第二話 11
11
その日の放課後である。
学園の試験は、すぐ明日に迫っている。
試験の日程は全二日で、そのうち一日は筆記、もう一日は精霊石関係の実技に当てられる。
精霊石関係の試験は、あまり練習のしようもないから、重要になるのはやはり各教科の筆記試験だ。
通常の学校に比べ、精霊石に関する教科が増えているだけ、試験内容は広くなる。
そこで生徒たちは勉強の効率を上げるため、試行錯誤を繰り返す。
静かな場所でひとり黙々と勉強をする者。
あるいはあえて騒がしい場所でノートを広げ、集中力を養う者。
いっそ運に任せようと教科書さえ開かない者。
適度に気分転換しながら、と思いつつ、いつの間にか気分転換ばかりになってしまっている者。
そして、すこしでも頭数を稼ぎ、集団の力で乗り切ろうとする者。
「この坂道がきついから、自然と寮から出なくなるんだよなあ」
日比谷卓郎はぶつぶつ言いながら、ガードレールに沿って歩く。
そのすこし後方には直坂八白と織笠菜月が並んで歩いている。
さらに後ろには牧村和人がいる。
青藍は人間の姿ではなく、精霊石の姿となって和人のポケットに入っている。
ここまでは昨日と同じ、というより、いつもの面子である。
いまはそこ、牧村和人のとなりに、もうひとりいる。
布島芽衣子である。
芽衣子は細かく編み込んだ長い髪を揺らしながら、いかにも楽しげ、うれしげに、和人のとなりをとことこと歩いている。
鞄を身体の前に持ち、ガードレールと自分とのあいだに和人を挟み込む、逃げ場がないように仕向けているのはいかにも彼女らしいあざとさだった。
「なにが憂鬱って、この坂を下りたら、今度は登ってこなきゃいけないのが憂鬱だよな」
と卓郎は大きめの独り言を言う。
「っていうか五人で歩いてて、一対二対二に分かれるってどういうことだよ。おれ、すげー寂しいじゃん。青藍さーん、おれの話し相手になってくれー」
「悪ぃな、石に戻ってて」
と後ろから和人。
「家に着いたらまた人間に戻るからさ」
「だったらいま戻してくれよ。おれひとりで寂しいだろ」
「い、いまはちょっとな。なんつーか、その、タイミングが悪い」
「タイミングとかあんのか」
より正確に言うなら、人目があるところでは、青藍は人間化できない。
当人は気にしていないが、石から人間化すると当然服などは身につけていないわけだから、だれかの目があるところで人間になれるはずがない。
和人のほかにそのことを知っているのは八白だけで、八白としてはふたりきりのときにそうなるのもどうかと思うのだが、そのあたりは仕方ないと割り切るしかなかった。
「でもわたし、うれしいですわ」
芽衣子がすこし照れたような笑顔で、ぴたりと和人に寄り添う。
「転校して一日目で和人さんのおうちにお呼ばれするなんて。やっぱりわたしたちは運命で繋がれているんですね」
「運命っていうか、昨日の事件が原因だけどね」
和人の前を歩く菜月が、刺々しく言った。
無理もない。
昨日は菜月の部屋で行われた合同勉強会だが、和人と青藍によって――主な理由は青藍だが――菜月が辱めを受ける結果となり、当然、今日の勉強会の使用許可は下りなかった。
もともと、菜月の部屋では青藍を含めた六人は入りきらない。
同じ寮住まいの卓郎と芽衣子も同じ理由でむずかしく、卓郎の部屋はそれ以上に菜月が拒否したから、残すは八白か和人の二択だった。
そうなると、家族がいる八白より、一軒家でひとり暮らしをしている和人の家のほうが、となる。
和人としても異論はなかったから、放課後、この五人は仲良く不破山の厳しい坂道を下っているのだった。
「和人さんのおうちってどんな感じなんでしょう。わくわくしますわ」
「別に普通だと思うけどな。こう、屋根があって、玄関があって」
「内装の話だろ」
と卓郎。
「また牧村の天然が出たな」
「て、天然じゃねえよ。高度でハイセンスなボケだ。それに内装なんてどこも同じだろ。壁紙はだいたい白だし、床はだいだいフローリングだし」
「うーん、おまえはあれだな、天然を通り越して、大自然だな。これからサバンナと呼ぼう」
「な、なんでだよ。おれ、変なこと言ったか?」
前方を歩く八白は苦笑いで振り返り、
「布島さんが知りたいのは、家具とか、お部屋の雰囲気じゃないかな」
「ああ、そういうことか。じゃ、じゃあ、そう言えばいいだろ」
