第二話 4
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小早川修陸将は総合幕僚長に任命されて二年目になる。
総合幕僚長は、軍人として就く位としては最高位にあたる。
これ以上は大臣、すなわち文民であり、軍人とは根本的に異なる。
出世できるところまで、その階段の頂上まで駆け上がってきたのだ。
任命された当時は、深い感慨もあった。
若い時代の挫折や苦労がすべて報われた気もしていたが、近ごろは、そのように穏やかな気分ではいられないことが多い。
表面上、いまの日本は平和である。
よその国と戦争をすることもないし、国境付近のごたごたは海上保安庁が担当してくれるから、自衛隊が出る幕はあまりない。
第二次大戦以来、常にそのような形でやってきたものだから、国民のだれも近い将来に国内で巨大な武力闘争が起きるなどとは思っていない。
テレビをつければ中東での内戦や根拠不明の戦争がやっていても、そうした光景とおのれの生活を結びつけることは、まずない。
人生のほとんどを自衛隊という武力を持つ組織のなかで過ごしてきた小早川にしてもそうだった。
どうも他人事ではいられない、と感じるようになったのは、総合幕僚長として、名実ともに軍人の最高位に就いてからだ。
かつてのような実質的指揮権を失った代わりに、総合幕僚長の椅子には様々な情報が集まってくる。
以前は自分の関係する部隊、陸自から陸自、海自なら海自の情報しか目にできなかったが、いまはそれらすべての情報が小早川のもとへ集まり、まとめられて、省庁へ上げられる。
それを見ていると、なにも知らず薄氷を渡っていた自分が恐ろしくなる。
表面上はうまく隠しているが、日本はいま、危うい場所まで追い詰められている。
日本だけではない。
世界中の多くの国が、戦争へなだれ込むか、あるいはかろうじて平穏に踏みとどまるかの瀬戸際にいる。
相手はテロリストでも独裁者でもない。
異様な力を持つ者の集団、日本では精霊使いと呼ばれる人間たちの集団である。
彼らの振るまいは危うい。
テロリストは武器を持たなければただの人間だが、彼らは武器など必要としない。
その身ひとつで一個師団にも相当する。
ひとりでさえそれほどの脅威を持つ人間が組織を組めば、当然それは大きなうねりとなり得る。
世界を変えるうねりだ。
いまはまだ、それを知る人間はすくない。
精霊使い、といっても、あの奇妙な連中か、という程度の認識しかない。
まさかその精霊使いたちが団結し、それ以外の人間、なんの力も持たない一般の人間たちに牙を剥くなど、思いもしない。
ましてや精霊使いと人間たちの戦争が起こるなど――。
小早川はなんとかしてそれを防がなければと思う一方で、巨大なうねりは止められないとも思う。
世界中が戦争へ傾いたあの時代がそうだったように、急速な時勢の流れは、ひとりの人間の意思など木っ端微塵に踏みつぶしていく。
踏みつぶされ、あとになにも残らないのであれば、軍人として失格である。
蹂躙されてなお意思を残すものが軍人、あるいは政治家である以上、小早川も自分の意思とは裏腹の行動をとらざるをえなかった。
精霊使いとの決裂を避けながら、決定的な決裂を来したあとのことも準備する。
それを有能だと評価する声も聞こえるが、小早川自身、なにか重大な裏切りをしているような気持ちが消えないのだ。
仲良くしよう、と握手する相手に隠れ、虎視眈々と打倒する手段を練っている自分がいやになる。
それは正義だろうか、と思うのだ。
しかし正義であるかどうかより、いかに国民を守るかということが大事だとも思う。
最大限に国民を守るということはつまり、争いを未然に防ぐということでもある。
すなわち精霊使いとは敵対すべきではないということにもなるのだが、隙あらば相手を打倒しようとする相手と腹を割って話し合えるだろうか。
自分が精霊使いならどうか、と小早川は考え、その答えに絶望を見る。
日本の進む道は間違えているのかもしれない。
いまさら後戻りもできない。
日本が方針転換をしたところで、多くの同盟国の意見までは変えられない。
結果的に日本も戦争に巻き込まれ、なんの対策もできぬまま敗北せざるをえない状況になるのではないか。
小早川はこのごろ、酒の力を借りなければ眠ることさえできないようになっている。
そのような弱い自分をみっともないと軍人らしく思うのだが、かといって理想の形さえ描けない現状では、琥珀色の液体を遠ざける手段はなにもなかった。
その日も小早川は深夜になって家に帰り、自室でひとり、グラスを傾けていた。
