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『いらないものは、全部捨てちゃいなさい』と言われたので、ゴミも未練も全部捨てたら聖女になりました

作者: 葉月くらら
掲載日:2026/03/29

 人里離れた山奥に住んで、一人で静かに暮らしたい。


「お姉様、ごめんなさい! でも私とヘンリー様は愛し合っているの」

「すまない、ルイーゼ。もう自分の気持ちに嘘はつけないんだ」


 自宅の庭園で一部始終を見ていた侍女達がクスクスと笑っている。

 穏やかだった空模様が少しずつ曇っていく。ざわざわと風が吹く中、東屋にぽつんと座っていた私は真剣な目をして寄り添いあう婚約者のヘンリー様と、妹のアデリナを見つめていた。

 身長が高くつややかな赤毛で端正な顔立ちのヘンリー様と、小柄で可愛らしい淡い金髪に緑の瞳のアデリナはとてもお似合いに見えた。

 大事な話があると急に呼び出されたらこれ。

 アデリナの宝石のような潤んだ瞳には隠しきれない愉悦が滲んでいた。


「……で、でも、こんなことを両親が許すかどうか」


 私は震える声をなんとか紡ぎだした。

 ヘンリー様と私は三年前に婚約した。お互いの父同士が知り合いで、年頃も近かったためちょうどよい、と話しはとんとん拍子に進んだ。

 ヘンリー様は華やかで社交的な人で、対する私はいつも暗く無口だったので相性がいいとは言えなかった。でもこれは親同士が決めた婚約なのだから、本人達だけでどうにかなるものでもないだろう。

 しかしヘンリー様は私の言葉を聞くとふわりと笑みを浮かべた。


「すでにご両親には了解をとっているよ。安心してほしい」


 一体何をどう安心すればいいのかわからないけれど、どうやら両親はヘンリー様との婚約を私から妹に変えることに同意したようだった。


「お父様とお母様は私の幸せを一番に考えてくれたの」


 ヘンリー様に寄り添うアデリナが涙を浮かべて言う。

 ――だってこの家で愛されている娘は私だけだもの。


「で、でも……」

「いいかげんになさいルイーゼ! 」

「お義母様……」


 それでも往生際悪く何かを言おうとした私に鋭いし叱責が飛ぶ。

 振り返ると、そこにいたのはいつも通り華やかな装いをしたお義母様だった。


「ヘンリー様はアデリナを選んだの。みっともなく縋るような真似はやめてちょうだい。あなたみたいな陰気で何の取り柄もない娘と三年も婚約していてくれただけでも感謝しなければならないのよ」

「お母様、お姉様に辛く当たらないで。あまりに自分がみじめで取り乱しているだけなのよ」


 うふふ、と意地悪く笑ったアデリナがお義母様のそばに寄る。二人はよく似た母娘だ。


「それじゃあ、話はそれだけだから。行こうか、二人とも」


 ヘンリー様は少し気まずそうにアデリナとお義母様を促して去っていった。

 取り残された私はぽつんと東屋の中に座り込んでいつまでもうずくまっていた。

 こうして私はあっさりと婚約を破棄されたのだった。



 ――それから、日の光を見ることはほとんどなくなった。

 外に出ることが嫌になってしまったからだ。

 もう誰にも会いたくない。

 人里離れた山奥に住んで、一人静かに暮らしたい。


「最近ルイーゼお嬢様は部屋に引きこもってばかりね」

「ただでさえアデリナお嬢様と違って地味なのに……これでは将来どうするのかしらね」

「魔術の勉強をしてるんだって……怖いわあ」


 廊下から聞こえる声は無視して私は魔術書を読むのに没頭していた。カーテンは閉めたまま、蝋燭の明かりだけが頼りだ。周囲には山と積まれた魔術書や歴史書。脱いだまま放りっぱなしの服に片付けてない皿。

 部屋の鍵はかけてあるので中には誰も入ってこれない。

 アデリナやお義母様が外で何か叫んでいたけれど、今は聞く気になれなかった。

 本を読み疲れて起き上がった私がドレッサーの鏡に映る。

 ぼさぼさの長い黒髪にうつろな暗い青の瞳のやせこけた女の子がそこには映っていた。

 クライン伯爵家の長女として生まれて17年。

 生まれて間もなく本当の母は病死してしまい、入り婿だった父が家督を継いだ。そしてまもなく再婚してやって来たのがルチアお義母様だった。

 お義母様は昔から私が嫌いで「黒髪なんて地味」「いつも無口で不気味だ」「魔術を嗜むなんて貴族令嬢としてはずかしい」と毎日のように嫌味を言われ嫌がらせをされて育ってきた。

 そしてそんなお義母様と私の様子を見ても事なかれ主義の父親は見て見ぬふりをして助けてはくれなかった。お義母様の機嫌をとるのが一番なのだ。

 そうして妹のアデリナが産まれ、私はますます家での居場所を失った。

 お義母様とお父様は可愛いアデリナを溺愛していた。

 唯一の楽しみは生前母が勉強していたという書庫で見つけた魔術書を読むこと。薬草や魔法石を使った魔術実験。

 ……だけど。


「火よ。暗闇を照らしだせ」


 私が小声で唱えると、一瞬だけ指先に小さな火が灯る。だけどそれは一瞬で消えてしまった。魔術書を参考に色々実践してみたけれど、どれもほとんど魔術が発現することはなかった。

 私は魔術書を読むのが好きだけれど、才能がまったくないのだ。

 そのうえラングハイム王国では貴族は平和に安全に暮らすものだから、魔術なんて物騒で野蛮な力だと言われ、私も何度もやめるように言われていた。唯一市民権を得ているのは医療魔術くらいだろうか。

 お義母様は生前母が使っていた書庫も壊そうとしたけれど、それは認められなかった。なんでも我がクライン家は田舎の小さな領地しか持たない伯爵家なのだけれど、歴史だけは古く我が家の書庫は建国当時からの資料も保管されているらしい。その関係で国から許可が下りなかったのだ。

 おかげで私は魔術の勉強が続けられたのだけど、同時に周囲からは気味悪がられ続けた。

 家族にも使用人達にも。たぶん領地の住民達にも。話したことはほとんどないけど。

 そんな私にできた婚約者がデッセル伯爵家の次男、ヘンリー様だった。

 ずっと家で嫌われ馬鹿にされ続けた私も結婚できる。もしかしたら幸せになれるかもしれない。

 そりゃあ、ヘンリー様とは全然話は合わなかったけど、優しいところもあった。だから長く一緒にいれば……と希望を持っていたのに。

 そのとき扉がノックされ、私は我に返った。


「ルイーゼ、出てきなさい! いつまで引きこもっているの。お客様よ」

「……お客様?」


 その言葉に私は首を傾げた。

 だって私を尋ねてくる人に心当たりなんて無いからだ。



「久しぶりルイーゼ。大きくな……って、ええ!? あなたなんて恰好してるの!?」


 私が恐る恐る扉を開けると、そこには長い美しい黒髪に水晶のような青い瞳の美女が立っていた。

 私の姿を見た途端ぎょっとしたように目を丸くする。


「……もしかしてフリーダ叔母様?」

「そうよ! ひさしぶりね……っていうかどういうことですか? ルチアさん。この娘のこの恰好は」

「ずっと引きこもって出てこなかったので私も困っていましたのよ」

「とにかくまずは湯浴みね。お風呂を借ります」

「はあ? 勝手に何を……」

「クライン家の令嬢をこんなみすぼらしい姿にしてはおけないでしょう。本来であれば義母のあなたがしなければならないことだと思いますけど?」


 私の肩を抱いたフリーダ叔母様が返事も聞かずに私を部屋から連れ出した。お義母様がもちろん抗議したけれど、フリーダ叔母様はまったく意に介した様子もない。

 むしろ言い返されてお義母様はすごく悔しそうな顔をして押し黙った。

 そのとき、背後にもう一人誰かいるのが見えた。

 私と同じくらいか、少し年下の可愛い少年だった。銀髪に紫の瞳のその子はぽかんとした顔で立ち尽くしていた。

 あれは誰なのだろう?


「お、叔母様?」

「あなた何日お風呂入ってないの?」

「……十日くらい?」

「どうりで色々背負いこんでしまってるわねえ」


 背負いこんでしまってる?

