嫌われオオカミ
その少女が樹海を歩き始めてから、かれこれ三時間ほどになる。
歩き始めた頃は明るかった青空も、今は雲隠れをして隙間から夕陽の空を覗かせている。
普段は薄暗い辺りの樹海も、今だけは夕映えで植物達が赤々と美しい模様に染め上がっていた。背の高い木々の枝に居る小動物もいそいそと家路を急いでいるのがわかる。
少女は歩いては止まり、歩き始めたと思えばまた止まってと、片手に持った竹篭にせわしなく花を摘んでいた。
ふと、空を見上げれば、数羽の群れた渡り鳥が西の地平線に向かって飛んでいた。太陽が沈みかけている証拠だ。
花を摘まんでいた手を離し、ゆっくりと立ち上がってつま先立ちで伸びをする。
拍子に竹篭から花びらが零れそうになったので慌てて手の平に乗せた。自分の親指ほどしかない花びらをぼーと眺る。
と、背後からガサガサと草を揺らす音がした。
「だれ!」叫びながら勢いよく後ろを振り向く。
「ま、待って!」
そう言いながら草むらから出てきたのは、歳のほどが二十代前半の若々しい青年。
革製の長ズボンに膝に掛かるぐらいの厚手の外套、顔にある何かで切った跡のような古傷がやけに目立つ。
青年は両手を前に突き出し、待ったのポーズをとっていた。
少しの間、二人は向き合った状態のままお互いを観察し合った。
やがて少女の方が、
「あなた……誰?」
警戒心を露わにしながら口を開いた。
「ぼ、僕かい?えーとこの辺り一帯を治めているロジャー公爵は知ってるよね?僕はそこで働かせてもらっている雇われ兵さ」
青年はそれを証明するかのように、腰にぶら下げているナイフをホルダーから引き抜いた。
「っ!」少女は後ろに一歩跳びのく。その弾みで、手に持っている竹篭から何枚かの花びらが地面に落下した。
「あ……ご、ごめん!脅かすつもりじゃなかったんだ。その……ごめんよ……」
少女は青年を食い入るように見つめてその場から動こうとしない。
「君を襲おうとか、そういう訳じゃないから安心して」青年はナイフをホルダーに戻した。
「それに……実はと言うと僕も驚いたんだ。だって、こんな樹海に君みたいな少女が居るとは思わなかったから」
そう言って青年が、本当に驚いた表情を見せた。
少女は依然として警戒を緩めようとしない。
青年はというと、心底困ったという感じである。
と、青年が何かに気づいて少女の手元を指差した。
「花を摘んでたのかい?」少女の返事を待つ。
一間置いてから、少女は小声で言った。
「…………花……」
「え?」青年が聞き返す。
「花……万能花を……探してたの」
万能花とは、古くからこの地方に伝わる伝説の草花のことである。伝説では万能花を発酵させて茶にして飲めば、どんな不治の病でも完治する効能が得られるという。
それを聞いた青年が、
「はははは。もしかして君はあの伝説を信じてるのかい。あれは恐らくただのデマかせだよ。きっと、どこかの噂好きの商売人かなんかが流したホラさ」しきりに笑い始めた。
少女は何がおかしんだといった感じで青年を睨みつける。
「ああ……ごめんよ。まぁ伝説を信じる信じないにせよ、何でまた、君は万能花を採ろうと思ったんだい?」
少女は一瞬、悲哀な顔をしてから、
「お母さん……」
そう言って悲しく頭を下げた。
青年は自分が何か悪い事を言ってしまったのかと困惑顔になった。
少女は完全に黙りこくってしまった。
気まずい雰囲気が流れ、青年はしばらく思案した後、やっと気がついたようだ。
「あ……もしかして、そのお母さんに飲ませてあげる為なのかい?」
青年の問いに、少女はこくっと頭を縦に振った。
と、ピチャッと青年の額にひんやりした液体が滴り落ちた。
「雨……」
少女は地面を見つめながらそう呟く。
「うん……雨降ってきたね。それにもう暗いし」
少女と青年が話し始めてから、もう結構な時間が経っていた。辺りは薄暗くなり始め、もうそろそろ歩く事も困難になる。青年はそれを見越してか、少女に顔を向けると、
