第二話 9
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特例として、和人はサッカーの欠席と、水泳への参加を認められた。
しかしさすがに女子だらけのプールにいっしょに入るわけにもいかず、
「あちぃ……」
プールサイドでひとり、体育座りをして授業が終わるのをひたすら待っていた。
すぐ目の前は冷たい水の張られたプールである。
先ほどまで暑い教室でいっしょに授業を受けていた女子たちが、スクール水着に着替えて最高の涼を楽しんでいる。
水泳の授業といいながら、生徒のほとんどがすでに泳げるので、水遊びというほうが正しい様子だった。
「冷たーい」
「水かけちゃえっ」
「きゃっ――やったなあ!」
――いたたまれない。
和人の感想は、それに尽きる。
聞こえてくる黄色い声も、あらわになった腕や白い太ももも、意識するなというほうが無理な話である。
いまも目の前では、水に濡れた髪が首筋にぺたりと張りついて妙に色気のある女子や、あるいはプールサイドに上がって談笑する女子がいかにも無防備な姿で存在している。
うれしくない、といえば、うそになる。
和人も若い男である。
素直に言えば、うれしい。
とてもうれしい。
しかしたったひとりここで座っているのは気まずい。
じっとプールを見ていると、どこからともなく、
「牧村くんが見てるー」
とか、
「あ、赤くなった」
とか、くすくす笑う声などが聞こえてくる。
かといってプールから目を離しても、逆に意識しているように思われる。
まさに四面楚歌だった。
頼みの綱は、比較的仲のいい女子生徒たち、すなわち八白、菜月、青藍の三人だが、これはどれもあてにならない。
八白は照れて和人からいちばん離れたプールの隅にいる。
菜月は、和人がプールを見てにやりとしようものならビート板を投げつけてくる。
これが尋常ではない命中率を誇っている。
精霊石の力でも使っているのかと思うほどだった。
さらに青藍はといえば、和人に近いプールの隅で気持ちよさそうにぷかぷか浮かんでいる。
生徒たちが立てる波がちょうどいいゆりかごになるらしく、器用にも仰向けで浮かんだまま目を閉じて寝ているらしい。
しかもその姿というのが、当たり前だが、露出の大きい水着なのだ。
もともと高校生というには身長もあるし体格も成熟している青藍である。
紺色の味気ないスクール水着でも魅力は充分すぎる。
むっちりした太ももとか、きゅっと引き締まった腰とか、明らかに窮屈そうな胸元とか――。
「まきむらあ……にやにやしてんじゃねえぞこのやろう……」
「わっ。な、なんだ、日比谷か」
プールサイドのフェンスに、いかにも恨めしそうな表情をした卓郎がしがみついている。
体操着姿の卓郎からは、校庭より二メートルほど高い位置にあるプールは見えないらしい。
「こっちはこの炎天下でサッカーしてんだぞ……てめえばっかりいい思いしやがってえ」
「しょ、しょうがないだろっ。青藍の付き添いだよ、付き添い。まあ、その本人は寝てるけど」
「おれにもその極楽をよこせー。輝かしい夏の思い出をよこせー」
がしゃがしゃとフェンスを揺らす卓郎である。
「あ、おい日比谷、試合中に勝手に抜けてんじゃねえ!」
「プール……水着……お、おれの楽園……」
体育教師に首根っこを掴まれて連れていかれる卓郎を、和人は合掌して見送った。
同じ体育でも、こちらは天国、向こうは地獄である。
「すまん、日比谷。おれ、おまえの分まで楽しむよ」
「なにを楽しまれるんです?」
「うおっ」
二度目の驚きは、布島芽衣子だった。
いつの間にかすぐとなりに腰を下ろしている。
まったく気配も感じられなかったが、あなどり難しと思うより先に、水着姿の芽衣子に見とれてしまう和人だった。
芽衣子は、ほかの生徒とちがってスクール水着ではない。
転校直後で水着が間に合わず、自前の水着を着ることが許されているのだ。
そのため、十数人の女子生徒のなかで、芽衣子だけがビキニを着ている。
白いフリルのついたビキニである。
決して派手でも下品でもないが、着ているのが魅力的な少女である以上、その魅力が倍増されることはあっても軽減されることはない。
青藍が色気のある姿なら、芽衣子はいかにもかわいらしい水着姿だった。
