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青の奇跡  作者: 藤崎悠貴
第二話
14/61

第二話 2

  2


「では、転校生もいることだし、精霊石のおさらいをするぞ」


 椎名哲彌は指し棒で黒板を叩く。

 黒板には教科書から抜粋されたいくつかの言葉が書いてある。

 精霊石の特徴、その由来について、性質の特異性――哲彌自身は教科書を見ながら、低く抑揚のすくない声で読み上げていく。


「まず精霊石の特徴だが、精霊石は一般的に未知の鉱物だといわれている。なぜ未知か、というと、現在まであらゆる方法でその成分の検出を試みたが、この精霊石という石は世界最硬を誇り、傷ひとつつけられない。おまけに石ごと成分分析機にかけてもまったく反応せず、有史以来、精霊石とはなにか、という問題に明確な答えをつけられた人間はいない。仮説ならいくつもあるが、どれも検証不可能な解釈に過ぎん。同じように、由来についてもなぞだ。古くから地球上に存在したことはわかっている。古い時代に地球へ落下した隕石の欠片である、とする仮説もあれば、地球内部で生成されたものが火山の噴火によって地表へ飛び出したのだ、とする説もある。また、精霊石は世界中の遺跡で発見されていることから、古代から権力者が身につける貴石だったと考えられている。……おい、転校生、おまえに説明しているんだぞ。居眠りしてる場合か」


 哲彌が指し棒で頭を叩くと、十人という少数学級でありながら堂々と机に突っ伏して居眠りをしていた生徒、牧村和人が飛び起きた。

 慌てて教科書を持ち、寝ていませんよ、という顔をするが、全員にばれている。

 まわりがくすくす笑う声で本人も気づき、頭を掻いた。


「すんません。最近、やけに眠くて」

「だからといって授業中に寝るな」

「先生の美声は子守歌にちょうどよかったんです」

「ふん……どこから寝ていた?」


 哲彌は教科書を持って教壇に戻る。

 生徒たちは、あれは照れているのか、と密かに囁く。

 普段から無表情だから、わかりづらいが、美声と褒められてそれ以上説教する気がなくなったのはたしからしい。


「えっと、いま、なんの話なんですか」

「最初からだな。今度はちゃんと聞け。あと、おまえの後ろで居眠りしてるばかを起こせ」

「青藍、起きろ。先生が怒ってるぞ」


 肩を揺すると、腕を枕にして寝ていた女子生徒、青藍が目を覚ます。

 青藍は身体を起こし、あくびをし、伸びをし、あたりを見回し、目をこすりながら、


「もう、朝か」

「昼だ。おまえ、教科書がちがうぞ。前の時間から寝てたのか」

「ん……主か。おはよう」

「おはよう。いま、椎名先生の授業だ。ほれ、この教科書だよ」


 哲彌は生徒たちにも聞こえるよう、深々とため息をつく。

 肩もがっくり落とし、珍しく呆れを前面に押し出した表情を浮かべる。


「おまえたちは、いまがテスト前だとわかっているのか? わかっていないだろう、ばかだから。それとも、ばかだから、わかっていて寝ているのか?」

「すみません。授業の続きをどうぞ」

「精霊石についてだ。おまえたちにもわかるように、もう一度説明する。いや、面倒だ。だれか説明してやれ。直坂」

「は、はい」


 とばっちりのような形で指名された直坂八白は慌てて立ち上がった。

 小学生が朗読するように、両手で教科書を持ち、腕を伸ばす。


「えっと、精霊石とは未知の――」

「あ、そのへんは聞いてた。ぎりぎり。もうちょいあとからでいい」

「え、えっと、じゃあ、精霊石の由来について。えっと、精霊石がどこで生まれたものなのかはいまもって謎とされている。成分を分析することによって年代や生成場所が断定できると期待されるが、成分の分析が困難であるため、やはり精霊石についてはすべてが謎とされる。精霊石は世界中で発見され、とくに遺跡や墓から発見されることが多い」

「つまりだ」


 と哲彌があとを引き継ぐ。


「古くから人間は精霊石とともに生きていた。とくに、王に準ずる者の墓で多く発見されることを考えると、かつての王たちの大半は精霊使いだったのかもしれないとも推測できる。精霊石とは古代からそのようなものとして扱われていたんだ。わかったか、居眠りふたり」

「はあ、なんとなく。でも、先生、性質の特異性っていうのは?」

「成分の分析もできていない精霊石だが、いくつか特殊な性質を持っていることが確認されている。たとえば、お互いでさえ傷をつけることができない、という鉱物的な性質もそのひとつだ。そうでない性質でいえば、ある種の人間が身につけると身体能力が向上する、というようなものだな。成分同様、そのメカニズムもわかっていない。近年は精霊石自体より、むしろ精霊使いを対象にする研究も進んでいるが、これも決して順調ではない。遺伝子や構成される細胞も決してほかの人間と変わらないが、なぜか精霊石と接したときだけ、そうしたものが異常に反応を示す。かつては世界中で様々な実験が行われたが――」


 校舎に、授業終了を告げるチャイムが鳴り響く。

 哲彌は恨めしげにスピーカーをにらみ、ぱたんと音を立てて教科書を閉じた。


「まあ、要は、人間は常に精霊石を研究してきたが、なにもわからんということだ。精霊石は貴重であり、精霊使いもそう大勢いるものではないから、研究が進まんのも無理はないが。では今日の授業はこれまで。各自、テストに向けて自習をしておくように」


