表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

4/15

異世界転生できない社会人

昼休み。


「……カンパーニュサンド、食べたいな」


本来なら、長谷川の手料理に舌鼓を打っているはずの時間だ。

野菜の水気を完璧に切り、具材を惜しみなく挟んだサンドは、彼の自信作だった。


だが、現実はカップ麺。

片手しか使えない長谷川は、無言で湯を注ぐ。

マリアはといえば、一切の家事ができない。執務室のソファの上で、文字通り堕落していた。


『――空軍機が緊急発進! レーダーを攪乱する「謎の高速移動物体」。

その正体は、時速200キロで逆走する邦人カメラマンと判明しました。

これには大統領も会見中に思わず失笑……。以上、ニュースをお伝えしました』


「……ふふっ。これ、陣内さんだよね? ちゃんと仕事してるじゃない」


「だろうな。……カメラマンの仕事かどうかは別として」


三分きっかりに、長谷川はカップ麺の蓋を開けた。

瞬間、蓋を開ける奇妙な既視感デジャヴが彼を襲った。


(……? カップ麺の食べ過ぎか?)




業務再開。


手元のファイルを捲った。


【氏名:生天目 優也】

【能力:異世界転生(問題児)】


(……ほう。何か、あるんだな)


備考欄に目を移した瞬間、長谷川の右目がピクリと跳ねた。


【備考:直近三ヶ月の平均サービス残業時間 320時間】


(能力より残業時間のほうが、厄介だな……)


その労働時間は「過労死ライン」の四倍を優に超えていた。


(逆算すると、無休で毎日16時間働いていることになる。生活が逆転している。

……毎月、三途の川の向こう岸にタッチしては、クイックターンでこちら側に戻り、そしてまたクイックターン……を繰り返している訳か)


「……次の方、どうぞ」


重い扉が開き、一人の男が入室してきた。

20代後半。一見すればどこにでもいる青年だ。

残業時間からは信じられないほどに普通だった。


「生天目優也です。本日はよろしくお願いします」


青年は椅子に座り、深々と頭を下げた。


「生天目さん。……まずは率直に伺います。あなたの能力『異世界転生』について、詳細を教えていただけますか」


生天目は顔を上げ、困ったような、あるいは気恥ずかしそうな表情をした。


「はい。あの、文字通りなんです。私、命を落とすと、別の世界に生まれ変わるみたいで」


「……これまでに、何度ほど転生を?」


「一度も」


生天目は即答した。


「発動条件が『死ぬこと』なので、怖くて使えません。

……2年前、交通事故に遭いかけた時は、走馬灯のように異世界を……見たこともない幻想的な草原を走り回りました。

吹き抜ける風が心地よかった。でも、それだけなんです。あんな花畑に逃げるより、働いてるほうがずっと『生きてる』って感じがするんです」


長谷川のペンが、ピタリと止まった。

異世界転生とは何回も転生する能力である、という前提が崩れた。


「生天目さん。失礼ですが、あなたは現在、紛れもない『現世の人間』なのですね? では『前世』は?」


「わからないです。でも、なんとなくの勘ですが、一回だけ転生できる気がします。うまく説明できませんが、一回です」


(……怖くて発動できない。これが問題児ということか)


「行き先は選べるのですか?」


「わからないです。……試したことが無いので」


(行先不明の片道切符か。……死人に口なしが文字通り通用しない情報運搬? いや、次はこの男の異常性だ)