「さっき、だれかとお話なさっていたようですけれど」
「あ、ああ。日比谷がサッカー抜け出してそこまできてたんだよ。すぐ先生に連れて行かれたけど」
「日比谷……?」
芽衣子は小首をかしげる。
「ああ、お昼休みに和人さんとお話されていた方ですね」
「ああ、そっか。転校したばっかりでまだ名前もわかんないよな」
「というより、ひとの顔や名前を覚えるのは苦手なんです」
すこし恥ずかしそうに芽衣子は言った。
「その代わり、大切なひとのことは絶対に忘れませんわ。顔も名前も、声だって。ね、和人さん」
「そ、そう……なんでおれのこと名前で呼ぶんだ」
「だって和人さんが芽衣子って呼んでくださるのに、わたしだけ名字じゃおかしいでしょう?」
「名前で呼ぶなんて言ってないんだけど……」
「絶対にそうしてくださいね。そうじゃなきゃ、返事、しませんからね」
「返事しないって言われてもなあ。布島?」
芽衣子はつんとそっぽを向く。
その唇を尖らせた横顔のかわいらしさといったら、いままで異性に縁がなかった和人の想像を凌駕するほどである。
「布島さーん」
やはり返事をしない。
むしろそっぽを向くのが大きくなって、ほとんど背中を向けている。
和人は白い背中と、生々しい水着のホックにどきりとする。
「め、芽衣子?」
「はい、なんでしょう?」
振り返った芽衣子は満面の笑みだった。
「くっ……」
かわいいことは、もはや認めざるを得ない。
布島芽衣子はかわいい。
しかしどこか妙な気配が感じられることもたしかである。
とくに和人は、昨夜の芽衣子を見ている。
わざと相手を挑発して自分に手をあげるように仕向けた芽衣子は、天真爛漫に見えるいまの芽衣子とはかけ離れている。
この女には、なにかある。
それは理解している和人だが、芽衣子の笑みを至近距離で見ていると、つい自分も、締まりのない顔になってしまう。
そうしているとプールのなかから目聡く、
「そこ、いやらしい顔しない!」
ビート板が急回転しながら飛んでくる。
「はぐあっ」
見事側頭部を打ち抜いたビート板は水面を流れ、自然と菜月の手元に戻っていく。
まるでそれが生き物のようで、すっかり手なずけている菜月もろとも恐ろしい。
「まあ、大丈夫ですか?」
芽衣子が和人の頭に触れ、顔を覗き込む。
先ほどよりぐっと顔が近い。
「だ、大丈夫っ。ビート板だし! 思いっきり角だったけど」
「でも、うれしいですわ」
「う、うれしいって?」
「だって和人さん、わたしを見て、いやらしい顔をしてくれたんでしょう?」
「い、いや! いいいやらしいかか顔なんて」
「恋い慕う相手にそう思ってもらえるほどのよろこびはありませんわ」
大胆なことを言いながら、芽衣子は頬に手を当てて照れている。
同性なら、
「またあざといことを」
と舌打ちするところだが、免疫のない和人はひとたまりもない。
くらりとして、あやうくプールに落ちるところだった。
「そ、そういえば、昨日のことだけどさ」
と和人は話題を逸らす。
「あれって転校手続きの帰りだったのか?」
「いえ、あれは別の予定だったんです。でもあの時間、あそこにいるのは運命だったんでしょうね」
「運命?」
「和人さんと運命の出会いをしたんですもの。すこしでも時間か場所がずれていれば、出会うことはなかったでしょう? そう考えると奇跡だと思いません?」
「そ、そうかな……まあ、そうかもな」
「わたし、素敵な奇跡を運命と呼ぶことにしているんです。和人さんとあの場所であんなふうに出会ったのは素敵な奇跡、運命ですわ」
笑顔で言われると、そうだよな、と思ってしまうのが男の弱いところである。
「和人さんはいままで運命の出会いをしたことはありますか? あ、もちろん、わたしとの出会い以外ですけど」
「う、運命か……そうだなあ」
運命と呼べるような劇的な出会いは、和人の人生のなかでもたった一度しかない。
和人は水にぷかぷか浮かんでいる青藍を見た。
青藍との出会いは、まさに運命のようなものだった。
いまでも和人はあの日のことを毎日のように思い出している。
もしあのとき、鈴山恵介と立っている位置が逆転していたら。
生き残ったのは恵介で、瓦礫の下敷きになって死ぬのは自分だっただろう。