 チャイムが鳴り止み、哲彌も教室を出ていく。

 とたんに教室は雑談や椅子を引く音で溢れかえり、人数はすくないが、ほかの学校となんら変わらない放課後の風景が現れる。

 居眠りで授業を妨げた張本人の和人は、別段懲りた様子もなく、あくびをしながら教科書を片づけていく。

 そこにすこし離れた席から日比谷卓郎が近づいて、


「ふたり揃って居眠りとは、うらやましいやつめ」

「どういうことだ?」

「つまり、あれだろ。おんなじ家に住んでるふたりが寝不足ってことは、考えられることなんかひとつしかないだろう色男め」

「ちょっと、そこ。教室で変な話しないでくれる?」


 がたんと席を立って、ひとりの女子生徒が立ち上がる。

 いかにもまじめそうな、黒髪の少女である。

 セーラー服のリボンもぴったり正面で結び、乱れは一切ない。

 スカートにもアイロンがかかり、皺だらけのシャツをだらしなく着ている卓郎とは正反対の女子生徒だった。

 卓郎はすかさず振り返り、にやりと笑う。


「別に、変な話なんかしてないぜ。変に解釈するほうが悪いんじゃないのか、生徒会長さんよ」

「あんたの会話の九割は変なことでしょ」

「そうかそうか。じゃ、さっきの会話のどこがどう変なのか、教えてもらおうじゃねえか」

「そ、それは」

「おやおや? どうしましたか、生徒会長どの。顔が赤いようですが」

「う、うっさいっ」


 少女は織笠菜月という。

 初等部から高等部までの生徒から毎年ひとり選ばれる、由緒ある生徒会長の役に就いている。

 いわば学生の代表で、校則厳守に心血を注いでいるようなところもあるが、面倒見がよく大人びた少女である。

 ただ、こと卓郎と接するときだけは、まるで子どものように意地を張る。

 本人はそれを「生理的に合わないやつだから」としているが、周囲はどうも、そうは見ていないようだった。

 和人もぎゃーぎゃーとわめくふたりをぼんやり眺め、


「仲いいなあ」


 と呟く。

 するとふたり同時に和人をにらみ、


「どこが!」


 と叫ぶ。

 和人としては、菜月が否定するのはともかく、卓郎まで決して認めないというのがわからなかった。

 菜月は美人である。

 そういったことに別段興味のない和人でも、美少女だと思う。

 普段の卓郎なら飛びつきそうな相手なのに、菜月だけには、そうはならない。

 卓郎自身に聞いたところでは、


「あいつは、たしかに顔はいいが、性格はだめだ。ああいう気の強いのは苦手なんだよ」


 ということだった。

 そんなもんかな、と和人も思う。

 よくわからないが、本人が言うならそういうことなんだろう、と。

 そうこうしているあいだにも、和人の後ろの席では、また青藍が首を前後に揺らしながらまどろんでいる。

 さらに後ろでは、八白がふたりの争いを仲裁すべきかどうか悩んでうろうろしている。


「……平和だなあ」


 和人は思わず呟いていた。


「平和じゃないでしょ」


 と菜月が食いつく。


「牧村くんもこのばかといっしょで勉強してないんでしょ。明後日からテストだってわかってる?」

「きた、お説教だぜ」


 卓郎が和人に耳打ちする。


「おれたちのことなんだから、ほっといてほしいよな」

「そうはいきません。うちの学年全体の平均点が下がるでしょ。今年の二年はばかが多い、なんて先生たちに思われたら困るわ。ねえ、八白」

「え、あ、えっと……」

「直坂さんはそんなこと思わねえよ。ね、直坂さん」

「あ、う、うう……」

「悩む姿もかわいらしい!」

「ばかじゃないの?」

「うっせ。悔しかったら直坂さんくらい愛らしくなってみろ」

「はいはい、ばかばか」

「くっ……やっぱりこいつは天敵だ。おい、牧村。おまえもなんか言ってやれ。あいつの悪口言ってやれ」

「わたしのどこに悪口を言う隙があるかしら? 成績優秀、運動神経抜群、容姿端麗のわたしに欠点などないわ。言えるものなら言ってみなさい」

「あ、本性を現したな。傲慢、ドS」

「おほほほ、痛くもかゆくもないわね」

「貧乳っ、幼児体型! 中学んときからサイズ変わってねえくせに」

「だまれ。それ以上言ったら八つ裂きにする」

「ま、まあまあ、ふたりとも、落ち着いて……ね?」

「はい、落ち着きます!」

「ほんとばかだわ。なんでこのばかと同じクラスなのかしら」


 生徒数のすくない不破学園では、初等部から高等部まで、すべて一学年一クラスになっている。

 同い年であれば同じクラスになるのは避けられないが、改めてその不幸を感じたように、菜月は深く深くため息をついた。

 そこで和人がぽつりと、


「なんで織笠のサイズを日比谷が知ってんだ?」


 その一言で、クラス中の雑談がぴたりと止んだ。

 気になってはいたが、だれも口にはできない疑問である。

 菜月と卓郎は一瞬顔を見合わせる。


「そ、そういえばなんであんたが知ってんのよ!」

「おれは服の上からでもだいたいのサイズがわかるんだ。それによると織笠は中二のときから身長以外変わってねえ」