八つ当たり気味の和人だが、芽衣子はいかにも楽しげな笑顔である。
「照れる和人さんも素敵ですわ」
「て、照れてないし素敵でもないっ」
「はあ」
と卓郎は深くため息。
「なんで牧村ばっかり……ショックすぎてあのことをぽろっと呟きそうだぜ」
「あ、おまえ、やめろよ」
「なあに、あのことって?」
「べ、別になんでもないよ! な、日比谷?」
「なんでもないような……なんかあるような……青藍さんの部屋を見ると忘れそうだなあ」
「くっ……せ、青藍の部屋を見せりゃいいのか?」
「なんでもないよ、直坂さん。うん、ぜんぜんなんでもない」
爽やかな笑顔で否定する卓郎を、むしろ八白は疑いの目で見ている。
「そもそも別に秘密にしなきゃいけないことなんかないんだけどな」
和人はぽつりと言った。
「ただ精霊石の使い方を習っただけなのに」
「じゃあ、だれもいない球技場で抱き合ってたって大声で言ってもいいのか?」
「そ、それだけ言うと語弊があるだろ。何回も説明したけど、あれはただ先生がよろけただけで」
「それが事実だとしても、そういうところからはじまる恋ってのもあるだろ? むしろ恋なんかそういうもんだぜ。おれなんかすれ違っただけで恋に落ちるからな。知ってるか、恋ってのはするもんじゃなくて、落ちるもんなのさ」
「いや格好よく決まってねえ。要はただの変態だろ、それ」
「おーっと、唐突に山びこを楽しみたくなったな。なに叫ぼうかなー?」
「ぐう……なんかいちばんまずいやつに見られた気がする……」
「なんか楽しそうね、あのふたり」
「仲いいよね、牧村くんと日比谷くん」
「うらやましいですわ」
――長く厳しい坂道も、そうしてかしましくしていれば、あっという間に過ぎてしまう。
五人は山の麓に降りて、住宅街のなかを数分歩いた。
「ほお、ここが牧村の家か」
卓郎はごくありふれた一軒家の前で立ち止まり、ぐるりと首を回して背後を見る。
牧村と表札のついた家の真向かいには、直坂という表札の家がある。
距離は細い路地一本分、四メートル程度で、通りに面した窓から会話できるほどだった。
「ほんとに近いんだな、直坂さんの家と。くそう、おれもこのとなりあたりに住んでたら直坂さんと幼なじみだったのにな。なあ、牧村、おれと人生変わる気ねえか?」
「いやだ。だっておまえになったら学園でいちばん有名な変態になるんだろ」
「男としては名誉だろうが」
「どこがだ。それ以上の汚名はねえよ」
「あの、あたし、着替えてくるね」
と八白は一足先に自分の家へ戻っていく。
そのあいだに和人もほかの三人を家のなかに招き入れた。
「まあ、なんもないとこだけど」
その言葉が謙遜でないことは、玄関を入ってすぐにわかった。
まず、どの家の玄関にもあるはずの下駄箱が、この家にはない。
広々とした沓脱ぎからまったく遮るものなく廊下が延び、突き当たりの階段まで見渡せる。
廊下の途中には扉が二、三あり、向かって右側の扉がトイレや風呂、左側がリビングだと和人が案内した。
「広さとしてはリビングのほうがいいんだけど、食卓しかないからなあ。ま、とりあえず二階へ上がろう」
和人を先頭に、あたりをきょろきょろと見回して落ち着かない卓郎、多少かしこまった表情の菜月、好奇心はあるが露骨には見せないらしい芽衣子が続いて階段を上がる。
二階には全部で三部屋ある。
そのうちふたつの部屋は扉が開け放たれていた。
興味本位で卓郎がなかを覗いたが、どちらも家具ひとつなく、空き家のようになっている。
唯一扉が閉められた部屋が和人の部屋である。
なかは、さすがにほかの部屋と比べれば人間味があり、生活の気配が窺われる。
しかし一般的な若い男の部屋としてはあまりに味気ない。
家具といえば、ベッドと、壁際に立てかけられているちいさなテーブルがあるだけである。
普段部屋の中央にあるはずのテーブルがなぜ退けられているかというと、いまそこには一組の布団が敷いてある。
和人が寝ているであろうベッドとは別に、である。
卓郎は、和人が慌てて布団を横へ退ける仕草を見て、なにかあるな、と感づく。
しかしそこでは追求せず、布団を退けて空いた空間に腰を下ろした。
「シンプルっつーか、物がない部屋だな」
「まあ、ひとり暮らしだから、こんなもんだろ」
「いや、普通はもっといろいろあるって。おれの部屋なんか足の踏み場もないぜ」
