第二話 7
7
毎朝一時間ほどかけて山道を歩き登校している和人は、登校直後が一日でいちばんつらい。
学園に通いはじめて二ヶ月、ほかのことには慣れても、毎朝の山登りにはまだ慣れていない。
八白などは教室に入るとすぐクラスメイトと楽しそうに話したり笑ったりしているが、和人にそんな余裕はなく、机に突っ伏して体力回復に努める。
その後ろでは青藍も同じようにして寝ている。
もっとも青藍は体力回復よりも眠気によってそうしているようだが。
「そんなにつらいなら、寮に住めばいいのに」
和人の机に寄ってきた卓郎が呆れたように言った。
「寮は楽だぜ。予鈴の五分前まで寝ていられるし。ま、五分で準備するのにはコツが必要だけどな」
「おれも寮に住みたいんだけどなあ」
和人も突っ伏したまま応えた。
「でも、いまもひとり暮らしだから、おれがいなくなるとあの家をどうするかむずかしいだろ」
「だれかに貸せばいいんじゃねえの。そうすりゃ家賃も取れるし」
「うーん、たしかに。でも青藍のこともある。寮じゃおんなじ部屋は無理だしな」
「あったりまえだ。いまがうらやましすぎるんだよ」
「おまえだって同じ寮のなかに織笠とか、ほかの女子もいるだろ」
「ほかの女子はともかく、織笠と同じ寮になんの意味があるんだ。むしろあれだ、ライオンの檻に入れられてるようなもんだぜ。毎日がサバイバルだよ」
「着替え中に乱入したり、風呂で鉢合わせしたり、そういうの、ないのか」
「あるわけねえだろ。あったとしたら、おれはいまごろこの世にはいねえ。完全犯罪の餌食になってるとこだ」
「あながち大げさとも言えねえのがすげーな」
「おまえこそ、どうなんだよ。あの直坂さんと幼なじみなんだろ。なんかこう、幼いころの結婚の約束とか、ねえの?」
「ないない。直坂を泣かした記憶はいっぱいあるけどな」
「てめ、なにしてんだよ」
「あいつ、昔はすぐ泣いてたんだよ。そのへんで捕まえたカエル投げたりさ、男だったらするだろ? そしたら泣くからさ。なんだったら泣かないんだろうと思ってバッタとかなんかいろいろ見せたんだけど、結局泣かなかったのはビー玉だけだった」
「はあ……直坂さんもつらい幼少期を送ったんだなあ」
「おれとしては楽しませてやるつもりだったんだけどな」
「どんだけ不器用なんだよ。カエルで女の子がよろこぶと思うか? おれだったら指輪だな」
「ばか、ガキんときの話だぞ」
「だからこそだ。女の子はちっちゃいころから指輪が好きなんだよ。最初はおもちゃでもいいんだ。それをプレゼントしたら、女の子はよろこびながら、『大人になったら本物ちょうだいね?』って言ったりして、それを大きくなってから話すと照れたりしてさー」
「あー、はいはい、そうだね、ばかだね」
「いやー、かわいいなあ、子どものころの直坂さん。いや、いまもスーパーかわいいけど。子どものころもハイパー美少女だったんだろうなあ」
夢見るような卓郎の視線の先には、子どもの八白が映っているらしい。
実際の八白は、髪も短く美少女というより男の子のような子どもだったが、卓郎にはいまの八白がそのまま縮んだ様子を想像しているにちがいない。
和人もそれを想像してみて、たしかに美少女かもな、とうなずく。
「そういや、昨日おまえが好きそうな女の子見かけたぞ」
「え、どこで」
妄想から急に覚め、和人の机にかじりつく卓郎である。
「駅の近くのスーパー」
「ど、どんな感じだった? いい匂いした?」
「匂いは知らん。感じは……そうだなあ。こう、髪が長くてさ、それを編み込んでて、上品そうだったな」
「年は?」
「おれと同じくらいだと思うけど」
「むむ」
と卓郎は腕を組む。
「おれのデータベースにない美少女だな。このへんの学生は網羅してると思ったんだが」
「なにもんだよ、おまえ。ああ、変態か……」
「名前は? 通ってる学校は?」
「知らねえって。でも、おれも見たことないやつだったな。毎日通ってるスーパーなんだけど」
「引っ越してきたのかもな。あー、うちの学校にこねえかな。そしたら間違いなく同じクラスになれるのにな」
「こねえだろ、うちには。普通の学校じゃねえんだし」
いくら学園がある町といっても、そうごろごろと精霊使いがいるものではない。
