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青の奇跡  作者: 藤崎悠貴
第二話
22/61

第二話 10

  10


 江戸前有希子は不破学園の教師である。

 数ヶ月前までは別の学校で教師をやっていたが、五月のある日、この学園へやってきた。

 教師が一学期の途中で転校してくるというのは尋常ではない。

 そのため、有希子には担当するクラスというものがない。

 教えているのは高校英語で、教師がすくない不破学園の性質上、中等部の英語も教えるが、初等部には英語の授業がないから、出番がない。

 よって有希子は授業の入っていない時間、学園内をふらふらと彷徨っている。

 だれがどう見ても暇つぶしの散歩にしか見えないが、本人はダイエット目的のウォーキングと言い張っている。

 どちらにしても学校で教師がすることではない。

 授業がないならないなりに、職員室で次の授業の準備をするとか、ほかの教師を手伝うとか、すべきことはあるはずだが、狭苦しい職員室を嫌って、広々とした学園内を自由気ままに歩きまわっている。

 よく目撃されるのは球技場周辺である。

 客席のベンチで昼寝をしていたとか、だれも使っていないグランドでひとりサッカーボールを投げて遊んでいたとか、目撃情報が絶えない。

 本人としては、それもダイエットのつもりらしい。

 近ごろ有希子はダイエットに燃えている。

 もともと小柄で、太っているとは言い難い体型だが、いまのままではいけないという感覚が、とりあえずダイエットからしてみよう、という発想に繋がっているらしい。

 ダイエットと現状打破に直接の因果関係はないものの、そうして自分を端正にしていけば、いつかは状況が変化するかもしれないと希望を抱いているのだ。

 だから有希子は今日もだれもいない球技場でボールを追いかけている。


「よっ、ほっ」


 ボールを蹴り、追いかけ、追いついては足下で何度か触り、また蹴り出し、追いかける。

 それを何度か繰り返すだけでもなかなかの運動になる。

 しかし有希子は息が上がってもそれをやめようとはしない。

 ボールを追いかける姿は不格好だが、表情はやけに真剣で、切実ですらある。


「えいっ」


 また蹴り出したボールは、あらぬほうへ飛んでいく。

 それを追いかけていくと、ボールはだれかの足下に収まっていた。

 有希子が顔を上げると、よく知った男子生徒が呆れたような顔で立っていた。

 牧村和人である。


「なにやってるんですか、先生」

「牧村くん……見てわかるでしょ。サッカーよ、サッカー」

「いや、猫かなんかがボールにじゃれついてるようにしか見えませんでしたけど」

「そ、そんなことないよう。ほら、ボール貸して」


 有希子はリフティングを披露する――が、一回足に当たっただけでボールは身体から離れたところへ飛んでいった。

 すると和人が器用にそれを足で拾い、ボールを浮かせてとんとんと足先で蹴りはじめる。


「わっ、すごいすごい! プロみたいだよ。サッカーやってたの?」

「いや、まったく。中学のときも帰宅部だったし……でもなんでか知らないけど、昔からスポーツはそれなりにできるんです。先生とちがって」

「むっ……せ、先生だって本気出したらすごいんだからね。生徒にできて先生にできないことはない!」

