第二話 6
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牧村和人は悲鳴で目を覚ました。
起き上がってみると、ちょうどふわりと舞い上がったスカートの裾が扉の向こうに消えるところだった。
「二日連続かい……」
見るまでもなく、和人にはわかる。
さほど広くもないベッドに和人は寝ているが、そのすぐ横に、女がいる。
裸の女である。
寝ぼけているのか、それ以前にこの騒ぎでも目を覚ましていないのか、和人の手をきゅっと掴んでいる。
それが普通の女ならともかく、その気になれば拳ひとつでコンクリートを砕ける力の持ち主だから、なにかの拍子に骨ごとぐっと潰されないか不安だった。
「おい、起きろって。朝らしいぞ」
直視しないように、壁にかかった時計なんぞ見ながら女の肩を揺さぶる。
時間は六時すぎだった。
学生が起きる時間としては早い部類だが、以前と比べると寝坊している。
昨日も夜更かしはせず寝たはずなのに、最近はどうも眠気が消えない和人だった。
だいたい一日中寝ている青藍には敵わないが、許されるならそうしたいと思うほど、日中も眠気がつきまとっている。
「むむ……主か。おはよう」
「おはよう。起き上がる前に服を着ろ。それかシーツを巻きつけろ」
「む……主はいちいち気にしすぎだ」
「おまえがもっと気を遣うべきなんだよ。今日も直坂が逃げていっちゃっただろ」
「なぜ直坂八白が逃げるのかわからぬ。身体は同じ女、見慣れぬものがついているわけでもあるまいに」
「普通は女同士でも隠すもんだけどな。あと見慣れないモノとか言うな」
和人は青藍が服を着るのを待って、やっとベッドから降りる。
こう毎日同じような状況が続くと、さすがに和人も慣れてくる。
今日はとくに動揺もなく、自分も服を着替え、一階へ下りた。
リビングでは、当然というべきか、直坂八白がふくれっ面で待っている。
椅子に深く座り、半ば無視するように窓のほうを向いているが、入ってきた和人を意識していることは明らかである。
和人もなんとなく八白の視線を追った。
今日も晴天である。
夏休みまでもう一週間程度という時期になって、暑さも本格的になっている。
まだ蝉こそ鳴いていないが、朝から燦々と輝く太陽や、それに照らされる世界は夏の色をしていた。
そう思うまではよかったが、
「今日もいい天気だなあ」
とのんきなことを口走ったものだから、八白がくるんと振り返り、怒っているような照れているような顔で言うのだった。
「あのね、牧村くん。なんにもないってことはわかってるけど、それにしたってああいうのはよくないと思うよ。誤解されたら大変でしょ」
「誤解って、直坂以外のだれに誤解されるんだ?」
「そ、それは……そうだけど! でも、だめなものはだめなのっ。牧村くんだって若い男の子なわけだし、その、そういうことだってありえないわけじゃないわけだし」
「いや、おれも言ってはいるんだけどさ。こいつがなー」
ふたりに視線を向けられ、青藍は首をかしげる。
「我がなにか?」
「な。この態度だぜ」
「だ、だからこそ牧村くんがしっかりしないと」
「そりゃそうなんだけど……」
いままでもその努力を怠ってきたわけではない。
実際、部屋には青藍用の布団が用意している。
近ごろは精霊石の状態で寝るときでさえ、わざわざ青藍の布団を敷き、そこに精霊石を置いて寝るようにしている。
それでもなぜか、朝になると青藍は和人のベッドにいるのだった。
人肌恋しい子どもか、と思うが、これが真実子どもならなんの問題もなく、子どもでないから問題なのだ。
しかし青藍には青藍なりの理由がある。
「精霊石は、持ち主のそばになければ効力を発揮しない。すなわち精霊石から人間に力を与えることもないし、その逆、人間から精霊石に力を与えることもない。接近すればその分だけ効力は増すから、言ってみればそれは抗いがたい欲求のようなものなのだ」
「じゃあ、その欲求に抗う努力はしてみたのか?」
「主よ、朝食はいいのか。時間は間に合うのか」
「目を逸らすな。口笛なんかどこで習った? 冷や汗が出てるぞ」
「暑いのだ。この国は」
「それには同意するけど、それが理由じゃねえだろ」
「まったく、主は細かい」
ふう、と青藍は息をつく。
やれやれ、とでもいうように。
「そもそも主が気にしなければ万事解決する話だろう。なにかしら弊害があるわけでもあるまいに」
「そりゃ、そうだけどさ」
押され気味の和人を、背後で八白が応援している。
「世間体とか、いろいろ、あるだろ。な?」