「だからあんたの部屋はいやなのよ」
と菜月。
「でも洗濯物とかため込んでないのは感心だわ」
「だれかとちがってな」
と卓郎。
「だ、だれのことかしら?」
「さあね。もしかしたら、客がきたからって慌てて全部クローゼットに放り込んだあげく、それが全部ばれたりしたひとのことかもな」
「お、落ち着けって織笠! テーブルで殴ったらさすがにこいつでも死ぬから!」
「和人さんのお部屋……」
芽衣子はきちんと正座し、目を輝かせる。
「あ、和人さんの匂いがします……」
「……いま気づいたけど」
菜月は若干芽衣子から身を引きながら、
「この子、結構な変態ね?」
「ばかやろう。美人の変態はいいもんだろ。あれだ、まじめそうなやつこそエロいっていうのと同じだな」
「はあ、なに言ってんの?」
「ちなみに織笠は性質がどうであれ萌えねえけどな!」
「し、死ねっ。こいつは死んだほうが世のためだわっ」
「まあまあ。おれんちを人殺しの現場にすんなって。あ、そうだ。茶でも淹れてくるよ。ちょっと待ってろ」
と和人は立ち上がり、部屋を出ていく。
扉がぱたんと音を立ててしまったとき、合わせて卓郎も立ち上がった。
「さて、と。じゃあ取りかかりますか」
「取りかかるって、なにが?」
「そりゃおまえ、決まってんだろ」
卓郎はほれぼれするような笑顔である。
「牧村和人の生態調査だよ」
「はあ?」
逆に菜月は白けきった顔をしている。
「なに、それ。牧村くんの生態調査?」
「簡単に言えばエロ本ないしエロDVD探し」
「エロ……あんたねえ」
「なんだよ、気にならねえのか? 一方的にパンツやらなんやら見られて、それでいいってのか?」
「そ、それはまた別の話でしょ。え、エロ本とか興味ないし、そもそも穢らわしいわ!」
「じゃ、おまえはそこで見てるんだな。芽衣子ちゃんはやるよな?」
「ばかねえ。上品な布島さんがそんなことやるわけ――」
ない、と言いきる前に、はっとして、菜月は芽衣子を見た。
ほかのだれかならいざ知らず、対象が対象である。
芽衣子はそれ以前からなんとなく虚ろな、恍惚ともいえる表情をしていたが、卓郎に言われ、はっとわれに返る。
しかし、われに返ったから否定するというわけではなく、正座した膝をもじもじと動かし、否定も肯定もしない。
それがすなわち肯定の意であることは明らかだった。
「で、でも、見たところ、この部屋にはなんにもないじゃないの」
と菜月も、なぜか捜索を前提としたことを言う。
いくら女子といえど、お年頃であることには変わりない。
「いや、ブツはこの部屋にあるはずだ」
卓郎は腕を組む。
熟練した刑事のごとき鋭い視線を巡らせ、
「二階にあるほかの二部屋は、どっちも空だった。あと、リビングをちょっと覗いたけど、テレビもないしゆっくり落ち着けるようなとこもない。あるとしたらこの部屋のどっかなんだ。普通なら本棚とか勉強机とか選択肢は多いが、そういうものがないこの部屋なら、隠し場所はだいたい決まってる」
三人の視線が、自然とベッドに向かう。
卓郎の推理は明晰であり、論理的である。
なるほど、この部屋には収納もなく、死角になる場所はベッド付近しかない。
「で、でも、和人さんはそんなもの持っていないかもしれませんわ」
「いや、間違いなく持ってるね。この年頃の男で持ってねえやつなんかいねえ」
卓郎はベッドの近づく。
ほかふたりは頬を赤らめ、固唾を呑む。
卓郎はベッドのそばに屈んだ。
ベッドの下を覗き込み、腕を入れる。
ごそごそとなにか探る音がする。
ごくりとだれかが生唾を飲んだ。
やがて卓郎は腕を引き――その手には、なにも握られてはいなかった。
「ほ、ほらね、そんなのないのよ。あんたじゃないんだから」
ほっとしたような、残念なような表情で菜月が言った。
芽衣子のほうが、明らかに残念顔である。
しかし卓郎は真剣な表情を崩さず、
「落胆するのはまだ早いぜ。おれとしたことが、重要な要素を見落としてたんだ」
「じゅ、重要な要素?」
「見てみろ。おれの腕や手には、埃がついてない。いくら掃除好きでも、毎日ベッドの下の深くまで掃除機をかけることはしねえはずだ。となると、つい最近まで、ここにはなにかあったんだ――それを移動させたにちがいない」
「ど、どうして移動させたの」
「青藍さんだろう」
「あ――」