 どういうことだろう。

 よくわからないけどそのまま私は浴室に引きずられて行った。



 フリーダ叔母様は私の生母の年の離れた妹だ。私と同じで魔術の勉強をしている人で、周囲からは魔女と言われていた。でも私がまだ幼い頃に王都へ行ってしまい帰ってくることはなかった。

 一体今まで何をしていたんだろう。

 そしてどうして急に帰って来たのだろう?

 強制的に湯浴みをさせられた私は今、フリーダ叔母様の泊まる客室で出されたパンとスープを食べさせられていた。

 濡れた髪に温かい風が当たっている。

 フリーダ叔母様が風の魔術で温風を出して髪を乾かしてくれているのだ。


「まったく、まさか出してた手紙がルイーゼに届いてなかったなんて。仕送りだってしてたのに」

「叔母様が……?」

「そうよ。いつかあなたに王都に来てほしいと思ってたから。魔術のことも教えたかったし。でももっと早く戻って来るべきだったわね」


 フリーダ叔母様はどうやら私宛にずっと手紙を出してくれていたらしい。一体どんな内容だったんだろう。


「フリーダ、これからどうするんだよ?」

「あ……」


 そしてもう一つ気になることが。

 この部屋には廊下で会った銀髪の少年が所在なさげに窓際の椅子に座っていた。

 意志の強そうな綺麗な紫の瞳に私は視線を逸らす。知らない人は苦手なのだ。


「この子はオーガスト。そうねえ、ええっと……私の従者よ。ルイーゼより3つ年下の14歳。仲良くしてあげてね」

「はあ?」

「人の家では静かになさい」


 朗らかに笑った叔母様は数年ぶりに会ったのにほとんど変わらない美しさだ。夜空の星屑のような静謐な美しさ。なのに口を開くとまるで温かい春の日みたいに朗らかだ。


「少し体が軽くなったんじゃない?」

「そう言われてみれば……」

「湯浴みするだけでも憑き物は結構落ちるからね」


 ずっと何かが乗っているかのように重かった体が少しすっきりしている。

 乾いた髪に櫛を通していたフリーダ叔母様が呟いた。


「こんな状況になっていたなんて……迎えに来られなくてごめんなさいね」

「叔母様?」

「ルイーゼ、まずあなたはやらなければならないことがあるわ」

「へ……?」


 周囲から嫌われ婚約者を妹に奪われた私に何ができるんだろうか。

 湯浴みで身体はすっきりしたけれど、気持ちが晴れたわけではない。そんな私にフリーダ叔母様は得意げに言った。


「いらないものを全部捨てちゃいなさい」



「あ、あああ、ああの、部屋に入られるのはちょっと」

「そんなこと言ってたら掃除できないでしょう? ほらオーガスト、窓を開けて」

「はいはい……」


 引きこもり続けた荒れ放題の部屋に自分以外が入って来るのはだいぶ抵抗感がある。しかも叔母様だけじゃなく男の子まで!

 泣きそうな顔の私をちらりと見たオーガストさんはげんなりした顔でずかずかと物の散乱する室内を乗り越えて窓を開けた。久しぶりに外の風が部屋に入って来る。

 フリーダ叔母様は長い髪をさっぱりとまとめドレスも簡素な物に着替えていた。私も同じような恰好でオロオロとしている。


「さあはじめるわよ! この袋にまずは床に転がっている紙屑から入れて行きましょう。最初はあきらかに要らないものを捨てるのよ。そこに落ちてる干からびた薬草の根とかね」

「あああ、待ってください! わ、私自分で」

「一人じゃいつまで経っても終わらないわよ。とにかくやる!」

「えええ」

「あきらめろ、お前の叔母さんかなり強引だから」


 いつの間にか遠い目をしたオーガストさんが隣に立っていた。一瞬びくりと肩を跳ねさせた私を冷めた目で見た後、フリーダ叔母様からゴミ入れ用の袋を貰って黙々とゴミを拾い始めたのだった。

 仕方なく私も同じように床に落ちている木の実のかけらとか研究用書類の書き損じとかを集め始める。

 元々掃除は得意じゃないけど、特に婚約破棄されたここ数日は何のやる気も起きなくて、床も机もベッドも酷い有様だった。服とかはさすがに恥ずかしいからいそいそとベッドの片隅にまとめて移動させておく。


「なんでこの部屋にはこんなに植物が多いんだ?」

「……あ、えっと、医療用魔術の研究で使ってて」

「ふーん」


 部屋の窓際には植木鉢がたくさん置いてあるし壁には干した薬草が吊るしてある。たぶん普通の人の部屋にはこんなものはないのだろう。

 干からびた鉢植えを持ったままぼやいたオーガストさんに私はどもりながら答えた。こんなことを言ったらまた不気味がられてしまうだろうかと思いながら。

 だけどオーガストさんは興味なさそうに呟くとさっさとゴミ拾いに戻ってしまった。……なんだかちょっと拍子抜けした。


「あら、これ……まだ残ってたのね。懐かしい」


 フリーダ叔母様が手に取ったのは古いノートだった。最初から最後までびっしりと魔術の研究が書き込まれている。


「それ……部屋の戸棚の奥にあったから、お母様のものかと、思って」

「これを書いたのは私。大っぴらに魔術の勉強をするのは周囲から嫌がられてね。だからノートも見つからない場所に隠していたのよね」


 驚いた。

 フリーダ叔母様もそうだったんだ。私と同じで魔術の勉強を隠れてしていたなんて。昔は今よりももっと偏見が強かっただろうから、きっと大変だっただろうな。


「ほら、ルイーゼ、手が止まってるわよ!」

「は、はいすみません!」


 フリーダ叔母様の声が飛び、慌てて私も再び作業を始めたのだった。

 床に散らばったゴミや本、それに服や仕分けがまだの薬草。他にも色々な物が積み重なって完全にゴミ山と化していた私の部屋はテキパキとしたフリーダ叔母様の指示のもとあっという間に綺麗になっていった。

 フリーダ叔母様の言う通り、一人でやっていたら本当にいつまでも終わらなかっただろう。

 部屋の中にある物をひとつ手に取るたびに色々なことを思い出して苦しくなるからだ。


「…………」

「ルイーゼ、あなたが捨てるのよ。ちゃんと自分で選びなさい」


 私が躊躇するたびにフリーダ叔母様が言う。

 お義母様にあなたにはこれで十分と押し付けられた古着のワンピース。アデリナから気味悪がられた研究の書き損じ。肩こりの酷いお父様にと魔術書を片手に作ったけれど、気味が悪いと突き返されてしまった湿布。ヘンリー様に出そうとしてやめた手紙……。

 どうして私はこんなものばかり部屋に溜め込んでいたのだろう。


「おい、これはどこに……」

「ごめんなさい。あ、これは捨てます」


 いつの間にかぽろぽろと涙がこぼれていた。

 声をかけてきたオーガストさんが一瞬目を丸くして、それからポケットからハンカチを出して私にくれた。


「ほら」

「……ありがとう、ございます」


 むすっとした顔で突き出されたハンカチを私は思わず受け取ってしまった。

 驚きで苦しい気持ちがあっという間に消えてしまった。

 今までそんな風にされたことなかったから。

 少しずつ床が見えて来て、机の上の本も片付いてくると不思議と気持ちまですっきりとしてきた。


「これはいる? いらない?」

「え、ええーっと……」

「じゃあとりあえず保留のものはこっちの箱に入れておくわね」


 いるのかいらないのか迷うものもある。

 今は使ってないけどそのうち必要になるかもしれないし……。そんな風に迷う私にフリーダ叔母様はゴミ捨てのコツを教えてくれた。


「とりあえず明らかにいらないものは捨てる。保留の物は避けておいて後日考えて捨てるか残すか決めればいいのよ」

「な、なるほど……」


 そんなこんなでその日一日はあっという間に過ぎて行き、日が暮れるころには部屋はだいぶすっきりとしていた。



「自分の部屋じゃないみたい……」


 その日の夜、足の踏み場もなかったはずの自分の部屋をベッドに座ったまま眺めて私は呟いた。

 なんだか部屋がすっきりすると心まで軽くなったように感じる。部屋の中にあったたくさんの物を捨てたら、まるで心の中にあった暗くてドロドロした気持ちまでどこかに行ってしまったようだ。

 あんなに日々鬱々としていた胸の内が今は穏やかに凪いでいた。


「ハンカチ、洗って返さないと」


 手元のハンカチを見て私は呟いた。

 オーガストさんが貸してくれた真っ白な飾り気のないハンカチ。でもとても質がよさそうな生地をしている。

 この辺りの田舎ではほとんど見ない綺麗な銀髪の男の子。態度はぶっきらぼうで怖そうに見えたけど、優しい子なんだな。

 フリーダ叔母様の従者だと言っていたけれど、一体どうしてそんなことをしているんだろう? というかフリーダ叔母様は王都で何をしているんだろうか。

 そのとき、ふと机の引き出しが気になった。ここはいつも本が積まれていて開けることだができないままだった。もう何が入っていたのか記憶がない。

 そっとベッドから降りて引き出しを開けてみる。

 中には小さな小箱がひとつ。


「これ……」


 その中に入っていたのは指輪だった。

 銀色の指輪に小さな水晶が埋め込まれている。目の高さに掲げてみると、角度によって水晶は色を変わって見えた。

 どうしてこんなところに?