「じゃ、やってみてください。はい」

「あ、わっわっ」


 ぽんとやわらかいボールがやってきて、足で受けようとするが、慌てすぎて足が絡まり、その場で転ぶ。

 ボールはてんてんと芝生を転がっていった。


「う、う、うわあん!」

「あ、す、すみません、調子乗りました! だ、大丈夫ですかっ。どっか怪我とか」


 和人が慌てて駆け寄ってくると、有希子はぴたりと泣きやみ、


「へっへ、うそ泣きでしたー!」

「くっ……先生じゃなかったら殴りてえ」

「あんなことで先生が泣くわけないでしょ。先生をばかにした罰ですっ」

「別にばかにはしてませんけど……立てます?」

「だいじょーぶ、だい――」


 それまで走り込んでいたせいか、立ち上がった瞬間に足がふらりとよろめいた。

 あ、と思ったときには、有希子は和人に抱えられている。

 和人はやはり呆れたような顔である。


「……いまのもうそ泣きならぬうそ転びですか?」

「そ、そうだよっ。も、もう、先生がほんとに転ぶわけないでしょー」

「いまのは迫真の演技でしたね。……先生、なんか顔赤いですよ。熱中症ですか」

「ち、ちがうよ、平気!」


 有希子は和人から離れ、ボールを拾った。

 今度はできもしないドリブルはやめ、手で持って、戻ってくる。


「そういえば、こんなところでどうしたの、牧村くん。サッカーしにきたの?」

「いや、ちょっと先生を捜してたんです。うちの担任に聞いたら、たぶんこのへんで遊んでるだろうって」

「あ、遊んでないもん。まじめにやってるよ? まったく、賀上くんはすぐふざけるんだから」

「そういや、賀上先生とは同級生なんですよね」

「ここの学校のね。むかっしっから賀上くんはあんな感じだったよ。ま、わたしは不破学園のマドンナとして名を馳せてたんだけどね」

「へー、そうですか」

「なに、その返事。信じてないの? いまのこの美しいわたしを見ても信じられないっていうの?」


 有希子はじりじりとにじり寄る。

 和人はうっとうめいて、詰められた分だけ後ずさる。

 有希子はぐいと顔を寄せ、


「で、わざわざ探してまで、わたしになにか用事だったの?」

「あ、いや……ちょっと、先生に話があって」


 そう言う和人の表情は真剣だった。

 今度は有希子のほうがどきりとして、心持ち後ずさる。

 生徒が若い女教師にふたりきりでする話といえば――もうだいたいのことは決まっているものだ、と有希子は早合点する。

 ふたりきりであることは単なる偶然であるとは考えない。

 ここは余裕のある大人の対応をしなければ、とだけ考える。


「そ、そう、は、話ね……い、いいったいなななにかしら?」

「こんなこと、先生に言うのはどうかと思うんですけど、賀上先生は言ってみたほうがいいっていうし」

「か、賀上くんが……」

「あの、先生」


 和人が顔を上げる。

 有希子は火がついたように顔を赤くする。


「おれ――」

「ちょ、ちょっと待って! その、き、気持ちはうれしいんだけど、その、せ、先生と生徒だし、でででも牧村くんのことがきらいとかそういうことじゃなくて、ああああの」

「は? おれのことがきらい? なんの話してるんですか」

「え、だ、だからね? せ、先生としては、そうやって思ってもらえるのはうれしいのよ。でもね、ほ、ほら、世間体とか? いろいろ、気にしなきゃいけないことってあるし……」