「この近くに小屋があるんだ。君も今から帰るのは危険だから、今日はそこに泊まっていくといいよ」子供を諭すようにそう提案した。
少女は顔を上げて青年の顔をジッと凝視する。青年は屈託のない笑みを浮かべていた。
少女はしばらく考えこんだ後、「わかりました」と言って承諾した。
歩き始めてから小一時間ぐらいだろう。その頃になると、夜空には点々と星が輝きはじめ、樹海の中では、フクロウや鈴虫が絶え間なく周りに泣き声を響かせていた。
その中を二人は黙々と前を向いて歩く。
やがて視界ギリギリの所に、ボロい板張りの小屋が見えてきた。
「あそこだよ。もうすぐだから頑張って」
少女は頷きながら青年の後ろについて行く。
そうして、やっとのことで辿り着いた小屋は、青年の言った通り本当にボロかった。青年が「どうぞ」と言いながら中に入っていく。小屋の中は意外に広く、五人ぐらい入れるスペースがあった。
青年はどこから持ってきたのか、中央に薪をくべている最中だった。ポケットから何かを取り出したかと思ったら、物を擦る音が聞こえた次の瞬間、目の前で炎が立ち昇った。
そこでやっと、室内全体が明るく照らされて視界が良くなる。
室内の入り口の側には薪が数本積まれており、部屋の隅には数個、大小異なる木箱が置いてある。中央には火を起す為の囲炉裏。そして囲炉裏を挟むように木製のイスが二つ設置してあるだけで、特に変わった所はない。
「あ、座って」
そう言って青年が少女に着席を促した。
少女は頷いて無言でイスに腰掛ける。
火の手が勢いをまし、囲炉裏をジッと眺める少女の顔の輪郭が、赤く浮かび上がった。
「こんな森の奥まで、一人で大変だっただろう」
向かいに座った青年が、気遣うように少女に声をかけた。
「ううん……大丈夫」
「はい、ホットミルクだよ。これで少し体を温めな」
青年は暖めていたマグカップを少女に渡した。
「ありがとう」少女は軽く礼を言ってからそれを受け取る。一瞬、少女の表情が笑顔に変わったのだが、青年はそれに気がつかなかった。
「そういえば」
青年が唐突に何かを思い出したようにそう切り出した。
「この樹海には万能花の他にもう一つ噂があってね。なんでも……森の最奥部には、人間に化けて人を食らう狼がいるらしんだよ……」
青年は真剣な顔で少女を驚かせようとする。
少女は特に怖がる様子もなく、青年の話を無言で聞いていた。
「な〜んてね。僕はもっぱら噂とか伝説とか信じないタイプでね。この手の話は真実は元より、面白いければそれでいいと思うんだ」
青年がけらけらと薄笑いをしながらそう言った。
――とその瞬間、とんとんとドアを二回ほど叩く音が室内に響いた。
「え?」
少女は背後のドアの方に首を曲げる。
「あ、きっと僕の仲間だよ。ちょっと待ってて」
少女は青年の『仲間』という言葉を聞いた瞬間、少しばかり体を震わせた。
その反応に気づいた青年が、「大丈夫だよ」と微笑みながら席を立った。そしてそのままドアに向かって歩み寄って行く。
ふと、青年が立ち上がった際、少女の視界に今まで青年で隠れるようになって見えなかった、大きめの木箱が映った。縦横五十センチ程しかない他の木箱に比べると、その木箱だけは異常に大きい。人間一人分は入れるんじゃないかという大きさで、しかも開閉部分にはしっかりと鍵が取り付けられている。
――それを見た少女の目が、一瞬悲しみに暮れた。
「おーい!オレだー、ガルムだー。中に誰かいるんだろー!外は寒いから早く開けてくれー」
ドアの向こうから少し太めの男の声が聞こえてくる。
「ああ、ガルムか。そっちはどうだった?見つかったか?」
ドア越しに青年はガルムに話しかける。
「おおその声はラフエルか。見つかってねーよ。てか人間ひとり居やしねーよ。なあそれより体が冷えるから早く開けてくれよー」