 この机は昔、母が使っていたらしいからその時から入っていたのだろうか。


「綺麗な指輪」


 もう何十年と手入れしていないはずなのに、手に取った指輪はランプの明かりに照らされてきらりと輝いた。

 そのとき、扉がけたたましくノックされて、私は驚いて飛び上がった。

 慌てて引き出しの奥に指輪を戻す。


「は、はい」

「ちょっとお姉様! 聞いたわよ。今日は大騒ぎだったって」

「アデリナ……」


 そこに立っていたのは眉をひそめたアデリナだった。

 そういえば今日は姿を見てなかった気がする。


「あら、本当に部屋がずいぶんと綺麗になってる! まるで魔女の部屋みたいだったのに、一体どういうことなんですか?」

「……叔母様が急に帰って来て、一緒に掃除をしてくれたのよ。アデリナはどこに行っていたの?」

「ふうん? 私はヘンリー様と結婚式のドレスを身に街へ出ていましたの。今年の夏には式を上げようって。お姉様は三年も待たせていたのに……ふふ」

「そうなのね」


 ヘンリー様は貴族の子息のたしなみで士官学校に通っていたから三年間婚約をしたままだった。今年の春には士官学校を卒業できるから、アデリナとはすぐに結婚をするつもりなのだろう。

 もっと胸が痛むかと思ったけれど、意外にも私の心は平静だった。

 だけど私の薄い反応がアデリナは気に入らなかったみたいでムッとした顔になった。


「ふん、部屋がきれいになったくらいでお姉様の性格は直らないでしょうけど、できるだけ早く新しい婚約者を見つけてくださいね。いつまでも屋敷に引きこもったお荷物では困りますから」


 それだけ言うとアデリナは踵を返して去って行ってしまった。

 ……お荷物。

 確かにそれはその通りだ。

 部屋に引きこもって誰にも会わず暮らしていきたいなんて思っているのだから。

 貴族の令嬢として美しくもなく明るく気の利く性格でもない。これでは婚約どころか結婚なんて決まらないだろう。


「これからどうしよう……」


 私はもう一度引き出しから指輪を取り出して眺めながら呟いた。

 手元が不思議と温かく感じる。

 アデリナがヘンリー様と結婚するなら私は追い出されるかもしれない。

それなのに部屋がすっきりしたせいか、ずっと鬱々として塞いでいた気持ちは消えて少し前向きにさえなっていた。



「お、おい、この魔術書! 百年前の貴重な物じゃないか。どうしてこんなのがお前の部屋にあるんだ」

「え、……っと、それは、うちの書庫にあったやつです」


 翌日、翌々日と私はまだ部屋を片付けていた。

 最初は遅々として進まなかったけれど、一度勢いがつくとあれもこれもと使っていなかったものをどんどん捨てるのがちょっと快感にまでなってきていた。

 これは捨てる。こっちは残す。これは寄付する……と仕分けしていると手伝ってくれていたオーガストさんが大きな声を出すので、私は肩が跳ねてしまった。


「書庫……? あ、そうか。クライン家の書庫はかなり古いものだったよな」

「建国当初からあるって、聞いてはいますけど……」

 いっときはお義母様の主張で壊されそうになったけど、国に止められるくらいには重要な資料がたくさん残っているらしい。

 私はほぼ関わることはないけど、王都から偉い人が来て視察していくこともあった。

 じっと魔術書をきらきらした目で見つめていたオーガストさんが急に近づいてきた。


「しょ、書庫を見せてもらってもいいか?」

「え? ええ、大丈夫です」


 魔術、好きなのかな……。

 私が頷くと、オーガストさんはぱっと頬を赤くしてわかりやすく笑顔になった。この人も身なりや持ち物からすると、それなりに良い家柄のご子息に見えるけど貴族でも魔術が好きな人がいて私もちょっと嬉しくなった。


「じゃあ、ここの荷物をまとめて外に出したら、しょ……書庫に行きましょうか」

「わかった!」


 あきらかに先ほどまでとは違う勢いでオーガストさんがテキパキと部屋を片付け始める。あまりの違いに私は思わずクスっと笑ってしまった。



 鍵を開けて重い扉を開けると、埃っぽいにおいが鼻をくすぐり、ひんやりとした空気が肌に当たった。

 最近はずっと私も部屋に引きこもってここを訪れていなかった。

 書庫は屋敷の敷地内にある石造りの棟の中にあった。

 まずは換気のためカーテンを開けて窓を開けると真っ暗だった室内に光が差し込み、埃がふわふわと浮いているが見えた。誰も手入れしていない証拠だ。


「ここが……」


 クライン家の書庫は三階建てだ。

 入り口を入りさらに扉を開けると円形の建物内に沿った形で本棚がぐるりと配置されている。二階、三階も同じような形で壁が本棚になっていて、階段と通路が設置されている。中心には大きな机が置いてあった。

 オーガストさんがほうっとため息をつきながら周囲を見渡していた。


「あ、あの……好きに読んでもらって、大丈夫です……」

「いいのか? わあ……!」


 私の言葉を聞いて嬉しそうに、すっかり子供みたいな表情になった(私より年下なので子供なのだけれど)オーガストさんが本棚へと近づいていった。

 ここ数日、部屋の片づけを手伝ってもらったものの、やっぱりまだ会話するのは緊張する。部屋の片づけをしていた時は扉は開けっ放しで、使用人達や家族が迷惑そうに覗いてきたり、通り過ぎて行った。

 けどこの書庫では完全に二人きりなので、どう対応していいか普段人とほとんど話さない私にはわからない。とりあえず、好きな本をたくさん読んで満足してもらえばいいのだろうか。

