叱られると大きくなる新人
昼休み。
空間を引き裂き、先月の家計簿を改竄した愚か者――マリアが帰還した。
食費を水増し計上した姑息な罪人は、私の視線を逃れるように無言で苦手な掃除(罰)を始めた。
長谷川は珈琲を啜りながら、この一ヶ月を振り返った。
開始直後は、まさに地獄だった。
役所への開業登録から紹介先企業とのコネクション構築まで、マリアは何の役にも立たなかった。
それどころか、彼女は面倒を嫌って「事務手続きという概念そのもの」を改竄しようとさえした。
(だが、やはり彼女と一緒でなければ、世界の修復は叶わないだろう。
かつての作者から彼女が強奪した世界を掌握する『権限』。そして私の能力……)
ふいに愚か者がバケツを倒し、無慈悲にぶちまけられた水が長谷川の思考を止めた。
業務再開。
手元の分厚いファイルを捲った。
【氏名:井上 陽向】
【能力:叱られると大きくなる】
(ふふ、字面がいい。そうだ、人は叱られて、大きくなる。成長するのだ。……物理的に大きくなってどうする!)
叱られる状況。社会的には「縮小」を強いられる場面。
そこにおいて、あえて逆に「拡大」する。
生存戦略として致命的なまでに噛み合っていない。
「……次の方、どうぞ」
ドアを潜るようにして入ってきたのは、元々の体格がかなり良く、肩幅も広い男、井上だ。
だが、その体格とは裏腹に、彼はひどく緊張している。
「……井上陽向と、も、申します。 き、貴社で……、あっ、御社?! ち、ちが、すいません、弊社では……」
井上が不規則に大きくなる。
身長が2メートルは超えている。
長谷川はまだ一言も発していなかった。
「す、すみません!私の長所は大きくなる、ことです。
ただ、短所は自分に自信がないことで……。以前、建築現場で『動きが遅い!』と怒鳴られた際、巨大化してしまい、足場を内側から破壊してしまいました」
「必死に頭を下げても、デカすぎて『なんだその態度は!見下してるのか!』とさらに怒られ、もっと大きくなってしまったんです」
(なるほど、危険だ。暴走するタイプだ、まずは緊張を解かせるか)
「井上さん、ここは採用面接ではありませんよ。もう天井に頭が届いてしまいます、落ち着きましょう」
「すいません……。いつも、こうなると止まれなくて……!」
「お飲み物はどうしましょう? 温かい珈琲にしますか? 紅茶にしますか?」
「……え? あ、紅茶がいいです」
長谷川はあえて席を立ち、ゆっくりと安物のティーバッグに給湯器のお湯を注ぐ。
落ち着きを取り戻した井上が、徐々に元の身長に戻り始めた。
(……落ち着くと元に戻るのか)
長谷川が、熱さに注意をしつつ、紙コップの紅茶を差し出す。
井上は、ありがたく紙コップを両手に収めた。
「それで、どこまで大きくなれるのですか?」
「4メートルくらいは、なったことがあります」
「なったことがある? 最大ではどれくらいですか?」
「すいません、わかりません」
(上限は不明か。この男、室内に居ること自体が危険だな。念のため周囲に被害も出さない場所、屋上に移動するか)
「では、こういうのはいかがでしょう? 私が叱ります。少しずつ言葉を強くします。
そして能力を見せていただくことは可能ですか? ここは手狭ですから、屋上となりますが」
「は、はい、大丈夫です」
二人は、ビルの屋上へ向かった。
エレベーターの中の井上は、強張った表情だ。
(小心者がなぜ、巨人化? いや、そういう裏返しなのだろう、能力とは不思議だ)
屋上。
この外気温では誰も寄り付かない場所。
「では、早速始めますよ?」
「……は、はい。お願いします」
井上がおずおずと頷くのを確認し、長谷川はまずは軽く、声を張り上げた。
「井上さん、もっと背筋を伸ばしてください」
その瞬間、井上が大きくなる。
目測で10センチ程度。
「井上さん、能力を見極める為に厳しい言葉を言いますが、これは私の本意ではありませんからね」
長谷川は一呼吸置いた。
「……大きくなるのが長所? 冗談はやめろ」
――ドクンッ
「言葉で言い返せないと体を大きくする。グズる赤ん坊か?」
――ドクンッ
長谷川は井上の履歴書を冷酷に引き裂いた。
――巨人の急激な膨張が、爆発するようにコンクリートを吹き飛ばした。
足場のコンクリートが砕け散り、振動が長谷川の足裏から脳を揺らした。
「ぐっ……、何だ?!」
長谷川は井上の樹木のような腕に、薙ぎ払われた。
転がる身体を必死に支える、無意識に口元を拭った手には、血がべっとりとついていた。
そして、世界が暗転した。
いや、違う。太陽が隠されたのだ。
長谷川が血を拭いながら顔を上げると、そこには、この雑居ビルの避雷針よりも遥かに高い位置に、井上の顔があった。
彼がわずかに足を踏み変えるだけで、屋上のコンクリートが悲鳴を上げ、防水塗装の表面に蜘蛛の巣状の亀裂が走る。
『ウ、ウゥゥ……』
井上の喉から漏れる嗚咽は、もはや人の声ではなかった。
それは、トンネルの中で反響する重低音の地鳴りのように、長谷川の腹の底を直接振動させた。
「待て待て! 落ち着いてください、井上さん!! 面談中です。テストしてるだけです!」
長谷川は両手を天に掲げ、敵意がないことを伝える。
『……そ、そうですよね』