「世間体……? あの先生、なんか、勘違いしてません?」

「か、勘違いなんかしてないわよ。せ、先生はおお大人なんだからねっ。こここ告白されたくらいでどどどどきどきしたりなんかしないんだから!」

「……告白?」

「だ、だから、牧村くんはわたしのことが好きなんでしょ! い、言わせないでよねっ」


 もう、と有希子は照れるやら立腹やら、忙しい。

 一方で和人は恐ろしいほど冷静な表情で、


「いや、おれ別に好きじゃないですよ、先生のこと」

「へ……?」

「あ、いや、好きじゃないっていうとまた誤解されるけど、そういうことじゃなくて……」

「す、好きじゃ……ないの……?」


 和人は、はっと気づいた。

 しかしもう遅い。


「せ、先生のこと、好きじゃないの……?」


 ううう、と言葉にならない声が有希子の喉から洩れる。

 大きな目には見る見る涙が溜まり、最初の一滴がその縁からこぼれ落ちようとしている。


「い、いや、好きです! せ、先生のことは好きですよ!」

「だって、いま、好きじゃないって……すっごくまじめな顔で、ぜんぜん好きじゃないですって……」

「ぜ、ぜんぜんとは言ってないですっ。好きじゃないっていうのもそういう意味じゃなくて、つまり好きじゃないってことで」

「やっぱり好きじゃないんだ……うわああんっ」


 今度はうそ泣きではなかった。

 両目から涙がぽろぽろ落ちる。

 両手をだらりと下げ、あたりもはばからず声を上げる様子は子どものようだが、そうも言ってられないのは正面に立つ和人だった。

 和人はどうしていいのかわからないらしく、おろおろとあたりを見回す。

 しかし無人の球技場、助けがいるはずもない。


「ううう、うっうっ――うう」

「せ、先生、泣きやんでくださいっ。やばいっす、だれかに見られたらそれこそ誤解されます! ああもうだから苦手なんだこのひと!」

「またきらいって言ったあ! うわああん」

「嫌いとは言ってないですって! 先生のことは好きですっ」

「ほ、ほんとに?」

「ほんとに!」

「うそじゃない?」

「うそじゃないですっ」

「先生のこと、大好き?」

「いや、大好きでは……」

「ううっ」

「う、うそです、大好きです!」

「どれくらい好き?」

「もう果てしなく大好きです。地球一、いや、宇宙一好きです! 毎日先生のこと考えてるくらい愛してます!」

「えへへっ」


 いままで泣いていたとは思えない清々しい笑顔だった。

 しかし目の端に残った涙が、それを切ないものに見せている。


「だめだよ、牧村くん。そういう気持ちはうれしいけど、わたしたち先生と生徒なんだからね。めっ」


 有希子は背伸びをして、つんと和人の額を突く。

 その顔のなんと清々しいことか。

 対称的に和人はぐったりとして、反論する気力も失われているようだった。

 それでも最後の力を振り絞り、和人はポケットからハンカチを取り出す。


「先生、涙拭いてください。だれかに見られる前に急いで」

「えー、こんなところ、だれもこないよ」


 と言いつつ、有希子は涙を拭う。

 和人はそのまま芝生の上に腰を下ろした。

 座った、というよりは、崩れ落ちたような様子である。

 有希子もそれに倣って、芝生に腰を下ろす。


「このハンカチ、洗って返すね?」

「え、ああ、別にいいですよ、そんな」

「いーのいーの。先生がそうするって言ってるんだから。……あれ? なんの話してたんだっけ?」

「先生が誤解を……いや、先生に相談したいことがあったんです。相談する前にかなり疲れましたけど」

「なになに、相談したいことって」

「精霊石のことなんですけど――先生って精霊石を使うのがうまいんですよね。最初は賀上先生に教わろうと思ったんですけど、それなら有希子先生のほうが得意だからって」

「まーね、精霊石を使うのにはちょっと自信あるわ」


 と有希子は胸を張る。


「牧村くんはなにを聞きたいのかしら? もしかして、試験のこと?」

「いや、試験もまあ、不安ではありますけど、それより前に強くなりたくて」

「強く?」


 きょとんとして有希子は首をかしげる。


「えっと、つまり、戦ったりしたいってこと?」

「うーん、そういうことになるのかなあ……おれとしては、戦うよりも先に、ちゃんと精霊石が使えるようになりたいんですよ。ほら、精霊石を活性化させていられる時間って、そういう強さで変わるんでしょ? 青藍が寝てばっかりいるのは、おれがちゃんと青藍に力を与えてやれないせいなんじゃないかと思って」

「なるほどー、たしかにそうかも。青藍ちゃんはちょっと変わってるから、絶対とはいえないけど、起きてるときが活性化しているとしたら、寝ているときは非活性になるもんね」

