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青の奇跡  作者: 藤崎悠貴
第一話
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第一話 1

  1


 早朝の鳴き声が響いていた。

 ――牧村和人の朝は早い。

 六時には目を覚まして、家事をはじめている。

 天気がよければ布団を干し、そうでなければ洗濯機を回しながら朝食の準備をして、洗濯が終わり次第ちいさな庭へ出る。

 今日はまばゆく澄み渡った晴天である。

 二階の自室から布団を抱え、洗濯物といっしょに庭の物干しに引っ掛ければ、一仕事やり終えた満足感で眠気も消える。


「今日もいい天気だし、おれの洗濯スキルも相変わらずプロレベルだし、いい日だなあ」


 とくに今朝は風が心地よい。

 透明な風が頬を撫で、空へ吹き上がっていく。

 和人はその風をもっと感じたくて、塀に囲まれたちいさな庭ではなく、多少は開けた玄関へ回った。

 家の前の細い路地に出て、両手を広げ、大きく深呼吸する。

 なんていい空気だろう――すぐ背後に控える不破山の草木が、人間のなんともいえない匂いをかき消してくれているようだった。


「もう一回しんこきゅ――あ」

「……お、おはよ」


 満面の笑みで胸いっぱいに空気を吸い込んだ瞬間、真向かいの家の玄関が開いて、なじみの顔がおずおずと出てきた。

 半笑いのような顔は、ひとりで喜色満面深呼吸をする男に、若干――というのは和人の希望的観測だが――退いているようにも見える。


「お、おう、おはよ」


 和人は何事もなかったかのように両腕を降ろす。


「今日も早いんだな、直坂」

「う、うん。今日委員で服装検査があるから」

「そっか。大変だな」

「うん……」


 細い路地を挟んで向かい合い、会話が途切れる。

 直坂八白は、和人とは幼なじみのような仲だった。

 家が真向かいということもあり、子どものころはよくいっしょに遊んでいたが、中学から別の学校に通うことになって、いまでは顔を合わせれば挨拶をする程度になっている。

 和人はぽりぽりと後頭部を掻く。

 八白も鞄を抱いて、困ったような顔をする。


「じゃ、じゃあ、行くね」

「おう。がんばってな」

「ま、牧村くんも」


 八白は和人の視線を振り払うように不破山へ続く道を歩いていった。

 八白の通う学校はその中腹にあり、徒歩では一時間近くかかる。

 かといってバスもない場所だから、八白はいつも早めに家を出ていた。

 それなら学校の敷地内にある寮に入ればいいのに、と和人は思うが、家族といっしょの実家がいいという気持ちも理解できた。

 せっかく家族がいるのだから、離れて暮らす法はない。

 和人は家に戻り、自分で作った朝食を、自分で平らげる。

 ひとりで、


「いただきます」


 と手を合わせ、


「ごちそうさまでした」


 と箸を置く。

 それが寂しいことだとは、もう思わなくなっていた。

 いつもと同じ、いつもの朝だ――ただそれだけなのだ。

 食器を片づけ、やっとすこし時間ができる。

 和人は庭に面した和室でごろんと横になった。

 和室の奥にはひっそりと黒い仏壇が鎮座している。

 だれの位牌もない、空っぽの仏壇だった。

 ただ、和人はときおりそこに線香を立てて、流れていく煙の筋や匂いを楽しむ。

 弔いでこそないが、和人はその時間が好きなのだ。

 五月の風に洗濯物が揺れている。

 気温もちょうど心地よい。

 本当にいい朝だった。

 そのままうとうとしたくなるのを必死に堪え、立ち上がって学校の支度をする。

 といってもただ鞄を持って戸締まりをするだけで、和人は最後に玄関を施錠し、山とは反対方向へ向かった。

 八白が通っている私立不破学園は山の中腹にあるが、和人が通っている市立不破西高校は駅の近くにある。

