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青の奇跡  作者: 藤崎悠貴
第二話
13/61

第二話 1

  1


 動物には学習能力があるが、鉱物にはもちろんそのようなものはない。

 そのせいかもしれない、と牧村和人は思う。


「服を着ろ、服を!」


 いままで何十回と言ってきたことだが、そのたびに当人はあくびなどしながら、


「面倒くさい」


 と呟く。

 いささかの進歩も見られない。

 直坂八白がどたばたと部屋を出ていったあと、やっと当人もベッドから這い出て、渋々床に散らかしてある下着をつける。


「ちゃんと布団用意してあるんだから、寝るんならそっちで寝ろよなあ」


 深くため息をつき、和人は何気なく部屋を見回した。

 ちょうど白い尻がこちらに向いているところだった。

 慌てて背中を向けた後ろで、もう着替え終わった、という声がする。

 ふう、と安心して振り返り、


「下着姿は着替え終わったとは言わねえ!」

「服を着ると動きづらいのだ。ただでさえこの胸の締め付けが鬱陶しいというのに」

「あ、こら、揺らすな、ばか。と、とにかく、ちゃんと制服着ろよっ」

「むう……主が言うなら仕方あるまい」


 またいそいそと服を着る音がする。

 相変わらず服を着るという意識には進歩が見られないが、ここまでくるのも大変な労力を要している。

 まず服を買うのが大変だった。

 男である和人が、女物の服を買い慣れているはずもない。

 金を渡し、好きなものを買ってこい、といっても、いちばんは裸という人物が服に興味を持っているわけもない。

 もし八白が助け船を出してくれなければ、いまごろどうなっていたことか。

 下着もやはり八白が見繕ったものだが、それを買うのも大変だった。

 まずサイズというものがある。

 それを計るために下着屋まで行く必要がある。

 和人から離れて存在できない彼女だから、当然和人も行く。

 そして試着やらなんやらをしているあいだ、その外でじっと待っている。

 まさに針のむしろである。

 女性下着屋に男がいる、なんだこいつ、という視線を一身に受けながら待つ苦痛は、経験したものにしかわからない。

 しかしそれでなんとか着る服もでき、人間らしくなった。

 それを考えるとあの苦痛も無駄ではなかったと思うが、あれだけ苦労して手に入れた服を脱ぎ散らかし、裸がいい、楽だ、などと言っているのを見ると、やはり無駄だったのかと思わざるをえない。