「て、適当に言ってるだけでしょ」

「ちがうのか? じゃ、サイズ言うから合ってるかどうか言えよ。まず上から――」


 教科書が満載された鞄が宙を舞う。

 あ、と生徒たちが思ったときには、二、三キロはありそうなそれは卓郎の側頭部を射貫いている。


「はぐあっ」


 どう、と卓郎が倒れた衝撃で、寝ていた青藍がびくりと目覚めた。


「お、おはよう……なんの音だ?」

「おはよう。勇敢なばかがひとり死んだ音だ。惜しいやつを亡くしたな」

「ぜ、ぜんぜん惜しくないわ」


 菜月は肩で息をしている。

 顔も赤い。

 まさに間一髪、凶行を防いだというところだった。


「あんなばか、百回死んでもいいくらいよ」

「か、勝手に殺すんじゃねえ」


 机にしがみつきながら、卓郎が起き上がる。


「飛び道具とは卑怯なり、織笠菜月。なんつー重たい鞄だ。筋トレでもしてるのか? 教科書が山のように入ってるぞ」

「普通は毎日持って帰るもんよ。それなしで、どうやって予習復習するの」

「よ、予習復習だって? 聞いたか、牧村。あいつ、信じられねえこと言ったぞ。家に帰ったらマンガかゲームが普通だよな?」

「おれは掃除か洗濯だけどな」

「だからあんたらはばかなのよ、まったく。今度のテスト、ちゃんといい点取りなさいよ。クラスのためにも、絶対だから」

「あ、あの、じゃあ、ひとつ提案があるんだけど」


 控えめな八白が、恐る恐るだが、珍しく自分から手を挙げた。


「あの、テストも近いし、みんなでいっしょに勉強するっていうのはどうかな? ひとりでやるよりはかどると思うし」

「さすが直坂さん、いいこと言った!」


 と卓郎。


「それ、いい。非常にいい。直坂さんと青藍さんと放課後までいっしょなんて、夢のようだ」

「……勉強会をするにしても、こいつだけ省く必要があるわね。でもたしかに、いっしょに勉強すればばかふたりも監視できるしね」

「おい牧村、おれたちなんだか不名誉な感じにまとめられたぞ」

「否定できないのがつらいところだな」

「じゃあ、どこでやる?」

「図書室でいいんじゃねえの」

「でもこの時期だから、きっともういっぱいよ。ほかにみんなで座れるところっていえば食堂くらいだけど、あそこは集中できないし」

「だれかの家っていうのは?」


 と和人。


「別にうちでもいいけど、いまからじゃちょっと遅くなりすぎるか。日比谷は、寮だよな」

「おう。おれんとこでもいいぜ。ひとり部屋で、ちょっと狭いけどな」

「あんたの部屋はいやよ」


 と露骨に顔をしかめ、菜月。


「なんか、入りたくない」

「なんだそのアバウトな理由」

「直坂の家はおれんちと変わりないしな。じゃあ、残ってるのは……」


 全員の視線が菜月に集中する。

 菜月も卓郎と同じく、寮住まいである。

 校舎から徒歩五分、五人程度なら入れる広さの部屋であることはわかっている。


「わ、わたしの部屋? だ、だめよ、うちは。その、ほら、いろいろあるでしょ」


 菜月はとたんに慌て出す。

 もぐもぐと言い訳を呟くが、選択肢が卓郎か菜月の部屋しかなく、菜月自身が卓郎の部屋を拒否する以上、答えは決まったも同然だった。


「じゃ、織笠の部屋に移動ってことで」

「りょーかい」

「ちょ、ちょっと! まだいいなんて言って――ああ待って! 先に帰って片づけるから!」


  *


 学生寮は不破学園内にふたつある。

 ひとつは新しくできた学生寮で、正門からほど近い。

 もうひとつは古くからある寮であり、これは校舎のすぐ近くにある。

 不破学園の立地上、生徒のほとんどはふたつの学生寮のどちらかで暮らしている。

 菜月や卓郎の部屋があるのは、校舎に近い古い学生寮だった。

 外観は、新しい学校設備とは正反対に、古ぼけたような洋館である。

 というのも、もともと不破学園の土地は別荘地だった。

 不破学園の創始者は別荘地ごと買い取り、ほとんどの別荘を取り壊していまの不破学園を作り上げたが、その際に寮として利用するために残されたのがこの洋館である。

 四階建てで、窓はひどくちいさい。

 外から見上げると煉瓦が奇妙に積み上げられた壁のように思える。

 そこに五十人ほどの生徒が暮らしている。

 設備は古いが、校舎から近いことと、全員にひとり部屋が与えられることもあり、毎年全部屋が埋まるほどの人気だった。

 玄関の扉を入ると、ちいさなエントランスホールがある。

 正面に階段、左右に廊下が伸び、一階は管理人室や食堂、談話室などが並んでいる。

 二階以上はすべて生徒の部屋になっており、菜月の部屋は三階の西側にあった。


「いいって言うまで入ってこないでよ。入ってきたら命の保証はないから」


 菜月は厳しい表情で言って、先に部屋のなかに消える。

 残りの四人は部屋の前の廊下に立ち、ちいさな窓から外を眺めたり、あくびをしたりして時間を潰した。


「そういえば、おまえの部屋もここにあるんだよな」


 和人は思いついたように言った。

