第二話 13
13
潜入は無事に済んだ、という報告がもたらされてからも、少女に動きは見られなかった。
そもそもその少女は、ひとりでいることを好む。
報告は必ず直接させるが、それ以外の時間、少女の部屋に他人が居座ることはない。
そのあいだに少女がなにを考え、どのように振る舞っているかは、だれにもわからない。
少女にもっとも近い位置、声がかけられるのを外の廊下で待つ壱にも、それはわからない。
壱は忠実な犬のように、廊下の壁にもたれて待つ。
少女のほうから声がかかることはほとんどない。
報告へきた者を仲介するのが主な役割だが、それも決して数が多いわけではない。
週に一度程度の来客のために存在している壱だが、組織ではいちばんの側近と見られている。
たしかに、付き合いは長い。
かれこれ七十年ほどになる。
そのあいだにどれだけのことが変化し、あるいはどれだけのことが残ったか――それを数え上げるのは、むしろ若者の仕事だと壱は思う。
つぶさに見てきた年寄りはむしろ、なにも言うべきではない。
時代は変わる。
その不思議は、いまでも理解できていない。
なぜ時間は一方向にだけ流れているのだろう。
時代、あるいは社会というものは、だれによって動かされ、形を変えていくのだろう。
そこに神を見たこともある。
だれかの陰謀であると確信したこともある。
自らの策略でもって操ってやろうと思ったこともある。
それは成功したのか、否か。
隠居生活のようになっている現在でさえ、わからない。
地球という天体は、巨大なひとつの生物である、とする説がある。
それと同じように、社会もひとつの生物として認識できる。
手綱をとっているのはだれなのか、という問題に明け暮れた若い頃に比べて、いまはその興味は薄くなっている。
挫折の苦い記憶と相まって、そんなことはだれでもいい、と投げやりに思うこともあるが、本心では、もうそういうものとは関わりたくないと後悔している。
社会という巨大な生き物は、壱を踏みつぶさなかった代わりに、脅しのように悪夢を植えつけて去っていった。
それに屈せずしがみついていれば、いまごろ手綱をひくのがだれなのかわかっていたかもしれず、それどころか自分がその役割を担っていたかもしれない。
壱は悪夢にうなされて、社会から手を放したのだ。
二度とそこに戻ることはできない。
その生き物は、光のように去っていってしまった。
喪失感より、虚脱感のほうが強い。
意中の相手に告白し、あえなくふられてしまったようなものだと壱は思う。
結局年老いても、そのような所有欲は減退しない。
むしろ年をとったほうが所有欲は強まる。
若いころにする失恋は、重大な印象を残すが、回復可能でもある。
年をとってからの失恋は虚無のなかに放り込まれるような心地だ。
いままで何十年も熱心に愛し続けたものが、実は自分のことを愛してはいなかったのだと知った瞬間、あらゆるものが無に還る。
いや、もともと無だったのだ。
それを、色彩溢れる美しい映像だと誤って認識していたにすぎない。
所詮、すべては無なのだ。
だれかから奪い取った袋にはなにも入っていないし、だれかに奪われた宝石箱の中身も、開けてみればただの石ころだろう。
石ころ、といえば――壱はポケットから精霊石を取り出す。
皺が目立つ手には、あかね色の貴石がある。
精霊石、これもまた、社会と同じようになぞめいた存在である。
多くの人間が真実を求めたが、精霊石はだれにもその心の奥を見せてはくれなかった。
どうにも難攻不落な美女のようなものか、と考え、壱は咳をするように笑った。
本当の美女には、男だけでなく、女も虜になる。
それでも精霊石は、どんな男にもなびかず、どんな女にも心を許さなかった。
つまり、精霊石が望むものを、だれも提供することができなかったということだ。
金も地位も、底なしのやさしさもギリシャ彫刻的肉体美も、精霊石の意には合わない。
