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豆腐の分かる中間管理職

総合病院。


カッターのけたたましい咆哮とともに、硬質な振動が肌を突き抜け、頑なだった「白い監獄」に一本の亀裂が走る。


摩擦熱が束縛を焼き切り、砕かれた石膏の砂塵の中から、白く痩せた『自由』が顔を出した。

長谷川の左腕を縛っていたギプスが、ようやく役目を終えた。


二ヶ月ぶりに見る、自分の意思で動く左手。

だが、解放の喜びよりも先に、奇妙な既視感デジャヴが彼を捉えた。


リハビリの痛みも、看護師の事務的な所作も。

通院中の一時間は、まるで以前に幾度となく体験し、出力し終えた「既定のログ」をなぞっているかのような錯覚を呼び起こす。


(……ギプスが取れる夢を、何度も反芻していただけか?)


長谷川はそんな非合理な推論を脳の隅に追いやり、会計を済ませた。


午後は仕事だ。




執務室。


手元の分厚いファイルを捲った。


【氏名:柏木 秀一】

【能力:『豆腐か否か』を100パーセントの精度で判定できる】


「……は?」


長谷川の乾いた声が、誰もいない部屋に虚しく響いた。

そこに躍る一行は、長谷川として築き上げてきた彼の常識を根底から揺さぶるものだった。


(見ればわかるだろう。スーパーの棚に並び、パックの中で水に浸かっていれば、それは豆腐だ。

それをわざわざ、能力として……)


長谷川は新たな「白い監獄」に放り込まれた。


(麻婆豆腐専門店か? それとも冷奴の品評会か?

人々が求めているのは「豆腐である証明」ではなく、ただの「味」だ)


長谷川は履歴書に目を落とした。

そこには非の打ち所がないキャリア、管理職を歴任する優秀な記録が書かれている。


(なるほど、能力と職歴が一切噛み合っていない……)


「……次の方、どうぞ」


長谷川の呼びかけに応じ、音もなくドアが開いた。

現れたのは、仕立てのいいスリーピース・スーツに身を包んだ男、柏木だった。


その佇まいは、借り物のオフィスの安っぽい空気さえも一瞬で塗り替えるような重みがあった。

長谷川は、自身の表情筋が強張るのを自覚した。


「柏木と申します。本日は貴重なお時間をいただき、ありがとうございます」


「よろしくお願いします。柏木さんの能力を拝見しました。

……『豆腐の判定』、ですね。 どのような能力か、ご説明をいただけますか?」


「ええ。わかりました」


柏木は鞄をごそごそと探り、未開封の充填豆腐を堂々とデスクに置いた。


「こちらを見ていてください」


柏木は真剣な目付きで豆腐を見つめ、静かに、しかし確信を持って告げた。


「……これは、豆腐です」


沈黙が流れた。

長谷川は、デスクに置かれたどこにでもある豆腐と、柏木の顔を交互に見やった。


プロフェッショナルとしての全知全能を振り絞り、彼はようやく、それに応えた。


「……私も、豆腐だと思います」


気まずい。

これほどまでに「虚無」に近い時間が、かつての面談にあっただろうか。


「……それで、以上ですか?」


「はい。強いて言えば、豆乳が固まって豆腐に変わる瞬間など、厳密な境界線を判定できます」


(それだけでは豆腐職人が数年で辿り着く領域だ)


長谷川はこの能力の真価を見出そうと、瞳の奥を凍り付かせた。

必死に「使い道」を探った。


「普段はどのように、その能力を使っていますか?」


「常時です。街を歩けば、アスファルト、看板、すれ違う人々……全ての判定結果が頭に流れ込みます。

豆腐ではない、豆腐ではない、豆腐ではない、と」


「……それは、……大変ですね」


長谷川は理解した。

開業以来、初となる「完全に使い道のない能力」との出会いだった。


(……豆腐を『偽装』したらどうなる? 豆腐だが豆腐ではない物、……そんなものは存在しない。

……ん? では豆腐ハンバーグは豆腐なのか?)


「柏木さん、念のための確認です。例えば……『豆腐ハンバーグ』はどう見えますか?」


「豆腐です」


柏木はキッパリと答えた。


「……挽肉が混ざっていても?」


「ええ。挽肉が混ざろうが、それは『豆腐』です」


(主観に依存するタイプだ)


「では、ハンバーグの中の豆腐をどんどん減らします。そして、例えば、豆腐が最後の一欠片になったら?」


「豆腐ではない。……ただの挽肉です」


再度キッパリと答える。


「……なぜだ? どこで変わった?」


長谷川の問いに、柏木は答えず静かに顎を引いた。

射抜くような眼光が、長谷川という男の内面を暴き立てるように真っ向から見据えた。


異なる領域のプロとして、その両目は長谷川の甘えを見逃さなかった。


「……なぜか、だと?」


柏木の声は、先ほどよりも一段低く、地を這うような響きに変わった。

静まり返った室内で、その声だけが長谷川の鼓膜を直接締め付ける。


共鳴するかのように、デスクの上の豆腐が微かに震えている気がした。


「君はプロだろう。他人の人生を、その手で査定する立場だろう。

なぜ、本質を自分で見ようとしない? 試そうとしない? 安っぽい口先だけで答えが出せると本気で思っているのか?」


「……『ハンバーグかどうか』だと? 笑わせるな」


百戦錬磨のマネジメント経験が、柏木という男の佇まいに、言葉以上の『凄み』を宿らせている。


「君のその薄っぺらい脳みその方が、よっぽど形を保てぬ『豆腐』ではないか」


長谷川は論理的な豆腐の角で頭を叩きつけられた。


(……確かに、私はこの男の情報から答えを探そうとしていた。下らない能力と切り捨てて、向き合っていなかった)