 卓郎はうなずいて、


「おれの部屋は四階だよ。なんにもない部屋だけどな。基本的にここはものが置けないようになってるんだ。テレビも談話室にしかないし」

「そうなのか。洗濯とか、掃除は?」

「掃除は自分でやる。洗濯も決められた時間のうちにならできるけど、ほとんどは休みの日にまとめてやるな。だから洗濯機の取り合いになる」

「ははあ、なるほど」

「その分、毎日二食は出てくるから、自炊はしなくていいんだ。ひとり暮らしよりちょっと楽なくらいだな」

「えらいよね、みんな」


 ここでは唯一実家で家族と暮らしている八白が、ぽつりと呟く。


「別にえらくないはないよ。やるしかないからやってるだけで。掃除も面倒なやつはあんまりしてないし」

「でもここの生徒ってみんな自立してる気がするの。それに比べたらわたしなんかぜんぜん」

「まあ、ある意味自立はしてるかもなあ。それも結局、自分の意思っていうより、そうするしかないだけだけど」


 不破学園は日本で唯一の精霊使い専門の学校である。

 ここに入学するため、日本中から生徒が集まってくるが、その多くは当然親元を離れてここで独立した生活を送ることになる。

 幸い通学可能な場所で育った八白から見れば、同級生はもちろん後輩たちでさえ、まるで大人のように自立した生活を送っているように見えるのだった。

 そういう意味では、和人も独立した生活を送っている。

 親はなく、一軒家でひとり暮らし、という文字どおりの独立生活だから、和人はむしろここの生徒たちに親近感を覚えていた。

 それぞれ思うことがありながらの四人で、唯一青藍だけが、なにも考えていないような顔で窓辺に立っている。

 壁を背にしているが、半ば眠り込んでいて、何度も傾いて倒れかけるのを和人に支えられていた。

 青藍は常にそのような態度である。

 人間ではないからか、基本的に、他人に興味がない。

 唯一の例外は和人だが、その意識が自分以外に向いているときにはやはり青藍も無関心で、大抵ぼんやりしている。

 和人もいまではすっかりそれに慣れ、どこでも寝る青藍を、会話をしながらでも的確に支えて倒れないようにする技術を身につけていた。


「あとでおれんとこも覗きにこいよ」


 と卓郎。


「ただし直坂さんと青藍さんは立ち入り禁止だ」

「ど、どうして?」

「男同士でしか伝わらないもんもいろいろあるからな」


 それに見当がついたらしく、八白はあわあわと焦って口ごもる。


「ま、見られたら見られたで、おれとしては別にかまわねえけど――」

「また変な話してるんでしょ」


 やっと扉が開き、菜月が顔を出した。


「目を離すとすぐそれなんだから」

「変な話なんかしてないって。エロ本はちゃんと隠したか?」

「も、持ってないわよそんなもん!」


 菜月の部屋は、広めのワンルームになっている。

 もとは洋館の客室として使われていた部屋だから、台所はない。

 扉を入ると短い廊下があり、その先に部屋がある。

 風呂は一階に広い浴場がついているが、トイレはその後の改修工事で全部屋に取りつけられている。


「シンプルなお部屋だね」


 八白も菜月の部屋に入るのはこれがはじめてで、興味深そうにあたりを見回す。

 室内には装飾らしい装飾がまったくない。

 ベッドのシーツでさえ簡素な柄である。

 ほかはガラスの丸テーブルがひとつとクローゼットがひとつあるだけで、どちらも男物のように味気ない。

 壁際に置かれたちいさな冷蔵庫の扉に、書類が何枚か磁石で留めてあるのが唯一生活を感じさせるものだった。


「へえ、このくらいの広さでも居心地はよさそうだなあ」


 普段広い一軒家にひとり暮らしをしている和人はしみじみと呟いた。

 近ごろは住人がひとり増えたとはいえ、それでも家には余裕がある。

 このくらいの部屋なら、ひとり暮らしでも寂しくはなさそうだった。

 しかしさすがに五人も入ると手狭になる。

 丸テーブルを囲んで座るにも限度があり、結局ひとりはベッドに上がることになったが、そのひとりが青藍だったせいで、ベッドに上がってすぐ青藍は寝息を立てはじめた。


「ああ青藍さんの寝顔! なんて神々しいんだろう。胸に沸き上がってくるこの感情こそ恋なんだろうか?」

「劣情でしょ。ばか言ってないで勉強はじめるわよ」

「ちぇ、鬼教官かよ」


 実際、菜月の指導は厳しい。

 やる気が皆無の青藍以外がノートを取り出すと、自分の勉強は放り出して、腕組みしてできの悪いふたり組をにらみつける。

 成績優秀で菜月に叱れることがないはずの八白が怯えるほど、その表情は恐ろしい。

 なにかを間違えるとすぐ、


「そこ、スペルがちがう」


 とか、


「そんな書き方じゃ覚えられないでしょ」


 とか、とにかく容赦ない指導が飛んでくる。

 長い付き合いで、こうして勉強を見てもらうのもはじめてではない卓郎は慣れたものだが、はじめてこの過酷な指導を受ける和人は、なにか言われるために肩をびくんと震わせ、慌ててノートを修正するのだった。