長谷川の怒声が止むと、井上の体からはゆっくりと空気が抜けるように、張っていた圧力が霧散し始めた。
(……危険だ。エスカレートする規模が見えない。実地試験はこれにて終了だ)
『す、すいません。少ししたら、戻ります』
鼻をすする井上の声に合わせて、彼の体格はゆっくりと収縮していく。
「……井上さん。あなたのその、元来の恵まれた体格。そして叱責の強度によって巨大化を調整できる。
あなたには、特殊運用を前提とした救助隊員への道を提案しましょう」
『私が、救助隊員、ですか?』
「ええ、そうです。
貴方にしか出来ないこと――災害現場で倒壊した家を持ち上げる、氾濫した河川を身体で受け止める。
活躍の場はいくらでもあります。大きくなることで、人を助けられるのですよ」
無表情の巨人が停止する。
『……ウワアアアア!! 怒られたくないんだアアアアア!! どうしてぼくだけが、いつもオオオ!!』
――ビルをひび割れさせるほどの轟音が鳴り響いた。
(なっ?! しまった、逆なでしてしまったか……)
抑圧していた井上の精神は、ついに臨界点を迎えた。
空気が吹き飛ぶ音がした瞬間、長谷川の視界が、肌色のアスファルトのようなもので覆い尽くされた。
井上の両手だ。
「――ッ?!」
五本の指が、長谷川の胴体を包み込む。
サウナのような巨大な肉の檻に閉じ込められた感覚だった。
丸太のような指が容赦なく締め上げる。
「待て、君にしか……、出来ない、こと……ッ、グアアッ!?」
――グシャリッ
脳天まで突き抜けたのは、音だった。
湿った材木を無理やり引き絞ってへし折るような、取り返しのつかない破壊音。
視界が白く明滅し、遅れて「灼熱」がやってくる。
折れた骨の断面が筋肉を内側から削る感覚。
長谷川は、その激痛をあえて「分析」することで正気を繋ぎ止めた。
『ひ、ひぃ、あ、あ、そんなつもりは……!』
止まらない巨大化。
もはや、ビルの中層に匹敵する巨人が、屋上という狭い枠に無理やり収まっている歪な光景。
(これ以上デカくなるとビルごと落ちる。……クソ、腕より、コイツだ)
「……井上さーん! 聞こえますかー!? 大丈夫ですよー! そして、申し訳ございません。でも本意ではないんですよー! ……少し落ち着きましょうー!」
張り詰めた声の震動が、左腕を駆け抜ける。
天を仰いでいた巨人が、顔を降ろす。
自身の体より大きな顔は、それだけで原始的な恐怖が這い上がってくる。
『で、でも、その腕、その……』
「いえ、大丈夫ですよ。……ですが、これがあなたの本当の力です。
例えば、私がビルの瓦礫に埋もれていたとして、今こうしているように、私を手のひらに乗せて救い出せます」
「大きな井上さんの手の上で、『助かるんだ』って……安心できます」
もはやここは安全なビルの上ではない。不安定な巨神の掌の上だった。
「そして、もう井上さんは怒られません。むしろ、ご家族や仲間から賞賛される英雄になれるんです」
長谷川は血を吐き流しながら、本物の要救助者が救助されたように、安堵した笑顔を見せつけた。
(早く決めろ。内出血で服から腕を引き抜けなくなる……ッ)
『ひっ、ぐ、うぅ……! ぼくが褒められるなら……! 誰かの、役に、立てるなら……! やり、ます……ッ!』
巨大な肺から絞り出されたその咆哮は、音というより物理的な「質量」となって、長谷川の鼓膜を無慈悲に蹂躙した。
「……ッ、ぐ、ぁ……ッ!! では、紹介状は後日、郵送させていただきます。
申し訳ありませんが、次の方の、面談の時刻ですので、……そろそろ、下ろしていただけますか?」
長谷川は一礼すると、扉をくぐれぬ巨大な井上を置いて屋上を去った。
精一杯のハッタリだった、限界は既に超えていた。
(……屋上でよかった。地上あるいは室内であれば、本当に被害が発生しただろう。
この左腕は……、彼に『自分は救う巨人』だと自覚させるための、手数料と考えろ……)
男はフロックコートを脱ごうと、もがいた。
腕を袖から抜くだけでも、無様を晒すほどに表情が歪んでしまう。
ワイシャツは赤黒く滲み、その下の惨状は容易に想像できたが、それ以上の思考を切り捨てる。
男は冷静にエレベーターを待つ。
痛覚。そのノイズを、彼はただ冷静に切断し続ける。
意識のすべては、病院への最短経路と、破棄すべき予定の処理だけに注がれていた。
冷や汗が、止まらない。
帰宅後。
「ねえ、どういうことなの、それは」
ドアを開けた瞬間、玄関には凄まじい殺気を纏ったマリアが立っていた。
不機嫌を隠そうともしない、元極悪令嬢の圧巻の仁王立ち。
長谷川は三角巾で吊られた左腕を見せ、巨人の暴走に巻き込まれた顛末を話した。
彼女にとって長谷川は、自分以外の誰にも指一本触れさせたくない「所有物」なのだ。
「改竄すれば一瞬でしょう? どうして、するなって言うの」
彼女が持つ『改竄』の力。
それは、かつて『作者』に存在を消された長谷川から、マリアへと引き継がれた復讐の能力だ。
骨を繋ぐどころか、負傷した事実そのものを因果ごと消し去る。
「安易な改竄は、私の歩む論理を狂わせる。論理的な死は、二度とごめんだよ」
詰め寄る彼女を言葉で制し、不自由な動作で靴を脱ぎ始めた。
(……片手一つ使えぬだけで、こうも勝手が違うとはな)