「だから、せめて昼間くらいはあいつが起きていられるようにしてやりたいんですよ。なんとかなりませんか」

「たしかにちゃんと精霊石が使えるようになれば、それを活性化させていられる時間は長くなるけど……」


 有希子は口元に手を当て、にやりと笑う。


「男の子なのねえ、牧村くんも。青藍ちゃんのためにがんばりたいんだ?」

「い、いや、青藍のためってわけじゃないですけど。っていうかあいつは精霊石なんだし」

「んーもう、照れなくてもいいのになあ」

「て、照れてないっす」

「でも女の子のためにがんばる男の子って格好いいよ」


 有希子は肘を抱え、体育座りをする。

 その体勢のまま小首をかしげて和人を見る様子は、なんともいえず魅力的である。


「よし! じゃあがんばる牧村くんのために、先生も一枚脱いじゃおっかな!」

「え、一枚脱ぐんですか」

「もー、脱ぐっていっても服のことじゃないよ? 牧村くんったらえっちなんだからっ」

「それは、一肌脱ぐのでは?」

「……じょ、じょーだんよ、じょーだん。牧村くんの思春期を刺激してみたのよ!」

「刺激してどうするんですか」


 有希子はごほんと咳払いして立ち上がる。


「とにかく! 精霊石をうまく使えるようになるには、いっぱい精霊石を使うのが近道よ。身体を鍛えるのとおんなじね。あれ、そういえば、いま青藍ちゃんは?」

「ここに」


 と和人はポケットから精霊石を取り出した。

 人間の姿をとっていない青藍は、ほんのちいさな石の欠片である。

 石はくすんだ青色をして、貴石としてはさほど美しい部類ではない。

 しかしそれは数多ある精霊石とは一線を画す特別な石だった。


「あ、青藍ちゃんって青色なんだ」


 有希子もスカートのポケットを探り、親指ほどの精霊石を取り出した。


「先生のはね、薄い黄色なの。きれいでしょ?」

「やっぱり色もみんなちがうものなんですね」

「全部が全部ちがうってわけじゃないけどね。同じような青色もあれば、まったくちがう色や形もあったり。じゃ、まず精霊石を活性化させてみて。武器にまではしなくていいから

「あー、いや」


 と和人はばつが悪そうに頭を掻く。


「実はそのへんもうまくできないんですよね。なんつーか、感覚がわかんないっていうか。ど、どうやって精霊石を活性化させるんですか?」

「あ、そっか。牧村くんはまだ精霊石を使いはじめたばっかりだもんね。えーっとね、精霊石を活性化させるときはね」


 有希子は精霊石を手のひらに乗せ、それを凝視する。


「こう……うーん! ってやるの」

「いや、その、うーん! がわかんないっす」

「えー。だから、むーっ、って感じで」

「むーってなんすか」

「精霊石に意識を集中するでしょ。それでね、むむむ、って。……あ、いま! いま、先生のくせして教えんの下手だな、とか思ったでしょ! 先生そういうのちゃんとわかるんだからねっ」

