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一人百物語

長い廊下

作者: 犬猫夜行
掲載日:2026/07/18


数年前の夏、弟が入院した時の事。


もういい歳のオッサンだというのに、暑くて食欲が無いからとロクな食事をしなかったため体調を崩して弟が入院したのは、以前から腰痛治療などに通っていた近所の総合病院だった。


過労と熱中症と診断され、そのまま入院したのは昼過ぎだったが、何種類かの点滴を受けている間に眠ってしまい、目を覚ました時には病室はすでに消灯されて暗くなっていた。

部屋は六人部屋で、部屋の真ん中の通路を挟んだ左右に3つずつ、壁側が枕元になる様にベッドが並べられていた。弟のベッドは部屋の一番奥、窓側の、出入口に背を向けて右側のベッドだった。

暗い部屋の中で目が覚め、一瞬、弟は自分がどこにいるのか混乱した。そして枕元の点滴スタンドを見上げて、自分が入院した事を思い出した。

ベッドの周りにはぐるりと白いカーテンがひかれており、妙な閉塞感がしたので、とりあえずカーテンを少し開けた。

当時、部屋の出入口手前の2つのベッドと、弟の隣のベッドは空でカーテンはひかれておらず、部屋の引き戸のあたりがよく見えた。

ふと気付くと、その引き戸の右端が少し開いており、向こうに人影が見えた。

廊下も消灯されていてよくはわからないが、それは看護師の白い制服姿とはちがう、中年男性の様だった。

戸の向こうから男性は部屋の中を覗き込んでいて、弟と目が合うとペコリと小さく頭を下げ、そっと戸を閉めた。

(なんだありゃ?)

男部屋でノゾキも無いだろうが、気持ち悪いなと思いながら、弟はしばらくしてまた眠ってしまった。


翌日はいくつかの検査を受けたあと、昼からは点滴を受けながら、うとうととしていた。

ふと気がつくと、また部屋の戸が少し開いており、誰かがこちらを覗いていた。

それは禿げあがった頭頂部の両脇に縮れた髪をショボショボと生やした、がっちりした体格の中年男性で、生地が伸び気味の灰色のスウェットを着、薄ら笑いを浮かべた表情でこちらをじいっと見ていた。

「こっち。こっちや」

あれはゆうべも来ていた人かな?と思っている弟に、男はどういうわけか手招きをした。

「何っすか?」

と弟がたずねると

「いや、あのー。こっち。ちょっとこっち来てもらえるかな」

と男は妙な笑みを浮かべたまま、なおも手招きをした。

点滴途中だったことを思い出し、腕を見ると、点滴はすでに終わったらしく針は抜かれてパッチが貼られていた。


弟は男の後をついていった。


廊下はなんだかやたら沢山の人たちであふれていた。

看護師さんや入院患者や、掃除や配膳のおばちゃんや……それらの人たちに時々ぶつかりながらフラフラと歩いた。

少し先にはあの男が時々立ち止まってこちらを振り向き、笑いながら手招きをしていた。早く来い、と急かしている様だった。

廊下の行く手は眩しいくらいに白く明るくて、ずっと真っ直ぐに長く続いていた。延々と。

(廊下、こんなに長かったっけ?)

何だか変だ、と弟はぼんやり思った。と、

「あれ、ちょっと!」

すぐ横で急に声をかけられ、右腕を捕まれた。

そこでハッと気がつくと、昨日今日と点滴や注射をしてくれた担当の看護師の女性が弟に呼び掛けていた。

「どうしたんですか?もうじきお夕食ですから部屋に戻っていて下さい」

「……」

一瞬、自分がどうしていたのかわからなかった。そしてあの男が呼んでいたんだ、と思い出し周りを見たが、男の姿はすでに無かった。

「……俺、なんだか夢みたいなの見てましたよ。薬のせいですか?」

と看護師に聞くと

「え?いいえ。今日昼からの点滴は保液だけで、副作用とかが出る様なものじゃないですよ。寝ぼけてたみたいですね」

と看護師は応えた。

振り向くと、廊下はいくらも行かないうちに壁に突き当たり、左に曲がっていた。

確かについさっきまではずっと向こうにまで真っ直ぐに伸びていて、その先はやたら眩しいくらいに白く光っていたのだが。

(あいつ何だったんだろ。ついて行っちゃ駄目な奴なんだろな)

と看護師に病室へと連れて行かれながら弟は思った。


その日の夜。

何時頃かはわからないが、またふと目を覚ました。

そして気がつくと、ベッドの足元から少し離れたところに、誰かが立っていた。

あの男の様だった。

弟と目が合うと、男はまたも

「こっち、こっち」

と言い、先に立って歩きだすとドアを開け、外へと出て行った。

ごく個人的な事だが、弟は寝起きはとても機嫌が悪い。

しかも夜中に目を覚ますと猛烈にイライラするらしい。

だからその時も無条件に相当頭にきていた。しかもコイツに起こされるのはこれで三度目だ。

「……」

これ以上に無いくらい最高の機嫌の悪さで弟は戸を開け、廊下に出た。

すぐそこには男が待っていて、廊下の行く手を見ると、また長々とした廊下が続いており、はるか先の方が白く光っていた。

が、そんな事はどうでもよかった。

「ちょっとアンタ」

まだ眠気が消えない頭で、弟は自分に向かって妙な笑いを浮かべている男に文句を言った。

「何だよ。何度も何度も。何の用だよ」

それに男はヘラヘラ笑いのまま、何もこたえなかった。

「帰れよ。欝陶しい。帰れよ」

弟はずい、と男に詰め寄ると

「帰れって!」

ドン、と男を突き飛ばした。弟の行動に男はびっくりした様な表情を浮かべ、よろけた。それを愚弟は

「帰れ!もう来るな!」

と更にドン、と押した。


男はたまらず転倒……したが、廊下に倒れこむ前に姿が消えてしまった。

驚いた表情を顔にへばりつかせ、弟を見上げたまま。


「……」

目の前で人が消えたというのに、その時はとにかく眠たく、かつ腹立たしいばかりで、愚弟はそのまま部屋に帰ってフテ寝したらしい。


あとになって別室の、長期入院している患者さんに聞いた話では、

「誰か知らないが呼びに来たので」

とフラフラと院内のあちこちを歩き回る人は時々いるらしかった。

愚弟の場合は以降退院するまで、男はもう現れなかった。



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