 まあ、それはそれで役得だけど、と考えている自分も情けない。

 そもそも、美しいのがいけない、と和人は思う。

 なまじ美しいだけに、人間のように思えてしまう。

 しかしそれは人間ではない。

 人間と同じ姿形をしていても、人間とはまったくちがう存在なのだ。


「青藍、ちゃんと着たか」

「む……このチャックが上がらぬ」

「不器用だな、まったく」


 背中のチャックを上げてやり、和人はぽんと青藍の肩を叩く。

 ――青藍という名も、また苦労した。

 青藍は精霊石である。

 精霊使いでも、自分の持つ精霊石に名前をつけている人間はすくない。

 和人もそんな趣味はなかったが、かといって人間化したときに呼ぶ名がないのでは不便だった。

 本人は、石でも「おい」でもなんでもいい、というのだが、まさかそんなわけにもいかない。

 和人は本屋で姓名判断や子どもの名づけ方なる育児本を買い、あれこれ考えたが、結局思いついたのは「青藍」という言葉だった。

 もっとぴったりの名前があるはずだという気もしたし、それでしっくりくる気もする。

 本人はとくに不満そうでもない。

 だから、青藍、と呼ぶことになった。


「そもそも、人間で寝るなら最初からそうしてればいいのに、寝てる途中で人間になるからあんなことになるんだぞ」


 和人もシャツを脱いで制服に着替える。


「仕方あるまい。寝ている途中でこの姿になりたくなったのだ」

「わがままか」

「上には乗らぬようにした。前に、重たい、と文句を言っただろう」

「人間ひとりが乗ったら、そりゃ重たい。人間で寝るならちゃんと布団も用意したのに。狭いだろ、ベッドは」

「我はかまわぬ」

「おれがかまう。……つーかひとの着替えをじっくり見るなっ」

「減るものでもなし」

「台詞が逆だろ……おまえはもっと常識を身につけないとだめだな」


 青藍は不思議そうな顔をしている。

 青藍は精霊石である。

 精霊石とは石であるから、石に常識などあるはずがなく、青藍が非常識なのも当然だった。

 問題は青藍が人間の姿にもなれることだ。

 そのような精霊石は、青藍以外ひとつもない。

 そしてその稀少な精霊石の持ち主こそ、牧村和人だった。

 世界でただひとつしかない精霊石の持ち主だという自覚は、和人にはまだない。

 しかしその事実から逃げない覚悟だけはすでに持っている。


「さて、洗濯は――」


 和人は時計をちらりと見る。


「また明日だな。早寝早起きが取り柄だったおれがこんな生活になるとはなあ」


 とはいえ、まだ時間は六時半をすぎたところだった。

 和人は青藍を引き連れ、部屋を出る。

 リビングではふくれっ面の八白が待っている。


「ま、牧村くん、あのね。いくら精霊石でも、ああいうのってよくないと思うの」

「おれもそうは思うんだけどなあ……」

「む?」


 ふたり同時に視線を向けられ、青藍はとぼけるように首をかしげる。

 そしてふたりは同時にため息。


「部屋を分けるのがいちばんいいんだけどな」


 それができない理由も、やはり青藍が精霊石であるというところにあった。

 精霊石は、持ち主がごく近くにいなければなんの効力も発揮しない。

 飾られているだけではただの貴石である。

 ゆえに精霊使いは常に精霊石を身につけている。

 いわば、和人と青藍が並んで立っているのは、八白が手首に精霊石をつけているのを同じだった。

 いまでも数メートルであれば離れていられる。

 しかしそれ以上に離れると、青藍は力を失ってただの石ころへと戻る。

 空いている部屋に青藍を移せないのはそういう理由だった。

 もっとも、だからといっていっしょのベッドで寝る理由には、ならない。

 事実和人の部屋には布団がもう一組置いてある。

 青藍が人間の姿で寝るときはその布団を使うように言ってあるが、石のときはつい身につけて寝てしまうから、その状態で人間形態をとると今朝のようになってしまう。


「まあ、それも追々考えるしかないか」

「お、追々でいいのかなあ」


 不安げな八白をよそに、和人はエプロンをつけ、朝食の準備をはじめる。

 用意する朝食はひとり分である。

 八白は自分の家で食べているし、青藍は精霊石ゆえ食事は必要ない。

 そのくせ睡眠だけはする。

 寝起きは和人より悪く、食事のあいだは大抵食卓に座ってうつらうつらしている。

 その不安定な頭がこつんと和人の肩に落ち着くと、八白がびっくりしたような、うらやましそうな顔で見る。

 和人はそれにはまったく気づかず、自分で用意した朝食を自分で食べ、さっさと後片付けも済ませてしまう。


「ほんとは掃除も洗濯もしたいけど、もう時間だし、行くか」


 根っからの几帳面かつきれい好きの和人は、名残惜しげに庭の物干しを見ながら、家を出る。

 目指す学校は、家の背後にどんと控える不破山の中腹にあった。

 ――彼は不破学園の生徒なのである。


「転入してからもう二ヶ月経つのか。なんつーか、月日が流れんのは速いな」

「おじいちゃんみたいなこと言って」


 八白はくすくす笑う。

 主に青藍関係で不機嫌になることが多い八白だが、その分上機嫌のときも多い。

 いままで朝にすこし顔を合わせる程度だった和人にしてみれば、それは八白の意外な一面だった。

 八白といえば、子どものころのおろおろしてあたりを見回している印象しかない。

 笑っているより泣いているか怯えているほうが多いような少女だった八白も、いまでは普通の女の子のように笑っている。

 和人には感慨深い瞬間だった。

 ――もっとも、八白が上機嫌なのは和人といっしょに登下校できるからで、普段はまだ気の弱いところが目立つのだが、和人といるときは大抵上機嫌なので、和人がそれを知ることはない。