 駅までは通勤やら電車で登校する学生やらに紛れて歩いて、そこからすこし北へ行くとすぐ同じ制服の学生ばかりになる。

 さほど校則が厳しい学校ではないから、薄く髪を染めた生徒やら、バイクに乗った生徒やら――活気に満ちた朝の風景だ。

 和人はそのなかでもひときわだらしなく制服を着こなし、ポケットに両手を突っ込みがに股で歩く生徒に近づいた。


「よう、不良少年」

「うるせえ、くそまじめ」


 振り返った顔は、さもありなんというような目つきの悪さで和人をにらむ。

 髪は目立つ茶髪で、明らかに行きすぎた校則違反だが、いままで一度も注意されたことはないし、注意されてもやめないというのがこの男、鈴山恵介の返答だった。

 くそまじめこと和人は恵介に並び、


「不良にしては登校が早いな。改心したのか」

「寝てねえんだよ。家より学校のほうが寝られるからな」

「ちゃんと寝ろよ。おれなんか十時就寝六時起床だぞ」

「だから、くそまじめなんだろうが」

「寝ないで、なにしてたんだ」

「別に。そのへんうろうろしてただけ」


 恵介はあくびをこぼす。


「あと、けんか」

「またやったのか?」


 呆れ顔の和人に、恵介はへらへらと笑った。


「向こうが突っかかってきやがったんだ。持ってねえっつってんのに金出せってうるせえから。ま、正当防衛だよ」

「やりすぎてないだろうな。おまえ、強いんだから」

「さあな。骨の一本か二本は折れてるかもしんねえけど、弱ぇあいつらが悪ぃ」

「おまえなあ。いい加減にしないとそのうち捕まるぞ」

「親か、おまえは」

「おれは牧村和人だ」

「くそまじめだろ。知ってるよ」


 恵介は鼻で笑うが、それが案外、満更でもなさそうに見える。

 和人は深くため息をついた――この不良の友人はいつでもこの調子だった。

 駅から学校までは、歩いて十分程度。

 その道中はほとんど同じ学校の生徒で埋めつくされ、それ以外といえば流れに逆らって駅へ向かうサラリーマン程度だが、そこに奇妙な一団があった。

 十人程度の若い男がずらりと並び、歩道を封鎖している。

 髪を染め、目つきも悪く、あまつさえ手に棒やらチェーンやらを持った男たちだ。

 生徒たちはおっかなびっくり、できるだけ目を合わせないようにしながら背中を丸めてそばを抜けていくが、恵介だけは視界に入った時点からその男たちをにらみつけていた。


「おい、牧村」

「ん?」


 と民家の塀の上でまどろむ猫を見上げながら、和人。


「おまえ、先行ってろ」

「あ?」


 和人もやっと、前方を封鎖している男たちに気づく。


「うわあ。なんか、いかにもだな。おまえの友だちか、鈴山」

「まあ、そんなとこだ。昨日、仲良くなってな。知ってるのは前に立ってる三人だけだが」


 なるほど――見れば、集団の前に立っている三人には昨日の名残ともいうべき怪我が残っている。

 松葉杖や腕を吊っている男はいないから、骨は折っていないということだろう。

 鈴村恵介というのは、案外やさしい男なのだ。


「相手、九人か」

「だな。めんどくせえ」


 恵介は眉をひそめながら、その集団を避けることなくまっすぐ進んだ。

 当然のように和人もそれに続く。

 恵介は、ちらと和人を見たが、なにも言わなかった。

 集団のほうでも恵介に気づき、笑いを湛えて待ち受ける。


「よう」


 先に声をかけたのは恵介だった。

 案外友好的にいくのか、と和人が期待した瞬間、


「負け犬がでけえ顔で道の真ん中に立ってんじゃねえぞ。おまえらみたいなのは端っこできゃんきゃん鳴いてろ」


 はあ、と和人。

 ――なにかといえば、すぐこれだもんなあ。


「なんだと、てめえ」


 男たちはにわかにざわつき、目を剥いて構える。

 恵介は、ふんと笑った。


「いい声じゃねえか、負け犬らしくて。それとも、なにか。てめえらじゃ勝てねえからって仲間連れてきて、粋がってんのか。だせえ」

「この人数が見えねえのか、おい」


 九人の男たちが恵介を取り囲む。