そうか、と菜月は思わずうなずき、卓郎のペースに巻き込まれていると気づいて首を振る。
「つまり、おれは青藍さんという重要で美しい要素をこともあろうに忘れていたんだ」
「美しいって言葉、必要?」
「あいつはここにブツを隠していたにちがいない。しかし青藍さんがこの家にきて、ばれると思った牧村はブツを移動させる必要に駆られたんだ。そしておそらくブツはこの家のなかのどこかに移動した……二階の二部屋は、その候補から外してもいいだろう。あと考えられるのはトイレと風呂場、それにリビングくらいだけど、風呂場は湿気があるから、本を置くには適さない。トイレもブツを隠すスペースが乏しい。たぶんリビングか、でなけりゃ庭のどっかだ」
「庭?」
「ビニール袋に入れて埋めておけば、見つかることはまずないだろ」
「そ、そこまでしないでしょ、普通」
「いや、必要に駆られた男なら、する。とくに青藍さんとは同居してるわけだから、気づかれる可能性を最小限にするために、普通は絶対に探さない場所を使うはずだ。まあ、おれはだれに見られるわけでもないから、普通に放り出してあるけどな」
「あんたのことは聞いてないわ」
と菜月。
「リビングか庭だと、探せませんね」
しごく残念そうに芽衣子が言う。
そのとき、階段を上がってくる足音が聞こえた。
菜月と芽衣子は、実際はなにもしていないというのにぴくりと身体を動かしてあたふた姿勢を正す。
一方卓郎は落ち着いたものである。
ベッドにもたれかかり、まだどこかに隠し場所はないかというように、あたりを見回している。
扉が開いた。
入ってきたのは和人ではなく、八白だ。
制服から、ラフなTシャツとスカートに着替えている。
「おおっ、私服姿もやっぱりかわいい!」
卓郎は身を乗り出す。
といってもこれは挨拶のようなもので、八白もとくに気にせず、
「牧村くん、お茶はもうちょっとかかるって。先に勉強会をやっててって言ってたけど」
「そう。じゃ、先にはじめましょうか」
「それもいいんだけどさ」
と卓郎。
「直坂さん、牧村がどこにエロ本隠してるのか、知らない?」
「へ……?」
卓郎の放った言葉の意味がわからず、八白は呆然と立ち尽くす。
やがてゆっくりとその言葉が理解に浸透してゆき、
「え、ええっ! え、えええろ……そ、そんな本知らないよっ」
「そうか、直坂さんも知らないか。幼なじみだから知ってるかと思ったんだが」
「だとしてもストレートに聞きすぎでしょうが!」
と菜月は鞄から取り出しかけていた教科書を振るう。
「八白はどっかのだれかとちがって純真なんだからね。妙なこと教えないの!」
「あの、それってもしかして、わたしのことでしょうか……?」
と芽衣子は恐る恐る言う。
「ばかやろう。さっきも言ったけどな。直坂さんみたいなまじめな子がえろ――」
最後までは言いきれない。
その前に教科書が満載された鞄が、卓郎の顔面を襲っている。
「ぐふうっ」
卓郎は空中でもんどり打ってベッドに落下する。
その際、顔から首にかけていやな角度で落ちたが、
「ひいっ」
と驚きの声を上げたのは転校生の芽衣子だけだった。
いつもは菜月を諫める八白も、いまは勉強用に持ってきた鞄を胸にぎゅっと抱き、顔を赤らめておろおろしている。
「え、え、え、えええっちな本……」
「大丈夫よ。悪の元凶は死んだわ。もうなにも心配しなくていいの」
菜月はやさしく八白を抱きしめ、あやすように背中を叩く。
「あ、ああの、日比谷さんは放っておいてもいいんですか? なんか、ぴくぴくしてますけど」
「いーのいーの。もし死んだら死んだで、世界平和がまた一歩実現するわけだし」
「び、美女の谷間に抱かれて眠るという夢も叶えられず、この日比谷卓郎、死んでたまるかい……はぐあっ」
死霊のように起き上がったところに、もう一度鞄が襲う。
今度は後頭部である。
ぐしゃり、となにかが潰れる生々しい音がして、今度こそ卓郎は沈黙する。
「さ、ばかは始末したことだし、そろそろまじめに勉強しましょうか」
菜月は何事もなかったかのように腰を下ろし、二度の致命傷を負わせた鞄から教科書とノートを取り出した。
なにが恐ろしいといって、その平静さである。
集ってくる蚊の一匹を潰したほどの感情もない。
芽衣子も、ベッドの上の肉塊を目の端で気にしながら、過激なコミュニケーションなんだな、と思い込む努力をする。