 その方が、会話が続かなくても間が持つし……。

 オーガストさんは一階から三階までの本棚を時間をかけて嬉しそうに見ながら選んでいた。

 この書庫には様々な種類の本が置いてあるけれど、オーガストさんが選んだのは初心者向けの魔術の実践書だった。

 私も昔読んだことがある。でもあれ一冊だけだと意外と行き届かないところが多いんだよね……。

 おもわずじいっと見つめてしまったら机の反対側に座ったオーガストさんと目が合ってしまった。


「なんだ?」

「……あの、それでしたらこちらの本も一緒に読むとさらにわかりやすいですよ!」


 ギクッとして肩を跳ねさせた私は気まずくて視線を左右にうろうろさせたあと、近くの本棚からもう一冊魔術の解説書を持ってきた。

 オーガストさんは紫の目を丸くして、意外にも素直に受け取ってくれた。


「そうなのか? ありがとう……」

「いえいえ……」


 よかった。余計なことをするな、なんて言われなくて。

 自分から何かを言っても、この家では取り合ってもらえないことがほとんどだった。だからなんだか素直に受け入れてもらえたことに驚いてしまったのだ。

 こうして私達は日が暮れるまで一緒に本を読み続けたのだった。



「すっかり遅くなってしまいましたね」

「これ、借りて大丈夫なのか?」

「はい」


 二人で書庫のある塔から出たのはすっかり日が沈んだ頃だった。

 オーガストさんの手には何冊もの本があった。屋敷から出すことはできないけど、ここにいる間はどこで読んでも問題ないだろう。

 あの後も、ぽつぽつとオーガストさんは私に魔術書でわからないところを質問してくれて、それに答えているうちになんとなく話しやすくなっていた。

 色々な本を紹介できてそれも嬉しかった。

 家族やヘンリー様は私が魔術を勉強することを嫌がっていたから、一緒に好きなものを共有できるのってとても楽しい。


「ルイーゼは物知りだな。魔術のことはなんでも知ってるのか?」

「……そんな、なんでもだなんて。書庫にある本は全部読みましたからそこに書いてあったことなら、わかりますけど」

「え!?」


 ぎょっとしたようにオーガストさんが目を丸くして立ち止まった。

 書庫は、幼い頃から屋敷に居場所の無かった私の数少ない安心できる場所だった。お母様が大切にしていたという書庫で、本を読むことが私にとって唯一心休まる時間だった。


「……それって、あの数の本を? 」

「はい……、何か、人の役に立つこともあるかと……思って……」


 段々恥ずかしくなって声が小さくなっていく。

 魔術書を読み続けていたのは、魔術が好きだったから。それにもし魔術で人の役に立てれば、誰かに必要としてもらえるんじゃないか、なんて浅はかな気持ちもあった。


「……もしかしてすごい実力のある魔術師なのか?」

「そ、それが……私、魔術の知識は本でたくさん勉強しましたが、才能はまったく無いのです」


 星みたいなきらきら輝く瞳でオーガスト様が見つめてくる。

 うう、期待にこたえられないのが気まずい。

 どんなに頭に知識を詰め込んだって、それを形にできなきゃ意味なんてない。


「あら、それはどうかしら?」

「フリーダ叔母様!」

「フリーダ! どこ行ってたんだよ!」

「色々と用事があったの。ルイーゼ、今日はオーガストの面倒を見てくれてありがとう」

「おい!」


 どこから現れたのか今日一日出かけていたフリーダ叔母様が屋敷の方から近づいてきた。

 子ども扱いされたオーガストさんがムキーっと怒っている。


「あの、叔母様……」

「ルイーゼ、何か魔術を使ってみてくれる?」

「え、で、でも……」

「いいから」


 私は魔術の知識だけは頭に詰め込んでいるけれど、実際に発動させてもすぐに消えてしまう。

 それも人前でやるだなんて……と戸惑っている私に、フリーダ叔母様はあっけらかんとした顔で言う。

 オーガストさんもじっと私を見ていた。

 ……どうしよう。魔術を失敗しているところなんて、見られたくないなあ。


「大丈夫よ、フリーダ。あなた自分の身体が軽くなってることに気づいてない?」

「え……? 言われてみれば」


 いつも鬱々としていた心に引っ張られるように重かった体が、そういえばずいぶんと軽くなっていた。

 部屋の中のいらないものを大量に捨てて、大荷物を片付けてからなんとなく感じていたことだけど気のせいではなかったんだ。


「……星よ、暗闇から私たちを照らして」


 私は集中して呪文を唱えた。

 すると手元に浮かんだ小さな星がふわりと浮かび上がって、薄暗い庭にいた私達を照らし出した。それもすぐに消えることはなく歩くと一緒に移動する。


「え? な、なんで!?」

「なんだ、ちゃんと魔術を使えるんじゃないか」

「あはは」


 オーガストさんは感心した顔をして、フリーダ叔母様は笑っていた。そして私が一番驚いていた。だって今まで一度だって成功したことなかったのにこんな簡単に上手くいくなんて…!?


「ルイーゼ、あなたの部屋を見てすぐにわかったわよ。あんなにたくさんの重い念を宿した物に囲まれてたら、心も体も押しつぶされちゃって当然だわ」

「物……? あ、だから部屋を片付けさせたんですか?」

「そう、あの部屋には長年積み重なった様々な人間の念が物に宿って渦巻いていた。オーガスト、あなたもわからなかった?」

「確かに開けた瞬間から見るからに陰気臭くてこっちの気分まで塞ぎそうだった」

「うう!」


 ぐさりと胸に見えない何かが刺さった。

 もっとちゃんと日頃から片付けておくべきだった。

 まさか私が魔術を使えなかった原因があの部屋だったなんて。


「部屋だけじゃないわ。本当はこの屋敷、いいえ……家族そのものが腐っているのよ。ルイーゼを追いやって虐げてきたあの人達のせいであなたは、自分が無力だと信じ込んでしまったのね。本当は魔術の才能がちゃんとあるのに」

「フリーダ叔母様……」


 私の部屋、そしてこの屋敷には悲しい、辛い思い出がたくさん詰まっている。私が気に入らないお義母様。見下してくる妹のアデリナ。そして見て見ぬふりをするお父様……。私を馬鹿にする使用人達。私ではなくアデリナを選んだヘンリー様……。

 フリーダ叔母様がそっと私を抱き寄せた。

 少し驚いて顔を上げると、フリーダ叔母様は優しく微笑んだ。もしかしてお母様が生きていたら似ていたのだろうか、なんてふと思った。


「明日、少しまた出かけるけど夜に大事な話があるわ。私の部屋に来てちょうだい」

「話……?」


 一体なんだろう。

 フリーダ叔母様は十年ぶりに急に戻って来たかと思ったら、私の部屋を片付けろと指示したあとは、あちこち出かけて屋敷にはあまりいない。そういえば何をしに戻って来たのだろう?



 翌日も留守番のオーガストさんと一緒に部屋の片づけを進めた。捨てるものはほとんどなくなり、寄付する物も持って行ってもらった。部屋はまるでこれから引っ越しでもするんじゃないかというほどがらんとしていた。

 ……だけど困ったことが起きた。


「お姉様! これ、いらないから差し上げますわ!」

「え? ドレス……?」

「いつも地味で古臭いのばかり着ているでしょう? 私はお父様とお母様から新しいのを何着も買ってもらったので」


 せっかく綺麗になって部屋にどさりと箱いっぱいのドレスをアデリナが持ってきたのだ。確かにどれもあまり着ていないのだろう。でも私には派手な色やデザインで、とても着こなせなそう。それに、せっかく部屋から物を減らしたところだったのに。


「あとアクセサリーと靴と、カバンも。ぜーんぶあげますわ!」

「ちょ、ちょっとアデリナ!」


 アクセサリーやかばんは壊れている物もあった。

 なんでこんな急に……。


「お姉様はお片付けが得意なんでしょう? 代わりにやってくださいな」


 片眉を器用に上げてふふんとアデリナが笑う。

 最近私が部屋を片付けているのが気に入らなかったみたい。基本的に私が何をしていても気に入らないみたいだけど。

 今までだったら何も言えずに受け取っていた。

 だけど、部屋を片付けたことで私は少しだけ自分に自信を取り戻していた。昨日の魔術が成功したように、私の気持ちを押し込めていた重苦しいものはもう無いんだ。


「アデリナ、全部いらないわ。持って帰って」

「……は? 何よ、私があげるっていってるんだから、黙ってもらいなさいよ!」

「ううん、いらない」


 私の返答にアデリナが顔を赤くして荷物を投げつけてきた。その勢いに私は思わずしりもちをつく。


「受け取りなさいよ!」

「きゃ!?」

「おい、何をやってるんだ?」


 冷たい声にアデリナがはっと顔を上げる。

 ちょうどゴミ捨てに行っていたオーガストさんが戻って来たのだ。アデリナはきまり悪そうな顔をして急にもじもじとしだした。


「オーガストさん! ……あ、あの、違うんです。私、姉にドレスをあげようとしただけで」

「ルイーゼ、大丈夫か?」

「あ、はい」


 アデリナを無視してオーガストさんは私の手を引いて立たせてくれた。それを見て一段とアデリナの表情が険しくなる。

 ……そうなのだ。

 ここ数日なんとなく気づいていたけれど、どうやらアデリナはオーガストさんのことを気に入ったようなのだ。人目を惹く綺麗な銀の髪に紫の瞳、整った顔立ちのいかにも都会の男の子。部屋を片付けている最中もチラチラと様子を見に来てはオーガストさんにだけなんとか話しかけようとしていたものね。

