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嘘をつきたくさせる男

執務室。


長谷川は最近、ファイルを開いては思案に耽っている。

重圧そのものを綴じ合わせたかのような、漆黒のファイル。

マリアが、かつての『徴収官』であった頃の長谷川の帳簿を模して生成した「器」だ。


それはこの世界の不条理をすべて収監するために作られた。

したがって、綴じられた空白の24ページには、決定的な意味がある。

間違いなく、世界の『本質』に基づいた絶対数であるはずだった。


だが、なぜかマリアが計測したページ数よりも、「1ページ」だけ多い。

マリアですら観測不能な未知。

それが、深淵のような沈黙を守ったまま、そこにある。




業務開始。


手元の分厚いファイルを捲った。


【氏名:野原 瑞樹】

【能力:嘘をつきたくなる】


(……嘘を、つきたくなる? 強制や支配ではなく……衝動?)


窓の外から誠実さを訴える選挙カーのスピーカー音が部屋に侵入してくる。

(嘘のノイズはどこにでも蔓延っているがな)


「……次の方、どうぞ」


ドアが開き、どこか落ち着かない様子の青年が入室してきた。

野原瑞樹。

伏し目がちで、自分の存在を消そうとするような、ひどく内向的な雰囲気を纏っている。


「野原瑞樹さんですね。……座ってください」


「はい。失礼します」


「まずは、あなたの能力について詳しく教えていただけますか」


「はい、僕が能力を使うと、その人は嘘をつきたくなります、……5分間ほど」


「人によって、嘘の内容はバラバラです。

日頃どれほど嘘をついているかによりますし、嘘に耐えて真実を語る人もいますが……。

でも僕自身は嘘が嫌いだから、能力の使い方に困ってしまって……、だから相談に来ました」


5分間という時間制限、および個人の深層心理に依存する虚偽の衝動。

これは情報の伝達そのものに干渉する、認識のウイルスだ。


「では確認してもいいですか? 私に対して、その力を試してください。

私は今から、自分に関する極めて単純な事実を述べます。あなたは全力で、私に『嘘をつかせたい』と願ってください」


「……分かりました。……行きます」


野原が顔を上げ、長谷川をじっと見つめた。

その瞬間、長谷川の脳内で、精緻に組み上げられた論理回路が火花を散らした。


「……私の……名前は……」


(「長谷川浩一」、偽名だ)


そう言おうとした瞬間。

脳の裏側から、甘く、暴力的なまでの誘惑がせり上がってきた。


(吾輩はペンギンである。名はまだ無い! どこで生まれたか見当がつかぬが、とりあえず氷が大好きなのである!)


「……ぐ?! な、名前は、分からない、私は真名を……知らない……」


長谷川は絶句した。

「長谷川浩一」というたった五文字の偽名が、能力による「嘘の衝動」で剥がされ、その下にある「本名を知らない」という真実が剥き出しになったのだ。


代わりに、自分でも思いもよらないような、滑稽で、無意味で、誇らしげなペンギンの物語が、今すぐ口から飛び出したがっている。


(……職業は……)


(吾輩は『流氷のタクシー運転手』として、アザラシを運んでおる!

今はオフシーズンだから、こうして陸地に上がってバイト中である!)


「……相……談員……だ」


今にも机を叩き割りそうなほど拳を震わせる長谷川。

その異様な形相に、野原は申し訳なさと驚きが混ざった表情で硬直している。


(……年齢は……)


(ちょうど『腹の肉が流氷に引っかかり始める8歳』なのだ! 一番脂が乗ってて、シャチに狙われやすい働き盛りである!)


「……二十五歳……だ」


絞り出すように真実を語った瞬間、凄まじい反動が長谷川を襲った。

視界が激しく明滅し、脳漿が焦げ付くような目眩が襲う。

デスクの角を掴む指が、ミシミシと悲鳴を上げた。


「す、すごい……」


野原が、信じられないものを見るような目で長谷川を凝視していた。


「初めて見ました。僕の能力を受けて、ここまで嘘をつかずに本当のことを言える人……」


野原は感銘を受けたように声を弾ませたが、すぐに青ざめた顔で身を乗り出した。


「で、でも無理しないでください! すごく、その、辛そうですよ……。顔色が真っ白です」


「……っ、……大、丈夫……です……」


「あ、あと……まだ、2分あります……」


野原が申し訳なさそうに、机の上の時計を指差した。


(……な、2分……だと?)