「いや、実際擬音で説明されてもなんにもわかんないですよ。具体的にどうやるんですか」

「だーかーら!」


 有希子は和人の手をとり、精霊石を握らせる。

 その上から自分の手を重ね、ぐっと力を入れて握った。


「こう、うーん! ってやるの」

「だから擬音はわかんないですって」

「とにかくやるの! ほら、うーんって」

「う、うーん……」


 まさに見よう見まねである。

 精霊石を痛いほど握りしめてみるが、その程度で精霊石がどうにかなるはずもなく、また力が沸き上がるような感覚もない。

 以前には和人も精霊石を活性化させることができたのだが、そのときはただ夢中でやっていたから、自分でもどうやったのかまったく記憶になかった。

 それを言葉で説明しようとすると、どうしても有希子と同じく「うーん」とか「むー」になってしまう。

 さすがに有希子と同じレベルと見られるのは恥ずかしいので、口にはしないが。


「先生、この方法でよく活性化させられますね」

「そりゃだって、先生はすごいんだもん。こんなの簡単よ。こうやって力を込めるでしょ。そしたらね」


 有希子は精霊石を手に乗せて活性化し、垂直に飛んだ。

 優に四、五メートルは飛び上がっている。

 着地もふわりと成功し、有希子は得意げに胸を張る。


「どう? 先生のすごさ、見た?」


 和人はさぞ尊敬の眼差しだろうと思っていた有希子は、なぜか気まずそうに目を伏せている和人を見て、あれ、と首をかしげる。


「どうしたの、見てなかった?」

「い、いや、見ました。あ、その、見ようと思ったわけじゃなくて、見えちゃったっていうか」

「だめよー、ちゃんと見なきゃ。いい、もう一回やるからね。今度はばっちり見るのよ?」

「あ、先生――」


 和人が言い終わる前に、有希子は飛んでいる。

 助走もなく、さほど力を入れているわけでもない垂直跳びだが、軽々と和人の頭上を越え、今度は六メートルほどまで上がった。

 空中で速度が落ち、一瞬静止して、重力に従って落ちてくる。

 常人であればその着地さえ無事には済むまいが、精霊使いにとっては軽い跳躍に過ぎず、怪我を心配するまでもない。

 有希子も無事に着地する。

 今度も得意げである。

 空中から確認し、和人がしっかり見上げていたのもわかっている。

 どうだ、すごいだろう、と有希子は腰に手を当て、仁王立ちした。

 そこに和人がおずおずと、


「すごいのはわかりましたけど……スカートで垂直跳びは、すべきじゃないと思います」

「え……?」


 有希子は自分の身体を見下ろした。

 普段はスーツに合わせてタイトなスカートを履いている。

 それならよほどのことがないかぎりめくれ上がることもないが、なぜか今日に限って、ふわりと裾の広がった白いロングスカートを履いていた。

 生地も、風を含めば傘のように広がるであろう軽くやわらかいものである。


「み、見たの……?」

「いや、その」

「見たんでしょ……」

「み、見てないですっ」

「うそだー、絶対白いパンツ見たもん!」

「え、黒いパンツじゃ」

「ほらー!」

「し、しまったあ! あんな簡単な誘導尋問に引っかかるとは……で、でも、ほんとにちらっとしか見てないです!」

「ほんとに? 絶対見てない?」

「ほ、ほんとに。もう一瞬、残像か影かってくらいしか見えませんでした。い、いくらスカートだからってそんなに都合よくめくれたりはしませんよ」

「そ、そうだよねっ。ひらひらのレースがついてるとか、そこまで見えてないよねっ」

「見えてないですとも! 前のところがレースの蝶になってるのなんか、ぜんっぜん見えて――」

「うわああん!」

「し、しまったあ!」


 なんとかなだめすかして泣きやんだころには、和人は心身ともに疲弊しきっている。

 なんでそんなパンツを穿いてたんだろうと、和人が疑問に思ったのは、数時間後のことだった。

 とにかくいまは有希子を泣きやませるのに必死で、泣きやんだあとは、二度と墓穴を掘らないように言動には気をつけるので精いっぱいだった。


「力を入れるんじゃなくて、うーんって考えるの。心のなかで力を貸してって話しかけたら、きっと精霊石は応えてくれるから」


 と口では教師らしいことを言うが、目にはまだうっすら涙が溜まっている。