この町で生きてきた和人にしても、学園に入るまでは、精霊使いは八白しか知らなかった。
日本全土で千人前後という数の精霊使いだから、それも決してすくないほうではない。
ただなんとなく、昨日言われた言葉が気にかかるところでもあった。
運命の出会い、という言葉である。
運命かどうかというところは個人の感じ方だろうから、向こうがそう言うなら和人としては否定することもないが、あのすこしの出会いだけで運命の出会いといえるかどうか。
むしろ、出会ってからが運命ではないか、と和人は思う。
そうするとあの女とはまた会うことになるだろうが――。
チャイムが鳴った。
生徒たちは自分の席につき、担任がくるのを待つ。
不破学園にも、一応クラスごとに担任が決められている。
しかし教師は初等部の一年から高等部の三年までの授業を見なければならないので、いくつかのクラスを掛け持ちしている教師がほとんどだった。
いつもは大抵、チャイムが鳴ってからしばらくしてやってくる。
まず年少のクラスを覗いてから高等部の二年までくるためだが、今日はチャイムが鳴ってすぐ担任の賀上伸彦が入ってきた。
「おはよう。いやあ、今日もみんな変わらず美少年と美少女だねえ」
「先生、今日は早いっすね」
と卓郎が声をかける。
学園では、生徒と教師の距離がほかの学校よりも近い。
それも孤児院になぞらえられる一因になっている。
「いや、今日はね、このクラスでしっかりホームルームをやらきゃいけない理由があるんだ」
伸彦は意味ありげな笑みを浮かべ、教室を見回した。
この時点で、和人はなんとなくいやな予感を覚えている。
「実は」
と伸彦はもったいぶって、
「今日はこのクラスに転校生がやってきました!」
「て、転校生?」
学園では転校生は珍しい――しかし二ヶ月前に和人が転校してきたばかりだったから、生徒たちの視線は自然、和人に向かった。
自分は関係ない、と和人は首を振る。
しかしだいだいの想像はついている。
「まあ、まあ、落ち着きたまえ」
とざわつく生徒たちを、卓郎がなだめる。
「転校生がくるってだけで騒いでちゃ田舎もんみたいだろ。で、せ、先生、それは男、女?」
「女の子だよ」
「おおっ……」
「い、いや、まだ早い。よろこぶのはまだ早いぜ。それで先生、その女の子ってのは……」
「もちろん、美少女さ」
「よっしゃああ!」
椅子を蹴ってガッツポーズをする卓郎である。
ほかにも似たような反応している男子生徒が数人いる。
先が見えてしまう和人はひとり冷めた表情で、
「賀上先生はだれでも美少年とか美少女とか言うだろ。よろこぶのは早いんじゃねえのか」
「たしかに先生はだれでもそう言うが、美少女のことを不細工とはいわんのだ。つまりほんとの美少女って可能性もあるわけなんだぞ――よし、おれはクール系でいくから、アシスト頼むぞ、牧村」
「どうアシストすりゃいいんだよ」
よろこぶ男子に反比例して、女子はまるで汚物を見るような目を男子生徒に向けている。
とくに美少女云々のくだりから、視線が厳しい。
ひときわ厳しい、絶対零度の視線を向けるのは織笠菜月である。
「ほんと、男子ってばかみたい。とくに日比谷なんとかってやつ」
「いまは罵詈雑言も聞こえねえぜ。なんたってまだ見ぬ美少女がすぐそこで待ってるんだからな!」
「死ねばいいのに」
「まあまあ、ふたりとも」
と伸彦。
「日比谷くんも織笠くんの意思を汲んであげなきゃだめだよ。女の嫉妬は受け止めるのが男ってもんだからね」
「だ、だれが嫉妬ですかっ」
「そーっすよ、先生。あいつは鬼の生まれ変わりだから、いつだって怒ってるんです」
「だれのせいで年がら年中怒ってると思ってるのよこの鳥頭!」
「なんだと、鬼の化身めっ。曲がりなりにも鬼を名乗るならせめてラムちゃんみたく色っぽくなってから現れろ!」
「ラムちゃんってだれよっ」
「すべての男が憧れて止まない鬼っこだよ。な、牧村」
「あー、マジでいい天気だな。昼寝してえ」
「鬼は鬼ヶ島で桃太郎に退治されろ」
「そんなやつ返り討ちにしてやるわ。あんたの住む村を真っ先に襲ってやるから!」
「本性を現したなっ」
「あんたはその変態の本性をちょっとは隠しなさいよ」
「変態とはつまりおれ自身だ。おれはおれである以上変態なのだ!」