絶望的な宣告だった。

長谷川の脳の裏側では、早くも次の「嘘」が、色鮮やかな流氷の景色を伴って産声を上げようとしていた。


(クリルを食べすぎて、最近心なしか羽毛がピンク色になってきたのである。ほら、ここらへん、ちょっと桃色であるな?)


長谷川は椅子から転げ落ちそうになるのを必死に堪え、ネクタイを千切れんばかりに引き絞った。

脂汗が目に入り、視界が滲む。


精神を内側から削り取っていく。

ペンギンとして、流氷の上で腹を擦り、桃色の羽毛を自慢したいという欲望。

それが、長谷川という人間の輪郭をドロドロに溶かそうとしていた。


……1分。……30秒。……5、4、3、2、1。


「……はぁ……、はぁ……、……っ」


後に残ったのは、精神を極限まで引き絞られた後の、泥のような疲労感。

長谷川は崩れるように机に突っ伏し、激しく喘いだ。


「……なるほど。これは、恐ろしい。……単なる嘘ではない。

これは、『誠実さ』という名の魂の筋肉を、直接破壊する攻撃だ」


長谷川は乱れた呼吸を整えながら、野原を直視しないように手元の書類を睨みつけた。

(……なぜだ。偽名すら、言えなかった)


「親切ですね。長谷川さんは一度しか嘘をつかなかった」


「……いいや、嘘はついていない。私は自分の本名を知らない。この『長谷川浩一』は、自称している仮の名だ……」


「……? そう、ですか」


野原が不思議そうな顔をした。


「経緯はどうでもいい。私は偽名を言おうとした。つまり『嘘』をつこうとした。

だが結果として『真実』を言ってしまった。……なぜですか?」


「長谷川さんが、僕の『嘘』に、自分の『嘘』で対抗しようとしたから……。

嘘と嘘がぶつかり合って、結果として『真実』だけが剥き出しになりました」


(……なるほど、二重否定は肯定。嘘への嘘は真実、か)


「あとは、心が綺麗な人の嘘は綺麗です。誰も傷つけることのない、他愛もない嘘。でも……」


野原が、射抜くような視線を突き付ける。


「日頃から自分を偽っている人は、汚い嘘か、あるいは汚い真実か、そのどちらかを吐き出すことになる」


「では、能力の発動条件は?」


「ないです。嘘をつきそうだ、嫌だと思うほど、どこまでも届く気がします。それこそ、リアルタイムでテレビ越しにでも」


野原は「やりましょうか?」とでも言いたそうな態度で、室内のテレビに視線を向ける。


長谷川は無言でテレビをつけ、ザッピングした。

手頃な報道番組。政治家が生出演している。


「壊れた世界だ、構わない。……どうぞ、野原さん」


「……はい」


野原が吐き捨てるように呟いた瞬間、画面の中の政治家が豹変した。


画面の中の政治家が口を開く。

『裏金など、あるはずがありません。私はこの国を愛して……っ』


(……フン、発動したか。さて、あの男は耐えられるか?)


『……愛してるだと? 舐めるなよ。金が欲しかったんじゃない!

誰も私を見ようとしないから、札束を積み上げて、その上に立って、ようやく目を合わせたじゃないか!

私を一人にするな!!』


絶句するスタジオ。


『……お前ら如きに、なぜ私が真実を語る必要がある? 潔白?!