そのほうがよかったのかもしれないと思うことも多い。
和人が知るかぎり、恵介は強い人間だった。
精霊石の力を手に入れても、それに振り回されることなどなかっただろう。
制御できずにひとを殺してしまうようなことは。
「むう、やっぱりあの方なんですね」
「へ?」
気づかぬうちに青藍を凝視していたらしい。
芽衣子はどこかいじけたような顔をする。
「授業中も休み時間もそれとなく気にしてらっしゃるから、そうじゃないかとは思っていましたけど……」
「いや、あいつ何時間寝んのか計ってやろうと思って」
「でもわたし、負けませんっ」
芽衣子はぐっと拳を握る。
「大事なものは自分で手に入れて、自分で守らなきゃいけませんもの――ね?」
「え、あ、ああ、そ、そうかな……ははは」
たっぷり空笑いをしてから、和人はため息をついた。
どうも、こういう直球の言葉に弱い。
勘違いのしようもない言葉では鈍感な和人でもさすがに気づく。
「でも、不思議ですわ」
芽衣子がぽつりと呟く。
「世界中でいろいろな精霊石を見てきましたけど、あんなふうに人間の姿になれる精霊石なんて聞いたこともありません。どうして彼女だけがそうなのでしょう」
「やっぱり、あいつは特別なのか」
「彼女が特別なのか、それともあなたが特別なのかはわかりませんけど、精霊石にはまだまだ謎があるんですね。和人さん、精霊石の原産地がどこか、ご存じですか?」
「原産地? いや」
「精霊石はもとを辿ればすべてアメリカに行き着くんです。北アメリカのある場所に落ちた隕石こそいまわたしたちが精霊石と呼んでいる石なんですよ」
「ああ……それは授業で言ってたな」
「でも、不思議じゃありません? 精霊石はアメリカ以外にもあらゆる文明の遺跡で発見されているんです。たとえばエジプトのミイラとともに、あるいは日本の古墳のなかに。コロンブスがアメリカ大陸を発見する何千年も前に、どうしてアメリカ大陸に落ちた隕石が世界中に広まったんでしょうね?」
「そういえば――」
「数千年も人間と寄り添って存在している精霊石でも、まだわかっていないことはたくさんあります。彼女もそのひとつなのでしょうね」
「やっぱり、そういうのに興味があるのか」
「はい。知らないことを知ることって、興奮しません?」
「こ、興奮?」
「どきどきしますよね、そういうのって」
「ど、どきどき……」
和人は芽衣子の白い首筋に見とれる。
同じ高校生であっても芽衣子はやけに色気がある。
「わたしね、子どものときからそうみたいなんです」
「そうって?」
「興味があるとそれに集中しちゃうっていうか。たとえば、雲って触ったらどんな感触なんだろうって考え出したら止まらなくって、屋根に登って手を伸ばしたり。結局そのときは雲の感触はわからなかったんですけど、最近背が伸びて届くようになったんです」
「え、く、雲に届いたの?」
「地上からじゃなくて、空からですけど。スカイダイビングで、わざわざ雲の上まで連れて行ってもらって……ね、雲ってなーんの感触もないんですよ。ただ暗くなるだけで。ちょっと残念だったなあ」
「それでもいいのか。その、期待してたとおりじゃなくても」
「感触は思ってたのとはちがいましたけど、でもなんの感触もないって確かめられたんだから、失敗じゃないですよね?」
ごく当たり前のように言われて、和人は言葉を失った。
なんとなく、眩しいものを見せつけられたような気分になる。
実は裏表などないただの女の子なのかも、と思いはじめたとき、
「そこ、長時間プールから上がってサボらない!」
と教師に怒られる。
芽衣子はすこし舌を出し、勢いよくプールに飛び込んだ。
そしてプールのなから和人を見上げ、
「わたし、いつか和人さんのことぜーんぶ知りたいって思ってますから。覚悟しててくださいね」
「……あの、ばっちり台詞を決めたところ悪いんだけど、飛び込んだ勢いで水着ずれてるぞ」
「えっ――きゃっ」
芽衣子は首だけ水面から出して、頬を赤らめる。
「えへへ……見られちゃいました」
「み、見てない見てない!」
「和人さんなら見てもいいですよ?」
「え、おおおまえ」
「赤くなったあ」
「か、からかうならあっち行けっ。また先生に怒られるぞ」
くすくす笑いながら、芽衣子はプールを泳いでいく。