「ああくそ、青藍のやつ、ひとりでぐーすか寝やがって。あいつも成績は悪いはずなのにっ」

「そこ、ぶつぶつ言わない。口より手を動かす!」

「は、はいっ」


 まさにスパルタである。

 和人の目には、美少女といって差し支えない菜月の頭に角が生え、その手に金棒が握られているように見えた。


「こんなところで鬼を見るとはな……」

「女の鬼ってもっと色っぽいもんだとばっかり思ってたけど、現実って切ないよな」


 卓郎はぶつぶつ言いながらも手を動かしている。

 しかし気を抜くと無防備に寝ている青藍に目がいくらしい。

 蟻地獄に落ちていく昆虫のように、どうしても視線がそこに吸い寄せられる。

 その度に鬼教官から叱咤されるのだが、一息つくと自然と顔がベッドのほうへ向いてしまう。

 もはや病気である。

 病気なら労ってほしいものだと卓郎は思うが、目の前で仁王立ちしてこちらを監視する鬼教官がそんなことをしてくれるはずもない。

 普段の授業以上に厳しい勉強は、一時間にも及んだ。

 時間にするとさほど長くはない。

 しかし精神をすり減らす一時間だった。

 やっと小休止の許可を与えられてペンを置いた和人は、そのタイミングでもぞもぞと目を覚ましたのんきな青藍を見て、世の不公平を思い知った。


「やはりベッドはよく寝られる。……どうしたのだ、主。疲れた顔をしているが」

「疲れてるからな。一周して、愉快な顔になりそうだ」

「まだ一時間しかやってないでしょ。ほんと牧村くんも勉強はだめなのね」


 菜月は苦笑いしながら、ちいさな冷蔵庫を開ける。

 なかには水のほかにジュースのたぐいもあった。


「勉強のご褒美に振る舞ってあげましょう。飴と鞭ね」

「鞭に対して飴がすくない気がする……」

「いらないならいいのよ」

「いります、ください」

「素直でよろしい」


 菜月は人数分の紙コップを用意する。

 そのとき、


「あ」


 と声を上げたのは八白だった。

 ベッドの上の青藍を見たのだ。

 青藍は、クローゼットの扉からはみ出している白い布のようなものを引っ張っている。

 寝そべり、この布はなんだろう、という興味以外のなにも持っていないような、無邪気な行動だった。

 八白が声を上げたのは、いち早くその布の正体に気づいたせいだったが、それを注意するには遅すぎた。

 青藍は怪力である。

 大人が五人がかりでやっと持ち上げるものを、片手で軽々と上げてみせる。

 本人はすこし引っ張ってみただけなのだろうが、白い布はぐっと張り詰め、次の瞬間にはクローゼットの扉を押し開けて青藍の手元にたぐり寄せられた。


「わっ」


 よほどいっぱいに詰め込んであったにちがいない。

 扉が開け放たれたと同時に、クローゼットから服やらなんやらが雪崩を打って飛び出してくる。

 いちばん近くにいた和人はあっという間に下敷きになる。

 見れば、服や愛らしいぬいぐるみのほかに、下着らしいものもちらほら散見された。

 青藍が引っ張ったそれも、白いブラジャーの肩紐である。

 部屋にいた全員がその事態に気づいてはいたが、言葉が出なかった。

 服に埋もれた和人はわけもわからずもがいている。


「な、なんだこれ。だ、だれか助けてくれっ」


 もがいているうち、なんとか顔だけは抜け出した。

 ふう、と息をつく和人は、頭になにか引っかかっているのを感じて、手をやる。

 白いショーツだった。

 はっと気づいたときには、しっかり握りしめ、じっと観察したあとだった。

 一方青藍も自分の引っ張ったそれを観察し、ブラジャーだと判明すると、


「なんだ、ただの下着か」


 と興味をなくして放り出す。

 それが和人の頭にふわりと乗ったのは偶然である。

 すっと菜月が立ち上がった。

 表情がないのが、むしろ恐ろしい。


「い、いや、これはちがうんだ。だって、事故みたいなもんだし!」


 必死に弁明する和人だが、頭からブラジャーをかぶり、手にショーツを持っている姿は、事故にしてもあまりに説得力がない。

 菜月は無言で近づく。

 卓郎は八白を連れ、部屋の隅まで避難し、静かに合掌する。


「ははは話し合えばわわわわかるって……それにほら! か、かわいい下着だし、別に見られたって恥ずかしくは――」


 ――その後の和人の絶叫は、のちに旧学生寮の怪談として語り継がれることになるのだが、その原因まで知っている人間はあとにも先にもここにいる五人だけだった。


  *


「なあ、おれ、首変じゃない? 血とか出てねえかな?」

「だ、大丈夫だよ。菜月ちゃんだって照れ隠しだったんだと思うし」

「いや、照れ隠しであれはねえだろ。首がもげるかと思ったんだぞ。躊躇なくフルスイングだったし」


 和人は首を撫でさすりながら、とぼとぼ歩く。

 八白はそのとなりを苦笑いしながら歩いている。

 もうとっくに陽は落ちていた。

 等間隔に街灯が並ぶ山道をゆっくり下っていく。

 青藍は、いまは石に戻って和人のポケットに収まっている。

 というのも、まだ眠い、と主張する青藍が菜月のベッドから動かなかったから、石に戻して運ぶしか方法がなかったのだ。

 八白としては、期せずしてふたりきりの帰宅になったことは喜ばしい。

 ただ、青藍が石に戻った際、床に落ちた制服やら下着やらを手際よく畳んで鞄に詰める和人は、端から見ていて複雑なものがあった。

 同居している青藍を女として見ていないようなのは幸運だが、それにしても、まだ温もりが残る女性の下着を顔色ひとつ変えずに畳む和人は見たくなかった八白である。


「ほんと、大変だったね」

「織笠のああいう顔も珍しいよな」


 大変だったのは、和人がひとしきり「照れ隠し」の暴行を受けたあとだった。

 菜月はやっと感情と表情が追いついたように赤い顔で照れ、男子ふたりは強制的に目隠しをされ、そのあいだに女子ふたりが片づけることになった。

 青藍は菜月からベッドの上でじっとして動くなと命令されていたから、眠たげな顔でただその姿をぼんやり見ているだけだった。

 溢れ出した洋服やらなんやらは、洗濯物らしかった。

 本当は溜めたくないが、休みの日くらいしか洗濯機が使えないから仕方ない、というようなことをぶつぶつ言いながら再びクローゼットに無理やり押し込む。

 八白もそれを手伝いながら、まさか下着もそうなのか、ということを考えたが、あえて菜月には訊かないままだった。

 答えによってはなんとしてでも和人の記憶を抹消しなければならない。

 それよりは灰色で止めておこう、という賢明な判断である。

 片づけが済むと男子も目隠しを外したが、肝心の菜月は、まっ赤な顔をしてなかなか和人と目を合わせない。

 しかし意識しているのは明らからしい。

 ちらちら和人を盗み見、偶然視線が合うと、慌てて逸らす。

 恋をしている乙女のようにも見える。

 内心穏やかでないのは八白である。

 これ以上敵が増えるのは困るのだ。

 菜月だけではなく、和人まで意識しはじめたら一大事だが、幸いなことに、和人は目が合うと照れるどころか怯えて平謝りだった。

 ただ、八白から見ても、そうやって照れている菜月はかわいかった。

 やっぱりカップもちいさかった、と口走った卓郎を粛正する様子は恐怖以外の何物でもなかったが。


「勉強、あんまり進まなかったな」


 思い出したように、和人がぽつりと言う。

 ここだ、と八白は隠れて気合いを入れて、


「そ、そうだね。あ、あの、もしよかったらあたしが教え――」

「有希子先生にでも教わるかなあ。やっぱり本職の教師に教わるのがいちばんいい気がする。……ん、どうした、直坂。なんで落ち込んでる?」

「べ、別になんでもないもん。有希子先生だって忙しいと思うよ」

「それもそうだな。やっぱりテストは諦めよう、うん。慣れないことはするもんじゃない」

「あ、諦めちゃだめだよー。菜月ちゃんが怒るよ、絶対」

「だってできないんだからしょうがないだろ」

「だ、だからね、一応あたし成績いいし、お、教えるのだって下手じゃないと……」

「あ、そうだ! テストで思い出したけど、ここのテストって筆記だけじゃないんだよな。精霊石のテストもあるんだろ。おれはそっちのほうが不安だよ。いまだに精霊石ってのがよくわかんないんだよな……ってまた落ち込んで、どうした」