 だからオーガストさんが、フリーダ叔母様の指示とはいえずっと私の片づけを手伝っているのが気に食わないみたいなのだ。

 でもアデリナにはもう婚約者のヘンリー様がいるのに……。


「……オーガストさん、片付けばかりで疲れたでしょう? 一緒にお茶でも」

「いらん。あとこの荷物なんだ? いらないから持って帰ってくれ」

「え……、そんな!」


 さっさと大きな箱に荷物を全部まとめてオーガストさんはアデリナへと返してしまった。

 アデリナは大きな瞳に涙をいっぱいにためている。


「ルイーゼ、さっさと片付けて書庫へ行こう」

「え、ええ」

「なによ……」

「なんですか、騒がしい!」


 その時騒ぎを聞きつけたお義母様が目を吊り上げて私の部屋へやって来た。涙目のアデリナを見て私を睨みつけてくる。その瞳に私は竦みそうになったけれど、なんとかこらえて見つめ返した。


「ルイーゼ、なんですこの騒ぎは」

「……アデリナに、いらない服を押し付けられそうになったので断りました」

「いらない服? この子の優しさを無下にするつもりなんて! 姉なら妹の気持ちくらいわかってやりなさい! あなたがいつもみすぼらしい服を着ているからでしょう。そんなんだから婚約者からも見捨てられてしまうのですよ」


 お義母様はいつだってアデリナの肩を持つ。大げさにアデリナを抱きしめてこちらを嫌悪した瞳で睨みつけてくる。アデリナはお義母様の胸の中でこちらを馬鹿にするようにクスクスと笑って見つめていた。


「大体フリーダ様が急に帰って来てから何をしているの? 毎日毎日部屋の中を片付けて、埃っぽいしうるさいし、このまま出て行ってくれるのかしら?」

「……お義母様」

「ルイーゼ嬢は、クライン家の正当な血を引く令嬢だと聞いたが? 」


 すっと私とお義母様の間に入ったのはオーガストさんだった。

 いつもの子供っぽい声ではなく、落ち着いた気品ある雰囲気の話し方。すっと背筋が伸びた凛とした姿勢。やっぱりこの人は相当高貴な家の人なんじゃないだろうか。……どうしてフリーダ叔母様の従者をしているのかはわからないけど。

 お義母様が急に話しかけられて戸惑っている。


「……だから、何? 従者ごときが話しに割って入るなんて」

「正当な家の後継者にずいぶんと不当な扱いをしているように見える。現在のクライン卿は入り婿だろう? 」

「家のことは他人は口出し無用よ。大体……!」


 そのとき、廊下から使用人の一人が走って来た。


「奥様、旦那様がお呼びです!領内に魔物が出たとかで……」

「また魔物……!? 最近多いわねえ。……とにかく、これ以上、余計なことはしないでちょうだい。アデリナ、行きますよ」

「はぁい……」


 アデリナはまだオーガストさんと話したかったのか、未練がましく視線をよこしながらもお義母様と去っていった。

 家族仲が悪いところを見られるのは、ちょっと気まずい。

 おずおずと私はオーガストさんに話しかけた。


「あ、あの……ありがとうご、ございます。かばってくれて」

「あいつら腹立つな! ルイーゼは悪いことしてないだろ!」


 べーっとお義母様達が去っていった方向にオーガストさんは行儀悪く舌を出していた。子供っぽい仕草に私は思わず吹き出してしまう。


「ふっ……ふふっ」

「る、ルイーゼは大丈夫なのか? あんなこと言われて」

「それが不思議と今は大丈夫なんです。叔母様が言っていたように、部屋の荷物を片付けたおかげで……、気持ちも晴れたんだと思います」


 照れ臭かったのか視線を逸らしてぶっきらぼうな言い方をするオーガストさんに私は笑って見せた。すると目を丸くしてずんずんと室内へ入って行ってしまった。そのまま窓際まで早足でたどり着くと勢いよく窓を開けた。

 どうしたんだろう。


「か、換気! 換気をしないとな!」

「……警笛」


 窓を開けるとどこからかピイイーーー……と甲高い音が聞こえてきた。

 領内で魔物が出たというから、そのせいだろう。


「この辺りは魔物はあまり出ないと聞いてたんだが」

「はい。でも、年に一、二度くらいはあります。ですが……」


 クライン家の所有する領は基本的に広い農地が多くて、気候は穏やか。森が少ないのもあって、隠れる場所のない魔物はあまり出ることはない。それでもたまには狼が変異したというワーウルフが出没することはあるけれど……。


「今年はすでに5頭出没しています。……例年より、多いですね」

「それでフリーダがここへ来たわけだ」

「え?」


 フリーダ叔母様が帰ってきた理由が魔物?

 一体どういうことだろう。

 オーガストさんがすっかり片付いた部屋の私の椅子へどかりと座った。


「ルイーゼは、フリーダが王都で何をやっているのか知らないんだったか?」

「はい、お父様もお義母様も知らないと思います……」


 何も言わずにある日王都へと旅立ってしまったフリーダ叔母様。

 10年もずっと何をしていたのだろう。


「……彼女は」

「ルイーゼ様、失礼します。急ぎのご連絡が」


 扉がノックされて、使用人の男性が立っていた。

 なんだろうと、私とオーガストさんは顔を見合わせたのだった。



「フリーダ叔母様!」

「フリーダ!」

「二人とも、急に呼び出してごめんなさいね~」


 夕暮れ時。

 領内のはずれにある森の入り口の猟師小屋に飛び込むと、足に包帯を巻いたフリーダ叔母様がベッドで苦笑いしていた。他には何人かの兵と手当てをしてくれたお医者様。そして気まずそうなお父様がいた。


「魔物に襲われてお怪我をされたって……、あ、お、父様」

「ルイーゼ……。フリーダの話をよく聞きなさい」


 領内に魔物が出た時は対策本部が作られる。そのためお父様も領主として立ち会うので、ここにいるのは不思議ではない。どちらかというとフリーダ叔母様がここにいる方が不自然だ。

 フリーダ叔母様のいるベッド横の椅子に座ると、他の人々はぞろそろと外へ出て行ってしまった。

 ……なんだろう、この雰囲気。


「例の物は持ってきた」

「は、はい……」


 私に連絡をよこしたのはフリーダ叔母様だった。

 魔物に襲われて怪我をした。至急ある物を持ってきてほしいと。

 私はオーガストさんの駆る馬に乗せてもらって慌ててこの領内のはずれにある小さな森の前まで来たのだった。

 私はそっとフリーダ叔母様に小さな箱を見せた。

 それは私の部屋の開かず引き出しの中に入っていたあの指輪だった。


「……これは『精霊の指輪』。姉さん……ルイーゼのお母様が受け継いだものよ」

「精霊の指輪!?」

「オーガスト、静かに」


 隣で大きな声を上げたオーガストさんが叔母様に注意される。だけど私だって同じように叫びそうになった。だって……精霊の指輪は書庫にあった歴史書で読んだことがある。この国ができた時、周囲の魔物から土地を守るために聖女が使った魔道具だって……。

 そ、そそそれがこのなんの変哲もない指輪!?


「そしてこれが導きの杖ね」

「ええええ!?」

「ルイーゼ、うるさい」


 フリーダ叔母様がベッドの脇からおもむろに繊細だけど美しい杖を出してきた。今度こそ私は悲鳴のような声を上げてしまった。

 建国史に残る聖女の使う二大国宝が、この精霊の指輪と導きの杖。ほっそりとした杖の先端には金色の三日月の意匠と透明の水晶がついている。指輪と同じ水晶だ。


「な、なななんで、本当に? 本物、ですか? 」

「本物よ。だって元々クライン家の持ち物だし」

「え!?」

「クライン家の始祖は建国史に聖女だった女性だからね」


 今度こそ私は頭が真っ白になって固まってしまった。

 だって、聖女って……そんな伝説上の存在が? しかもクライン家の始祖?