和人はため息をつき、相変わらずのんきに寝ている青藍を見て、うらやましいような、気恥ずかしいような気分になる。
「……どうも調子が狂うなあ」
いかんいかんと首を振り、和人はプールサイドを離れてフェンスに近づいた。
校庭では男子がサッカーをやっている。
卓郎は嘆いていたが、サッカーはサッカーで楽しそうに盛り上がっている。
プールに目をやれば水着姿の女子たちが楽しんでいる光景があるし、それはそれで目の保養にはなるが、かといってそれに混ざるわけにもいかず、和人はどっちつかずのままだった。
そこへ、ひたひたと近づいてくる足音がする。
振り返ると、目をこすりながらとぼとぼ歩く青藍である。
長い髪から水を滴らせ、ちょうど半身だけ水に濡れている。
「離れすぎだぞ、主よ」
「あ……悪ぃ」
「まあ、いい。石に戻るほどではない」
かしゃん、とフェンスを鳴らし、青藍は和人のそばに腰を下ろす。
立っている和人は青藍を見下ろす格好である。
「う……」
和人がうめいた。
青藍を見下ろすと、スクール水着でさえ大きすぎる胸部を隠すには足りないとわかる。
鎖骨から下、明らかに谷間が見えていて、和人は目をあらぬほうへ向けた。
「お、おまえさ、ほんとよく寝るよな」
「む……そうか?」
と応える声も眠たげである。
「教室で、め……布島が言ってたけど、やっぱり眠たいのは石の活性化がどうとかってやつなのか」
「さあ、我も理屈は知らぬ」
「知らないって、自分のことだろ」
「主はおのれの身体の仕組みを完全に知っておるのか」
「……いや」
「眠たいから眠たいのだ。ゆえに我は寝る。それだけのことよ。それがどうかしたのか?」
「いやさ、別に大したことじゃねえんだけど」
和人は頭を掻く。
「もしかしたら、おれの力が足りないからそうなってんじゃねえかと思ってさ。精霊石を活性化させられる時間ってひとによってちがうんだろ。日比谷はあんまりできないって言ってたけど、織笠なんかは一時間くらいできるって言ってたし。おれがもっと力を使えるようになれば、おまえももっと起きていられるんじゃないのか」
「さあ、そうかもしれぬが――」
「だったら、おれ、がんばるよ」
「別に我は眠るのもきらいではないが」
「寝てるより、起きてみんなといるほうが楽しいだろ?」
青藍は和人を見上げる。
自分の台詞が恥ずかしいのか、和人は赤い顔で空を見ている。
くすりと、青藍は笑った。
「主がそう言うなら、そうしよう。しかし主が無理をして倒れるようなことがあれば本末転倒、そのあたりは自制せいよ」
「わかってるよ。おれだってばかじゃないんだから」
「どうかの。ま、我としてはどちらでもよいが。寝ても覚めても主のそばにおることには変わりない。それで我は満足だ」
「お、おま……布島にしてもそうだけどさ、真顔でそういうこと言うか、普通。ま、言いたいことはわかるけどさ。そりゃ、精霊石だもんな。持ち主のおれがそばにいなきゃ、どうしようもない。そういう意味だってわかってるけど」
そう簡単には割りきれないのがつらいところだった。
近ごろは、それでも青藍をそういう割り切った視線で見られるようになってきた。
芽衣子に調子を狂わされたのだ。
なにもこんなに若い女の姿じゃなくていいのにな、と和人は思う。
それも、こんな魅力的な外見にする必要はなかったはずだ。
どういう原理で人間になっているか知らないが、偶然なのだとしたら狙い澄ましたような偶然もあるものだと皮肉のひつつも言いたくなる。
「ほんと、おまえってなんなんだろうな」
「精霊石だが」
「普通の精霊石じゃねえだろ。人間にはならないらしいぜ、普通の精霊石は」
「ふむ。まあ、そういう意味では人間のようなものかもしれぬ」
「人間のようなもの?」
「認識上はそうなる、ということだ。つまり――」
青藍は不意に和人の手を握った。
「わっ。な、なんだよ」
「我の手は石のような感触か?」
「そんなわけないだろ。普通の人間と同じ……」
「つまり人間となんら変わらぬように見え、感じられる、ということだ。人間の視覚や触覚でそのように捉えられるということは、人間にとって我はそのような形や感触である、ということになる」
「でも、それって普通じゃないんだろ。精霊石は精霊石、人間にはならない」
