異世界転生できない社会人
昼休み。
「……カンパーニュサンド、食べたいな」
本来なら、長谷川の手料理に舌鼓を打っているはずの時間だ。
野菜の水気を完璧に切り、具材を惜しみなく挟んだサンドは、彼の自信作だった。
だが、現実はカップ麺。
片手しか使えない長谷川は、無言で湯を注ぐ。
マリアはといえば、一切の家事ができない。執務室のソファの上で、文字通り堕落していた。
『――空軍機が緊急発進! レーダーを攪乱する「謎の高速移動物体」。
その正体は、時速200キロで逆走する邦人カメラマンと判明しました。
これには大統領も会見中に思わず失笑……。以上、ニュースをお伝えしました』
「……ふふっ。これ、陣内さんだよね? ちゃんと仕事してるじゃない」
「だろうな。……カメラマンの仕事かどうかは別として」
三分きっかりに、長谷川はカップ麺の蓋を開けた。
瞬間、蓋を開ける奇妙な既視感が彼を襲った。
(……? カップ麺の食べ過ぎか?)
業務再開。
手元のファイルを捲った。
【氏名:生天目 優也】
【能力:異世界転生(問題児)】
(……ほう。何か、あるんだな)
備考欄に目を移した瞬間、長谷川の右目がピクリと跳ねた。
【備考:直近三ヶ月の平均サービス残業時間 320時間】
(能力より残業時間のほうが、厄介だな……)
その労働時間は「過労死ライン」の四倍を優に超えていた。
(逆算すると、無休で毎日16時間働いていることになる。生活が逆転している。
……毎月、三途の川の向こう岸にタッチしては、クイックターンでこちら側に戻り、そしてまたクイックターン……を繰り返している訳か)
「……次の方、どうぞ」
重い扉が開き、一人の男が入室してきた。
20代後半。一見すればどこにでもいる青年だ。
残業時間からは信じられないほどに普通だった。
「生天目優也です。本日はよろしくお願いします」
青年は椅子に座り、深々と頭を下げた。
「生天目さん。……まずは率直に伺います。あなたの能力『異世界転生』について、詳細を教えていただけますか」
生天目は顔を上げ、困ったような、あるいは気恥ずかしそうな表情をした。
「はい。あの、文字通りなんです。私、命を落とすと、別の世界に生まれ変わるみたいで」
「……これまでに、何度ほど転生を?」
「一度も」
生天目は即答した。
「発動条件が『死ぬこと』なので、怖くて使えません。
……2年前、交通事故に遭いかけた時は、走馬灯のように異世界を……見たこともない幻想的な草原を走り回りました。
吹き抜ける風が心地よかった。でも、それだけなんです。あんな花畑に逃げるより、働いてるほうがずっと『生きてる』って感じがするんです」
長谷川のペンが、ピタリと止まった。
異世界転生とは何回も転生する能力である、という前提が崩れた。
「生天目さん。失礼ですが、あなたは現在、紛れもない『現世の人間』なのですね? では『前世』は?」
「わからないです。でも、なんとなくの勘ですが、一回だけ転生できる気がします。うまく説明できませんが、一回です」
(……怖くて発動できない。これが問題児ということか)
「行き先は選べるのですか?」
「わからないです。……試したことが無いので」
(行先不明の片道切符か。……死人に口なしが文字通り通用しない情報運搬? いや、次はこの男の異常性だ)
「生天目さん。現職の労働環境について伺いたい。……この数字、間違いではありませんね?」
「はい。まあまあブラックな職場です。会議室とトイレは、個室で泣きたい社員たちの行列でいつも埋まっています。
新人が順番を無視して個室に駆け込むのを、私はよく譲ってあげるんです」
生天目を一瞥すると、その指先は鏡のような光沢を放ち、指紋が一切消失していた。
キーボードとの摩擦で摩耗し尽くしたのだろうか。
「社長の趣味は、預かった辞表で鶴を折ることです。『千羽鶴』がフロアの真ん中にいくつも吊るされていますよ」
生天目は、昨日の夕飯の献立を話すような口調で続けた。
「仕事納めには、社員全員で有給休暇を『供養』します。
一年分の申請書を手書きして、一枚ずつシュレッダーにかける。
細断される音が響くと、ああ、今年も一年、終わるんだなって、年の瀬を感じるといいますか……」
長谷川は手元の紙に何度も『法令順守』の四文字をなぞった。