「そのことは、この国宝を……ひいてはラングハイム王国を守るためもあって直系の血筋の者にしか知らされないことになっていたの。お姉様が話したのかあなたのお父様は知っていたようだけど」


 ちらりとフリーダ叔母様はお父様が出て行った扉の方を見た。


「今現在でも国中に張られた魔物除けの結界の維持には聖女が関わっているの。聖女の血筋の人間は魔力がとても強いからね」

「え……それってつまり、叔母様は」

「そう、私は王都で聖女をやってるの!」

「せ、聖女」

「姉さまから役割を引き継いだの」


 フリーダ叔母様はそれから時間がないからと簡単に話してくれた。

 クライン家の聖女の血を引く二人の娘。それがお母様とフリーダ叔母様だった。二人は高い魔力を持っていた。お母様は王都で聖女として国を守護する結界を維持する務めを果たしていた。

 ある時お母様が家を継ぐため結婚し、そして私を産んでまもなくして体調を崩しそのまま亡くなってしまった。そのためフリーダ叔母様はお母様の代わりに聖女としての仕事を継いだのだそうだ。しかしそのときすでに精霊の指輪は行方不明になっていたのだという。それでも守護結界を維持する役目ははたすことができた。けれど、最近になって各地で結界が弱まったり、穴が開いたりすることが増えたのだという。

 結界を張り直すには精霊の力を借りなければならない。


「そのための精霊の指輪……ですか?」

「そうよ。精霊の指輪は精霊の力を直接借りることができるからね」


 基本的に、人間が使う魔術は人間の魔力を使う。だけど精霊の魔力はもっと強大なものなんだそうだ。私は本で読んだことを思い出す。


「精霊の魔力は大きすぎて人間には扱えないと聞いたことがある。だから導きの杖を使うのか」

「その通りよ、オーガスト」


 精霊の指輪で集めた魔力を行使するために使うのが導きの杖だ。

 それはわかる。わかるけれど……。


「姉様があの指輪を託しているとしたらルイーゼしかいないと思ったの。だから何度も手紙を送ったのにまさか握りつぶされていたなんて」

「手紙……?」

「そう。ルイーゼに指輪と一緒に王都に来てほしいって」

「まあ、あの魔窟みたいな部屋から指輪の気配を感じた時は気が遠くなったけど……」


 うう、と私は視線を逸らした。

 あの部屋の惨状を見られたことは今でも気まずい。

 隣で聞いていたオーガストさんが身を乗り出した。


「それじゃあ、ルイーゼをここに呼び出した理由って……」

「ルイーゼに結界を張り直してほしいのよ。聖女として」

「……え?」



 すでに日が暮れた森の入り口には獣除けの松明がいくつも立てられ、領内の兵士や自警団の団員達が集まっていた。

 ……そんな中、じろじろと不審そうな視線を受けながら私は森の入り口に立っていた。

 右手には導きの杖を持ち、左手の薬指に精霊の指輪をはめて。

 隣に腕を組んで立っていたオーガストさんが落ち着かない様子でこちらを横目で見る。


「おい、大丈夫か?」

「……大丈夫、では、ないです」

「顔色がすごいことになってる……」

「だ、だって、私なんかに本当にできると思いますか? いくら、ちょっと魔術を使えるようになったからって」


 こんな年下の男の子に弱音を吐くなんて情けない。

 でもあまりにも不安で私はついそんなことを口にしてしまった。

 フリーダ叔母様がクライン家に帰って来たのは、指輪探しだけが理由ではなかった。

 今年のクライン領は妙に魔物の出現が多かった。そのため結界に何かあったのか様子を見るためでもあったのだ。結果的に結界には小さな穴が開いていて、しかも魔障という自然発生する魔力の吹き溜まりが近くに生まれていた。そのため急に魔物が増えたのだ。

 精霊の力が借りられない以上、結界の修復には時間がかかってしまう。そのため何日もフリーダ叔母様は森の入り口に足を運んでいたらしい。

 そして今日、運悪くフリーダ叔母様は魔物に出くわしてしまい足を怪我したのだという。幸い護衛を連れていたから軽症で済んだけれど、魔物は森の中へ逃げ込んでいった。

 これから私はフリーダ叔母様に代わって結界を張り直さなければならない。


「……俺はルイーゼならできると思う」

「どうして、そう思うのですか?」

「ルイーゼには知識があるだろ。あの書庫にある本をすべて読みきったと言ってたじゃないか。魔術を使って人の役に立ちたいって」


 私はずっと屋敷に居場所が無くて、逃げ込むように入った書庫でずっと本を読んでいた。そのうち魔術が好きになった。この力が人々の役に立つんじゃないか。そんなことを思ったのは事実、だけど……。

 私はぎゅっと杖を両手で握って俯いた。


「……オーガストさん、ごめんなさい。ひとつ、嘘をつきました。私は確かに人の役に立ちたいと言ったけれど、それは自分のためなんです。そうすれば、いつか誰かが私を受け入れてくれるんじゃないかって」


 本当は全部自分のため。人のため何て言い訳でしかない。

 だけどフリーダ叔母様は私なんかに精霊の指輪と導きの杖を託してくれた。オーガスト様も私ならできるって信じてくれた。

 それにここで結界を張り直さなければ、魔物が領内に入ってきて大変なことになってしまう。それは嫌だった。

 私は指輪をはめた左手を高く掲げた。


「世界にあまねく精霊達よ、どうかその力をお貸しください」


 ざわざわと夜闇の中、森の木々が揺れる音だけがあたりに響いている。

 静まり返った空間に、一瞬の間をおいて目を開けていられないほどの光が広がった。


「うわあ!?」

「な、なんだ!?」

「ルイーゼ……!」


 指輪の石が、鮮烈な光を放っていた。大きな力が指輪に宿っているのがわかる。あまりの威力に杖を握っていなければ吹き飛ばされてしまいそうだ。

 これが精霊の魔力……!?

 よろけてしまった私をオーガストさんが咄嗟に支えてくれた。


「おい、あっちを見ろ!」

「ワーウルフだ!」


 私の正面、森の方角から金色の目をした恐ろしい獣が数頭走って来るのが見えた。

 あれが魔物……!

 始めて見る姿に、恐ろしさで身が竦んでしまった。

 ……無理。あんな恐ろしい魔物を止めるなんて、私には。

 だって、何もできない私なんかが。


「ルイーゼ!!」


 そのとき山小屋の方からフリーダ叔母様の声が聞こえた。

 お医者様に支えられた叔母様がそこには立っていた。

 まっすぐに迷いない瞳で私をまっすぐに見つめている。あんなところにいたら魔物から逃げられないのに。


「あなたなら大丈夫よ! いらないものは全部捨てたでしょ。ゴミも嫌な思い出も自分を責める気持ちも。 今のルイーゼならなんだってできる!」


 ――そうだ。

 フリーダ叔母様のその言葉に、冷たく縮こまっていた心がふっと軽くなる。


「大丈夫か、ルイーゼ!」

「……は、はい!」


 隣で私を支えてくれているオーガストさんに頷く。

 フリーダ叔母様もオーガストさんも私を信じてくれた。そしてお母様も私に精霊の指輪を託してくれた。

 こんな私にそこまでの価値があるのか、まだわからない。

 目を閉じればお義母様やアデリナ、ヘンリー様の顔を思い出す。そうすると、急にほとんど持ち合わせていなかった自信なんてすっかりなくなって立ち竦みそうになる。

 だけど身体も心も以前よりはずっと軽い。不安な気持ちを振り払うように、震える足で私は一歩踏み出した。

 周囲の人々が戦闘態勢に入る中、私は今度は導きの杖を高く掲げた。


「せ、聖女……ルイーゼの名において、結界よ、人々を守れ!」


 杖の聖石が強く輝いた瞬間、キィィ……ンと何かが張りつめたような音がして、周囲は静寂に包まれた。目の前にいたはずの魔物達は光に焼かれ、すべて消えてしまっていた。


「結界……」


 目には見えなくてもわかる。

 透明で強力な魔力の壁が森全体に張られている。

 私の魔術が無事に発動して、森の結界は修復されたようだった。


「やった! ルイーゼ!!」

「ひゃ!?」


 一瞬の間を置いて、周囲がわあっと歓声を上げた。

 そして茫然としていた私にオーガストさんが抱き着いてきた。突然のことに思わず悲鳴を上げたら慌てて真っ赤な顔をしたオーガストさんが離れた。

 いくら年下の男の子でも、そもそも人とあまり関わってこなかった私にはちょっと刺激が強い。


「あ、ご、ごめん! つい……」

「い、いいえ……」

「でも、言っただろ? ルイーゼならできるって」

「……はい!」


 ああでも本当によかった。

 ほっとして、オーガストさんに笑顔で頷いたら、なぜか急に彼は固まってしまった。一体どうしたのだろう?