 その原因を作った和人は気まずさと申し訳なさで俯きながら、言われたとおり精霊石に意識を集中するため、目を閉じた。

 はじめはただ精霊石を手に乗せて目を閉じているだけである。

 それが、ある瞬間を境に、あたりの空気が変わる。

 触れるとぴりりと痺れるような、剣呑な空気が鋭く蠢く。

 和人はその中心にいた。


「そう、そうやって精霊石に話しかけるの」


 すこし離れた位置で、有希子は指示を出す。


「でも精霊石に頼りすぎちゃだめよ。自分をしっかり持って、自分の意思で、精霊石に助けてもらうの。最初はむずかしいけど、牧村くんなら絶対にできるから」


 和人は答えない。

 それほど集中している。

 触れるものをすべて切り裂くような鋭い気配は、精霊石を押さえ込めていない証拠である。

 ただ一方的に精霊石の力が溢れ出し、そのような殺気めいたものを放っているのだ。

 慣れた人間がやれば、そのようなことにはならない。

 しかし、それにしても――。


「んっ――」


 充分距離をとっている有希子でさえ、おのれの両腕を抱いて、寒さに耐えるように震える。

 漏れ出している力が、尋常ではないのだ。

 刃のように鋭い気配は、広い球技場をほとんど覆い尽くしている。

 その気配に当てられると、首筋に刃物を添えられているような錯覚を起こす。

 精霊石にある種の免疫がない一般人ならすぐさま卒倒するほどの圧力だった。

 有希子は自分の身体を抱きしめ、そうして自分自身を確かめることで、和人と精霊石が作り出す幻覚に打ち勝っている。

 しかしそれも、かろうじて、というところだった。

 足は震え、冷たい汗が額や背中に浮き出してくる。

 怖い。

 恐ろしいのだ。

 いままでの和人が消えていく。

 現れるのは悪魔のように恐ろしい姿である。

 あらゆるものを破壊し尽くし、しかもその行為になんの意味も見いださぬような、ただただ邪悪なものである。


「牧村くん――飲み込まれちゃだめ!」


 有希子は鋭く叫んだ。

 その声は殺気渦巻くなかを貫き、和人の耳に届いた。

 いままで殺意と敵意しかこもっていなかった気配が、ふっと和らぐ。

 氷漬けの冬がうそのように、暖かい春の風が吹く。

 すべてを包み込むような、やわらかい気配だった。

 それまでの剣呑さがすべて昇華し、和人自身が持っているやさしい気配だけが残る。

 和人は桁外れに巨大な精霊石の力を抑えきり、必要な分だけ自分に与え、また必要な分だけ精霊石に還元させる最初の手段を学んだのだ。

 有希子はほっと息をつく。


「あ――」


 とたんに、足から力が抜けて、その場にぺたんと座り込んだ。

 和人がそれに気づいて駆け寄ってくる。


「どうしたんですか、先生。どっか怪我でも」

「ううん、ちょっと安心したら腰が抜けちゃって……ちゃ、ちゃんとできてよかったね。ううっ」

「え、また泣くんですか? こ、今度はなんで? きらいとも言ってないしパンツも見てないのに!」

「だ、だって安心したんだもん……ふええん」

「ああもう、鼻が、鼻が出てますよ。はい、ティッシュ」

「うう……」

「もういい大人なんだから、そのすぐ泣く癖直してください。いまおれがやったのだって、精霊使いとしては初歩の初歩でしょ。それが成功したからって泣くことないのに」

「だ、だってえ。ほんとにすごかったんだから」


 言ってから有希子はふと、和人はその自覚がないのだと気づいた。

 この学園に在籍している生徒のほぼ全員が精霊石を使うことには慣れている。

 先ほどの和人のように、不格好に精霊石の力を暴走させたりはしない。

 だから和人は他人の精霊石が暴走したところを見たことがない。

 みんな暴走すればこんなものなんだろうと思っているのだ。

 とんでもないことである。

 精霊石も千差万別だが、あれほど強く邪悪な力を放つ精霊石はない。

 同じ精霊使いさえ殺気だけで斃せるなど、有希子も聞いたことがない。

 そしてそれほど力のある精霊石を、苦労しながらでも押さえ込む和人も相当なものだ。

 この学園で精霊石を使う術さえ学べば、和人はだれよりも強くなれるにちがいない。


「すぐ泣く癖さえなきゃいい先生なのになあ」


 和人はぶつぶつ言いながら、有希子に手を差し伸べる。