「ありふれた精霊石も我と同じような認識になることはある」
「ほかの精霊石も人間になれるってことか?」
「人間ではない。主も見ておるはずだ。精霊使いは戦うとき、精霊石を武器にする。剣であったり、弓であったり、形状は様々だが、要は精霊石が形態を変えたものだ。石だったものが剣となる変化と、石だったものが人間となる変化は、原理としては同じことだ」
「なるほど……たしかにそうだな。おまえも、剣にはなれるもんな」
「どのような形を取るのか決めるのは、精霊石ではない。持ち主の希望する形に姿を変えるようになっている。剣を望むなら石はそれに応えよう。絶対防御の盾がほしいなら、石はそのように変化する。もっとも、あまり柔軟な変化ではないから、一度そのように変化すると固定されてしまうことがほとんどだが」
「はあ、そういう仕組みになってんのか。授業、まじめに聞いとくべきかもな。変化が固定されるってことは、一度剣に変化させたらそれからもずっと剣にしか変化できないってことか」
「そうだ。なかには持ち主の強い願いを受けて別形態に変化するものもあるが」
「ふうん……ん? ちょっと、待てよ。精霊石が持ち主の望みで変化するなら……つまり、おまえが人間の姿になったのも、そういうことなのか? お、おれが人間の姿を望んだから――」
思い当たる節がないでもない和人である。
青藍が美人であることはだれの目にも明らかだ。
男なら、こんな美人といっしょにいたい、とだれもが思う。
和人にしてもそうだ。
逆に言えば、和人がそう思ったからこそ、青藍がこのような姿になっている、とも考えられる。
その場合、青藍は和人にとって理想の異性ということになる。
和人はごくりと唾を飲んだ。
青藍が理想の異性? 否定できないところは多々ある。
たとえばその容姿。
艶やかな長い髪や、抜けるような白い肌。
あるいはすらりとした足に大きく膨らんだ胸。
いまも、濡れて光沢を放っているスクール水着に包まれた肢体を否応なく意識している。
和人を見上げる黒い瞳も、薄い桃色の唇も――おまえが望んだものだ、といわれれば、そうだとうなずいてしまいたくなる和人だった。
「我が人間の姿になったのは――」
青藍はじっと和人を見上げた。
「単なる偶然だ」
「偶然かいっ!」
「なんだ。主はそうでないほうがよかったのか?」
「そ、そういうわけじゃないけど。なんつーか、どきどきし損っていうか。いやまあ、いいんだけどさ」
「あるいは、偶然ではなく理由があるのかもしれぬな」
青藍はふと目を伏せた。
「だれも知ることのない、深い理由が」
「深い理由……?」
「ところで主よ。そろそろ眠たくなってきたのだが」
「す、すぐには無理だって! 力つけるっていっても方法もわかんねえし……き、気合いでなんとかなるもんなのかな?」
「さあ、わからぬが……ともかくやってみては?」
「そうだな。じゃ、ちょっと気合いを入れて……ふぬっ」
和人は両手をぐっと握り、全身に力を込める。
両足を肩幅に開き、中腰になって、姿勢だけはそれらしくできている。
オーラなるものがあるならさぞかしほとばしっていることだろう。
和人は腹の下あたりに力を入れ、呼吸を浅くする。
力がみなぎってくるような気はする。
それはつまりその分の力が精霊石にいっているということかもしれない。
和人は力を入れたまま、となりの青藍を見た。
「ど、どうだ。なんか変化あったか?」
「ぐーぐー」
「って寝てんのかい! ひとが散々努力しとるっちゅーのに、こいつは……」
しかし青藍が眠るということは、和人の力がまったく足りていないということだ。
責めるなら青藍ではなく、自分の非力である。
和人はため息をつき、青藍のとなりにすとんと腰を下ろした。
「なんつーか、妙な縁だけど、こいつがきてからなんとなく楽しいのは認めるしかないよな……日比谷とか織笠とか新しい友だちもできたし、直坂ともガキんときみたいに毎日話せるような関係になったし……そこんところはこいつに感謝すべきなのかなあ」
すべてのきっかけというものがあるとしたら、それは間違いなく青藍である。
しんみりとそう思う和人は、ふと足下に影が差したのに気づいて、顔を上げた。
すると、その影はびくりと数歩後ずさる。
直坂八白である。