「まぁそう焦るなよ。お前が噂に聞く、人間に化けて人を食らう狼やもしれんからな。本物のガルムならお前の大好物を言ってみろ」
「なに冗談言ってんだよ、まったく!豚肉だ豚肉!ほら、わかったんならさっさと開けてくれよ」
「はははは。ジョークだよジョーク。すまんな、悪ふざけが過ぎたな。いま開ける」
そう言って青年はドアの鍵を開けた。
「まったく!お前はいつもジョーダンがきついんだよ」
ガルムが外側から乱暴に扉を開けた。
――刹那、ガルムの目が大きく見開いた。
体を硬直させ、ガルムは何かを釘いるように部屋の中の一点を見ている。
ドアの前で呆然と口を開け閉めしながら、全身を震わせているガルムを青年は不思議そうに見つめた。
「……ガルム、お前なにしてんだ?寒さで気が狂ったか」
「あ、あ……あ……」
青年はガルムが必死に指差す方向に、ゆっくりと体を振り向かせた。
「結局貴様も、他の人間となにも変わらなかったということか」
青年の目が、ガルムと同じように大きく見開かれる。
「大方、察するにこの武器で私を殺そうとしてたのだろう」
狼がいた。自分達の倍の体格は有ろうかという体に、岩でも切れそうな鋭利な爪。それだけでなく、その狼が自分達に何かを言っている。
「ふ……所詮、人間に期待した私が馬鹿だったというだけか」
狼が何かを吐き捨てながそう言葉を漏らした。狼の足の下には、踏んづけられるように武器入れの大型木箱がある。その中には、銃器が所狭しと押し込められいる。
一瞬、狼が目を瞑った後、
「ふん……もお良いわ」
後ろ足を勢いよく蹴って、前足の鋭い爪で自分達に襲い掛かってきた。
朝の鳥のさえずりと共にゆったりと狼は起き上がった。どうやらあのまま寝てしまったらしい。小屋の中は今だに人間の血の匂いでむせ返っている。この匂いは好きでもないし、嫌いでもない。たぶんこの先、ずっとこの匂いを嗅ぎつつけなければならないだろう。
外はもうすっかり明るくなっていた。
狼はとぼとぼと、重い足どりで小屋の外に出た。ドアの近辺には、既に事切れている二つの死体があったが、それには目もくれなかった。
いつものことだ。何の変わりもない、これがいつもの日常なのだ。
狼は下を向きながら、小屋から数歩ずつ離れていった。ふと、昨日の青年の顔が思い浮かび、小屋の方を見やる。
――と、何かに気づいた狼は小屋の方に踵を返す。
一歩、一歩、また一歩、歩みを進めるごとに、狼は愕然としていく。
瞼の内側から、今までに感じた事のない熱いものがこみ上げた。
自分の見ているものが信じられないといった感じで、狼はただ一点を見ていた。
目尻から熱い雫が滴り落ち、目が霞んで次第にその文字が見えなくなる。
とうとう、狼はその場に泣き崩れてしまった。
小屋の外壁には、
『行方不明者捜索隊休憩所』
青い塗料で大きくそう書かれていた。
狼の心を激しい後悔が襲う。
脳裏で、昨日の光景が思い浮かんだ。
青年が自分を小屋に招いてくれたこと。
青年が入れてくれた暖かいホットミルクのこと。
青年が初めて見せてくれた、人間の笑顔。
きっとあの青年達は、自分が先日殺してしまった人間を探しにきたのだろう。
もしかしたらあの青年ならば、自分の正体を知っても知らぬ振りをしてくれたのではないか。
もしかしたらあの青年ならは、軽く笑って自分を受け入れてくれてたのではないだろうか。
涙で滲んだ視界に、囲炉裏の近くに落ちているマグカップが映った。
突然、狼はムクリと起き上がると、囲炉裏に向かって歩き始めた。
マグカップの近くに置いてある、竹篭の中の花びらを二、三枚くちに銜えると、青年のいる場所へと歩み寄った。
そして青年の胸元の上で、口に銜えた花びらをそっと離した。
左右にゆったりと揺れながら、音も立てずに花びらが青年の胸に落ちていく。
どんな不治の病にも効く花――万能花。
狼は雄たけびの狼狽を一回した後、自分も眠りにつくかのように青年の側で目を閉じたのだった。