 ――力そのものに、善悪はない。

 使う人間によって破壊もすれば再生もする。

 強大な力は、そのまま強大な可能性を、善にも悪にもなり得る可能性を含んでいるということになる。

 しかし和人の手に掴まる有希子に、ためらいはなかった。

 なかったのだが、腰が抜けているから、すぐふらりと身体が傾く。


「おっと」

 と和人がそれを抱きとめる。


 身長差から、和人の腕のなかに、有希子がぴったり収まる。


「あ、ありがと――」


 有希子がすこし照れながら言ったときだった。


「あっ!」


 と鋭い声が飛んだ。

 和人でも有希子でもない、三つ目の声である。

 ふたりは驚き、抱き合った格好のまま、声のしたほうを見た。

 男子生徒が立っている。

 片手に鞄を持っていたらしいが、それは地面に落ちている。

 大きく口を開け、わかりやすい驚愕の表情で、ふたりのことを見ていた。


「ひ、日比谷!」


 と和人が叫ぶと同時に、その男子生徒も叫んでいる。


「ままま牧村とゆゆゆ有希子先生が抱き合ってる!」


「え、あ、いや、これは……」

「しかも先生が泣いてる!」

「ち、ちがうの、そういうわけじゃ――」

「た、大変なことになった……やべえ、クラスの連中に教えてやらねえと」

「やめろって! これはその、先生がふらついたからちょっと支えただけで」

「じゃ、ふたりきりでなにしてたんだよ。こんな人気のないとこで」

「それはその、精霊石の使い方を教わったり」

「じゃあなんで先生が泣いてるんだ」

「そ、それは……」


 日比谷卓郎はじっとふたりを見つめる。

 うっ、とふたりはうめいた。

 早く離れればよいのに、動転してそれさえ忘れているのが余計に誤解を生んでいる。


「不公平だ……」


 ぽつりと卓郎が呟く。


「え?」

「世の中不公平だあ! なんで牧村ばっかりそうなるんだ。永遠の妹キャラ直坂さんとか、美しすぎる青藍さんとか、うれし恥ずかしお姉さんキャラ有希子先生とか! う、うわああん!」


 卓郎はばっと踵を返し、走り去っていく。

 和人と有希子は呆然と見送り、ふとわれに返って、お互い恥ずかしげに距離をとった。


「あ、あれ、放っておいていいのかなあ」

「言い触らすようなやつじゃないですけど、まさか号泣して走り去るほどショックだったとは……」

「よっぽど友だちを取られるのがいやなのねえ……」

「いや、それを言うならよっぽど先生が好きだったんじゃ」

「え、そ、そうなの?」

「っていうかあいつは美人なら大抵好きですけど。すぐ近くにいちばんお似合いなやつがいるのにな。まったく、わかってねえんだから」


 と自分はわかっているふうなことを言って、和人は精霊石に目をやった。

 それで有希子も、ここでなにをしていたのか思い出す。


「そ、そうだった。精霊石の使い方を教えてたんだっけ。ええっと、まだ活性化できてるよね? じゃあ、できるだけ長くそれを維持できるようにするの。最初はあんまり長くはできないかもしれないけど、次の日は昨日よりちょっと長く、その次の日はまたそれよりも長く、って意識しながらやると、いつの間にか長時間できるようになるから」

「はあ……なんか忍者の修行みたいっすね」


 と和人はうなずく。


「あ、そういえば、青藍が人間になってるときは、どうやって活性化させればいいんですか」

「え、えーと、どうすればいいのかなあ……石のときと同じように、青藍ちゃんに触れて意識を集中してみるとか」

「なるほど。じゃ、それで試してみます」

「いまやってみる?」

「え、あ、い、いや、いまはちょっと」


 和人は突然動揺を見せる。


「あ、あとでやってみます。そ、そういえば先生は、なんでこっちの学園に戻ってきたんですか。転校してもいるから、びっくりしましたよ」


 露骨で唐突な話題転換だったが、有希子はそれ以上追求せず、むしろいつかは話しておかなければと思っていた話題だっただけに、すこしまじめな顔になる。


「理由はね、いくつかあるの。ほらわたしってここの卒業生でしょ。ここはいつも人手が足りなくて、戻ってこないかってずっと言われてたの。それに応えて戻ってきた、っていうのが、ひとつね。もうひとつは、転校したのにわたしがいたら牧村くんがびっくりするだろうなーって」