 周囲からは「聖女様!」「聖女様の誕生だ!」と声が上がりだした。

 せ、聖女様って……。

 そのときフリーダ叔母様が杖を突いて、医師に支えられながらこちらにやってきた。


「ルイーゼ、よくやったわ。本当にありがとう」

「叔母様……!」


 私はフリーダ叔母様の元に駆け寄った。彼女はいつものカラッとした笑顔ではなく、少し複雑な顔をしていた。

 フリーダ叔母様には聞きたいことがたくさんある。

 最初は自分に自信が無くて、人と関わるのが怖くて、何も自分からは聞けなかったけれど、今なら勇気を出して色々お話しできる気がした。


「あ、あの……教えてほしいんです。お母様のことや、フリーダ叔母様のこと……。それから聖女の役目のことを」

「ええ、もちろん」


 フリーダ叔母様が私を優しく抱きしめてくれた。


「ルイーゼ、本当にごめんなさい。もっと早く迎えにくるべきだったわ。自分の事ばかりに精一杯で」

「え……?」

「一緒に王都へ行きましょう」



 猟師小屋に戻ってベッドに腰かけたフリーダ叔母様が静かに過去を話してくれた。


 ――あなたは次女なんだから、魔術なんて必要ありません。

 フリーダ叔母様はそんな風に言われて育った。

 年の離れた姉は王都で聖女として務めを果たしていた。それに憧れて自宅の書庫に籠っていた子供時代、両親や使用人はフリーダ叔母様が魔術を勉強することを嫌がった。

 だけどしばらくして姉が結婚するため王都から戻って来た。聖女としての務めは続けるつもりだと言っていたけれど、産後体調を崩した姉は娘を残して亡くなってしまった。しかも精霊の指輪はどこへ行ったのかわからないまま。

 不幸は重なるもので、その後相次いで両親……私にとってはおじい様とおばあ様も病で亡くなった。

 そしてすぐにお父様は後妻を持ち、フリーダ叔母様はますます家の中で居場所を失っていった。

 聖女の力を持っていたのは姉であっておまえではない。どうせ何も役には立たないのだからはやく結婚した方がいい。

 周囲からそう言われて、フリーダ叔母様は自分の無力さに泣いたという。

 そんなとき、王都から呼び出されたのだという。

 フリーダ叔母様はわずかな手荷物以外すべて捨てて屋敷を飛び出した。

 王都にあった導きの杖をフリーダ叔母様は操ることができた。

 そしてフリーダ叔母様は聖女として王都で務めを果たすことに決めたのだという。


「クライン家の娘であればきっとその力があるはず。だからルイーゼを王都に呼び寄せようと思ったの。あの父や義母じゃああなたは苦労するだろうからってわかってた。……だけど、私も周囲の信頼を得ないことにはと思ってね」

「そうだったのですね……」


 身一つで王都へやって来たフリーダ叔母様をよく思わない人達もいた。王侯貴族は魔術を野蛮なものだと思っている。それも女性だなんてということで、中には良からぬことをたくらむ人たちもいたらしい。

 だからまずは自分の立場をしっかりさせてから私を迎えに行きたいと思っていたらしい。


「手紙を出しても返事が無かったのだからもっと早く迎えに行けばよかった。本当にごめんなさい」

「いいんです。叔母様も大変だったのですから……」


 フリーダ叔母様は私を王都に呼び寄せたいと手紙に何度も書いて送ってくれたらしい。けれどフリーダ叔母様を嫌っているお義母様が読まずに捨ててしまっていたみたいだ。


「さっきは急にあんなことを言ってごめんね。でも……もしルイーゼさえよければ一緒に王都へ行かない?」

「叔母様……、私にできるでしょうか? わたしな……」

「私なんか……なんてもう言っては駄目よ。自分でもうわかるでしょう?」

「……はい」


 フリーダ叔母様に注意されて私は苦笑した。

 ……大丈夫。

 私は私をちゃんと信じることができる。

 この力で、誰かの役に立てるのなら。

 私は精霊の指輪を見つめて、それからフリーダ叔母様にゆっくりと頷いたのだった。



 数日後。

 私の部屋はすっかり荷物がなくなり、がらんとしていた。たくさんの物に囲まれて窓や机の引き出しすら開けるのが難しかったのが嘘のよう。数少ない私の私物はすでに王都への荷馬車に先に乗せられていた。

 私はフリーダ叔母様と共に正式に聖女として王都に行くことになった。


「どうせうまくいかないわよ。お姉様が聖女だなんてありえない!」

「アデリナ……、それにお義母様」


 部屋を出ると、アデリナとお義母様がこちらを睨みつけていた。二人とも顔色が少し悪い。父はあれから部屋に籠って出てこない。まるで昔の私みたいだと思った。


「あなたみたいな暗くて何もできない娘に聖女や、クライン家の当主なんて務まるわけがありません。今からでも辞退なさい」


 現状でクライン伯爵家の正当な血筋は私とフリーダ叔母様しかいない。

 私は聖女としての役目を引き受けるのと共に、クライン伯爵家を継ぐことになったのだ。

 そしてお父様とお義母様、そしてアデリナはこの屋敷を出て、お義母様の実家に身を寄せることになっていた。

 お母様はお父様にクライン家の重要な役割を話していた。けれどお父様はお義母様やアデリナに反論することができず、聖女の力を持つ私をきちんと養育しなかったこと。あと精霊の指輪を紛失していたこと(これはお母様が意図的に隠したのかもしれない)の責任を取り、爵位を剥奪されることになったのだ。


(何もできない娘……)


 確かに以前の私はそうだった。

 誰に何を言われても反論できず、一人部屋に籠っていた。自分では何もできない無力な存在だった。


(いいえ、そういう風に思い込んでいたんだ)


 本当はそんなことないのに。自分のことを信じてあげられなかった。

 私はまっすぐにアデリナとお義母様の目を見た。

 二人が一瞬たじろいだのを私は見逃さなかった。


「私は……必ず聖女としての務めを果たして、この家も守ります」

「な、なによ……あんたなんて!」

「忌々しい……あの女にそっくりね」


 あの女とはお母様のことだろう。

 でもそっくりだなんて、私にとっては嬉しい言葉だ。残された肖像画でしか私はお母様を知らない。

 そっと左手の薬指にはめられた精霊の指輪を見る。それはお母様が私を想って残してくれたものだ。私を大切に思ってくれる人との繋がりを感じられると、胸の中が少しだけ温かくなる気がした。


「アデリナ、お義母様、ごきげんよう。どうかお元気で」


 青い顔の二人に挨拶をして私は部屋を出た。



 屋敷の玄関を出ると、そこにはヘンリー様が立っていた。

 久しぶりに見る彼は、なぜかずいぶんとにこやかな顔をしていた。

 一体今更何の用だろう?


「やあ、ルイーゼ! 久しぶりだね」

「ヘンリー様……あ、あの……?」

「アデリナから聞いたよ。君が聖女として王都に行くって……。驚いたよ。ずっと君に謝りたかったんだ。ずいぶんと辛い思いをさせてしまったね」


 彼はいきなり私の両手を取って、真剣な目でこちらを見つめてきた。


「まさか君が聖女の血筋を引いていたなんて驚いたよ……。きっとこれから大変な苦労をするだろう。だから、僕が君を支えたいんだ」

「え?」

「アデリナとのことは本当にすまなかった。あれはちょっとした気の迷いだったんだよ! アデリナに誘惑されたんだ。だから、僕ともう一度婚約を」

「ふん!」


 こちらに詰め寄りながら早口でまくしたてるヘンリー様の手を、突然誰かが引きはがした。


「オーガストさん!」

「何が気の迷いだ見苦しい!」

「な、なんだこの子供は」


 私を庇うように前に出たのは顔を真っ赤にして怒っているオーガストさんだった。引きはがされた拍子に尻もちをついたヘンリー様が眉を吊り上げる。


「無礼な! 僕にこんなことをしていいと思ってるのかクソガキ!」

「うるさい。無礼はどっちだ! 聖女の手を軽々しく握るとは。しかもお前浮気して一方的に婚約破棄したくせに調子よすぎるんだよ!」

「だからそれは気の迷いで……」

「ヘンリー様!」


 オーガストさんは、私のために怒ってくれているんだ。その真剣な様子に、なぜか私は少しだけ嬉しくなった。

 彼の襟をつかみあげたヘンリー様を見て、私は慌てて声を上げた。


「手を離してください。そ、その方は王都の高貴なお方です」

「え……」

「あと、私はもうあなたと婚約する気はありません。アデリナとどうぞお幸せに」

「そんな、ルイーゼ……! アデリナなんてもうただの平民と変わらないじゃないか。そんな……」


 まさか断られると思っていなかったようだ。

 信じられないという顔をしたヘンリー様の私は通り過ぎる。婚約破棄をされたときはもちろん絶望した。だけどもう、私は彼のことはなんとも思っていなかった。部屋のゴミを捨てているうちに彼への想いも一緒に捨ててしまったみたいだ。