「えっと、まず数学からやりましょうか。牧村くんと青藍さんが遅れてるでしょ……ってまだどっちもきてないけど。ほんと、明日試験だって自覚あるのかしらね、あのふたり。とくに青藍さんだけど。筆記はほとんど全滅だもんねえ。精霊石だから、しょうがないといえばしょうがないのかもしれないけど……」
「あ、あの、菜月ちゃん」
鞄を強く抱いたまま菜月のとなりに腰を下ろした八白が、ぽそぽそと呟く。
「なあに?」
「ま、牧村くんも、そ、その……え、えっちな本とか、持ってるのかな……?」
「え?」
とさすがに菜月も慌て、
「さ、さあ、どうかな。ばかの日比谷は持ってるって言い張ってたけど……八白は、このうちにはあんまりこないの?」
「最近は、目覚まし時計じゃ起きられないからって、朝はあたしが起こしてるんだけど……」
「あ、いいですよね、そのシチュエーション」
和人の話題になると、ベッドの上の肉塊も気にならないらしい芽衣子である。
八白のほうに、ぐいと身を乗り出す。
「わたしも和人さんを起こしてみたいです……朝ですよー、起きないとちゅーしちゃいますよー、とか!」
「あ、あたしはそんなことしてないよ! た、ただ、声かけて起こすだけだもん」
「和人さんってどんな寝顔なんですか? いい匂いします?」
「……なんかどっかで聞いたような台詞だなあ」
と菜月。
「あ、あのね、寝顔はね、ちょっと幼い感じなの」
赤く上気した頬に手を当て、八白は言う。
「普段はそんな感じしないんだけど、寝てると子どもみたいなところがあって」
「いいなー。ね、直坂さん、わたしと一日だけ交換しません?」
「だ、だめだよー。でも、寝顔だけだったら学校でもたまに居眠りしてるから、見られると思うよ」
「それでさ、話を戻すけど」
と菜月。
「毎日ここへきてる八白に気づかれないように隠すって、相当むずかしくない? やっぱり牧村くんは持ってないのかもしれないわ。変態日比谷卓郎が持ってるから牧村くんも持ってる、って理屈はちょっと合わない気がするし」
「そ、そっかあ。そうだよね」
なぜか安堵し、八白は息をつく。
一方で芽衣子は唇に指を当てて考え、
「でも日比谷さんの言っていた隠し場所にあるなら、直坂さんでも気づきませんよね」
「え、ど、どこって言ってたの?」
「リビングか、庭だって。ま、あの変態が言うことだから、信用はできないけどね。いくらなんでも、ビニール袋に入れて庭に埋めるなんて面倒なことはしないでしょ。リビングは、あり得るかもしれないけど」
「リビングかあ……」
この面子では、この家の構造にもっとも詳しい八白は、リビングの間取りを思い描く。
「リビングも家具はほとんどないから、隠せる場所ってすくないと思うけど……」
「棚とかないの?」
「えっと、間取りはこうなってるんだけど」
八白は空白のノートに、さらさらと間取りを書く。
さすが毎日通っているだけあり、ほぼ完璧な見取り図である。
三人の少女はその見取り図を覗き込み、真剣な表情で検討を開始する。
「リビングのここって、棚とかはないんだよね」
「うん。ここに食卓があるだけ」
「じゃあ、やっぱりリビングには隠せる場所もなさそうですね。お風呂とか、トイレとかはどうでしょう?」
「えっと、お風呂はね、ここが洗面所になってて、洗濯機がここで、棚がこのあたりにあるんだけど」
「その棚に隠してある可能性はないかしら」
「うーん、でもここって洗剤とか石鹸しかないよ」
「あ、タオルのあいだに挟んであるっていうのは?」
「タオルはここだけど……ひとり暮らしで三枚くらいしか置いてないから、ここに隠すのはむずかしいんじゃないかなあ。隠せたとしても、一冊くらいだと思う」
「まさか浴室のなかってことはないでしょうし」
「トイレは?」
「トイレットペーパーを入れる棚がここにあるよ」
「そういうところって、意外と盲点だったりしません?」
「でも青藍さんにばれないって意味では危なくない? トイレットペーパーを替えようとして開けちゃうこともあるだろうし」
「そうなってくると、やっぱり二階かなあ」
「この部屋で隠せそうなところは探しましたけど、ありませんでしたよね」
「そっかー」
「二階は奥にも二部屋あるんでしょ? 家具はないみたいだけど、押し入れとかに隠せるんじゃない?」
「このあいだ見たときは、どっちの部屋の押し入れも全開だったよ。たぶん換気のためだと思うけど」