 八白、和人、それに青藍の三人は不破学園への唯一の通学路を進む。

 これがきつい山道である。

 不破山の中腹に位置する不破学園へ行くには、天候が悪い日は車さえいやがる山道を歩いていくしかない。

 ただ、景色だけはいい。

 右手には山肌が続くが、ある程度まで登ると左手側が開け、町が一望できるようになっている。

 頂上まで登ればさらに景色はいいが、その頂上は二ヶ月前に起こったある事件以降、閉鎖されたままになっている。


「景色がなけりゃ毎日は登れないな、これは」


 今朝も和人はガードレールに掴まって所々休みながら山道を登っていく。

 その横を行く少女ふたり、八白と青藍が涼しい顔をしている分、和人は自分がひどく情けない男に思えてきた。

 しかし八白は何年もこの道を歩いて通っているし、青藍に至ってはその気になれば木から木へと飛び移って山を越えられるほどの身体能力がある。

 比較対象が桁違いなのだ。


「悪ぃな、おれのペースに付き合わせて。ほんとならもっと遅く出られるんだろ」

「ううん、時間も大丈夫だし」

「つらいのなら我が抱えてやろうか」

「いや……それはさすがに恥ずかしい。男のプライドに関わる」

「では我を抱えるか?」

「石になってるんならいいけどさ、人間では無理だろ」

「やってみなければわかぬ」

「あ、こら」


 青藍が隙をつき、和人の背中にひょいと飛び乗る。

 身軽な青藍だからこそできる業である。

 和人は慌ててガードレールを掴んで、なんとか転倒は避けた。

 ただ、背中にずっしり、人間ひとり分の重みがのし掛かっている。


「くっ……一歩も進めん」


 八白もはじめは笑っていたが、青藍の艶やかな黒髪が和人の頬を撫で、その腕がきゅっと和人にしがみつき、背中にぴたりと寄り添い、落ちないように和人が青藍の太ももあたりを支えている様子に気づき、表情を変える。