「そんな理由かいっ」

「でもやっぱり、逃げちゃだめなんだなって気づかされたのがいちばんおっきな理由かな」


 有希子は芝生に腰を下ろし、サッカーボールを転がしながら続ける。


「二ヶ月前のこと、牧村くんも覚えてるよね」

「あの、博物館の……」

「そう。もしね、あのときわたしが精霊石を持っていれば、だれも傷つかずに済んだかもしれないって思うの。鈴村くんは死なずに済んだし、牧村くんもつらい思いなんかしなくて済んだかもって。でもあのときのわたしはただの先生だったから……精霊使いとして生まれたのに、精霊使いはいやだって普通の学校の先生になったから、なんにもできなかった。ほら、精霊使いってあんまりいい目では見られないでしょ? そういうのがいやで、普通の先生になりたかったの。でもそれってわたしがそう考えてるだけで、生徒のみんなには関係ないことなんだよね。わたしが精霊石から逃げたから、あのときだれも助けられなかったから――もう遅いかもしれないけど、逃げるのはやめにしたの。わたしは精霊使いだし、精霊使いにしかできないことってあると思うから……今度こそ生徒たちを守りたいって思ったから、この学園に戻ってきたのかな。……なーんて、まじめな先生も結構素敵でしょ?」


 最後に茶化してみても、話している途中に気持ちが高ぶって流れ落ちた涙は隠しようがない。

 有希子は、このときばかりはすぐに溢れてしまう涙が恨めしかった。

 服の袖で涙を拭い、笑顔を作って和人を見る。

 和人は苦しみを押し殺すような表情をしている。

 怒るのでも同情するでもなく、そうやって自分の痛みとして理解してくれるからこそ、有希子はあまり強く心情を吐露するのをためらったのだ。


「ごめん……先生、すぐ泣いちゃうから。気にしないでね。またすぐ笑えるようになるし」

「泣くのだって悪くないと思います」


 と和人は言った。


「そりゃ、いつも泣いてるのは困るけど……泣きたいときは泣いて、そのあいだくらいはまわりのひとが守ってくれますから、落ち着いたらまた笑えばいいんですよ。って、生徒のおれが言うのもなんですけど」

「ううん……ありがと。ハンカチ、洗って返すからね」

「じゃ、待ってます」

「牧村くんはいいの?」

「はい?」

「泣かなくても、大丈夫?」


 和人は一瞬胸を突かれたような表情をして、それからにこりと笑った。

 ぎこちない、作り笑顔である。


「おれはもう充分泣きました。だから大丈夫です」


 有希子は、それは相手を信用していないからそう答えているのではないだろうと思う。

 むしろそういう相手なら、無警戒にすべて吐露するにちがいない。

 行きずりではないから、強がろうとするのだ。

 だったら、有希子ができることはひとつしかない。

 和人が強がることさえできなくなったとき、教師として守ってやればいい。

 そのために学園へ戻ってきたのだとすら、いまは思える。


「牧村くん、がんばってね」

「はい。がんばります」


 そのがんばりが潰えてしまうまでは、有希子はそっと後ろで支えることしかできない。

 先生なんだからがんばらなくちゃ、と気合いを入れ、有希子は立ち上がった。

 おそらく明日からは、ボールを追いかける有希子の姿は目撃されないだろう。

 その必要はもうなくなったのだから。


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