「じゃあ無理ね……って八白、あなたこの家に詳しすぎない?」
「え、そ、そうかな? そそそんなことないと思うけど」
露骨に視線を逸らしながら言っても説得力はない。
ふうん、と菜月は目を細め、
「まあ、毎日通ってるんだし、それくらいは知ってるかもね」
「そ、そうだよっ。べ、別にいろいろ見てまわったわけじゃないもん」
「……なーんかわたしのまわりって変態が多い気がするわ」
「ばかやろう。ひとはだれしも変態性を兼ね備えてるもんなのさ」
いつの間にか、卓郎がベッドの上で起き上がっている。
さすがに今回は復活に時間がかかったらしい。
頭頂部にできたたんこぶを押さえながら、卓郎はベッドから降りてノートを覗き込んだ。
「ふむふむ、なるほどな。牧村がどこにブツを隠したのか、だいたいの見当はついたぜ」
「え、す、すごいね日比谷くん」
「すごいっていうか変態だけどね」
「おれが思うに、ブツはここにある」
すっと卓郎が見取り図の一カ所を指さす。
三人の視線が自然とそこに誘導される。
「ここって……」
と芽衣子が呟くのと、
「お待たせー」
と和人が部屋に入ってくるのはほぼ同時だった。
三人は、精霊石を使ったのではないかと思うほどの速さでノートを閉じ、揃いも揃って似たような作り笑顔を浮かべた。
その不自然さには和人も気づき、なんなんだろうと首をかしげながら、五組のカップを載せた本をテーブルに運ぶ。
後ろからは、精霊石から人間化した青藍が続いている。
青藍はまだ制服姿で、多少寝ぼけたような顔をしているが、目は覚めているらしい。
「あれ、まだ勉強はじめてないのか?」
「ちょ、ちょっとお話をしたの。ね?」
「う、うん」
「さすがにふたりは試験前なのに余裕だな。おれたちは本気でやらねえとまずいのに」
和人は丁寧にもそれぞれの前にカップを配る。
その動きが、卓郎の一言でぴたりと止まった。
「おまえさ、エロ本どこに隠してんの?」
「あ……?」
一瞬、まるで時間が止まったようだった。
和人はカップを配る中腰のまま停止する。
菜月、八白、芽衣子の三人も信じられないものを目撃した顔つきで卓郎を見る。
卓郎は平然としたものである。
この男に、物事を隠す、という発想はないらしい。
唯一、青藍だけが停止した周囲をいぶかしんで首をかしげた。
「なななななにを言って」
「いやな、だいたいの位置までは絞り込んだんだ」
と卓郎。
「キッチンのどっかにあるんだろ?」
そのときの和人の表情は、まさに七色だった。
秘密を言い当てられて青ざめるやら、照れて赤らめるやら。
答えはなくとも、その表情だけでだいたいのことは察せられる。
「キッチンのどこにあるかってのが最後の問題なんだよなあ」
卓郎は独りごちる。
「おれはシンクの上の収納じゃねえかと思うんだ。下は料理道具を入れなきゃいけないだろうし。ひとり暮らしだから、買い置きの調味料なんかはあんまり必要ないだろ。食器もそれほどいらないはずだし、基本的にキッチンを使うのは家主ひとりだ。そうなるとキッチンの上の棚以外には考えられねえんだけどな」
「えろほん、とは、なんだ?」
いまさら、青藍がぽつりと言った。
和人並びに女子三人は相変わらず機能停止している。
「エロ本っていうのはつまり、えっちな本ってことで……」
と卓郎は頭をひねる。
「そうだなあ。こう、女の裸とかが載ってる本だ」
「ああ、それか」
と青藍はうなずく。
「それならキッチンの上の棚に入れてある」
「やっぱり!」
「なな、な……なんでおまえがそれを知ってるんだ?」
なにか重要なものを失った男の顔で、和人は言った。
青藍は平然と、
「主が入れているのを見た」
「で、でも、あのときおまえは石だったはずだろ」
「む、言っていなかったか? 石の状態でもものは見えるし、音は聞こえるぞ。まあ、正確には感じるといったほうがよいのだろうが」
言葉の後半は、和人はすでに聞いていなかった。
人間、あまりにも衝撃が大きすぎると、どのような表情も浮かばないらしい。
卓郎は完全に止まってしまった和人の前で手を振る。
「おーい、大丈夫かー。……だめだな、こりゃ。まあ、無理もねえか」
「そ、そんなにびっくりしなくてもいいのにね」
八白がぽつりと呟く。
すると卓郎は首を振って、