「ちょ、ちょっと、危ないよ、ふたりとも。転んじゃったら大変だよ」

「ほら、風紀委員が怒ってるぞ。つーかほんとに重たい。体重何キロだ?」

「ま、牧村くんっ。女の子にそんなこと聞いちゃだめなんだよっ」

「計ったことはないが、だいたい四十キロ前後だろう」

「よんじゅ……」

「なんで直坂がショックを受ける?」


 青藍のほうが八白よりも背が高い。

 出るべきところも、青藍のほうが出ている。

 それはサイズを確かめるまでもなく、明らかである。

 それで体重が八白よりも軽いということは……。

 八白はぱっと前を向く。


「さ、さあ、学校行こっ。牧村くんもちょっと走ってトレーニングしたほうがいいよ。あ、あたしも付き合うから」

「たしかに登校の度にこれじゃあな。やるか、トレーニング」

「主がやるなら、我もやろう」

「せ、青藍さんはいいのっ。それ以上減ったらだめ!」

「トレーニングなのになんか減るのか? むしろ筋肉が増えるのでは?」


 よくわからん、と和人と青藍は顔を見合わせる。

 察しの悪さでは、このふたりは似たようなものだった。

 三人はそのようにして時々立ち止まりながら長い山道を登っていく。

 やがて学園の正門が見えてくる。

 学校の門にしては異様に強固な門だった。

 高さは四メートル近くあり、どんな炎でも焼き切れないほど鉄格子も太い。

 今朝もそれはぴたりと閉じられ、開く気配がない。


「最初にこの門見たときはびっくりしたよ」


 と和人は門に手を添える。


「こんなもん、人間の力ではびくともしないもんな。機械式でもないし」

「安全のためだから仕方ないよ」


 八白も手をかける。

 和人はそれにぴくりと反応する。

 男の和人ではびくともしなかった巨大な門が、八白が軽く手を当てただけで大きく軋んで動き出した。

 精霊石の力である。

 薄く開いたすき間に三人がすべり込み、青藍が控えめに門を押して閉める。

 がしゃん、と大きな音を立てて門が閉まると、まるで刑務所に入れられたような気分になる。

 実際、精霊石の力を借りなければ入ることも出ることもできない門だった。

 学園はこうして侵入者を防ぎ、学生の安全を守っている。

 しかし一歩学園のなかに入ると、そこはもう剣呑さのないありふれた学校だった。

 門からすこし行くとほかの生徒たちもちらほら見えてくる。

 漏れ聞こえてくる会話もごくありふれている。

 昨日のテレビがどうとか、流行りのものがどうとか。

 そんな会話をしている人間たちは例外なく精霊使いだが、ここには精霊使いしかいない分、だれもそれを意識していない。

 まだ精霊使いになって間もない和人にとって、それはなんとなく不思議な光景だった。

 八白という精霊使いが身近にいた和人にしても、いままでの精霊使いの印象は薄暗いものだった。

 とにかく、わけのわからない力を使う連中。

 大半の人間にはないものを持っている連中だから、なにを考えているのか見当もつかない。

 その気になれば素手でビルさえ壊せる力を持っているのだ。

 それでも普通に生活しているのは、自分もその一員になったいまでさえ不可思議だった。


「まあでも……」


 和人はとなりを歩く青藍を見る。


「精霊石が人間とおんなじ制服を着て学生やってる世界だもんなあ」


 なんでもありといえば、そのとおりである。

 そういう世界に、すでに入り込んでしまっている。

 不思議だなあ、と一歩引いた位置から見ている余裕はないのだ。


「あ、あたし、風紀委員の仕事があるから、先に行くね」

「おう、そっか。がんばってな」


 八白はひとり駆け足になって、なんとなく心配そうな顔で何度か振り返りながら、先に校舎へ走っていく。

 和人はそれを見送り、無表情でとことこ歩いてついてくる青藍に目をやって、


「悪くねえよな、こういうのも」

「む?」


 と青藍は首をかしげる。


「我は、主と共にあればなにも悪くはないが」

「そういうこと真顔で言えるのがすげーな、おまえは」


 しかし青藍の言葉に特別な意味などないと和人は思う。

 なにしろ、精霊石だ。

 持ち主が近くにいなければなにもできない。

 そういう意味で、近くにいればいい、ということだろう、と勝手に解釈し、ふんふんとうなずく。


「おれも、ここじゃおまえがそばにいてくれないとなにもできないからな」

「うむ、そうだろう。主はどんどん我を頼るとよい」

「いまでも充分頼ってるけど――」

「おいおい、朝っぱらから愛の確認ですかこのやろう」

「おおっ、日比谷、いつの間に」

「さっきからいたっつーの。てめえらがお互いしか見てねえから気づかねえんだろうが。それでも親友ですかと問いたい」

「いや親友じゃねえし」

「ぶんぶん手を振って笑顔で否定すんじゃねえ。ああっ、お美しい青藍さんまで真似するなんて」


 この学園で、日比谷卓郎という名を知らぬ者はいない。

 女子生徒ならだれでも一度はこの男に愛の告白を受け、男子生徒ならだれでも一度はその場面を目撃している、とさえいわれるほどの生徒である。

 かくいう和人も、転校初日にその場面を目撃した。

 告白されたのが青藍だったのだから、それも当然といえる。

 青藍はその場で一刀両断したが、一度では諦めきれないらしく、将を射んとせばまずは馬から、ということで、親友になってやろうと一方的に言われたのが和人と卓郎の出会いだった。