 自然、そばにいた和人も囲まれて、にらみつけられる。

 もうこうなっては仕方がない。

 和人は恵介の腕を引いた。


「鈴村。今日課外授業だから、あんまり時間ないぞ」

「十分もありゃ終わるさ」


 平然と、恵介。


「それじゃ遅れる」


 と和人。


「五分だ」

「へっ。くそまじめの台詞かね、そりゃ」


 けんかだけんかだ、と周囲の生徒が騒ぎ出したときにはもう、恵介がひとり目の男の腹を蹴り上げている。

 それが狼煙となった。


「てめえ。やれ、殺せ!」


 飛びかかってきた男をかわし、足を引っかけてアスファルトに転ばせる。

 投げつけられたチェーンは反対に奪い取って手首をしばり、振り下ろされる鉄パイプはそのままアスファルトを叩いた。

 青空の下に、熱気が熾る。

 道具が鬱陶しい、と恵介は鉄パイプの男を殴ってそれも奪った。

 すると後ろで耳を劈く絶叫。

 振り返れば、大柄の男が肩を押さえて倒れている。


「こ、こいつ、折りやがった」

「いやいや、折ってない折ってない。人聞きが悪いこと言うな、ばか」


 と和人。


「関節を外しただけだ。病院に行けばすぐ治るよ。ま、痛いけど」

「相変わらず凶悪だなあ、くそまじめ」

「日ごろおとなしいやつは怒ったらやばいのさ」

「おまえは冷静そのものだろうが。それが怖ぇんだよ」


 ――結局。

 恵介が五人、和人が四人。

 ぴったり五分間の乱闘だった。

 恵介は物足りなそうに首を鳴らし、和人は仏壇にするように手を合わせる。


「殺したのか、おまえ」

「まさか。悪いことした気はする」

「よく言うぜ。あんだけやりゃ、悪いもなんもねえよ。でもおまえといっしょにけんかすんのはつまんねえな。絶対負けねえんだから」

「だから、けんかなんかやめろよ」

「考えとく」


 と恵介は適当に返答して、学校へ向かった。

 けんかの巻き添えを避けて立ち止まっていた生徒たちは、斃された男たちに怯えるやら、平然と立ち去るふたりに怯えるやら、とにかくどことなく俯き加減で遅刻しないように駆け出すのだった。



  *



 一年のころは同じクラスだった和人と恵介だが、二年では別のクラスに別れた。

 和人は単に運でそうなっただけだろうと思っていたのだが、そのうち聞こえてきたうわさでは、御しがたい不良がふたり固まっては学級崩壊も避けられないとして学校側が意図的に和人と恵介を分けたのだという。

 恵介はともかく、自分まで不良とはどういうことだ、と和人は思う。

 記憶にあるかぎり、和人には不良と呼ばれる筋合いはない。

 けんかをしたことはあるが、それはどうしても避けられなかったときだけで、自分からそれを求めたことはないし、煙草も吸わなければ学校をさぼったこともない。

 ――それなのに不良と呼ばれるのだから不思議なものだ。

 むしろ自分では、恵介のいう「くそまじめ」のほうが近い気がしているのだが。


「かったりぃよなあ、課外授業なんて」

「しかも博物館だろ。小学生かっての」


 和人の後ろに座る男子生徒ふたりが、そんな話をしている。

 たしかになあ、と和人も思う。

 博物館に行くのはいいが、二年生全員でバスに乗ってぞろぞろ行くのはなんとなくばからしい。

 そんな和人の表情を見たのか、あるいは後ろの会話を気にしたのか、和人のとなりに座る江戸前有希子がぽつりと、


「博物館、おもしろいと思ったんだけどなあ……」


 とため息まじりに呟いた。

 ――有希子は二年一組の担任教師である。

 教師になって二年目、クラスを受け持つのは今年がはじめてで、そんなルーキーにもかかわらず問題児たる牧村和人を任されることになり、学校では近年まれに見る不幸な新任教師として有名だった。

 なぜ教師が和人のとなりに座っているかといって、ほとんどは生徒同士が並んで座るのだが、偶然三人掛けの席にひとりで座るという生徒が出てしまって、それでは寂しいだろうからと有希子が座っているのだ。