「たぶんエロ本を隠すのを見られただけじゃないんだろう。石になってたら大丈夫だって安心しきってたんだろうなあ。まあ、あんまり触れてやらないことだ。同情するとむしろ傷が開く」
「かわいそうな和人さん……」
と芽衣子。
「慰めてあげたいけど、いまはそっとしておいたほうがいいみたいですね」
「まあ、自業自得って気もするけど」
菜月はため息をつく。
「結局牧村くんも男ってことね。そういう本をキッチンに隠してるなんて。八白なんか、ショックなんじゃない?」
「あ、あたしは別に……」
八白はもじもじと照れ、芽衣子はむしろ安心したように、
「和人さんが健全な男の子だってわかってよかったですわ。日比谷さんと仲がいいから、もしかしたら、って不安だったんですけど」
「えー、このふたりが?」
いかにも気味が悪いというように菜月は身を引く。
「なんか生々しくていやね、それ」
「でも、そういうことも結構あるって聞きました」
「ないない。あるわけないでしょ。ねえ、八白?」
「え……な、ないの?」
「え?」
三人の女子のあいだに、なんともいえない沈黙が流れる。
そのあいだに卓郎は無表情の和人を部屋に隅に移動させ、楽な姿勢にしてやった。
卓郎にできるせめてものはなむけである。
「さ、さて、ほんとにそろそろ勉強しましょうか」
わざとらしい咳払いをひとつして、菜月が声を張り上げた。
「そ、そうだね、試験明日だもんね!」
「わ、わたしも試験範囲をちゃんと調べないと」
八白と芽衣子もそれに同調する。
その話題を掘り下げてはならない、と全員が察したのだ。
ただ、そういう配慮というものがまったくできない青藍は、
「さっきの話はどういう意味があったのだ」
と言いかけたが、三人は無理やり青藍を座らせ、勉強を教えるふりをして疑問を封じ込めた。
根は単純な青藍である。
ものの数分で前の話題など忘れ、むずかしい数学の問題に頭を悩ませる。
「まあ、青藍さんにやれってほうが酷かもしれないけど」
内心では話題が逸れたことをよろこびながら、菜月が言った。
もともと青藍は、和人から離れられないからクラスの一員となっているが、根本的にほかの人間とは異なる。
正確な年齢すら不明であり、精霊石として見るなら何万才になってしまう。
それに青藍はつい最近まで博物館に展示され、社会とは断絶していたのだ。
それをもって急に高校数学を解けというのが無理な話で、本来なら初等部の基本からやり直させるべきだが、初等部の子どもたちに混ざって授業を受けている青藍は、それはそれでかわいそうに思える。
見た目では、青藍は和人たちよりもすこし年上、子どもよりも教師側に近い。
それが小学一年生や二年生に混じってちいさな机に座り、手を挙げて足し算を答える様子は、なにかの罰にしか見えない。
「まあ、先生もそのへんはわかってるはずだから、テストの成績が悪くても大丈夫かもね。布島さんも、見たところ大丈夫そうだし。問題は――」
菜月は問題児ふたりを見る。
ひとりは壁にもたれて虚脱中であり、もうひとりはノートに卑猥な落書きをしている。
「あんたね、そういうの書いてるからばかなんだって気づいてる? どうせ気づいてないでしょうね、ばかだから」
「い、いや、数学はもうできたからいいんだよ」
と卓郎。
「うそおっしゃい。そうやって言い訳してやらないから、いつまでもできないのよ」
「おまえは母親かっつの」
「ノート、見せてみなさい。なにこれ、落書きばっかりじゃないの。えっと、肝心のものはどこに書いてあるのかしら」
菜月はぱらぱらとノートをめくって、ふと手を止める。
ノートの浅いページである。
そこには、今回のテスト範囲に含まれる方程式やらなんやらが、ほぼ完璧な形でまとめられていた。
「な、なにこれ。できてるじゃないの」
「だから数学はできてるんだって」
卓郎はどことなく恥ずかしそうな顔でノートを取り返す。
「得意なんだよ、数学は。ほかの教科はぜんぜんだめだけどな。あ、保健体育は完璧だぜ?」
「そんなこと聞いてないっ。じゃあ、ほんとにできないのは青藍さんと牧村くんのふたりだけってこと?」
卓郎に負けている、というのは和人にとっても大きなショックかもしれない。
いまは気絶状態でよかった、と思う菜月だが、いつまでも寝かせているわけにもいかない。
菜月は和人の前に腰を下ろし、その頬をぺしぺしと叩いた。
「牧村くん。起きなさいよ。寝てる場合じゃないわよ。牧村くん!」