「あーはいはい、気持ち悪い気持ち悪い」
「なにをぅ」
「やんの?」
「まーまー、ふたりとも座りなさい。仲がいいのはいいけど」
「だれの仲がいいって?」
「夫婦漫才をやってるあいだも転校生が教室の外で待ってるよ」
「はっ、そうだった。こんな偽鬼っこにかまってるひまはないんだ。先生先生、早く紹介してください」
菜月はまだ怒りの形相でぐるぐる喉を鳴らしている。
どちらも素直になればいいのに、と和人は自分のことを棚に上げて考える。
八白にそれを気づかれたらまた一悶着ありそうだが、幸いにして八白にはひとの心を読む能力はなかった。
「じゃ、布島くん、お待たせ」
伸彦が呼び込むと、教室の扉ががらりと開いた。
入ってきた新しいクラスメイトを見て、男子も女子も、一瞬息を呑む。
当てにならない伸彦の「美少女」が真実そのとおりだったことを生徒全員が理解した。
転校生は、そうした視線を受けてもびくともせず、堂々と教壇まで歩く。
その一挙手一投足にも品がある。
教壇の上で転校生がお辞儀をすると、そこが広々とした舞台にすら見えてくる。
「はじめまして。布島芽衣子と申します。こんな時期に転入ですが、よろしくお願いいたします」
流れるような所作と言葉である。
呆気にとられたような生徒のひとりが拍手をはじめると、全員がそれにつられる。
卓郎も一心不乱に手を叩く。
和人は控えめに、どことなく興味のなさそうな表情でそれに倣っていた。
教室中に反響するその音で青藍も目を覚ましたが、あたりを見回し、壇上の転校生を見つけ、また机に突っ伏して眠りはじめた。
「というわけで、布島くんだ。みんな仲良くするように」
「せ、先生、質問コーナーに突入してもいいですか」
伸彦はちらりと芽衣子を見る。
芽衣子はやわらかく笑いながらうなずいた。
すかさず卓郎が手を挙げ、
「ここへくる前はどこにいたんですか。ここではどこに住んでるんですか。もし寮だったら部屋番号を――ぐふっ」
今度は無言で、教科書が卓郎の後頭部を襲った。
ごん、と重たい音が鳴る。
角が当たったらしい。
卓郎が机に崩れ落ちる。
投げた教科書は、生徒たちの手を伝って、無事に菜月のもとまで戻っていった。
「どうぞ、続けて」
と平然そのものの菜月が恐ろしかった。
「え、えーと」
さすがに芽衣子もこれには驚いたらしい。
しばらく悩んだあと、卓郎の無残な姿は見なかったことにして、
「以前は親の都合で海外を点々としていました。あまり一カ所に長く留まったことがないので、ここでの生活は楽しみですわ。あと、寮には入りましたけど、部屋番号は秘密です」
わざと冗談めかしたような言い方に、男子の何人かが「はあ」と息をつく。
女子はむむと声を漏らした。
その破壊力を認めざるをえないのだ。
まだその余波が消えないうちに、
「あの、恋人はいますか?」
とだれかが質問したものだから、再び教室がざわつく。
否定してほしいという切なる願いが半分、どっちでもいいけど興味はあるという野次馬が半分だった。
芽衣子は持って生まれたものとしか思えないほどの優雅さで教室を見回し、ある一点で目を止めた。
「恋人という相手はいませんけど――」
その一点、牧村和人という一点を見つめながら、芽衣子は言った。
「一方的に慕っている方ならいらっしゃいますわ」
薄く頬を赤らめ、恥じらうような、それでいて決然とした表情は、どんな鈍い人間でも誤解のしようがない。
まさに恋する乙女の顔である。
生徒たちの反応は一様だった。
まずその美しくもかわいらしい芽衣子の表情に見とれ、それからバネ仕掛けのようにぐるんと和人を振り返る。
和人はただただ呆然である。
まったく身に覚えがない……わけでもないのがつらい。
「お、おまえ……」
卓郎などは驚きやらなんやらが入り混じり、表情という表情が失われて人形のようになっている。
「いやあ、いい感じになってきたね」
と伸彦はひとりでにこにこ笑う。
「ほかのクラスのホームルームを代わってもらってよかったな。こんなおもしろ……もとい大切な瞬間を見逃すところだった。青春青春」
一般的に、こんな青春はない。
しかしいまの和人にはそれを口にする余裕もない。
つかの間の静かな学園生活は、こうして終わりを迎えたのだった。