「生天目さん。現職の労働環境について伺いたい。……この数字、間違いではありませんね?」


「はい。まあまあブラックな職場です。会議室とトイレは、個室で泣きたい社員たちの行列でいつも埋まっています。

新人が順番を無視して個室に駆け込むのを、私はよく譲ってあげるんです」


生天目を一瞥すると、その指先は鏡のような光沢を放ち、指紋が一切消失していた。

キーボードとの摩擦で摩耗し尽くしたのだろうか。


「社長の趣味は、預かった辞表で鶴を折ることです。『千羽鶴』がフロアの真ん中にいくつも吊るされていますよ」


生天目は、昨日の夕飯の献立を話すような口調で続けた。


「仕事納めには、社員全員で有給休暇を『供養』します。

一年分の申請書を手書きして、一枚ずつシュレッダーにかける。

細断される音が響くと、ああ、今年も一年、終わるんだなって、年の瀬を感じるといいますか……」


長谷川は手元の紙に何度も『法令順守』の四文字をなぞった。


「なぜ、あなたは壊れない? ……そんな環境で、なぜ正気を保っていられるのですか?」


生天目は、不思議そうに瞬きをした。


「ええ、まあ。私は……『あと一回、残機』がありますから。なんなら足らないくらいです」


「生天目さん? ……あなた、先ほど『死ぬのが怖いから能力が使えない』と仰いましたね。

ですが、その働き方は、過労死しますよ」


一瞬の沈黙。

生天目の口角が、不快な音を立てて、ゆっくり吊り上がった。


「ええ、怖いですよ。死ぬのは、たまらなく怖い」


生天目は自分の腕を抱きしめるように強く掴んだ。

指先が食い込み、小刻みに震えている。

だが、その瞳には呼吸すら忘れたような悦楽が濁っている。


「だから、そのふちまで行かないと、『まだ生きてる』って確信が持てないんです。

心臓が悲鳴を上げて、視界がチカチカして、脳が焼き切れる寸前の……あの、真っ白な感覚。

320時間じゃあもう足りない、……『生』が遠くなっちゃった、……足りなくなっちゃった」


生天目が身を乗り出す。

歪んだ笑顔の隙間から、乾いた吐息が漏れた。


「だから相談しに来たんです……。もっと生きる実感が持てるところ、教えてください。

でも長谷川さん、……ズルいなあ。……片手で仕事してるの。それ、本当に折れてるんですか?」


眼を見開いた狂人が長谷川の瞳を覗き込む。


(……コイツ、たった数分で気配が青年から狂人に変わった。

能力の負荷で壊れたのか……あるいは、これがこの男の本質か?)


手元の端末を無機質に操作しながら、感情を削ぎ落した声で告げた。


「生天目さん。私はプロですから、望むのであれば非情になる。

……精神の崩壊点が異常に高いという事実だけを認めます、破綻した経営のリーディングカンパニーを紹介します」


長谷川は片手だがしっかりと、キーボードでこの男が求める引導を打ち始めた。

生天目の口角が、再び吊り上がった。

歓喜で痙攣する指先を隠しもせず、彼はうっとりと目を細める。


「それは、私という『残機』が尽きるまで……搾り取ってもらえる場所ですか?」


「ええ。あなたの『命』が何百回あろうと足りないほどにな。

世界の理を構築する歯車となり、摩耗し、火花を散らして消える。……そういう場所だ」


「最高です。……そこを、ください。今すぐに」


プリンターが吐き出すその紙は、実在する会社の中で従業員幸福度が最下位――

「労働基準法」という言葉すら届かない、業界1位の暗黒企業。


「……行ってらっしゃい、生天目さん。二度と、ここへ戻ってくる必要はありません」


長谷川は、まるで呪いの札を押しつけるような重圧と共に、その紙を差し出した。

それは、相談員が相談者に送る言葉ではない。

「廃棄物」を「焼却炉」へ放り込む際の、冷ややかな最終通告だった。


生天目は、震える手でその紙を奪い取るように、受け取った。


「ありがとうございます。今すぐ自社に戻って退職手続きをしてきます。引継ぎしません。

この足で入社手続きをしてきます。……うわぁ、凄いなあ、この会社。

入社日が『3年前付け』で、初日から無断欠勤3年になってる、……あはは! こういうのが欲しかったんだ」


生天目は口を緩ませながら一礼すると、振り返ることなく、まるで光り輝く未来へ駆け出す子供のような足取りで退室した。


執務室には、彼が残した異常な熱気と、それを急速に冷ますような重苦しい沈黙だけが取り残される。


「……心情を排除し、論理的最適解で対応した。……だが、反吐が出る」


本来なら忌むべき地獄。

だが、あの男にとっては、そこだけが自分の生存を証明できる「聖域」として輝いてしまったのだ。

深淵でこそ光を放つ、あまりに歪な個性。




終業時刻。


長谷川は帰宅の準備を始める。

目的がない残業は、一切しない主義だ。


デスクの掃除を終え、その日に出たゴミを収集所へ持っていく。

だが、半透明のビニール越しに、昼食のカップが目に留まった瞬間――またしても、あの奇妙な既視感デジャヴが彼を襲った。


(奇妙だな。全く同じ光景を見た気がする。……ポリ袋の重さ、擦れる音、カップの傾きまで、寸分違わず)


論理では説明のつかない「既視感」という名の不条理。

長谷川は、それを自らの脳が引き起こした一過性の疲労によるものと断じ、思考を切り捨てて帰宅した。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