 そのひとりで座る寂しい生徒が和人なあたり、さすがは不幸の女神だとさっそく車内ではひそひそと囁かれている。


「牧村くんも、博物館はきらい……?」


 有希子はなんとなく涙目で、となりの和人を見る。

 うっ、と和人は言葉に詰まった。

 ただでさえ年が近く、スーツを着ていてもせいぜい就職活動中の女子大生にしか見えない有希子である。

 それも、すぐに泣く。

 感動しても泣くし、悲しくても泣く。

 かわいそうでも泣くし、うれしくても泣く。

 およそ教師に向いているとは言い難いが、その分だけ身近な雰囲気があって、和人はこの担任教師が苦手だった。


「べ、別にきらいじゃないですけど」

「うっそだー。顔に書いてあるよ。博物館なんかガキっぽくていやだな、って。先生、そういうの、ちゃんとわかるんだから」

「ほんとに、きらいじゃないです。おれ、博物館とか大好きだし」

「ほんとかなあ?」

「ほ、ほんとです」


 なんとなく目を逸らす和人。


「じゃ、信じた」


 有希子はにっこり笑う。


「楽しいといいね、博物館」


 まるで子どものように表情がくるくる変わる。

 そういうところも和人は苦手だ。


「先生は好きなんですか、博物館」

「んー、まあ、普通かな」

「普通……ですか」

「恐竜とかは好きよ。アンモナイトとか、三葉虫とか。なんかこう、すげーって思うじゃない」

「すげー……ですか」

「うん、すげーって」

「先生にこんなこと言うのもあれですけど……変ですね、先生」

「え、うそ。どこが?」

「どこっていうか、全体的に、まんべんなく」


 まんべんなく? と有希子は自分の頬を触る。


「へ、変じゃないよ。普通の顔だと思うよ?」

「いや、顔の話じゃないんですけど。どっちかっていうと、頭のほうっていうか」

「髪型、変?」

「いやだから髪じゃなくて、その中身が」

「あ、頭の形はしょうがないじゃない。どうせ絶壁ですよー」

「だから……ま、いっか」


 まともな会話を諦め、和人は窓の外を見る。

 バスは山道をゆっくりと登っている。

 眼下には不破市がうずくまり、駅前のビルも麓の民家も、いまはひとつの窓に収まるほどちいさい。

 後ろを見れば、同じバスがまだ二台、のろのろとつづら折りの山道を進んでいた。

 不破市立博物館は不破山のほぼ頂上にある。

 道中、私立不破学園の前を通りすぎた。

 八白の通っている学校だが、全国的に有名な学校でもある。

 不破学園は、だれにでも入れる学校ではないのだ。

 ごく一部の限られた人間だけが入学を認められていて、生徒数もすくない。

 しかしスポンサーは潤沢で、敷地は異常に広く、不破山頂上の展望台からは山の中腹を拓いて作られた異様な学園が一望できるようになっている。

 毎日山を登って通学するのは大変だろうな、と和人が思っていると、有希子もその肩越しに窓の外を見て、ちいさく息をついた。


「懐かしいなあ、このへん」

「え?」

「ほら、わたし、学園出身だから。いまはもう関係ないんだけどね」


 すこし悲しげに有希子は笑う。

 そういえばそんな話を聞いたことがある、と和人もうなずいた。


「おれの知り合いもここに通ってるんですよ。毎日早起きして通学してます」

「その子、寮生じゃないの? めずらしいね。ここってほとんどの生徒が寮に入るんだけど」

「家が山の麓なんです。なんで寮に入らないのかは知らないけど」

「ふうん……精霊使いのお友だちか。いいね、いろんなお友だちがいて」

「ま、友だちなんてそいつともうひとりの不良くらいしかいませんけど」

「あれ?」


 と有希子は首をかしげる。


「先生は、お友だちじゃないの?」

「……いや、先生は先生でしょ」

「先生みたいな、お友だち?」

「それを言うなら友だちみたいな先生では? どっちにしろちがいますけど」


 否定され、なんとなく怒ったように腕を組み、


「牧村くんは、やっぱりあれだね、不良だね!」

「いまのどこを見て不良と判断されたのかわかりませんけど」

「そういう先生にやさしくないところとか」

「先生、やさしさを求めすぎです。人間が注ぎうるかぎりのやさしさを注いでますよ」

「ほんとに? すげーやさしくしてくれてる?」

「そりゃもう、すげえなんて言葉じゃ言い表せないレベルの慈悲です」

「じゃ、いいや。へへっ」


 有希子はいかにも楽しげに笑った。

 その子どもじみた笑顔に毒気を抜かれた和人は視線を外し、後方へ流れていく山肌を眺めた。


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