女の白く細い指先も甘い香りも、ため息の出るような美しさも艶っぽい囁きも、精霊石の気にはそぐわない。
なにしろ、精霊石はそのすべてを持ち合わせている。
精霊石はこの世でもっとも屈強な男であり、同時に絶世の美女でもある。
金や地位というような空虚なものはともかく、真に価値があるものはすべて持っているのだから、いまさら精霊石はなにを望むというのか。
しかし、なにかを望んでいることは事実なのだ。
精霊石の淡い輝きが、人間を誘っている。
たったひとつの贈り物ですべてを捧げましょう、と誘惑している。
精霊使いとは、完璧ではなくとも、ある程度は精霊石のお気に入りに選ばれた人間なのかもしれない。
かつて世界中を征服した王族たちは、ほぼ例外なく精霊石の力を与えられていた。
それは、世界を征服する人間だからこそ精霊石の力をも征服したのか、それとも精霊石に選ばれたからこそ世界を征服せしめたのか。
精霊石は世界中のあらゆる墓から発見されている。
所有者ともに埋葬されたものだ。
精霊石自身が持ち主を選び、半ば操る形で所有者に圧倒的力と権力を与えたのだとしたら――。
「壱、そこにいるか」
部屋のなかから声がかかった。
「はい。いかがなさいましたか」
壱はすかさず精霊石をポケットにしまっている。
膝をつき、襖を静かに開けると、少女は中庭に向かって座っていた。
すっと背筋を伸ばした後ろ姿は、驚くほどちいさい。
年端もいかぬ子どもである。
壱も昔はそうだった――いまでは老人という人種になり、少女はいまでも子どもという人種であり続けている。
「すこし、庭を見ていた」
少女はぽつりと言った。
だれにも手入れさせるなと言ってある、荒れ放題の庭である。
「なにかありましたか」
「いや、なにもないよ。この庭は日々変わっていくようで、実はなにも変わっていない。ただ、それを見る眼が変われば、まったく異なるものにも見えるだろう」
壱は押し黙る。
こういうときは口を挟むべきではないと理解している。
ひとの一生ほどの付き合いでわかることといえば、その程度のものだ。
「芽衣子のことだが」
と少女は言った。
「うまく学園には侵入できたようだな」
「来る者は拒まず、が不破学園の基本ですから、むずかしいことではないでしょう」
「あとは芽衣子の連絡を待つだけだな」
「……お言葉ですが、芽衣子に任せたのは誤りだったのではありませんか。それより確実に成し遂げられるものはほかにもおりますが」
「なぜ芽衣子は不的確だと思う?」
「あの子は、思い込んだら周囲が眼に入らなくなる。それが失敗のもとにならぬか、心配です」
「おまえが心配しているのは作戦ではなく、芽衣子だろう」
少女はからかうように言う。
庭を眺めるその目には、すべてが見えているようだった。
「もし芽衣子が裏切るようなことがあれば、わたしは許しておかない。そのとき芽衣子ひとりでは太刀打ちできぬと思い、芽衣子を心配しているのだな。しかしそんなことにはなるまい。芽衣子はわたしを裏切ることはないだろうし、裏切ったからといって許す許さぬという話ではない。また、芽衣子がわたしを裏切るなら、わたし以上のなにかを見つけたということだろう。決して芽衣子ひとりではない」
壱にとって布島芽衣子は、娘にも等しい。
芽衣子だけではなく、組織の若い連中すべてが壱の子どもたちであり、慈しみ、愛している。
いまや壱にできることといえばそれだけなのだ。
しかしこの少女は、必ずしも壱と同じ感情をもって組織の若い者に対面しているわけではない。
ときには壱よりも深い愛情をもって接しているようにも見える。
かと思えば、同じ相手でも驚くほど簡単に突き放す。
その気まぐれな感情の振れ幅を、壱は理解できない。
「芽衣子は自分の仕事をやり遂げるでしょう」
壱は言った。
「芽衣子からの連絡後は、決められたとおりに?」
「ああ、そうする」
少女は結局庭から一度も視線を外さず、言った。
「芽衣子からの連絡があり次第、不破学園を襲撃する」