「そんなものは知らぬ。もとより世間とは屋外にあるもの。ひとの家の、それも寝室のことなど世間の知ったことか」
「や、やばいぞ直坂、あいつばかなくせに正論を言ってる」
「負けないで! もうちょっとがんばって」
「だ、だけどほら、おれだって若い男なわけだし、そういう間違いがないわけじゃないだろ」
「そういう間違いとは?」
「それは、ほら、あれだよ……こう、朝に話すにはふさわしくないことだ」
「ふむ」
と青藍はうなずく。
「我も長く眠ってはいたが、人間というものに無知なわけではない。主が言いたいのは、要は男女間のせい――」
「ストップ! それ以上口にすると直坂が怒り狂う」
「……ま、とにかく、そういうもののことだな。しかしそれは問題にもならぬ。主が望み、我が受け入れるなら、それは間違いではなくただの行為である」
「すまん、なにを言ってるのかわからん」
「つまり、主がそうしたいのであれば、我としてはなんらかまわぬということで――」
「さ、朝飯にするかな。今日は簡単にトーストで済ますか。昨日買い物が遅くなって準備の時間がなくてよー」
「そ、そうなんだー。でもトーストもおいしいよー」
和人はトーストを焼いているあいだ、冷蔵庫を漁ってトマトを見つけた。
それを切り分け、貴重な栄養にする。
青藍は、食卓に流れる微妙な空気を察知したわけではないだろうが、それ以上混ぜ返そうともせず、いつものように和人のとなりに座ってうつらうつらしはじめた。
まったく、危ういところである。
やぶ蛇とはこのことで、蛇どころかすべてを焼き尽くすドラゴンが潜む藪だった。
まさかの爆弾発言は双方聞かなかったことにして、和人は八白と世間話に興じる。
「試験が終わったらさ、武道会があるんだろ。やっぱり直坂も出るのか?」
「うん。全校生徒っていうか、先生たちもみんな出るからね。牧村くんも出るんでしょ」
「らしいな。昨日まで知らなかったけど」
「ちゃんと何日か前に先生が言ってたよ。聞いてなかったの?」
「基本的に授業以外は寝てるから、聞いてない。授業中は寝ないようにがんばってるから、どっちにしろ聞いてないんだけど」
「だめだよ、それじゃ。菜月ちゃんに怒られるよ」
「ほんと、織笠は怖いよな。昨日なんか死ぬかと思った。あの怖いのがいいなんて、日比谷も根性あるよ」
「あはは、そうだねえ……って、え?」
「ん?」
「日比谷くんが根性あるって――え、ええっ! 日比谷くんとなな菜月ちゃんって、そ、そうなの? そういうことなの?」
「あれ、気づいてないのか? だれから見てもそうだろ、あれは。告白とかはしてねえみたいだけど、あそこまでいくと必要ないのかもなあ」
「そ、そうだったんだ……す、すごいね、どうしてわかったの? 日比谷くんから聞いたの?」
「見たらわかるって。おまえ、相変わらず鈍いなあ」
「ま、牧村くんには言われたくないもんっ」
お互いもっともな言い分ではある。
そのあいだにも和人は朝食を食べ終わり、立ち上がる。
青藍は、首を預けていた肩が唐突にいなくなって、かくんとつんのめった。
しかし起きようとはせず、船を漕ぎながら、和人が食器を片づけ終わるのを待つ。
八白は対面からそんな青藍を見て、
「青藍さんって、ほんとによく寝るよね。代わりに夜起きてるの?」
「いや、夜も寝てるよ。夜のほうが集中して寝てて、一回寝たら朝まで起きない。こいつが起きてる時間って一日に二時間くらいじゃねえかな」
「そ、そうなんだ……さすがに牧村くんも敵わないね」
「ナマケモノでもこいつには負けるだろ。おれもそれくらい寝たいとは思うけどな、やらなきゃいけないこともあるし……あー、こういう天気のいい日には洗濯してえな。布団も干したいし、窓全開にして掃除したら気持ちいいだろうなあ」
およそ男子高校生とは思えない望みだが、和人らしいといえばらしい。
八白も声には出さず笑っている。
ひとり分の食器を洗い終わり、和人は青藍を起こした。
青藍はこの短いあいだにも完全に寝入ったらしく、寝ぼけ眼で立ち上がり、和人の腕にすがって歩く。
最初は内心納得のいっていなかった八白だが、最近ではそれもお決まりの光景となっていて、なにも思わなくなっている自分にふと気づいた。
それではいけない、と首を振り、青藍に対抗して、和人の手をとる。
「さ、学校行こ、牧村くん」
「おう、そうだな」
和人は、他人には鋭いが、自分には鈍い。
八白は自分に関係するものは鋭く、他人には鈍い。
ふたりがお互いの心に気づくまで、まだしばらくかかるようだった。