「なんでもないもん。ひとりでがんばればいいんだよ、牧村くんなんか」


 和人は首をかしげる。

 不幸なことに、この時間急な山道を下っているのは、八白と和人のふたりきりだった。

 和人の鈍感を責める人間もいないし、そっと八白の不機嫌の理由を和人に教える人間もいない。

 ただ山独特の異様なほどの静寂がふたりを見守るのみである。


「そういや、さ」


 八白の顔色を窺いながら、和人が切り出す。


「前から一回訊いてみたかったことがあるんだけど、いい機会だし、訊いてもいいか」

「え。な、なに?」

「おまえさ、胸のサイズいく――」


 言い終わる前に闇を鞄が走っている。

 ――数分後、和人は鼻を押さえながら、八白は赤い顔でぷりぷり怒りながら、ふたりは歩いていた。


「ほんの冗談だったのに……」

「冗談でもだめなのっ。セクハラっていうんだよ、そういうの」

「固いなあ、直坂は」

「みんなそうなの! そもそもね、牧村くんはデリカシーが足りないんだよ。そのへんもっとちゃんと考えてよね。よろこんだり落ち込んだり、毎日大変なんだから」

「お、おう、すまん」


 八白の表情に圧される和人である。


「それで、訊きたいことってなんなの。ただ冗談が言いたかっただけ?」

「いや、精霊石のことなんだけどさ」


 と和人はすこしばかりまじめな顔になる。


「まだよくわかんねえって言っただろ。なんていうか、結局精霊石ってどういうもんなのかと思ってな」

「どういうものって、精霊石は精霊石でしょ? その、力をもらえるっていうか、そういう不思議な石じゃないの?」

「じゃあおれたちはその力をもらってどうするんだ。力仕事に生かすわけでもないし、その力がなきゃ生きていけないってわけでもないし……なんのための力なんだろう?」

「それは――」


 答えようとして、そんなことは考えたこともなかったと八白は気づいた。

 精霊石が使えるとわかり、自然な形で不破学園に通っている八白である。

 なんのためにそんな力があるのか、とは、考えてもよかったはずだが、不思議と思いついたこともなかった。

 ほかの教科と同じように、精霊石についても勉強はしている。

 しかし自ら望んだわけではない。

 授業の一環に組み込まれているから、となにも考えずに勉強していた。

 考えてみれば、なんのためだろうと八白も思う。

 その力があること、精霊石と精霊使いがそのような関係にあることは、事実そうなのだから、理由などないかもしれない。

 月と太陽のようなものだ。

 なぜそのような関係なのか、という理由はあっても、なんのために、という意味はない。

 精霊石と精霊使いにも意味などないと、どこかで考えていたらしい。

 和人に言われて、八白ははじめて気がついた。

 気がついてみれば当たり前の疑問ではある。

 なんの意味もなしに身体を鍛える人間はいない。

 学校の勉強としてではなく、ただの行為として捉えるなら、精霊石の力をうまく使えるように訓練するのには、意味が必要なはずだった。


「その気になれば、ひとでも殺せる力だ。なんの意味もなしに身につけていいものなのか?」

「じゃあ、牧村くんはどんな意味があると思うの?」

「それがわからないんだよな、おれにも。だから精霊石をうまく使うっていわれても、うまく使えるようになってどうするんだ、って考えるとなんの意味も出てこないんだ。学園に通いはじめたころはできるようになってから考えりゃいいと思ってたんだけどなあ……このごろはちょっとさ」