八白は腕でそれとなく胸や腰のあたりを隠しながら、
「ご、ごめんね、なんか呼ばれたような気がしたから……」
「ああいや、呼んではなかったんだけど……なあ、直坂。いま、楽しいか?」
「え、あ、う、うん。楽しいよ……?」
「そっか。じゃ、よかった」
和人の笑顔に、八白は首をかしげる。
そんなにプールの感想を聞きたかったのか、と疑問に思っているらしい。
「あ、青藍さん、また寝ちゃったんだね」
「ああ。でもこいつが寝るのはおれのせいかもしれなくてさ」
「あ、布島さんが教室で言ってた……」
「そう。だからなんとかして昼間くらいは起きていられるようにしてやりたいんだけどな。やっぱり、寝てるより起きてるほうが楽しいだろ?」
「うん……そうだね。寝てたら、お話もできないもんね。でも、それって大変じゃない? 精霊石を半日も活性化させるなんて、先生たちでもできないと思うよ」
「そ、そうなの? そんなにむずかしいことなのか……」
「それに精霊石を長く活性化させてると体力もすごく使うし……無理したら牧村くんのほうが倒れちゃうかも」
「うーん、でもなあ。このままじゃいけないと思うんだよな。もし力が強くなれば、ある程度離れても大丈夫なようになるかもしれねえし。いまは三メートルか四メートルが限界だけど、せめて家のなかくらいは大丈夫にしときたいよな」
「そ、そうだね、それはそのほうがいいかも……ね、寝るときだって大変だもんね」
「そうなんだよ。どうも寝てると人間になってるか石になってるかってのが曖昧になるらしくてな。いつの間にか石になってたり、人間になってたりするし」
「大変なんだね、牧村くん」
「ま、なんだかんだいって楽しいときのほうが多いけどな」
「え……そ、それって」
「あ、いや! 別にいっしょに寝るのが楽しいとかそういうことじゃなくて!」
「そ、そうだよね。ご、ごめんね、変な勘違いして」
「いや、こっちこそ言葉が足りなくて」
しばらく、気まずい沈黙が降りる。
八白は未だ水着を照れるようにもじもじと動く。
和人はそれを見まいとして校庭のサッカーに目をやったりする。
「あ、あのね」
と八白が和人の背中に声をかけた。
「昨日、牧村くんが言ってたことなんだけど」
「おれが言ってたこと?」
振り返らず、和人は言った。
「なんか言ったっけ」
「あの、帰り道の、あたしたちの力はなんのためにあるんだろうって」
「ああ、あれか。思い出した」
「あれね、あたしも考えてるの。でもまだわからなくて……いつか、答えが見つかるといいね」
「うん。まあ、意味なんかないのかもしれないけどな。おれたちが生まれてきたのと同じでさ」
「う、生まれてきたのには意味があると思うよ。だって、その……毎日楽しいもん、あたし。菜月ちゃんとか、そ、その、牧村くんとかがいて、毎日楽しいもん。きっと、それには意味があると思うの」
和人は振り返り、照れている八白を見て笑った。
「そうだな。おれも毎日楽しいから、もしかしたら直坂とおんなじ目的で生まれてきたのかもな」
「だ、だったら、あの……いっしょなのは、うれしいよね?」
「そりゃあ、いっしょのほうがうれしいよ」
「そ、そうだよね――そうだよね!」
八白は心底うれしそうにうなずき、そのあとすこし呆けたように和人の顔をじっと見つめた。
和人が首をかしげると、はっと気づいたようにプールを振り返り、怒られる前にと授業、といっても水遊びのようなものだが、プールのなかに戻る。
その八白の姿が、和人にはかわいらしく映った。
子どものころはずっといっしょで、八白が学園に通うようになってすこし距離ができたふたりだった。
八白は和人の知らないところで勉強し、それ以外にもいろいろなことを学んで、和人も八白の知らない友だちを作り、八白の知らない遊びをした。
それがいまはまた同じ場所で同じことを学んで、同じように楽しんでいる。
「素敵な偶然は運命、か。なかなかいい言葉だな」
運命と呼ぶと、急にそれが輝かしいもののように思えてくる。
いまあるものの大切さを理解していれば、おそらく失ったときの悲しみもすこしは減るにちがいない。
和人は何気ない日常の尊さを知って、かつてあった何気ない日常を思い出した。
「おまえだったらくそまじめって言うんだろうなあ、鈴村」