「なぜ、あなたは壊れない? ……そんな環境で、なぜ正気を保っていられるのですか?」
生天目は、不思議そうに瞬きをした。
「ええ、まあ。私は……『あと一回、残機』がありますから。なんなら足らないくらいです」
「生天目さん? ……あなた、先ほど『死ぬのが怖いから能力が使えない』と仰いましたね。
ですが、その働き方は、過労死しますよ」
一瞬の沈黙。
生天目の口角が、不快な音を立てて、ゆっくり吊り上がった。
「ええ、怖いですよ。死ぬのは、たまらなく怖い」
生天目は自分の腕を抱きしめるように強く掴んだ。
指先が食い込み、小刻みに震えている。
だが、その瞳には呼吸すら忘れたような悦楽が濁っている。
「だから、その縁まで行かないと、『まだ生きてる』って確信が持てないんです。
心臓が悲鳴を上げて、視界がチカチカして、脳が焼き切れる寸前の……あの、真っ白な感覚。
320時間じゃあもう足りない、……『生』が遠くなっちゃった、……足りなくなっちゃった」
生天目が身を乗り出す。
歪んだ笑顔の隙間から、乾いた吐息が漏れた。
「だから相談しに来たんです……。もっと生きる実感が持てるところ、教えてください。
でも長谷川さん、……ズルいなあ。……片手で仕事してるの。それ、本当に折れてるんですか?」
眼を見開いた狂人が長谷川の瞳を覗き込む。
(……コイツ、たった数分で気配が青年から狂人に変わった。
能力の負荷で壊れたのか……あるいは、これがこの男の本質か?)
手元の端末を無機質に操作しながら、感情を削ぎ落した声で告げた。
「生天目さん。私はプロですから、望むのであれば非情になる。
……精神の崩壊点が異常に高いという事実だけを認めます、破綻した経営のリーディングカンパニーを紹介します」
長谷川は片手だがしっかりと、キーボードでこの男が求める引導を打ち始めた。
生天目の口角が、再び吊り上がった。
歓喜で痙攣する指先を隠しもせず、彼はうっとりと目を細める。
「それは、私という『残機』が尽きるまで……搾り取ってもらえる場所ですか?」
「ええ。あなたの『命』が何百回あろうと足りないほどにな。
世界の理を構築する歯車となり、摩耗し、火花を散らして消える。……そういう場所だ」
「最高です。……そこを、ください。今すぐに」
プリンターが吐き出すその紙は、実在する会社の中で従業員幸福度が最下位――
「労働基準法」という言葉すら届かない、業界1位の暗黒企業。
「……行ってらっしゃい、生天目さん。二度と、ここへ戻ってくる必要はありません」
長谷川は、まるで呪いの札を押しつけるような重圧と共に、その紙を差し出した。
それは、相談員が相談者に送る言葉ではない。
「廃棄物」を「焼却炉」へ放り込む際の、冷ややかな最終通告だった。
生天目は、震える手でその紙を奪い取るように、受け取った。
「ありがとうございます。今すぐ自社に戻って退職手続きをしてきます。引継ぎしません。
この足で入社手続きをしてきます。……うわぁ、凄いなあ、この会社。
入社日が『3年前付け』で、初日から無断欠勤3年になってる、……あはは! こういうのが欲しかったんだ」
生天目は口を緩ませながら一礼すると、振り返ることなく、まるで光り輝く未来へ駆け出す子供のような足取りで退室した。
執務室には、彼が残した異常な熱気と、それを急速に冷ますような重苦しい沈黙だけが取り残される。
「……心情を排除し、論理的最適解で対応した。……だが、反吐が出る」
本来なら忌むべき地獄。
だが、あの男にとっては、そこだけが自分の生存を証明できる「聖域」として輝いてしまったのだ。
深淵でこそ光を放つ、あまりに歪な個性。
終業時刻。
長谷川は帰宅の準備を始める。
目的がない残業は、一切しない主義だ。
デスクの掃除を終え、その日に出たゴミを収集所へ持っていく。
だが、半透明のビニール越しに、昼食のカップが目に留まった瞬間――またしても、あの奇妙な既視感が彼を襲った。
(奇妙だな。全く同じ光景を見た気がする。……ポリ袋の重さ、擦れる音、カップの傾きまで、寸分違わず)
論理では説明のつかない「既視感」という名の不条理。
長谷川は、それを自らの脳が引き起こした一過性の疲労によるものと断じ、思考を切り捨てて帰宅した。