「そっか。そうだよね」


 ふたりの頭上には煌々と三日月が輝いている。

 静かに見守ってはくれるが、思い悩むふたりに助言まではしてくれない。

 八白は意味を探して、いままでの自分を振り返る。

 精霊石とともにあった過去を振り返れば、自然と意味も見つかるかもしれないと考えたのだ。

 しかしそこにはまるで機械のような自分がいるだけだった。

 なにものにも反抗しない優等生としての自分。

 意思もない、ぼんやりした抜け殻のような自分が何人も佇んでいる。

 とくにやりたいこともないから、勧められたものを選ぶ。

 とくにいたい場所もないから、手招きされたところへ行く。

 そのことを、いままで真剣に考えたことはなかった。

 いまはその空虚な心が、そのまま魅力の欠如に感じられる。


「ごめんね……あたしにも、わかんないや」


 ぽつりと八白は言った。

 失望されるだろうと思ったが、すくなくとも口調だけはそれまでと同じ様子で和人は、


「ま、考えてもしょうがないのかもな」

「そんなこと、ないと思う」


 八白は顔を上げた。


「あ、あの、いまはわかんないけど、いっしょに考えればなにかわかるかもしれないし……精霊使いとして、考えなきゃだめな問題なんだと思うの」


 意外そうな顔の和人である。

 そんなふうに八白が言うとは思わなかったのかもしれない。

 八白自身、なぜ言ったのかわからない。

 和人に失望されたくなかっただけかもしれない。

 あるいは心の底で、本当にそう思ったのかもしれない。

 和人はくるりと表情を変え、明るく笑う。


「そうだよな。おれもそう思うよ。やっぱり、直坂に訊いてみてよかった」


 もし和人のために言ったのなら、その返答で気分は明るくなるはずだった。

 八白は相変わらずうつむいたままである。

 返事もそこそこに、山道を下っていく。

 和人も冗談を言うような雰囲気ではなかった。

 やがて暗い山道も終わり、麓に着く。

 そこからそれぞれの家まではすぐ近くだった。

 その短いあいだに八白は話題を探したが、適切な言葉が見つからないまま、家の前に着く。


「じゃ、また明日な」

「うん……おやすみ」


 八白は玄関の扉を後ろ手に閉め、ため息をついた。

 もともと、物事を悪いほうへ考えてしまうくせのある八白である。

 立ち直るにはまだ時間が必要だった。


  *


 和人は制服を脱いだところで、


「あ」


 と声を上げた。

 忘れていたことを不意に思い出したのだ。


「買い物、行ってねえや」


 基本的に買いだめはしない主義の和人である。

 とくに安いからといって生ものを買いだめしても、ひとり暮らしで消費する量は知れている。

 余らせるのはもったいないから、ちゃんと冷蔵庫にあるものも計算して、翌日のために買い物をするのが日課だった。

 普段は学校帰りにそのままスーパーへ向かうが、今日は時間も遅いから、すっかり忘れていた。


「しゃーない……行くか」


 脱いだ制服を、渋々着る。

 精霊石の姿で眠っている青藍もポケットに入れる。

 家に置いていって、精霊石を手放すとは何事だ、と責められるのはごめんだった。

 もっとも、持っていったら持っていったで、寝ぼけて途中で人型になるやもしれず、そうなると当然服は着ていないわけだから、そのほうがやっかいなことになる。

 途中で起きないでくれよ、と願いつつ、和人は家を出た。

 時間は八時近い。

 スーパーは九時まで営業している。

 歩いて数分の距離だから、充分間に合うが、あたりがまっ暗になってからスーパーへ行くのは妙な気分だった。

 こんな時間でも客は案外多い。

 夕方とは客層がちがうらしい。

 主婦よりは、仕事帰りのサラリーマンや楽な格好の若い男女が多い。

 和人のように学生服で買い物に着ている人間はいないようだった。

 そうでなくても、毎日通っているせいで顔なじみが多いスーパーである。

 ひとり目立つ学生服でカートを押しているとほとんどの売り場で店員から話しかけられる。


「お、和人くん、今日はひとりかい。あの美人の子にはふられたのか」

「ふられてねーよ。いまごろ寝てるんじゃないかな。野菜、なにが残ってる?」

「今日は結構残ってるよ。店としては売り切れててほしいんだけど。パプリカとかどう?」

「うまいの? パプリカって」

「うまいと感じるひともいるだろうね」

「引っかかる言い方だな……ま、いいや。色もきれいだし」

「まいどあり。中華の炒め物なんかに入れると目立っていいよ」

「中華ねえ……じゃ、肉でも買うかな」

「料理上手でいいねえ。うちの妹と結婚して毎日ご飯作ってくれないかな」

「妹さんに作ってもらえよ」

「それができたら苦労しないって。弁当だってぼくが自分で作ってるんだぞ」

「おれが作るよりそっちのほうがうまいよ。じゃ、また明日」