「ルイーゼ……、俺のこと何か知ってるのか?」

「叔母様に、ちょっとだけ聞きました……。本当は、オーガストさんなんて呼んでは失礼だったんですよね。……で、殿下」


 オーガストさん……彼の正体はこの国、ラングハイム王国の第三王子だった。

 昨夜、フリーダ叔母様に聞いたのだ。

 オーガスト王子は、幼い頃に誘拐されそうになったことがあるそうだ。その時危ないところを魔術師に助けてもらってから、ずっと魔術師に憧れていたらしい。本当は魔術の専門学校に行きたかったけれど、この国で魔術師を目指すのはクライン家のような特殊な事情があるか、一般人だけ。王侯貴族は魔術など野蛮な力だと、使うことを昔から忌避してきた歴史がある。

 ……そんなことはない素晴らしい力なのに。

 だから王子であるオーガスト殿下が魔術に触れることに周囲はいい顔をしなかった。

 そんなオーガスト殿下の唯一の味方は、フリーダ叔母様だった。フリーダ叔母様は王都で聖女としての務めを果たす傍ら、王族への精霊や魔術に関するご進講を行っていたのだ。

 国の発展や防衛のために魔術は必要な力だということは国王陛下もわかっているらしい。今すぐには無理でも少しずつ貴族達への魔術への忌避感も無くしていきたいというのが陛下の考えだった。

 ご進講のたびに本来は出席する必要のないはずのオーガスト殿下も同席し、様々なことをフリーダ叔母様に聞いて勉強をしていたらしい。

 そんなわけでオーガスト様はフリーダ叔母様に懐いた。

 そして数多くの貴重な魔術書の眠るクライン家の書庫の話を聞いて、今回里帰りする叔母様に着いてきたのだ。もちろん国王陛下の了承はとってある。

 ……表立っては言えなくても、もしかしたら国王陛下はオーガスト殿下が魔術を勉強することをもしかしたら認めていらっしゃるのだろうか。


「……殿下?」


 そんなことをぼんやりと考えていたら、急に後ろから袖を引かれた。立ち止まって振り向くと、オーガスト殿下が私の袖をつまんでじっと不安そうにこちらを見つめていた。


「その、殿下って呼び方はやめろ。……オーガストでいい」

「……ええ? そ、そういうわけにはまいりません」

「いいよ、俺が良いって言ってるんだから!」

「では、オーガスト、さま……」


 立場を考えれば仕方ないこと。でも急に私がかしこまった態度を取ったから、オーガスト様は距離ができたようで寂しく思ったのかもしれない。

 まだ少し不満そうな顔をしていたけれど、オーガスト様は私の袖を離した。そして俯いたまま呟いた。


「なあ、ルイーゼ。王都に行ったら、俺の魔術の先生になってくれないか?」

「……え」

「おおっぴらに魔術を習うことができないのは俺もわかってる。でもルイーゼなら父上……陛下も許してくれると思うんだ」

「でも、それならもっとちゃんとした先生の方がいいのでは」


 私達はこれから王都へと向かうことになっていた。

 フリーダ叔母様から聖女の役目を引き継ぐためだ。それが終わったら叔母様が今度はクライン家の当主代理となってこちらに戻って来て書庫も管理してくれる予定になっていた。

 私はオーガスト様の提案に戸惑っていた。

 だって私は今までずっと書庫に引きこもって魔術書を読んでいただけだ。王子であるオーガスト様に魔術を教えるならもっと経験を積んだ人の方がいいのでは……と思ったのだけれど。


「ルイーゼがいいんだ。君の教えてくれる魔術書はみんなすごくおもしろかった。話しも楽しかった。これからも書庫にいたときみたいに一緒に過ごしたい」


 真っ赤な顔で一生懸命オーガスト様が言う。

 そんな風に思ってくれていたなんて……。私はただ慣れない人の対応におどおどしながらおすすめの本を出し、話しだって上手くはなかったはずなのに。それでも私が良いと思ってくれて、とても嬉しい気持ちになった。


「……わかりました。陛下が良いとおっしゃったらですけど。よろしくお願いします」

「ああ! ありがとうルイーゼ! 絶対だぞ」


 真っ赤な顔がぱあっと嬉しそうな笑顔になる。

 なんだかそんな姿を見ていると、オーガスト様のお願いはついなんでも聞いてあげたくなってくる。

 もし私に弟がいたら、こんな感じなのだろうか。


「二人とも遅いわよー! もう出発するんだからね!」

「あ、はい! 今行きます!」


 そのとき門の方からフリーダ叔母様の声が聞こえてきた。

 すでに門の前には馬車が停まっていて、フリーダ叔母様が私達二人を待っていた。

 慌てて私とオーガスト様は駆け出したのだった。

 少し前まであんなに身も心も重苦しかったのに、今ではそれが嘘のように軽い。

 慣れない場所で新しい生活が始まる。だけど今なら大丈夫。そんな気がしていた。



 ――それから数年後、私は懐かしい扉を開けた。

 真っ暗な世界に一筋の光が差す。少し埃っぽいどこか懐かしい空気。

 あの頃と変わらないびっしりと壁一面に本が埋まった世界。


「……まるであの頃と変わらないな。この書庫は」

「ええ……」


 私は久しぶりに王都から生家へと戻って来ていた。隣にはすっかり背の高くなったオーガスト様。昔は私より少し小さいくらいだったのに今では私が見上げないと目も合わせられない。

 王都での暮らしにもすっかり慣れたけれど、この静かな雰囲気はやっぱり落ち着く。

 書庫の中へと足を踏み入れるとオーガスト様と出会ったあの頃を思い出す。

 嬉しそうに瞳を輝かせてオーガスト様が本を読んでいたテーブルがそこにあった。

 換気のため窓を開けると少しかび臭いにおいがした。

 重苦しい気はどうしても一つのところに溜まってしまう。


「さあ、オーガスト様。まずはお掃除しましょう」

「高いところは俺がやるからな。あと重い物も持つなよ」

「過保護……」

「あたりまえだろ。君は今、一人の体じゃないんだぞ」


 あれこれと口を出してくるオーガスト様に苦笑する。

 あれから数年が経って、オーガスト様が成人すると同時に私達は結婚した。最初は弟のように思っていたオーガスト様に求婚された時は驚いたけれど、いつの間にか彼は私にとってとても大切な人になっていたのだ。今はお腹の中に私達の子供がいるのだ。まだそんなに大きくなっていないお腹に手を置く。その指には、結婚指輪と精霊の指輪が光っていた。

 いつかこの指輪をお腹の子に受け継いでもらうのかはわからない。

 だけど私は指輪を通して精霊に願う。

 どうかこの子がみんなに愛され、幸せに育ちますようにと。

 そしてどんな苦難も跳ね返す強さがありますように。


「……でも、何かあった時は私が教えてあげればいいのかな」

「ルイーゼ?」

「私……自分には何もできないと思っていたんです。でも、そうじゃなかった。そう思い込んでいたからできなかっただけなんです」


 オーガスト様は黙ってお腹を撫でる私を見つめていた。


「だから、もしこの子にこの先何か問題が立ちはだかっても、教えてあげたいんです。悩みも苦しみも、いらないものは全部捨てちゃいましょうって。フリーダ叔母様やあなたが一緒にしてくれたように」

「……そうだな。俺もあれから片付けは得意になったぞ。きっと力になれる」

「はい」


 私達は視線を合わせて笑いあった。

 いつか小さな手がこの書庫の扉を開いて、中に足を踏み入れる日を想いながら。


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