 もちろん和人は丁重にお断りしたが、それ以降、同じクラスということもありなにかと行動を共にすることが多い。


「あれ、愛しの八白ちゃんは?」


 卓郎はあたりをきょろきょろと見回す。

 ついでに鼻もくんくん鳴らす。


「風紀の仕事だってよ。もう校舎行ったぞ」

「ちぇ、入れ違いか。いいよなあ、おまえは。朝から美少女ふたりと登校だもんな」

「そのうちひとりは石だけどな」

「ばかやろう、愛の前じゃそんなこと関係ねえんだ。ね、青藍さん?」

「ん、聞いていなかった」

「ああそんな青藍さんも美しい!」

「おまえはほんとあれだな。ばかだな」

「そうさ。おれは愛情の前ではいつだってばかになるんだ」

「いや愛情とかなくてもばかだろ」

「だから爽やかな笑顔で否定すんじゃねえ。ああ、青藍さんまで! でもなかなか見られない笑顔の破壊力にこの日比谷卓郎は陥落寸前です!」

「あー、おもしれえ」


 三人は学園のなかを行く。

 不破学園は広い。

 体育館やプールはもちろん、球技場やマラソンのトラックまである。

 加えて寮などもすべて敷地内にあるため、学園のなかをぐるりと回るだけでも一苦労だった。


「そういや、おまえがここにきてから二ヶ月くらい経つよな」


 ふとまじめな顔になり、卓郎が言った。


「そろそろここの生活にも慣れたか」

「それなりに、だな。精霊石とか、そういうのは未だに慣れないよ。使い方もよくわかんねえ。でもそれ以外は普通の学校だもんな」

「おれは初等部からここだから、普通の学校ってのがわかんねえけどな。でもまあ、おれはここが好きだよ。なんつっても美人が多い」

「おまえはどこに行っても楽しめそうでいいな」


 三人が歩いていく先に球技場があった。

 簡単な観戦席に囲まれた広場で、普段はなにも置かれていないが、いまは隅のほうにテントが設営されている。

 和人が見たことのない状況だった。

「あの球技場、なんかの準備やってるけど、あれなんだ」

「ん、ああ、あれな」


 と卓郎も球技場を見やる。


「武道会の準備だよ。そっか、おまえはまだ知らねえんだな」

「そんなもんあるのか? 困ったなあ……いつからだ」

「三日後」

「そんなにすぐなのか。やべえな。おれ、踊りなんかぜんぜんできないぞ」

「……あ? 踊りって、なんだ」


 卓郎のきょとんとした顔に、むしろ和人が面食らって、


「だから、舞踏会だろ?」

「武道会だよ。武道の大会だ。舞踏会ってなんだ」

「……ああ、あー、なるほどな。武道会か。そっちな。いや、わかってたよ。ボケたんだ」


 和人は視線をあらぬほうに向ける。

 基本的にふたりの会話など聞いていない青藍はぼんやりと空なんぞを見ている。

 卓郎は気の毒だといわんばかりの表情で和人の肩を叩き、


「おまえさ、この二ヶ月で気づいてはいたけど、天然か? そうなのか?」

「ちげえよ。聞き間違いだ。おまえの発音が悪かったんだ」

「間違えたんじゃねえか。なにがボケだ。舞踏会ってなんだよ。踊んのか? カルメンか? タンゴか?」

「う、うるせえ、黙れ。そもそも武道会ってなんなんだよ」

「学園にいる全員でだれがいちばん強ぇのか決めるんだよ。毎年夏休み前にやるんだ。ま、みんな三日後の武道会より明日からのテストのほうが重要だけどな」

「はあ……そんなもんがあんのか。さすが精霊使いばっかりの学校だなあ」


 話題がうまく逸れたことに内心喜びながら、和人は呟く。


「その舞踏……武道会って、おれも出るのか」

「初等部の生徒から教師まで全員参加だからな。毎年優勝賞品もあるから、テストのあとの気晴らしみたいなもんだ」

「へえ。おもしろそうだな」

「それよりテストは大丈夫なのか。転校したばっかりで大変だろ」

「テストはまあ、おれ運いいから、心配してない」

「運任せかい」


 前の学校にいたころから決して成績優秀ではなかった和人ではある。

 おまけにこの二ヶ月、新しい学園になじむことや知らなかった世界を学ぶことで手一杯だったせいもあり、勉強らしい勉強はまったくしていない。

 授業中さえ余裕があれば寝ているほどである。

 もっとも卓郎もそのあたりは似たようなものらしい。

 ぽんと和人の肩を叩く手には親近感がこもっている。


「まあ、精霊使いのおれたちにはテストなんて関係ねえよ。ねえ、青藍さん」

「ん、まあ、そうだな」


 と珍しく青藍もうなずく。


「あのようなもので能力が測れるはずもない」

「……もしかして、おまえも勉強できないのか?」

「我は精霊石なり。できると思うほうがおかしい」


 道理で一日中いっしょにいても勉強している姿を見かけないわけだ、と和人はひとり納得する。


「一応、青藍もテストは受けるんだよな」


 そもそも戸籍もなく、人間ですらない青藍がごく当たり前のように学園の生徒をやっていることもおかしい。

 ここが不破学園でなければありえないことであり、不破学園にしても前代未聞ではあったが、くるものは拒まず、が基本の学園である以上、青藍が望めば生徒として受け入れざるをえない。