緊急連絡用の携帯電話が鳴ったのは、日付が変わってすこし経ったころだった。
夜の深い時間に鳴る電話ほど不吉なものはない。
小早川もサイレンのようなコールにどきりとしながら携帯電話を取り上げた。
「小早川さん、お休みのところ申し訳ありません」
「いや、かまわん。なにがあった」
相手の声色にさほど焦りがないのに気づいて、小早川はすこし呼吸を落ち着ける。
グラスを置き、相手の言葉を待った。
「いま習志野から情報が入ったんですが、特戦の第五班が現在まで帰還せずと」
「特戦が帰還せず? どういうことだ。なぜ特撰が基地の外に出ている?」
「それが、第五班が自己判断で外へ出たようで。基地周囲の走り込むと称していたようですが」
「攻撃を受けた形跡は」
「現時点では確認されていません」
「第五班とは連絡もつかないんだな」
「無線にも反応ありません。銃器などの装備はしていないようですが、隊員は全員拳銃を所持しているはずです」
「公になるのはまずい。無線の呼びかけを続け、小規模の捜索隊を結成しろ。ほかの特戦はすべて待機、基地の監視下におけ。第五班は何人だ」
「三名です」
「全員の行方がわからないんだな。国内の精霊使いの動きは」
「わかっている範囲では、動きはありません。襲撃を受けたのではないと考えられます」
「とにかく、探すんだ。存在自体が機密の部隊だぞ。これが公になることだけは避けねばならん。第五班が持ち出した装備は」
「通常装備以外はすべて基地内に残っています」
「まったく、なにを考えているのか――情報が入り次第報告を頼む。時間は気にしなくていい」
「了解しました」
電話を切り、小早川は深く息をついた。
酒の続きを飲む気分ではない。
あるいはその連絡は、人類全体が関わる戦争への致命的な一歩かもしれないのだ。
特殊作戦部隊――対精霊使いとの構想で作られた部隊である。
その存在は、公にはされていない。
というより、特殊作戦部隊の存在はすでに公表されているが、それは単なる特殊部隊であるとされている。
自衛隊が独自に対精霊使い部隊を保持しているとはだれも考えていないだろう。
法律では、精霊使いも人権を持つひとりの人間として認識されている。
それを狙い打つことは、公にはできないが、対精霊使いを目論んで作られた部隊は世界中にある。
アメリカやイギリスなど一部の国はそれを公表さえしている。
特殊テロ対策部隊とは言っているが、それがなにを指すのかは、だれの目にも明らかだ。
来るべき精霊使いとの戦争のため、世界中が挙って実戦的な特殊部隊を創設している。
日本もその流れには逆らえない。
小早川の不安は、常にそこにあった。
だれの目にも触れず、黙々と訓練だけを繰り返す特殊部隊――いつか、なにかが起こりそうな予感がしていた。
「第五班か……」
現時点で特殊作戦部隊は五つの班に分かれている。
第五班は、そのなかでももっとも新しく作られた班である。
それより若い数字をつけられた班は、いってみれば既存の陸自の生え抜きで作られた班だった。
しかし五班は、まさに特殊作戦部隊になることを目的に育成された根っからの対精霊使い用の部隊だった。
対精霊使いの戦闘では有効であると判断されてはいるが、裏返せば、それだけの戦闘力を持っているということでもある。
通常装備でもその気になればいくらでも騒ぎを起こせる……そもそも、存在自体が機密であるから、おれたちはここにいる、と表明するだけでも充分なほどなのだ。
精霊使いの組織に襲撃を受けたのであれば、まだいい。
自分たちの意思で基地を抜け出した、というのが最悪の可能性である。
ただでさえ、日本での精霊使いの動きが活発化している時期だった。
法律が精霊使いと人間を区別しないのをいいことに、学校法人として精霊使いを日本中から集めている組織もある。
さらには小規模だが過激な運動をしている組織も現れている。
最近では、日本各地の博物館や資料館に収められていた精霊石が強奪されるという事件が起こっている。
精霊石を集めるということは、それだけ精霊使いを増やせるということでもあり、要は軍備を拡大させているのだ。
近々、なにかやるつもりにちがいない。
海外組織との連絡にも目を光らせているが、完全には把握できていないのが現状でもある。
世の中は危うい。
そこに一石を投じようとしているが小早川お抱えの部隊であることが情けない。
「なんとか、何事もなく済めばいいが」
しかしどうもそれは高望みらしいと、小早川自身気づいてはいた。
時代の流れが動乱を望むなら、それを食い止めることなどできるはずがないのだから。