第二話 3
3
碁を打つ音だけが響いている。
静寂のなか、ばしんと気持ちのいい音が鳴っては、また静寂へ戻っていく。
その音は、存外に夜と合う。
月が輝き星が瞬き、無音の劇を碁の音が引き締めている。
しかし薄暗い部屋のなか、碁盤に向かっている影はひとつだった。
右手が黒を打ち、左手が白で応戦している。
棋譜を並べているのではないことは、ときに一手打つのに数十分粘っているところからも窺える。
ここ数手は、あまり悩まずとんとんと進んでいた。
盤を見れば、もうほとんどは埋まっていて、詰めの作業をしているらしい。
黒白接戦で、数えてみなければ勝ちはわからないほどだった。
碁打ちが幼い指先で目の数をひとつひとつ数えていく。
と――。
「ただいま戻りました」
襖が開く。
若い女が膝を揃えて座っている。
「よく帰った。入れ」
答えた碁打ちもまた、少女である。
その丸い指先が目を数え終わるまで待ってから、女が部屋に入ってくる。
「邪魔をお許しください」
「いや、もう終わったところだ。ご苦労だったな」
少女は振り返り、女を見る。
その表情には年端もいかぬ少女らしくない、大きな慈しみのようなものが浮かんでいる。
「偵察はどうだったか」
「有意義でした」
女が応える。
「ほう」
と少女は目を細め、
「よい出来事があったようだな」
「おわかりですか」
「表情を隠すにはそれなりの訓練が必要だ。おまえは素直な顔をしている」
「お館さまには敵いませんね」
「お館、というのはよせ。そう呼んでいるのはおまえだけだ」
「どのように呼ぼうが自由だ、とおっしゃったのはお館さまですわ」
「それは、そうだが」
少女は困った顔をする。
「おまえも大きくなったな」
「育ててくださったのはお館さまですもの」
「人間はだれに育てられずともひとりでに育つものだ。して、牧村和人の様子は確認できたか」
「はい。精霊石が暴走している様子もなく、身体のほうも患ってはいないようです」
「これからの作戦に支障はないのだな」
「おそらくは」
「では例の件はおまえに任せる。おのれで考え、よいと思うことをすればいい」
「はい」
女は必要な報告を終え、立ち上がった。
その際にふと碁盤を見る。
一見ではどちらが勝ったのかわからない。
少女はその視線に気づくと、ちいさく笑った。
「これが不思議か」
「おひとりで打たれたのでしょう」
「右手と、左手でな。どちらを勝たせる、というわけではない。お互いの思惑を完全に把握しながら、お互いにそれを潰すように、つまり最善の手を考え、動く。どちらの作戦も完全に決まってしまうことはない。しかしそれでも、どちらかが勝ち、どちらかが負けるのだ。いまでは、黒が勝った。なぜ黒が勝ったのか、なぜ白が負けたのか、それは私にもわからん。意思とはちがうところで、おそらく偶然が働いて、勝ったり負けたりするのだ」
「それは偶然ではなく運命でしょう」
「おまえほど若い言い回しはできないよ」
少女はまるで老人のように笑って、しかしその笑顔は、無邪気な子どものそれなのだ。
その異様な不一致が、むしろ笑顔に新たな魅力を添えている。
「運命という言葉はお館さまから教わったものですわ」
「おまえと私では、同じ言葉でも捉える意味がちがう。私の言う運命は、この世界を導くものだ。神そのものと言い換えてもいい。しかしおまえの運命は、そうではないだろう。これは、どちらが正しいというものではない。ただおまえの言う運命――素敵な偶然という考え方は、私も嫌いではない」
「お館さまにもあったんですか。そういう素敵な偶然は」
女はすこし、親しい友人に見せるような無防備な表情を浮かべる。
「あったような気もするが」
と少女のほうは煙に巻く。
「あるいは、これからあるのかもしれない」
「わたしは今日ありましたわ。本当に素敵な偶然が」
「それはよかったね。おまえたちの幸せが、いまでは私の幸せだ。明日のことも期待している」
「はい。お任せください」
女は丁寧に頭を下げ、部屋を出ていく。
ひとりになった少女はふとちいさな庭を見た。
そこに生い茂る草木は、いまは暗闇が降り、すっかり隠れている。
たとえば、その見えぬ草木が風に揺れる様子を見抜けたなら。
碁の勝敗も見通せるだろう。
世界を導く偉大な偶然、神の意志も見抜いたということだ。
少女は並べた碁をひとつずつ碁笥に収めていく。
「もう一度、やるか。今度は白が勝つか、黒が勝つか」
どちらかを勝たせるのではない。
なりゆきで決まる勝利を見抜く。
それは、最後の瞬間まで少女にもわからない。
黒が不利だ、と見れば、なんとかして白を打ち崩すために考える。
白としては有利を守るように動く。
攻め、守り、罠を張り、回避する。
それは神の所行にも似ている。
だからこそ、そこに潜んでいる神を捕らえようとして、少女は何度も碁を打つ。
静かな夜にまた軽快な音が響き出す――。