ああ、私のポケットの中身は、お前たちの血税で真っクリーンに洗浄済みだよ!! わはは! はははは!!』


絶叫と共に番組は中断され、お詫びの静止画に切り替わった。


「こんなのばかりですよ」


野原は、自分の手を見つめた。

人を壊し、真実を暴き立てる、忌まわしい自分の手を。


(……だろうな。だが済まない。この『人間の汚い嘘』を浴び続ける環境こそ、君が最も輝く場所だ)


長谷川は冷徹な声を絞り出した。


「野原さん。嘘が嫌いでしょう? ならば、その嫌悪を『職能』として昇華させなさい。

この世の汚い嘘をすべて暴き、偽善者たちを、自らが作り上げた虚飾の地獄へ叩き落としてやるのです」


「そんな?! 僕は嘘が嫌いだと言って――」


「だからこそ、適任なのです。野原さんが暴かなければ、奴らは死ぬまで『誠実な顔』をして他人の人生を啜り続ける。

……私だってそうだ、汚い嘘は反吐が出るほど嫌いです。だからこそ、一人の『誠実な人間』として、あなたを是非、お勧めしたいのです」


「……本当ですか?」


「ああ、本気だ……ぐ、お……っ!?」


野原の疑念が能力を発動させた。

長谷川の脳内で、再びペンギンの王が威厳たっぷりに翼を広げた。


(実は嘘である! 本当はね? 野原くん、クリルをおくれ! お腹が空いたのである!)


「私は……嘘が……嫌いだ……。本気で、あなたに……薦めたい、んだ……っ。……私を、試すような……真似はやめろ……!!」


(そろそろ休憩時間が終わるな! この力強い翼で大空へと舞い上がり、北極に帰るのである!)


長谷川は、北極の王としてのプライドを全力で否定しながら、震える手で徴収室への紹介状をデスクに叩きつけた。


「す、すいません、疑ってしまって……。でも、それほど本気で、苦しそうにしながらも僕に伝えて下さるんですね。

わかりました、やってみたいと思います!」


(よい返事である! 君は有望であるな! 帰りは吾輩の背中に乗るかい?)


「よかった、です。……ですが、もう私の限界だ。……耐えられ、ない……。今すぐ、ご退室、頂けますか……!」


野原は申し訳なさそうに立ち上がり、一礼すると急いで退室した。

バタン、とドアが閉まる。


静寂が戻る。……だが、戦いは終わっていない。


(……あと何分だ? 黙れ、誇り高き嘘つきペンギン……!!)




業務終了後。


面談結果を綴じ込もうと、ファイルを開く。

その瞬間、強烈な既視感が長谷川を襲った。


(……いや、この能力者を綴じ込むのは、これが初めてではない気がする)


長谷川が何より忌み嫌う「直感」という名の非論理的な主張が、警鐘のように全身を駆け巡る。


隣で予定を確認していたマリアが、緊張感のない声を上げた。


「いやー、今日はお局系の案件が三連続でさー。もう、やってられないわ――」


「『お局保護区』か?」


「む! 私が先に言おうとしたんですけどー?」


いつもの軽口。しかし、長谷川の表情は晴れない。


「マリア、真面目な話がある。私を診断してほしい」


「……診断?」


「私はこの人物に、以前どこかで会った記録はあるか? 記憶ではなく、君の『記録』を頼りたい」


マリアの空気が一変した。

ついさっきまでおどけていた彼女の瞳から体温が消え、自分の所有物に執着する、冷酷な獣のそれに変わる。


「……何かされたの? すぐ調べるわ」




【改竄:『私の所有物』への干渉を全検索】


――該当なし。




【改竄:『世界の構成』への攻撃を全検索】


――該当なし。




【改竄:『かつての作者』による残滓を全検索】


――該当なし。




「何もないよ? どうしたの、急に」


「……世界がループしている可能性を調べてくれ。その実行回数だ」


「ループ? ……いいわ、やるわね」


指先一つ動かさず、マリアは概念の層をさらに深く掘り下げる。

「存在しないはずの歴史」の積み重ねを、無理やり可視化させる。




【改竄:世界がループされた回数の可視化】


――結果、0回。




「うーん。世界が繰り返された形跡は、ゼロ。……当然の結果だけど」


マリアの答えは、絶対だ。

管理者権限を持つ彼女の観測が「ゼロ」と言い、彼女自身にも異常はない。

(……だが、ならばこの既視感の正体は何だ?)


今日の業務は、予定通り遂行する。

しかし長谷川は、心配そうに顔を覗き込んでくるマリアを努めて冷静に宥めながら、冷え切った思考の隅で確信していた。


この世界には、マリアの「改竄」すら届かない、もっと底の知れない『嘘』が混じっている。



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