 鮮魚売り場を通りすぎ、肉売り場でパック詰めされた肉を品定めする。

 結局、牛肉を買った。

 チンジャオロースを作ることに決めたらしい。

 それに合わせてほかの材料も買い、行くところ行くところで店員と雑談しながら、店内をぐるりと回ってレジに着く。

 精算を待っているあいだに時計を見ると、八時半になっていた。

 昨日立てた献立では、今日の夕食は具だくさんチャーハンとコンソメスープにするつもりだったが、今日はチャーハンだけにしようと考える。

 重さを考えてビニール袋に詰め、スーパーをあとにする。

 それがもう数分遅ければ、そんな場面にも出くわさなかっただろう。

 店の照明で昼間のように明るく照らされている駐輪場である。

 三人の男と、ひとりの女がいた。

 男たちはそれとなく女を取り囲んでいる。

 女のほうは自分よりの長身の男たちを見上げ、戸惑っている様子だった。


「なあ、ちょっとくらいはいいだろ」

「ただ遊びに行くだけだって。な?」


 別段柄が悪い男たちにも見えない。

 すこし強引なナンパという程度だろうと、和人はその横を抜けて帰ろうとする。

 和人もまったく無関係の人間関係に口を出すほど物好きではない。

 ただ、通りすぎる一瞬、女と目が合った。

 長い髪を編み込み、赤い縁の眼鏡をかけた女である。

 見かけは地味だが、男たちが声をかけるのもうなずけるような女ではあった。

 静かで落ち着いた美しさがある。

 大味なひまわりより、控えめな竜胆にたとえられる印象だった。

 その女が和人を見てほほえんだ。

 すくなくとも和人にはそう見えた。

「申し訳ありませんけど」


 と女は存外にはっきりした口調で言う。


「あなた方とわたしでは、釣り合いませんわ」


 意味を計りかね、男たちが顔を見合わせる。


「あなた方のような取り柄もなくみっともない男性では、わたしの相手にはふさわしくないという意味です」

「てめえ――」


 男のひとりがすごんだ瞬間である。

 和人がその男のすぐ背後まできて、腕を掴んでいた。

 しかし男たちは、和人が戯けたように、


「はい、そこまで」


 と声を出すまで、その存在にまったく気づいていなかった。


「だれだッ」

「通りすがりだけど、それ以上はだめだろ」

「うるせえ!」


 こうなっては、避けようがない。

 男のひとりがぶんと腕を振る。

 まったく素人の動きである。

 また、その攻撃に合わせてほかのふたりが動くわけでもない。

 和人は悠々と躱して、伸びきった腕をとった。

 ほんのすこし、関節に触れる。


「ぎゃっ」


 と男が悲鳴を上げるのと、こん、と関節が音を立てるのはほとんど同時だった。


「お、折りやがった!」

「折ってない折ってない。外したんだ。すぐ治るよ。かなり痛いけど」

「こいつ――」


 威勢はいいが、手は出ない。

 逆に和人が一歩踏み出すと、男たちは揃って二歩後退した。

 にらみ合いのあと、男たちが逃げ出すまで一分もかからない。

 そのあいだ、女は逃げもせず、ただゆったり笑ってその様子を見ていた。


「いまのは、きみが悪い」


 和人は地面に置いたスーパーの袋を拾いながら言った。


「ああやって挑発すれば、そりゃ向こうは怒るだろ。もっと穏便に断ればよかったんだ」

「事実をそのまま言っただけですわ」


 女も引かない。


「あなたは、あの方々がわたしと釣り合うとお思いですか?」

「釣り合うとか、そういう問題じゃないだろ。もしだれもいなかったら怪我してたかもしれないんだから」

「あなたが助けてくださると思ったから言ったんです。そしてあなたは助けてくださいました。お強いんですね」

「けんかっ早い友だちがいるからな。そいつのせいで慣れたんだ。じゃ、おれ、帰ってチャーハン作らなきゃいけないから」


 すっかり興味を失った表情で立ち去ろうとする和人を、


「お待ちください」


 と女が丁寧に留める。


「お名前だけ、教えてくださいませんか」

「牧村和人」

「ねえ、和人さん。運命の出会いを信じますか?」

「は?」


 ほとんど立ち去りかけていたが、さすがに振り返る。


「運命の出会いですわ」


 女は意味ありげにほほえんでいる。


「いずれ、おわかりになるでしょう」


 女の笑みが、すっと闇に紛れる。

 和人がはっと気づいたときには、女はもう消えていた。

 夢を見ていたか、狐に化かされたような後味の悪い感覚だけが残っている。

 和人はひとしきりあたりを見回し、首をかしげ、結局なにもわからないまま帰宅するしかなかった。

 そして和人は翌日になって女の言葉の意味を知るのである。


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