 不破学園の入学に必要なものは、精霊使いであるという証明だけである。

 和人にしたところで転校の手続きなどは一切していない。

 もちろん授業料も支払っていない。

 それは学園に属する生徒すべてにいえることだった。

 精霊使いだが、金銭的理由で入学できない、などということがあってはならぬよう、学園は原則無料になっている。

 寮生にしても必要なのは日々の生活費だけで、両親がいないなどの事情がある生徒はそれさえ学園が全額負担する。

 日本で唯一の精霊使い専門の学校は、利益や安定した運営とはかけ離れたところに存在しているのだ。

 和人は転校初日、この学園を、大きな孤児院のようなもの、と説明された。

 そのときはよく理解できていなかったが、いまはなるほどと思う。

 たしかに学校よりは様々な年頃の子どもが集まる孤児院に近い。

 教師の手が足りないときは高等部が初等部の生徒を見るし、行事は大抵合同で行われている。

 先輩後輩という関係よりは兄弟のほうがずっと的確である。

 家族を持ったことがない和人は、この学園にきてよかったと心から思っている。

 精霊使いになってしまったのも、自ら望んだことではなかったが、いまではありがたい偶然だった。

 和人は学園にきていろいろなものに出会った。

 精霊石の扱い方も授業の一部として習っている。

 昔はドジばかりしていた八白がこの学園では一、二を争う優等生という驚きの事実も判明した。

 しかしなにより和人が驚いたのは――。


「あ、牧村くん! おはよー」


 校舎の二階である。

 その窓から身を乗り出し、ひとりの女性が手を振っている。

 和人がこの学園でなによりも驚いたのは、彼女の存在だった。


「有希子先生、あんまり乗り出すと落ちますよ」


 ――江戸前有希子は、かつて和人が通っていた学校を辞め、いまは不破学園で教師をしている。

 有希子がこの学園へ移ってきたのは、和人が転校するよりも早かった。

 転校することは早い段階で決まっていた和人だが、それから実際に登校できるようになるまではしばらく時間がかかったのだ。

 手続きにすこし時間がかかったこともあるが、和人の精神状態が芳しくなかったこともある。

 幸いすぐに出歩けるようにはなったが、数日は家にこもったまま、ほとんど身動きもできなかった。

 そのあいだに有希子はこの学園に再就職し、転校初日、和人が驚く顔を見て心の底から楽しそうにけらけら笑ったのだった。


「ああ有希子先生、今日もお美しい!」


 卓郎は感極まったように両腕を広げる。

 それでやっと有希子も気づいたらしく、


「比々野くんと青藍ちゃんもおはよー」

「おれは日比谷ですけど、お美しい先生がおっしゃるなら今日から比々野に改名します!」

「おい日比谷、あれは天然じゃないのか?」

「ばかやろう。女の天然はかわいいだろうが。かわいかったらなんでもいいんだ。世の中の真理だぜ」

「ほんとかよ」


 校舎のまわりには、和人たちと同じ年頃の生徒のほかに初等部や中等部の生徒も大勢いる。

 それもそのはずで、不破学園の生徒はすべて同じ校舎で授業を受けることになっている。

 ひとつの校舎で初等部から高等部までの生徒を収容できるほど、不破学園の生徒は数がすくないのだ。

 なにしろ精霊使い自体がすくない。

 人口の割合は十万人にひとりともいわれ、日本では千人程度しか確認されていない。

 そのうち、生徒や教師として不破学園に在籍しているのは百五十人ほどである。

 日本にいる精霊使いの一割以上がこの地域に集まっていると考えれば、それも決してすくなくはない数字だった。


「ほんと、ここって変な学校だよな」


 しみじみと和人は言った。


「でも、悪くないだろ?」


 と卓郎は笑う。

 和人はちらりと青藍を見て、うなずいた。


「たしかに、悪くないな」

「我は主さえいればどこでもよいが」

「ちぇ、見せつけやがって」

「そんなんじゃねえって。ほら、早く行かねえと先生手ぇ振りすぎて疲れてるぞ」

「ほんとだ。有希子先生、すぐおそばに!」


 駆け出す卓郎を見送って、和人も校舎に向かう。


「今日も一日、がんばるか」


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