「――はっ」
無表情で茫然自失だった和人が、やっと表情を取り戻す。
しかし記憶が混濁しているらしく、あたりを見回して、不思議そうな顔をする。
「あれ、みんなもう勉強してるのか。さっきまでお茶を……あれ? なんか、そのあと地球滅亡ってくらいの恐ろしいことが起こったような」
「思い出さないほうがいいんじゃない? 人間、忘れてたほうがいいことも多いわよ」
「そ、そうかなあ。おかしいなあ。なんかあったような気がするんだけどなあ……」
ぶつぶつ言いながら、和人もテーブルにつく。
最初の教科は数学である。
まさか和人も卓郎のようにできるのでは、と菜月は和人のノートを覗いたが、そこには支離滅裂でとても理解できているとは思えない文字や数式と、ページの端に頭の禿げた男の落書きがあるだけだった。
「ほんとは自分の勉強もしたいところだけど」
と菜月。
「落ちこぼれが三人いて、それなりにできるのが三人いるわけだから、ひとりずつついて教えたほうがいいわね」
「おれ、世界史やら古文やらが苦手だ」
卓郎が手を挙げる。
それらの教科は、菜月が得意としている。
よって卓郎には菜月が教えることになり、嫌々ながら、卓郎の横に移動した。
「なあ織笠、見ろ。この落書きうまいだろ? この乳の垂れ具合がだな――」
「うっさい、だまれ。余計なこと一言しゃべるごとにお昼一回おごってもらうからね。あと言葉の最初と最後に女王さまとつけなさい」
「女王さま。暴君じゃねえか。女王さま」
「明日のお昼おごりね」
「ひでえ。……女王さま」
「牧村くんはどの教科が苦手なの?」
「あー、おれはそうだなあ」
和人は指折り数える。
「数学だろ。世界史だろ。古文も現国もわかんねえ。理系もだめだ。保体も基本寝てるから覚えてねえ」
「あー、はいはい、ばかばか。じゃ、できるところだけでいいから、どっちか教えてあげて」
菜月がそう言った瞬間である。
八白と芽衣子の視線が、鋭く交差した。
それはほんの一瞬の出来事だったが、激しく火花散る攻防だった。
結局、人見知りが災いして、八白が先に視線を逸らす。
敗北の証明である。
芽衣子はにやりと笑い、和人のとなりを確保した。
「和人さんにはわたしが教えますわ。こう見えても勉強はできるほうなんですよ。お館さまにもよく褒められますし」
「お館さま?」
「ああいえ、こっちの話です。じゃ、数学からいきましょうか、和人さん」
「すまん、世話になる」
「じゃあ青藍さんの担当は八白ね」
「む、よろしく頼む」
青藍が深々と頭を下げると、八白も慌ててそれに倣い、
「こ、こちらこそ、ふつつかものですが」
と三つ指ついて挨拶をする。
しかし挨拶を終えて上げた顔には、先ほどの芽衣子との争いに敗れた悔しさが滲んでいた。
芽衣子もそれを理解し、わざと見つけるように、和人の横にぴたりと寄り添う。
端から見ても、近すぎる距離である。
ふたりの肩は完全に触れ合い、それどころか、芽衣子は和人の後ろから抱きすくめるようにすこしずつ座り位置をずらしている。
ノートに目をやる和人には気づかれず、座った姿勢のまま位置をずらす技術は、さすがとしか言いようがない。
さほど時間はかからず、ふたりの影は完全に重なり、芽衣子が真後ろから覆い被さるような体勢になるはずだった。
そうはさせじと、八白も動く。
「あ、あのね青藍さん、ここはね、こうやると簡単だよ」
和人の右隣に座っているのが芽衣子で、左隣は青藍である――戦いに敗れた者に、となりに陣取る資格はない。
しかし八白はわざと青藍の肩にぴたりと寄り添い、青藍ごと和人に接近することで、芽衣子の侵略計画阻止を目論む。
芽衣子もその意図には鋭く気づく。
うーんうーんと唸る教え子ふたりの背後で、八白と芽衣子はお互いに相手をたたえ合うように視線を交わした。
一方で卓郎と菜月はといえば、
「ここがわかんねえ。ここもわかんねえ。こっちもわかんねえし、そもそも勉強をする意味がわかんねえ。……女王さま」
「聞く前に教科書を読みなさい。卑猥な落書きしようとすんなっ。勉強する意味は大人になってからじっくり考えるといいわ。言葉の最初にも女王さまをつけなさいって言ったでしょ」
――こちらもこちらで、仲良くやっている。
こうして各自の思惑が交錯し、当初の目的からどんどん逸脱しながらも、六人の勉強会は進んでいく。