、自然と広まるのがうわさというものらしい。

 実際に和人がどのように関与したのかはわからない。

 もしかしたら、爆発計画を主導したのは和人かもしれない。

 菜月から教わったかぎりでは、学園はただ、和人がその場にいて、博物館に展示されていた精霊石、つまり青藍を所有していた、ということしか把握していない。

 和人本人もそのことは話したがらないから、八白も聞かないようにしている。

 そもそも和人との関係を崩してまで聞きたいことではない。

 八白もひとりであれこれ考えてはいるが、出した結論といえば、もし和人がどのような形で事件に関与していようと、いま自分が抱いている感情にはなんの影響も与えないだろう、ということだ。

 それならいらぬ詮索をして不興を買いたくはない。

 和人には秘密がある。

 その秘密を秘密のまま受け入れる覚悟がある八白だった。

 そういうことをまっすぐ言葉にして伝えられればよいが、人間、そのように自分の気持ちを発言できるようにはできていない。

 考えていることとは裏腹に口から突いて出てくるのは、


「今日は一日天気よかったね」


 というような、当たり障りがないどころか、なんの意味も価値もない言葉である。

 いや――、


「そうだな。天気がよくて、幸せな日だったよ」


 なにかしらの価値は、そこにあるのかもしれない。

 八白は和人の横顔を見て、そう思う。

 この顔を見るためなら、というと言い方がおかしいが、この時間を維持するためにあるなら、それは決して無駄ではないのだ。


「試験も終わって、明日の武道会も終わったら、すぐ夏休みだな」


 和人は鞄を前後に振りながら言う。


「直坂は、もう夏休みの予定とかあるのか?」

「ううん、まだぜんぜん。毎年、菜月ちゃんとはプールに行ったり花火見に行ったりしてるけど……牧村くんは?」

「毎年で言うなら、どっか遊びに行くか寝てるかの二択だな」

「あはは、そっかー。……じゃ、じゃあ、今年はいっしょに遊びに行ったりできるかもね?」

「行くに決まってるだろ。直坂たちがいねえと、絶対日比谷と男ふたりだけの夏休みになるもんな。さすがにそれは避けたい」

「な、夏休み、楽しみだね」


 八白は心からうれしそうに笑う。

 人間というのは奇妙なもので、ほんのすこしのきっかけで、大嫌いなものが反転して大好きなものに変わる。

 八白は、今年の夏休みはいままでいちばん楽しい休みになるだろうとわくわくしながら山道を下った。

 あるいはそれは、不吉な予感の裏返しであったのかもしれない。


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