「……柏木さん。大変、失礼を致しました。仰る通りです。柏木さん、徹底的に検証しましょう」


「当然だ。私も長年に渡って分析してきたが、それでも使い道が分からない。だからこそ、こうしてプロに相談をしに来ている。

さあ、何でも仰って下さい。協力します」


柏木はそう言い放つと、逃げ場を塞ぐような重圧感を纏わせた豆腐を差し出した。

二人のプロの視線が、パック豆腐の上で交差した。


長谷川は少し考えてから、デスクの上に豆腐をひっくり返し、パックの底を見せた。


「これは?」


「豆腐です」


(視界は関係ない)


「柏木さん。目を瞑ってください」


長谷川は豆腐をデスクの引き出しに隠した。


「デスクの中身は?」


「豆腐です」


(透視か……? いや……)


長谷川は、豆腐を引き出しから抜き取り、自分の背後に隠した。


「では、豆腐はどこにありますか?」


「……それは、わかりません」


「私が右手に持っている物は?」


「……! 豆腐、です」


柏木は真剣な表情をしながら、目を開いた。


「私は何を鑑定していることになる?」


「これは『概念』の鑑定ですよ、柏木さん。それも、観測の有無に関わらず事実を確定させている」


「なるほど、私も同じ所感だ。……では、ここからは君の仕事だ」


柏木が長谷川をしっかりと見据える。


「先端技術研究所。……ここしかありません」


「……研究所?」


予想外の回答に柏木が目を見開く。


「観測せずに特定の物質が存在するかを確定できる。

豆腐の凝固反応と素粒子の振る舞いに『貴方だけの共通点』がある。

……でもこれは今ここで観測した事実です、これは量子力学の常識を破壊する能力ですよ」


長谷川は履歴書の「能力欄」を定規を当てながらペンで規則正しく激しく塗り潰した。


「柏木さん、貴方の能力を再定義します。……こうです」


柏木の量子力学が、端正な手書きで上書きされた。


【能力:特定物質相のバイナリ確定観測能力トウフ・シンギュラリティ

【備考:3個パック98円のやつで十分】


「柏木さん、貴方は箱の中、あるいは壁越しに豆腐か否かを判定する。

場合によってベルトコンベアのように、流れる箱を判定する、そういった大きな仕事がある」


柏木は、困惑しながらも、能力の真価を見抜いた長谷川に敬意を表していた。


「豆腐の檻です。貴方は一生、例えば部品のように組み込まれ、判定する。そういう仕事です。いかがしますか?」


「……ずっと探していました。私の能力が、これほどまでに重宝される場所を。そのために、悩み抜いて相談しに来ましたから」


(……もはや能力の人体実験なのだが、この男が求めるのは、そういう場所だ)


長谷川は慣れた手つきで紹介状を打ち込む。

この男のような異常な能力が唯一輝く場所。


柏木は誇らしげに紹介状を抱えて部屋を去った。

扉が閉まる音を合図にするように、長谷川は椅子に崩れ落ちた。


脂汗が額に滲み、結び目の曲がったネクタイが彼の疲弊を象徴していた。


(……豆腐。私は豆腐を、国家安全保障や量子演算の基幹にしてしまった。

私は狂っている。豆腐の角で頭を叩かれた結果だ)




異世界。


長谷川は半年ぶりに、物語の世界――その「果て」に足を踏み入れた。


静止した世界。

そこは物語が終焉を迎えた先に広がる、未定義領域デッドエンド

薄っぺらな英雄譚が産声を上げると同時に、ゴミ箱へと棄てられた虚無の空間だ。


「相変わらずだな、ここは。ただの紙芝居だ」


長谷川は、色を失った世界を見渡す。

勝利の雄叫びを上げる「英雄」と呼ばれた男は、髪と剣の輪郭しかない。


その傍らに佇む女は、唇と髪、そして服の色彩だけ。

二人を囲う兵士たちに至っては、書き割りのように概念だけが置かれた、杜撰ずさんな虚構に過ぎない。


「……マリア、最初から再生してくれ。何度でもだ」


「ねぇ。本気? ……まあ、あなたがそう言うなら」


マリアが観念したように指を鳴らした。


眼前に展開される、お粗末な劇。

英雄が現れ、恋が始まり、やがて世界を救い――終わると同時に、泥のように登場人物の形が崩れ、また劇が始まる。


「……まだだ、初めからだ」


――23回目。

ついに、長谷川は結論を得た。

ここでは、あの既視感は微塵も起きない。


「ねぇ、お願い。……どうしたの? そんな顔、心配になるわよ」


「すまない。だが収穫はあった。

既視感の発生には、特定の条件が存在する。

執務中か、あるいは思考中か? ……いずれにせよ、ここでは一度も発生しなかった」


心配そうに顔を覗き込むマリアを手短に宥めると、二人は元の世界へと帰還した。



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